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東京の様々な地名の由来 ~日本橋堀留町(東京都中央区)~【連載:アキラの着目】

久々の「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは、日本橋堀留町だ。

日本橋堀留町は御存知の通り東京都中央区の地名で、戦前の東京市では旧日本橋区に属していた。

日本橋堀留町の地名の由来は、江戸時代にまで遡り、東堀留川が現在の堀留町南端部で止まっていたからだ。

1896~1909 東京市日本橋区日本橋堀留町周辺
1896~1909 東京市日本橋区日本橋堀留町周辺

その当時は、現在の日本橋堀留町1丁目辺りのみを指す地名だったが、旧日本橋小舟町の一部を吸収合併し、現在は日本橋堀留町1丁目・2丁目を合わせたエリアを総称している。

現在の日本橋堀留町周辺
現在の日本橋堀留町周辺

日本橋堀留町では、江戸時代以降、東堀留川、西堀留川等の運河による水運を利用し、大商店や諸国物産を扱う船荷問屋が多く集結し、富くじで知られる椙森神社の門前町として賑わった。

また、日本橋堀留町は戦前頃までは鉄や銅を中心とした金属問屋の集中する街としてもその名を馳せていた。

前述した地名の元となった東堀留川も昭和24年(1949年)に埋め立てられてしまい、堀が止まっている(留まっている)姿を観ることができなくなってしまった。

地名や住居表示の変更に伴い、元の地名の頭に安直な東西南北を付けるのが当たり前になり、新地名や新町名の残念感は不思議でもなんでもなくなったが、地名は残っているのに、その地名の元となった堀がなくなってしまったというパターンの日本橋堀留町もやはり残念感は否めない。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part14~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第14弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。

では順番に正解を発表する。

A1.虎ノ門

虎ノ門(文化庁前)

正解は虎ノ門。

小林清親が描いた明治初年の虎ノ門で、洋風建築物は旧工部大学校の校舎。

今は同じ場所に文化庁東館が建つ。

外堀通りはその名の通り元々は江戸城の外堀だったところで、その外堀を埋めて道とした。

明治初年であれば外堀は”健在”で、水面に逆さの工部大学校校舎が映っているわけだ。

A2.御茶ノ水

御茶ノ水

正解は御茶ノ水。

この明治期における御茶ノ水の写真は有名。

この川は言わずと知れた、江戸城の外堀の役目も持つ神田川。

一見すると、自然な河川だが、この神田川は人力で掘られて造られた「人工物」。

徳川家康江戸入府の頃は、左右の陸地が繋がった駿河台で、2代将軍・徳川秀忠の命を受けた伊達政宗が1620年(元和6年)に仙台堀(神田川)を開削したことにより湯島台(写真左)と駿河台(写真右)とに分離されたのだ。

A3.新宿東南口

新宿東南口

正解は新宿東南口。

古い写真は昭和30年代に撮影されたもののようだ。

平成になったかならないか頃まで、この新宿東南口は変わらず、若い頃の筆者の記憶では、ガラの悪いパッとしない場所だった。

古い写真の180度正反対の側に、ヤクザ映画専門の映画館があったのも、この地のガラの悪さに拍車をかけてた。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

虎ノ門の今昔

虎ノ門の今昔

御茶ノ水の今昔

御茶ノ水の今昔

新宿東南口の今昔

新宿東南口の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part13~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第11弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。では順番に正解を発表する。

A1.芝公園・赤羽橋付近

芝公園・赤羽橋付近
正解は芝公園・赤羽橋付近。

建設中の東京タワーから、東京タワー周辺の場所というのがわかるかと。

さらに道の曲がり具合を知っている人ならば、増上寺裏手の芝公園、それも赤羽橋付近だなと。

昔はこの辺りまでが増上寺の境内だったが、少しずつ減って現在に至っている。

元々、東京タワーのある地は、高低差があって景色が良かったため、戦前は料亭があった。

東京タワーの開業が昭和33年なので、それより以前の写真ということになる。

A2.秋葉原

秋葉原
第2問の正解は秋葉原。

「ラジオセンター」の看板があるので、この写真は簡単だっかたかと。

今でこそサブカルチャーの聖地として世界に名を馳せる秋葉原だが、元々は電気街。

ラジオの真空管やコンデンサ等の細かい部品を扱う店ばかりが立ち並び、「ラジオセンター」もその中の1軒だ。

「牛にひかれて善光寺参り」という諺があるが、昔の写真は「牛に大八車をひかせて秋葉原参り」といったところか。

現在の秋葉原からは想像できぬほど牧歌的雰囲気が漂う1枚だ。

A3.恵比寿

恵比寿
最終問の正解は恵比寿。

今でこそ20代女性に支持され、「住みたい街(駅)ランキング関東版」2位の恵比寿だが、元々は恵比寿麦酒工場のための駅。

この恵比寿駅からビールを鉄道輸送していたのだ。

昔の写真では、蒸気機関車が黒煙を吐きながら疾走している下で子供たちが遊んでいるように見える。

昔の東京では、どこの駅もこのような風景が展開されていたことだろう。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

芝公園・赤羽橋付近の今昔

芝公園・赤羽橋付近

秋葉原の今昔

秋葉原の今昔

恵比寿の今昔

恵比寿の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

ここは一体東京のどこ?~Part12~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第11弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。

では順番に正解を発表する。

A1.丸の内(東京駅西側)

丸の内(東京駅西側)

以前の「ここは一体東京のどこ?」(2018年01月19日)
でも、やや異なる角度から出題したが、同じ三菱ヶ原だ。

現在の東京駅およびその周辺地は、元々戦前の陸軍省が所有する軍事演習の用地だった。

その広大な原っぱを政府は民間に払い下げるということになり、三菱の2代目・岩崎弥之助が当時の金128万円で払い下げを受けた。

それ以降、この原っぱを三菱ヶ原と呼ぶようになり、中央駅としての役割を持つ東京驛も開業し、現在に至っている。

A2.神楽坂

神楽坂

飯田橋駅の牛込見附側から見える上り坂がご存知の通り神楽坂だ。

かつての東京には多くの花街があったが、神楽坂はその筆頭格で、「東京六花街」にも数えられた由緒ある花街だったのだ。

現在でもその頃の料亭が存在し、裏小路を歩くと、花街の名残が感じられる。

また、東京で最もフレンチの店が多い街としても知られており、神楽坂に行きつけの店があると、できるカッコいい大人に見られる。

A3.新宿ゴールデン街裏手の遊歩道(旧・都電専用軌道)

ゴールデン街裏手の遊歩道(旧・都電専用軌道)

新宿に詳しい人ならば簡単だったかと。

「ゴールデン街」の看板をくぐったら、遊歩道がすぐに出てくるが、その遊歩道が元々は都電専用軌道だったのだ。靖国通りから曲がって、この専用軌道になり、東にカーブして明治通りに出るルートだったのだ。
新宿ゴールデン街の看板

筆者が若い頃のゴールデン街はすっかり寂れており、スラムまではいかないが、なんか足を踏み入れるのに躊躇するエリアだった。

しかし、現在はすっかり外国人観光客の人気スポットになり、夜な夜な賑わっている。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

丸の内(東京駅西側)の今昔

丸の内(東京駅西側)の今昔

神楽坂の今昔

神楽坂の今昔

新宿ゴールデン街裏手の遊歩道(旧・都電専用軌道)の今昔

新宿ゴールデン街裏手の遊歩道(旧・都電専用軌道)の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part11~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第11弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。

では順番に正解を発表する。

A1.目黒 行人坂

目黒 行人坂

正解は目黒の行人坂。

出典は、歌川国貞「江戸自慢三十六興」の中の「目黒行人坂富士」だ。

この行人坂は都内でも有数の勾配がある坂として古くから知られている。

老舗芸能プロダクションの事務所が行人坂の途中にあるのもかなり有名で、タレント泣かせの坂とも言われてるとか言われていないとか。

A2.赤坂 紀伊国坂

赤坂 紀伊国坂

正解は赤坂の紀伊国坂。

絵は小林清親の木版画。

紀伊国坂は、小泉八雲の代表作『怪談』所収の「狢(むじな)」で知られた坂。

狢(むじな)とは穴熊のことで、地方によっては狸やハクビシンをいうこともある動物。

話の内容は、この狢(むじな)がのっぺらぼうに変身し、紀伊国坂を通る人たちを怖がらせるというストーリーだ。

紀伊国坂を下ると赤坂、今では赤坂見附交差点で、反対に紀伊国坂を登ると江戸城喰違見附、今では迎賓館方面になる。

小林清親の木版画では、紀伊国坂下に赤坂の町並みと、その向こうに深緑色した溜池が見える。

溜池は埋め立てられ、現在は地名でしか残っていない。

A3.愛宕神社

愛宕神社

正解は愛宕神社。

長い階段から愛宕神社と気づいた人もいたことかと。
愛宕神社

東京23区内で最も高い山として知られる愛宕山(標高25.7m)は、高層建築のなかった時代は江戸を見渡せる景勝地として栄えた。

愛宕神社は、「出世の神社」や、明治政府軍参謀・西郷隆盛と江戸幕府重臣・勝海舟が会談した地としても知られており、近年は人気になっている神社だ。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

目黒 行人坂の今昔

目黒 行人坂の今昔

赤坂 紀伊国坂の今昔

赤坂 紀伊国坂の今昔

愛宕神社の今昔

愛宕神社の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

プリンスホテルはなぜプリンスホテルと命名されたのか?【連載:アキラの着目】

名だたる大物歌手がクリスマス・パーティや「●●周年記念リサイタル」などを開催する場所は大抵有名どころの都心ホテルだ。

特にグランドプリンスホテル高輪(東京都港区高輪)や、かつてバブルの華やかりし頃の赤坂プリンスホテル(通称:赤プリ。2011年3月閉館)などが、そういった会場として頻繁に利用されたものだ。

これらプリンスホテルは、西武グループのホテル・レジャー部門を担う「株式会社プリンスホテル」が事業を展開しているのだが、なぜプリンスホテルというブランド名にしたのだろうか?

これにはちゃんとしたわけがあるのだ。

1953年開業のグランドプリンスホテル高輪が建っている場所は、元々皇族であった竹田宮の邸宅があった所。
グランドプリンスホテル高輪が建っている場所は、元々皇族であった竹田宮の邸宅があった所

第2次世界大戦で日本が無条件降伏し、GHQのメスが皇室にまで及び、幾つかの名門・宮家が廃止されたのだ。

その結果、竹田宮家は皇室離脱を余儀なくされ、いわゆる平民扱いにされることに。

皇族であれば、国家予算で生活が保証されるのだが、皇室離脱ともなると生活に支障が出てしまう。

そういう生活に困窮した旧宮家の土地を西武グループは購入しホテルを開業、そのホテルのブランドを「プリンスホテル」としたのだ。

その際、生活に困窮された旧宮家の方々を西武グループ、すなわち「プリンスホテル」は雇用し、宮家の方々の生活を安定させることに大きく貢献した。

ちなみに前述の赤坂プリンスホテルがあった場所は、明治時代にまで遡れば、北白川宮邸があり、その後は旧大韓帝国・李王の邸宅があった場所だ。

なので、グランドプリンスホテル高輪や、今はなき赤坂プリンスホテルは、都心にしてはかなり立地条件が良かったり、やたらと綺麗な庭園があるのは、旧宮家の土地だったからなのだ。

東京は、現在も生き物のごとく街が変革し続けている。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part10~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第10弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。では順番に正解を発表する。

A1. JR四ツ谷駅

正解は、JR四ツ谷駅。
JR四ツ谷駅

若い頃の筆者は、ちょくちょく四谷に行っていたのだが、その頃の四ツ谷駅はまさに木造駅舎で、そこだけ見ると、ローカル線の駅そのものだった。

1990年に現在の駅ビルに生まれ変わった。

A2. 品川駅港南口

今や新幹線の停車駅となっている品川駅の港南口が正解。
品川駅港南口

品川駅港南口も四ツ谷駅同様に木造だった。

同じ品川駅でも高輪口は、ややスカした雰囲気で、一方の港南口は働く人達が出入りするゲートというのがかつての品川駅だった。

今でこそ高輪口から港南口へ、またその逆も改札を通ることなく自由に行き来できるが、当時はそれができなかった。

港南口へ抜けるには長く薄暗い通路を抜けなければならず、それもあって「陰の港南口・陽の高輪口」というイメージだったが、今はやや未来的な明るいイメージに変わった港南口だ。

A3. 表参道

表参道が正解。
表参道

奥の突き当りに明治神宮がある。

昔の写真の右側に写っている四角い建物は、同潤会アパート。

当時はハイソな人たちしか購入できない高級住宅で、今でいうと高さは異なるが、富裕層向けのタワーマンションといったところか。

同潤会アパートのあった敷地の一部に現在は表参道ヒルズが建っている。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

JR四ツ谷駅の今昔

四ツ谷駅の今昔

品川駅港南口の今昔

品川駅港南口の今昔

表参道の今昔

表参道の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

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責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part9~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第9弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。では順番に正解を発表する。

A1. 東京都新宿区河田町

正解は、旧フジテレビ社屋があった河田町。
東京都新宿区にある河田町コンフォガーデン

河田町にはフジテレビ本社(新宿区河田町3-1)が1997年3月まであったが、おわかりの通りその後、港区台場へ移転。

やがて河田町に残されたフジテレビの社屋・スタジオ棟は解体され、その跡地に河田町コンフォガーデンが2003年に竣工した。

A2. 東京都港区西麻布

とんねるずの歌で一躍全国にその名が轟いた西麻布が正解。
西麻布

このモノクロ写真が撮影された当時(1965年1月23日)は、霞町(かすみちょう)と呼ばれていた。

今昔対比すると、昔の霞町は空が低く、東京タワーを四方から望めることができたのに対し、現在の西麻布は首都高速で視界を塞がれ、圧迫感が半端ない。

A3. 東京都港区溜池

これは難問だったかと。

正解は、東京都港区溜池。
溜池

現在の東京都港区溜池周辺は、溜池らしきものが全然ないにもかかわらず「溜池」という地名のままで、不思議に思っている人がきっといるはずだ。

なぜこの地を「溜池」というのかというと、昔は溜池があったからだ。

外桜田絵図(嘉永三年=1850)をご覧頂ければ(左が北)、この地に瓢箪っぽい池(右下)があるのがわかるかと。

外桜田絵図(嘉永三年=1850)
外桜田絵図(嘉永三年=1850)

ちなみに、新旧の写真で共通する奥に見えるビルや家屋は、赤坂の町だ。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

東京都新宿区河田町の今昔

東京都新宿区河田町 旧フジテレビ社屋の今昔

東京都港区西麻布の今昔

東京都港区西麻布の今昔

東京都港区溜池の今昔

東京都港区溜池の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

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責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part8~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第8弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。では順番に正解を発表する。

A1. 東京都港区大門

東京都港区大門

突き当たりの門が大門で、通りの両側は増上寺の別院と思われる。

大門という判断が下せれば、意外と簡単だったのではあるまいか。

A2. 新橋(博品館前)

新橋(博品館前)

JR新橋駅の駅名の由来となった橋だ。

したがって、この橋およびこの通りは現在の銀座通り。

A3. 品川駅

品川駅

蒸気機関車の煙突から振りまく煙や火の粉が街を焼き尽くす恐れがあるとの風評から、内陸での鉄道建設が許可されず、仕方なく海に堤防を築き、そこに線路を敷設するという苦肉の策で開通させた。

なので、品川駅も海沿いだったのだ。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

東京都港区大門の今昔

東京都港区大門の今昔

新橋(博品館前)の今昔

新橋(博品館前)の今昔

品川駅の今昔

品川駅の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

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責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~麻布(東京都港区)~【連載:アキラの着目】

久々の「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは、麻布だ。

一口に麻布といっても、「元麻布」、「西麻布」、「東麻布」、「南麻布」、「麻布台」といった広大な範囲を含み、戦前の麻布区が麻布そのものの範囲だといわれている。

現在でも麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう)、麻布永坂町のように、地名の頭に「麻布」が付く地名が残っているが、それらはまさしく戦前は麻布区であった証だ。

麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう)の狸穴坂
麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう)の狸穴坂

六本木も元々は、そうした麻布にある1つの町に過ぎなかった。

そんな広い麻布であるが、麻布という地名の由来には諸説ある。

1つ目の説は、この一帯で麻を多く植え、布を織っていたことに由来し、麻がよく育つ土地という意味で「麻生」になり、これが転じて「麻布」となったとする説だ。

しかし、元々「麻布」は江戸時代くらいまでは、「阿佐布」、「麻生」、「浅府」、「安座部」といったように表記がまちまちで、現在の「麻布」表記に定着したのは幕末以降のようだ。

ということは、必ずしも麻が育っていた土地であったとか、麻で布を織っていた土地であったことは疑わしく、この説は信憑性が低いと言わざるを得ない。

もっともらしいあて字で表記する方が都合が良かったのだろう、おそらく表記の利便性を優先し、まちまちだった表記を「麻布」にしたと考える方が自然だ。

よって、この説は「麻布」の地名の由来としては却下。

2つ目の説は、アイヌ語由来説だ。

太古の昔、麻布十番の周辺までは海であった。

東京湾に突き出ている芝公園の高台から飯倉、麻布狸穴、鳥居坂、日ケ窪、麻布山麓、仙台坂と続く半島と、三田山、魚藍坂(ぎょらんざか)、三光町、恵比寿、天現寺まで続く半島に囲まれた内海は海草が繁殖し、小魚の天国であったので、早くから石器時代から住み着いた原人とアイヌ人がが仲良く住みついていたと考えられる(麻布山にも貝塚があったとのこと)。

当時、内海には小島が点在し、半島を横切るために舟や筏のような乗り物が頻繁に使われ、それらにより狩猟や物々交換をしていたようだ。

こうした舟や筏などで渡ることをアイヌ語で「アサップル」といい、この「アサップル」が転じて「アザブ」、それに漢字をあてて、現在の「麻布」になったとする説を稲垣利吉氏は主張している。

アイヌ語が、それも麻布のところだけ数千年も残るものなのか、これまた信憑性は低いように思われる。

最後の3つ目の説は、地形に由来する説だ。

「あざぶ」は「あさふ」でもあり、「あさふ」は口語では「あそう」と発音するため、「麻生」という表記をあてることもできる。

「麻生」とは「あぞ・ふ」とも発音し、「あぞ・ふ」はすなわち崖地の場所を表している言葉なのだ。

東京都港区の麻布は、まさに台地の縁にある崖地であり、高低差があるため、坂道が多いのはご承知のことかと。

したがって、「麻布」は崖地から由来した地名なのだという説で、信憑性が高いと思われる。

筆者は、3つ目の地形に由来する説が最も「麻布」の地名の由来としてしっくりくるように思う。

やはり、日本の地名は古来より地形から名付けることが多く、こんな地形だから悪天候の時は気をつけろ、みたいなハザード・メッセージを込めている場合が多いのだ。

例えば「龍」が付く地名は、一見カッコ良さそうだが、雨が降ると、その土地の川が、龍が暴れるかのように氾濫する、という意味だったり、鬼怒川もまさに似たような意味で、雨が降ると、鬼が怒ったかのごとく川が氾濫するから鬼怒川と名付けられたのだ。

なので、「麻布」は崖地ですよ、という意味を伝えるために名付けられたのだと考えると、無理がないかなと思う次第だ。

気になる人は、古くから麻布に住むご老人に訊き取りすると、真相がわかるかもしれない。

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責任編集:拡輪 明-HS099