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2021年3月度見学会「武蔵岩槻城」、3月27日開催(日本城郭史学会主催)【連載:アキラの着目】

一般人からすると「城=天守」と思う人があまりにも多いため、実際に日本全国で存在する城が約3万城もあると伝えると、必ずといっていいほど「嘘だぁ~!」と答える。

しかし、これは本当のことであり、天守の存在しない城のほうが圧倒的に多いのだ。

そうした天守のない城はどこを観るんだという、これまた一般人の声が聴こえてきそうだが、城マニアからすると、ちゃんと見どころがあるのだ。

土塁、横堀、竪堀、畝堀(うねぼり)、切岸(きりぎし)、石垣、郭(くるわ)、虎口(こぐち)、城のある地形や高低差、等々、観るべきものがいくらでもあるのだ。

こうした城を観るのは、一人でも友人とでも、誰とでも構わないのだが、やはりその城に精通している人と一緒に巡り、説明してもらいながら観ると、実にわかりやすい。

城によっては「城の説明会」や「城の見学会」、「城散策」が催されていることもあるので、興味のある城ならば参加してみるといい。

前置きが長くなったが、今回のニッポンニュースでは、埼玉県にある岩槻城に関係する武将や大名ゆかりの寺や城の遺構など、戦国期から明治の廃城までの岩槻をめぐる見学会を取り上げる。

大宮台地岩槻支台上に築かれた戦国時代の平山城である岩槻城は、江戸城・河越城を築城した太田道真・太田道灌父子が築いたという説と、忍城主・成田顕泰の父である成田自耕斎正等が築いたという説に分かれる、実にミステリアスな城だ。

岩槻城黒門 Wikipediaから引用
岩槻城黒門
Wikipediaから引用

その岩槻城を巡ることで新たな気づきがあるかもしれないし、現存しなくても門を自分なりに想像を掻き立てて妄想に耽るのもいいかもしれない。

来月3月27日昼からの開催なので、これから城について詳しくなりたい人も参加してみよう。

【2021年3月度 見学会開催 武蔵岩槻城 詳細】

・案内講師:阿部 和彦 氏(日本城郭史学会委員)
・日時&集合場所:2021/3/27(土) 12:30 東武アーバンパークライン(野田線)岩槻駅改札前
         ※必ず昼食を済ませておくこと
・見学予定コース:岩槻駅 – 岩槻郷土資料館 – 浄国寺 – 芳林寺 – 岩槻藩遷喬館 – 浄安寺 – 時の鐘 – 大手門 – 旧三の丸 – 新曲輪 – 鍛冶曲輪 – 岩槻駅解散
・参加費:会員1,000円、非会員1,500円
・申込方法:申込フォームから、または電話、メールでも受付可
※新型コロナウィルスの感染状況によっては中止になる場合あり
※出発前に自身の体調チェック、検温(37.5度未満である事)をすること
※当日マスク着用必須と受付時での非接触型体温計での検温実施

■2021年3月度 見学会開催 武蔵岩槻城 | 日本城郭史学会
https://castle-history.jp/news/20210130-2/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~麻布(東京都港区)~【連載:アキラの着目】

久々の「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは、麻布だ。

一口に麻布といっても、「元麻布」、「西麻布」、「東麻布」、「南麻布」、「麻布台」といった広大な範囲を含み、戦前の麻布区が麻布そのものの範囲だといわれている。

現在でも麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう)、麻布永坂町のように、地名の頭に「麻布」が付く地名が残っているが、それらはまさしく戦前は麻布区であった証だ。

麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう)の狸穴坂
麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう)の狸穴坂

六本木も元々は、そうした麻布にある1つの町に過ぎなかった。

そんな広い麻布であるが、麻布という地名の由来には諸説ある。

1つ目の説は、この一帯で麻を多く植え、布を織っていたことに由来し、麻がよく育つ土地という意味で「麻生」になり、これが転じて「麻布」となったとする説だ。

しかし、元々「麻布」は江戸時代くらいまでは、「阿佐布」、「麻生」、「浅府」、「安座部」といったように表記がまちまちで、現在の「麻布」表記に定着したのは幕末以降のようだ。

ということは、必ずしも麻が育っていた土地であったとか、麻で布を織っていた土地であったことは疑わしく、この説は信憑性が低いと言わざるを得ない。

もっともらしいあて字で表記する方が都合が良かったのだろう、おそらく表記の利便性を優先し、まちまちだった表記を「麻布」にしたと考える方が自然だ。

よって、この説は「麻布」の地名の由来としては却下。

2つ目の説は、アイヌ語由来説だ。

太古の昔、麻布十番の周辺までは海であった。

東京湾に突き出ている芝公園の高台から飯倉、麻布狸穴、鳥居坂、日ケ窪、麻布山麓、仙台坂と続く半島と、三田山、魚藍坂(ぎょらんざか)、三光町、恵比寿、天現寺まで続く半島に囲まれた内海は海草が繁殖し、小魚の天国であったので、早くから石器時代から住み着いた原人とアイヌ人がが仲良く住みついていたと考えられる(麻布山にも貝塚があったとのこと)。

当時、内海には小島が点在し、半島を横切るために舟や筏のような乗り物が頻繁に使われ、それらにより狩猟や物々交換をしていたようだ。

こうした舟や筏などで渡ることをアイヌ語で「アサップル」といい、この「アサップル」が転じて「アザブ」、それに漢字をあてて、現在の「麻布」になったとする説を稲垣利吉氏は主張している。

アイヌ語が、それも麻布のところだけ数千年も残るものなのか、これまた信憑性は低いように思われる。

最後の3つ目の説は、地形に由来する説だ。

「あざぶ」は「あさふ」でもあり、「あさふ」は口語では「あそう」と発音するため、「麻生」という表記をあてることもできる。

「麻生」とは「あぞ・ふ」とも発音し、「あぞ・ふ」はすなわち崖地の場所を表している言葉なのだ。

東京都港区の麻布は、まさに台地の縁にある崖地であり、高低差があるため、坂道が多いのはご承知のことかと。

したがって、「麻布」は崖地から由来した地名なのだという説で、信憑性が高いと思われる。

筆者は、3つ目の地形に由来する説が最も「麻布」の地名の由来としてしっくりくるように思う。

やはり、日本の地名は古来より地形から名付けることが多く、こんな地形だから悪天候の時は気をつけろ、みたいなハザード・メッセージを込めている場合が多いのだ。

例えば「龍」が付く地名は、一見カッコ良さそうだが、雨が降ると、その土地の川が、龍が暴れるかのように氾濫する、という意味だったり、鬼怒川もまさに似たような意味で、雨が降ると、鬼が怒ったかのごとく川が氾濫するから鬼怒川と名付けられたのだ。

なので、「麻布」は崖地ですよ、という意味を伝えるために名付けられたのだと考えると、無理がないかなと思う次第だ。

気になる人は、古くから麻布に住むご老人に訊き取りすると、真相がわかるかもしれない。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099