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ここは一体東京のどこ?~Part12~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第11弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。

では順番に正解を発表する。

A1.丸の内(東京駅西側)

丸の内(東京駅西側)

以前の「ここは一体東京のどこ?」(2018年01月19日)
でも、やや異なる角度から出題したが、同じ三菱ヶ原だ。

現在の東京駅およびその周辺地は、元々戦前の陸軍省が所有する軍事演習の用地だった。

その広大な原っぱを政府は民間に払い下げるということになり、三菱の2代目・岩崎弥之助が当時の金128万円で払い下げを受けた。

それ以降、この原っぱを三菱ヶ原と呼ぶようになり、中央駅としての役割を持つ東京驛も開業し、現在に至っている。

A2.神楽坂

神楽坂

飯田橋駅の牛込見附側から見える上り坂がご存知の通り神楽坂だ。

かつての東京には多くの花街があったが、神楽坂はその筆頭格で、「東京六花街」にも数えられた由緒ある花街だったのだ。

現在でもその頃の料亭が存在し、裏小路を歩くと、花街の名残が感じられる。

また、東京で最もフレンチの店が多い街としても知られており、神楽坂に行きつけの店があると、できるカッコいい大人に見られる。

A3.新宿ゴールデン街裏手の遊歩道(旧・都電専用軌道)

ゴールデン街裏手の遊歩道(旧・都電専用軌道)

新宿に詳しい人ならば簡単だったかと。

「ゴールデン街」の看板をくぐったら、遊歩道がすぐに出てくるが、その遊歩道が元々は都電専用軌道だったのだ。靖国通りから曲がって、この専用軌道になり、東にカーブして明治通りに出るルートだったのだ。
新宿ゴールデン街の看板

筆者が若い頃のゴールデン街はすっかり寂れており、スラムまではいかないが、なんか足を踏み入れるのに躊躇するエリアだった。

しかし、現在はすっかり外国人観光客の人気スポットになり、夜な夜な賑わっている。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

丸の内(東京駅西側)の今昔

丸の内(東京駅西側)の今昔

神楽坂の今昔

神楽坂の今昔

新宿ゴールデン街裏手の遊歩道(旧・都電専用軌道)の今昔

新宿ゴールデン街裏手の遊歩道(旧・都電専用軌道)の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?【連載:アキラの着目】

世界でも有数の都市に数えられる東京。

しかし、東京といえども、一朝一夕でここまでの大都市になったわけではなかった。

江戸時代には100万人超の人口を抱えていた大都市ではあったが、現在の視点で捉えると、経済成長期前までは、まだまだローカル色の強そうな街だったのだ。

そこで今回は、まだまだローカル都市っぽかった頃の東京の街の写真3枚をピック・アップし、どこの街かあててみてみよう、というクイズにしてみた。

では早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこの街なのか?

Q2.ここは東京のどこの街なのか?

Q3.ここは東京のどこの街なのか?

3枚の写真全てがわかった人はかなりの東京通(とうきょうつう)だ。

では順番に正解を発表しよう。

A1.渋谷道玄坂

渋谷道玄坂

ちょうどこの分岐点で左に上る坂が道玄坂だ。

いまでこそ若い女の子の圧倒的支持を受けた「渋谷109」が高く聳え立ち、ランドマークとして渋谷を象徴しているが、明治時代の道玄坂はなんとも長閑で、どこの田舎の宿場町なのかと思えるくらいだ。

ここまで変わることができるのか、という街の変遷サンプルに最もふさわしいスポットかもしれない。

A2.西新宿

西新宿

貯水池のようなエリアがヒントとなり、これから西新宿と判別できる。

この貯水池のようなエリアは、明治31年(1898年)に通水し、昭和40年(1965年)に廃止となった淀橋浄水場だ。

この広大な淀橋浄水場の跡地に高層ビルが次々に建てられ、平成2年(1990年)12月には東京都庁舎が建てられた。

現在の写真を見れば、もう一目瞭然で西新宿と判別できるだろう。

因みに昔の地図では西新宿という地名は存在せず、この淀橋浄水場一帯を「角筈(つのはず)」、また熊野神社よりも西側一帯を「十二社(じゅうにそう)」と呼んでいた。

A3.丸の内(東京駅前)

丸の内(東京駅前・三菱ヶ原)

クイズに適した明治期の写真が見つからなかったので、明治23年頃に描かれたといわれている作者不明の「三菱ヶ原」という絵画を設問の素材に使用したのだが、この丸の内も昔と現在がかけ離れすぎて、驚いたかと。

元々この丸の内の場所は、明治政府からの払い下げで財閥の三菱が購入したエリアで、そのため三菱が購入した原っぱなので、当時は「三菱ヶ原」と呼ばれていた。

東京駅が完成してからも丸の内は相変わらず原っぱのままで、近所の子供たちがバッタを追いかけて、捕獲して遊んでいたのだとか。

現在、オフィス街である丸の内からはとても当時バッタが飛び交っていた原っぱだったとは想像できない。

最後にあらためて渋谷道玄坂、西新宿、丸の内の今昔写真を並列して締めくくることにする。

渋谷道玄坂の今昔

渋谷道玄坂の今昔

西新宿の今昔

西新宿の今昔

丸の内(東京駅前)の今昔

丸の内の今昔

今後もクイズに適した写真が見つかれば、第2弾、第3弾と「東京のどこの街なのか?」をやってゆきたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名には、どんな由来があるの?【連載:アキラの着目】

東京と一口でいっても、様々な街がある。

渋谷、新宿、池袋、恵比寿、代官山、上野、秋葉原…。

挙げていけば、キリがないくらい東京には様々な地名が存在する。

これら東京の様々な地名は、どうやって名づけられたのか、いくつか取り上げたい。

六本木は6つの大名屋敷があったから、この地名がついた!?

世界的にも有名な東京の繁華街が、皆さんご存知の六本木。

六本木交差点
六本木ヒルズ

地方から来た、よく東京を知らない人は、六本木があるくらいなんだから、東京にはまだ他に「一本木」、「二本木」、「三本木」、「四本木」等、があるんじゃないかと思ってる人もいるようだ。

でも実際に東京に存在するのは六本木と五本木だけなのだが。

話が横道に逸れてしまった、本道に戻そう。

この六本木という地名は、諸説あるが、元々この地に6つの大名屋敷があったことから由来しているとの説が最有力と考えられている。

その大名屋敷とは「上杉」、「朽木」、「青木」、「片桐」、「高木」、「一柳」であり、どの家も「木」に関係した苗字で「六つの木の付く苗字のお殿様の屋敷があった」ことから、「六本木」の地名がついたといわれている。

江戸時代の切絵図を確認すると、上杉家屋敷は飯倉片町、朽木家は赤坂今井谷、片桐家は麻布鳥居坂、高木家は麻布笄橋、一柳家は西新橋付近にあったようだが、現在の感覚だと西新橋は六本木に含めてはダメでしょ、という感じだ。

でも昔の江戸では、赤坂氷川神社から六本木、飯倉、西新橋くらいまでの広範なエリア一帯をまとめて六本木くらいに考えていたのかもしれない。

溜池

赤坂見附から新橋にかけて内堀通りを通ると、「溜池交差点」を必ず通過する。

若い頃の筆者は、「池なんて何もない場所なのに、なぜ溜池というのかな?」と思っていた。

ところが、江戸切絵図を見たら、なるほど、昔は実際に「溜池」が存在していたのだ。

江戸切絵図 赤坂
江戸切絵図 赤坂

現在の赤坂周辺
現在の赤坂周辺

この溜池は、江戸町民の飲料水として利用され、明治期になってから徐々に埋め立てられ、現在に至っている。

丸の内

東京駅の西側一帯は丸の内と呼ばれ、高層のオフィスビルが立ち並ぶ日本の中枢エリアだ。

丸の内

この丸の内の地名の由来は「”丸”の内側にあるエリア」、つまり近世城郭の敷地を「丸」というのだが、江戸城の内側の土地ですよ、という意味で、丸の内といわれるようになった。

余談だが、近世城郭と異なる中世城郭だと城の敷地を「丸」とはいわずに、「郭」(くるわ)というので、近世城郭でいうところの「本丸」は「本郭」といったりする。

とりあえず3つしか取り上げなかったが、今後も時折、東京の地名の由来について、書いてゆきたいと思う。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099