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ここは一体東京のどこ?~Part14~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第14弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。

では順番に正解を発表する。

A1.虎ノ門

虎ノ門(文化庁前)

正解は虎ノ門。

小林清親が描いた明治初年の虎ノ門で、洋風建築物は旧工部大学校の校舎。

今は同じ場所に文化庁東館が建つ。

外堀通りはその名の通り元々は江戸城の外堀だったところで、その外堀を埋めて道とした。

明治初年であれば外堀は”健在”で、水面に逆さの工部大学校校舎が映っているわけだ。

A2.御茶ノ水

御茶ノ水

正解は御茶ノ水。

この明治期における御茶ノ水の写真は有名。

この川は言わずと知れた、江戸城の外堀の役目も持つ神田川。

一見すると、自然な河川だが、この神田川は人力で掘られて造られた「人工物」。

徳川家康江戸入府の頃は、左右の陸地が繋がった駿河台で、2代将軍・徳川秀忠の命を受けた伊達政宗が1620年(元和6年)に仙台堀(神田川)を開削したことにより湯島台(写真左)と駿河台(写真右)とに分離されたのだ。

A3.新宿東南口

新宿東南口

正解は新宿東南口。

古い写真は昭和30年代に撮影されたもののようだ。

平成になったかならないか頃まで、この新宿東南口は変わらず、若い頃の筆者の記憶では、ガラの悪いパッとしない場所だった。

古い写真の180度正反対の側に、ヤクザ映画専門の映画館があったのも、この地のガラの悪さに拍車をかけてた。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

虎ノ門の今昔

虎ノ門の今昔

御茶ノ水の今昔

御茶ノ水の今昔

新宿東南口の今昔

新宿東南口の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

丸の内や日比谷は海?銀座は出島?【連載:アキラの着目】

現在1,300万人の人口を有する日本の首都・東京。

しかし、今から約400年以上前の東京、すなわち徳川家康が入城した当時の江戸は、江戸城大手門から東にかけて茅葺きの町屋が100軒あるかないかの鄙びた村だった。

そのうえ江戸は、幾多の河川が東京湾に流れ込むような湿地帯だったため、それまでなかなか街として発展しなかったのだ。

元々江戸の地形は、東京湾が大きく現在の日比谷辺りまで入り組んでおり(日比谷入江)、銀座・日本橋の辺りは江戸前島といって、東京湾に突き出た出島のような地形だった。

徳川家康入城期の江戸 Vol.72 都心3区の地形の変遷 | 東京の高級賃貸マンションなら[東京レント]から引用
徳川家康入城期の江戸
Vol.72 都心3区の地形の変遷 | 東京の高級賃貸マンションなら[東京レント]から引用

なので、現在の丸の内や日比谷は海で、埋め立てによって陸地となったのだ。

現・銀座から現・日比谷方面を望む想像図(右)と現在の画像(左) 右画像は「酒上小琴【サケノウエノコゴ」Twitterから引用
現・銀座から現・日比谷方面を望む想像図(右)と現在の画像(左)
右画像は「酒上小琴【サケノウエノコゴ」Twitterから引用

江戸日比谷入江 NHK「知恵泉」から引用
江戸日比谷入江
NHK「知恵泉」から引用

現在の皇居前広場はまさに日比谷入江だった場所で、400年以上前は、漣が押し寄せては引いての繰り返しをしていたことだろう。

その日比谷入江の埋め立てに使った土は、神田山(御茶ノ水・駿河台にあった小高い山)や番神山城跡(現:港区麻布台)を切り崩した土、神田川の掘削で出た土を使ったといわれている。

御茶ノ水・聖橋の神田川(江戸城外堀)は手掘りで掘削し、渓谷のように切り開いたので、元々駿河台は御茶ノ水側と順天堂大学病院側とは地続きだったのだ。

江戸を街として機能させるために、江戸幕府初代将軍・徳川家康~3代将軍・徳川家光までの時代に、前述の土地埋立拡張工事や水はけ改良工事、上水道整備工事、等々を矢継ぎ早にして、暮らしやすい街にしていった。

現在でも昔の名残を見つけることができ、有楽町の数寄屋橋(江戸前島)から日比谷方面(日比谷入江)にかけては、緩やかな下降の地形が見て取れる。

すっかりビルだらけになってしまった東京だが、こうした歴史をちょっとでも知ることで東京や江戸に興味を持つことができれば、今よりも楽しく街歩きができるかもしれない。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~神田駿河台(東京都千代田区)~【連載:アキラの着目】

歌川広重『水道橋駿河台』「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは、神田駿河台だ。

現在、神田駿河台とよばれるエリアは駿河台といわれ、JR御茶ノ水駅の西側および神田川の南側に位置する。

元々は、この神田駿河台の大地は、神田川北側の湯島台とよばれるエリアと陸続きになっていた。

しかし、1590年に徳川家康が江戸に入府して以降、江戸城は整備され続け、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達政宗が1620年(元和6年)に仙台堀(神田川)を開削したことで、1枚の台地が南北に分離されることとなった。

幕末あるいは明治初期の仙台堀こと神田川(現在の御茶ノ水付近)
幕末あるいは明治初期の仙台堀こと神田川(現在の御茶ノ水付近)
上の写真とほぼ同じ場所の現在
上の写真とほぼ同じ場所の現在

ちなみに開削した際の土砂は、日比谷入江を埋め立てるのに用い、現在の丸の内や有楽町が海から陸地となった。

なぜ、この仙台堀(神田川)によって分断された南側のエリアを駿河台というのかについては諸説ある。

1つ目は、1616年(元和2年)の徳川家康死去の後に、駿河国(現在の静岡県)の国府が置かれた都市・駿府より幕臣が江戸に呼ばれ、この地に屋敷を与えられたことに由来するという説。

2つ目は、駿河大納言といわれた、江戸幕府三代将軍・徳川家光の弟である忠長の屋敷があったことに由来するという説。

3つ目は、江戸の中でも比較的高台であるこの地から、駿河国の富士山がよく見えたことに由来するという説だ。

現在の千代田区には、富士見坂という名が付いた坂が2つ残っており、これら2つの坂は駿河台よりも低い。

ということは、これらの2つの坂よりも「高地」である駿河台からも当時は富士山が見えたであろうことは想像に難くなく、これらの事象から推測するに、駿河台の地名の由来は、3つ目の「駿河国の富士山がよく見えたことに由来する」説が有力と思われる。

歌川広重『水道橋駿河台』
歌川広重『水道橋駿河台』

歌川広重『水道橋駿河台』に描かれた現在のJR御茶ノ水駅周辺(水色エリアは神田駿河台)
歌川広重『水道橋駿河台』に描かれた現在のJR御茶ノ水駅周辺(水色エリアは神田駿河台)

駿河台は1960年代になると、JR御茶ノ水駅から本郷通り沿いを中心に、学生相手の店舗が多くなったこともあって、”日本のカルチェラタン”と呼ばれたこともあった。

現在、駿河台は、相変わらず大学・専門学校が多いエリアとして知られている。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099