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備中松山城(日本100名城・岡山県高梁市)~FJ時事新聞おすすめ名城~【連載:アキラの着目】

今回のニッポンニュースで取り上げるのは、岡山県高梁市の臥牛山山頂(標高430m)にある、日本100名城で国指定重要文化財の備中松山城だ。

備中松山城は日本三大山城にも数えられ、また、最も高所にある現存天守の山城で、特に秋には雲海に浮かぶ幻想的なその姿から「天空の城」とも呼ばれている。
「天空の城」備中松山城

備中松山城の築城は、鎌倉時代に有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭・秋庭重信が奥地の大松山に城を築いたのを起源とし、1683(天和三)年に水谷勝宗が3年の年月を費やし、現在の天守に修築した。
備中松山城

この地は、山陰と山陽の南北、さらに東西の主要街道も交差する要地であるため、戦国時代は絶えず激しい争奪戦が繰り広げられ、目まぐるしく城主の交代が繰り返されてきた歴史がある。

では早速、備中松山城に踏み入れてみよう。

登城坂の周囲は、高さ10m以上の巨大で切り立った岩壁が聳え立ち、その天然の岩盤を上手く融合させるように、その上に石垣を積んでいる。

この備中松山城の石垣は、本編とは無関係にもかかわらず、実は3年前のNHK大河ドラマ『真田丸』のOPシーンに使われたのだ。

筆者の推測なのだが、難攻不落の真田丸のイメージ形成に”難攻不落の名城”である備中松山城の石垣が最適だったから、わざわざOPに使われたのではあるまいか。

その堅固な石垣を抜けると、備中松山城の天守が顔を出す。
備中松山城 本丸

さらに歩みを進め、階段を登ると本丸になる。

真正面に建つ備中松山城の天守は小ぶりながらも、白い漆喰塗りの壁と黒い腰板のコントラストが映える威風堂々とした風格で、登城者を迎え入れてくれる。
備中松山城 天守

なお、本丸にはそこそこ有名な「猫城主」もいるので、猫好きならば、撫で撫でしてあげよう。
備中松山城本丸にいる猫

天守に登ると、どこにでもあるような、鉄筋コンクリートの”なんちゃって城”とは異なり、天井に大きな梁がある。
備中松山城天守天井の大きな梁

大抵の登城者は、天守に登った後はそのまま城を下りて帰ってしまうのだが、天守裏手に回ると、これまた国指定重要文化財の二重櫓があるので、しっかり堪能しよう。
国指定重要文化財の備中松山城二重櫓

筆者の場合は、可能な限り登城する際は大手(正門口)から入り、搦手(退却口)から出る、出るのが難しい場合は観るだけでも、というスタンスにしている。

今回の備中松山城は搦手を抜けてしまうと、さらに奥へ奥へと行ってしまい、帰られなくなってしまうので、搦手を確認するに留まった。
備中松山城 搦手

ちなみにその搦手付近から見上げると、先ほどの二重櫓を裏手から望めるので、搦手を観た際には忘れぬように。
備中松山城搦手側から観た二重櫓

さすが標高430mの高所にある備中松山城だけに、眼下に広がる景色は絶景だ。

マイカーやレンタカーで備中松山城に行く際は、城まちステーション(5合目)で駐車し、そこからシャトルバスでふいご峠(8合目)まで行くのが良いだろう。

ふいご峠からは約20分も歩けば、備中松山城本丸・天守に辿り着く。

【「天空の城」備中松山城 詳細】

・所在地:岡山県高梁市内山下1

・入館料:【大人】500円 【小中学生】200円 団体割引あり30人以上1割引 100人以上2割引
 ※以下に該当する方は入城料免除(土・日曜日・祝日および休業中に観覧する市内の小・中学生、65歳以上の市内在住民、障がい者手帳持参の人と介助者1人)
・入場時間:【4月~9月】9:00~17:30 【10月~3月】9:00~16:30
 ※12/29から1/3まで本丸への入城不可
・休日:12月29日~1月3日
・駐車場:城まちステーション(5合目)110台、ふいご峠(8合目)14台
・バリアフリー対応:AED
・TEL:0866-22-1487

※料金・時間等は令和元年10月18日現在のもの

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

畝状竪堀群が際立つ戦国期の山城・南山城、最後の現地説明会に城好き300人殺到!【連載:アキラの着目】

南山城跡 畝状竪堀群岡山県古代吉備文化財センターが調査している戦国期の山城・南山城跡(倉敷市真備町・船穂町)の現地説明会(最終日)が昨日8日に行われた。

受付の際に配布された南山城跡 現地説明会資料
受付の際に配布された南山城跡 現地説明会資料

当初、午前・午後の両部ともそれぞれ60名の参加定員だったが、最後に南山城を脳裏に焼き付けておきたいという城マニアの申込みが岡山県古代吉備文化財センターに殺到、急遽、300人にまで参加者を増やしたのだ。

南山城主郭での岡山県古代吉備文化財センターの方による説明
南山城主郭での岡山県古代吉備文化財センターの方による説明

なぜここまで城好きが南山城に殺到したのかというと、平成30年7月の西日本豪雨で決壊した小田川の付け替えによる治水工事に伴い、南山城跡は令和元年10月末の調査終了後に山ごと姿を消す運命にあるからだ。

南山城 腰郭
南山城 腰郭

それに、全面発掘によって明らかになった、敵の侵入を防ぐ多彩な防御施設群、とりわけ畝状竪堀群の際立っている点が、城好きのハートをしっかり鷲掴みにしたともいえる。

城のことに詳しくない人向けに説明すると、畝状竪堀群とは約50メートルに渡り、畝のように波を打っているかのごとく並ぶ複数の竪堀のことをいう。

二郭から見下ろした畝状竪堀群
二郭から見下ろした畝状竪堀群
南山城跡 畝状竪堀群
南山城跡 畝状竪堀群

南山城の北側は小田川、東側は急峻な地形で、防御力は万全だが、それらに比べ西側と南側は比較的なだらかな斜面であったり、近辺に切通道があることから、防御に難がある。

そこで、南側に畝状竪堀群を配し、敵の横移動に制限をつけるようにしたのだ。

横移動が困難ならば縦移動しかないから、竪堀をまっすぐ敵が登ってくるのは極々自然の成り行き。

その際、堀底を登るのか、それとも堀底でなく塁上を登るのかは防御をする側にとっては大きな問題ではない。

どちらであろうが、的を絞りやすく、敵の先頭から順番に殲滅させるのみだ。

平成31年1月25日(金)・26日(土)南山城跡 現地説明会で岡山県古代吉備文化財センターから配布された資料から引用
平成31年1月25日(金)・26日(土)南山城跡 現地説明会で岡山県古代吉備文化財センターから配布された資料から引用

決して南山城は大きくなく、むしろコンパクトな縄張りにもかかわらず、このような手の込んだ防御網が張り巡らされているから、消滅するのは非常に残念としかいいようがない。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

第14回「日本城郭検定」、2019年6月9日開催【連載:アキラの着目】

第14回「日本城郭検定」(主催:公益財団法人日本城郭協会、特別協力:株式会社学研プラス、企画運営:日本出版販売株式会社)が2019年6月9日に開催される。

日本城郭検定とは、日本の財産である、城の奥深い魅力をより多くの人に知って欲しいという思いのもとに立ち上がった検定だ。

累計延べ受験者数は、約21,000人を数え、全国の城好きに大人気の検定なのだ。

2019年6月9日に開催される第14回「日本城郭検定」(主催:公益財団法人日本城郭協会、特別協力:株式会社学研プラス、企画運営:日本出版販売株式会社)
2019年6月9日に開催される第14回「日本城郭検定」(主催:公益財団法人日本城郭協会、特別協力:株式会社学研プラス、企画運営:日本出版販売株式会社)

2019年3月28日現在、インターネットからの申込に限って早割を実施中!

まだ先かと、のんびり構えていると、申込締切日の2019年5月7日(火)が来てしまうので、注意しよう。

【第14回「日本城郭検定」 詳細】

・開催エリア:東京/名古屋/大阪/姫路
・開催級:4級(入門・シロッぷ級)/3級(初級)/2級(中級)/準1級(武者返級)/1級
 ※各種併願割引あり ※中学生以下は学割価格あり
・問題形式:すべてマークシート(4者択一方式)
      4級 50問(問題文はフリガナ付)
      3級・2級・準1級・1級 100問
・合格基準:4級 50問中30問以上正答者は合格 3級・2級・準1級・1級 100問中概ね70問以上正答者は合格

日本城郭検定は、以上のように4級~1級まであるのだが、いざ日本城郭検定を受検するとなると、自分はどの級からの受検が適しているのだろうか、と迷う人もいるはず。

そこで、一応の目安を明記しておくと、

● 4級(入門・シロッぷ級)
城巡り初心者、知識はまだまだだけど、意欲は満点の方を対象とした入門レベル

● 3級(初級)
お城が好き、歴史が好き、知識を得ることでもっとお城を楽しみたい方を対象とした初級レベル

● 2級(中級)
全国のお城を訪ねて周る、歴史から各要素まで奥深い知識を探求したい方を対象とした中級レベル

● 準1級(武者返級)
お城を巡るときは必ず攻める側、守る側の気持ちになってお城を探索するような “つわもの”たちを迎えうつ武者返級難関レベル

● 1級(上級)
城についての広範囲かつ深い知識をもち、城愛好家の頂点を目指す方に向けた最難関レベル

というレベルに分けられている。

日本城郭検定公式サイトでは、日本城郭検定のための練習問題も掲載されており、また、日本城郭検定の過去問題集も発売されているので、事前にこれらを反復して解くことで、頭に城郭知識を染み込ませておこう。

■城の検定「日本城郭検定」公式サイト
https://www.kentei-uketsuke.com/shiro/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

信州・上田城(長野県上田市)~FJ時事新聞おすすめ名城~【連載:アキラの着目】

上田城東虎口櫓門今回ご紹介する「FJ時事新聞おすすめ名城」が、真田昌幸・信繁(幸村)親子の居城として有名な信州の上田城だ。

ある程度、城に詳しい人からすれば、「なぜ今さら上田城を取り上げるんだ、ブームは2年前ではないか!」と叱責されるかもしれない。

というのも2年前は、真田信繁(幸村)を主人公とするNHK大河ドラマ『真田丸』が放送されており、上田城がそのドラマの影響やブームに乗っかって、大変な賑わいだったのだ。

逆にいうと、その賑わいや混雑ぶりを避けたく、遅れること2年、ようやく今年になって筆者が上田城を訪城したというわけだ。

上田城の歴史について簡潔に説明しよう。

上田城は天正11年(1583)に、越後(現在の新潟県)の戦国大名・上杉景勝に対抗するための前線基地として、徳川家康の援助の下、真田昌幸が築城した平城だ。

その後、真田昌幸が自領の沼田(現在の群馬県沼田)を関東の戦国大名・北条氏に割譲するよう徳川家康からいわれたため、それを不服として徳川家康の下を離れ、上杉景勝につくことになり、それに怒った徳川家康が上田城に7,000の兵を差し向けたのが天正13年(1585)の第一次上田合戦だ。

また、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍についた真田昌幸・信繁は、中山道から進軍する徳川秀忠の大軍(38,000人)をわずか2,500~3,000の兵で撃退したのが第二次上田合戦で、これら二度の合戦で大大名の徳川をコテンパンにやっつけた城として有名なのだ。

小さな大名が少ない手勢で、大きな大名の大軍を二度も撃破した城は、上田城以外では例がない。

真田昌幸が属した西軍が関ヶ原の戦いで敗れたことで、真田昌幸は九度山に配流され、上田城主は真田信之となり、以後、仙石氏(三代)、松平氏(七代)と変わり、廃城後は公園となって現在に至っている。

では、実際に上田城を巡ってみよう。

上田城縄張図(考察=三島正之氏) - 真田期の上田城縄張り - 信州まちあるき から引用および番号付記
上田城縄張図(考察=三島正之氏) - 真田期の上田城縄張り - 信州まちあるき から引用および番号付記

市営野球場の対面の駐車場に車を駐車したため、筆者が最初に訪れたのが(1)の空堀だ。

小泉曲輪側から見た上田城空堀

小泉曲輪側から観た写真で、わかりにくいかもしれないが、向かって左へ直角にくびれた堀がめぐらされている。

これは、横からも矢や火器を敵に浴びせることができるように、直角に堀を曲げているのだ。

こうした仕掛けを「横矢掛り」という。

(2)は尼ヶ淵の崖から見た上田城西櫓だ。

尼ヶ淵の崖から見た上田城西櫓

現在は公園や駐車場になっているこの尼ヶ淵は、上田城築城当時は千曲川が流れる天然の要塞で、この上田城南側は鉄壁の守りとなっていた。

(3)は尼ヶ淵の崖から見上げた上田城南櫓だ。

尼ヶ淵の崖から見上げた上田城南櫓

やはり(2)同様に高低差があり、ここをよじ登って城内に侵入することは不可能だ。

二の丸橋を渡り、武者溜りを抜けると、(4)上田城東虎口櫓門が視界に現れる。

上田城東虎口櫓門

門に向かって右の石垣には、とてつもない大きさの「真田石」が積まれており、観る者を圧倒する。

東虎口櫓門をくぐると、そこは上田城の本丸だ。

本丸の周囲は小高い土塁があり、そこから(5)本丸を囲む百間堀を望むことができる。

上田城本丸土塁から望む百間堀

(6)は西櫓手前から見下ろす尼ヶ淵の崖だ。アスファルトの通路と青々とした芝生の領域は、前述の通り築城当時は千曲川が流れていた。

上田城西櫓手前から見下ろす尼ヶ淵の崖

二の丸へ向かい、本丸を囲む百間堀を見ると、(7)本丸の角が意図的に斜めに削られた箇所に出くわす。

上田城本丸隅欠きの土塁(本丸土塁の隅欠き)

この斜めに削られた箇所は「隅欠きの土塁(本丸土塁の隅欠き)」といい、鬼門除けのために北東隅の土塁を斜めに削ったものだ。

この「隅欠きの土塁(本丸土塁の隅欠き)」により、北東角の鬼門を無くし、万全な構えにしたということだ。

(8)は二の丸北虎口で、やはり直角に通路を折り曲げ、敵が一気呵成に直進してこないようにしているのと、横矢をかけられるようにしているのと、2つの意味がある。

上田城二の丸北虎口

最後に上田城から東へ10分ほど歩いたところにある大手門跡だ。

上田城大手門跡

現在この大手門跡は緩やかなカーブになっているが、これまた築城当時は直角に折れ曲がっていたのは言うまでもない。

以上、駆け足で信州・上田城を見てきたが、いかがであったろうか?

『真田丸』のブームが去った今だからこそ、ゆっくりと城内を観ることができるので、かなりおすすめだ。

■信州上田観光ガイド 上田城・上田城跡公園【信州上田観光協会】長野県上田市の大河ドラマ真田丸で知られる上田城
http://www.ueda-cb.gr.jp/uedajo/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

国宝・松本城(長野県松本市)~FJ時事新聞おすすめ名城~【連載:アキラの着目】

今回のニッポンニュース「FJ時事新聞おすすめ名城」で取り上げるのは現存12天守で、姫路城、彦根城、犬山城、松江城と並ぶ国宝城郭の松本城だ。本丸御殿跡を通りながら、松本城天守へ

文禄2~3年(1593~1594)に建てられた五重六階の現存天守としては日本最古を誇る。

松本城の歴史は戦国時代にまで遡る。

元々、現在松本城のある地には永正元年(1504)に島立氏によって建てられた深志城(ふかしじょう)があり、この深志城が現在の松本城の前身であるといわれている。

その後、深志城を拠点とした武田氏の統治が32年間続くも、天正10年(1582)織田信長による武田氏滅亡で、木曽義昌、小笠原洞雪と城主が替わり、小笠原長時の嫡子・貞慶が深志城を奪還し、深志を松本と改名、さらに時代が進み、石川数正によって大天守が建てられた。

標高590メートルの盆地内平地に位置する平城の松本城は、大天守(だいてんしゅ)・乾小天守(いぬいこてんしゅ)・渡櫓(わたりやぐら)・辰巳附櫓(たつみつけやぐら)・月見櫓(つきみやぐら)の五棟で形成されており、大天守と乾小天守を渡櫓によって連結し、辰巳附櫓と月見櫓が複合された連結複合式の天守として有名だ。

ちなみにこの連結複合式天守は、全国広しといえども、松本城だけに見られる特徴的な天守構造だ。

では実際に写真で松本城を観ていこう。

まず1枚目の写真は、松本城北側の堀端から、堀と石垣と天守を樹木越しに捉えたもの。

松本城北側の堀端から樹木越しに捉えた松本城の堀と石垣と天守

現在の松本城は二重の堀で周らされているが、建てられた当時は三重の堀で周らされていたとのこと。

2枚目の写真もやはり松本城北側堀端の松本神社の交差点から撮影。

松本城北側堀端の松本神社の交差点から撮影した松本城

3枚目の写真も松本城北側の堀と石垣だ。

松本城北側の堀と石垣

4枚目の写真は大手側の堀で、画面左側にかすかに写っている橋を渡り、真っ直ぐに進むと、二の丸になる。

松本城大手側の堀松本城案内図現在の地図と重ね合わせた松本城縄張図

松本城の石垣は、未加工の自然石を使用した野面積み(のづらづみ。「乱積み」ともいう)という積み方で構築されており、約400年前に積まれた状態のままで、石の積み替えは行われていない。

その野面積みの中でも、横目は通っているのだが、所々乱れているものを「布積み崩し」といい、松本城本丸北側の外堀の石垣はこの布積み崩しによる構築だ。

松本城の天守・黒門・堀・石垣松本城松本城と埋橋

松本城本丸御殿跡の片隅にあるのが、松本市のマスコットキャラクター・アルプちゃんだ。

松本城と松本市マスコットキャラクター・アルプちゃん

松本城にいる際のアルプちゃんは「甲冑バージョン」の出で立ちで、背景に松本城天守を入れながら、このアルプちゃんと一緒に撮影する外国人観光客もいた。

本丸御殿跡を通りながら、松本城天守へと歩みを進めていく。

本丸御殿跡を通りながら、松本城天守へ

本丸御殿南側に回ると、本丸を取り囲む土塁が現れるので、忘れずに土塁も観ておこう。

本丸を取り囲む土塁

天守最上階まで有料にて登城できる。

その際、以下の2点に注意。

・階段が極めて垂直に近い傾斜であるため、お年寄りや子供は特に注意が必要のこと
・スカート着用の女性は、周囲の男性(スタッフ、観光客含む)の視線が集中してしまう可能性が高いので、必ず長ズボン着用で登城すること

天守最上階からの眺望は文句なし。

ただし、犬山城のような回り縁がないため、天守の外に出る建物構造にはなっておらず、金網越しに景色を観ることになる。

松本城天守最上階からの文句のつけようがない眺望

写真は金網の、意図的に広げられた最も大きな穴から撮影したため、金網越しにならなかっただけだ。

天守から降りると、最後は月見櫓に。

松本城月見櫓

月見櫓はその名の通り「風流に月見をして、歌を詠む」櫓であり、決して戦闘用櫓ではないため、「石落とし」や「矢狭間」、「鉄砲狭間」、「武者溜り」がなく、極めて平和な構造になっている。

そんなわけで、松本城は、戦国時代末期に建てられた大天守・渡櫓・乾小天守の三棟と、江戸時代初期に建てられたと考えられているこの月見櫓と辰巳附櫓の、相反する性格の建物が共存している天守群を持つ、我が国で唯一の城なのだ。

現代風にいうと、戦闘基地とカルチャーセンターの両方が併設された建物ということができ、これが松本城の特徴の1つだ。

松本城月見櫓

最後の写真は、松本城東側に位置する太鼓門を出た所、すなわち外枡形から撮影したものだ。

松本城二の丸太鼓門

現在は、写真で見る通り歩道が緩やかに曲線カーブを描くように施されているが、枡形であるから、進入路が直角に折れ曲がるように門を配した構造になっているのを確認できよう。

最後に付け加える点が1つ。

筆者は、観覧開始時間20分前に松本入りし、8時40分台には天守に登城したので、さほど困難や不便は感じなかったが、混雑ピーク時に訪れると、天守に登るだけでもかなりの待ち時間や、観覧時間がかかるかと予想される。

天守最上階への階段は、フロア毎に幅広かったり、狭かったりし(上の階は狭い幅の階段)、狭い階段を昇降兼用で使用しているところでは、筆者の訪れた時間帯でもやや「渋滞」となっていたからだ。

ゆったりと松本城を満喫したいのならば、それなりの早い時間に訪れることをおすすめする。

【国宝松本城 天守観覧時間等】
・観覧時間:午前8時30分から午後5時まで
 ただし、入場できるのは午後4時30分まで
 ※GWおよび夏期は時間延長あり
・定休日:12月29日~31日
 ※1月1日~3日は要問い合わせ

【松本城へのアクセス】
●電車:JR篠ノ井線「松本駅」下車 徒歩約15分
●バス:松本周遊バス「タウンスニーカー」北コース 「松本駅お城口」発→「松本城・市役所前」下車(乗車時間約10分)
●自動車:長野自動車道 松本ICから、国道158号を松本市街地へ向かい約3km(約15分)

【松本城最寄りの駐車場】
・市営松本城大手門駐車場
 松本城まで徒歩約5分
 開場 7:30~22:30
 TEL 0263-33-1010
・市営開智駐車場
 松本城まで徒歩約5分
 開場 8:00~18:00
 TEL 0263-39-6650
・市営開智大型駐車場
 松本城まで徒歩約5分
 開場 8:00~17:00

【松本城管理事務所】
〒390-0873 松本市丸の内4番1号
TEL:0263-32-2902 FAX:0263-32-2904

■国宝 松本城 – 松本城をより楽しむ公式ホームページ
http://www.matsumoto-castle.jp/

※時間は平成30年6月24日現在のもの

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

難攻不落の総構え、後北条氏の居城・小田原古城【連載:アキラの着目】

毎年発表される全国入城者数ランキング(有料のみ)。

今年も前年の分が発表され、その結果、昨年2017年の全国入城者数ランキングにおいて、リニューアル工事が完了した小田原城が8位にランクインした。

順位 城名 2017年/
平成29年度
2016年/
平成28年度
前年比
1 大阪城 2754395 2557394 108%
2 名古屋城 2557394 1919479 133%
3 二条城 2439079 1886239 129%
4 姫路城 1824703 2112189 86%
5 首里城 1814014 1886239 96%
6 松本城 912587 990373 92%
7 彦根城 835958 774720 108%
8 小田原城 738086 775406 95%
9 会津若松城 634314 584094 109%
10 犬山城 573034 543224 106%

小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)

小田原城の入城者数が、全国で8位に躍進したことは確かに凄いのだが、「この小田原城が、後北条氏5代に渡る居城だったのかぁ」と感慨に耽ってはいけない。

よく勘違いされてしまうのだが、現在の小田原城復興天守のある地は、家康の腹心・大久保忠世が築城した地であり、近世城郭の範疇に入る。

小田原城の復興天守
小田原城の復興天守

よって、戦国時代から続く名門・後北条氏5代が居城を構えた地では非ず、なのだ。

後北条氏が居城として構えたのは、復興天守北側で、東海道線や東海道新幹線を跨いだエリアにある八幡山だ。

後北条氏5代の居城・小田原古城のあった八幡山
後北条氏5代の居城・小田原古城のあった八幡山

この八幡山にあった小田原城は中世城郭で、近世城郭の小田原城と区別するために「小田原古城」と呼んだりする。

以下この記事においては、「小田原古城」を小田原城として話を進めていくことにする。

小田原城の最大の見所は、なんと言っても総構えだ。

総構えとは、城はもちろんのこと城下町一帯も含め、その外周を堀や石垣、土塁で囲い込み、守備を手厚くした外郭を指し、惣構(そうがまえ)、総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいうものだ。

小田原城総構えは、総延長距離が9kmに渡り、まさに巨大で難攻不落の城郭構造を持っていたのだ。

■小田原城総構えを歩こう | 【公式】小田原城 難攻不落の城
https://odawaracastle.com/global-image/units/upfiles/304-1-20171016150531_b59e44c2bc1c75.pdf

ただ、こうして言葉で淡々と一方的に説明しても、ピンと来ないかと思うので、写真を混じえながら説明したい。

まずはいきなり小田原城小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)の写真を観てもらおう。

小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)
小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)

外敵の侵入を防いだり、遅らせるために、曲輪や集落の周囲や繋ぎの部分を、人工的に開削して構築した溝を堀切と呼ぶ。

堀切の開削で出てきた土は、その両側に土塁として盛り上げられ、通常の山城における土塁の高さは5mくらいで、敵を阻止するのに十分な高さなのだが、この小田原城小峰の大堀切は、両側の土塁の高さが12mもある。

堀切中央にいる成人男性(≠筆者)と比較すれば、その大きさは一目瞭然かと。

30~40kgの重量はあるといわれる甲冑を身にまとって、この堀切に出くわしたら、12mの土塁をよじ登ろうにも、まず不可能だ。

なぜここまで途方もない規模の堀切を造ったのかというと、豊臣秀吉の大軍を寄せ付けないようにするためだった。

1枚目の写真の堀切をさらに奥に進むと、2枚目の写真の地点になる。

小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)の横矢折れ
小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)の横矢折れ

堀を意図的に曲げて、側面攻撃(横矢)を可能にしているのだ。

こういった折り曲げた堀・土塁の部分を「横矢折れ」と呼ぶ。

やはり両側の土塁の高さは12mほどある。

3枚目の写真は、小田原城北側に遺った総構えの一部で、山ノ神堀切と呼ばれる。

小田原城総構え 山ノ神堀切
小田原城総構え 山ノ神堀切

ここも大規模な土木工事で山を削り、堀切を造り出した。

4枚目の写真は、谷津御鐘台の虎口(こぐち。出入口のこと)。

小田原城総構え 谷津御鐘台の虎口
小田原城総構え 谷津御鐘台の虎口

真っ直ぐな通路でなく、ジグザグな通路にしているのは、敵が一気呵成に真っ直ぐに攻め込んでこないようにするためだ。

因みに写真のような、90度に通路が折れ曲がった構造の虎口は、枡形虎口(ますがたこぐち)という。

5枚目の写真は、小田原城総構えの土塁が、小田急線を敷設するにあたり、寸前で削られてしまった箇所を撮っている。

小田原城総構え 小田急線敷設により切削された土塁
小田原城総構え 小田急線敷設により切削された土塁

6枚目の写真は、小田原城東部に位置する蓮上院土塁と呼ばれる、総構えの一部だ。

小田原城総構え 蓮上院土塁
小田原城総構え 蓮上院土塁

最後の7枚目の写真は、順序がズレるが、八幡山にあるマンション住民が利用する階段だ。

小田原城八幡山古郭 竪堀跡
小田原城八幡山古郭 竪堀跡

実はこの階段は、小田原城八幡山古郭の竪堀跡であり、その竪堀に沿って階段を造ったのだ。

ということで、やや駆け足で説明してきたが、城好きではない人にとっては、なんのこっちゃ、という心境だろう。

要するに、復興天守の小田原城にせっかく行くのならば、すぐ近くの小田原古城にも足を伸ばし、散策することをおすすめしたいということなのだ。

江戸時代以降の近世城郭と、戦国時代の中世城郭の両方を有した城は、全国広しといえども、この小田原城しか存在しないのだから。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

新田金山城(群馬県太田市)~FJ時事新聞おすすめ名城~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞編集部ニッポンニュース担当がご紹介するおすすめ名城は、新田金山城(群馬県太田市)だ。

群馬県太田市のほぼ中央にそびえる標高235.8メートルの独立峰・金山に築かれた山城の新田金山城は、昭和9年に中世の貴重な城郭として群馬県内では初の国史跡の指定を受け、平成18年には公益財団法人日本城郭協会により「日本100名城」に選定された戦国時代の名城だ。

新田金山城 物見台下虎口
新田金山城 物見台下虎口

新田金山城は、1469年(文明元年)新田一族の岩松家純により築城され、以降1528年(享禄元年)に由良成繁・国繁親子、1584年(天正12年)に北条氏と城主が変わり、1590年(天正18年)には豊臣秀吉の小田原征伐により落城、1590(天正18年)に廃城となった。

また、上杉謙信の攻撃を退けており、新田金山城は関東七名城の一つとされている。

主な曲輪群は、四方に延びる尾根上を実城、西城、北城(坂中・北曲輪)、八王子山の砦の4箇所に造成し、堀切・土塁等で固く守ってある。

山麓にも城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋(城下)を形成していたと考えられている。

新田金山城の特徴は何といっても、往時の様子を現在に伝える石垣や石敷きだろう。

かつての「戦国時代における関東の山城には、本格的な石垣普請の城はない」という定説を覆すほど多くの石が発掘調査では出てきており、大手虎口をはじめとした石垣が遺っている。

新田金山城 物見台下堀切
新田金山城 物見台下堀切
新田金山城 大手虎口の石垣
新田金山城 大手虎口の石垣

こうした新田金山城の石垣群が「インスタ映え」するとのことで、最近は城マニア以外の人たちも多く訪れるようになり、群馬県太田市の貴重な観光地・観光資源となっている。

城好きの筆者からすると、天守の有無が、特に観光のモチベーションや興味の度合いに影響を及ぼすことはないのだが、一般の観光客からすると、天守の有無は一つの基準になっていることが多い。

そういう観点からすると、新田金山城は天守のない山城なので、観光を遠慮しがちな要素はあるのだが、以上みたように、天守がなくとも全然問題にならない、石垣が目立つ特異なロケーションなので、ぜひ登城することをおすすめする。

■金山城跡 太田市HP
http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/topics/nyumon.html

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

縄張図マニアは城マニアの一種である【連載:アキラの着目】

一応、筆者は城マニアの末席に名を連ねさせて頂いている身なのだが、その筆者から見て、かなりの年季が入っているなというマニアが「縄張図マニア」だ。

「縄張図マニア」とは、そのままいうと「縄張図」のマニアということなのだが、世間の人達は「?」と思うことかと。

「縄張図」とは、グダグダ説明するよりも、まずは画像を見せた方が話が早いので、以下に掲載する。

武蔵・杉山城縄張図 - 山崎一氏の縄張図から引用
武蔵・杉山城縄張図 - 山崎一氏の縄張図から引用

これが「縄張図」というもので、簡単に言ってしまえば、城郭の見取り図とも言うべきものだ。

城郭にある堀や土塁、通路、虎口(入口)、搦手口(出口、退却口)、曲輪(郭ともいう)を実際に平面上に落とし込んだ地図であり、大抵の城郭にはこの「縄張図」が存在する。

中世の城郭、とりわけ山城を歩く際は、この「縄張図」なくしてはキッチリと隅々まで歩くことができない。

なぜかというと、城が機能していた当時は、整備が行き届いていただろうから視界良好で、城郭の隅々まで把握できただろうが、平成の現在では、藪だらけで地形や堀、曲輪を視認できないくらいにまで荒れ果ててしまっている山城も多いからだ。

今、自分が歩いているのはどこで、何の用途の場所なのかわからなくても、この「縄張図」があれば迷うことなく、山城を把握でき、歩けるのだ。

この城巡りの必須アイテムともいうべき「縄張図」を入手してから城巡りをする城マニアが多い中、この「縄張図」を自分で書きたくて、城巡りをする熱狂的な城マニアも少なからずおり、その人達が「縄張図マニア」と呼ばれているのだ。

ゆえに「縄張図マニア」も城マニアの一種には違いない。

長年の歳月により、土砂が流れ込んで浅くなってしまった空堀であろうが、竹藪だらけの土塁であろうが、根気強い「縄張図マニア」の人達は、着実に城郭データを詳細に記録し、帰宅後そのデータを元に白紙にペンを走らせるのだ。

「縄張図マニア」の城郭に対する情熱は尊敬に値し、ペーペーの城マニアである筆者にはとても真似できない。

世間の人達は、普段目にすることがほとんどない「縄張図」だが、もし何かの際に見かけたら、「縄張図マニア」の存在も思い出してほしい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

伊予松山城(愛媛県松山市)~FJ時事新聞おすすめ名城~【連載:アキラの着目】

今回FJ時事新聞が自信を持っておすすめする名城は「現存12天守」(※)の1つに数えられている伊予松山城だ。

松山城といっても通じるのだが、備中松山城や武蔵松山城と混同しないために、伊予松山城ともいわれており、金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)の別名もある。

日本三大平山城にも数えられ、国指定史跡にもなっている伊予松山城は、関ヶ原の戦いで功績のあった加藤嘉明が、慶長7年(1602年)に築城し、その後、蒲生氏~松平氏へと受け継がれた。

あまり専門的なことを並べても、「ああ、そう」で受け流されてしまうだろうから、とにかく写真を載せよう。

まずは伊予松山城の案内図(≒縄張図)。

伊予松山城案内図(≒縄張図)

筆者は搦手口山道終点付近(写真の「現在地」)の駐車場にレンタカーを駐め、伊予松山城三之丸(堀之内)の松山市民会館方面から入城。

筆者の場合、城巡りの際に決めている自分なりのルールがあって、大手側(正面玄関)から入城し、搦手(退却口・出口・裏口)から退城するようにしている。

その方が、城に攻め込む感覚や、城から退く感覚を味わえるような気がするし、反対廻りでなく正式な廻りだと思うので、このルールを実践している。

この枡形状の石垣は槻門跡。

伊予松山城槻門跡

勢いよく攻め手が飛び込んできても、この枡形で方向転換を余儀なくされ、勢いが弱まる。

大手門跡前の石垣だ。

伊予松山城大手門跡前の石垣

写真左手にいるのは中国からの観光客の男性で、この人と伊予松山城の石垣を見比べることで、建設重機のなかった時代でこれだけのものを築けた凄さがあらためて実感できるかと。

大手門跡を過ぎると、視界が開け、松山市街を眼下におさめることができる。

伊予松山城から望む松山市街

戸無門も撮影スポットで有名。

誰でも簡単にパースペクティブな写真が撮れる。

伊予松山城戸無門

下の写真の門は筒井門で、木目の暖色系色と、石垣のグレーが見事な調和を保ち、戦闘施設なのに柔和な感覚にさせてくれる。

伊予松山城筒井門

そしてついに本丸に突入!

伊予松山城の天守だ。

伊予松山城天守

伊予松山城の天守は分類上「連立式天守」と呼ばれる構造で、大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を3棟の渡櫓(廊下)で連結している。

あいにく筆者が訪れた時は年末に近かったこともあり、大掃除のため天守へ登城できなかった。

↓の写真は伊予松山城天守を真反対から撮影したもの。

打込み接ぎ(うちこみはぎ)と呼ばれる石垣の積み方がなされており、石垣の端の稜線がきれいな湾曲を形作っている。

伊予松山城天守裏手の打込み接ぎ(うちこみはぎ)の石垣

本丸から搦手方面に向かうと、乾一ノ門跡に達する。

乾一ノ門跡を潜り抜けると、見事に横一列に連なる乾門東続櫓の石垣を目にすることができる。

乾一ノ門跡を潜り抜けると現れる、見事に横一列に連なる乾門東続櫓の石垣

最後に乾櫓を見届ける。

伊予松山城乾櫓

この後は搦手口の山道となる。

以上初心者でもわかりやすい写真を選んで紹介したが、もっと細かく観てみたい人は、伊予松山城に登城することをおすすめする。

■伊予松山城
http://www.matsuyamajo.jp/

■松山市ホームページ 松山城
https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/kankomeisho/matsuyamajo/

※現存12天守:江戸時代以前に建造された天守を持つ城が12城現存しており、それら12城を総称し「現存12天守」という。

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責任編集:拡輪 明-HS099

山中城(静岡県三島市)は外国人観光客にも人気!【連載:アキラの着目】

城マニアの評価が高い静岡県三島市・山中城

城マニアの中で評価の高い城が静岡県三島市にある。

それは旧東海道を遮るように構えられた山中城だ。

人気観光地・箱根の西側に位置するのだが、意外と世間には知られていない。

この山中城は、城の分類では「山城」にカテゴライズされ、この山中城を観れば、当時最先端だった後北条氏の築城技術が詳細にわかるため、近年では城マニアの人気スポットになっている。

その後北条氏の最先端築城技術で真っ先に挙げられるのが、はしごを寝かせたようなフォルムの「畝堀」や、まるでベルギー・ワッフルのような格子状のフォルムをした「障子堀」だ。

山中城 畝堀山中城 畝堀
山中城 障子堀山中城 障子堀

敵がこれらの堀に侵入した場合、堀に仕切りが設けられているため、堀の中で横移動ができず、立ち往生している間に弓矢や鉄砲の餌食となる仕掛けだ。

また、堀の窪みに降りずに堀の仕切りを歩いたとしても、攻撃側は仕切り部分を歩く敵を1人ずつ狙い撃ちし、殲滅すればよいので、実に効率的な防御が可能なのだ。

地元の人達や日本人城マニアもびっくり!

こんな城マニアに高評価の山中城だが、近年風変わりな現象が起きている。

それは外国人観光客が山中城を訪れていることだ。

日本人でも城マニア以外で、山中城を理解し、訪れたいと思う人はそう多くはいない。

というのも大抵の日本人は、一般的に城というと、姫路城や松本城のような立派な天守のある城を思い浮かべ、「城=天守」と勘違いしている人が圧倒的に多いので、天守の存在しない山中城を訪れようとはそもそも思わないのだ。

そんな日本人でも理解しがたい山中城に外国人観光客が訪れるのだから、地元の人達や山中城を訪れた日本人の城マニアがびっくりして驚くのは言うまでもないだろう。

もちろん山中城を訪れる外国人観光客は、山中城の魅力を予め知った上で訪れているであろうから、おそらく城マニアだとの推測が成り立つ。

城マニアでなくても存分に楽しめる絶景スポット・山中城

まだまだ一般的な理解を得られにくい「山城」というジャンルに属する山中城ではあるが、現在は公園としてきれいに整備されているので、ロケーション的には富士山を眺望できる絶景スポットとして行くべき価値ある所だ。

山城というとハードルが高いように感じるが、実は城に詳しくない人でも、外国人の人でも存分に楽しめるのだ。

ぜひ箱根に行ったら、その隣に位置する山中城にも足を運んでみよう!
山中城から望む富士山

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