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これぞ「メイドイン尼崎」、プラモ尼崎城シャチホコ(兵庫県尼崎市)【連載:アキラの着目】

プラモ尼崎城シャチホコ1617年(元和3年)に戸田氏鉄(とだ うじかね)が入封し、4重天守を築いたが、1873年(明治6年)の廃城令により、一部を除き取り壊され、廃城となった尼崎城。

しばらくの間、天守がないままの状況が続き、尼崎城本丸跡地には尼崎市立明城小学校が、尼崎城西三ノ丸には尼崎市立中央図書館が建てられた。

そんな状況が一変したのが、2016年(平成28年)12月20日。

尼崎城復興天守建設のための関連工事として、尼崎城西三ノ丸だった尼崎城址公園に仮囲いの設置と建築地の整備が始まった。

そして今年2019年3月、尼崎市民待望の尼崎城復興天守が尼崎城西三ノ丸だった尼崎城址公園にオープン!

尼崎城復興天守
尼崎城復興天守

すると、なんとしても市民のシンボル・尼崎城をPRしたく、天守に飾られる鯱(しゃちほこ)のプラモデルを製作しようと立ち上がった。

発案者は、地域環境計画研究所(尼崎市)の役員である綱本武雄さん。

プラモデル好きの市民や町工場の従業員らと団体「プラモ尼崎城」を結成し、「メイドイン尼崎」のプラモ開発に乗り出した。

樹脂やプラスチック加工を行う市内の町工場5事業者が協力、技術を結集し、尼崎城全体の製作を目指すも、資金面からやむなく断念。

そこで、目標を小さな鯱に変更し、インターネットのクラウドファンディングで「プラモ尼崎城シャチホコ」の開発資金約110万円を調達した。

正確な図面が残されておらず、写真等から形状を推測しながらの作業。

プラモデルの金型作製や成形等では町工場各自の得意分野が生かされ、鱗や尾の曲がり具合等の細部まで再現しただけでなく、子供が組み立てやすいようにと、接着剤不要のはめ込み式にし、部品の点数も可能な限り減らした。

こうして出来上がったプラモ尼崎城シャチホコは実物の24分の1サイズで高さ約5.5センチ。

プラモ尼崎城シャチホコ
プラモ尼崎城シャチホコ

前述した通り、金型製作や量産等全工程を尼崎市内で手掛けた、まさに「メイドイン尼崎」の逸品だ。

プラモ尼崎城シャチホコは全4色。

グレーのみ800円で、赤、黄、青はそれぞれ1,000円(全て税別)。

尼崎城はもちろんのこと、阪神尼崎駅前の「あまがさき観光案内所」でもプラモ尼崎城シャチホコは販売されている。

9月下旬以降は、全国の模型専門店でも発売される予定とのことだ。

■プラモ尼崎城 | Facebook
https://ja-jp.facebook.com/injectionmodel/

■プラモ尼崎城 Twitter @plamo_amagasaki
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■プラモ尼崎城|シャチホコプラモ|尼崎城|プラモデル|尼崎市|阪神尼崎|日本
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FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

難攻不落の総構え、後北条氏の居城・小田原古城【連載:アキラの着目】

毎年発表される全国入城者数ランキング(有料のみ)。

今年も前年の分が発表され、その結果、昨年2017年の全国入城者数ランキングにおいて、リニューアル工事が完了した小田原城が8位にランクインした。

順位 城名 2017年/
平成29年度
2016年/
平成28年度
前年比
1 大阪城 2754395 2557394 108%
2 名古屋城 2557394 1919479 133%
3 二条城 2439079 1886239 129%
4 姫路城 1824703 2112189 86%
5 首里城 1814014 1886239 96%
6 松本城 912587 990373 92%
7 彦根城 835958 774720 108%
8 小田原城 738086 775406 95%
9 会津若松城 634314 584094 109%
10 犬山城 573034 543224 106%

小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)

小田原城の入城者数が、全国で8位に躍進したことは確かに凄いのだが、「この小田原城が、後北条氏5代に渡る居城だったのかぁ」と感慨に耽ってはいけない。

よく勘違いされてしまうのだが、現在の小田原城復興天守のある地は、家康の腹心・大久保忠世が築城した地であり、近世城郭の範疇に入る。

小田原城の復興天守
小田原城の復興天守

よって、戦国時代から続く名門・後北条氏5代が居城を構えた地では非ず、なのだ。

後北条氏が居城として構えたのは、復興天守北側で、東海道線や東海道新幹線を跨いだエリアにある八幡山だ。

後北条氏5代の居城・小田原古城のあった八幡山
後北条氏5代の居城・小田原古城のあった八幡山

この八幡山にあった小田原城は中世城郭で、近世城郭の小田原城と区別するために「小田原古城」と呼んだりする。

以下この記事においては、「小田原古城」を小田原城として話を進めていくことにする。

小田原城の最大の見所は、なんと言っても総構えだ。

総構えとは、城はもちろんのこと城下町一帯も含め、その外周を堀や石垣、土塁で囲い込み、守備を手厚くした外郭を指し、惣構(そうがまえ)、総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいうものだ。

小田原城総構えは、総延長距離が9kmに渡り、まさに巨大で難攻不落の城郭構造を持っていたのだ。

■小田原城総構えを歩こう | 【公式】小田原城 難攻不落の城
https://odawaracastle.com/global-image/units/upfiles/304-1-20171016150531_b59e44c2bc1c75.pdf

ただ、こうして言葉で淡々と一方的に説明しても、ピンと来ないかと思うので、写真を混じえながら説明したい。

まずはいきなり小田原城小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)の写真を観てもらおう。

小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)
小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)

外敵の侵入を防いだり、遅らせるために、曲輪や集落の周囲や繋ぎの部分を、人工的に開削して構築した溝を堀切と呼ぶ。

堀切の開削で出てきた土は、その両側に土塁として盛り上げられ、通常の山城における土塁の高さは5mくらいで、敵を阻止するのに十分な高さなのだが、この小田原城小峰の大堀切は、両側の土塁の高さが12mもある。

堀切中央にいる成人男性(≠筆者)と比較すれば、その大きさは一目瞭然かと。

30~40kgの重量はあるといわれる甲冑を身にまとって、この堀切に出くわしたら、12mの土塁をよじ登ろうにも、まず不可能だ。

なぜここまで途方もない規模の堀切を造ったのかというと、豊臣秀吉の大軍を寄せ付けないようにするためだった。

1枚目の写真の堀切をさらに奥に進むと、2枚目の写真の地点になる。

小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)の横矢折れ
小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)の横矢折れ

堀を意図的に曲げて、側面攻撃(横矢)を可能にしているのだ。

こういった折り曲げた堀・土塁の部分を「横矢折れ」と呼ぶ。

やはり両側の土塁の高さは12mほどある。

3枚目の写真は、小田原城北側に遺った総構えの一部で、山ノ神堀切と呼ばれる。

小田原城総構え 山ノ神堀切
小田原城総構え 山ノ神堀切

ここも大規模な土木工事で山を削り、堀切を造り出した。

4枚目の写真は、谷津御鐘台の虎口(こぐち。出入口のこと)。

小田原城総構え 谷津御鐘台の虎口
小田原城総構え 谷津御鐘台の虎口

真っ直ぐな通路でなく、ジグザグな通路にしているのは、敵が一気呵成に真っ直ぐに攻め込んでこないようにするためだ。

因みに写真のような、90度に通路が折れ曲がった構造の虎口は、枡形虎口(ますがたこぐち)という。

5枚目の写真は、小田原城総構えの土塁が、小田急線を敷設するにあたり、寸前で削られてしまった箇所を撮っている。

小田原城総構え 小田急線敷設により切削された土塁
小田原城総構え 小田急線敷設により切削された土塁

6枚目の写真は、小田原城東部に位置する蓮上院土塁と呼ばれる、総構えの一部だ。

小田原城総構え 蓮上院土塁
小田原城総構え 蓮上院土塁

最後の7枚目の写真は、順序がズレるが、八幡山にあるマンション住民が利用する階段だ。

小田原城八幡山古郭 竪堀跡
小田原城八幡山古郭 竪堀跡

実はこの階段は、小田原城八幡山古郭の竪堀跡であり、その竪堀に沿って階段を造ったのだ。

ということで、やや駆け足で説明してきたが、城好きではない人にとっては、なんのこっちゃ、という心境だろう。

要するに、復興天守の小田原城にせっかく行くのならば、すぐ近くの小田原古城にも足を伸ばし、散策することをおすすめしたいということなのだ。

江戸時代以降の近世城郭と、戦国時代の中世城郭の両方を有した城は、全国広しといえども、この小田原城しか存在しないのだから。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099