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難攻不落の総構え、後北条氏の居城・小田原古城【連載:アキラの着目】

毎年発表される全国入城者数ランキング(有料のみ)。

今年も前年の分が発表され、その結果、昨年2017年の全国入城者数ランキングにおいて、リニューアル工事が完了した小田原城が8位にランクインした。

順位 城名 2017年/
平成29年度
2016年/
平成28年度
前年比
1 大阪城 2754395 2557394 108%
2 名古屋城 2557394 1919479 133%
3 二条城 2439079 1886239 129%
4 姫路城 1824703 2112189 86%
5 首里城 1814014 1886239 96%
6 松本城 912587 990373 92%
7 彦根城 835958 774720 108%
8 小田原城 738086 775406 95%
9 会津若松城 634314 584094 109%
10 犬山城 573034 543224 106%

小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)

小田原城の入城者数が、全国で8位に躍進したことは確かに凄いのだが、「この小田原城が、後北条氏5代に渡る居城だったのかぁ」と感慨に耽ってはいけない。

よく勘違いされてしまうのだが、現在の小田原城復興天守のある地は、家康の腹心・大久保忠世が築城した地であり、近世城郭の範疇に入る。

小田原城の復興天守
小田原城の復興天守

よって、戦国時代から続く名門・後北条氏5代が居城を構えた地では非ず、なのだ。

後北条氏が居城として構えたのは、復興天守北側で、東海道線や東海道新幹線を跨いだエリアにある八幡山だ。

後北条氏5代の居城・小田原古城のあった八幡山
後北条氏5代の居城・小田原古城のあった八幡山

この八幡山にあった小田原城は中世城郭で、近世城郭の小田原城と区別するために「小田原古城」と呼んだりする。

以下この記事においては、「小田原古城」を小田原城として話を進めていくことにする。

小田原城の最大の見所は、なんと言っても総構えだ。

総構えとは、城はもちろんのこと城下町一帯も含め、その外周を堀や石垣、土塁で囲い込み、守備を手厚くした外郭を指し、惣構(そうがまえ)、総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいうものだ。

小田原城総構えは、総延長距離が9kmに渡り、まさに巨大で難攻不落の城郭構造を持っていたのだ。

■小田原城総構えを歩こう | 【公式】小田原城 難攻不落の城
https://odawaracastle.com/global-image/units/upfiles/304-1-20171016150531_b59e44c2bc1c75.pdf

ただ、こうして言葉で淡々と一方的に説明しても、ピンと来ないかと思うので、写真を混じえながら説明したい。

まずはいきなり小田原城小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)の写真を観てもらおう。

小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)
小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)

外敵の侵入を防いだり、遅らせるために、曲輪や集落の周囲や繋ぎの部分を、人工的に開削して構築した溝を堀切と呼ぶ。

堀切の開削で出てきた土は、その両側に土塁として盛り上げられ、通常の山城における土塁の高さは5mくらいで、敵を阻止するのに十分な高さなのだが、この小田原城小峰の大堀切は、両側の土塁の高さが12mもある。

堀切中央にいる成人男性(≠筆者)と比較すれば、その大きさは一目瞭然かと。

30~40kgの重量はあるといわれる甲冑を身にまとって、この堀切に出くわしたら、12mの土塁をよじ登ろうにも、まず不可能だ。

なぜここまで途方もない規模の堀切を造ったのかというと、豊臣秀吉の大軍を寄せ付けないようにするためだった。

1枚目の写真の堀切をさらに奥に進むと、2枚目の写真の地点になる。

小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)の横矢折れ
小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)の横矢折れ

堀を意図的に曲げて、側面攻撃(横矢)を可能にしているのだ。

こういった折り曲げた堀・土塁の部分を「横矢折れ」と呼ぶ。

やはり両側の土塁の高さは12mほどある。

3枚目の写真は、小田原城北側に遺った総構えの一部で、山ノ神堀切と呼ばれる。

小田原城総構え 山ノ神堀切
小田原城総構え 山ノ神堀切

ここも大規模な土木工事で山を削り、堀切を造り出した。

4枚目の写真は、谷津御鐘台の虎口(こぐち。出入口のこと)。

小田原城総構え 谷津御鐘台の虎口
小田原城総構え 谷津御鐘台の虎口

真っ直ぐな通路でなく、ジグザグな通路にしているのは、敵が一気呵成に真っ直ぐに攻め込んでこないようにするためだ。

因みに写真のような、90度に通路が折れ曲がった構造の虎口は、枡形虎口(ますがたこぐち)という。

5枚目の写真は、小田原城総構えの土塁が、小田急線を敷設するにあたり、寸前で削られてしまった箇所を撮っている。

小田原城総構え 小田急線敷設により切削された土塁
小田原城総構え 小田急線敷設により切削された土塁

6枚目の写真は、小田原城東部に位置する蓮上院土塁と呼ばれる、総構えの一部だ。

小田原城総構え 蓮上院土塁
小田原城総構え 蓮上院土塁

最後の7枚目の写真は、順序がズレるが、八幡山にあるマンション住民が利用する階段だ。

小田原城八幡山古郭 竪堀跡
小田原城八幡山古郭 竪堀跡

実はこの階段は、小田原城八幡山古郭の竪堀跡であり、その竪堀に沿って階段を造ったのだ。

ということで、やや駆け足で説明してきたが、城好きではない人にとっては、なんのこっちゃ、という心境だろう。

要するに、復興天守の小田原城にせっかく行くのならば、すぐ近くの小田原古城にも足を伸ばし、散策することをおすすめしたいということなのだ。

江戸時代以降の近世城郭と、戦国時代の中世城郭の両方を有した城は、全国広しといえども、この小田原城しか存在しないのだから。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

国宝・犬山城(愛知県犬山市)望楼型天守から望む木曽川は圧巻!【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞編集部ニッポンニュース担当は、地方の桜も見るべく、今回は国宝に指定された犬山城に繰り出した。

国宝・犬山城天守

まずは、犬山城の簡単な歴史から。

犬山城は、天文6年(1537)、織田信長の叔父、織田信康によって木之下城より城郭を移して築城されたと言われ、木曽川沿いの小高い山に築かれた「後堅固(うしろけんご)の城」だ。

その後、城主は度々変わり、元和3年(1617)に尾張徳川家重臣・成瀬正成(なるせまさなり)が拝領。

この時に現在我々が目にしている近世城郭としての天守ができたと言われており、以後、成瀬家が幕末まで城主を務めた。

その成瀬家末裔が犬山城を引き続き所有、全国唯一の個人所有の城として保存されてきたが、平成16年(2004)、「財団法人犬山城白帝文庫」の所有となり、現在に至る。

筆者は自動車で行くも、11:20の時点で犬山城に最も近い大きな駐車場は満車状態、そのまま仕方なく前の車の後に自然な流れでついて行ったら、犬山城からかなり離れた犬山市役所の駐車場へと吸い込まれた。

犬山市役所から歩くこと約20分で犬山の城下町に。

情緒ある木造建物を目にしながら、通り奥にある犬山城を目指す。

犬山城下にある木造建築木造建築が連なる犬山城下の通り

近道となる、突き当りの神社境内を抜けると、チケット売り場となり、その先が桝形虎口だ。

犬山城桝形虎口

真っすぐに敵を勢いよく侵入させないよう、右に90度折れ曲がる構造になっている。

暖かい春の日差しを浴びた桝形虎口は、ちょうど満開の桜とともに筆者を歓迎しているかのようで、リッチな心持ちになれる。

すかさず右に曲がると、遭遇するのが本丸へと通ずる鉄門(復元)だ。

犬山城桝形虎口鉄門

ここを潜れば、国宝・犬山城だ。

天守に登る列に並びながら、桜とコラボした犬山城天守をしっかり堪能。

国宝・犬山城天守

天守に上がっていくと、やはり最近多いコンクリートで再建された「なんちゃって城」とは異なり、正真正銘の江戸時代の木組みを観ることができる。

国宝・犬山城天守内部の木組み

年季の入った、飴色の木が、古(いにしえ)の情景に思いを馳せる手助けになっているのは言うまでもない。

天守最上階(四階)に登り、回り縁から望む絶景には息を呑んでしまう。

国宝・犬山城天守から望む木曽川

特に天守から望む木曽川は圧巻で、昔はこの川を利用した舟運が盛んで、この城下は繁栄していたのだろうな、と。

ただし、高欄が低く、大人の腰くらいまでの高さで、高欄外側には防御ネットもなく、リアルに転落リスクを感じるので(苦笑)、高所恐怖症の人はあらかじめ覚悟して登るか、登城を断念するか、決めておいた方が良さそうだ。

桜が散るまでには、まだ1週間くらいの猶予はあるかと思われるので、桜と絶景を堪能したい人には、超おすすめしたい犬山城だ。

【国宝・犬山城】

●所在地:犬山市犬山北古券65-2
●アクセス:[自動車]小牧IC・小牧北ICから25分、[電車]名鉄「犬山遊園駅」西口より徒歩約15分
●営業時間:9:00~17:00(入場は16:30まで)
●入場登閣料:大人550円、小・中学生110円
●駐車場台数:周辺に約200台
●ホームページ:http://inuyama-castle.jp/

※情報は、2018年3月28日現在のもの

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099