「中世城郭」タグアーカイブ

江戸城以外に東京のど真ん中にあった城、星ヶ丘城【連載:アキラの着目】

大都市・東京は城下町。

しかし、東京が城下町であることを、日常生活の中ではすっかり頭の中から欠落してしまっている人が結構多い。

それはたぶん、江戸城が皇族居住地であるため、我々庶民が気安く立ち入ることができない神聖なエリアになってしまっているからだろう。

江戸城が、東京が城下町であることの証明となる城郭にもかかわらず、意識外なのだから、それ以外の東京中心部に存在していた城郭なら、なおさら知られていないのは言うまでもない。

実は、東京中心部にはこの江戸城以外にも城郭が複数存在していたのだ。

今回はその中の1つ、星ヶ丘城(星ヶ岡城とも)にスポットを当てる。

星ヶ丘城は、ちょうど赤坂山王神社付近に存在していた戦国時代の中世城郭だ。

築城主は扇谷上杉氏と推測されているが定かでない。

現在キャピトル東急のあるエリアが主郭、日枝神社のあるエリアが二の郭、都立日比谷高校のあるエリアが三の郭と伝えられているが、前述のキャピトル東急や日比谷高校があるので、主郭と三の郭は面影が一切残っていない。

日枝神社境内に土塁が残るくらいだ。

なお、日枝神社と日比谷高校の間を分ける道は、かつての二の郭と三の郭を分ける堀切の名残だ。

星ヶ丘城の堀切跡 左側:日枝神社 右側:都立日比谷高校
星ヶ丘城の堀切跡
左側:日枝神社
右側:都立日比谷高校

太田道灌が南西の抑えとして使用されていた星ヶ丘城だが、徳川家康が江戸城を改築した際に星ヶ丘城は廃城となり、江戸城に組み込まれてしまった。

今でこそ、この赤坂山王の地は大都会・東京のど真ん中に位置する赤坂エリアなのだが、戦国時代は雑木林と湿地が広がったエリアだった。

それだけに、今昔の違いを感じずにはいられない。

 

 

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

としまえん閉鎖後跡地はハリポタよりも練馬城址公園にすべき【連載:アキラの着目】

としまえん東京都内の遊園地で90年以上の歴史を持つ「としまえん」(東京都練馬区)が段階的に閉園することになりそうだ。

「としまえん」跡地に東京都の公園や、小説や映画が世界的に人気の「ハリー・ポッター」のテーマパークを造る交渉が進められているとのことで、早ければ今春までに成立する可能性もあるとのこと。

大正15年に「練馬城址 豊島園」として開園した「としまえん」は、22ヘクタールの敷地にアトラクションやプール、スケートリンク等を備えた首都圏有数の大規模遊園地。

昭和30年代には屋内スキー場、昭和40年代には「流れるプール」が、それぞれ世界初の施設として造られ、大盛況だった。

しかし、国内の遊園地は二極化しており、テーマパーク系遊園地は人気を獲得しているものの、旧来の遊園地は相次いで閉園を余儀なくされており、一時代を築いた「としまえん」もその余波を受けた形だ。

元々「としまえん」は前述の通り、練馬城址で中世の城跡だった。

14世紀末頃にこの地に勢力をふるった豊島氏が石神井城(現・石神井公園)の支城として練馬城を築いたと考えられており、江戸城を築いた太田道灌が練馬城を攻撃した歴史もある。

練馬城の遺構は、「練馬城址 豊島園」を開園するにあたって完全に破壊された。

「としまえん」内のウォータースライダー・ハイドロポリス(1989年建設)が建設された場所が練馬城の主郭跡で、現在は見る影もなく、少し高台になっているのが当時の名残りとしてうかがえる程度だ。

1896-1909練馬城址
1896-1909練馬城址
現在の練馬城址(としまえん)
現在の練馬城址(としまえん)

こうした歴史ある場所の「としまえん」なのだから、「ハリー・ポッター」のテーマパークよりも、練馬城址公園として整備し、堀や土塁等を復元し、往時の城を再現する方が文化的で、地元住民にも愛着感が芽生えるのではないかと筆者は考える。

としまえんの閉園はさびしい限りだが、それをむしろ好転と捉え、練馬城復活に転じるべきだ。

■としまえん
http://www.toshimaen.co.jp/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

中世城郭・世田谷城のあった招き猫発祥の地・豪徳寺(東京都世田谷区)【連載:アキラの着目】

豪徳寺招福殿脇にある大小様々で数え切れぬほどの招き猫たち今回のニッポンニュースで取り上げるのは、知る人ぞ知る東京都世田谷区にある豪徳寺。

台東区・浅草今戸神社、新宿区落合南長崎・自性院と並び、「招き猫発祥の地」としても有名な寺だ。

1633年に現在のこの地・世田谷領が彦根藩の管轄となり、彦根藩2代当主・井伊直孝が井伊家の菩提寺としてこの寺の伽藍等を整備した。

豪徳寺という名の由来は、その井伊直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英居士」の「豪徳」から拝借したとのこと。

江戸藩邸で暮らしていた井伊直孝がある日、鷹狩りの帰路、この付近を通りがかった際に、自分を招いているような1匹の猫を見かける。

井伊直孝がその猫の招きで門内に入るや否や、急な激しい雷雨となった。

この猫のおかげで、雷雨を回避でき、そのうえ和尚さんのありがたい法話も聴くこともでき、井伊直孝は大変喜んだとのこと。

その逸話が「招き猫発祥の地」として今日まで言い伝えられているのだ。

そんな微笑ましい逸話のある「招き猫発祥の地」豪徳寺だが、元々この地は、世田谷に本拠を置き、代々居を構えた奥州吉良氏によって築かれた世田谷城があった。

世田谷城の縄張り(敷地の範囲)は現在の豪徳寺と世田谷城址公園を含む辺りと推測され、世田谷城の空堀及び土塁の幾つかは現存している。

世田谷城の城郭構造(推定)
世田谷城の城郭構造(推定)

では早速、豪徳寺・世田谷城を散策してみよう。

豪徳寺の参道に入ってゆくと、向かって右側(参道東側)に世田谷城の土塁を観ることができる。

豪徳寺参道右側(参道東側)に現存する世田谷城の土塁
豪徳寺参道右側(参道東側)に現存する世田谷城の土塁

コンクリート塀からちょっと頭をのぞかせているので、誰でも視認できよう。

突き当たると右斜めに道が曲がるので、そこで振り返ると、世田谷城の城郭構造(推定)における「郭A(築城当時は「二の郭」もしくは「奥御所」とも)」を望める。

世田谷城「郭A(築城当時は「二の郭」もしくは「奥御所」)
世田谷城「郭A(築城当時は「二の郭」もしくは「奥御所」)

何もわからない人が見ると、ただの空き地にしか見えないが、所々に土塁を散見できる。

豪徳寺境内に足を踏み入れると、そこは世田谷城の「前郭」であったところで、進行方向左側に三重塔が姿を現す。

豪徳寺境内(世田谷城「前郭」)にある三重塔
豪徳寺境内(世田谷城「前郭」)にある三重塔

三重塔を越えた辺りに左側に行ける小径が現れるので、そこを歩くと招福殿や、その脇にある大小様々で数え切れぬほどの招き猫たちを観ることができる。
豪徳寺招福殿脇にある大小様々で数え切れぬほどの招き猫たち豪徳寺招福殿脇にある大小様々で数え切れぬほどの招き猫たち豪徳寺招福殿脇にある大小様々で数え切れぬほどの招き猫たち豪徳寺招福殿脇にある大小様々で数え切れぬほどの招き猫たち

豪徳寺招福殿脇にある大小様々で数え切れぬほどの招き猫たち
豪徳寺招福殿脇にある大小様々で数え切れぬほどの招き猫たち

豪徳寺境内の開けた場所には仏殿や社務所があり、ここでも招き猫が歓迎していた。

豪徳寺仏殿
豪徳寺仏殿
豪徳寺社務所
豪徳寺社務所前にある招き猫
豪徳寺社務所前にある招き猫

筆者の訪れた時間が夕方で閉館間際だったこともあって、社務所はすでに閉まっており、招き猫を購入できなかった。

あらためて次回にチャレンジして、招き猫をゲットしたい。

参拝も終え、豪徳寺境内を離れ、隣接する世田谷城址公園へ。

かなり整備され、当時の面影がないのではと期待していなかったが、実際に行ってみたら、郭や土塁、空堀が残っており、東京23区内にまだこれだけの城郭が残っていることに嬉しさを感じた。

世田谷城「郭F(南郭)」 現・世田谷城址公園
世田谷城「郭F(南郭)」
現・世田谷城址公園
世田谷城の空堀  現・世田谷城址公園世田谷城の空堀  現・世田谷城址公園
世田谷城の空堀  現・世田谷城址公園
世田谷城の空堀
現・世田谷城址公園

特に「郭F(南郭)」と空堀の高低差は想像以上にあり、中世城郭マニアにとっては十分なご馳走となろう。
世田谷城「郭F(南郭)」と空堀の高低差

世田谷城「郭F(南郭)」と空堀の高低差 現・世田谷城址公園
世田谷城「郭F(南郭)」と空堀の高低差
現・世田谷城址公園

世田谷区の閑静な住宅街にある一寺院に過ぎない豪徳寺なのだが、「招き猫発祥の地」という惹きが強いのか、海外からの訪問・参拝客もそこそこいたのには驚き。

やはり招き猫は日本のみならず世界で人気となりうる存在であることを認識した次第だ。

付け加えるとしたら、招き猫だけでなく、中世城郭・世田谷城の土塁・郭・空堀も併せて観ることを推奨したい。

【大谿山(だいけいざん)豪徳寺 詳細】

・所在地:〒154-0021 東京都世田谷区豪徳寺2-24-7
・アクセス:小田急線「豪徳寺」駅徒歩10分、東急世田谷線「宮の坂」駅徒歩5分
・宗派:曹洞宗
・文化財:彦根藩井伊家墓所(国の史跡)、井伊直弼墓(東京都指定史跡)、他多数
・お問合せ:03-3426-1437

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

難攻不落の総構え、後北条氏の居城・小田原古城【連載:アキラの着目】

毎年発表される全国入城者数ランキング(有料のみ)。

今年も前年の分が発表され、その結果、昨年2017年の全国入城者数ランキングにおいて、リニューアル工事が完了した小田原城が8位にランクインした。

順位 城名 2017年/
平成29年度
2016年/
平成28年度
前年比
1 大阪城 2754395 2557394 108%
2 名古屋城 2557394 1919479 133%
3 二条城 2439079 1886239 129%
4 姫路城 1824703 2112189 86%
5 首里城 1814014 1886239 96%
6 松本城 912587 990373 92%
7 彦根城 835958 774720 108%
8 小田原城 738086 775406 95%
9 会津若松城 634314 584094 109%
10 犬山城 573034 543224 106%

小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)

小田原城の入城者数が、全国で8位に躍進したことは確かに凄いのだが、「この小田原城が、後北条氏5代に渡る居城だったのかぁ」と感慨に耽ってはいけない。

よく勘違いされてしまうのだが、現在の小田原城復興天守のある地は、家康の腹心・大久保忠世が築城した地であり、近世城郭の範疇に入る。

小田原城の復興天守
小田原城の復興天守

よって、戦国時代から続く名門・後北条氏5代が居城を構えた地では非ず、なのだ。

後北条氏が居城として構えたのは、復興天守北側で、東海道線や東海道新幹線を跨いだエリアにある八幡山だ。

後北条氏5代の居城・小田原古城のあった八幡山
後北条氏5代の居城・小田原古城のあった八幡山

この八幡山にあった小田原城は中世城郭で、近世城郭の小田原城と区別するために「小田原古城」と呼んだりする。

以下この記事においては、「小田原古城」を小田原城として話を進めていくことにする。

小田原城の最大の見所は、なんと言っても総構えだ。

総構えとは、城はもちろんのこと城下町一帯も含め、その外周を堀や石垣、土塁で囲い込み、守備を手厚くした外郭を指し、惣構(そうがまえ)、総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいうものだ。

小田原城総構えは、総延長距離が9kmに渡り、まさに巨大で難攻不落の城郭構造を持っていたのだ。

■小田原城総構えを歩こう | 【公式】小田原城 難攻不落の城
https://odawaracastle.com/global-image/units/upfiles/304-1-20171016150531_b59e44c2bc1c75.pdf

ただ、こうして言葉で淡々と一方的に説明しても、ピンと来ないかと思うので、写真を混じえながら説明したい。

まずはいきなり小田原城小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)の写真を観てもらおう。

小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)
小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)

外敵の侵入を防いだり、遅らせるために、曲輪や集落の周囲や繋ぎの部分を、人工的に開削して構築した溝を堀切と呼ぶ。

堀切の開削で出てきた土は、その両側に土塁として盛り上げられ、通常の山城における土塁の高さは5mくらいで、敵を阻止するのに十分な高さなのだが、この小田原城小峰の大堀切は、両側の土塁の高さが12mもある。

堀切中央にいる成人男性(≠筆者)と比較すれば、その大きさは一目瞭然かと。

30~40kgの重量はあるといわれる甲冑を身にまとって、この堀切に出くわしたら、12mの土塁をよじ登ろうにも、まず不可能だ。

なぜここまで途方もない規模の堀切を造ったのかというと、豊臣秀吉の大軍を寄せ付けないようにするためだった。

1枚目の写真の堀切をさらに奥に進むと、2枚目の写真の地点になる。

小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)の横矢折れ
小田原城総構え 小峰の大堀切(こみねのおおほりきり)の横矢折れ

堀を意図的に曲げて、側面攻撃(横矢)を可能にしているのだ。

こういった折り曲げた堀・土塁の部分を「横矢折れ」と呼ぶ。

やはり両側の土塁の高さは12mほどある。

3枚目の写真は、小田原城北側に遺った総構えの一部で、山ノ神堀切と呼ばれる。

小田原城総構え 山ノ神堀切
小田原城総構え 山ノ神堀切

ここも大規模な土木工事で山を削り、堀切を造り出した。

4枚目の写真は、谷津御鐘台の虎口(こぐち。出入口のこと)。

小田原城総構え 谷津御鐘台の虎口
小田原城総構え 谷津御鐘台の虎口

真っ直ぐな通路でなく、ジグザグな通路にしているのは、敵が一気呵成に真っ直ぐに攻め込んでこないようにするためだ。

因みに写真のような、90度に通路が折れ曲がった構造の虎口は、枡形虎口(ますがたこぐち)という。

5枚目の写真は、小田原城総構えの土塁が、小田急線を敷設するにあたり、寸前で削られてしまった箇所を撮っている。

小田原城総構え 小田急線敷設により切削された土塁
小田原城総構え 小田急線敷設により切削された土塁

6枚目の写真は、小田原城東部に位置する蓮上院土塁と呼ばれる、総構えの一部だ。

小田原城総構え 蓮上院土塁
小田原城総構え 蓮上院土塁

最後の7枚目の写真は、順序がズレるが、八幡山にあるマンション住民が利用する階段だ。

小田原城八幡山古郭 竪堀跡
小田原城八幡山古郭 竪堀跡

実はこの階段は、小田原城八幡山古郭の竪堀跡であり、その竪堀に沿って階段を造ったのだ。

ということで、やや駆け足で説明してきたが、城好きではない人にとっては、なんのこっちゃ、という心境だろう。

要するに、復興天守の小田原城にせっかく行くのならば、すぐ近くの小田原古城にも足を伸ばし、散策することをおすすめしたいということなのだ。

江戸時代以降の近世城郭と、戦国時代の中世城郭の両方を有した城は、全国広しといえども、この小田原城しか存在しないのだから。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

逆井城(茨城県坂東市)~FJ時事新聞おすすめ名城~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞が自信を持っておすすめする名城をご紹介!

前もって言っておくが、城といってもFJ時事新聞がおすすめする城は、天守がない城も今後紹介してゆくので、「あれ、建物(天守)がないんだけど、これもお城なの?」とくれぐれも思わないように(微笑)。

さてこれから紹介する名城は、茨城県坂東市にある逆井城だ。

小山義政の五男・常宗が逆井氏を名乗り、享徳年間頃に逆井城を築城したといわれ、後北条氏方の大道寺盛昌の攻撃により逆井城は落城、逆井氏は滅亡した。

その後、天正18年(1590年)小田原征伐による後北条氏滅亡に伴って逆井城は廃城となった。

逆井氏の城を逆井古城、後北条時代の城を飯沼城と分類し、別々の呼称にすることもある。

現在、逆井城址は櫓・土塀・櫓門・木橋などが整備・復元され、逆井城跡公園として生まれ変わり、東2曲輪はゲートボール場としても使われている。

なぜここまで逆井城が脚光を浴びているのかというと、姫路城のような立派な天守や、連立した櫓群がある近世城郭ではなく、中世城郭の姿を可能な限り忠実に再現している城だからだ。

では実際に逆井城をご案内しよう。

1.逆井城物見櫓(木造復元)

逆井城物見櫓(木造復元)

逆井城といえば、天守代わりに必ず撮影されるのがこの物見櫓だ。

木造復元でも、当時の中世城郭を偲ぶのには適しているので、侮ってはいけない。

南側駐車場から来城した場合、すぐに目につくので、迷うことはないし、撮影し忘れることもなく、その点でも重宝している建物だ。

2.井楼矢倉(木造復元)

井楼矢倉(木造復元)

物見櫓の橋を渡り、西2曲輪に入ると、左手に高く聳え立つのが、井楼矢倉だ。

この矢倉も当時を偲ぶことができるくらい忠実に再現されている。

井楼矢倉(木造復元)の階段

井楼矢倉の階段は、陽の射し具合によっては、写真のようなチェッカーフラッグを彷彿とさせる黒と白の模様を見ることができる。

3.西2曲輪にある庭園

庭園(西2曲輪内)

井楼矢倉と同じ西2曲輪には、庭園もある。

主殿の前に陣取った庭園は、物見櫓を背景にしたがえ、不規則に並んだかのような石が配されている。

4.主郭(左側)と西2曲輪(右側)の間にある空堀

主郭(左側)と西2曲輪(右側)の間にある空堀

主郭廻りの空堀ということで、土塁と堀にはそれなりの高低差がある。

この空堀の中に鐘堀池があるため、現在はその鐘堀池にはまらぬように、木の柵が池の外周を取り囲むように立っている。

雨天時や雨上がりだと、空堀斜面がぬかるみ、昇降はかなり難しいと思われる。

5.東2曲輪(左側)と主郭二階門(右側)の間にある空堀とそれらを結ぶ橋

東2曲輪(左側)と主郭二階門(右側)の間にある空堀とそれらを結ぶ橋

この空堀も主郭を取り囲み敵を寄せ付けないという重要な任務を課せられているため、容易に踏み込ませないよう、かなり深い空堀が設けられている。

木橋なのは、いよいよ敵の侵入を阻止できないというやむを得ない状況の時は燃やし、木橋を落とせるようにするためだ。

逆井城のまとめ

以上逆井城を見てきたが、綺麗に整備された公園に矢倉や門、橋があるというような印象だ。

なので、自然を満喫しつつ、中世城郭とはこういうものなのか、と頭の中にインプットできるので、かなり”お得な公園”として一般の人でも楽しめること間違いない。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099