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中世城郭・世田谷城のあった招き猫発祥の地・豪徳寺(東京都世田谷区)【連載:アキラの着目】

豪徳寺招福殿脇にある大小様々で数え切れぬほどの招き猫たち今回のニッポンニュースで取り上げるのは、知る人ぞ知る東京都世田谷区にある豪徳寺。

台東区・浅草今戸神社、新宿区落合南長崎・自性院と並び、「招き猫発祥の地」としても有名な寺だ。

1633年に現在のこの地・世田谷領が彦根藩の管轄となり、彦根藩2代当主・井伊直孝が井伊家の菩提寺としてこの寺の伽藍等を整備した。

豪徳寺という名の由来は、その井伊直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英居士」の「豪徳」から拝借したとのこと。

江戸藩邸で暮らしていた井伊直孝がある日、鷹狩りの帰路、この付近を通りがかった際に、自分を招いているような1匹の猫を見かける。

井伊直孝がその猫の招きで門内に入るや否や、急な激しい雷雨となった。

この猫のおかげで、雷雨を回避でき、そのうえ和尚さんのありがたい法話も聴くこともでき、井伊直孝は大変喜んだとのこと。

その逸話が「招き猫発祥の地」として今日まで言い伝えられているのだ。

そんな微笑ましい逸話のある「招き猫発祥の地」豪徳寺だが、元々この地は、世田谷に本拠を置き、代々居を構えた奥州吉良氏によって築かれた世田谷城があった。

世田谷城の縄張り(敷地の範囲)は現在の豪徳寺と世田谷城址公園を含む辺りと推測され、世田谷城の空堀及び土塁の幾つかは現存している。

世田谷城の城郭構造(推定)
世田谷城の城郭構造(推定)

では早速、豪徳寺・世田谷城を散策してみよう。

豪徳寺の参道に入ってゆくと、向かって右側(参道東側)に世田谷城の土塁を観ることができる。

豪徳寺参道右側(参道東側)に現存する世田谷城の土塁
豪徳寺参道右側(参道東側)に現存する世田谷城の土塁

コンクリート塀からちょっと頭をのぞかせているので、誰でも視認できよう。

突き当たると右斜めに道が曲がるので、そこで振り返ると、世田谷城の城郭構造(推定)における「郭A(築城当時は「二の郭」もしくは「奥御所」とも)」を望める。

世田谷城「郭A(築城当時は「二の郭」もしくは「奥御所」)
世田谷城「郭A(築城当時は「二の郭」もしくは「奥御所」)

何もわからない人が見ると、ただの空き地にしか見えないが、所々に土塁を散見できる。

豪徳寺境内に足を踏み入れると、そこは世田谷城の「前郭」であったところで、進行方向左側に三重塔が姿を現す。

豪徳寺境内(世田谷城「前郭」)にある三重塔
豪徳寺境内(世田谷城「前郭」)にある三重塔

三重塔を越えた辺りに左側に行ける小径が現れるので、そこを歩くと招福殿や、その脇にある大小様々で数え切れぬほどの招き猫たちを観ることができる。
豪徳寺招福殿脇にある大小様々で数え切れぬほどの招き猫たち豪徳寺招福殿脇にある大小様々で数え切れぬほどの招き猫たち豪徳寺招福殿脇にある大小様々で数え切れぬほどの招き猫たち豪徳寺招福殿脇にある大小様々で数え切れぬほどの招き猫たち

豪徳寺招福殿脇にある大小様々で数え切れぬほどの招き猫たち
豪徳寺招福殿脇にある大小様々で数え切れぬほどの招き猫たち

豪徳寺境内の開けた場所には仏殿や社務所があり、ここでも招き猫が歓迎していた。

豪徳寺仏殿
豪徳寺仏殿
豪徳寺社務所
豪徳寺社務所前にある招き猫
豪徳寺社務所前にある招き猫

筆者の訪れた時間が夕方で閉館間際だったこともあって、社務所はすでに閉まっており、招き猫を購入できなかった。

あらためて次回にチャレンジして、招き猫をゲットしたい。

参拝も終え、豪徳寺境内を離れ、隣接する世田谷城址公園へ。

かなり整備され、当時の面影がないのではと期待していなかったが、実際に行ってみたら、郭や土塁、空堀が残っており、東京23区内にまだこれだけの城郭が残っていることに嬉しさを感じた。

世田谷城「郭F(南郭)」 現・世田谷城址公園
世田谷城「郭F(南郭)」
現・世田谷城址公園
世田谷城の空堀  現・世田谷城址公園世田谷城の空堀  現・世田谷城址公園
世田谷城の空堀  現・世田谷城址公園
世田谷城の空堀
現・世田谷城址公園

特に「郭F(南郭)」と空堀の高低差は想像以上にあり、中世城郭マニアにとっては十分なご馳走となろう。
世田谷城「郭F(南郭)」と空堀の高低差

世田谷城「郭F(南郭)」と空堀の高低差 現・世田谷城址公園
世田谷城「郭F(南郭)」と空堀の高低差
現・世田谷城址公園

世田谷区の閑静な住宅街にある一寺院に過ぎない豪徳寺なのだが、「招き猫発祥の地」という惹きが強いのか、海外からの訪問・参拝客もそこそこいたのには驚き。

やはり招き猫は日本のみならず世界で人気となりうる存在であることを認識した次第だ。

付け加えるとしたら、招き猫だけでなく、中世城郭・世田谷城の土塁・郭・空堀も併せて観ることを推奨したい。

【大谿山(だいけいざん)豪徳寺 詳細】

・所在地:〒154-0021 東京都世田谷区豪徳寺2-24-7
・アクセス:小田急線「豪徳寺」駅徒歩10分、東急世田谷線「宮の坂」駅徒歩5分
・宗派:曹洞宗
・文化財:彦根藩井伊家墓所(国の史跡)、井伊直弼墓(東京都指定史跡)、他多数
・お問合せ:03-3426-1437

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

紅葉狩りと古城跡散策ができる石神井公園(東京都練馬区)【連載:アキラの着目】

北海道・東北、それより以南の高地ではピークを過ぎた感のある紅葉。

しかし関東の低地、いわゆる関東平野では11月中下旬~12月上旬までが紅葉のピークだ。

都心にある代々木公園や新宿御苑などでも紅葉狩りができるものの、メジャー過ぎて人がそれなりに多かったり、小旅行感がなかったりするので、やや郊外にある公園がおすすめだ。

中でもFJ時事新聞ニッポンニュースがおすすめするのが、石神井公園だ。

石神井公園は、西武新宿線・石神井公園駅から徒歩10分程度の所にある都立の公園だ。

園内には、三宝寺池と石神井池、また石神井氷川神社、稲荷諏訪合神社、前述した池の名にも付いた三寳寺があり、都会の喧騒とは無縁の地だ。

三宝寺池の浮島にある沼沢植物群落(昭和10年12月・国指定天然記念物)があり、氷河期にはすでに存在していた寒冷地植物のミツガシワ、カキツバタ、コウホネなどを観ることができることでも有名だ。

例年の紅葉狩りに適した時期は、11月中旬~12月上旬で、今年は11月初旬からでもOKとのこと。

石神井公園 「石神井公園の紅葉情報 | 紅葉名所2018 - ウォーカープラス」から引用
石神井公園 「石神井公園の紅葉情報 | 紅葉名所2018 – ウォーカープラス」から引用

元々石神井公園は、石神井城(東京都指定史跡)という平山城があった。

石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばし、この一帯を本拠地とした豊島氏が石神井城を築いた。

ちなみにお隣の東京都豊島区の名前の由来は諸説あるが、この豊島氏から付いたともいわれている。

以下簡潔に石神井城について説明したい。

まずは石神井城の縄張図だ。

石神井城 縄張図
石神井城 縄張図

丸囲み数字は、以下に掲載する城内写真の撮影ポイントを示している。

①は、石神井城西堀跡だ。

① 埋め立てられ、現在は道路となっている石神井城西堀跡
① 埋め立てられ、現在は道路となっている石神井城西堀跡

堀は埋め立てられ、現在は道路になっている。

②は、石神井城北側の崖からかすかに望める三宝寺池だ。

② 石神井城北側の崖からかすかに望める三宝寺池
② 石神井城北側の崖からかすかに望める三宝寺池

③は、主郭下から望む三宝寺池。

③ 主郭下から望む三宝寺池
③ 主郭下から望む三宝寺池

④は、石神井城主郭南側の土塁(右側)と道路になってしまった空堀の跡だ。

④ 石神井城主郭南側の土塁(右側)と道路になってしまった空堀の跡
④ 石神井城主郭南側の土塁(右側)と道路になってしまった空堀の跡

⑤は、石神井氷川神社の参道。

⑤ 緩やかな上り坂途中で、左右を横切るように石神井城の土塁があった石神井氷川神社の参道
⑤ 緩やかな上り坂途中で、左右を横切るように石神井城の土塁があった石神井氷川神社の参道

参道の緩やかな上り坂途中で、左右を横切るように石神井城の土塁があった。

⑥は、主郭と郭2を分ける空堀。

⑥ 主郭と郭2を分ける空堀
⑥ 主郭と郭2を分ける空堀

左手の斜めに小高いのが主郭、中央から右手の低地が空堀だ。

⑦は、⑥から左に進んだ位置から主郭を望んだ写真。

⑦ ⑥から左に進んだ位置から望んだ主郭
⑦ ⑥から左に進んだ位置から望んだ主郭

石神井城は、史跡保存のため、柵で主郭への立ち入りが制限されている。

⑧は、⑦からさらに左側に進んだ位置から主郭を望んだ写真。

⑧ ⑦からさらに左側に進んだ位置から望んだ主郭
⑧ ⑦からさらに左側に進んだ位置から望んだ主郭

石神井城主郭の高さが⑥、⑦、⑧の3枚から把握できる。

ということで、石神井公園が石神井城という中世の平山城であったことがおわかりになったかと。

都心からもそんなに所要時間がかからずに、こうした歴史散策ができ、なおかつ紅葉も楽しめるという一挙両得の穴場スポットだ。

都心の大公園に飽きた人はぜひ行ってみよう。

歴史散策ができ、なおかつ紅葉も楽しめる石神井公園 「石神井公園の紅葉情報|紅葉情報2018」から引用
歴史散策ができ、なおかつ紅葉も楽しめる石神井公園 「石神井公園の紅葉情報|紅葉情報2018」から引用

■石神井公園|公園へ行こう!
http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index006.html

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

伊予松山城(愛媛県松山市)~FJ時事新聞おすすめ名城~【連載:アキラの着目】

今回FJ時事新聞が自信を持っておすすめする名城は「現存12天守」(※)の1つに数えられている伊予松山城だ。

松山城といっても通じるのだが、備中松山城や武蔵松山城と混同しないために、伊予松山城ともいわれており、金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)の別名もある。

日本三大平山城にも数えられ、国指定史跡にもなっている伊予松山城は、関ヶ原の戦いで功績のあった加藤嘉明が、慶長7年(1602年)に築城し、その後、蒲生氏~松平氏へと受け継がれた。

あまり専門的なことを並べても、「ああ、そう」で受け流されてしまうだろうから、とにかく写真を載せよう。

まずは伊予松山城の案内図(≒縄張図)。

伊予松山城案内図(≒縄張図)

筆者は搦手口山道終点付近(写真の「現在地」)の駐車場にレンタカーを駐め、伊予松山城三之丸(堀之内)の松山市民会館方面から入城。

筆者の場合、城巡りの際に決めている自分なりのルールがあって、大手側(正面玄関)から入城し、搦手(退却口・出口・裏口)から退城するようにしている。

その方が、城に攻め込む感覚や、城から退く感覚を味わえるような気がするし、反対廻りでなく正式な廻りだと思うので、このルールを実践している。

この枡形状の石垣は槻門跡。

伊予松山城槻門跡

勢いよく攻め手が飛び込んできても、この枡形で方向転換を余儀なくされ、勢いが弱まる。

大手門跡前の石垣だ。

伊予松山城大手門跡前の石垣

写真左手にいるのは中国からの観光客の男性で、この人と伊予松山城の石垣を見比べることで、建設重機のなかった時代でこれだけのものを築けた凄さがあらためて実感できるかと。

大手門跡を過ぎると、視界が開け、松山市街を眼下におさめることができる。

伊予松山城から望む松山市街

戸無門も撮影スポットで有名。

誰でも簡単にパースペクティブな写真が撮れる。

伊予松山城戸無門

下の写真の門は筒井門で、木目の暖色系色と、石垣のグレーが見事な調和を保ち、戦闘施設なのに柔和な感覚にさせてくれる。

伊予松山城筒井門

そしてついに本丸に突入!

伊予松山城の天守だ。

伊予松山城天守

伊予松山城の天守は分類上「連立式天守」と呼ばれる構造で、大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を3棟の渡櫓(廊下)で連結している。

あいにく筆者が訪れた時は年末に近かったこともあり、大掃除のため天守へ登城できなかった。

↓の写真は伊予松山城天守を真反対から撮影したもの。

打込み接ぎ(うちこみはぎ)と呼ばれる石垣の積み方がなされており、石垣の端の稜線がきれいな湾曲を形作っている。

伊予松山城天守裏手の打込み接ぎ(うちこみはぎ)の石垣

本丸から搦手方面に向かうと、乾一ノ門跡に達する。

乾一ノ門跡を潜り抜けると、見事に横一列に連なる乾門東続櫓の石垣を目にすることができる。

乾一ノ門跡を潜り抜けると現れる、見事に横一列に連なる乾門東続櫓の石垣

最後に乾櫓を見届ける。

伊予松山城乾櫓

この後は搦手口の山道となる。

以上初心者でもわかりやすい写真を選んで紹介したが、もっと細かく観てみたい人は、伊予松山城に登城することをおすすめする。

■伊予松山城
http://www.matsuyamajo.jp/

■松山市ホームページ 松山城
https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/kankomeisho/matsuyamajo/

※現存12天守:江戸時代以前に建造された天守を持つ城が12城現存しており、それら12城を総称し「現存12天守」という。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099