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関ヶ原の魅力を発信しながら関ヶ原とファンを元気にする「関ヶ原ファンクラブ」【連載:アキラの着目】

戦国時代といったら様々なことや人物等を思い浮かべるだろうが、”ベタ”ではあるが、やはり「関ヶ原の戦い」を外すことはできないだろう。

関ヶ原は、メジャーな「関ヶ原の合戦」だけでなく、中世における南北朝の動乱や古代史上最大の内乱「壬申の乱」の激戦地でもあった地。

そのうえ、戦時中においては旧日本陸軍最大の弾薬庫が置かれてたのだ。

日本における東西の境目として古代から現代に至るまで、この日本の行く末を見守ってきた土地ともいえよう。

それだけに関ヶ原ファンやマニアも多く、関ヶ原について”深堀り”したい需要が多いのだ。

そんな関ケ原の魅力的な情報を随時発信してゆくのが「関ヶ原ファンクラブ」だ。

関ヶ原ファンクラブHPから引用
関ヶ原ファンクラブHPから引用

会員登録して会員になると、会員限定のコンテンツを観たり、体験したりできる。

「関ヶ原ファンクラブ」での活動如何により、会員の石高が増える。

つまり、ポイントが貯まるようなものだ。

また、「関ヶ原戦国富籤」のようなチャレンジ・ゲームのようなもので、石高や軍資金をさらに獲得できたいるするのだ。

現状では、獲得した軍資金を使って会員限定で楽しめる企画を「軍議中」とのことで、それまでは着実に「軍資金」を増やして蓄えたいものだ。

このように、「関ヶ原ファンクラブ」は関ヶ原の魅力を発信しながら、関ヶ原とファンを元気にしているのだ。

気になる人は、「関ヶ原ファンクラブ」の会員に登録すべし。

■関ヶ原ファンクラブ | リアル世界をマーキング かけはしメモリー
https://kakehashikun.com/nodes/Hid5HWFQup4b82d88UMOa6f1BGKbaA94gPB

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

「推定兵力」毎に分類された粋な武将家紋ロッカー(岐阜県不破郡関ケ原町)【連載:アキラの着目】

去る9月15日(日)は、日本の合戦史上最大である関ヶ原の合戦があった日。

記念イベントが開催されたりで、今もなお当時の合戦を偲ぶ歴史マニアが多い。

このニッポンニュースでもそのイベントについて触れたが(明日9月15日は関ケ原合戦記念日、足軽甲冑体験や土産プレゼントも【連載:アキラの着目】)、関ヶ原という所は、合戦記念日でなくとも常に歴史マニアが立ち寄る”聖地”であるので、記念日以外でもそこそこ歴史マニアがたむろっている。

なので、武将系のお土産や施設が充実していたりするのだ。

その中で今回のニッポンニュースで取り上げるのが、関ケ原駅前観光交流館(愛称:いざ!関ケ原)にある武将家紋ロッカーだ。

関ケ原駅前観光交流館(愛称:いざ!関ケ原)にある武将家紋ロッカー 関ケ原観光情報のポータルサイト SEKIGAHARA Tourismから引用
関ケ原駅前観光交流館(愛称:いざ!関ケ原)にある武将家紋ロッカー
関ケ原観光情報のポータルサイト SEKIGAHARA Tourismから引用

通常、駅にあるコインロッカーは小サイズのロッカーが大半を占め、大サイズのロッカーがほぼないという所もあったりする。

しかし、関ケ原駅前観光交流館の武将家紋ロッカーは大サイズのロッカーもしっかりあるのだ。

というのも、「推定兵力」毎にロッカーを分類しているからだ。

「推定兵力」毎にサイズ分類されている関ケ原駅前観光交流館の武将家紋ロッカー exciteニュースから引用
「推定兵力」毎にサイズ分類されている関ケ原駅前観光交流館の武将家紋ロッカー
exciteニュースから引用

関ヶ原の合戦の東軍大将・徳川家康のロッカーは大サイズ。

「推定兵力:30000」を要するから大サイズのロッカーなのだ。

西軍の毛利輝元、同じく西軍の宇喜多秀家、西軍から東軍に寝返った小早川秀秋、西軍の石田三成、東軍の福島正則らも大サイズのロッカー。

参考までに、黒田長政、細川忠興は中サイズのロッカー、島左近、大谷吉継は小サイズのロッカーだ。

「推定兵力」毎の分類が史実に基づいて忠実に”再現”されているのだ。

「推定兵力」毎に分類されるのはもちろんクールなのだが、なんといっても武将の家紋がロッカーの扉にデカデカと描かれているのが歴史マニアには堪らないことだろう。

前述の徳川家康ならば「葵の御紋」、石田三成ならば「大一大万大吉」が描かれ、全国広しといえどもコインロッカーで武将名と家紋を観ることができるのは、ここ関ケ原駅前観光交流館だけだ。

ちなみに、石田三成の家紋「大一大万大吉」の意味は「1人が万民のために、万民は1人のために尽くせば、天下の人々は幸福(=吉)になれる」というもの。

なお、関ケ原駅前観光交流館は関ケ原町の観光情報の発信拠点であり、観光案内所でもあり、土産ショップや休憩スペース等も兼備されている便利なスポットなので、ロッカー以外でも利用してみよう。

関ケ原町の観光情報発信拠点兼観光案内所兼土産ショップ兼休憩スペースの関ケ原駅前観光交流館 関ケ原観光情報のポータルサイト SEKIGAHARA Tourismから引用
関ケ原町の観光情報発信拠点兼観光案内所兼土産ショップ兼休憩スペースの関ケ原駅前観光交流館
関ケ原観光情報のポータルサイト SEKIGAHARA Tourismから引用

【関ケ原駅前観光交流館(愛称:いざ!関ケ原) 武将家紋ロッカー】

・料金
 小型(10口):100円/1日
 中型(12口):200円/1日
 大型(8口):300円/1日
※関ケ原駅前観光交流館営業時間内の利用に限る

■関ケ原観光情報のポータルサイト SEKIGAHARA Tourism
http://www.kanko-sekigahara.jp/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

明日9月15日は関ケ原合戦記念日、足軽甲冑体験や土産プレゼントも【連載:アキラの着目】

明日9月15日は、日本史における内戦で最も大規模な関ケ原合戦があった日だ。

五大老に1人である徳川家康が率いる東軍7万と、五奉行の1人である石田三成が率いる西軍8万が関ヶ原(現在の岐阜県)で激突!

これだけの大軍勢同士がぶつかるとあっては、そう簡単には決着がつかないだろう、1ヵ月くらいかかるのでは、と思われていたが、いざ蓋を開けてみれば、その日のうちに勝敗が決し、石田三成の西軍が敗北。

この関ヶ原の合戦に勝利したことで徳川家康はさらに盤石な権力体制を築き、3年後の1603年には征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開いたのだった。

なので、日本史を語る上で決して欠かすことのできぬ関ヶ原の合戦。

その関ヶ原の合戦のあった9月15日を記念して、毎年関ヶ原町では「関ケ原合戦記念日」というイベントを開催している。

関ケ原合戦記念日チラシ 関ケ原観光Webから引用
関ケ原合戦記念日チラシ
関ケ原観光Webから引用

朝8時には狼煙が上がり、町内の防災無線で”ほら貝”が鳴り響く、というにくい演出。

当日は毎年恒例の、神出鬼没な「金の家康」が現れ、缶バッチ(数量制限あり)を配布するので、必ずや見つけてゲットしよう。

関ヶ原という場所が場所だけに、足軽甲冑武者の募集もしている。

現時点では、もう少しで予約が埋まるとのことなので、足軽になりたい人はぜひ今から予約しよう。

また、飲食の屋台も多数出店するので、関ケ原ならではの様々な美味しいものをぜひ味わおう。

他には、関ケ原ふれあいセンターの前では午後14:00から大砲や太鼓の実演があり、晴天時ならば見学可能だ。

これら以外でも、駅前交流館と民俗資料館のミュージアムショップと笹尾山交流館の売店で買い物をすると、それぞれの店でプレゼントをもらえたりもするので、明日9月15日はぜひ関ケ原に行くべし!

■お知らせ 詳細:観光情報[関ケ原観光Web]
http://www.kanko-sekigahara.jp/jp/news/425_index_msg.html

■関ケ原町 観光ガイドブック「せきがはら巡歴手帖」(PDF:32MB)
http://www.kanko-sekigahara.jp/jp/pamphlet/pdf/all.pdf

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

1人でも複数でも参加OK!「関ケ原古戦場で馬防柵をつくろう!」イベント【連載:アキラの着目】

「天下分け目の戦い」として誰もが知る関ヶ原の戦い。

古代中国から伝わった八陣図の中の1つ、「鶴翼の陣」を敷いて、徳川家康率いる東軍を包囲し、万全の体制を採った石田三成率いる西軍。

有利な布陣だったにもかかわらず見方が東軍に寝返ったことで、石田三成はこの関ヶ原の戦いに負けてしまった。

その石田三成が布陣したのが笹尾山で、ここに馬防柵を作ろうというイベントが、2018年12月1日(土)に行われる。

関ケ原古戦場で馬防柵(ばぼうさく)をつくろう!
関ケ原古戦場で馬防柵(ばぼうさく)をつくろう!

参加費無料で、7名程度を1チームとして、各チーム1ユニットの馬防柵を設置し、その後は戦国汁を食べながら、皆で親交を深めるというイベントだ。

グループはもちろん、1人でも参加できる。

自分の手で関ケ原に馬防柵を作るということは、めったにない機会なので、今からこの貴重な体験イベントに申し込んじゃおう!

ちなみに馬防柵とは、味方陣地を敵の攻撃から守るための柵をいう。

馬防柵
馬防柵

長篠設楽原の戦いの際に、織田信長がこの馬防柵を使用したことで知られている。

関ケ原合戦図屏風でも随所に馬防柵が描かれており、関ケ原では石田三成陣地のある笹尾山麓に復元設置されている。

【関ケ原古戦場で馬防柵(ばぼうさく)をつくろう! 参加要項】
●開催日時:2018年12月1日(土)12:00~16:00〈受付11:30から〉(小雨決行)
●スケジュール:11:30 受付開始
        12:00~12:30 オリエンテーション
        12:30~15:00 馬防柵組み立て設置作業
        15:30~ 関ケ原戦国汁ふるまい・懇談会
●集合場所:笹尾山駐車場
●参加資格:中学生以上で元気のある方(安全に作業いただくため)
●参加料:無料
●参加人数:70名(1チーム7人程度) ※個人でもグループでも参加できます。
●受付期間:2018年11月22日(木)まで 参加人数に余裕がある場合は当日受付も行います。先着順で受け付け、定員に達した場合は受付を締め切ります。参加証の交付は行いませんので、当日時間までに指定場所に集合してください。
●参加方法:事前予約が必要です。
1 参加時に持参いただくもの
健康保険証 等
軍手、工具類等、作業に必要なものは事務局で用意します。動きやすく、汚れてもよい服装・靴でお越しください。防寒対策も万全に!
2 参加にあたっての注意
インストラクターによる作業説明を行った後、1チーム7名程度のチームをつくり、それぞれ1ユニット(幅4m×高さ3m)の馬防柵を組み立て、設置していただきます。
●免責事項:参加者は十分な健康管理のもとに参加してください。万一事故が発生した場合、主催者は加入保険の範囲を超える責任は負いませんのでご了承ください。
●参加特典:イベント参加者限定 馬防柵にお名前入りプレート設置! ※当日の設置ではなく後日の設置となります。
●申込方法:参加申込フォームまたは馬防柵設置イベント 参加申込書に、参加者の氏名(ふりがな)、性別、年齢、郵便番号、住所、電話番号、メールアドレスをご記入の上、郵便またはメールにてお申し込みください。
電話番号は申込者ご本人と直接連絡可能な番号をご記入ください。
メールアドレスはお持ちの方のみご記入いただければ結構です。
お預かりした個人情報は適切に管理し、参加者名簿の作成、連絡発送等、当イベントに関わる業務以外には使用しません。
●申し込み先:関ケ原町役場 地域振興課「馬防柵設置イベント」係宛 〒503-1592 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原894-58 TEL:0584-43-1112 メール:chiikishinko@town.sekigahara.gifu.jp
事前申込の締切日:2018年11月22日(木)
●主催:関ケ原町
●協賛:関ケ原観光協会
●問い合わせ先:関ケ原町役場 地域振興課 TEL:0584-43-1112

■関ケ原ファンによる関ケ原古戦場づくり 馬防柵設置イベント 関ケ原古戦場で馬防柵(ばぼうさく)をつくろう!|関ケ原歳時記
http://www.kanko-sekigahara.jp/event/babousaku4/

■Twitter 関ケ原観光情報 @1600_sekigahara
https://goo.gl/73YoFZ

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

信州・上田城(長野県上田市)~FJ時事新聞おすすめ名城~【連載:アキラの着目】

上田城東虎口櫓門今回ご紹介する「FJ時事新聞おすすめ名城」が、真田昌幸・信繁(幸村)親子の居城として有名な信州の上田城だ。

ある程度、城に詳しい人からすれば、「なぜ今さら上田城を取り上げるんだ、ブームは2年前ではないか!」と叱責されるかもしれない。

というのも2年前は、真田信繁(幸村)を主人公とするNHK大河ドラマ『真田丸』が放送されており、上田城がそのドラマの影響やブームに乗っかって、大変な賑わいだったのだ。

逆にいうと、その賑わいや混雑ぶりを避けたく、遅れること2年、ようやく今年になって筆者が上田城を訪城したというわけだ。

上田城の歴史について簡潔に説明しよう。

上田城は天正11年(1583)に、越後(現在の新潟県)の戦国大名・上杉景勝に対抗するための前線基地として、徳川家康の援助の下、真田昌幸が築城した平城だ。

その後、真田昌幸が自領の沼田(現在の群馬県沼田)を関東の戦国大名・北条氏に割譲するよう徳川家康からいわれたため、それを不服として徳川家康の下を離れ、上杉景勝につくことになり、それに怒った徳川家康が上田城に7,000の兵を差し向けたのが天正13年(1585)の第一次上田合戦だ。

また、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍についた真田昌幸・信繁は、中山道から進軍する徳川秀忠の大軍(38,000人)をわずか2,500~3,000の兵で撃退したのが第二次上田合戦で、これら二度の合戦で大大名の徳川をコテンパンにやっつけた城として有名なのだ。

小さな大名が少ない手勢で、大きな大名の大軍を二度も撃破した城は、上田城以外では例がない。

真田昌幸が属した西軍が関ヶ原の戦いで敗れたことで、真田昌幸は九度山に配流され、上田城主は真田信之となり、以後、仙石氏(三代)、松平氏(七代)と変わり、廃城後は公園となって現在に至っている。

では、実際に上田城を巡ってみよう。

上田城縄張図(考察=三島正之氏) - 真田期の上田城縄張り - 信州まちあるき から引用および番号付記
上田城縄張図(考察=三島正之氏) - 真田期の上田城縄張り - 信州まちあるき から引用および番号付記

市営野球場の対面の駐車場に車を駐車したため、筆者が最初に訪れたのが(1)の空堀だ。

小泉曲輪側から見た上田城空堀

小泉曲輪側から観た写真で、わかりにくいかもしれないが、向かって左へ直角にくびれた堀がめぐらされている。

これは、横からも矢や火器を敵に浴びせることができるように、直角に堀を曲げているのだ。

こうした仕掛けを「横矢掛り」という。

(2)は尼ヶ淵の崖から見た上田城西櫓だ。

尼ヶ淵の崖から見た上田城西櫓

現在は公園や駐車場になっているこの尼ヶ淵は、上田城築城当時は千曲川が流れる天然の要塞で、この上田城南側は鉄壁の守りとなっていた。

(3)は尼ヶ淵の崖から見上げた上田城南櫓だ。

尼ヶ淵の崖から見上げた上田城南櫓

やはり(2)同様に高低差があり、ここをよじ登って城内に侵入することは不可能だ。

二の丸橋を渡り、武者溜りを抜けると、(4)上田城東虎口櫓門が視界に現れる。

上田城東虎口櫓門

門に向かって右の石垣には、とてつもない大きさの「真田石」が積まれており、観る者を圧倒する。

東虎口櫓門をくぐると、そこは上田城の本丸だ。

本丸の周囲は小高い土塁があり、そこから(5)本丸を囲む百間堀を望むことができる。

上田城本丸土塁から望む百間堀

(6)は西櫓手前から見下ろす尼ヶ淵の崖だ。アスファルトの通路と青々とした芝生の領域は、前述の通り築城当時は千曲川が流れていた。

上田城西櫓手前から見下ろす尼ヶ淵の崖

二の丸へ向かい、本丸を囲む百間堀を見ると、(7)本丸の角が意図的に斜めに削られた箇所に出くわす。

上田城本丸隅欠きの土塁(本丸土塁の隅欠き)

この斜めに削られた箇所は「隅欠きの土塁(本丸土塁の隅欠き)」といい、鬼門除けのために北東隅の土塁を斜めに削ったものだ。

この「隅欠きの土塁(本丸土塁の隅欠き)」により、北東角の鬼門を無くし、万全な構えにしたということだ。

(8)は二の丸北虎口で、やはり直角に通路を折り曲げ、敵が一気呵成に直進してこないようにしているのと、横矢をかけられるようにしているのと、2つの意味がある。

上田城二の丸北虎口

最後に上田城から東へ10分ほど歩いたところにある大手門跡だ。

上田城大手門跡

現在この大手門跡は緩やかなカーブになっているが、これまた築城当時は直角に折れ曲がっていたのは言うまでもない。

以上、駆け足で信州・上田城を見てきたが、いかがであったろうか?

『真田丸』のブームが去った今だからこそ、ゆっくりと城内を観ることができるので、かなりおすすめだ。

■信州上田観光ガイド 上田城・上田城跡公園【信州上田観光協会】長野県上田市の大河ドラマ真田丸で知られる上田城
http://www.ueda-cb.gr.jp/uedajo/

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