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東京の様々な地名の由来 ~お台場(東京都港区)前編~【連載:アキラの着目】

某テレビ局や様々なショッピングモールがあり、国内外の観光客から人気がある「お台場」。

「なんか大砲が置いてあった島があったから、お台場って言うんでしょ」

確かに「お台場」の地名の由来は、ほぼその通りなのだが、「はい、それ正解!」ではもうこのコラムが終わってしまうので、もっと掘り下げてみる。

まずは「お台場」こと台場が、昔はどうなっていたかを探ってみる。

台場古地図

これは幕末の地図なのだが、実は台場が11基(未着工含む)も存在したのだ。

この地図に描かれている台場は、「品川台場(品川砲台)」という。

「品川台場(品川砲台)」は、江戸幕府(徳川幕府)がペリーの再来航に備えるため、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍に設計・監督させ、嘉永6年(1853年)に着工された。

江戸時代最後の国家的事業で、かつ西洋式築城術を取り入れた、日本初の本格的近代城郭であるという側面も「品川台場(品川砲台)」は持っている。

今では、ゆりかもめの「お台場海浜公園」駅や、その隣の「台場」駅、さらには「青海」駅、東京ビッグサイトまでのエリア全体を総称して「お台場」というが、元々「お台場」こと台場は、先ほどの地図に描かれた全ての台場を指すのだ。

現在のお台場エリア

因みに、広義の台場は、全国各地に築かれた、砲台がある人工島の要塞や、幕末-明治期に築かれた野戦築城を指し、海岸線だけに築かれたのではなく、峠・高台・交通の要衝にも築かれたりした。

このコラムでは、こうした全国大小の台場を取り上げるつもりはないので、「品川台場(品川砲台)」に限定して、話を進める。

当初「品川台場(品川砲台)」は、最初に掲げた地図が示す通り、品川沖から深川沖にかけて11ヵ所の台場を築造するという案だった。

第一台場から第七台場までが着工したが、資金不足により実際に完成したのは、第一、第二、第三、第五、第六台場の5基で、第七台場は未完成となった。

台場周辺地図(1898-1909)
台場周辺地図(1898-1909)

台場周辺地図(1998-2005)
台場周辺地図(1998-2005)

では実際に品川台場(品川砲台)の中でも現存し、一般開放されている第三台場を歩いてみるのだが、そのレポートは後編で。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

FJ時事新聞近辺散歩 ~芝浦(東京都港区)~【連載:アキラの着目】

東京都港区海岸にある当社・FJ時事新聞(正式名・BUKKYO時事新聞)。

会社事務所の近辺には東海道などがあるので、歴史的建造物や名残が結構存在する。

これまでにも海岸線の名残や、徳川幕府の菩提寺である芝・増上寺、愛宕山・愛宕神社を紹介してきたが、今回は芝浦花街(しばうらかがい・しばうらはなまち)について紹介する。

花街(かがい・はなまち)という言葉が出てきたが、まずはこの花街とは何なのかを簡潔に説明すると…。

花街とは、芸妓屋(げいきや)、遊女屋(ゆうじょや)が集まっている区域をいい、花柳(かりゅう)ともいう。

売春防止法施行(1957年)までは、多くの花街に芸妓と娼妓の両方がいたが、今日花街といわれている区域は、芸妓遊びのできる店を中心に形成される区域をさす。

東京には、こうした花街が最盛期には40近くあり、芸者も相当数いたのだ。

芝浦花街は、この40近くあった花街のうちの1つで、位置的にいうと、田町駅からほど近い港区スポーツセンターの北東側区域にあった。

芝浦花街のあったエリア
芝浦花街のあったエリア

早速この区域を歩くと、古い木造建築を発見することだろう!

念入りに防御ネットで覆われたこの古い木造建築こそが、「検番」といわれるものだ。

芝浦花街の検番
芝浦花街の検番

芝浦花街の検番
芝浦花街の検番

検番とは、一言でいうと、芸者待機所だ。

引き合いがあれば、ここから芸者が派遣されるのだ。

唐破風もある立派な作りの和建築であるこの検番は、昭和11(1936)年に目黒雅叙園の創業者・細川力蔵氏によって芸妓検番として建設された。

戦時中に東京都港湾局の所有となり、港湾労働者宿泊施設「協働会館」として使われるようになったのだとか。

しかし、2000年に老朽化のため閉鎖され、保存運動の高まりで2009年に港区の有形文化財の指定を受けて現在に至っている。

この検番以外にも花街時代の古い料亭建築を観ることができる。

↓の建物は所々リフォームされ、昔のままの状態でないのがやや残念だ。

芝浦花街時代に料亭だった建物
芝浦花街時代に料亭だった建物

こんな具合に芝浦花街の面影を辿れるので、この界隈を歩くことをおすすめする。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京23区内の最高峰・愛宕山(東京都港区)に登ってみよう! 【連載:アキラの着目】

天然の山としては東京23区内で最高峰(標高25.7m)の愛宕山。

頂上に愛宕神社もある愛宕山は、高層建造物がなかった昔、景観の素晴らしいスポットの1つとして有名だった。

東都芝愛宕山遠望品川海図
東都芝愛宕山遠望品川海図

平成の現在でも愛宕山は相変わらず人気があり、それを愛宕神社は自覚し、認識したのか、愛宕神社の鳥居が真紅に塗り替えられた(下の写真参照)。

愛宕神社鳥居 2009年・2017年
愛宕神社鳥居 2009年(左)・2017年(右)

まず鳥居を潜りたいが、その前に右手にある「あたご小西」でジェラートを食べてから登るのもありだ。

あたご小西
あたご小西

この「あたご小西」は創業寛永18年(1641年)の老舗酒店で、酒屋「小西」の頃の写真も残っている。

明治4年(1872年)頃の小西酒店(右側の建物 現・あたご小西)
明治4年(1872年)頃の小西酒店(右側の建物 現・あたご小西)

いざ、鳥居を潜って男坂の階段を登ってみよう!

愛宕神社の鳥居と男坂の石段

いきなりの急傾斜でビビってしまった人は、右側にある緩やかな女坂から登ることをおすすめする。愛宕神社の男坂の石段と女坂

筆者は極度の高所恐怖症なので、最悪躓いたりした場合、すぐに手摺に掴まれるように、左際を一歩一歩踏みしめて、確実に登った。

こんな筆者でも、十数年前にこの近辺で勤めていた頃は、まだ今よりも僅かながら慣れていたので、頻繁にこの愛宕神社の男坂を、あたご小西のカップ・ジェラートを食べながら登ったりしていたものだ。

しかし今はそんな芸当はとてもじゃないができなくなった。

今登ってきた男坂の階段を上から振り返ると、やはり東京23区内最高峰の天然山であることがあらためてわかる。

愛宕神社 男坂の石段

蛇足ながら、こちらの写真は幕末にフェリーチェ・ベアトが上の写真とほぼ同じ場所から撮影したものだ。

フェリーチェ・ベアトが愛宕山から撮影した幕末期の江戸の町
フェリーチェ・ベアトが愛宕山から撮影した幕末期の江戸の町

せっかく愛宕山に登ってきたのだから、愛宕神社でお参りしよう!

まずは龍の口から吐かれる水で、手と口を濯ぎ、清める。

愛宕神社 手水舎

それが終わったら、真っ直ぐに進み、愛宕神社の本堂へと向かい、二礼二拍手をしてから拝もう。

愛宕神社

もちろん、お賽銭を賽銭箱に入れることと、自分がどこから参ったのか、住所を神様に伝えることを忘れずに。

愛宕神社境内には、小さいながらも池があり、筆者が行った時はたまたまカップルが池の鯉にえさをぶち撒けていた。

愛宕神社境内の池

ピラニアまでの獰猛さはないが、我こそ先へと餌に食い付く鯉を観ることができた。

愛宕神社境内 池の鯉

この愛宕神社は、境内で目にする「葵の御紋」が証明するように、徳川家と縁のある神社だ。

江戸の防火のために徳川家康の命で祀られた神社で、「天下取りの神」、「勝利の神」としても知られ、近年では「出世の石段」があることから、「立身出世」の目的で参拝に来る人も多い。

因みに「出世の石段」とは前述の男坂の急な階段をいう。

寛永11年1月28日(1634年2月25日)、徳川秀忠三回忌で増上寺参拝後の帰途、徳川家光が愛宕山山頂で咲いていた梅を見つけ、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩家臣の曲垣平九郎(まがきへいくろう)が馬に乗ったままで見事に男坂の石段を駆け上がり、梅の枝を取ってきた。

この、男として名を挙げたエピソードから男坂の急階段を「出世の石段」というようになったのだとか。

実は、このエピソードに登場する曲垣平九郎には、誰でもなれる。

というのも、愛宕山頂上に曲垣平九郎の顔ハメパネルがあるからだ。

曲垣平九郎の顔ハメパネル

厳密に言うと、曲垣平九郎と彼の乗る馬になれるといった方が正しい。

この他にも、「江戸城無血開城会談の地」であったといわれていることから、勝海舟さんと西郷どんの顔ハメパネルも設置されている。

勝海舟さんと西郷どんの顔ハメパネル

どの顔に貴殿の顔をハメるかは、後々まで写真で残るから、しっかり考えよう。

一通り愛宕山及び愛宕神社境内を散策したら、後は下山するのみだが、男坂から登った人は、女坂で下山すると同じ道を通らず、異なる風景を観ることができるから、大抵の人はそうすることが多い。

愛宕神社 女坂

でも、筆者のおすすめは、あえて女坂で下りずに、裏ルートから下りることを提案する。

愛宕神社裏手に回ると、カーブミラーが出てくる所があるのだが、その左手に「地下鉄 神谷町駅方面」と小さく書かれた看板があるので、そこから下りてゆく。

「地下鉄 神谷町駅方面」の看板がある裏ルート

滝壺に向かうような、クネクネと小刻みに曲がる階段を下りながら、愛宕山の高低差や裏斜面を堪能するのが愉しい。

愛宕山 裏ルート

途中でスイッチバックの如く、180度方向転換する階段をそのまま下りると、愛宕トンネル(昭和5年・1930年完成)脇に出て、”愛宕山ハイキング・コース”はここでお終いだ。

愛宕山 裏ルート
愛宕山 裏ルート 愛宕トンネル

裏ルートを下りずに、NHK放送博物館の方へと歩き、隣の青松寺へと繋がるルートも探検気分に浸れるから、このルートもおすすめだ。

貴殿も愛宕山に登ってみよう!

■愛宕神社
http://www.atago-jinja.com/

■あたご小西
http://atagokonishi.com/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~半蔵門(東京都千代田区)~【連載:アキラの着目】

今回取り上げる「東京の様々な地名の由来」は、半蔵門だ。

半蔵門は江戸城の城門の1つで、服部正成(通称・服部半蔵)がこの周辺の警護を任されていたことから、半蔵門の名が付いたといわれている。

服部正成(通称・服部半蔵)
服部正成(通称・服部半蔵)

現在では、江戸城門の半蔵門及び東京メトロ半蔵門線「半蔵門駅」周辺のエリアを半蔵門と総称するが、正式な番地としての地名では半蔵門は使われていない。

城門としての半蔵門は、皇居への出入口として機能し、江戸時代では徳川将軍の住まいであった江戸城の搦手門(からめてもん)として機能していた。

余談だが、搦手門についてよくわからない人のために簡単に説明すると、搦手門とは、早い話が出口、退却口として機能する門のことをいう。

城郭には必ず入口としての大手門、それに対して出口としての搦手門、というようになっているのだ。

万が一、攻められやすい低地側、つまり大手門や桜田門辺りから徳川将軍のいる江戸城が敵に攻撃され、防戦一方になった場合は、この搦手門である半蔵門から脱出するわけだ。

なので現在、半蔵門から西に真っ直ぐに延びている新宿通り、すなわち甲州街道は元々非常時の脱出路として整備されたのだ。

非常時の将軍の脱出路・甲州街道

甲州(現在の山梨県甲府市)には、幕府の天領(=直轄地)があることから、非常時に甲州を目指すというのはそういうことなのだ。

そして半蔵門から四谷までの甲州街道沿いには、前述した元・伊賀忍者の服部半蔵及びその部下たちが常駐しており、非常時は「捨て奸(すてがまり)」で敵を退けることになっていた。

元・伊賀忍者の服部半蔵及びその部下たちが常駐していた組屋敷

因みに「捨て奸」とは、関ヶ原合戦の退却の際に敵中突破の手段として、薩摩の島津義弘が用いた戦法だ。

それは具体的にいうと、隊の最も後ろの兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする戦法だ。

捨て奸(すてがまり)
捨て奸(すてがまり)

その小部隊が全滅すると、また新しい足止め隊を退路に残して留まらせ、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせるのだ。

話が横道にそれてしまったが、以上をまとめると、万が一の非常時に、徳川将軍を江戸城から脱出させるための城門や街道があり、脱出をサポートするための元・伊賀忍者である服部半蔵とその部下がこの地に常駐していたから、その城門をいつしか半蔵門と呼ぶようになったということ、そして現代では、その江戸城の城門である半蔵門の周辺エリアをひっくるめて半蔵門と呼んでいることだ。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

穴場観光スポットNo.1! 旧芝離宮恩賜庭園(国指定名勝・東京都港区)【連載:アキラの着目】

今日ご紹介するのは、東京の観光スポットの中でも穴場中の穴場で、FJ時事新聞が自信を持って「穴場観光スポットNo.1!」と断言する観光スポットだ。

その観光スポットが旧芝離宮恩賜庭園(国指定名勝・東京都港区)だ!

JR浜松町駅から徒歩でわずか1分で行けてしまう立地条件にもかかわらず、周辺に勤務するサラリーマンやOLですら気にも留めず、観光客も反対の方角の増上寺や東京タワーばかりに行ってしまうため、本当にビックリするくらい空いている観光スポットだ。

この旧芝離宮恩賜庭園は、文京区小石川にある小石川後楽園と並び、今に残る最も古い回遊式大名庭園の1つ。

元々この地は海面であったが、明暦の頃(1655~1658年)に埋め立てられ、徳川幕府の老中・大久保忠朝の邸地となり、その後数々の大名の邸地を経て、1871年に皇族・有栖川宮家の所有となった。

関東大震災の翌年の1924年に昭和天皇のご成婚記念として当時の東京市(現東京都)に下賜され、旧芝離宮恩賜庭園として一般に公開され、現在は国指定名勝となっている。

では、旧芝離宮恩賜庭園に足を踏み入れてみよう。

旧芝離宮恩賜庭園

さほど目立たない入口から奥へと歩いていくと、地図がある。

旧芝離宮恩賜庭園 地図

これで大まかな散策ルートを頭に入れても良し、とりあえずただ眺めるだけでも構わない。

地図を過ぎると、さらに入口があり、この先に受付がある。

旧芝離宮恩賜庭園

この受付で入場料を払うのだが、忘れずに窓口脇にあるパンフレットももらっておこう。

旧芝離宮恩賜庭園パンフレット

このパンフレットには園内の地図も載っているので、これを見ながらゆっくりと庭園散策をするといい。

旧芝離宮恩賜庭園パンフレット

庭園にある立派な松の木と池だけでももちろん申し分ないのだが、遠景のオフィスビルが借景となり、むしろ殺風景な空を埋めるべくして存在しているかのようだ。

旧芝離宮恩賜庭園
旧芝離宮恩賜庭園
旧芝離宮恩賜庭園

庭園内池の中央にある中島は、園景の要となる箇所で、中国で仙人が住み、不老不死の地といわれる霊山を模した蓬莱石組となっている。

旧芝離宮恩賜庭園 中島
中国で仙人が住み、不老不死の地といわれる霊山を模した蓬莱石組となっている中島

また、湖面に映った逆さ富士ならぬ「逆さビル」を観ることができるのも、都会の庭園ならではで面白い。

旧芝離宮恩賜庭園の逆さビル

汐留にある浜離宮に比べるとややコンパクトで人気度も低いが、それがかえって静かで自分のペースで庭園を散策でき、自分1人が貸し切ったかのような優越感を味わえるので、旧芝離宮恩賜庭園は超オススメ穴場観光スポットだ。

旧芝離宮恩賜庭園

■旧芝離宮恩賜庭園

・入場料:大人150円、20名以上の団体は1人120円、65歳以上70円、小学生及び都内在住・在学の中学生は無料
・公式ホームページ:https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index029.html
※料金は平成29年10月10日時点のものです。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

FJ時事新聞選定「とりあえず行くべき東京の街5選」【連載:アキラの着目】

これから書くことは、あくまでも私個人が感じたり、思ったりする東京の様々な街や町についての感想だ。

街歩きの参考になるかどうかはわからないが、皆さんが実際に東京の街や町を検証するきっかけになればいいかなと。

1.渋谷

私が説明するまでもなく、皆さんご存知の渋谷だ。

今では渋谷駅前のスクランブル交差点が世界的に珍しがられたり、若い女の子から絶大な支持を集めている「マルキュー」(渋谷109)があったりで、とにかく10代・20代の若者が多い街だ。

かつて渋谷は大人の街であり、占領軍の米国男性にラブレターを渡したいという日本女性のニーズが多かったことから、ラブレターの代筆屋が大繁盛。

その代筆屋のあった路地が「恋文横丁」といい、今でもその路地名が残っている。

でも今ではすっかり前述の通り、若者、特に若い女の子の街になってしまった。

渋谷 スクランブル交差点

2.恵比寿

恵比寿は私からすると、特にこれといった名所やお目当ての店などがなく、「使いにくい街」なのだが、お洒落なブティックや隠れ家的な飲食店が多く、また代官山と隣接するエリアのため、20代~30代の女性が多いように見受けられる。

渋谷が若くてギャルギャルしてるのに比べ、恵比寿は美人が多いような印象だ。

恵比寿ガーデンヒルズ

3.新橋

私が1番好きな東京の街だ。

なぜ好きなのかというと、おもちゃ箱をひっくり返したような雑多感があり、見ていて飽きないからだ。

また、新宿歌舞伎町のような治安の悪さも感じられないし、サラリーマンが気軽に羽を伸ばして寛げるような居酒屋が多いのも良い。

裏の小路を歩くと、煮魚が美味しい飲み屋があったりするので、”探検”したい人にはたまらなく面白い街だ。

夜の新橋

4.神田神保町

以前は毎月2回のペースで足を運んでいたくらい、この神田神保町も面白い街。

古書街の神田神保町は欲しい本が見つかりやすく、かつてドラマ『探偵物語』や映画『●●遊戯』シリーズで主演を務めた松田優作にハマっていた私は、松田優作関連本をこの神田神保町の古書店で一気に買い漁ったりしたものだ。

浮世絵や歴史書といった硬い分野の書物から、音楽専門誌やアイドル本などの芸能関連のバックナンバーも、神田神保町にある様々な書店で入手可能なので、本好き・収集好きの人は行ってみる価値ありの街だ。

神田神保町の古書店

5.麻布十番

この麻布十番の歴史は古く、今から300年以上も前から商店街の通りが存在しているのだとか。

昔ながらのパン屋さんや瀬戸物屋さんがあったりで、下町風情が漂う麻布十番商店街だが、実際に歩いてみると、山の手の雰囲気や異国情緒も感じられる。

周辺には各国の大使館や高級住宅街があるため、外国人家族が歩いていたり、お洒落な装いのマダムが歩いていたりするのが、その要因だ。

ミリオンセラーを記録した曲『およげ!たいやきくん』のモチーフとなったたいやき屋さんもあり、脱力して散歩できる街だ。

麻布十番商店街

以上、私の独断と偏見で選んだ東京の5街だが、納得して頂いたであろうか?

今後も機会あれば、東京の様々な街を取り上げるつもりだ。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ジェラート&ソルベのオススメ名店 シンチェリータ(東京都杉並区阿佐ヶ谷)【連載:アキラの着目】

またまた東京にあるジェラート&ソルベのオススメ名店をご紹介!

今回は、JR中央線・阿佐ヶ谷駅から北へ5、6分のところにあるシンチェリータ(SINCERITA)だ。

ジェラテリア SINCERITA(シンチェリータ)

ジェラートマイスターである中井洋輔さんが開いているこのジェラテリアは、いつ訪れても種類が豊富。

私はトリオ(3つの種類)で、ブラムリー(青りんご)とすだちヒューガルデン、キャラメルマキアートを食べた。

ジェラテリア SINCERITA(シンチェリータ) 左からブラムリー(青りんご)、すだちヒューガルデン、キャラメルマキアート
左からブラムリー(青りんご)、すだちヒューガルデン、キャラメルマキアート

入っているか入っていないか絶妙な分量の、細かく刻んだ青りんごの皮が微かな食感を演出し、高原の爽涼感を思い起こさせるブラムリーは、次回訪れても必ず食べたい味だ。

すだちヒューガルデンはその名の通り、すだちのサッパリ感とヒューガルデン・ビールの爽やか感が、互いの良さを引き立てつつ、でも決して出しゃばらない自然でやさしい味だ。

前述のブラムリーとすだちヒューガルデンはソルベ(シャーベット)なのだが、キャラメルマキアートはジェラート。

あっさりしたソルベに比べ、このキャラメルマキアートは後味をかなり引いて、甘ったるくなるのではと思ったが、全然それは杞憂に終わるくらい、風味が口に残る程度で、以前に紹介したスペールフルッタ同様に後味の絶妙感が卓越している。

もちろん味の再現性はA級ランク、キャラメルマキアートだ、と感激して食べたのだった。

2年前に初めて訪れた時よりも繁盛しているようで、店員の女の子が増えていたし、何よりもお客さんが増えていた。

都心からそう遠くはないので、行ってみるべきだ。

■ジェラテリア SINCERITA(シンチェリータ)
http://www.sincerita.jp/

東京夜景 ~東京タワー~【連載:アキラの着目】

JR田町駅にほど近い、第1京浜道路「札の辻」交差点から、赤羽橋方面に社用車で向かう。夕暮れの東京タワーほぼ真北へ一直線に伸びるこの道路は、東京タワーを望むためにあるのではないかと思うほど、見事に立脚した東京タワーがいやでも視界に飛び込んでくるのだ。

明るい蛍光灯に虫が吸い寄せられるように、我々も夜のライトアップされた東京タワーに吸い寄せられてゆく。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

曇り空の日の出桟橋【連載:アキラの着目】

当社BUKKYO時事新聞株式会社のオフィスそばに日の出桟橋がある。

この日の出桟橋から行けるクルージングコースは、以下の4つ。

  1. 浅草~浜離宮経由
  2. お台場海浜公園
  3. パレットタウン
  4. 東京ビッグサイト

東京湾クルージング

また、クルージング船・シンフォニークラシカによる東京ベイクルージングも日の出桟橋から行ける。

クルージング船・シンフォニークラシカ

これらの遊覧船で東京湾や隅田川を観光するのも良し。

反対に、これらの遊覧船に乗船しなくとも、日の出桟橋で海を見ながら汐風にあたって佇むのも良し。

遊覧船HIMIKO

遊覧船

いずれにしても、ビルに囲まれた東京とはまた異なる東京も味わえるのが魅力だ。

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責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名には、どんな由来があるの?【連載:アキラの着目】

東京と一口でいっても、様々な街がある。

渋谷、新宿、池袋、恵比寿、代官山、上野、秋葉原…。

挙げていけば、キリがないくらい東京には様々な地名が存在する。

これら東京の様々な地名は、どうやって名づけられたのか、いくつか取り上げたい。

六本木は6つの大名屋敷があったから、この地名がついた!?

世界的にも有名な東京の繁華街が、皆さんご存知の六本木。

六本木交差点
六本木ヒルズ

地方から来た、よく東京を知らない人は、六本木があるくらいなんだから、東京にはまだ他に「一本木」、「二本木」、「三本木」、「四本木」等、があるんじゃないかと思ってる人もいるようだ。

でも実際に東京に存在するのは六本木と五本木だけなのだが。

話が横道に逸れてしまった、本道に戻そう。

この六本木という地名は、諸説あるが、元々この地に6つの大名屋敷があったことから由来しているとの説が最有力と考えられている。

その大名屋敷とは「上杉」、「朽木」、「青木」、「片桐」、「高木」、「一柳」であり、どの家も「木」に関係した苗字で「六つの木の付く苗字のお殿様の屋敷があった」ことから、「六本木」の地名がついたといわれている。

江戸時代の切絵図を確認すると、上杉家屋敷は飯倉片町、朽木家は赤坂今井谷、片桐家は麻布鳥居坂、高木家は麻布笄橋、一柳家は西新橋付近にあったようだが、現在の感覚だと西新橋は六本木に含めてはダメでしょ、という感じだ。

でも昔の江戸では、赤坂氷川神社から六本木、飯倉、西新橋くらいまでの広範なエリア一帯をまとめて六本木くらいに考えていたのかもしれない。

溜池

赤坂見附から新橋にかけて内堀通りを通ると、「溜池交差点」を必ず通過する。

若い頃の筆者は、「池なんて何もない場所なのに、なぜ溜池というのかな?」と思っていた。

ところが、江戸切絵図を見たら、なるほど、昔は実際に「溜池」が存在していたのだ。

江戸切絵図 赤坂
江戸切絵図 赤坂

現在の赤坂周辺
現在の赤坂周辺

この溜池は、江戸町民の飲料水として利用され、明治期になってから徐々に埋め立てられ、現在に至っている。

丸の内

東京駅の西側一帯は丸の内と呼ばれ、高層のオフィスビルが立ち並ぶ日本の中枢エリアだ。

丸の内

この丸の内の地名の由来は「”丸”の内側にあるエリア」、つまり近世城郭の敷地を「丸」というのだが、江戸城の内側の土地ですよ、という意味で、丸の内といわれるようになった。

余談だが、近世城郭と異なる中世城郭だと城の敷地を「丸」とはいわずに、「郭」(くるわ)というので、近世城郭でいうところの「本丸」は「本郭」といったりする。

とりあえず3つしか取り上げなかったが、今後も時折、東京の地名の由来について、書いてゆきたいと思う。

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責任編集:拡輪 明-HS099