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旧芝浦花街の「見番」再生、地域住民交流の場・伝統文化交流館に【連載:アキラの着目】

港区立伝統文化交流館 港区立伝統文化交流館公式サイトから引用かつての東京には50近くの花街(かがい・はなまち)が存在した。

花街についてよく知らない人のために説明すると、花街とは元々、芸者屋、遊女屋が集まっているエリアをいっていた。

近年では、芸妓(=芸者)のいるエリアを花街といい、遊女・娼婦はいない。

話を元に戻すと、今でも東京で現存している花街は神楽坂や赤坂、新橋などで、廃れて消滅した花街のほうが圧倒的に多い。

芝浦(東京都港区)も花街が消滅してしまったエリアだ。

しかし、往時の姿を残す、見番(※)だった木造建築は、奇跡的に残されている。

旧芝浦花街にある見番だった木造建築(2012年当時)
旧芝浦花街にある見番だった木造建築(2012年当時)

芝浦花街の見番だった木造建築は、昭和11年に芝浦花柳界の見番として建設され、利用されたが、東京都が建物を買い取り、戦後は「協働会館」として港湾労働者宿泊所に利用されてきた。

平成21年に東京都から港区へ無償譲渡されたのを機に港区は、見番だった木造建築を港区有形文化財に指定したが、前掲画像および以前のニッポンニュース(2017年11月13日ニッポンニュース「FJ時事新聞近辺散歩 ~芝浦(東京都港区)~【連載:アキラの着目】」)で取り上げた通り、老朽化のためネットが張られ、しばらくは立入禁止だった。

ところが、平成26年度に、歴史的に貴重なこの、見番だった木造建築を保存し、かつ区民等の利用に供して利活用するために、地域との意見交換も踏まえ、整備計画を策定したのだ。

そしてついに、今年令和2年5月26日に伝統文化交流館としてオープン、様々な伝統文化や地域の文化に関する事業を行うことにより、伝統や文化を次世代へと繋いでいく施設に再生されたのだった。

港区立伝統文化交流館 港区立伝統文化交流館公式サイトから引用
港区立伝統文化交流館
港区立伝統文化交流館公式サイトから引用

施設内には地域の歴史・文化展示スペース、観光案内・散策立ち寄りスペース、福祉喫茶・特産品等紹介販売スペースが設置され、舞台もあることから寄席や演劇等の公演も催されることだろう。
港区立伝統文化交流館 港区立伝統文化交流館公式サイトから引用

港区立伝統文化交流館内 港区立伝統文化交流館公式サイトから引用
港区立伝統文化交流館内
港区立伝統文化交流館公式サイトから引用

無料だから、近隣に住んでいる人やオフィスで勤務している人は、行ってみるべし。

※見番とは、「置屋」、「料亭」、「待合」からなる「三業」を取りまとめて、芸者の取次や派遣、遊興費の清算をする施設をいい、検番と表記することも。

【伝統文化交流館(旧協働会館) 概要】

・所在地:港区芝浦1-11-15(2階建)
・アクセス:JR田町駅東口 徒歩8分、都営地下鉄三田駅A6出口 徒歩9分、ちぃばす芝ルート・芝浦港南ルート(品川駅港南口行)「みなとパーク芝浦」徒歩3分、芝浦港南ルート(田町駅東口行)「芝浦一丁目」徒歩4分
・開館日:1月4日~12月28日(その他臨時休館日あり)
・開館時間:午前10時~午後9時
・入館料:無料(「交流の間」を貸切利用する場合や、催しによっては別途料金かかる場合あり)
・敷地面積:618.10平方メートル
・延床面積:442.36平方メートル
・問合せ:03-3455-8451

港区立伝統文化交流館までのアクセス 港区立伝統文化交流館公式サイトから引用
港区立伝統文化交流館までのアクセス
港区立伝統文化交流館公式サイトから引用

【伝統文化交流館(旧協働会館) 貸室の案内】

2階「交流の間」を貸室として利用可能(要事前の利用登録)

・対象:区内在住・在勤・在学の団体または個人
・貸室使用料:午前 午前10時から正午まで 5,700円
       午後 午後2時30分から5時30分まで 8,500円
       夜間 午後6時から9時まで 8,500円

来館にあたっては、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、以下のことに理解と協力をすること

●ご来館前に健康状態の確認と検温を行い、体調のすぐれない場合は来館を控えること
 ※37.5度以上の発熱がある、息苦しさ(呼吸困難)・強いだるさがある、軽度であっても咳・咽頭痛などの症状があるなど
●過去2週間以内に、感染が引き続き拡大している国・地域へ訪問したことがある場合は、来館を控えること
●館内ではマスク着用必須
●手指消毒すること
●周囲の人との間に適度な距離(最低でも1メートル以上)をとること
●混雑時は入場制限で待つ場合あり
●来館時は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のために、氏名・緊急連絡先等の記入に協力頂く

■港区立伝統文化交流館
https://minato-denbun.jp/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

海水浴場に潮干狩り、温泉、競馬場も!?一大行楽地だった羽田(東京都大田区)【連載:アキラの着目】

年々、訪日外国人観光客が増加の一途をたどっており、東京の”空の玄関”である羽田国際空港(東京国際空港)は、1年間で約653万人(2016年)もの訪日外国人が出入国している。

元々、これだけの出入国者を受け入れるほどのキャパシティを持ち合わせていなかった羽田国際空港だが、時代とともに拡張し、発展してきた。

その発展の影には、多くの犠牲が伴った羽田の歴史が存在する。

今回は、羽田国際空港および羽田の歴史についてスポットをあてる。

戦前の羽田は花街で一大行楽地

羽田国際空港の地は、元々遠浅の「江戸前」漁場で、海苔もよく採れる鄙びた漁村だった。

明治中期に入って穴守稲荷神社が建立される。

江戸時代中期に埋め立てられた羽田は、長年塩害や水害に悩まされ、“堤防に空く穴がもたらす害から土地を守る”(=穴守)ために伊勢神宮から外宮(げくう)の神様・豊受姫命(とようけびめのみこと)を勧請したのが穴守稲荷神社の始まりとされる。

その穴守稲荷神社の参拝客を相手にした芸者や賭け事の遊興施設も穴守稲荷神社参道両脇にでき始め、花街となった。

戦前の穴守稲荷神社 穴守稲荷神社 HP(http://anamori.jp/)から引用
戦前の穴守稲荷神社 穴守稲荷神社 HP(http://anamori.jp/)から引用

1886-1909年の羽田
1886-1909年の羽田
1927-1939年の羽田
1927-1939年の羽田
現在の羽田
現在の羽田

その後、羽田は、温泉が湧いたことから温泉地としても名が知られるようになり、初夏は潮干狩り、夏は海水浴も楽しめ、競馬場もできるなど、穴守稲荷神社の門前町から一大行楽地へと栄えるに至った。

戦前の羽田は、今でいうところのレジャーランドだったのだ。

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による強制撤収で行楽地・羽田が消滅

日本が第2次世界大戦に敗北したことで、日本全土がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により占領されることに。

それに伴い、羽田の地はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による強制撤収が行われることになった。

当時の羽田の行楽地北側には、東京国際飛行場があったが、GHQはこの東京国際飛行場を拡張させるために、羽田の住民約3,000名に対し、48時間以内に退去せよとの命令を突然下したのだ。

GHQに強制撤収される前の羽田
GHQに強制撤収される前の羽田

当初は12時間以内に退去せよとの命令だったが、羽田の住民代表が決死の覚悟でGHQと交渉し、なんとか48時間にしてもらったとのことだ。

このGHQの強制撤収により、参拝客で賑わっていた穴守稲荷神社、小学校、京浜電鉄穴守線(海老取川より東の路線)等、穴守稲荷神社の大鳥居を除いて全てが撤去となった。

GHQが穴守稲荷神社の大鳥居を撤去しなかった理由についてはいくつかあるが、「GHQが穴守稲荷神社の祟りを怖れ、鳥居を撤去できなかった」という説がまことしやかに流れている。

穴守稲荷神社の大鳥居は、その後移転を繰り返し、現在の弁天橋付近に落ち着くことになった。

羽田という普段そんなに気にも留めなかった地には、実は様々な歴史があったのがおわかり頂けたかと。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

FJ時事新聞近辺散歩 ~芝浦(東京都港区)~【連載:アキラの着目】

東京都港区海岸にある当社・FJ時事新聞(正式名・BUKKYO時事新聞)。

会社事務所の近辺には東海道などがあるので、歴史的建造物や名残が結構存在する。

これまでにも海岸線の名残や、徳川幕府の菩提寺である芝・増上寺、愛宕山・愛宕神社を紹介してきたが、今回は芝浦花街(しばうらかがい・しばうらはなまち)について紹介する。

花街(かがい・はなまち)という言葉が出てきたが、まずはこの花街とは何なのかを簡潔に説明すると…。

花街とは、芸妓屋(げいきや)、遊女屋(ゆうじょや)が集まっている区域をいい、花柳(かりゅう)ともいう。

売春防止法施行(1957年)までは、多くの花街に芸妓と娼妓の両方がいたが、今日花街といわれている区域は、芸妓遊びのできる店を中心に形成される区域をさす。

東京には、こうした花街が最盛期には40近くあり、芸者も相当数いたのだ。

芝浦花街は、この40近くあった花街のうちの1つで、位置的にいうと、田町駅からほど近い港区スポーツセンターの北東側区域にあった。

芝浦花街のあったエリア
芝浦花街のあったエリア

早速この区域を歩くと、古い木造建築を発見することだろう!

念入りに防御ネットで覆われたこの古い木造建築こそが、「検番」といわれるものだ。

芝浦花街の検番
芝浦花街の検番

芝浦花街の検番
芝浦花街の検番

検番とは、一言でいうと、芸者待機所だ。

引き合いがあれば、ここから芸者が派遣されるのだ。

唐破風もある立派な作りの和建築であるこの検番は、昭和11(1936)年に目黒雅叙園の創業者・細川力蔵氏によって芸妓検番として建設された。

戦時中に東京都港湾局の所有となり、港湾労働者宿泊施設「協働会館」として使われるようになったのだとか。

しかし、2000年に老朽化のため閉鎖され、保存運動の高まりで2009年に港区の有形文化財の指定を受けて現在に至っている。

この検番以外にも花街時代の古い料亭建築を観ることができる。

↓の建物は所々リフォームされ、昔のままの状態でないのがやや残念だ。

芝浦花街時代に料亭だった建物
芝浦花街時代に料亭だった建物

こんな具合に芝浦花街の面影を辿れるので、この界隈を歩くことをおすすめする。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099