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かつて芝浦の海上に浮かんでいたロセッタホテル【連載:アキラの着目】

明治末頃に撮影されたロセッタホテル (港区立郷土歴史館所蔵、最新東京名所百景より)FJ時事新聞ニッポンニュースで度々取り上げてきた東京都港区の芝浦。

芝浦は知る人ぞ知る、伝説の刑事ドラマ『西部警察』のロケ地であった。

芝浦は江戸湾(東京湾)の浅瀬であったため、戦国時代には後北条氏が水軍拠点を置き、北条氏縁戚の吉良頼康と玉縄城主・北条綱成の管理下に置かれていたとのことだ。

そんな由緒ある(?)芝浦だが、明治時代には海上に浮かぶロセッタホテルがあった。

ロセッタホテルは、JR「田町」駅とゆりかもめ「芝浦ふ頭」駅の中間地点にあったと思われる(1/20000「東京南部」[明治42年測図大正4年製版 1896-1909]参照のこと)。

1/20000「東京南部」[明治42年測図大正4年製版 1896-1909]
1/20000「東京南部」[明治42年測図大正4年製版 1896-1909]
1/20000「東京南部」[明治42年測図大正4年製版 1896-1909]の芝浦地区の拡大図及びロセッタホテル
1/20000「東京南部」[明治42年測図大正4年製版 1896-1909]の芝浦地区の拡大図及びロセッタホテル
現在の芝浦周辺及びロセッタホテルがあった場所
現在の芝浦周辺及びロセッタホテルがあった場所

明治末頃に撮影されたロセッタホテル (港区立郷土歴史館所蔵、最新東京名所百景より)
明治末頃に撮影されたロセッタホテル
(港区立郷土歴史館所蔵、最新東京名所百景より)

このロセッタホテル、ご覧のように大型船をリノベーションしたホテルだったのだ。

明治末頃に撮影されたロセッタホテル(港区立郷土歴史館所蔵、最新東京名所百景より)と同じ場所からの写真 Google ストリートビューから引用
明治末頃に撮影されたロセッタホテル(港区立郷土歴史館所蔵、最新東京名所百景より)と同じ場所からの写真
Google ストリートビューから引用

ロセッタホテルの元になった大型船は、1900年(明治33年)に日本丸級貨客船3隻の予備としてイギリスから東洋汽船が購入した「ロセッタ」だった。

その「ロセッタ」を「ろせった丸」(3,502トン)と命名し、翌1901年(明治34年)12月5日から始まった香港・マニラ航路に就航させたのだが、日露戦争時に「ろせった丸」は軍に徴傭され、病院船として軍務に服したのだった。

東京風景(小川一真出版部 明44.4出版) 国立国会図書館デジタルコレクションから引用 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764167/61
東京風景(小川一真出版部 明44.4出版)
国立国会図書館デジタルコレクションから引用
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764167/61
「Rosetta Hotel. ロセッタホテル p61/64
是は芝浦の海瀕に在るロセッタホテルの全景也、本館は日露交戰の際武器兵厰運送の用に充る爲め、外國より購入せしロセッタ號と稱せし船舶の化身なり、元來老船なりし爲め、爾後航海の用に適せざるいり茲に据付けて旅館兼料理店と爲し、一種風變りの設備を呼びものとし、世の喝采を博するの趣向なり」

当時のガイドブック等によれば、和・洋・中華の料理を500人で会食可能な大広間や1,000人以上が使用できる園遊会場・船内宿泊の設備があったとの記載がある。

画家・木村荘八は「芝浦の埋め立てが始まる頃、忽然として海の中に、長い桟橋伝いに行く、ロセッタ・ホテル(表記原文のまま)という、大汽船を澪につないだ異観。それを改造してホテル仕立てにした新風景が現われて、一時流行したことがあった」(『大東京繁盛記』)と記している。

その後、「ろせった丸」は第一次世界大戦に駆り出されたようだが、詳細は不明でいつ廃船になったかもわからない。

かつて海上に浮かぶ大型船のホテルがあったとは思えないくらい陸地と化した芝浦。

歴史を掘り下げたい人は芝浦散歩をオススメする。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part20~【連載:アキラの着目】

しばらくお休みしていた「ここは一体東京のどこ?」。

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第20弾だ。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。

では順番に正解を発表する。

A1.港区芝浦(竹芝橋 東京ポートボール方面)

港区芝浦(竹芝橋 東京ポートボール方面)

正解は港区芝浦で、それも竹芝橋だ。

古いほうの写真は、もうFJ時事新聞を見慣れている人ならおわかりかと思うが、伝説の刑事ドラマ『西部警察』でのワンシーン。

加納竜さん演じる新人刑事・桐生一馬が一般道を高速で走行し、ダイブした名シーンなのだ(芝浦運河を飛び越えたシーンとは異なる)。

背景の窓ガラスが細かいビルは現在も存在している東京ポートボールというボーリング場。

この竹芝橋のある通りは「旧海岸通り」で、『西部警察』では頻繁にカーアクションで使われたロケ地なのだ。

A2.港区芝浦(芝浦運河通り 愛育病院前)

港区芝浦(芝浦運河通り 愛育病院前)

これまた正解は港区芝浦で、芝浦運河通りのほう。

写真右手には現在、愛育病院が建つ。

地図をご覧頂ければ一目瞭然だが、芝浦運河通りの愛育病院前は、第1問の竹芝橋とは目と鼻の先ほどの距離。

つまり、『西部警察』のカーアクションは、同じ芝浦界隈で撮影されても、同じエリアばかりで撮影したと視聴者から悟られないように、様々な角度から撮影されていたのだ。

A3.港区芝浦(竹芝橋 北側)

港区芝浦(竹芝橋 北側)

正解は、これもやはり港区芝浦で、竹芝橋の北側から撮影している写真だ。

「3つ連続で港区芝浦とは、いいかげんにしろ!」と怒り心頭の人もいるかもしれないが、そこは気長にお付き合い願いたい。

竹芝橋は道路の平地部分に比べ、一段高いため、古い写真でいうと、クルマ3台の背景に映り込む道路面が高くなっているのが判別ポイントの1つ目。

もう1つの判別ポイントは、やはり背景に映り込んでいる、道路の突き当りにある茶色の建物だ。

この茶色の建物は現在も存在しているので、ゆえに東京都港区芝浦と判別できるのだ。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

港区芝浦(竹芝橋 東京ポートボール方面)の今昔

港区芝浦(竹芝橋 東京ポートボール方面)の今昔

港区芝浦(芝浦運河通り 愛育病院前)の今昔

港区芝浦(芝浦運河通り 愛育病院前)の今昔

港区芝浦(竹芝橋 北側)の今昔

港区芝浦(竹芝橋 北側)の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画、『西部警察』のロケ地を見つけたら、取り上げてみたい。

旧芝浦花街の「見番」再生、地域住民交流の場・伝統文化交流館に【連載:アキラの着目】

港区立伝統文化交流館 港区立伝統文化交流館公式サイトから引用かつての東京には50近くの花街(かがい・はなまち)が存在した。

花街についてよく知らない人のために説明すると、花街とは元々、芸者屋、遊女屋が集まっているエリアをいっていた。

近年では、芸妓(=芸者)のいるエリアを花街といい、遊女・娼婦はいない。

話を元に戻すと、今でも東京で現存している花街は神楽坂や赤坂、新橋などで、廃れて消滅した花街のほうが圧倒的に多い。

芝浦(東京都港区)も花街が消滅してしまったエリアだ。

しかし、往時の姿を残す、見番(※)だった木造建築は、奇跡的に残されている。

旧芝浦花街にある見番だった木造建築(2012年当時)
旧芝浦花街にある見番だった木造建築(2012年当時)

芝浦花街の見番だった木造建築は、昭和11年に芝浦花柳界の見番として建設され、利用されたが、東京都が建物を買い取り、戦後は「協働会館」として港湾労働者宿泊所に利用されてきた。

平成21年に東京都から港区へ無償譲渡されたのを機に港区は、見番だった木造建築を港区有形文化財に指定したが、前掲画像および以前のニッポンニュース(2017年11月13日ニッポンニュース「FJ時事新聞近辺散歩 ~芝浦(東京都港区)~【連載:アキラの着目】」)で取り上げた通り、老朽化のためネットが張られ、しばらくは立入禁止だった。

ところが、平成26年度に、歴史的に貴重なこの、見番だった木造建築を保存し、かつ区民等の利用に供して利活用するために、地域との意見交換も踏まえ、整備計画を策定したのだ。

そしてついに、今年令和2年5月26日に伝統文化交流館としてオープン、様々な伝統文化や地域の文化に関する事業を行うことにより、伝統や文化を次世代へと繋いでいく施設に再生されたのだった。

港区立伝統文化交流館 港区立伝統文化交流館公式サイトから引用
港区立伝統文化交流館
港区立伝統文化交流館公式サイトから引用

施設内には地域の歴史・文化展示スペース、観光案内・散策立ち寄りスペース、福祉喫茶・特産品等紹介販売スペースが設置され、舞台もあることから寄席や演劇等の公演も催されることだろう。
港区立伝統文化交流館 港区立伝統文化交流館公式サイトから引用

港区立伝統文化交流館内 港区立伝統文化交流館公式サイトから引用
港区立伝統文化交流館内
港区立伝統文化交流館公式サイトから引用

無料だから、近隣に住んでいる人やオフィスで勤務している人は、行ってみるべし。

※見番とは、「置屋」、「料亭」、「待合」からなる「三業」を取りまとめて、芸者の取次や派遣、遊興費の清算をする施設をいい、検番と表記することも。

【伝統文化交流館(旧協働会館) 概要】

・所在地:港区芝浦1-11-15(2階建)
・アクセス:JR田町駅東口 徒歩8分、都営地下鉄三田駅A6出口 徒歩9分、ちぃばす芝ルート・芝浦港南ルート(品川駅港南口行)「みなとパーク芝浦」徒歩3分、芝浦港南ルート(田町駅東口行)「芝浦一丁目」徒歩4分
・開館日:1月4日~12月28日(その他臨時休館日あり)
・開館時間:午前10時~午後9時
・入館料:無料(「交流の間」を貸切利用する場合や、催しによっては別途料金かかる場合あり)
・敷地面積:618.10平方メートル
・延床面積:442.36平方メートル
・問合せ:03-3455-8451

港区立伝統文化交流館までのアクセス 港区立伝統文化交流館公式サイトから引用
港区立伝統文化交流館までのアクセス
港区立伝統文化交流館公式サイトから引用

【伝統文化交流館(旧協働会館) 貸室の案内】

2階「交流の間」を貸室として利用可能(要事前の利用登録)

・対象:区内在住・在勤・在学の団体または個人
・貸室使用料:午前 午前10時から正午まで 5,700円
       午後 午後2時30分から5時30分まで 8,500円
       夜間 午後6時から9時まで 8,500円

来館にあたっては、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、以下のことに理解と協力をすること

●ご来館前に健康状態の確認と検温を行い、体調のすぐれない場合は来館を控えること
 ※37.5度以上の発熱がある、息苦しさ(呼吸困難)・強いだるさがある、軽度であっても咳・咽頭痛などの症状があるなど
●過去2週間以内に、感染が引き続き拡大している国・地域へ訪問したことがある場合は、来館を控えること
●館内ではマスク着用必須
●手指消毒すること
●周囲の人との間に適度な距離(最低でも1メートル以上)をとること
●混雑時は入場制限で待つ場合あり
●来館時は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のために、氏名・緊急連絡先等の記入に協力頂く

■港区立伝統文化交流館
https://minato-denbun.jp/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part7~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第7弾。ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。では順番に正解を発表する。

A1.浜松町そばの芝浦

正解は浜松町そばの芝浦で、線路脇の「芝浦製作所」が後に「東京芝浦電気」となり、さらに商号変更により「東芝」となって現在に至っている。

昔の芝浦は風光明媚な砂浜が広がり、海水浴客を相手に店ができ始め、最盛期には料亭、待合(芸者待機所)等がひしめく、東京でも屈指の花街にまで成長したが、現在はひっそりとしたマンションの立ち並ぶ場所に。

A2.池袋

北側からちょうど左側の山手線と右側の赤羽線(現・埼京線)の分岐点周辺を撮った写真。

山手線は池袋を過ぎ、大塚方面に行くと左右の大地よりも低い所を通るが、これは明治時代に手掘りで掘削して、線路を敷いたからなのだ。

A3.西麻布(青山墓地下)

現在の西麻布交差点を少し北上し、右に曲がった周辺を捉えたモノクロ写真(撮影・諸河久さん:1964年5月16日)。

ご覧の通り、元々は都電の専用軌道だったが、都電廃止に伴い、専用軌道は道路として整備された。

モノクロ写真左手の森口石材は、現在もビルの1階で営業している。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

浜松町そばの芝浦の今昔

池袋の今昔

西麻布(青山墓地下)の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

FJ時事新聞近辺散歩 ~芝浦(東京都港区)~【連載:アキラの着目】

東京都港区海岸にある当社・FJ時事新聞(正式名・BUKKYO時事新聞)。

会社事務所の近辺には東海道などがあるので、歴史的建造物や名残が結構存在する。

これまでにも海岸線の名残や、徳川幕府の菩提寺である芝・増上寺、愛宕山・愛宕神社を紹介してきたが、今回は芝浦花街(しばうらかがい・しばうらはなまち)について紹介する。

花街(かがい・はなまち)という言葉が出てきたが、まずはこの花街とは何なのかを簡潔に説明すると…。

花街とは、芸妓屋(げいきや)、遊女屋(ゆうじょや)が集まっている区域をいい、花柳(かりゅう)ともいう。

売春防止法施行(1957年)までは、多くの花街に芸妓と娼妓の両方がいたが、今日花街といわれている区域は、芸妓遊びのできる店を中心に形成される区域をさす。

東京には、こうした花街が最盛期には40近くあり、芸者も相当数いたのだ。

芝浦花街は、この40近くあった花街のうちの1つで、位置的にいうと、田町駅からほど近い港区スポーツセンターの北東側区域にあった。

芝浦花街のあったエリア
芝浦花街のあったエリア

早速この区域を歩くと、古い木造建築を発見することだろう!

念入りに防御ネットで覆われたこの古い木造建築こそが、「検番」といわれるものだ。

芝浦花街の検番
芝浦花街の検番

芝浦花街の検番
芝浦花街の検番

検番とは、一言でいうと、芸者待機所だ。

引き合いがあれば、ここから芸者が派遣されるのだ。

唐破風もある立派な作りの和建築であるこの検番は、昭和11(1936)年に目黒雅叙園の創業者・細川力蔵氏によって芸妓検番として建設された。

戦時中に東京都港湾局の所有となり、港湾労働者宿泊施設「協働会館」として使われるようになったのだとか。

しかし、2000年に老朽化のため閉鎖され、保存運動の高まりで2009年に港区の有形文化財の指定を受けて現在に至っている。

この検番以外にも花街時代の古い料亭建築を観ることができる。

↓の建物は所々リフォームされ、昔のままの状態でないのがやや残念だ。

芝浦花街時代に料亭だった建物
芝浦花街時代に料亭だった建物

こんな具合に芝浦花街の面影を辿れるので、この界隈を歩くことをおすすめする。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

今見ることのできる昔の東京の海岸線【連載:アキラの着目】

東京都港区海岸にある当社「BUKKYO時事新聞株式会社」。

東京湾に面していることもあり、事務所の窓を開ければ、汐風が吹き込んでくるロケーションだ。

東京湾お台場方面の眺望

毎日昼休みには会社周辺を歩くのだが、結構昔の名残を発見することができる。

今回は、当社周辺で見ることのできる昔の東京の海岸線を取り上げてみたい。

当社「BUKKYO時事新聞株式会社」のあるエリアは、海だった!

元来、江戸切絵図を見るのが好きなこともあり、昔の東京はどうなっていたのか、現在の地図と照らし合わせ、比較検討したりしてきた。

そこで判明したことは、当社「BUKKYO時事新聞株式会社」のあるエリアは、海だったということと、東京都港区を走る山手線(京浜東北線、新幹線)を堺に、内側(西側)が陸地、外側(東側)がすぐ海であったということだ。

厳密にいうと、開業当初は、線路は海の上にあったのだ。

新橋-桜木町路線 高輪大木戸付近明治期の高輪大木戸付近

東海道の邪魔にならないようにとのことで、海岸のすぐ沖合を埋め立て、線路敷設用地を盛土したのだ。

したがって最初は海岸線に沿って鉄道が敷かれていた。

明治期の芝浦周辺図明治期の芝浦周辺図 ※○と番号は、下記に掲載する同じ番号の文章と写真を参照

それが時代が下るにつれ、陸地はどんどん埋め立てられ、沖合が伸び、現在のようになった次第だ。

現在の芝浦周辺図現在の芝浦周辺図 ※○と番号は、下記に掲載する同じ番号の文章と写真を参照

芝浦周辺(浜松町-田町)で見ることができる旧海岸線

かつて海岸だった名残が浜松町駅に見ることができる。

大門から浜松町に伸びる大通りが、浜松町駅前のJR線ガードに到達する直前で、斜めに道路が降下するのだ。

これは海岸、すなわち砂浜から海にかけての傾斜であったことを物語っており、まさに浜松町駅のある場所は、陸地と海の際(きわ)だったことがわかる。

(1)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 海岸線の名残1(1)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 海岸線の名残1

似たような地形の名残は田町駅にも見てとれ、また、浜松町・田町間におけるいくつかのガード下も同様だ。

(2)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 海岸線の名残2(2)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 海岸線の名残2
(3)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 海岸線の名残3(3)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 海岸線の名残3
(4)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 海岸線の名残4(4)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 海岸線の名残4
(5)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 旧海岸線 道を堺に左が海、右が陸地だった(5)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 旧海岸線 道を堺に左が海、右が陸地だった

「江戸無血開城」の舞台となった薩摩屋敷の裏手も海だった!

第1京浜通り沿いには、「西郷南洲・勝海舟会見の地」の碑があり、西郷隆盛と勝海舟が会談した有名な「江戸無血開城」はまさにこの地で行われた。

ここには江戸期、薩摩藩屋敷があり、屋敷のすぐ裏は浜辺だったことが確認できる文献も現存することから、やはりここも陸地と海の際(きわ)だったことがわかる。

また、浜松町から田町にかけてのエリアは芝浦と呼ばれ、古典落語「芝浜」の舞台となった浜も、現在は児童公園として生まれ変わっている。

なお、浜松町からほど近い家電メーカーの東芝は、元々は「東京芝浦電気」という名称で、この芝浦が発祥の地であることが今も社名に残っている。

芝浦以外でもまだまだ古き良き江戸・東京は残っている!

以上見てきたように、芝浦界隈(浜松町・田町周辺)には、昔の海岸線の名残が存在する。

芝浦以外でも、探せば古き良き江戸・東京が意外とまだまだ残っているものなので、これをきっかけに歩くことをオススメする。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099