昨日3月18日、政府は首相官邸にて新型コロナウイルス感染症対策本部会合を開き、東京、神奈川、埼玉、千葉の1都3県に発令中の緊急事態宣言を3月21日(日)までで解除することを正式に決定した。
1月8日から開始されていた緊急事態宣言が2ヵ月半ぶりに解除されるが、解除によっての反動を危惧する見方や、花見シーズンと重なることで再び新型コロナウイルスの感染拡大に繋がるのではないかとの見方もあり、緊急事態宣言が解除されても引き続き予断を許さない状況とも言えよう。
2017年08月13日ニッポンニュース「香ばしい味!お茶専門店のほうじ茶ソフトクリーム!!【連載:アキラの着目】」では、ほうじ茶ソフトクリームを取り上げた。
そのほうじ茶ソフトクリームの店「日本橋人形町(甘酒横丁)森乃園」のほうじ茶を今回は取り上げる。
この日本橋人形町(甘酒横丁)森乃園は、ほうじ茶で有名な店として知られており、店舗周辺は、ほうじ茶の香りが漂っている。
ほうじ茶を自家焙煎しているからで、香りも味も間違いないクオリティなのだ。
当然ながら、日本橋人形町(甘酒横丁)森乃園の店頭は、ほうじ茶のオンパレード状態。
オーソドックスなほうじ茶はもちろんのこと、薬膳ほうじ茶や玉露ほうじ茶、玄米ほうじ茶、黒豆ほうじ茶、韃靼そばほうじ茶、桑の葉ほうじ茶、しょうがほうじ茶、梅ほうじ茶、あずきほうじ茶、まだまだあって、甜ほうじ茶、春のみの期間限定品・桜ほうじ茶もある。
極めつけは、ミントほうじ茶で、ミントの香りがほうじ茶の香りとぶつかり合うのではないかと、消費者からすると、懸念してしまいがちだが、そんなことはなく、比較的若い人たちが手にとっている。
こうした斬新な味のほうじ茶を販売しているということは、それだけほうじ茶を極め、ほうじ茶のさらなる可能性を追求する姿勢があるということでもあり、ほうじ茶専門店であるからこそできる離れ業ともいえよう。
甘酒横丁に行った際は、ぜひ手にとって、お試しすることをおすすめする。
あいにく遠くて、日本橋人形町(甘酒横丁)森乃園には行けそうもない人には、オンラインショップから、前述のほうじ茶を購入することもできるので、そちらも利用すると良いだろう。
■自家焙煎ほうじ茶と甘味処の店 日本橋人形町森乃園HP
http://morinoen.jp/
■ほうじ茶の通販|大正三年創業 日本橋のほうじ茶専門店【森乃園】
http://www.morinoen.com
■ミントほうじ茶|ほうじ茶の森乃園公式通販サイト
http://www.morinoen.com/shopbrand/ct124/
今回取り上げるのは、青松寺、総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられる萬松山泉岳寺(以下文中表記は泉岳寺)だ。
泉岳寺は、慶長17年(1612年)に徳川家康が、幼少時に身を寄せた今川義元の菩提を弔うために、門庵宗関和尚(1546年~1621年)を招いて、江戸城近接の外桜田に創建された曹洞宗の寺院だ。
寛永18年(1641年)寛永の大火によって泉岳寺は伽藍を焼失し、三代将軍・徳川家光(1604年~1651年)の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷(みずのや)の5大名により、現在の高輪の地に移転再建された(正保年間〈1644年~1648年〉という説もあり)。
筆者にとっての泉岳寺は、家康がどうこう、家光がどうこう、というよりも、やはり浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)と赤穂四十七義士の墓所がある寺院としての印象が強い。
よくご存知ではない人のために、簡単に浅野内匠頭長矩と赤穂四十七義士による「赤穂事件」(「忠臣蔵」、「赤穂義士伝」ともいわれている)について説明すると…。
江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩が切腹に処せられた。
この一件では、一方的に浅野内匠頭長矩のみが切腹で、吉良上野介にはお咎めなしという裁定が下され、なおかつ赤穂藩浅野家は改易(お家取り潰し)になったことで、浅野内匠頭長矩家臣の大石内蔵助良雄以下赤穂四十七義士が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央らを討って、主君の敵討ちを果たした。
その後、赤穂四十七義士は、徳川幕府から切腹を命じられ、ゆえに、彼らの墓所がこの泉岳寺にあるということなのだ。
では、前置きはこれくらいにして、実際に行ってみよう。
都営浅草線・泉岳寺駅西側に位置する坂を登った突き当りに泉岳寺はある。
ちょうど坂を登りきった辺り(伊皿子坂の起点)に、泉岳寺周辺の地理を把握できる「高輪潮の香散歩」という地図があるのだが、
この地図を見ても見なくても、真正面には泉岳寺中門をしっかりと視認でき、
さらに奥の泉岳寺山門(「泉岳寺」と書かれた扁額)も視認できる。
まずはとにかくこの泉岳寺中門を潜り、泉岳寺山門に到達しよう。
泉岳寺山門を潜る前に、門右手に泉岳寺境内の地図と、大石内蔵助良雄(おおうちくらすけよしお/よしたか)の銅像があるので、それらを見てから参拝する。
大石内蔵助良雄は、江戸本所の吉良屋敷表門に突入した大将で、赤穂四十七義士のリーダー的存在だ。
泉岳寺山門を潜ると、横広な本堂が視界に飛び込んでくる。
筆者は、あえて松の木越しに見たくて、そのポイントでスマホカメラを使って撮影。
↓は、今潜った泉岳寺山門の方を見返した写真で、先ほどの写真は、まさにこの斜めに聳え立つ松の木越しから撮影した。
本堂で参拝した後に撮影したのが↓の写真。
ここでもやはり、独特のうねりで成長した松の木を見ることができる。
さらに本堂南側に回り込むと、澤木興道(1880年~1965年)老師の銅像が現れる。
浅野内匠頭長矩と赤穂四十七義士の墓所は、泉岳寺山門南側の一角に「義士墓所」の立て札があるので、それに従って南方向に歩こう。
すると、「主税梅(ちからうめ)」なる梅の木が現れる。
この「主税梅」は、大石良金(おおいしよしかね)こと大石主税(おおいしちから)が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていたと伝えられている梅なのだとか。
「主税梅」のすぐ脇が国指定史跡「赤穂義士墓所」の入口だ。
ちなみに筆者が行った時は、ちょうど前方から戻ってくる西洋人カップルと出くわした。
「赤穂義士墓所」入口を進むと、左手には「赤穂義士記念館」が、
右手には「義士木像館」があり、これらには別の機会に立ち寄ろうかと。
さらに進むと、「義士墓入口の門」がお出迎え。
この門を潜ると、線香売り場があるので、そこで線香一束(税込100円)を購入し、義士たちへ線香をあげよう。
墓所には、来訪者のために墓の位置を記した「義士墓解説」が和文、英文2種類があり、これでどの墓が誰なのか把握できる。
筆者も他の訪問者同様に、義士たちの墓に線香をあげたのだが、墓石に刻まれた「享年」を見ると、20代、30代の若い義士たちが多く、彼らの多くが短い人生だったことに衝撃を受けた。
こう言ってしまうと、非常に失礼極まりないのだが、サラリーマンに例えると、てっきり中高年の役職クラスばかりだろう、という勝手なイメージを持っていただけに、呆気にとられてしまった。
個別に墓を撮影することはしなかったが、引いたアングルでは2枚撮影。
今回は駆け足で廻ってしまったこともあり、次に参る際は、もう少しじっくりと廻ってみようかと思った次第だ。
■曹洞宗 江戸三ヶ寺 萬松山 泉岳寺
http://www.sengakuji.or.jp/
・所在地:東京都港区高輪2-11-1
・アクセス:都営浅草線 泉岳寺駅下車(A2出口) 徒歩1分 約200m
※線香の料金は2018年3月6日現在のもの
筆者は、甘い物が苦手だ。
日本人なのに、特に和菓子は苦手で、当然ながら和菓子に使われるあんこも苦手だ。
しかし、そんなあんこ嫌いの筆者でも例外が存在する。
中野の住宅地にひっそりと佇む「道楽や」のどら焼きは、美味しく頂けることができるのだ。
甘さ控え目のあんこが内包されたどら焼きだから、えげつない甘さが口中を支配するといったことがないのだ。
それというのも、あんこの原料である黒豆を丁寧に灰汁(あく)を取りながら、二日かけてゆっくりと煮詰めるという手間暇をかけているから、筆者のようなあんこ嫌いでも食べることができるあんこに仕上がるのだ。
また、あんこやどら焼きそのものの良さもさることながら、どら焼きを入れる可愛い巾着(希望者のみ・有料)も上品で、ケチのつけようがないというのは、この店のためにある言葉なのかと思ってしまうくらいだ。
筆者はここのどら焼きを食べてしまったことで、他のどら焼きは完全に食べることができない体質になってしまった。
正直なところ、この「道楽や」を多くの人に紹介したくなかったが、今回は特別に取り上げた次第だ。
■道楽や
所在地:東京都中野区東中野4-20-15
公式Facebookページ:https://ja-jp.facebook.com/dourakuya/
日本人は、悲劇のヒーローが好きだったり、判官贔屓(ほうがんびいき・はんがんびいき)であったりする。
ゆえに源義経や真田信繁(真田幸村)が好まれるのだ。
そうした悲劇のヒーローの中でも、関東全域を一時的に平定した豪族の平将門(たいらのまさかど・903年~940年)公に対して好意を寄せる日本人はかなりおり、とりわけ江戸っ子は平将門公が大好きで、平将門公を祀った神田明神に足繁く参拝する。
この平将門公は、人に頼まれると人情に厚い人だから、何とかしようとする人物だったが、反逆の士として当時の朝廷から睨まれ、討たれてしまった。
平将門公の首は処刑された京都から、当時の武蔵国豊島郡平川村(現在の皇居平河門周辺)に飛んできたとも、観音堂の傍らに埋葬したとも言い伝えられ、その首を祀ったのが将門塚(しょうもんづか)と言われている。
現在この将門塚は千代田区大手町にあり、前述した判官贔屓の江戸っ子たちによって長年大切に保護されてきた。
しかし、近代になってから以下のような破壊の憂き目に度々遭い、その度に平将門公の祟りにあったと思われる死亡や怪我・病気が頻発した。
1.関東大震災で全焼した大蔵省庁舎の再建工事の際に、将門塚を壊し、大蔵省仮庁舎を建設したところ、そのわずか2年間で大蔵大臣を始めとする関係者14名が死亡、また多くの怪我人・病人が続出した。
2.戦後、日本占領中のGHQ(米軍)が将門塚の取り壊し工事を始めたら、工事用重機が横転、その運転手が死亡し、やむなく取り壊し工事を中止するに至った。
これら以外でも、高度経済成長期に将門塚の一部が売却され、その地に建設されたビルの、将門塚に面した社員が次々に病気になる事態に陥り、お祓いしたということもあった。
こうした平将門公の祟りに触れないよう、現在では将門塚に隣接するビルは、将門塚に尻を向けぬようデスクの配置をしたり、将門塚を見下ろすことがないよう、隣接ビルには窓を設けない等の配慮がされているようだ。
このように、将門塚を壊したり、不敬なことをするから平将門公の逆鱗に触れ、祟るのであり、真面目に平将門公および将門塚を敬えば、むしろご利益にあやかれる。
平将門公が神田明神の祭神となる遥か昔から祭神として祀っている筑土神社は、日本武道館の氏神でもあり、武道を志す方たちから崇敬されており、あらゆる勝負事に対する絶大なご利益を授与しているのだ。
因みにこの筑土神社、戦前までは平将門公の首級を納めた首桶、平将門公肖像画、木造の束帯坐像等が社宝として伝わっていたものの、戦災で焼失、現在はそれらの写真のみが残っている。
千年以上もの時が流れても、平将門公のパワーは強大で、今もなお人々の信仰を集める人気の存在なのだ。
【将門塚 詳細データ】
・所在地:千代田区大手町1-2-1
・アクセス:東京メトロ大手町駅C5出口すぐ
■将門塚保存会
http://masakado-zuka.jp/
■千代田区観光協会将門塚
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/362/Default.aspx
日本で新宿に次ぎ2番目の鉄道乗降客数を誇る若者の街・渋谷。
特に若い女の子から絶大な支持を得ており、お隣の原宿と並び、女性のファッションや流行で常に先頭を行く街だ。
そんな渋谷だが、年配の方々曰く「5、60年くらい昔は、渋谷はオヤジの街で、今のような若い女の子の街になるとは想像つかなかったよ」とのことだ。
では昔の渋谷はどのような街だったのか、1896-1909年の渋谷周辺図を見てみた。
すると昔の渋谷には意外な発見が!
なんと現在、渋谷区役所のある場所には「衛戌監獄」(えいじゅかんごく)と右始まりの文字が、さらにNHK放送センターや代々木公園のある場所には「代々木練兵場」の文字が書かれてあるではないか。
どちらも軍関連施設であり、現在の若い女の子がキャーキャー言ってるような渋谷の雰囲気とは完全に真逆だ。
むしろキャーキャー言ってはいけない街だったかのように推測できるかと。
また、この「衛戌監獄」のすぐそばに明治時代の作家・国木田独歩が居を構えていたとのことで、友人の作家・田山花袋が国木田独歩宅を訪ねた際、周辺の小川には水車が回り、乳牛を搾って製品にしていた牛乳屋があったとのことだ。
昔の地図をさらに見続けてゆくと、現在東急百貨店本店・Bunkamuraがある場所の裏手は「鍋島農場」になっており、畑だったことも判明。
大都会・繁華街の渋谷とはイメージを異にする長閑な風景が広がっていたことが想像できよう。
昔の地図を眺めることで、実際は見たことがないけれども、かつての風景がイメージとして膨らみ、思いを馳せることができるのも、地図の良さだ。
ただ単純に道や場所を提示するだけが、地図の役割ではないのだ。
暇な時に昔の地図を眺めてみよう。
ここ数年、注目を集めている店が西新宿に存在する。
その店とは作業着・安全作業用品の専門店・萬年屋だ。
萬年屋では、作業服、制服、事務服、防寒服からヘルメット、軍手、革手袋、安全靴、スニーカー、防塵めがね、防塵マスク、防毒マスク、防弾チョッキ、災害用グッズなど、ユニフォームや安全作業用品を数多く取り扱っているのだ。
最近では海外観光客にも知られるようになり、”ニンジャ・シューズ”こと地下足袋を買いに来店するのだとか。
2018年2月7日現在の萬年屋HPのトップには、東京都庁をバックに男性モデル(店員!?)が、萬年屋アイテムで着飾っている。
男性モデル(店員!?)が着用しているジャンパーは、「綿100%アルミ裏地防寒」で、優れた保温性を有している一品だ。
「でも、所詮作業着なんでしょ?」と揶揄する人がいるかもしれないが、そんなことはない!
男性ファッション誌にも萬年屋のアイテムは取り上げられたことがあるのだ。
これを見ると、ついツナギも欲しくなってしまう。
しかも萬年屋のアイテムは男性だけにはとどまらない。
ハイファッション・モード系の女性向けファッション誌にも萬年屋のアイテムが紹介され、とても作業着とは思えないお洒落な着こなしができるのだ。
作業着は”ヤンキー・ファッション”に見られがちだが、決してそんなことはなく、十分にクールなアウトフィットとして成立するのだ。
安全靴や地下足袋も豊富なカラー・バリエーションがあり、一昔前までは考えられなかった色もあるので、興味のある人は一度萬年屋を訪れてみてはいかがだろうか。
■株式会社萬年屋HP
【日本語版】
http://www.mannen-ya.co.jp/
今日のニッポンニュースで取り上げるのは、東京の穴場観光巡りにふさわしいスポット・文京区シビックセンター展望台だ。
その名の通り、文京区シビックセンターにある展望台ということなのだが、要するに文京区役所の最上階にある展望フロアをこう呼ぶ。
商業施設ではなく役所なので、そこが盲点となり、訪れる人が少なく、ゆえに穴場となっているのだ。
また、渋谷、新宿、池袋といった大ターミナル駅・繁華街にあるわけでなく、春日駅という特に街というほどでもないところにあるのも、穴場であることの要因にもなっているかと。
しかし、侮ることなかれ!
文京シビックセンターは25階建ての高層で、東京の隅々をしっかり見渡せるのだ。
それも、時間帯によっては、訪れる人間が自分しかいなく、まさに貸し切り状態ということもあり得るのだ。
もうこれは文京シビックセンター展望台に行くしかないだろう。
■文京シビックセンター展望台
http://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/osusume/lounge.html
上野のパンダ・シャンシャン誕生記念で発売されたコカ・コーラ上野限定ボトル。
細身の赤いボトルには、竹を齧っているパンダと、上野不忍池辯天堂と蓮の花と葉が描かれている。
「上野」の文字も、細身のボトルにはみ出さないようメリハリを効かせた明朝体を使用しており、タイポグラフィを実践したクールなデザインだ。
ちなみにコカ・コーラ地域限定スリムボトルは、6月から発売されており、北海道限定(北海道ボトル)、東京を中心とした地域(東京ボトル)、関西(京都ボトル)、中国・四国(瀬戸内ボトル)、九州(熊本ボトル)、そして11月からは上野ボトル、埼玉ボトル、名古屋ボトルも発売済みだ。
まだ飲んでいない人は、今すぐコカ・コーラ限定ボトルをゲットだ!
■国内5地域限定!「コカ・コーラ」スリムボトル 地域デザイン
https://www.cocacola.co.jp/press-center/news-20170613
■「コカ・コーラ」スリムボトル 上野・埼玉・名古屋限定ボトル
https://www.cocacola.co.jp/press-center/news-20171109-11
前回は、お台場の地名の由来となった、品川台場(品川砲台)の成り立ちについて説明した。
今回は、実際に品川台場(品川砲台)の中で現存している第三台場のレポートをお伝えする。
第三台場へのアクセスは、ゆりかもめが便利で、「お台場海浜公園」駅で下車する。
新橋からゆりかもめに乗り、「芝浦ふ頭」駅を過ぎて、お決まりのループも過ぎると、右手に第三台場を眺望することができる。
あらためて東京湾の中に築造された人工島なんだと認識できる。
「お台場海浜公園」駅で下車し、西側の海方面へ歩くと、台場公園やデックスお台場が網羅された案内図が現れる。
これを見て、まずは第三台場が方形であることを頭に入れておこう。
余談だが、なぜ第三台場は方形なのかというと、十字砲火を可能にするためなのだ。
話を元に戻そう。
案内図の裏手に回ると、大砲の弾に見立てた、丸い球状のオブジェなのか腰掛けなのか不明なものが現れる。
この球に座ってしばしお台場の浜辺を眺めるのもいいだろう。
西に向かって歩みを進めると、第三台場へ向かう”土橋”に着くので、そこをさらに歩いて行く。
2分も歩けば、第三台場が視界に入ってくる。
私が行った時は、欧米人女性2人が佇んでいた。
打込み接ぎ(うちこみはぎ)という石の積み方があるのだが、それに似た石垣を観ることができる。
木造の階段を上がっていくと、ちょっとした土塁に刻まれた道2本が現れるので、どちらかを通っていくと、
台場公園案内に出くわすので、しっかり品川第三台場のあらましについて読んでおこう。
台場公園案内を見たら、品川第三台場の内側に目を向けてみる。
広大な窪地が視界に飛び込んでくるので、現在自分のいる場所がいかに高く、高低差があるか、一目瞭然だ。
品川第三台場の南側角にまで行くと、某お台場テレビ局と品川第三台場の松とのコラボを観ることができる。
同じ場所から90度西方向に顔を向けると、今度は緑の生い茂った防波堤(左)と、品川第六台場(中央から右)が見える。
そのまま西方面に進むと、今度は大砲の台座が現れる。
古めかしい大砲の台座だが、幕末期のものではなくレプリカなので、感極まらないように(微笑)。
品川第三台場の西側角まで行くと、品川第六台場とレインボーブリッジの異色の組み合わせを観ることができる。
次は、広大な窪地に下りてみよう。
点々と連なった置石は、陣屋跡だ。
これまた当時のものではなくレプリカなので、誤って感激して、頬ずりしないように(微笑)。
窪地の南にあるかまど跡にも踏み込んでみよう。
城郭の虎口(出入口)のように石垣で固められた所を入り込むと、かまど(右)が見えた。
かまどをよく見ると、複数の鍋を火にかけられるような造りになっている。
因みにこのかまども当時のものではなくレプリカなので、感激して号泣しないように(微笑)。
品川第三台場の東側に行くと、今度は弾薬庫を観ることができる。
この弾薬庫は当時のままなので、感激して号泣しても構わない(微笑)。
以上、品川第三台場はじっくり観ても良し、気軽に散歩するのも良し。
人工島の割には草木が密集し、自然豊かで、野生の鳥も飛来してくるので、観光穴場スポットとしてもおすすめだ。
これでお台場は、品川台場から由来した地名ということがしっかりわかって頂けたかと思う。