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ここは一体東京のどこ?~Part10~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第10弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。では順番に正解を発表する。

A1. JR四ツ谷駅

正解は、JR四ツ谷駅。
JR四ツ谷駅

若い頃の筆者は、ちょくちょく四谷に行っていたのだが、その頃の四ツ谷駅はまさに木造駅舎で、そこだけ見ると、ローカル線の駅そのものだった。

1990年に現在の駅ビルに生まれ変わった。

A2. 品川駅港南口

今や新幹線の停車駅となっている品川駅の港南口が正解。
品川駅港南口

品川駅港南口も四ツ谷駅同様に木造だった。

同じ品川駅でも高輪口は、ややスカした雰囲気で、一方の港南口は働く人達が出入りするゲートというのがかつての品川駅だった。

今でこそ高輪口から港南口へ、またその逆も改札を通ることなく自由に行き来できるが、当時はそれができなかった。

港南口へ抜けるには長く薄暗い通路を抜けなければならず、それもあって「陰の港南口・陽の高輪口」というイメージだったが、今はやや未来的な明るいイメージに変わった港南口だ。

A3. 表参道

表参道が正解。
表参道

奥の突き当りに明治神宮がある。

昔の写真の右側に写っている四角い建物は、同潤会アパート。

当時はハイソな人たちしか購入できない高級住宅で、今でいうと高さは異なるが、富裕層向けのタワーマンションといったところか。

同潤会アパートのあった敷地の一部に現在は表参道ヒルズが建っている。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

JR四ツ谷駅の今昔

四ツ谷駅の今昔

品川駅港南口の今昔

品川駅港南口の今昔

表参道の今昔

表参道の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part9~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第9弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。では順番に正解を発表する。

A1. 東京都新宿区河田町

正解は、旧フジテレビ社屋があった河田町。
東京都新宿区にある河田町コンフォガーデン

河田町にはフジテレビ本社(新宿区河田町3-1)が1997年3月まであったが、おわかりの通りその後、港区台場へ移転。

やがて河田町に残されたフジテレビの社屋・スタジオ棟は解体され、その跡地に河田町コンフォガーデンが2003年に竣工した。

A2. 東京都港区西麻布

とんねるずの歌で一躍全国にその名が轟いた西麻布が正解。
西麻布

このモノクロ写真が撮影された当時(1965年1月23日)は、霞町(かすみちょう)と呼ばれていた。

今昔対比すると、昔の霞町は空が低く、東京タワーを四方から望めることができたのに対し、現在の西麻布は首都高速で視界を塞がれ、圧迫感が半端ない。

A3. 東京都港区溜池

これは難問だったかと。

正解は、東京都港区溜池。
溜池

現在の東京都港区溜池周辺は、溜池らしきものが全然ないにもかかわらず「溜池」という地名のままで、不思議に思っている人がきっといるはずだ。

なぜこの地を「溜池」というのかというと、昔は溜池があったからだ。

外桜田絵図(嘉永三年=1850)をご覧頂ければ(左が北)、この地に瓢箪っぽい池(右下)があるのがわかるかと。

外桜田絵図(嘉永三年=1850)
外桜田絵図(嘉永三年=1850)

ちなみに、新旧の写真で共通する奥に見えるビルや家屋は、赤坂の町だ。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

東京都新宿区河田町の今昔

東京都新宿区河田町 旧フジテレビ社屋の今昔

東京都港区西麻布の今昔

東京都港区西麻布の今昔

東京都港区溜池の今昔

東京都港区溜池の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part8~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第8弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。では順番に正解を発表する。

A1. 東京都港区大門

東京都港区大門

突き当たりの門が大門で、通りの両側は増上寺の別院と思われる。

大門という判断が下せれば、意外と簡単だったのではあるまいか。

A2. 新橋(博品館前)

新橋(博品館前)

JR新橋駅の駅名の由来となった橋だ。

したがって、この橋およびこの通りは現在の銀座通り。

A3. 品川駅

品川駅

蒸気機関車の煙突から振りまく煙や火の粉が街を焼き尽くす恐れがあるとの風評から、内陸での鉄道建設が許可されず、仕方なく海に堤防を築き、そこに線路を敷設するという苦肉の策で開通させた。

なので、品川駅も海沿いだったのだ。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

東京都港区大門の今昔

東京都港区大門の今昔

新橋(博品館前)の今昔

新橋(博品館前)の今昔

品川駅の今昔

品川駅の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part7~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第7弾。ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。では順番に正解を発表する。

A1.浜松町そばの芝浦

正解は浜松町そばの芝浦で、線路脇の「芝浦製作所」が後に「東京芝浦電気」となり、さらに商号変更により「東芝」となって現在に至っている。

昔の芝浦は風光明媚な砂浜が広がり、海水浴客を相手に店ができ始め、最盛期には料亭、待合(芸者待機所)等がひしめく、東京でも屈指の花街にまで成長したが、現在はひっそりとしたマンションの立ち並ぶ場所に。

A2.池袋

北側からちょうど左側の山手線と右側の赤羽線(現・埼京線)の分岐点周辺を撮った写真。

山手線は池袋を過ぎ、大塚方面に行くと左右の大地よりも低い所を通るが、これは明治時代に手掘りで掘削して、線路を敷いたからなのだ。

A3.西麻布(青山墓地下)

現在の西麻布交差点を少し北上し、右に曲がった周辺を捉えたモノクロ写真(撮影・諸河久さん:1964年5月16日)。

ご覧の通り、元々は都電の専用軌道だったが、都電廃止に伴い、専用軌道は道路として整備された。

モノクロ写真左手の森口石材は、現在もビルの1階で営業している。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

浜松町そばの芝浦の今昔

池袋の今昔

西麻布(青山墓地下)の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ? ~Part2~【連載:アキラの着目】

2018年01月19日のニッポンニュース「ここは一体東京のどこ?【連載:アキラの着目】」の第2弾だ。

久々に東京のどこの街・町なのか的中してほしい。

では早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

では順番に正解を発表しよう。

A1.芝 増上寺

芝 増上寺

徳川将軍家の菩提寺である芝の増上寺。

現在、赤い三解脱門は劣化させないために登ることができないが、戦災を免れた昔からの門ということで、観られるだけでもありがたい。

A2.芝 赤羽橋

東京都港区の赤羽橋交差点

増上寺に極めて近い赤羽橋が正解。

現在は、川の上に首都高速道路が架かっている。

現在のザ・プリンスパークタワー東京や芝丸山古墳のある地も、昔は増上寺の境内であったため、浮世絵に描かれている赤羽橋右手にみえる屋敷の壁は増上寺だ。

浮世絵は下の周辺図でいうと、赤い矢印の側から描かれている。

現在の赤羽橋周辺図 Googleマップから引用
現在の赤羽橋周辺図 Googleマップから引用

A3.湯島聖堂

湯島聖堂 Googleマップから引用
湯島聖堂 Googleマップから引用

神田駿河台を人工的に掘り下げ、そこに水を通し、外堀を兼ねたのが神田川。

その神田川沿いに徳川5代将軍・綱吉によって孔子廟が建てられ、後に幕府直轄の学問所となったのが湯島聖堂だ。

では最後におさらいとして、それぞれ今昔対比をさせた画像を並べる。

芝 増上寺の今昔

芝増上寺の今昔

芝 赤羽橋の今昔

芝 赤羽橋の今昔

湯島聖堂の今昔

湯島聖堂の今昔対比

今後も気になるエリアの浮世絵や昔の写真を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

「東京 カラー映像」で検索したら、昔の東京の動画がザックザク!【連載:アキラの着目】

筆者は、歴史好きだ。

ただし、世界史については熟知しておらず、もっぱら日本史が好きだ。

また、東京の街も好きだ。

したがって、「歴史 + 東京」という組み合わせも好きで、ゆえに昔の東京の街を知りたくなってしまうのだ。

頻繁に動画サイトで東京関連のキーワードで検索するのだが、最も効率が良かったキーワードが「東京 カラー映像」だ。

「東京 カラー映像」で検索したら、昔の東京の動画がザックザク出てきた。

その中の1つを今回はご紹介!

■1935年(昭和10年)東京の貴重なカラー映像
東京のカラー映像(昭和初期)

■1935年の東京と2017年の東京の比較映像 – Tokyo Then and Now

戦前の映像なので、人力車が走っていたり、和服を着ている紳士淑女が多かったり、高層ビルが少ない分だけ空が広かったり、等々、現在の東京とのギャップをかなり観ることができ、興味深かった。

この当時も大都市・東京に違いないのだが、現在の殺伐として、時間が速く流れる東京とは趣きが異なり、長閑でゆったりとした時間経過の街のように、筆者には戦前の東京が見えた。

基本的には、米国による1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で、東京は焦土と化し、何百年も遺っていた木造建築物や、明治期からの日本家屋などを失ってしまったが、以前このニッポンニュースで取り上げたように、キリスト教会や、ミッション系病院への空襲は、米国が控えていたことから、それら周辺の建物は比較的戦災を免れたりしている。

なので、現在でもそうした、生き残った建物を観ることで、昔の東京を感じることも十分にできるので、これら過去の映像と併せて、実際の生き残り建物を観ることも奨励したい。

そうすることでさらに、昔の東京についての見識を深めることができるかと思う。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

渋谷に練兵場?監獄?農場?【連載:アキラの着目】

日本で新宿に次ぎ2番目の鉄道乗降客数を誇る若者の街・渋谷。

特に若い女の子から絶大な支持を得ており、お隣の原宿と並び、女性のファッションや流行で常に先頭を行く街だ。

そんな渋谷だが、年配の方々曰く「5、60年くらい昔は、渋谷はオヤジの街で、今のような若い女の子の街になるとは想像つかなかったよ」とのことだ。

では昔の渋谷はどのような街だったのか、1896-1909年の渋谷周辺図を見てみた。

すると昔の渋谷には意外な発見が!

渋谷周辺地図 - 1896-1909年
渋谷周辺地図 - 1896-1909年

現在の渋谷周辺地図
現在の渋谷周辺地図

なんと現在、渋谷区役所のある場所には「衛戌監獄」(えいじゅかんごく)と右始まりの文字が、さらにNHK放送センターや代々木公園のある場所には「代々木練兵場」の文字が書かれてあるではないか。

どちらも軍関連施設であり、現在の若い女の子がキャーキャー言ってるような渋谷の雰囲気とは完全に真逆だ。

むしろキャーキャー言ってはいけない街だったかのように推測できるかと。

また、この「衛戌監獄」のすぐそばに明治時代の作家・国木田独歩が居を構えていたとのことで、友人の作家・田山花袋が国木田独歩宅を訪ねた際、周辺の小川には水車が回り、乳牛を搾って製品にしていた牛乳屋があったとのことだ。

昔の地図をさらに見続けてゆくと、現在東急百貨店本店・Bunkamuraがある場所の裏手は「鍋島農場」になっており、畑だったことも判明。

大都会・繁華街の渋谷とはイメージを異にする長閑な風景が広がっていたことが想像できよう。

昔の地図を眺めることで、実際は見たことがないけれども、かつての風景がイメージとして膨らみ、思いを馳せることができるのも、地図の良さだ。

ただ単純に道や場所を提示するだけが、地図の役割ではないのだ。

暇な時に昔の地図を眺めてみよう。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?【連載:アキラの着目】

世界でも有数の都市に数えられる東京。

しかし、東京といえども、一朝一夕でここまでの大都市になったわけではなかった。

江戸時代には100万人超の人口を抱えていた大都市ではあったが、現在の視点で捉えると、経済成長期前までは、まだまだローカル色の強そうな街だったのだ。

そこで今回は、まだまだローカル都市っぽかった頃の東京の街の写真3枚をピック・アップし、どこの街かあててみてみよう、というクイズにしてみた。

では早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこの街なのか?

Q2.ここは東京のどこの街なのか?

Q3.ここは東京のどこの街なのか?

3枚の写真全てがわかった人はかなりの東京通(とうきょうつう)だ。

では順番に正解を発表しよう。

A1.渋谷道玄坂

渋谷道玄坂

ちょうどこの分岐点で左に上る坂が道玄坂だ。

いまでこそ若い女の子の圧倒的支持を受けた「渋谷109」が高く聳え立ち、ランドマークとして渋谷を象徴しているが、明治時代の道玄坂はなんとも長閑で、どこの田舎の宿場町なのかと思えるくらいだ。

ここまで変わることができるのか、という街の変遷サンプルに最もふさわしいスポットかもしれない。

A2.西新宿

西新宿

貯水池のようなエリアがヒントとなり、これから西新宿と判別できる。

この貯水池のようなエリアは、明治31年(1898年)に通水し、昭和40年(1965年)に廃止となった淀橋浄水場だ。

この広大な淀橋浄水場の跡地に高層ビルが次々に建てられ、平成2年(1990年)12月には東京都庁舎が建てられた。

現在の写真を見れば、もう一目瞭然で西新宿と判別できるだろう。

因みに昔の地図では西新宿という地名は存在せず、この淀橋浄水場一帯を「角筈(つのはず)」、また熊野神社よりも西側一帯を「十二社(じゅうにそう)」と呼んでいた。

A3.丸の内(東京駅前)

丸の内(東京駅前・三菱ヶ原)

クイズに適した明治期の写真が見つからなかったので、明治23年頃に描かれたといわれている作者不明の「三菱ヶ原」という絵画を設問の素材に使用したのだが、この丸の内も昔と現在がかけ離れすぎて、驚いたかと。

元々この丸の内の場所は、明治政府からの払い下げで財閥の三菱が購入したエリアで、そのため三菱が購入した原っぱなので、当時は「三菱ヶ原」と呼ばれていた。

東京駅が完成してからも丸の内は相変わらず原っぱのままで、近所の子供たちがバッタを追いかけて、捕獲して遊んでいたのだとか。

現在、オフィス街である丸の内からはとても当時バッタが飛び交っていた原っぱだったとは想像できない。

最後にあらためて渋谷道玄坂、西新宿、丸の内の今昔写真を並列して締めくくることにする。

渋谷道玄坂の今昔

渋谷道玄坂の今昔

西新宿の今昔

西新宿の今昔

丸の内(東京駅前)の今昔

丸の内の今昔

今後もクイズに適した写真が見つかれば、第2弾、第3弾と「東京のどこの街なのか?」をやってゆきたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

FJ時事新聞おすすめスマホアプリ・『東京古い地図』【連載:アキラの着目】

新年早々、FJ時事新聞がおすすめするスマホアプリは『東京古い地図』だ。

このスマホアプリ『東京古い地図』は、明治時代の東京の街が、どのような町割りや区画だったのか、またそこは住宅地だったのか、畑だったのか、何だったのかがわかるのだ。

『東京古い地図』をインストールして起動すると、まずは東京駅周辺の古い地図(明治時代)が表示される。

『東京古い地図』を起動したら表示される東京駅周辺図

このスマホアプリでは「東京5000」という名称の地図なのだが、もっと後の時代の地図を見たい場合は、右上の「迅速測図」あるいは「地図」をクリックする。

「迅速測図」をクリックすると、戦前の軍による測量により作成されたと思われる地図が表示され、旧陸軍駐屯地なども載っている。

アプリ『東京古い地図』の「迅速測図」で表示された渋谷・恵比寿周辺

「地図」をクリックすると、現在の地図が表示される。

アプリ『東京古い地図』の「地図」で表示された渋谷・恵比寿周辺

「東京5000」、「迅速測図」、「地図」を見比べると、かなり異なる用途の土地に変わっていたりで、かなり楽しめる。

東京の街の歴史について知りたい時や、散策をして、昔を偲びたい時には、かなり重宝するスマホアプリだ。

ちなみにスクリーンショットしたこれら3枚の画像のうちの2枚目と3枚目は渋谷・恵比寿周辺を表示しており、今でこそ日本一の乗降客を誇る渋谷も「迅速測図」を見ると、長閑な田園風景が広がる村であったことがわかる。

今いる、今歩いている東京の街が昔はどうなっていたかを、この『東京古い地図』で確認しながら散策するのも楽しいかと思われる。

ぜひ『東京古い地図』をインストールして、使ってみよう!

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

昔の東京を見たいのなら、昔のドラマを観るべし!【連載:アキラの着目】

2020年の東京オリンピックを控え、渋谷の再開発や大規模道路沿いのビル再建工事など、目まぐるしく変化してゆく大都市・東京。

「あれ、ここは昔どうなっていたかな?」、「ありゃ、ここにあった木造の店がなくなっちゃって、ビルになっちゃったのか!」ということは東京においては日常茶飯事。

変わってしまった街は、もう取り戻せないし、観ることができない。

そうなると、昔の映像で観るしかないのだ。

幸い東京の場合は、昔から日本の中心地であり、ロケ地でもあるので、昔の東京の映像には事欠かない。

しかし、記録映像だとどうしても大衆が集う銀座や新宿、といった商業地が多く、駅から離れたエリアを撮影しているのが少なかったりするのだ。

でも、心配ご無用!

昔のドラマを観れば、昔の様々な東京の街が現れる。

例えば、石原裕次郎や渡哲也が出演していた『大都会』シリーズ。

このドラマだけ観ていても、かなり昔の様々な東京の街を観ることができるのだ。

実際に観てみよう。

ドラマ『大都会』シリーズで頻繁に犯人が立て籠もる料亭があるのだが、その場所は新宿区十二社(じゅうにそう)にある。

ドラマ『大都会』新宿十二社

なぜ十二社にあると断定できたのかというと、写真右奥に見える熊野神社があるからだ。

現在の新宿十二社

この約40年の間に熊野神社も建て替えたようで、社殿の向きが変わってしまったものの、料亭前の坂は変わらぬままで、これらを手がかりに十二社と判明した。

この十二社は、西新宿よりさらに西のエリアで、幕末-明治期には十二社池という北から南にかけて胡瓜形をした池があり、多くの料亭がひしめく景勝地としてかなり賑わっていた。

かの勝海舟も、この十二社池・熊野神社そばに別荘を構えていたそうだ。

新宿十二社(1896年~1909年)
新宿十二社(1896年~1909年)

しかし、現在ではその十二社池もすっかり埋め立てられ、池のほとんどはマンション等に変わってしまった。

因みに明治期の地図右側にある「淀橋浄水場」は現在、東京都庁をはじめとする高層ビル群に生まれ変わっている。

新宿区十二社(現在)
新宿区十二社(現在)
歌川広重 角筈熊野十二社
歌川広重 角筈熊野十二社

次に挙げるのが六本木・テレビ朝日周辺だ。

現在テレビ朝日がある場所は、かつてしばらくの間、ニッカウヰスキー東京工場があった。

ドラマ『大都会PartⅡ』では、当時の地図とロケ地に「ニッカウヰスキー」の文字が現れ、時代を感じさせる。

ドラマ『大都会PartⅡ』での六本木周辺 左端に「ニッカウイスキー」の文字
ドラマ『大都会PartⅡ』での六本木周辺
左端に「ニッカウイスキー」の文字

ドラマ『大都会PartⅡ』での六本木周辺 後ろに「ニッカウヰスキー」の文字
ドラマ『大都会PartⅡ』での六本木周辺
後ろに「ニッカウヰスキー」の文字

上と同じ場所(現在のテレビ朝日前)
上と同じ場所(現在のテレビ朝日前)

その後、ニッカウヰスキー東京工場は閉鎖し、空き地となり、再開発を経て、テレビ朝日となった。

テレビ朝日前を走る都道319号線は、現在でこそ六本木ヒルズの前にあるトンネルを潜り、六本木通りに抜けているが、かなりの長期間、トンネル前が封鎖されていた。

したがって、自動車や人の往来はなく、撮影に適したロケーションだったのだ。

ドラマ『大都会PartⅡ』六本木の都道319号線(現在のテレビ朝日前)
ドラマ『大都会PartⅡ』六本木の都道319号線(現在のテレビ朝日前)

上と同じ場所(現在テレビ朝日前)
上と同じ場所(現在テレビ朝日前)

ドラマ『大都会PartⅡ』六本木の都道319号線(現在のテレビ朝日前)
ドラマ『大都会PartⅡ』六本木の都道319号線(現在のテレビ朝日前)

上と同じ場所(現在テレビ朝日前)
上と同じ場所(現在テレビ朝日前)

都道319号線の六本木ヒルズ前にあるトンネル
都道319号線の六本木ヒルズ前にあるトンネル

上と同じ場所(六本木ヒルズ前にあるトンネル)
上と同じ場所(六本木ヒルズ前にあるトンネル)

このように、昔のドラマを観れば、嫌でも昔の東京の街や風景を観ることができるので、現在の東京を思い浮かべながら、ドラマ中の東京を観れば、比較でき、ちょっとしたタイムスリップ的な楽しみができるかと思う。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099