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生の史料や「忍器」を通して「忍び」の実像に迫る令和3年度企画展「実相忍びの者」【連載:アキラの着目】

現代において小説やアニメなど世界的にポピュラーな題材となっている忍者(NINJA)。

忍者のルーツは、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した「忍び」の存在がある。

ここでは一括で「忍び」と総称しているものの、実際には大名毎や地域毎に「忍び」の呼び方はまちまちで、「隠密」、「透破」、「軒猿」、「甲賀者」、「早道之者」、「黒脛巾組」、「風魔党」、「饗談」、「伊賀者」、「三雲流」、「村雲衆」、「根来衆」、「座頭衆」、「黒田流」、「山潜り」などと呼ばれていた。

武家社会の象徴のひとつである「忍び」は、戦国時代の軍事を理解するためには欠かせぬ要素でありながら、その実像はこれまで謎に包まれていた。

令和3年度企画展「実相忍びの者」では、戦国時代における「忍び」の活動を記録した生の史料や、「忍び」が用いた「忍器」と考えられる考古資料を展示し、「忍び」の実像に迫る。
令和3年度企画展「実相忍びの者」 埼玉県立嵐山史跡の博物館 公式サイトから引用

令和3年度企画展「実相忍びの者」 埼玉県立嵐山史跡の博物館 公式サイトから引用
令和3年度企画展「実相忍びの者」
埼玉県立嵐山史跡の博物館 公式サイトから引用

埼玉県立嵐山史跡の博物館が開催してきた企画展戦国三部作のラストを飾る、戦国ファン・忍者ファン必見の企画展とのことだ。

なお、令和3年度企画展「実相忍びの者」の展示構成は以下の通り。

令和3年度企画展「実相忍びの者」 展示構成

1.姿を現した「忍者」たち

現代のアニメや漫画、昭和の特撮に登場する忍者から、大正時代の忍び小説に至るまで、「忍者・忍び」のイメージがいかように形成されたのかを解説している。

2.忍びの自画像

江戸時代では「忍び」が創作のモチーフとして文学作品に取り上げられる一方で、幕府や大名に「忍び」として仕官することがまだ実在しており、物語の「忍び」と本物の「忍び」が併存する時代だった。

当時の庶民が「忍び」に対して抱いていたイメージを、当時の文学作品に登場する「忍び」から探りながら、さらに「忍び」自身が記した史料と実際の「忍器」から江戸時代における忍びの実態に迫る。

3.忍びの真実をあばく

「忍び」の起源は戦国時代にまで遡り、こうした乱世において「忍び」たちは特殊な戦闘技能を駆使して、様々な諜報活動や戦功を立てたりした。

葛西城(現 東京都葛飾区)と羽生城(現 埼玉県羽生市)をめぐる戦の中で活躍した北条氏・上杉氏それぞれの配下にあった「忍び」の実態を実存する記録から明らかにする。

4.忍びの足跡

「忍び」たちは手裏剣や鉤縄といった通常の武器や道具とは一線を画した特有の「忍器」を使用。

現存する忍器は、その時代性や真贋が疑われてきたが、城跡や陣屋等の発掘調査で出土した遺物の中に「忍器」としての機能が認められる武器が発見されるようになり、これまでは謎のベールに包まれてきた「忍器」のルーツとなった特殊武器群を公開している。

「忍び」、広義では忍者だが、そもそも「忍び」や「忍者」は黒装束で飛び回ったりはしていなかった。

そんな派手なアクションを起こせば却って目立ってしまい、敵に感づかれてしまい、諜報活動などを思うようにできなくなるからだ。

それゆえに、農民や町人などに扮して世間に紛れ込み、活動していたから、これまで詳細な実体を掴むことができなかったのだ。

しかし、この令和3年度企画展「実相忍びの者」でより詳細な「忍び」の実像が明らかになることだろう。

【令和3年度企画展「実相忍びの者」 詳細】

・会期:2021年8月7日(土)~9月20日(月)
・開館時間:9:00~16:30※入館は16:00まで
・料金:大人100円、高大生50円、中学生以下と障害者手帳持参者は無料
・休館日:月曜日※8/9は開館
・観覧時間の目安:90分
・会場:埼玉県立嵐山史跡の博物館
・所在地:〒355-0221 埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷757
・問合せ:0493-62-5896

■企画展示 – 埼玉県立嵐山史跡の博物館
https://ranzan-shiseki.spec.ed.jp/展示/企画展示

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~日本橋馬喰町(東京都中央区)~【連載:アキラの着目】

「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは、東京都中央区にある日本橋馬喰町だ。

日本橋馬喰町は、すぐ隣の日本橋横山町と共に日本屈指の衣料問屋街を形成しており、小売してくれる店が少ないことから、一般人にとっては見えないバリアが張られてるような雰囲気の町だ。
東京都中央区日本橋馬喰町

そんな疎外感を漂わせている(!?)日本橋馬喰町だが、地方から来た人だと「ばくろちょう」とは読めず、「うまくいまち」と読んだりするといった話を時々耳にする。

字面だけ見ると、馬を食っていたから馬喰町という地名が付いたんだと短絡的に思ってしまいがちだが、さにあらず。

馬喰町という地名については、以下の由来があるのだ。

江戸時代のこの地には馬場があり、江戸幕府の博労(ばくろう)頭(かしら)である富田半七と高木源兵衛が管理していた。

ちなみに、博労(馬労とも表記)とは、牛馬の善し悪しを鑑定し、売買を行なう仲介業者のことだ。

その後、高木源兵衛の高木家がこの地の名主になったことにより、「博労町」と言われるようになった。

現在の「馬喰町」という表記に変わったのは、江戸時代の正保年間(1645年~1648年)の頃で、「馬に食わせてもらってる(=馬で稼がせてもらってる)」から馬に敬意を払って「馬喰町」に変えたという説が有力だ。

なので、馬を食べていた町ではなく、むしろ馬に感謝していた町なのだ。

その日本橋馬喰町も前述の通り、現在は「馬に食わせてもらってる」町から「衣料で食わせてもらってる」町へと変貌を遂げたのだから、時代の移り変わりは面白いものだ。

■横山町・馬喰町 – 協同組合 東京問屋連盟
https://e-tonya.or.jp/

■東京日本橋にこんな商店街が! 日本橋横山町馬喰町問屋街
https://tokyo-tonyagai.com/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

軽くて靭やかで使いやすい江戸箒(白木屋傳兵衛商店・天保元年[1830年]創業)【連載:アキラの着目】

東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)掃除機は便利なようで便利でない。

そんなふうに思う人もいるはずだ。

というのも、まず掃除機の電源コードをコンセントに差し込まなければならない。

調子よく掃除していると、コードが伸び切って、別の近いコンセントに差し替えねばならない。

掃除機の音がうるさい。

なので、筆者は掃除機よりも立派な座敷箒を買いたかったのだ。

それで足を運んだのが、東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)だ。

東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)
東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)

江戸箒は、江戸時代から、それも江戸の町で作られ、使われたことからその名が付いた。

江戸箒には江戸箒にしかない特色があり、「軽さ」、「コシ」、「シンプルな装飾(編み上げ)」の3点だ。

日々使うものだから箒は軽くなくてはいけない。

また、ゴミ・塵を掃いた際に、箒の先が靭やかに戻る「コシ」がなくてはいけない。

軽い箒にするには、複雑な編上げではなく、至ってシンプルなものにしなければいけない。

東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)の江戸箒
東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)の江戸箒

そのため、機械やセンサー、AIによる原料の判別はできないので、職人の目や手の感触によるホウキモロコシ1本1本の草を選り分ける作業が肝になってくるのだ。

江戸箒の職人 江戸箒(江戸ほうき)老舗|白木屋傳兵衛HPから引用
江戸箒の職人
江戸箒(江戸ほうき)老舗|白木屋傳兵衛HPから引用

ちなみに原料のホウキモロコシは、安定確保の観点から、筑波在住の農家に指導を仰ぎ、職人・社員一同がホウキモロコシ栽培の技術継承・維持・継続に努めているとのこと。

そうした地道な努力や作業でできた江戸箒は靭やかで、手首の負担や疲労度が軽減されるのだ。

江戸箒の職人さんは、江戸箒を「芸術品」として扱うことには抵抗がある、とのこと。

「使われてナンボ」、「消耗品だから」、「生活に根ざした道具(モノ)だから」芸術品ではないとの主張なのだ。

「だからといって粗末に扱ってほしくない。丁寧に扱ってほしい。長持ちもする物だし」。

そう言われる職人さんも現在はただ1人となってしまった。

江戸箒作りの後継者が出てくることを望むばかりだ。

【江戸箒老舗 白木屋傳兵衛 詳細】

・所在地:東京都中央区京橋3-9-8 白伝ビル1F
・アクセス:都営地下鉄浅草線「宝町」駅A3出口、東京メトロ銀座線「京橋」駅2番出口
・問合せ:TEL 0120-375389(ミナゴミハク)※フリーダイヤル
      03-3563-1771
    FAX 03-3562-5516
    MAIL info@edohouki.com
・営業時間:月~土祝10:00~19:00 日曜休
東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)

東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)
東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)

■江戸箒(江戸ほうき)老舗|白木屋傳兵衛
https://www.edohouki.com/

■そばに置いておきたい掃除道具 | 掃印(そうじるし)
https://www.sojirushi.com/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

甲冑着用の武士が戦場で用いる日本泳法(古式泳法)【連載:アキラの着目】

今年はオリンピック・イヤー。

当然、水泳競技も開催されるのは言うまでもない。

ここでいう水泳競技とは「近代泳法」のみを対象とするものだ。

オリンピックは元々西洋のものなのだから、当然、東洋の競技が少ないのは当たり前で、ゆえに水泳競技は西洋由来の「近代泳法」なのだ。

しかし、日本には古来より「日本泳法」、またの名を「古式泳法」と呼ばれる日本独自の泳ぎ方が存在する。

四方を海に囲まれた国であることや、武士が戦場において甲冑を着たまま用いる泳ぎが江戸時代に武道として高められたことで、「日本泳法」は誕生したのだ。

現在、「日本泳法」には由緒の明確な十三流派が伝承されており、以下の通りだ。

■日本泳法十三流派

発祥 現在伝承されている地
神統流(しんとうりゅう) 鹿児島 鹿児島
小堀流踏水術(こぼりりゅうとうすいじゅつ) 熊本 熊本、長崎、京都、東京
山内流(やまうちりゅう) 豊後臼杵 臼杵
主馬神伝流(しゅめしんでんりゅう) 伊予大洲 大洲、松山
神伝流(しんでんりゅう) 松山 津山、東京、広島、岡山、全国
水任流(すいにんりゅう) 讃岐高松 高松
岩倉流(いわくらりゅう) 和歌山 和歌山
能島流(のじまりゅう) 和歌山 近畿
小池流(こいけりゅう) 和歌山 東海、近畿
観海流(かんかいりゅう) 伊勢 伊勢、津、関西一円
向井流(むかいりゅう) 江戸 東京、会津、北海道
水府流水術(すいふりゅうすいじゅつ) 水戸 水戸、東京
水府流太田派(すいふりゅうおおたは) 江戸 東京、全国

こうしてザッと各日本泳法十三流派に目を通してみると、力があって由緒ある大名家や徳川家系の大名家のいる地で盛んなように見受けられる。

やはり日本泳法は、武道に熱心な地に根付いたということなのだろう。

以下に紹介する動画は、前掲した日本泳法十三流派の中の岩倉流を取り上げたものだ。

この動画を観ると、お笑いコンビ・藤崎マーケットの2人が日本泳法に挑戦しているのだが、かなり難しい泳ぎであることがわかろうというもの。

岩倉流泳法 YouTubeから引用
岩倉流泳法
YouTubeから引用

■岩倉流泳法

甲冑着用時は平素に比べ30kgくらい重くなるのだが、それでも足を巧みに動かして立ち泳ぎするのだから、当時のサムライたちは凄すぎるとしか言いようがない。

こういう日本古来から伝承する技術を競い合う世界大会や「東洋オリンピック」を開催して、伝統技術を廃れないようにするのがいいのでは、とすら思えてきたのだった。

■日本泳法概説
http://www.swim.or.jp/compe_jp/download/content10.pdf

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

江戸時代の文化・歴史を学び、未来の日本に役立てる「江戸文化歴史検定」【連載:アキラの着目】

今回のFJ時事新聞ニッポンニュースで取り上げるのは「江戸文化歴史検定」だ。

慶長8年(1603)に徳川家康が江戸幕府を開いて以来、長きに渡り戦乱のない平和な時代が続いた江戸時代。

江戸時代は、人々の暮らしの中から四季折々の年中行事や祭りが生まれ、さらに洗練された美意識や生活文化が形成され、文化や生活様式、社会秩序が成熟期を迎えていたのだった。

また、江戸時代には寺子屋が発達したことで、識字率は当時の世界でも最高水準であった。

江戸時代の優れた文化や先人たちの生活の知恵は、技術進歩や経済発展で豊かさを謳歌している現代ニッポンにも役立つことばかり。

昨今見失われがちな日本の心を思い起こし、未来に役立てようとの趣旨のもと、2006年に第1回江戸文化歴史検定が実施され、現在に至っているのだ。

江戸文化歴史検定 公式サイトから引用
江戸文化歴史検定 公式サイトから引用

「江戸文化歴史検定」は1級、2級、3級に分かれ、3級は短期の観光旅行レベル、2級は短期留学のレベル、1級は現地で旅行ガイドとして生計が立てられるレベルとのことだ。

江戸の文化・歴史は範囲が広く、その範囲内の知識は膨大だ。

この膨大な知識を丸暗記しようとすれば、苦痛となってしまう。

なので、面白いと感じたところから着手して、楽しく知識を覚えていくほうが結果的には覚えやすく、江戸文化歴史検定合格への近道となるのでは、とのことだ。

次の江戸文化歴史検定は15回目を数え、2020年6月28日(日)に東京・大阪にて開催する(2級・3級のみ)。

江戸の文化・歴史に自信のある人は、いっちょ腕試しだ。

■江戸文化歴史検定
https://www.edoken.jp/

■江戸文化歴史検定 トピックス @edoken_topics
https://twitter.com/edoken_topics

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

丸の内や日比谷は海?銀座は出島?【連載:アキラの着目】

現在1,300万人の人口を有する日本の首都・東京。

しかし、今から約400年以上前の東京、すなわち徳川家康が入城した当時の江戸は、江戸城大手門から東にかけて茅葺きの町屋が100軒あるかないかの鄙びた村だった。

そのうえ江戸は、幾多の河川が東京湾に流れ込むような湿地帯だったため、それまでなかなか街として発展しなかったのだ。

元々江戸の地形は、東京湾が大きく現在の日比谷辺りまで入り組んでおり(日比谷入江)、銀座・日本橋の辺りは江戸前島といって、東京湾に突き出た出島のような地形だった。

徳川家康入城期の江戸 Vol.72 都心3区の地形の変遷 | 東京の高級賃貸マンションなら[東京レント]から引用
徳川家康入城期の江戸
Vol.72 都心3区の地形の変遷 | 東京の高級賃貸マンションなら[東京レント]から引用

なので、現在の丸の内や日比谷は海で、埋め立てによって陸地となったのだ。

現・銀座から現・日比谷方面を望む想像図(右)と現在の画像(左) 右画像は「酒上小琴【サケノウエノコゴ」Twitterから引用
現・銀座から現・日比谷方面を望む想像図(右)と現在の画像(左)
右画像は「酒上小琴【サケノウエノコゴ」Twitterから引用

江戸日比谷入江 NHK「知恵泉」から引用
江戸日比谷入江
NHK「知恵泉」から引用

現在の皇居前広場はまさに日比谷入江だった場所で、400年以上前は、漣が押し寄せては引いての繰り返しをしていたことだろう。

その日比谷入江の埋め立てに使った土は、神田山(御茶ノ水・駿河台にあった小高い山)や番神山城跡(現:港区麻布台)を切り崩した土、神田川の掘削で出た土を使ったといわれている。

御茶ノ水・聖橋の神田川(江戸城外堀)は手掘りで掘削し、渓谷のように切り開いたので、元々駿河台は御茶ノ水側と順天堂大学病院側とは地続きだったのだ。

江戸を街として機能させるために、江戸幕府初代将軍・徳川家康~3代将軍・徳川家光までの時代に、前述の土地埋立拡張工事や水はけ改良工事、上水道整備工事、等々を矢継ぎ早にして、暮らしやすい街にしていった。

現在でも昔の名残を見つけることができ、有楽町の数寄屋橋(江戸前島)から日比谷方面(日比谷入江)にかけては、緩やかな下降の地形が見て取れる。

すっかりビルだらけになってしまった東京だが、こうした歴史をちょっとでも知ることで東京や江戸に興味を持つことができれば、今よりも楽しく街歩きができるかもしれない。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

武将家紋手拭い700枚配布!第24回「よってりゃあ、みたけ」夢いろ街道宿場まつり【連載:アキラの着目】

すっかり恒例となった岐阜県御嵩町の夏祭り「第24回よってりゃあ、みたけ 夢いろ街道宿場まつり」が、8月3日15時30分から名鉄御嵩駅周辺で開催される。

岐阜県御嵩町の夏祭り「第24回よってりゃあ、みたけ 夢いろ街道宿場まつり」
岐阜県御嵩町の夏祭り「第24回よってりゃあ、みたけ 夢いろ街道宿場まつり」

夢いろ街道宿場まつりは、江戸時代の主要街道の一つであった中山道の宿場町として栄えた御嶽宿での最大のイベントだ。

御嵩町宿場町活性化イベント実行委員会(御嵩町商工会)が、かつての宿場町の賑わいを蘇らせようとの思いから開催され、今年でもう24回目だ。

盆踊りや夜店等の各種催しも行われる以外に、フィナーレを飾る「みたけ夢花火」が20時30分頃から予定されている。

この「みたけ夢花火」、例年は約300発だったが、今年は今年は約600発に増やし、御嵩町の夜空を約15分間彩る予定なのだとか。

ただし、これだけではない。

今年は名鉄広見線に乗って訪れた来場者には、町にゆかりの深い可児才蔵のほか、明智光秀と森蘭丸の家紋などを並べた、オリジナルの戦国武将手拭いを限定700枚配布するのだ。

8月3日15時25分に御嵩駅に到着する列車の利用者から限定700枚が配布される武将家紋手拭い 岐阜新聞WEBから引用
8月3日15時25分に御嵩駅に到着する列車の利用者から限定700枚が配布される武将家紋手拭い 岐阜新聞WEBから引用

武将家紋手拭いは、来年放送のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」に合わせ、名鉄広見線活性化協議会が企画したもので、8月3日15時25分に御嵩駅に到着する列車の利用者から配布するとのこと。

花火や夜祭りに興味はないが、戦国武将には興味があるから、なんとしてもこの限定手ぬぐいをゲットするんだ、という人も中にはいるかもしれない。

700枚は多いようにも見受けられるが、実際は700枚しかないので、15時25分御嵩駅到着の列車に乗り、素早く確実に武将家紋手拭いをもらっちゃおう!

【第24回「よってりゃあ、みたけ」~夢いろ街道宿場まつり~ 詳細】

・日時:令和元年8月3日(土)15時30分~21時
・会場:名鉄御嵩駅周辺
・問い合わせ:御嵩町宿場町活性化イベント実行委員会(御嵩町商工会) 0574-67-1181

■武将家紋手拭い700枚配布 3日に御嵩町で宿場まつり | 岐阜新聞Web
https://www.gifu-np.co.jp/news/20190801/20190801-161143.html

■御嵩町ホームページ  観光 第24回「よってりゃあ、みたけ」~夢いろ街道宿場まつり~のお知らせ
http://www.town.mitake.gifu.jp/contents/contents.cfm?id=5210&g1id=7&enq=3

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

貴方は粒餡、漉餡、味噌餡、どの柏餅が好き?【連載:アキラの着目】

東京では櫻の花もかなり散り、それと同時に櫻餅も旬を過ぎた。

しかし残念がることはない。

櫻餅の次は、柏餅の旬が到来だ。
柏餅

柏餅は、ご承知の通り、平たく丸めた上新粉の餅を二つ折りにした間に餡を挟み、カシワあるいはサルトリイバラの葉等で包んだ和菓子で、5月5日「端午の節句」に供えられる。

現在のカシワの葉を用いた柏餅になったのは、江戸幕府9代将軍・徳川家重~10代将軍・徳川家治の頃に江戸で生まれたといわれている。

この江戸生まれの、端午の節句に柏餅を供える文化は参勤交代により、各地の大名が江戸から各々の故郷に持ち帰り、その結果、日本全国に浸透したと考えられているが、1930年代頃まではカシワの葉を用いた柏餅は依然関東が中心であった。

地方によっては、カシワの葉を入手しにくいエリアもあったようで、カシワの葉の代用でサルトリイバラの葉を用いた柏餅(サルトリイバラ餅!?)があったりしたようだ。

そもそも、なぜ江戸ではカシワの葉でくるむようになったのかというと、新芽が育つまで古い葉が落ちないカシワの葉が「子孫繁栄(家系が途切れない)」として縁起が良いからともいわれている。

こうして日本全国に行き渡った柏餅だが、葉だけでなく、挟む餡にも地域差がある。

一般的な柏餅は、他の饅頭のような和菓子同様、粒餡、漉餡があり、逆にいうと、粒餡、漉餡しかないと思われがちだ。

だが、これらの餡以外に柏餅には味噌餡もあるのだ。

ただし、この味噌餡バージョンの柏餅は、いまだ「全国区」ではなく、同じ日本人でありながら、味噌餡バージョンの柏餅を知らない地域も広く存在する。

その味噌餡バージョンの柏餅を知らない地域は、愛知県をはじめとした中部地方や関西地方、九州などで、和菓子店で「味噌餡の柏餅を下さい」と言っても、店員から「?」という対応をされてしまうのだ。

櫻餅も地域によって異なる形状に分かれ、粒状の表面で餡が外側から見えない「道明寺桜餅」と、円筒型または袱紗折り(ふくさおり)で餡を包んだ「長命寺桜餅」の2種があるが、柏餅も粒餡、漉餡、味噌餡といった地域差が存在することがおわかりになったことかと。

自然なものを取り込むことで季節感を感じることができるという手法は、古代日本より様々な分野で採り入れられているが、葉そのもので包む柏餅はまさにその最たるもの。
柏餅

新緑の芽吹く季節に柏餅を食べるのは、まさに季節感を味わうことだから、端午の節句にはぜひとも柏餅を食そう。

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責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~水道橋(東京都千代田区)~【連載:アキラの着目】

「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは、水道橋だ。

水道橋と聞くと、大抵の人は東京ドームや後楽園ホール、大学や専門学校が多い街というイメージを抱くことだろう。

実際、現在の水道橋はそうしたエンタメ・スポーツの聖地であったり、文教的なエリアとして機能している街で間違いないのだが、水道橋という地名の根拠や説明には決してなり得ていない。

なぜこの地が、「水」の「道」の「橋」、すなわち「水道橋」なのかについてみていこう。

まさに「水」の「道」の「橋」があった

時代は江戸時代の初期にまで遡る。

現在の水道橋、御茶ノ水の谷底深い神田川の外堀は、元々存在しておらず、平らな台地だった。

ここを開削して神田川を通し、その開削した土を日比谷入江の埋立に利用し、江戸の街は大きく変貌を遂げたのだ。

さらに江戸が都市として充実するには、飲料水の確保が最重要課題であり、そのためいくつかの上水が造られたのだが、そのうちの1つである神田上水の水を江戸市中に通水する必要があった。

だが、神田上水を江戸市中に通水するためには、開削して造った神田川を超えなければならない。

そこで神田川を跨ぐように掛樋(かけひ)を架けることになり、この掛樋がまさに「水」の「道」の「橋」であったことから、水道橋と呼ばれるようになって、この橋の名がこの付近の地名となったのだ。

ちなみに掛樋のあった場所は、水道橋駅から御茶ノ水方面に向かう坂を歩いてゆくと、右手歩道脇に現れる「神田上水掛樋跡」の石碑辺りだ。

神田上水掛樋
神田上水掛樋
上の絵図と同じ場所で明治時代の神田上水掛樋(奥にある橋)
上の絵図と同じ場所で明治時代の神田上水掛樋(奥にある橋)
現在の、上2枚と同じ場所
現在の、上2枚と同じ場所

1875年(明治8年)の水道橋交差点と掛樋(右)
1875年(明治8年)の水道橋交差点と掛樋(右)
現在の、上の写真と同じ水道橋交差点
現在の、上の写真と同じ水道橋交差点

このように、水道橋という地名は、神田川を跨ぐ掛樋という水の道の橋を架けたことに由来することがおわかりになったと思う。

今後も東京の様々な地名の由来について取り上げてゆきたい。

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責任編集:拡輪 明-HS099