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ここは一体東京のどこ?~Part22~【連載:アキラの着目】

しばらくお休みしていた「ここは一体東京のどこ?」。

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第22弾だ。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。

では順番に正解を発表する。

A1.吉原大門

吉原大門

正解は吉原大門。

これは難易度が高かったかと。

吉原といえば、江戸時代における江戸最大の遊郭。

”異次元空間”の吉原は、今で言うと、子供たちに直視させると教育上&風紀上よろしくないということだろうか、入口にあたる大門から先のエリアを見させないように、道を真っ直ぐにせずに、あえて屈折させているのだ。

その名残は今もあり、かつての吉原遊郭は東京屈指のソープランド街へと生まれ変わっている。

屈折した道は今も役立っているということだ。

A2.新橋駅東口

新橋駅東口

正解は新橋駅東口。

ロータリーとなっているところを含めて撮影した写真。

アメリカ軍による空襲で焼け野原と化した東京。

街という街は全て焼き尽くされ、新橋駅も焦土となった。

新橋駅東口は西口に比べ大人しい印象で、喧騒から離れたい時は西口から東口に移るといいかもしれない。

A3.六本木

六本木

正解は六本木。

ちょうど「和菓子 青野総本舗」の前だ。

元々この地は、上杉、朽木、高木、青木、片桐、一柳といった、木に因んだ名字の大名の下屋敷が六つあった。

そこから六本木という地名が付いた。

白黒写真は昭和30年代のようで、今から約60年前にもなる。

今では東京屈指の繁華街・六本木だが、この頃は裏手にも平屋の民家があったりで、のんびりした印象だ。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

吉原大門の今昔

吉原大門の今昔

新橋駅東口の今昔

新橋駅東口の今昔

六本木の今昔

六本木の今昔

 

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

 

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~六本木(東京都港区)~【連載:アキラの着目】

六本木交差点「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは、六本木だ。

六本木は御存知の通り東京屈指の繁華街として世界に名を馳せており、戦前の東京市では旧麻布区に属していた。

六本木という地名の由来に関する説は2つある。

1つ目の説は、この地に6本の松の木があったことに由来するもの。

もう1つの説は、上杉家、片桐家、朽木家、高木家、一柳家、青木家といった木にまつわる名字の大名家がこの地に屋敷を構えていたことに由来するものだ。

どちらが六本木という地名の由来として正しいという判断や評価を付けることはできないが、いずれにしても木に関係することは確かだろう。

明治時代になると、大名屋敷ばかりだった六本木は、「東京鎮臺歩兵營」という軍事施設が置かれるようになった。

1917~1924 東京 六本木周辺
1917~1924 東京 六本木周辺

昔の六本木を知るお年寄りに訊くと、「戦前の六本木は軍人さんばかりで、怖かった」そうで、現在の繁華街で賑わう六本木とは正反対の町だったようだ。

その後、日本の敗戦により六本木の軍事施設はGHQにより接収され、GHQの外国人向けの商店や飲食店が少しづつでき始めた。

1975年(昭和50年)以降は、赤坂に代わる人気繁華街としての地位を確立し、1980年代後半からのバブル経済期には数十軒ものディスコがオープン、日本人・外国人とも大挙押し寄せるプレイスポットとなった。

人気繁華街ともなれば、当然犯罪や非行の温床となる側面も出てくるようになり、このため六本木エリアはアメリカ国務省、イギリス大使館、オーストラリア大使館によって旅行者向けの『危険地域』として警告されるに至っている。

近年は、大規模な都市再開発が行われ、六本木ヒルズ、東京ミッドタウンがオープンし、繁華街だけでなく、大人向けのお洒落な商業エリアとしても現在の六本木は注目を集めている。
六本木交差点

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~麻布(東京都港区)~【連載:アキラの着目】

久々の「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは、麻布だ。

一口に麻布といっても、「元麻布」、「西麻布」、「東麻布」、「南麻布」、「麻布台」といった広大な範囲を含み、戦前の麻布区が麻布そのものの範囲だといわれている。

現在でも麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう)、麻布永坂町のように、地名の頭に「麻布」が付く地名が残っているが、それらはまさしく戦前は麻布区であった証だ。

麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう)の狸穴坂
麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう)の狸穴坂

六本木も元々は、そうした麻布にある1つの町に過ぎなかった。

そんな広い麻布であるが、麻布という地名の由来には諸説ある。

1つ目の説は、この一帯で麻を多く植え、布を織っていたことに由来し、麻がよく育つ土地という意味で「麻生」になり、これが転じて「麻布」となったとする説だ。

しかし、元々「麻布」は江戸時代くらいまでは、「阿佐布」、「麻生」、「浅府」、「安座部」といったように表記がまちまちで、現在の「麻布」表記に定着したのは幕末以降のようだ。

ということは、必ずしも麻が育っていた土地であったとか、麻で布を織っていた土地であったことは疑わしく、この説は信憑性が低いと言わざるを得ない。

もっともらしいあて字で表記する方が都合が良かったのだろう、おそらく表記の利便性を優先し、まちまちだった表記を「麻布」にしたと考える方が自然だ。

よって、この説は「麻布」の地名の由来としては却下。

2つ目の説は、アイヌ語由来説だ。

太古の昔、麻布十番の周辺までは海であった。

東京湾に突き出ている芝公園の高台から飯倉、麻布狸穴、鳥居坂、日ケ窪、麻布山麓、仙台坂と続く半島と、三田山、魚藍坂(ぎょらんざか)、三光町、恵比寿、天現寺まで続く半島に囲まれた内海は海草が繁殖し、小魚の天国であったので、早くから石器時代から住み着いた原人とアイヌ人がが仲良く住みついていたと考えられる(麻布山にも貝塚があったとのこと)。

当時、内海には小島が点在し、半島を横切るために舟や筏のような乗り物が頻繁に使われ、それらにより狩猟や物々交換をしていたようだ。

こうした舟や筏などで渡ることをアイヌ語で「アサップル」といい、この「アサップル」が転じて「アザブ」、それに漢字をあてて、現在の「麻布」になったとする説を稲垣利吉氏は主張している。

アイヌ語が、それも麻布のところだけ数千年も残るものなのか、これまた信憑性は低いように思われる。

最後の3つ目の説は、地形に由来する説だ。

「あざぶ」は「あさふ」でもあり、「あさふ」は口語では「あそう」と発音するため、「麻生」という表記をあてることもできる。

「麻生」とは「あぞ・ふ」とも発音し、「あぞ・ふ」はすなわち崖地の場所を表している言葉なのだ。

東京都港区の麻布は、まさに台地の縁にある崖地であり、高低差があるため、坂道が多いのはご承知のことかと。

したがって、「麻布」は崖地から由来した地名なのだという説で、信憑性が高いと思われる。

筆者は、3つ目の地形に由来する説が最も「麻布」の地名の由来としてしっくりくるように思う。

やはり、日本の地名は古来より地形から名付けることが多く、こんな地形だから悪天候の時は気をつけろ、みたいなハザード・メッセージを込めている場合が多いのだ。

例えば「龍」が付く地名は、一見カッコ良さそうだが、雨が降ると、その土地の川が、龍が暴れるかのように氾濫する、という意味だったり、鬼怒川もまさに似たような意味で、雨が降ると、鬼が怒ったかのごとく川が氾濫するから鬼怒川と名付けられたのだ。

なので、「麻布」は崖地ですよ、という意味を伝えるために名付けられたのだと考えると、無理がないかなと思う次第だ。

気になる人は、古くから麻布に住むご老人に訊き取りすると、真相がわかるかもしれない。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

芋問屋があったから!? 六本木・芋洗坂、名前の由来【連載:アキラの着目】

「じゃあ、アマンドの前で待ち合わせね!」

六本木で待ち合わせとなると、こんなふうに大抵の人が六本木のアマンドを待ち合わせ場所に使った経験があるはずだ。

今回のニッポンニュースは、六本木のアマンドについてではなく、そのアマンド脇を通る小路にある芋洗坂について触れてみる。

六本木の芋洗坂
六本木の芋洗坂

東京の坂には、ご丁寧にも坂の脇に木の立て札が設置され、坂名の由来や歴史等が記述されている。
六本木の芋洗坂

芋洗坂もご多分に漏れず、「この坂の近くに芋問屋があったため」、芋洗坂という名前になった旨が記述されている。

「芋洗坂。日ヶ窪より六本木へ上る坂。坂下稲荷社あり、麻布氷川の持也。毎年秋、近在より芋を馬にてはこび来り、稲荷宮の辺にて日毎に市あり、ゆへに名付けるかと江戸砂子に見ゆ」(『新編江戸志』1917年)と書かれた文献もあり、この坂近辺で馬が芋を運んでたから、芋洗坂という名になったとの説もある。

また、『東都歳事記』(1838年)における「そろって浄土に弥次喜多道中膝栗毛 - 芋洗坂」では、「八里半 〇芋」と焼き芋屋が描かれており、芋に縁があるから芋洗坂と命名されたとする説もあるのだ。

『東都歳事記』(1838年)における「そろって浄土に弥次喜多道中膝栗毛 - 芋洗坂」で描かれた「八里半 〇芋」(右ページ内)
『東都歳事記』(1838年)における「そろって浄土に弥次喜多道中膝栗毛 - 芋洗坂」で描かれた「八里半 〇芋」(右ページ内)

ちなみにこの芋洗坂の焼き芋を「八里半」といっているのは、「栗(九里)に近い」味だからだ。

駄洒落好きの江戸っ子ならではの表現だ。

話を元に戻そう。

このように、芋に関係しているから、この坂は芋洗坂と命名されたということになっているのだが、実は以前からこの由来説に対する異論があるのだ。

芋関連ならば、「芋坂」でいいではないか、なのに「芋洗坂」と命名するのは不自然だ、という説だ。

さらに芋関連説に対抗する説が、以下2つだ。

1つの説はこう。

古代日本において「いも」は「あばた、湿疹、ふきでもの、天然痘による皮膚のブツブツ」といった疱瘡の意味があり、これらの治療法はひたすら綺麗な水で患部を洗うものだったそうだ。

現在も芋洗坂途中にある朝日稲荷は、そうした疱瘡を治療するのにご利益のある疱瘡神を祀っていたから芋洗坂となったとする説だ。

2つ目の説は1つ目の説に似ており、次のようなものだ。

「寛延三年図」という古地図では、朝日稲荷北側にある法典寺境内に「弁才天」の記載があり、弁天様には池がつきものなので、ゆえに当時この坂近くに池があったと考えられ、その池の水が「いもあらい」の治療水であったであろうから、芋洗坂となったとする説だ。

一番最後の説は、江戸研究・時代考証専門の横関英一氏が自身の著書『江戸の坂東京の坂』(中公文庫 1970/01)で唱えたものだ。

筆者も芋洗坂名称の由来は、この横関説が最もしっくりくると思っている。

今でこそ日本人・外国人問わず賑わう東京有数の繁華街・六本木だが、昔は皮膚病に悩む人たちが治療に訪れた地であった可能性が高いということがおわかり頂けたことかと。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part6~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第6弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。

では順番に正解を発表する。

A1.渋谷

渋谷(ハチ公口・スクランブル交差点方面)

正解は渋谷。

現在の渋谷駅ハチ公口から世界的に知られた渋谷スクランブル交差点周辺を撮影した写真。

胴体に「ひばり号」と書かれたゴンドラらしき物は、昭和26年7月に東横百貨店屋上と玉電ビル屋上との75メートル間に開通した観光用ロープウェイ「ひばり号」(定員12人)だ。

「ひばり号」の下にある馬小屋みたいな建物が、当時の渋谷駅舎だ。

スクランブル交差点右の「三千里薬局」は現在も同じ場所で営業している。

A2.六本木ヒルズ

六本木ヒルズ

正解は六本木ヒルズ。

わかりにくかったかもしれないが、遠方の東京タワーがヒントになり、そこから逆算し、地上げられて再開発したのは何かを導き出せば、わかる人にはやさしい問題だったかもしれない。

元々六本木ヒルズのあった場所は、民家が密集しており、住民の賛同を得られるまでに時間がかかったこともあり、再開発計画から六本木ヒルズが完成するまでに17年ほどかかった。

筆者が学生時代にこの辺りを歩いた時は、けやき坂はまだ細く、通行量の少ない通りで、金魚屋さんがあったりしたのだが、長閑な雰囲気が一変し、現在はご承知の通り。

A3.恵比寿ガーデンプレイス脇線路

恵比寿ガーデンプレイス脇線路

正解は恵比寿ガーデンプレイス脇線路。

恵比寿ガーデンプレイスのあった場所は、恵比寿駅の名称の由来となった「ヱビスビール」の工場だった。

なので、「ヱビスビール」の積出し専用駅として開業したのが恵比寿駅で、最初は乗車駅ではなかったのだ。

その後、「ヱビスビール」の工場跡地は「ビア・ステーション」へと生まれ変わり、ビアガーデンだったのだが、さらに生まれ変わり、恵比寿ガーデンプレイスとなって現在に至る。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

渋谷の今昔

渋谷の今昔

六本木ヒルズの今昔

六本木ヒルズの今昔

恵比寿ガーデンプレイス脇線路の今昔

恵比寿ガーデンプレイス脇線路の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

広角ガラスからの眺めと開放感ある屋上の六本木ヒルズ展望台【連載:アキラの着目】

東京を見渡そうとするならば、まず浮かぶのが東京タワーと東京スカイツリーだろう。

あと強いて挙げるならば、新宿副都心の都庁展望台だ。

しかし、今回取り上げるのはそのいずれでもなく、しっかり料金も取る六本木ヒルズ展望台なのだ。

六本木といえば、地方在住者や外国人観光客からみれば、ネオン煌めく夜の街のイメージが強いかと思われるが、実は東京を見渡すのに適したスポットでもあるのだ。

なぜ東京を見渡すのに適しているのかについては、以下の3つの理由を挙げることができる。

1つ目は、六本木ヒルズの立地条件だ。

東京タワーよりも内陸にあり、北にある六本木ヒルズは、その分だけ新宿・池袋方面を望みやすい。

2つ目は、視界を遮らぬ広いガラスだ。

六本木ヒルズ東京シティビュー 東京シティビュー公式サイト - TOKYO CITY VIEWから引用
六本木ヒルズ東京シティビュー 東京シティビュー公式サイト – TOKYO CITY VIEWから引用

このガラスは、床面から上にかけてのほぼ全域をカバーしており、東京タワーよりも下方を望みやすいのだ。

最後の3つ目は、開放感溢れる屋上が、訪れる人の心拍数を高め、スリリングかつエキサイティングに東京を見渡せるように、”自動で”環境をセッティングしてくれるのだ。

それゆえに六本木ヒルズ展望台は、他の東京を見渡せる高所スポットに比べても引けを取らないスポットとして推されているのだ。

特におすすめなのが、六本木ヒルズ52Fの東京シティビューにあるカフェで、着席しながら東京を箱庭のように堪能できる。
六本木ヒルズ52F 東京シティビューにあるカフェ六本木ヒルズ52F 東京シティビューにあるカフェ六本木ヒルズ52F 東京シティビューにあるカフェからの眺め<img src="http://fjnews.jp/wp-content/uploads/2019/01/s-12934930_1710615795871574_1443733681_n.jpg" alt="六本木ヒルズ52F 東京シティビューにあるカフェからの眺め" width="640" height="640" class="aligncenter size-full wp-image-166314" />

もちろん、高所恐怖症の人に対しては、おすすめではないのだが。

六本木ヒルズ屋上の「スカイデッキ」は、写真を見ての通り開放的で、大空と風を体感でき、都心にいながら星空観望までも楽しめるスペシャルな空間だ。
六本木ヒルズ屋上スカイデッキオープン 東京シティビュー公式サイト - TOKYO CITY VIEWから引用

六本木ヒルズ屋上スカイデッキオープン 東京シティビュー公式サイト - TOKYO CITY VIEWから引用
六本木ヒルズ屋上スカイデッキオープン 東京シティビュー公式サイト – TOKYO CITY VIEWから引用

無料ではないが、料金を払ってまでも体験すべき、価値ある観光スポットと言っても良いだろう。

【六本木ヒルズ展望台】
■東京シティビュー
・営業時間:10:00~23:00(最終入館 22:30) 金・土・休前日 25:00まで(最終入館 24:00)
・料金:一般 1,800円
    学生(高校・大学生) 1,200円
    子供(4歳~中学生) 600円
    シニア(65歳以上) 1,500円
※森美術館にも入館可

■スカイデッキオープン
・営業時間:11:00~20:00(最終入場 19:30)
・料金:一般 500円
    学生(高校・大学生) 500円
    子供(4歳~中学生) 300円
    シニア(65歳以上) 500円

■東京シティビュー公式サイト – TOKYO CITY VIEW
https://tcv.roppongihills.com/jp/

■六本木ヒルズ展望台 東京シティビューTokyo City View, Roppongi認証済みアカウント @tokyo_cityview
https://twitter.com/tokyo_cityview

※料金や時間は、平成31年1月21日現在のもの

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part5~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第5弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。

では順番に正解を発表する。

A1.赤坂見附

赤坂見附
正解は赤坂見附。

古い写真の右手には江戸城外堀の弁慶堀が、正面には密集した木造建築群の赤坂の街が、左手には少しだけ写る溜池の”尻尾”の水面(みなも)が写り込んでいるが、現在の写真だとすっかり首都高速道路でかき消されてしまった。

また、古い写真には、赤坂見附の坂道両側に土塁があるが、写真右手の土塁は現在でもわずかながら残っている。

A2.六本木(ドン・キホーテ六本木店付近)

六本木(ドン・キホーテ六本木店付近)
これは比較的簡単な問題だったかと。

というのも、東京タワーがヒントになっているからだ。

出題した白黒写真は昭和33年以降に撮影されたと思われる。

なぜ昭和33年以降なのかというと、東京タワーの開業が昭和33年だからだ。

古い写真では、まだ低い空の六本木だが、現在の写真ではビルが道路に沿って林立し、一見して都会とわかるくらいに変貌を遂げてしまった。

ちなみに六本木は、戦前は軍の街で、現在のような浮かれた繁華街とは正反対の趣きであったとのこと。

A3.溜池(特許庁付近)

溜池(特許庁付近)
出題した木版画は、明治初期に井上安治によって描かれた東京真画名所図解『葵坂』だ。

葵坂というのは、現在の溜池交差点から特許庁の辺りまであった坂だ。

木版画では滝が描かれているが、この滝はここに元々あった溜池から流れ落ちたもので、地盤の落差があったことを物語っている。

その後、葵坂は傾斜を削られ、現在では上掲の写真のようにほぼ水平になってしまった。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

赤坂見附の今昔

赤坂見附の今昔

六本木(ドン・キホーテ六本木店付近)の今昔

六本木(ドン・キホーテ六本木店付近)の今昔

溜池(特許庁付近)の今昔

溜池(特許庁付近)の今昔

今後も気になる東京の街の浮世絵や錦絵、木版画、昔の写真を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

昔の東京を見たいのなら、昔のドラマを観るべし!【連載:アキラの着目】

2020年の東京オリンピックを控え、渋谷の再開発や大規模道路沿いのビル再建工事など、目まぐるしく変化してゆく大都市・東京。

「あれ、ここは昔どうなっていたかな?」、「ありゃ、ここにあった木造の店がなくなっちゃって、ビルになっちゃったのか!」ということは東京においては日常茶飯事。

変わってしまった街は、もう取り戻せないし、観ることができない。

そうなると、昔の映像で観るしかないのだ。

幸い東京の場合は、昔から日本の中心地であり、ロケ地でもあるので、昔の東京の映像には事欠かない。

しかし、記録映像だとどうしても大衆が集う銀座や新宿、といった商業地が多く、駅から離れたエリアを撮影しているのが少なかったりするのだ。

でも、心配ご無用!

昔のドラマを観れば、昔の様々な東京の街が現れる。

例えば、石原裕次郎や渡哲也が出演していた『大都会』シリーズ。

このドラマだけ観ていても、かなり昔の様々な東京の街を観ることができるのだ。

実際に観てみよう。

ドラマ『大都会』シリーズで頻繁に犯人が立て籠もる料亭があるのだが、その場所は新宿区十二社(じゅうにそう)にある。

ドラマ『大都会』新宿十二社

なぜ十二社にあると断定できたのかというと、写真右奥に見える熊野神社があるからだ。

現在の新宿十二社

この約40年の間に熊野神社も建て替えたようで、社殿の向きが変わってしまったものの、料亭前の坂は変わらぬままで、これらを手がかりに十二社と判明した。

この十二社は、西新宿よりさらに西のエリアで、幕末-明治期には十二社池という北から南にかけて胡瓜形をした池があり、多くの料亭がひしめく景勝地としてかなり賑わっていた。

かの勝海舟も、この十二社池・熊野神社そばに別荘を構えていたそうだ。

新宿十二社(1896年~1909年)
新宿十二社(1896年~1909年)

しかし、現在ではその十二社池もすっかり埋め立てられ、池のほとんどはマンション等に変わってしまった。

因みに明治期の地図右側にある「淀橋浄水場」は現在、東京都庁をはじめとする高層ビル群に生まれ変わっている。

新宿区十二社(現在)
新宿区十二社(現在)
歌川広重 角筈熊野十二社
歌川広重 角筈熊野十二社

次に挙げるのが六本木・テレビ朝日周辺だ。

現在テレビ朝日がある場所は、かつてしばらくの間、ニッカウヰスキー東京工場があった。

ドラマ『大都会PartⅡ』では、当時の地図とロケ地に「ニッカウヰスキー」の文字が現れ、時代を感じさせる。

ドラマ『大都会PartⅡ』での六本木周辺 左端に「ニッカウイスキー」の文字
ドラマ『大都会PartⅡ』での六本木周辺
左端に「ニッカウイスキー」の文字

ドラマ『大都会PartⅡ』での六本木周辺 後ろに「ニッカウヰスキー」の文字
ドラマ『大都会PartⅡ』での六本木周辺
後ろに「ニッカウヰスキー」の文字

上と同じ場所(現在のテレビ朝日前)
上と同じ場所(現在のテレビ朝日前)

その後、ニッカウヰスキー東京工場は閉鎖し、空き地となり、再開発を経て、テレビ朝日となった。

テレビ朝日前を走る都道319号線は、現在でこそ六本木ヒルズの前にあるトンネルを潜り、六本木通りに抜けているが、かなりの長期間、トンネル前が封鎖されていた。

したがって、自動車や人の往来はなく、撮影に適したロケーションだったのだ。

ドラマ『大都会PartⅡ』六本木の都道319号線(現在のテレビ朝日前)
ドラマ『大都会PartⅡ』六本木の都道319号線(現在のテレビ朝日前)

上と同じ場所(現在テレビ朝日前)
上と同じ場所(現在テレビ朝日前)

ドラマ『大都会PartⅡ』六本木の都道319号線(現在のテレビ朝日前)
ドラマ『大都会PartⅡ』六本木の都道319号線(現在のテレビ朝日前)

上と同じ場所(現在テレビ朝日前)
上と同じ場所(現在テレビ朝日前)

都道319号線の六本木ヒルズ前にあるトンネル
都道319号線の六本木ヒルズ前にあるトンネル

上と同じ場所(六本木ヒルズ前にあるトンネル)
上と同じ場所(六本木ヒルズ前にあるトンネル)

このように、昔のドラマを観れば、嫌でも昔の東京の街や風景を観ることができるので、現在の東京を思い浮かべながら、ドラマ中の東京を観れば、比較でき、ちょっとしたタイムスリップ的な楽しみができるかと思う。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名には、どんな由来があるの?【連載:アキラの着目】

東京と一口でいっても、様々な街がある。

渋谷、新宿、池袋、恵比寿、代官山、上野、秋葉原…。

挙げていけば、キリがないくらい東京には様々な地名が存在する。

これら東京の様々な地名は、どうやって名づけられたのか、いくつか取り上げたい。

六本木は6つの大名屋敷があったから、この地名がついた!?

世界的にも有名な東京の繁華街が、皆さんご存知の六本木。

六本木交差点
六本木ヒルズ

地方から来た、よく東京を知らない人は、六本木があるくらいなんだから、東京にはまだ他に「一本木」、「二本木」、「三本木」、「四本木」等、があるんじゃないかと思ってる人もいるようだ。

でも実際に東京に存在するのは六本木と五本木だけなのだが。

話が横道に逸れてしまった、本道に戻そう。

この六本木という地名は、諸説あるが、元々この地に6つの大名屋敷があったことから由来しているとの説が最有力と考えられている。

その大名屋敷とは「上杉」、「朽木」、「青木」、「片桐」、「高木」、「一柳」であり、どの家も「木」に関係した苗字で「六つの木の付く苗字のお殿様の屋敷があった」ことから、「六本木」の地名がついたといわれている。

江戸時代の切絵図を確認すると、上杉家屋敷は飯倉片町、朽木家は赤坂今井谷、片桐家は麻布鳥居坂、高木家は麻布笄橋、一柳家は西新橋付近にあったようだが、現在の感覚だと西新橋は六本木に含めてはダメでしょ、という感じだ。

でも昔の江戸では、赤坂氷川神社から六本木、飯倉、西新橋くらいまでの広範なエリア一帯をまとめて六本木くらいに考えていたのかもしれない。

溜池

赤坂見附から新橋にかけて内堀通りを通ると、「溜池交差点」を必ず通過する。

若い頃の筆者は、「池なんて何もない場所なのに、なぜ溜池というのかな?」と思っていた。

ところが、江戸切絵図を見たら、なるほど、昔は実際に「溜池」が存在していたのだ。

江戸切絵図 赤坂
江戸切絵図 赤坂

現在の赤坂周辺
現在の赤坂周辺

この溜池は、江戸町民の飲料水として利用され、明治期になってから徐々に埋め立てられ、現在に至っている。

丸の内

東京駅の西側一帯は丸の内と呼ばれ、高層のオフィスビルが立ち並ぶ日本の中枢エリアだ。

丸の内

この丸の内の地名の由来は「”丸”の内側にあるエリア」、つまり近世城郭の敷地を「丸」というのだが、江戸城の内側の土地ですよ、という意味で、丸の内といわれるようになった。

余談だが、近世城郭と異なる中世城郭だと城の敷地を「丸」とはいわずに、「郭」(くるわ)というので、近世城郭でいうところの「本丸」は「本郭」といったりする。

とりあえず3つしか取り上げなかったが、今後も時折、東京の地名の由来について、書いてゆきたいと思う。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099