「江戸」タグアーカイブ

地図の原本探しで、カタログ的に観ることができるサイト「古地図コレクション」【連載:アキラの着目】

日本の地図はご承知の通り、伊能忠敬が科学的な測量で作成した地図を起点として飛躍的に発展し、現在に至っている。

伊能忠敬が徒歩で測量し作成した地図は、どれも現在の地図と比較しても東西南北や距離感がほぼ同じであり、僅かな誤差しかない程にまで精緻に作られているのは世界的にも評価されている。

日本に開国を迫ったペリーは、地図を作るために江戸湾の測量を強引に江戸幕府に迫り、認めさせたが、いざ作った地図は伊能忠敬の地図よりも劣っていた。

なので、結局自分たちが作った地図を使わずに伊能地図を使用したとのことだ。

そんな貴重な伊能忠敬の地図をはじめ、明治期の地図やその他昔の地図を国土地理院では歴史的、文化的および学術研究用資料として古地図等を収集・保管しているのだが、今回紹介する古地図資料閲覧サービスを手掛けているサイト「古地図コレクション」では、そうした国土地理院所蔵の古地図等を公開しており、カタログ的に昔の地図を観ることができる。

古地図資料閲覧サービスを手掛けているサイト「古地図コレクション」
古地図資料閲覧サービスを手掛けているサイト「古地図コレクション」

ただし、詳しく観るには小さい画像で低解像度だから、地図原本を観るのがいいのはいうまでもない。

あくまでもどの原本を観るかの品定め用としての「古地図コレクション」と思っていれば間違いない。

ちなみに、それら地図原本の閲覧は、破損あるいは汚損を生じる恐れがあるため、原則として「地図と測量の科学館」での展示期間内に限られている。

なお、地理資料類は作成当時のままの形で公開しており、現代では適切ではないと思われる表現を含む資料がある可能性もあるのだが、その資料の成立した時代を表す貴重な歴史的・学術的資料としての価値を尊重した結果なので、予めそのことを理解した上で利用しよう。

地図好きの筆者からすれば、江戸切絵図や明治期の東京地図をリストアップしてあるだけでも涎もの。

今では大都会の東京だが、明治期ではまだ「郡」だったり、東京湾の埋立てが進んでおらず、すぐ脇が海であったり、等々、現代との比較が楽しくて仕方がない。

ぜひ地図好き、東京好き、昔好きの人にはアクセスしてもらい、どの原本を観たいか、また昔の都市に思いを馳せてもらいたいものだ。

 

■古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)
https://kochizu.gsi.go.jp/

 

 

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京にある740もの坂を網羅しているサイト「東京23区の坂道」【連載:アキラの着目】

今回のニッポンニュースで取り上げるのは、東京の坂を詳しく紹介しているサイト「東京23区の坂道」(http://www.tokyosaka.sakura.ne.jp/)。

アイドルや若手女優などの女性タレントが東京の坂を全力で駆け上がる深夜番組「全力坂」が好評を得て、もうかれこれ15年以上放送されているかと思うが、今回のニッポンニュースではその駆け上がる女性たちではなく、東京の坂のほうにフォーカスする。

「東京23区の坂道」というサイトは、しばらく更新が途絶えているものの、坂の情報は、消費されてすぐに過去に葬り去られてしまうフローのものではなく、むしろアーカイブとして蓄積されてゆくストックのものなので、最終更新日が2011年4月29日でもそれは大きな問題ではない。

令和3年6月27日現在、「東京23区の坂道」で確認できる東京の坂は740にものぼり、そんなに東京には坂が存在してたのかと少し驚いた。

「東京23区の坂道」は区毎に坂を分類し、各坂には多くの坂写真が掲載されており、その坂に行かなくとも、坂の概要を把握でき、なかなか重宝なのだ。

極論すれば、東京の坂観光をこのサイトで完結できてしまうのだから、大変ありがたい。

ちなみに、アイドルグループの名前にも使われている「乃木坂」ももちろん掲載されている。

「東京23区の坂道」で坂の名前を見ると、その坂がある場所はかつてこんな所だったんだろうなと想像を膨らませてくれる坂もある。

「幽霊坂」という名の坂が東京には幾つかあるが、その名が付いた当時は暗がりでいかにも幽霊が出てきそうだから「幽霊坂」と言われるようになったのだ。

つまり、その昔は幽霊が出そうなくらいの暗がりで木々が茂っていた地だったのだ。

現在のコンクリートジャングル・東京でも多くの自然に囲まれた時代もあったんだなと。

別の例では「富士見坂」もそう。

これまた「富士見坂」は都内に複数存在するのだが、その名の通り坂の上から富士山を眺めることができたから「富士見」なのだ。

でも現在の富士見坂からは当然ながら富士山を眺めることはできない。

高層建造物のなかった時代だからこそ、平地より少し高台にある坂に登れば、富士山を眺めることが可能だったわけだ。

他には「小栗坂」、「諏訪坂」など坂のそばにあった武家屋敷の主の名字から取った名前の坂も多い。

こういった様々な坂を知ることで、東京にはまだまだ江戸の名残があるのだな、城下町なんだな、といったことを実感してしまうのだ。

普段、通勤にかまけて周辺エリアに気づけていない人もいるかと思うが、「坂」というエレメントで東京を見てゆくと、新しい発見があるかもしれない。

■東京23区の坂道
http://www.tokyosaka.sakura.ne.jp/

■東京23区の坂道(ブログ) – livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/tokyosakablog/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~神田(東京都千代田区)~【連載:アキラの着目】

「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは神田だ。

神田と言っても、山手線・京浜東北線の駅「神田」もあるし、神田神保町などのように頭に神田がつく町名もあり、実に多くの神田がつく地名が存在する。

神田神保町などの町名の場合は、1947年(昭和22年)に、かつての東京市神田区と同市麹町区が合併してできた千代田区において、旧神田区の町名については「神田」を冠した町名にするとのことで、「神田●●町」という町名が誕生し、現在に至っているのだ。

大元の神田についての由来は諸説ある。

1つ目の説は、神田神社(現・神田明神)を創建した真神田氏の名から採り、この辺りの地を「神田」としたという説だ。

2つ目の説は、神田神社(現・神田明神)のご祭神・平将門命に因んだもので、平将門命の「からだ」がなまって「神田」に、「からだの明神」が「神田明神」となったという説や、平将門命が片目を射抜かれたという伝説から「かため」が訛って「神田」になったという、平将門命説だ。
神田神社(神田明神)

3つ目の説は、伊勢神宮に奉納するための初穂を作る田んぼから由来するという説で、この田んぼを神田(みとしろ)というのだが、これが「かんだ」に転じたというものだ。

筆者としては2つ目の説を推したい。

というのも、「いくつもの河川が湾に流れ込む地」という意味の江戸は湿地帯だらけで、徳川家康入府時点ですら田んぼがなかったと考えられているし、後々の様々な影響力を考慮すると、平将門命に由来している方が自然なように感じられるからだ。

平将門命による「後々の様々な影響力」というのは、以下の事象だ。

1.関東大震災後、大手町にある将門塚に都市再開発として大蔵省仮庁舎を建設しようとした際、工事関係者や大蔵省職員、時の大蔵大臣・早速整爾(第1次若槻内閣)の相次ぐ不審死が起こり、これらの死は平将門命の祟りによるものだと大蔵省内で噂されることとなり、ついには大蔵省仮庁舎を取り壊したこと

2.第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が丸の内周辺を区画整理するにあたり、障害となる将門塚を撤去し、整地・造成しようとした際、米軍のブルドーザーが横転し、死者が出るなどの不審事故が相次いだため、計画を取り止めたこと

ゆえに、この地に対して不敬な行為に及べば、祟りにあうという伝承ができ、以降、将門塚は数十年にわたり地元ボランティア団体により手厚く保護されているのだ。
将門塚

因みに将門塚のある大手町は、現在の広義としては神田エリアにギリギリ入るか入らないかだろうが、筆者は大手町も神田エリアとしたい。

以上、長々と書いてきたが、「神田」の地名の由来を検証することは今となっては難しく、この広範な神田の地に多大な影響力を及ぼしている平将門命が、神田の地名の由来と筆者は思いたい。

■江戸総鎮守 神田明神 東京都千代田区外神田2-16-2
https://www.kandamyoujin.or.jp/

■神田明神 @kanda_myoujin
https://twitter.com/kanda_myoujin

軽くて靭やかで使いやすい江戸箒(白木屋傳兵衛商店・天保元年[1830年]創業)【連載:アキラの着目】

東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)掃除機は便利なようで便利でない。

そんなふうに思う人もいるはずだ。

というのも、まず掃除機の電源コードをコンセントに差し込まなければならない。

調子よく掃除していると、コードが伸び切って、別の近いコンセントに差し替えねばならない。

掃除機の音がうるさい。

なので、筆者は掃除機よりも立派な座敷箒を買いたかったのだ。

それで足を運んだのが、東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)だ。

東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)
東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)

江戸箒は、江戸時代から、それも江戸の町で作られ、使われたことからその名が付いた。

江戸箒には江戸箒にしかない特色があり、「軽さ」、「コシ」、「シンプルな装飾(編み上げ)」の3点だ。

日々使うものだから箒は軽くなくてはいけない。

また、ゴミ・塵を掃いた際に、箒の先が靭やかに戻る「コシ」がなくてはいけない。

軽い箒にするには、複雑な編上げではなく、至ってシンプルなものにしなければいけない。

東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)の江戸箒
東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)の江戸箒

そのため、機械やセンサー、AIによる原料の判別はできないので、職人の目や手の感触によるホウキモロコシ1本1本の草を選り分ける作業が肝になってくるのだ。

江戸箒の職人 江戸箒(江戸ほうき)老舗|白木屋傳兵衛HPから引用
江戸箒の職人
江戸箒(江戸ほうき)老舗|白木屋傳兵衛HPから引用

ちなみに原料のホウキモロコシは、安定確保の観点から、筑波在住の農家に指導を仰ぎ、職人・社員一同がホウキモロコシ栽培の技術継承・維持・継続に努めているとのこと。

そうした地道な努力や作業でできた江戸箒は靭やかで、手首の負担や疲労度が軽減されるのだ。

江戸箒の職人さんは、江戸箒を「芸術品」として扱うことには抵抗がある、とのこと。

「使われてナンボ」、「消耗品だから」、「生活に根ざした道具(モノ)だから」芸術品ではないとの主張なのだ。

「だからといって粗末に扱ってほしくない。丁寧に扱ってほしい。長持ちもする物だし」。

そう言われる職人さんも現在はただ1人となってしまった。

江戸箒作りの後継者が出てくることを望むばかりだ。

【江戸箒老舗 白木屋傳兵衛 詳細】

・所在地:東京都中央区京橋3-9-8 白伝ビル1F
・アクセス:都営地下鉄浅草線「宝町」駅A3出口、東京メトロ銀座線「京橋」駅2番出口
・問合せ:TEL 0120-375389(ミナゴミハク)※フリーダイヤル
      03-3563-1771
    FAX 03-3562-5516
    MAIL info@edohouki.com
・営業時間:月~土祝10:00~19:00 日曜休
東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)

東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)
東京・京橋に店を構える江戸箒の老舗・白木屋傳兵衛(しろきやでんべえ)商店(天保元年[1830年]創業)

■江戸箒(江戸ほうき)老舗|白木屋傳兵衛
https://www.edohouki.com/

■そばに置いておきたい掃除道具 | 掃印(そうじるし)
https://www.sojirushi.com/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

江戸時代の文化・歴史を学び、未来の日本に役立てる「江戸文化歴史検定」【連載:アキラの着目】

今回のFJ時事新聞ニッポンニュースで取り上げるのは「江戸文化歴史検定」だ。

慶長8年(1603)に徳川家康が江戸幕府を開いて以来、長きに渡り戦乱のない平和な時代が続いた江戸時代。

江戸時代は、人々の暮らしの中から四季折々の年中行事や祭りが生まれ、さらに洗練された美意識や生活文化が形成され、文化や生活様式、社会秩序が成熟期を迎えていたのだった。

また、江戸時代には寺子屋が発達したことで、識字率は当時の世界でも最高水準であった。

江戸時代の優れた文化や先人たちの生活の知恵は、技術進歩や経済発展で豊かさを謳歌している現代ニッポンにも役立つことばかり。

昨今見失われがちな日本の心を思い起こし、未来に役立てようとの趣旨のもと、2006年に第1回江戸文化歴史検定が実施され、現在に至っているのだ。

江戸文化歴史検定 公式サイトから引用
江戸文化歴史検定 公式サイトから引用

「江戸文化歴史検定」は1級、2級、3級に分かれ、3級は短期の観光旅行レベル、2級は短期留学のレベル、1級は現地で旅行ガイドとして生計が立てられるレベルとのことだ。

江戸の文化・歴史は範囲が広く、その範囲内の知識は膨大だ。

この膨大な知識を丸暗記しようとすれば、苦痛となってしまう。

なので、面白いと感じたところから着手して、楽しく知識を覚えていくほうが結果的には覚えやすく、江戸文化歴史検定合格への近道となるのでは、とのことだ。

次の江戸文化歴史検定は15回目を数え、2020年6月28日(日)に東京・大阪にて開催する(2級・3級のみ)。

江戸の文化・歴史に自信のある人は、いっちょ腕試しだ。

■江戸文化歴史検定
https://www.edoken.jp/

■江戸文化歴史検定 トピックス @edoken_topics
https://twitter.com/edoken_topics

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part14~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第14弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。

では順番に正解を発表する。

A1.虎ノ門

虎ノ門(文化庁前)

正解は虎ノ門。

小林清親が描いた明治初年の虎ノ門で、洋風建築物は旧工部大学校の校舎。

今は同じ場所に文化庁東館が建つ。

外堀通りはその名の通り元々は江戸城の外堀だったところで、その外堀を埋めて道とした。

明治初年であれば外堀は”健在”で、水面に逆さの工部大学校校舎が映っているわけだ。

A2.御茶ノ水

御茶ノ水

正解は御茶ノ水。

この明治期における御茶ノ水の写真は有名。

この川は言わずと知れた、江戸城の外堀の役目も持つ神田川。

一見すると、自然な河川だが、この神田川は人力で掘られて造られた「人工物」。

徳川家康江戸入府の頃は、左右の陸地が繋がった駿河台で、2代将軍・徳川秀忠の命を受けた伊達政宗が1620年(元和6年)に仙台堀(神田川)を開削したことにより湯島台(写真左)と駿河台(写真右)とに分離されたのだ。

A3.新宿東南口

新宿東南口

正解は新宿東南口。

古い写真は昭和30年代に撮影されたもののようだ。

平成になったかならないか頃まで、この新宿東南口は変わらず、若い頃の筆者の記憶では、ガラの悪いパッとしない場所だった。

古い写真の180度正反対の側に、ヤクザ映画専門の映画館があったのも、この地のガラの悪さに拍車をかけてた。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

虎ノ門の今昔

虎ノ門の今昔

御茶ノ水の今昔

御茶ノ水の今昔

新宿東南口の今昔

新宿東南口の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

丸の内や日比谷は海?銀座は出島?【連載:アキラの着目】

現在1,300万人の人口を有する日本の首都・東京。

しかし、今から約400年以上前の東京、すなわち徳川家康が入城した当時の江戸は、江戸城大手門から東にかけて茅葺きの町屋が100軒あるかないかの鄙びた村だった。

そのうえ江戸は、幾多の河川が東京湾に流れ込むような湿地帯だったため、それまでなかなか街として発展しなかったのだ。

元々江戸の地形は、東京湾が大きく現在の日比谷辺りまで入り組んでおり(日比谷入江)、銀座・日本橋の辺りは江戸前島といって、東京湾に突き出た出島のような地形だった。

徳川家康入城期の江戸 Vol.72 都心3区の地形の変遷 | 東京の高級賃貸マンションなら[東京レント]から引用
徳川家康入城期の江戸
Vol.72 都心3区の地形の変遷 | 東京の高級賃貸マンションなら[東京レント]から引用

なので、現在の丸の内や日比谷は海で、埋め立てによって陸地となったのだ。

現・銀座から現・日比谷方面を望む想像図(右)と現在の画像(左) 右画像は「酒上小琴【サケノウエノコゴ」Twitterから引用
現・銀座から現・日比谷方面を望む想像図(右)と現在の画像(左)
右画像は「酒上小琴【サケノウエノコゴ」Twitterから引用

江戸日比谷入江 NHK「知恵泉」から引用
江戸日比谷入江
NHK「知恵泉」から引用

現在の皇居前広場はまさに日比谷入江だった場所で、400年以上前は、漣が押し寄せては引いての繰り返しをしていたことだろう。

その日比谷入江の埋め立てに使った土は、神田山(御茶ノ水・駿河台にあった小高い山)や番神山城跡(現:港区麻布台)を切り崩した土、神田川の掘削で出た土を使ったといわれている。

御茶ノ水・聖橋の神田川(江戸城外堀)は手掘りで掘削し、渓谷のように切り開いたので、元々駿河台は御茶ノ水側と順天堂大学病院側とは地続きだったのだ。

江戸を街として機能させるために、江戸幕府初代将軍・徳川家康~3代将軍・徳川家光までの時代に、前述の土地埋立拡張工事や水はけ改良工事、上水道整備工事、等々を矢継ぎ早にして、暮らしやすい街にしていった。

現在でも昔の名残を見つけることができ、有楽町の数寄屋橋(江戸前島)から日比谷方面(日比谷入江)にかけては、緩やかな下降の地形が見て取れる。

すっかりビルだらけになってしまった東京だが、こうした歴史をちょっとでも知ることで東京や江戸に興味を持つことができれば、今よりも楽しく街歩きができるかもしれない。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

貴方は粒餡、漉餡、味噌餡、どの柏餅が好き?【連載:アキラの着目】

東京では櫻の花もかなり散り、それと同時に櫻餅も旬を過ぎた。

しかし残念がることはない。

櫻餅の次は、柏餅の旬が到来だ。
柏餅

柏餅は、ご承知の通り、平たく丸めた上新粉の餅を二つ折りにした間に餡を挟み、カシワあるいはサルトリイバラの葉等で包んだ和菓子で、5月5日「端午の節句」に供えられる。

現在のカシワの葉を用いた柏餅になったのは、江戸幕府9代将軍・徳川家重~10代将軍・徳川家治の頃に江戸で生まれたといわれている。

この江戸生まれの、端午の節句に柏餅を供える文化は参勤交代により、各地の大名が江戸から各々の故郷に持ち帰り、その結果、日本全国に浸透したと考えられているが、1930年代頃まではカシワの葉を用いた柏餅は依然関東が中心であった。

地方によっては、カシワの葉を入手しにくいエリアもあったようで、カシワの葉の代用でサルトリイバラの葉を用いた柏餅(サルトリイバラ餅!?)があったりしたようだ。

そもそも、なぜ江戸ではカシワの葉でくるむようになったのかというと、新芽が育つまで古い葉が落ちないカシワの葉が「子孫繁栄(家系が途切れない)」として縁起が良いからともいわれている。

こうして日本全国に行き渡った柏餅だが、葉だけでなく、挟む餡にも地域差がある。

一般的な柏餅は、他の饅頭のような和菓子同様、粒餡、漉餡があり、逆にいうと、粒餡、漉餡しかないと思われがちだ。

だが、これらの餡以外に柏餅には味噌餡もあるのだ。

ただし、この味噌餡バージョンの柏餅は、いまだ「全国区」ではなく、同じ日本人でありながら、味噌餡バージョンの柏餅を知らない地域も広く存在する。

その味噌餡バージョンの柏餅を知らない地域は、愛知県をはじめとした中部地方や関西地方、九州などで、和菓子店で「味噌餡の柏餅を下さい」と言っても、店員から「?」という対応をされてしまうのだ。

櫻餅も地域によって異なる形状に分かれ、粒状の表面で餡が外側から見えない「道明寺桜餅」と、円筒型または袱紗折り(ふくさおり)で餡を包んだ「長命寺桜餅」の2種があるが、柏餅も粒餡、漉餡、味噌餡といった地域差が存在することがおわかりになったことかと。

自然なものを取り込むことで季節感を感じることができるという手法は、古代日本より様々な分野で採り入れられているが、葉そのもので包む柏餅はまさにその最たるもの。
柏餅

新緑の芽吹く季節に柏餅を食べるのは、まさに季節感を味わうことだから、端午の節句にはぜひとも柏餅を食そう。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part4~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第4弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。では順番に正解を発表する。

A1.北品川(旧東海道・品川宿)

北品川(旧東海道・品川宿)

出題した絵は、江戸時代の浮世絵師・歌川広重の描いた『東海道五十三次』の品川宿だ。

起点の江戸日本橋を出て最初の宿場町である品川宿は、当時、海岸線脇にあったため、旅籠の裏は江戸湾(現・東京湾)で、何艘もの帆掛け船が行き来している様子が描かれている。

しかし、品川宿のあった現在の北品川は、海岸線が埋め立てられ、海ははるか数百mもの沖合になってしまい、旧東海道沿いにはマンション、アパート等も建ってしまったため、ご覧の通り、道幅が当時の面影を残すだけだ。

A2.マーチエキュート神田万世橋(旧万世橋駅)

マーチエキュート神田万世橋(旧万世橋駅)

現在、マーチエキュート神田万世橋のある場所は、国鉄・万世橋駅があった。

初代の駅舎は、東京駅を設計した辰野金吾による赤煉瓦造りで、駅前広場には日露戦争の英雄・広瀬武夫と杉野孫七の銅像が建っていた。

東京市電が走り、多くの人で賑わった万世橋駅は、大正時代に最盛期を迎えるも、その後東京駅が完成したことで中央本線の起終点としての役目は7年で終わった。

秋葉原に隣接した場所でも、現在はさほど人通りが多いわけではなく、当時の賑わいは嘘のようだ。

A3.六本木テレビ朝日前

六本木テレビ朝日前

正解は、六本木テレビ朝日前。

明治時代はこの地に「曹洞宗大学」があり、白黒写真はその「曹洞宗大学」の校舎だ。

明治時代の六本木テレビ朝日前の地図
明治時代の六本木テレビ朝日前の地図

現在の六本木テレビ朝日前周辺の地図
現在の六本木テレビ朝日前周辺の地図

「曹洞宗大学」はその後名称を変更し、駒澤大学となり、世田谷区に移転し、現在に至っている。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

北品川(旧東海道・品川宿)の今昔

北品川(旧東海道・品川宿)の今昔

マーチエキュート神田万世橋(旧万世橋駅)の今昔

マーチエキュート神田万世橋(旧万世橋駅)の今昔

六本木テレビ朝日前の今昔

六本木テレビ朝日前の今昔

今後も気になる東京の街の浮世絵や錦絵、昔の写真を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part3~【連載:アキラの着目】

昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第3弾だ。

では早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。

では順番に正解を発表する。

A1.湯島聖堂脇の坂道

湯島聖堂脇の坂道

さきほどの絵は、明治時代の画家・小林清親の東京名所図「湯島元聖堂」(1879年)だ。

昔のままの壁があり、向こう側に降りる坂が見受けられることから、左側の壁の中は湯島聖堂とわかる。

A2.高輪付近

高輪付近

さきほどの絵は、同じく小林清親の東京名所図「高輪半町朧月景」(1879年)だ。

日本最初の鉄道・新橋-桜木町間の敷設計画では地元の大反対にあい、現在の港区海側における鉄道用地の収用ができなかった。

そこで陸がダメならば、海に陸を築き、そこに鉄道を通せばいい、ということで、絵のように鉄道は海上を走る格好となった。

現在この地は、リニア新幹線の東京始発駅として決定し、絵のような朧月をじっくり観賞できるような風情とは無関係の地になってしまった。

A3.愛宕山山頂(愛宕神社)

愛宕山山頂(愛宕神社)

さきほどの絵は、明治時代前期の浮世絵師・版画家である井上安治の東京名所絵「東京真画名所図解 愛宕山」(1881-1889)だ。

高層建築がない時代において、東京都心部で最も高い場所が、愛宕神社のある愛宕山(標高25.7m)で絶景スポットだったのだ。

以前のニッポンニュース(「東京23区内の最高峰・愛宕山(東京都港区)に登ってみよう! 【連載:アキラの着目】」)でも取り上げたので、覚えていれば、この第3問は簡単だったかもしれない。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

湯島聖堂脇の坂道

湯島聖堂脇坂道の今昔対比

高輪付近

高輪付近の今昔対比

愛宕山山頂(愛宕神社)

愛宕山山頂(愛宕神社)の今昔対比

今後も気になる東京の街の浮世絵や錦絵、昔の写真を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099