「地名の由来」タグアーカイブ

東京の様々な地名の由来 ~日本橋馬喰町(東京都中央区)~【連載:アキラの着目】

「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは、東京都中央区にある日本橋馬喰町だ。

日本橋馬喰町は、すぐ隣の日本橋横山町と共に日本屈指の衣料問屋街を形成しており、小売してくれる店が少ないことから、一般人にとっては見えないバリアが張られてるような雰囲気の町だ。
東京都中央区日本橋馬喰町

そんな疎外感を漂わせている(!?)日本橋馬喰町だが、地方から来た人だと「ばくろちょう」とは読めず、「うまくいまち」と読んだりするといった話を時々耳にする。

字面だけ見ると、馬を食っていたから馬喰町という地名が付いたんだと短絡的に思ってしまいがちだが、さにあらず。

馬喰町という地名については、以下の由来があるのだ。

江戸時代のこの地には馬場があり、江戸幕府の博労(ばくろう)頭(かしら)である富田半七と高木源兵衛が管理していた。

ちなみに、博労(馬労とも表記)とは、牛馬の善し悪しを鑑定し、売買を行なう仲介業者のことだ。

その後、高木源兵衛の高木家がこの地の名主になったことにより、「博労町」と言われるようになった。

現在の「馬喰町」という表記に変わったのは、江戸時代の正保年間(1645年~1648年)の頃で、「馬に食わせてもらってる(=馬で稼がせてもらってる)」から馬に敬意を払って「馬喰町」に変えたという説が有力だ。

なので、馬を食べていた町ではなく、むしろ馬に感謝していた町なのだ。

その日本橋馬喰町も前述の通り、現在は「馬に食わせてもらってる」町から「衣料で食わせてもらってる」町へと変貌を遂げたのだから、時代の移り変わりは面白いものだ。

■横山町・馬喰町 – 協同組合 東京問屋連盟
https://e-tonya.or.jp/

■東京日本橋にこんな商店街が! 日本橋横山町馬喰町問屋街
https://tokyo-tonyagai.com/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~神田(東京都千代田区)~【連載:アキラの着目】

「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは神田だ。

神田と言っても、山手線・京浜東北線の駅「神田」もあるし、神田神保町などのように頭に神田がつく町名もあり、実に多くの神田がつく地名が存在する。

神田神保町などの町名の場合は、1947年(昭和22年)に、かつての東京市神田区と同市麹町区が合併してできた千代田区において、旧神田区の町名については「神田」を冠した町名にするとのことで、「神田●●町」という町名が誕生し、現在に至っているのだ。

大元の神田についての由来は諸説ある。

1つ目の説は、神田神社(現・神田明神)を創建した真神田氏の名から採り、この辺りの地を「神田」としたという説だ。

2つ目の説は、神田神社(現・神田明神)のご祭神・平将門命に因んだもので、平将門命の「からだ」がなまって「神田」に、「からだの明神」が「神田明神」となったという説や、平将門命が片目を射抜かれたという伝説から「かため」が訛って「神田」になったという、平将門命説だ。
神田神社(神田明神)

3つ目の説は、伊勢神宮に奉納するための初穂を作る田んぼから由来するという説で、この田んぼを神田(みとしろ)というのだが、これが「かんだ」に転じたというものだ。

筆者としては2つ目の説を推したい。

というのも、「いくつもの河川が湾に流れ込む地」という意味の江戸は湿地帯だらけで、徳川家康入府時点ですら田んぼがなかったと考えられているし、後々の様々な影響力を考慮すると、平将門命に由来している方が自然なように感じられるからだ。

平将門命による「後々の様々な影響力」というのは、以下の事象だ。

1.関東大震災後、大手町にある将門塚に都市再開発として大蔵省仮庁舎を建設しようとした際、工事関係者や大蔵省職員、時の大蔵大臣・早速整爾(第1次若槻内閣)の相次ぐ不審死が起こり、これらの死は平将門命の祟りによるものだと大蔵省内で噂されることとなり、ついには大蔵省仮庁舎を取り壊したこと

2.第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が丸の内周辺を区画整理するにあたり、障害となる将門塚を撤去し、整地・造成しようとした際、米軍のブルドーザーが横転し、死者が出るなどの不審事故が相次いだため、計画を取り止めたこと

ゆえに、この地に対して不敬な行為に及べば、祟りにあうという伝承ができ、以降、将門塚は数十年にわたり地元ボランティア団体により手厚く保護されているのだ。
将門塚

因みに将門塚のある大手町は、現在の広義としては神田エリアにギリギリ入るか入らないかだろうが、筆者は大手町も神田エリアとしたい。

以上、長々と書いてきたが、「神田」の地名の由来を検証することは今となっては難しく、この広範な神田の地に多大な影響力を及ぼしている平将門命が、神田の地名の由来と筆者は思いたい。

■江戸総鎮守 神田明神 東京都千代田区外神田2-16-2
https://www.kandamyoujin.or.jp/

■神田明神 @kanda_myoujin
https://twitter.com/kanda_myoujin

東京の様々な地名の由来 ~紀尾井町(東京都千代田区)~【連載:アキラの着目】

江戸時代と現代を合わせた紀尾井町の地図 スマホアプリ「大江戸今昔めぐり」から引用「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは紀尾井町だ。

紀尾井町の最寄駅は赤坂見附。

赤坂見附の交差点を北上し、江戸城の弁慶堀に架かる弁慶橋を渡り切ったら、そこから先は紀尾井町だ。

赤坂見附交差点 写真中央のビルが建つエリアは紀尾井町
赤坂見附交差点
写真中央のビルが建つエリアは紀尾井町

なぜ紀尾井町という地名になったのかというと、この地に紀伊和歌山藩徳川家上屋敷(きいわかやまはん とくがわけかみやしき)、尾張名古屋藩徳川家中屋敷(おわりなごやはん とくがわけなかやしき)、近江彦根藩井伊家中屋敷(おうみひこねはん いいけなかやしき)があったことによる。

各家の頭文字「紀」、「尾」、「井」を一字ずつ採り、併せたから「紀尾井町」なのだ。

明治5年(1872年)には、新たに「麹町紀尾井町(こうじまち きおいちょう)」という地名に生まれ変わり、明治44年(1911年)には紀尾井町となり、当時は麹町区に属した。

紀伊和歌山藩徳川家上屋敷跡は現在のグランドプリンスホテル赤坂・清水谷公園、尾張名古屋藩徳川家中屋敷跡は現在の上智大学、近江彦根藩井伊家中屋敷跡は現在のホテルニューオータニ付近にそれぞれあったとされている。

江戸時代と現代を合わせた紀尾井町の地図 スマホアプリ「大江戸今昔めぐり」から引用
江戸時代と現代を合わせた紀尾井町の地図
スマホアプリ「大江戸今昔めぐり」から引用

都会のど真ん中なのに清水谷公園があったり、弁慶堀のボートから自然を満喫できたりで、まさに都会のオアシスと呼ぶに相応しいエリアだ。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~六本木(東京都港区)~【連載:アキラの着目】

六本木交差点「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは、六本木だ。

六本木は御存知の通り東京屈指の繁華街として世界に名を馳せており、戦前の東京市では旧麻布区に属していた。

六本木という地名の由来に関する説は2つある。

1つ目の説は、この地に6本の松の木があったことに由来するもの。

もう1つの説は、上杉家、片桐家、朽木家、高木家、一柳家、青木家といった木にまつわる名字の大名家がこの地に屋敷を構えていたことに由来するものだ。

どちらが六本木という地名の由来として正しいという判断や評価を付けることはできないが、いずれにしても木に関係することは確かだろう。

明治時代になると、大名屋敷ばかりだった六本木は、「東京鎮臺歩兵營」という軍事施設が置かれるようになった。

1917~1924 東京 六本木周辺
1917~1924 東京 六本木周辺

昔の六本木を知るお年寄りに訊くと、「戦前の六本木は軍人さんばかりで、怖かった」そうで、現在の繁華街で賑わう六本木とは正反対の町だったようだ。

その後、日本の敗戦により六本木の軍事施設はGHQにより接収され、GHQの外国人向けの商店や飲食店が少しづつでき始めた。

1975年(昭和50年)以降は、赤坂に代わる人気繁華街としての地位を確立し、1980年代後半からのバブル経済期には数十軒ものディスコがオープン、日本人・外国人とも大挙押し寄せるプレイスポットとなった。

人気繁華街ともなれば、当然犯罪や非行の温床となる側面も出てくるようになり、このため六本木エリアはアメリカ国務省、イギリス大使館、オーストラリア大使館によって旅行者向けの『危険地域』として警告されるに至っている。

近年は、大規模な都市再開発が行われ、六本木ヒルズ、東京ミッドタウンがオープンし、繁華街だけでなく、大人向けのお洒落な商業エリアとしても現在の六本木は注目を集めている。
六本木交差点

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~日本橋堀留町(東京都中央区)~【連載:アキラの着目】

久々の「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは、日本橋堀留町だ。

日本橋堀留町は御存知の通り東京都中央区の地名で、戦前の東京市では旧日本橋区に属していた。

日本橋堀留町の地名の由来は、江戸時代にまで遡り、東堀留川が現在の堀留町南端部で止まっていたからだ。

1896~1909 東京市日本橋区日本橋堀留町周辺
1896~1909 東京市日本橋区日本橋堀留町周辺

その当時は、現在の日本橋堀留町1丁目辺りのみを指す地名だったが、旧日本橋小舟町の一部を吸収合併し、現在は日本橋堀留町1丁目・2丁目を合わせたエリアを総称している。

現在の日本橋堀留町周辺
現在の日本橋堀留町周辺

日本橋堀留町では、江戸時代以降、東堀留川、西堀留川等の運河による水運を利用し、大商店や諸国物産を扱う船荷問屋が多く集結し、富くじで知られる椙森神社の門前町として賑わった。

また、日本橋堀留町は戦前頃までは鉄や銅を中心とした金属問屋の集中する街としてもその名を馳せていた。

前述した地名の元となった東堀留川も昭和24年(1949年)に埋め立てられてしまい、堀が止まっている(留まっている)姿を観ることができなくなってしまった。

地名や住居表示の変更に伴い、元の地名の頭に安直な東西南北を付けるのが当たり前になり、新地名や新町名の残念感は不思議でもなんでもなくなったが、地名は残っているのに、その地名の元となった堀がなくなってしまったというパターンの日本橋堀留町もやはり残念感は否めない。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~神田駿河台(東京都千代田区)~【連載:アキラの着目】

歌川広重『水道橋駿河台』「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは、神田駿河台だ。

現在、神田駿河台とよばれるエリアは駿河台といわれ、JR御茶ノ水駅の西側および神田川の南側に位置する。

元々は、この神田駿河台の大地は、神田川北側の湯島台とよばれるエリアと陸続きになっていた。

しかし、1590年に徳川家康が江戸に入府して以降、江戸城は整備され続け、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達政宗が1620年(元和6年)に仙台堀(神田川)を開削したことで、1枚の台地が南北に分離されることとなった。

幕末あるいは明治初期の仙台堀こと神田川(現在の御茶ノ水付近)
幕末あるいは明治初期の仙台堀こと神田川(現在の御茶ノ水付近)
上の写真とほぼ同じ場所の現在
上の写真とほぼ同じ場所の現在

ちなみに開削した際の土砂は、日比谷入江を埋め立てるのに用い、現在の丸の内や有楽町が海から陸地となった。

なぜ、この仙台堀(神田川)によって分断された南側のエリアを駿河台というのかについては諸説ある。

1つ目は、1616年(元和2年)の徳川家康死去の後に、駿河国(現在の静岡県)の国府が置かれた都市・駿府より幕臣が江戸に呼ばれ、この地に屋敷を与えられたことに由来するという説。

2つ目は、駿河大納言といわれた、江戸幕府三代将軍・徳川家光の弟である忠長の屋敷があったことに由来するという説。

3つ目は、江戸の中でも比較的高台であるこの地から、駿河国の富士山がよく見えたことに由来するという説だ。

現在の千代田区には、富士見坂という名が付いた坂が2つ残っており、これら2つの坂は駿河台よりも低い。

ということは、これらの2つの坂よりも「高地」である駿河台からも当時は富士山が見えたであろうことは想像に難くなく、これらの事象から推測するに、駿河台の地名の由来は、3つ目の「駿河国の富士山がよく見えたことに由来する」説が有力と思われる。

歌川広重『水道橋駿河台』
歌川広重『水道橋駿河台』

歌川広重『水道橋駿河台』に描かれた現在のJR御茶ノ水駅周辺(水色エリアは神田駿河台)
歌川広重『水道橋駿河台』に描かれた現在のJR御茶ノ水駅周辺(水色エリアは神田駿河台)

駿河台は1960年代になると、JR御茶ノ水駅から本郷通り沿いを中心に、学生相手の店舗が多くなったこともあって、”日本のカルチェラタン”と呼ばれたこともあった。

現在、駿河台は、相変わらず大学・専門学校が多いエリアとして知られている。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099