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東京の様々な地名の由来 ~神田(東京都千代田区)~【連載:アキラの着目】

「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは神田だ。

神田と言っても、山手線・京浜東北線の駅「神田」もあるし、神田神保町などのように頭に神田がつく町名もあり、実に多くの神田がつく地名が存在する。

神田神保町などの町名の場合は、1947年(昭和22年)に、かつての東京市神田区と同市麹町区が合併してできた千代田区において、旧神田区の町名については「神田」を冠した町名にするとのことで、「神田●●町」という町名が誕生し、現在に至っているのだ。

大元の神田についての由来は諸説ある。

1つ目の説は、神田神社(現・神田明神)を創建した真神田氏の名から採り、この辺りの地を「神田」としたという説だ。

2つ目の説は、神田神社(現・神田明神)のご祭神・平将門命に因んだもので、平将門命の「からだ」がなまって「神田」に、「からだの明神」が「神田明神」となったという説や、平将門命が片目を射抜かれたという伝説から「かため」が訛って「神田」になったという、平将門命説だ。
神田神社(神田明神)

3つ目の説は、伊勢神宮に奉納するための初穂を作る田んぼから由来するという説で、この田んぼを神田(みとしろ)というのだが、これが「かんだ」に転じたというものだ。

筆者としては2つ目の説を推したい。

というのも、「いくつもの河川が湾に流れ込む地」という意味の江戸は湿地帯だらけで、徳川家康入府時点ですら田んぼがなかったと考えられているし、後々の様々な影響力を考慮すると、平将門命に由来している方が自然なように感じられるからだ。

平将門命による「後々の様々な影響力」というのは、以下の事象だ。

1.関東大震災後、大手町にある将門塚に都市再開発として大蔵省仮庁舎を建設しようとした際、工事関係者や大蔵省職員、時の大蔵大臣・早速整爾(第1次若槻内閣)の相次ぐ不審死が起こり、これらの死は平将門命の祟りによるものだと大蔵省内で噂されることとなり、ついには大蔵省仮庁舎を取り壊したこと

2.第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が丸の内周辺を区画整理するにあたり、障害となる将門塚を撤去し、整地・造成しようとした際、米軍のブルドーザーが横転し、死者が出るなどの不審事故が相次いだため、計画を取り止めたこと

ゆえに、この地に対して不敬な行為に及べば、祟りにあうという伝承ができ、以降、将門塚は数十年にわたり地元ボランティア団体により手厚く保護されているのだ。
将門塚

因みに将門塚のある大手町は、現在の広義としては神田エリアにギリギリ入るか入らないかだろうが、筆者は大手町も神田エリアとしたい。

以上、長々と書いてきたが、「神田」の地名の由来を検証することは今となっては難しく、この広範な神田の地に多大な影響力を及ぼしている平将門命が、神田の地名の由来と筆者は思いたい。

■江戸総鎮守 神田明神 東京都千代田区外神田2-16-2
https://www.kandamyoujin.or.jp/

■神田明神 @kanda_myoujin
https://twitter.com/kanda_myoujin

鎮魂すべき!巣鴨刑務所跡地に建つ池袋サンシャイン60とその周辺地【連載:アキラの着目】

東京都豊島区東池袋にある超高層ビル・池袋サンシャイン60。

地上239.7mの高さを誇り、完成当時はアジアで最も高いビルだった。
東京都豊島区東池袋にある地上239.7mの超高層ビル・池袋サンシャイン60

この池袋サンシャイン60も含めたサンシャインシティには水族館もあり、東京の観光スポットとして有名だ。

かつては、東京の街を高所から観るスポットといったら、東京タワーと池袋サンシャイン60が断トツ人気で、展望台まで有料とわかっていても、池袋サンシャイン60に上る観光客は、新宿副都心に東京都庁舎ができるまでは、絶えなかった。

そんな東京の人気観光スポットとして知られている池袋サンシャイン60だが、意外と知られていないこともあるのだ。

これからいうことは、知る人ぞ知るで、昔からの地元住民や一部の国民にしか知られていないのだ。

それは何かというと、池袋サンシャイン60が建っている場所は、かつてこの地にあった巣鴨刑務所の跡地なのだ。

巣鴨刑務所ができた明治時代の池袋は、現在のような新宿、渋谷に次ぐような東京を代表する大きな街ではなく、以下の地図に「北豊嶋郡巣鴨村」と明記されているように、「東京の僻地」だったのだ。

1896~1909年の東池袋 中央の四角で囲まれたエリアが巣鴨刑務所
1896~1909年の東池袋
中央の四角で囲まれたエリアが巣鴨刑務所

「東京の僻地」である池袋には人がそんなに住んでいないから、この地に刑務所を造ったのだ。

ちなみに、池袋なのに刑務所名に「巣鴨」と付くのは、元々江戸時代に、この一帯の”大都市”は中山道の宿場町・巣鴨であったため、その影響で「巣鴨村」となり、その「巣鴨村」にある刑務所だから「巣鴨刑務所」となったのだろう。

年配の方々ならば、巣鴨刑務所という名称よりも、「スガモプリズン」という名称の方が、耳に聞き覚えがあるという人もいることだろう。

戦後間もなく、巣鴨刑務所は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収されると、「SUGAMO PRISON」(スガモプリズン)と名称を変え、A級・B級・C級戦犯が収容された。

これら戦犯のうちの60人(A級戦犯:7名、B級・C級戦犯:53名)が死刑となり、この「SUGAMO PRISON」(スガモプリズン)の絞首台で執行されたのだ(これ以外ではB級・C級戦犯の判決を受けた1名が銃弾により処刑)。

スガモプリズンの絞首台があった場所にある、東池袋中央公園の慰霊碑
スガモプリズンの絞首台があった場所にある、東池袋中央公園の慰霊碑

あくまでも都市伝説の域を超えていないと思われるが、池袋サンシャイン60の「60」は、この戦犯絞首刑者60人から由来しているという真偽不明な説も流れている。

この絞首刑によるA級戦犯者7人の遺体は、アメリカ兵による厳戒態勢の下、横浜市の久保山斎場で極秘に火葬された後、アメリカ兵が遺骨を全て持ち帰り、遺族には引き渡さなかった。

遺骨が遺族に引き渡されると、当然のことながら墓ができ、その墓が英雄崇拝の対象になるのをGHQが恐れたためといわれている。

後年に公開されたマッカーサー元帥の秘密文書によると、案の定、戦犯者の遺骨は「絶対に遺族に渡してはならない」との指示があったことが明らかにされた。

しかしながら、本来極秘であるはずの「SUGAMO PRISON」(スガモプリズン)での絞首刑によるA級戦犯者7人の遺体が、どうして久保山斎場で焼かれたことが当時わかったのか。

飛田美喜・久保山斎場長が、昭和23年8月21日以降、毎日火葬された遺体と翌日新聞で発表される処刑者数とを照合させた結果、その数が一致したからだとのこと。

その後、A級戦犯者7人の遺骨はGHQ占領軍が砕き、7人の遺骨を全部ごちゃ混ぜにした後に黒塗り箱に入れ、どこかに持ち去った。

ほとんど主要な部位の遺骨をGHQ占領軍が持っていってしまったことで、共同骨捨場には僅かに残った細かい遺骨と灰しかなかったが、飛田美喜・久保山斎場長がそれらを丁寧に掻き集め、火葬場の片隅に掘った穴の奥に密かに納めた。

そのごちゃ混ぜになったA級戦犯者7人の遺骨は、昭和35年8月18日に愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山山頂付近に殉国七士廟が設けられ、その中の殉国七士の墓に遺骨が分骨され安置された。

飛田美喜久保山斎場長が丁寧に弔ったものの、本来遺骨を他人とごちゃ混ぜにすることがないだけに、A級戦犯者7人の霊は、まだしっかりと鎮魂されていないのではあるまいか?

その影響なのだろうか、池袋サンシャイン60は開業してから数々の不可解な事象や事件が起きていたり、池袋サンシャイン60周辺でも悲惨な事件が起きたりしている。

中でも1999年(平成11年)9月8日にサンシャイン60通りの東急ハンズ前で、当時23歳の男が包丁と金槌で通行人を次々と襲い、2人の死亡者(66歳女性と29歳女性)、6人の重軽傷者を出した「池袋通り魔殺人事件」が日本全国を震撼させた。

最近では、先日4月19日に豊島区東池袋4丁目の都道で、旧通産省工業技術院の元院長の男(87歳)が運転する乗用車が暴走し、母子2人が死亡、8人が負傷した事故が記憶に新しい。

現在の東池袋
現在の東池袋
1896~1909年の東池袋地図に凶悪事件・甚大な事故を重ねた地図
1896~1909年の東池袋地図に凶悪事件・甚大な事故を重ねた地図

一般的にいわれている池袋は、西口のロサ会館周辺はガラが悪く、東口のサンシャイン60側は若者ウケし、ガラが悪くないということになっている。

にもかかわらず、凶悪事件や甚大な事故が起きているのは、池袋東口のサンシャイン60及びその周辺なのだ。

もはや「SUGAMO PRISON」(スガモプリズン)の影響がない、と言い切るのには無理があるように思えてならない。

サンシャイン60及びその周辺エリアをしっかりとお祓いし、彷徨っている霊を慰め、鎮魂すべきではないだろうか。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

海水浴場に潮干狩り、温泉、競馬場も!?一大行楽地だった羽田(東京都大田区)【連載:アキラの着目】

年々、訪日外国人観光客が増加の一途をたどっており、東京の”空の玄関”である羽田国際空港(東京国際空港)は、1年間で約653万人(2016年)もの訪日外国人が出入国している。

元々、これだけの出入国者を受け入れるほどのキャパシティを持ち合わせていなかった羽田国際空港だが、時代とともに拡張し、発展してきた。

その発展の影には、多くの犠牲が伴った羽田の歴史が存在する。

今回は、羽田国際空港および羽田の歴史についてスポットをあてる。

戦前の羽田は花街で一大行楽地

羽田国際空港の地は、元々遠浅の「江戸前」漁場で、海苔もよく採れる鄙びた漁村だった。

明治中期に入って穴守稲荷神社が建立される。

江戸時代中期に埋め立てられた羽田は、長年塩害や水害に悩まされ、“堤防に空く穴がもたらす害から土地を守る”(=穴守)ために伊勢神宮から外宮(げくう)の神様・豊受姫命(とようけびめのみこと)を勧請したのが穴守稲荷神社の始まりとされる。

その穴守稲荷神社の参拝客を相手にした芸者や賭け事の遊興施設も穴守稲荷神社参道両脇にでき始め、花街となった。

戦前の穴守稲荷神社 穴守稲荷神社 HP(http://anamori.jp/)から引用
戦前の穴守稲荷神社 穴守稲荷神社 HP(http://anamori.jp/)から引用

1886-1909年の羽田
1886-1909年の羽田
1927-1939年の羽田
1927-1939年の羽田
現在の羽田
現在の羽田

その後、羽田は、温泉が湧いたことから温泉地としても名が知られるようになり、初夏は潮干狩り、夏は海水浴も楽しめ、競馬場もできるなど、穴守稲荷神社の門前町から一大行楽地へと栄えるに至った。

戦前の羽田は、今でいうところのレジャーランドだったのだ。

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による強制撤収で行楽地・羽田が消滅

日本が第2次世界大戦に敗北したことで、日本全土がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により占領されることに。

それに伴い、羽田の地はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による強制撤収が行われることになった。

当時の羽田の行楽地北側には、東京国際飛行場があったが、GHQはこの東京国際飛行場を拡張させるために、羽田の住民約3,000名に対し、48時間以内に退去せよとの命令を突然下したのだ。

GHQに強制撤収される前の羽田
GHQに強制撤収される前の羽田

当初は12時間以内に退去せよとの命令だったが、羽田の住民代表が決死の覚悟でGHQと交渉し、なんとか48時間にしてもらったとのことだ。

このGHQの強制撤収により、参拝客で賑わっていた穴守稲荷神社、小学校、京浜電鉄穴守線(海老取川より東の路線)等、穴守稲荷神社の大鳥居を除いて全てが撤去となった。

GHQが穴守稲荷神社の大鳥居を撤去しなかった理由についてはいくつかあるが、「GHQが穴守稲荷神社の祟りを怖れ、鳥居を撤去できなかった」という説がまことしやかに流れている。

穴守稲荷神社の大鳥居は、その後移転を繰り返し、現在の弁天橋付近に落ち着くことになった。

羽田という普段そんなに気にも留めなかった地には、実は様々な歴史があったのがおわかり頂けたかと。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099