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現代地図と正確に重なる江戸古地図を閲覧できるアプリ!大江戸今昔めぐり【連載:アキラの着目】

「今歩いている東京の街は、昔はどのような場所だったのだろう?」

こんなふうに昔の東京を知りたい人もいるはず。

筆者もその1人なのだが、こうした人間にとって重宝するアプリを紹介する。

そのアプリが『大江戸今昔めぐり』だ。

この『大江戸今昔めぐり』が、類似する他の今昔マップ系アプリと最も異なる点は、現代地図と正確に重なる江戸古地図であることだ。

他の今昔マップ系アプリだと、昔の古地図を閲覧できるメリットがある反面、古地図は東西南北の正確性にやや難があり、見ながらの散歩だと、実際の現在地をいまいち把握しにくいデメリットがあった。

しかし、この『大江戸今昔めぐり』は、復元古地図をわざわざ書き起こしているため、現代地図と正確に重なり、東西南北の正確性には申し分なく、いにしえの東京・江戸探索散歩にはかなり重宝するのだ。

大江戸今昔めぐりHPから引用

大江戸今昔めぐりHPから引用
大江戸今昔めぐりHPから引用

また、寺社をはじめ、橋、江戸百景など約3,000以上のスポットを収録しており、これまた江戸探索散歩にはかなり重宝する。

大江戸今昔めぐりHPから引用
大江戸今昔めぐりHPから引用

江戸探索まではいかなくとも、今自分の勤めている会社のある場所は、江戸時代の頃は何の場所だったのかを簡単に知ることができるアプリなので、気軽にインストールしてみよう。

■大江戸今昔めぐり
https://www.edomap.jp/

■大江戸今昔めぐり アプリダウンロード
・Iphone用
https://itunes.apple.com/jp/app/id1296167809
・Android用
https://play.google.com/store/apps/details?id=jp.edomap.oedokonjakumeguri

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ? ~Part2~【連載:アキラの着目】

2018年01月19日のニッポンニュース「ここは一体東京のどこ?【連載:アキラの着目】」の第2弾だ。

久々に東京のどこの街・町なのか的中してほしい。

では早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

では順番に正解を発表しよう。

A1.芝 増上寺

芝 増上寺

徳川将軍家の菩提寺である芝の増上寺。

現在、赤い三解脱門は劣化させないために登ることができないが、戦災を免れた昔からの門ということで、観られるだけでもありがたい。

A2.芝 赤羽橋

東京都港区の赤羽橋交差点

増上寺に極めて近い赤羽橋が正解。

現在は、川の上に首都高速道路が架かっている。

現在のザ・プリンスパークタワー東京や芝丸山古墳のある地も、昔は増上寺の境内であったため、浮世絵に描かれている赤羽橋右手にみえる屋敷の壁は増上寺だ。

浮世絵は下の周辺図でいうと、赤い矢印の側から描かれている。

現在の赤羽橋周辺図 Googleマップから引用
現在の赤羽橋周辺図 Googleマップから引用

A3.湯島聖堂

湯島聖堂 Googleマップから引用
湯島聖堂 Googleマップから引用

神田駿河台を人工的に掘り下げ、そこに水を通し、外堀を兼ねたのが神田川。

その神田川沿いに徳川5代将軍・綱吉によって孔子廟が建てられ、後に幕府直轄の学問所となったのが湯島聖堂だ。

では最後におさらいとして、それぞれ今昔対比をさせた画像を並べる。

芝 増上寺の今昔

芝増上寺の今昔

芝 赤羽橋の今昔

芝 赤羽橋の今昔

湯島聖堂の今昔

湯島聖堂の今昔対比

今後も気になるエリアの浮世絵や昔の写真を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

江戸っ子と名乗れるのは?【連載:アキラの着目】

「てやんでぇ、こんちくしょう!」
「べらんめぇ、馬鹿言ってんじゃねぇよ!」
「すっとこ、どっこい!」

威勢のいい、独特の言い回しをする江戸っ子。

江戸っ子

だが、一口に江戸っ子といっても、実はもっと細分化されるのだ。

それもそのはず、「大江戸八百八町」とも称される大都市・江戸なのだから、町ごとに特色があり、それぞれの町に住む人種や職業も異なったりするので、気質も同じではないし、全ての江戸の人たちを江戸っ子とはいわないのだ。

神田生まれだと「神田っ子」、芝の生まれだと「芝っ子」、同様に「下谷っ子」、「本所っ子」、「深川っ子」と呼び分けているのだ。

では、江戸っ子という人たちはいないのかというと、ちゃんといるわけで、それは日本橋生まれの人たちが江戸っ子と名乗れる。

前述の「神田っ子」、「芝っ子」などの人たちは、日本橋に対し敬意を払っているので、自分たちは江戸っ子と名乗らずに、江戸っ子と名乗るのは日本橋生まれの人たちに譲ってあげよう、ということで「江戸っ子=日本橋生まれ」となっている。

また、最低でも3代続いて江戸に住み着いていないと、江戸っ子と名乗ってはいけない、という暗黙のルールもあったりする。

他所もんが江戸に住み着いても、安易に江戸っ子と名乗らせないためなのか、そこのところはよくわかっていないのだが。

そんなわけで、江戸っ子と名乗れるのは「日本橋生まれで、最低でも3代続いて江戸に住み着いていること」に当てはまる人ということになる。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

今見ることのできる昔の東京の海岸線【連載:アキラの着目】

東京都港区海岸にある当社「BUKKYO時事新聞株式会社」。

東京湾に面していることもあり、事務所の窓を開ければ、汐風が吹き込んでくるロケーションだ。

東京湾お台場方面の眺望

毎日昼休みには会社周辺を歩くのだが、結構昔の名残を発見することができる。

今回は、当社周辺で見ることのできる昔の東京の海岸線を取り上げてみたい。

当社「BUKKYO時事新聞株式会社」のあるエリアは、海だった!

元来、江戸切絵図を見るのが好きなこともあり、昔の東京はどうなっていたのか、現在の地図と照らし合わせ、比較検討したりしてきた。

そこで判明したことは、当社「BUKKYO時事新聞株式会社」のあるエリアは、海だったということと、東京都港区を走る山手線(京浜東北線、新幹線)を堺に、内側(西側)が陸地、外側(東側)がすぐ海であったということだ。

厳密にいうと、開業当初は、線路は海の上にあったのだ。

新橋-桜木町路線 高輪大木戸付近明治期の高輪大木戸付近

東海道の邪魔にならないようにとのことで、海岸のすぐ沖合を埋め立て、線路敷設用地を盛土したのだ。

したがって最初は海岸線に沿って鉄道が敷かれていた。

明治期の芝浦周辺図明治期の芝浦周辺図 ※○と番号は、下記に掲載する同じ番号の文章と写真を参照

それが時代が下るにつれ、陸地はどんどん埋め立てられ、沖合が伸び、現在のようになった次第だ。

現在の芝浦周辺図現在の芝浦周辺図 ※○と番号は、下記に掲載する同じ番号の文章と写真を参照

芝浦周辺(浜松町-田町)で見ることができる旧海岸線

かつて海岸だった名残が浜松町駅に見ることができる。

大門から浜松町に伸びる大通りが、浜松町駅前のJR線ガードに到達する直前で、斜めに道路が降下するのだ。

これは海岸、すなわち砂浜から海にかけての傾斜であったことを物語っており、まさに浜松町駅のある場所は、陸地と海の際(きわ)だったことがわかる。

(1)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 海岸線の名残1(1)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 海岸線の名残1

似たような地形の名残は田町駅にも見てとれ、また、浜松町・田町間におけるいくつかのガード下も同様だ。

(2)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 海岸線の名残2(2)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 海岸線の名残2
(3)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 海岸線の名残3(3)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 海岸線の名残3
(4)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 海岸線の名残4(4)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 海岸線の名残4
(5)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 旧海岸線 道を堺に左が海、右が陸地だった(5)JR浜松町駅・田町駅間ガード下 旧海岸線 道を堺に左が海、右が陸地だった

「江戸無血開城」の舞台となった薩摩屋敷の裏手も海だった!

第1京浜通り沿いには、「西郷南洲・勝海舟会見の地」の碑があり、西郷隆盛と勝海舟が会談した有名な「江戸無血開城」はまさにこの地で行われた。

ここには江戸期、薩摩藩屋敷があり、屋敷のすぐ裏は浜辺だったことが確認できる文献も現存することから、やはりここも陸地と海の際(きわ)だったことがわかる。

また、浜松町から田町にかけてのエリアは芝浦と呼ばれ、古典落語「芝浜」の舞台となった浜も、現在は児童公園として生まれ変わっている。

なお、浜松町からほど近い家電メーカーの東芝は、元々は「東京芝浦電気」という名称で、この芝浦が発祥の地であることが今も社名に残っている。

芝浦以外でもまだまだ古き良き江戸・東京は残っている!

以上見てきたように、芝浦界隈(浜松町・田町周辺)には、昔の海岸線の名残が存在する。

芝浦以外でも、探せば古き良き江戸・東京が意外とまだまだ残っているものなので、これをきっかけに歩くことをオススメする。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099