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東京の様々な地名の由来 ~お台場(東京都港区)前編~【連載:アキラの着目】

某テレビ局や様々なショッピングモールがあり、国内外の観光客から人気がある「お台場」。

「なんか大砲が置いてあった島があったから、お台場って言うんでしょ」

確かに「お台場」の地名の由来は、ほぼその通りなのだが、「はい、それ正解!」ではもうこのコラムが終わってしまうので、もっと掘り下げてみる。

まずは「お台場」こと台場が、昔はどうなっていたかを探ってみる。

台場古地図

これは幕末の地図なのだが、実は台場が11基(未着工含む)も存在したのだ。

この地図に描かれている台場は、「品川台場(品川砲台)」という。

「品川台場(品川砲台)」は、江戸幕府(徳川幕府)がペリーの再来航に備えるため、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍に設計・監督させ、嘉永6年(1853年)に着工された。

江戸時代最後の国家的事業で、かつ西洋式築城術を取り入れた、日本初の本格的近代城郭であるという側面も「品川台場(品川砲台)」は持っている。

今では、ゆりかもめの「お台場海浜公園」駅や、その隣の「台場」駅、さらには「青海」駅、東京ビッグサイトまでのエリア全体を総称して「お台場」というが、元々「お台場」こと台場は、先ほどの地図に描かれた全ての台場を指すのだ。

現在のお台場エリア

因みに、広義の台場は、全国各地に築かれた、砲台がある人工島の要塞や、幕末-明治期に築かれた野戦築城を指し、海岸線だけに築かれたのではなく、峠・高台・交通の要衝にも築かれたりした。

このコラムでは、こうした全国大小の台場を取り上げるつもりはないので、「品川台場(品川砲台)」に限定して、話を進める。

当初「品川台場(品川砲台)」は、最初に掲げた地図が示す通り、品川沖から深川沖にかけて11ヵ所の台場を築造するという案だった。

第一台場から第七台場までが着工したが、資金不足により実際に完成したのは、第一、第二、第三、第五、第六台場の5基で、第七台場は未完成となった。

台場周辺地図(1898-1909)
台場周辺地図(1898-1909)

台場周辺地図(1998-2005)
台場周辺地図(1998-2005)

では実際に品川台場(品川砲台)の中でも現存し、一般開放されている第三台場を歩いてみるのだが、そのレポートは後編で。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

FJ時事新聞近辺散歩 ~芝浦(東京都港区)~【連載:アキラの着目】

東京都港区海岸にある当社・FJ時事新聞(正式名・BUKKYO時事新聞)。

会社事務所の近辺には東海道などがあるので、歴史的建造物や名残が結構存在する。

これまでにも海岸線の名残や、徳川幕府の菩提寺である芝・増上寺、愛宕山・愛宕神社を紹介してきたが、今回は芝浦花街(しばうらかがい・しばうらはなまち)について紹介する。

花街(かがい・はなまち)という言葉が出てきたが、まずはこの花街とは何なのかを簡潔に説明すると…。

花街とは、芸妓屋(げいきや)、遊女屋(ゆうじょや)が集まっている区域をいい、花柳(かりゅう)ともいう。

売春防止法施行(1957年)までは、多くの花街に芸妓と娼妓の両方がいたが、今日花街といわれている区域は、芸妓遊びのできる店を中心に形成される区域をさす。

東京には、こうした花街が最盛期には40近くあり、芸者も相当数いたのだ。

芝浦花街は、この40近くあった花街のうちの1つで、位置的にいうと、田町駅からほど近い港区スポーツセンターの北東側区域にあった。

芝浦花街のあったエリア
芝浦花街のあったエリア

早速この区域を歩くと、古い木造建築を発見することだろう!

念入りに防御ネットで覆われたこの古い木造建築こそが、「検番」といわれるものだ。

芝浦花街の検番
芝浦花街の検番

芝浦花街の検番
芝浦花街の検番

検番とは、一言でいうと、芸者待機所だ。

引き合いがあれば、ここから芸者が派遣されるのだ。

唐破風もある立派な作りの和建築であるこの検番は、昭和11(1936)年に目黒雅叙園の創業者・細川力蔵氏によって芸妓検番として建設された。

戦時中に東京都港湾局の所有となり、港湾労働者宿泊施設「協働会館」として使われるようになったのだとか。

しかし、2000年に老朽化のため閉鎖され、保存運動の高まりで2009年に港区の有形文化財の指定を受けて現在に至っている。

この検番以外にも花街時代の古い料亭建築を観ることができる。

↓の建物は所々リフォームされ、昔のままの状態でないのがやや残念だ。

芝浦花街時代に料亭だった建物
芝浦花街時代に料亭だった建物

こんな具合に芝浦花街の面影を辿れるので、この界隈を歩くことをおすすめする。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

仮面ライダーファンの聖地!仮面ライダーレストラン(東京都豊島区池袋)【連載:アキラの着目】

ウルトラマンと並び、日本を代表する世界的に知られた特撮ヒーローの仮面ライダー。

2017年現在では『仮面ライダービルド』が地上波テレビで放送され、視聴者であるチビっ子たちや、そのママさんたちから絶大な人気を得ている。

そんな仮面ライダーだが、おっさん世代にとっては、やはり1号ライダーに対して思い入れが深いことだろう。

仮面ライダー1号は、城南大学学生の本郷猛が変身するのだが、この本郷猛を演じていたのが、野太いけどまろやかな声で、濃い顔立ちの藤岡弘、さんなのだ(「、」までが芸名)。

なので、おっさん世代にとっては「藤岡弘、さん=仮面ライダー1号」なのだ。

そんな憧れの的であった仮面ライダー1号だが、身近に接することができるスポットがある。

そのスポットとは、「仮面ライダーレストラン(KAMEN RIDER THE DINER)」だ。

仮面ライダーレストラン(KAMEN RIDER THE DINER)マーク

仮面ライダーの変身ベルトを装着したかのようなユニフォームを着用した店員さんがお迎えしてくれる。

仮面ライダーレストラン(KAMEN RIDER THE DINER)の店員さんたち 仮面ライダーレストラン(KAMEN RIDER THE DINER)HPより引用
仮面ライダーレストラン(KAMEN RIDER THE DINER)の店員さんたち
仮面ライダーレストラン(KAMEN RIDER THE DINER)HPより引用

店内は、仮面ライダーの宿敵だったショッカーのアジトにそっくりで、コンドルを模ったショッカーのマークの下にある椅子は、人気の撮影ポイントになっている。

仮面ライダーレストラン(KAMEN RIDER THE DINER)店内 仮面ライダーレストラン(KAMEN RIDER THE DINER)HPより引用
仮面ライダーレストラン(KAMEN RIDER THE DINER)店内
仮面ライダーレストラン(KAMEN RIDER THE DINER)HPより引用

仮面ライダーレストラン(KAMEN RIDER THE DINER)ショッカーの椅子
仮面ライダーレストラン(KAMEN RIDER THE DINER)ショッカーの椅子
仮面ライダーレストラン(KAMEN RIDER THE DINER)HPより引用

ガラスケースの中に飾られた仮面ライダー1号の実寸大レプリカは、今にも動き出しそうなくらい精巧に造られ、近寄って穴が空くほど見つめるファンもいたりする。

仮面ライダー1号(左)と2号(右)、1号のアップ
仮面ライダー1号(左)と2号(右)、1号のアップ

前述したように、おっさん世代のヒーローである仮面ライダー1号だから、てっきり客もおっさんばかりかと思いきや、意外と若い世代、それも女の子の客もそれなりにいたりで、世代に関係なく楽しめる飲食店だ。

仮面ライダー1号に会いたきゃ、仮面ライダーレストラン(KAMEN RIDER THE DINER)に行くべし!

■仮面ライダーレストラン(KAMEN RIDER THE DINER)
http://www.paselaresorts.com/collaboration/rider/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京23区内の最高峰・愛宕山(東京都港区)に登ってみよう! 【連載:アキラの着目】

天然の山としては東京23区内で最高峰(標高25.7m)の愛宕山。

頂上に愛宕神社もある愛宕山は、高層建造物がなかった昔、景観の素晴らしいスポットの1つとして有名だった。

東都芝愛宕山遠望品川海図
東都芝愛宕山遠望品川海図

平成の現在でも愛宕山は相変わらず人気があり、それを愛宕神社は自覚し、認識したのか、愛宕神社の鳥居が真紅に塗り替えられた(下の写真参照)。

愛宕神社鳥居 2009年・2017年
愛宕神社鳥居 2009年(左)・2017年(右)

まず鳥居を潜りたいが、その前に右手にある「あたご小西」でジェラートを食べてから登るのもありだ。

あたご小西
あたご小西

この「あたご小西」は創業寛永18年(1641年)の老舗酒店で、酒屋「小西」の頃の写真も残っている。

明治4年(1872年)頃の小西酒店(右側の建物 現・あたご小西)
明治4年(1872年)頃の小西酒店(右側の建物 現・あたご小西)

いざ、鳥居を潜って男坂の階段を登ってみよう!

愛宕神社の鳥居と男坂の石段

いきなりの急傾斜でビビってしまった人は、右側にある緩やかな女坂から登ることをおすすめする。愛宕神社の男坂の石段と女坂

筆者は極度の高所恐怖症なので、最悪躓いたりした場合、すぐに手摺に掴まれるように、左際を一歩一歩踏みしめて、確実に登った。

こんな筆者でも、十数年前にこの近辺で勤めていた頃は、まだ今よりも僅かながら慣れていたので、頻繁にこの愛宕神社の男坂を、あたご小西のカップ・ジェラートを食べながら登ったりしていたものだ。

しかし今はそんな芸当はとてもじゃないができなくなった。

今登ってきた男坂の階段を上から振り返ると、やはり東京23区内最高峰の天然山であることがあらためてわかる。

愛宕神社 男坂の石段

蛇足ながら、こちらの写真は幕末にフェリーチェ・ベアトが上の写真とほぼ同じ場所から撮影したものだ。

フェリーチェ・ベアトが愛宕山から撮影した幕末期の江戸の町
フェリーチェ・ベアトが愛宕山から撮影した幕末期の江戸の町

せっかく愛宕山に登ってきたのだから、愛宕神社でお参りしよう!

まずは龍の口から吐かれる水で、手と口を濯ぎ、清める。

愛宕神社 手水舎

それが終わったら、真っ直ぐに進み、愛宕神社の本堂へと向かい、二礼二拍手をしてから拝もう。

愛宕神社

もちろん、お賽銭を賽銭箱に入れることと、自分がどこから参ったのか、住所を神様に伝えることを忘れずに。

愛宕神社境内には、小さいながらも池があり、筆者が行った時はたまたまカップルが池の鯉にえさをぶち撒けていた。

愛宕神社境内の池

ピラニアまでの獰猛さはないが、我こそ先へと餌に食い付く鯉を観ることができた。

愛宕神社境内 池の鯉

この愛宕神社は、境内で目にする「葵の御紋」が証明するように、徳川家と縁のある神社だ。

江戸の防火のために徳川家康の命で祀られた神社で、「天下取りの神」、「勝利の神」としても知られ、近年では「出世の石段」があることから、「立身出世」の目的で参拝に来る人も多い。

因みに「出世の石段」とは前述の男坂の急な階段をいう。

寛永11年1月28日(1634年2月25日)、徳川秀忠三回忌で増上寺参拝後の帰途、徳川家光が愛宕山山頂で咲いていた梅を見つけ、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩家臣の曲垣平九郎(まがきへいくろう)が馬に乗ったままで見事に男坂の石段を駆け上がり、梅の枝を取ってきた。

この、男として名を挙げたエピソードから男坂の急階段を「出世の石段」というようになったのだとか。

実は、このエピソードに登場する曲垣平九郎には、誰でもなれる。

というのも、愛宕山頂上に曲垣平九郎の顔ハメパネルがあるからだ。

曲垣平九郎の顔ハメパネル

厳密に言うと、曲垣平九郎と彼の乗る馬になれるといった方が正しい。

この他にも、「江戸城無血開城会談の地」であったといわれていることから、勝海舟さんと西郷どんの顔ハメパネルも設置されている。

勝海舟さんと西郷どんの顔ハメパネル

どの顔に貴殿の顔をハメるかは、後々まで写真で残るから、しっかり考えよう。

一通り愛宕山及び愛宕神社境内を散策したら、後は下山するのみだが、男坂から登った人は、女坂で下山すると同じ道を通らず、異なる風景を観ることができるから、大抵の人はそうすることが多い。

愛宕神社 女坂

でも、筆者のおすすめは、あえて女坂で下りずに、裏ルートから下りることを提案する。

愛宕神社裏手に回ると、カーブミラーが出てくる所があるのだが、その左手に「地下鉄 神谷町駅方面」と小さく書かれた看板があるので、そこから下りてゆく。

「地下鉄 神谷町駅方面」の看板がある裏ルート

滝壺に向かうような、クネクネと小刻みに曲がる階段を下りながら、愛宕山の高低差や裏斜面を堪能するのが愉しい。

愛宕山 裏ルート

途中でスイッチバックの如く、180度方向転換する階段をそのまま下りると、愛宕トンネル(昭和5年・1930年完成)脇に出て、”愛宕山ハイキング・コース”はここでお終いだ。

愛宕山 裏ルート
愛宕山 裏ルート 愛宕トンネル

裏ルートを下りずに、NHK放送博物館の方へと歩き、隣の青松寺へと繋がるルートも探検気分に浸れるから、このルートもおすすめだ。

貴殿も愛宕山に登ってみよう!

■愛宕神社
http://www.atago-jinja.com/

■あたご小西
http://atagokonishi.com/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~半蔵門(東京都千代田区)~【連載:アキラの着目】

今回取り上げる「東京の様々な地名の由来」は、半蔵門だ。

半蔵門は江戸城の城門の1つで、服部正成(通称・服部半蔵)がこの周辺の警護を任されていたことから、半蔵門の名が付いたといわれている。

服部正成(通称・服部半蔵)
服部正成(通称・服部半蔵)

現在では、江戸城門の半蔵門及び東京メトロ半蔵門線「半蔵門駅」周辺のエリアを半蔵門と総称するが、正式な番地としての地名では半蔵門は使われていない。

城門としての半蔵門は、皇居への出入口として機能し、江戸時代では徳川将軍の住まいであった江戸城の搦手門(からめてもん)として機能していた。

余談だが、搦手門についてよくわからない人のために簡単に説明すると、搦手門とは、早い話が出口、退却口として機能する門のことをいう。

城郭には必ず入口としての大手門、それに対して出口としての搦手門、というようになっているのだ。

万が一、攻められやすい低地側、つまり大手門や桜田門辺りから徳川将軍のいる江戸城が敵に攻撃され、防戦一方になった場合は、この搦手門である半蔵門から脱出するわけだ。

なので現在、半蔵門から西に真っ直ぐに延びている新宿通り、すなわち甲州街道は元々非常時の脱出路として整備されたのだ。

非常時の将軍の脱出路・甲州街道

甲州(現在の山梨県甲府市)には、幕府の天領(=直轄地)があることから、非常時に甲州を目指すというのはそういうことなのだ。

そして半蔵門から四谷までの甲州街道沿いには、前述した元・伊賀忍者の服部半蔵及びその部下たちが常駐しており、非常時は「捨て奸(すてがまり)」で敵を退けることになっていた。

元・伊賀忍者の服部半蔵及びその部下たちが常駐していた組屋敷

因みに「捨て奸」とは、関ヶ原合戦の退却の際に敵中突破の手段として、薩摩の島津義弘が用いた戦法だ。

それは具体的にいうと、隊の最も後ろの兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする戦法だ。

捨て奸(すてがまり)
捨て奸(すてがまり)

その小部隊が全滅すると、また新しい足止め隊を退路に残して留まらせ、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせるのだ。

話が横道にそれてしまったが、以上をまとめると、万が一の非常時に、徳川将軍を江戸城から脱出させるための城門や街道があり、脱出をサポートするための元・伊賀忍者である服部半蔵とその部下がこの地に常駐していたから、その城門をいつしか半蔵門と呼ぶようになったということ、そして現代では、その江戸城の城門である半蔵門の周辺エリアをひっくるめて半蔵門と呼んでいることだ。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099