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ここは一体東京のどこ?~Part9~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第9弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。では順番に正解を発表する。

A1. 東京都新宿区河田町

正解は、旧フジテレビ社屋があった河田町。
東京都新宿区にある河田町コンフォガーデン

河田町にはフジテレビ本社(新宿区河田町3-1)が1997年3月まであったが、おわかりの通りその後、港区台場へ移転。

やがて河田町に残されたフジテレビの社屋・スタジオ棟は解体され、その跡地に河田町コンフォガーデンが2003年に竣工した。

A2. 東京都港区西麻布

とんねるずの歌で一躍全国にその名が轟いた西麻布が正解。
西麻布

このモノクロ写真が撮影された当時(1965年1月23日)は、霞町(かすみちょう)と呼ばれていた。

今昔対比すると、昔の霞町は空が低く、東京タワーを四方から望めることができたのに対し、現在の西麻布は首都高速で視界を塞がれ、圧迫感が半端ない。

A3. 東京都港区溜池

これは難問だったかと。

正解は、東京都港区溜池。
溜池

現在の東京都港区溜池周辺は、溜池らしきものが全然ないにもかかわらず「溜池」という地名のままで、不思議に思っている人がきっといるはずだ。

なぜこの地を「溜池」というのかというと、昔は溜池があったからだ。

外桜田絵図(嘉永三年=1850)をご覧頂ければ(左が北)、この地に瓢箪っぽい池(右下)があるのがわかるかと。

外桜田絵図(嘉永三年=1850)
外桜田絵図(嘉永三年=1850)

ちなみに、新旧の写真で共通する奥に見えるビルや家屋は、赤坂の町だ。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

東京都新宿区河田町の今昔

東京都新宿区河田町 旧フジテレビ社屋の今昔

東京都港区西麻布の今昔

東京都港区西麻布の今昔

東京都港区溜池の今昔

東京都港区溜池の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

目黒駅から徒歩15分に●●場!?(東京都目黒区)【連載:アキラの着目】

まずは現在の地図をじっくりとご覧頂きたい。

どの辺りの地図なのか。

そう、目黒駅から西側一帯の地図だ。

道もよ~くご覧頂きたい、変わった道が見えてこないだろうか?

東京の、それも目黒の地理に詳しい人ならば、特徴のある道を簡単に見つけられるかもしれない。

回答をいうと、丸みのあるカーブの小道から、このような赤い線のエリアを思い浮かべることができたら、かなりの目黒通(つう)だ。

実は、かつてこの一帯に目黒競馬場があったのだ。

1896-1909 東京
1896-1909 東京

なんと目黒駅から徒歩15分の距離に。

その目黒競馬場の名残で、前述した丸みのあるカーブの小道があったり、「元競馬場前」という名前のバス停があったりするのだ。

現在でこそ、この一帯は住宅地で、この辺りの目黒通りは中古家具店や中古インテリア店が多いことから「インテリア通り」とも呼ばれているが、元々は「東京府荏原郡目黒村」。

東京の外れにある辺鄙な農村だったのだ。

そんな郊外だから、巨大施設を造ってしまおうというのは、いつの時代でもよくあること。

明治時代もご多分に漏れず、1907年(明治40年)、東京府荏原郡目黒町(この時はすでに村ではない)に目黒競馬場を造ったのだった。

目黒競馬場 Wikipediaから引用
目黒競馬場
Wikipediaから引用

この目黒競馬場は1933年(昭和8年)まで存在し、現在の日本競馬における最高峰のレース「東京優駿大競走(日本ダービー)」も第1回は、この目黒競馬場で開催された。

しかし、東京の発展に伴う近隣の宅地化によって、目黒競馬場の敷地拡張や施設の拡充が難しくなったこと、その上、敷地の大部分が借地で、地主から地代の値上げを要求され、町議会議員からは町の発展を妨げると非難をされるようになったこと、等々により目黒競馬場は存続困難に追い込まれた。

その結果、さらなる郊外の東京市北多摩郡府中町(現:東京都府中市)への競馬場移転となったのだ。

辺鄙な田舎に競馬場を建てたけれども、次第に辺鄙な田舎ではなくなってしまい、ゆえにもっと田舎に競馬場を移転させたということなのだが、現在の目黒を知る者にとっては、昔の目黒が辺鄙な田舎というのがやはり想像できない。

江戸城の総構えの内側が江戸であり、それより越えてしまうエリアは江戸ではなく、だから目黒は江戸城外の辺鄙な農村だったといってしまえば、それまでだが。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part8~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第8弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。では順番に正解を発表する。

A1. 東京都港区大門

東京都港区大門

突き当たりの門が大門で、通りの両側は増上寺の別院と思われる。

大門という判断が下せれば、意外と簡単だったのではあるまいか。

A2. 新橋(博品館前)

新橋(博品館前)

JR新橋駅の駅名の由来となった橋だ。

したがって、この橋およびこの通りは現在の銀座通り。

A3. 品川駅

品川駅

蒸気機関車の煙突から振りまく煙や火の粉が街を焼き尽くす恐れがあるとの風評から、内陸での鉄道建設が許可されず、仕方なく海に堤防を築き、そこに線路を敷設するという苦肉の策で開通させた。

なので、品川駅も海沿いだったのだ。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

東京都港区大門の今昔

東京都港区大門の今昔

新橋(博品館前)の今昔

新橋(博品館前)の今昔

品川駅の今昔

品川駅の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

FJ時事新聞おすすめスマホアプリ・『東京古い地図』【連載:アキラの着目】

新年早々、FJ時事新聞がおすすめするスマホアプリは『東京古い地図』だ。

このスマホアプリ『東京古い地図』は、明治時代の東京の街が、どのような町割りや区画だったのか、またそこは住宅地だったのか、畑だったのか、何だったのかがわかるのだ。

『東京古い地図』をインストールして起動すると、まずは東京駅周辺の古い地図(明治時代)が表示される。

『東京古い地図』を起動したら表示される東京駅周辺図

このスマホアプリでは「東京5000」という名称の地図なのだが、もっと後の時代の地図を見たい場合は、右上の「迅速測図」あるいは「地図」をクリックする。

「迅速測図」をクリックすると、戦前の軍による測量により作成されたと思われる地図が表示され、旧陸軍駐屯地なども載っている。

アプリ『東京古い地図』の「迅速測図」で表示された渋谷・恵比寿周辺

「地図」をクリックすると、現在の地図が表示される。

アプリ『東京古い地図』の「地図」で表示された渋谷・恵比寿周辺

「東京5000」、「迅速測図」、「地図」を見比べると、かなり異なる用途の土地に変わっていたりで、かなり楽しめる。

東京の街の歴史について知りたい時や、散策をして、昔を偲びたい時には、かなり重宝するスマホアプリだ。

ちなみにスクリーンショットしたこれら3枚の画像のうちの2枚目と3枚目は渋谷・恵比寿周辺を表示しており、今でこそ日本一の乗降客を誇る渋谷も「迅速測図」を見ると、長閑な田園風景が広がる村であったことがわかる。

今いる、今歩いている東京の街が昔はどうなっていたかを、この『東京古い地図』で確認しながら散策するのも楽しいかと思われる。

ぜひ『東京古い地図』をインストールして、使ってみよう!

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099