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東京の様々な地名の由来 ~紀尾井町(東京都千代田区)~【連載:アキラの着目】

江戸時代と現代を合わせた紀尾井町の地図 スマホアプリ「大江戸今昔めぐり」から引用「東京の様々な地名の由来」シリーズで今回取り上げるのは紀尾井町だ。

紀尾井町の最寄駅は赤坂見附。

赤坂見附の交差点を北上し、江戸城の弁慶堀に架かる弁慶橋を渡り切ったら、そこから先は紀尾井町だ。

赤坂見附交差点 写真中央のビルが建つエリアは紀尾井町
赤坂見附交差点
写真中央のビルが建つエリアは紀尾井町

なぜ紀尾井町という地名になったのかというと、この地に紀伊和歌山藩徳川家上屋敷(きいわかやまはん とくがわけかみやしき)、尾張名古屋藩徳川家中屋敷(おわりなごやはん とくがわけなかやしき)、近江彦根藩井伊家中屋敷(おうみひこねはん いいけなかやしき)があったことによる。

各家の頭文字「紀」、「尾」、「井」を一字ずつ採り、併せたから「紀尾井町」なのだ。

明治5年(1872年)には、新たに「麹町紀尾井町(こうじまち きおいちょう)」という地名に生まれ変わり、明治44年(1911年)には紀尾井町となり、当時は麹町区に属した。

紀伊和歌山藩徳川家上屋敷跡は現在のグランドプリンスホテル赤坂・清水谷公園、尾張名古屋藩徳川家中屋敷跡は現在の上智大学、近江彦根藩井伊家中屋敷跡は現在のホテルニューオータニ付近にそれぞれあったとされている。

江戸時代と現代を合わせた紀尾井町の地図 スマホアプリ「大江戸今昔めぐり」から引用
江戸時代と現代を合わせた紀尾井町の地図
スマホアプリ「大江戸今昔めぐり」から引用

都会のど真ん中なのに清水谷公園があったり、弁慶堀のボートから自然を満喫できたりで、まさに都会のオアシスと呼ぶに相応しいエリアだ。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part16~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第16弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。では順番に正解を発表する。

A1.赤坂見附

赤坂見附

正解は赤坂見附。

元の絵は、二代歌川広重「名所江戸百景 赤坂桐畑雨中夕けい」(安政6年[1859]4月)だ。

この絵が描かれた場所は、内堀通りから赤坂見附交差点および赤坂エクセルホテル東急を望んだ方角なのだ。

なので、奥の坂は現在も同じだが、溜池が埋め立てられ、内堀通りとなってしまった。

A2.アメリカ大使館前

アメリカ大使館前

正解はアメリカ大使館前。

溜池を描いた「江戸名所図会」なのだが、現在のような高層ビルがないため、現在でいうところの赤坂日枝神社のある山をそのまま見通せるのだ。

「江戸名所図会」溜池で描かれている、手前に段々のある道は汐見坂で、現在は虎の門病院とホテルオークラの間にある。

江戸庶民の飲料水を確保するための大きな池だった溜池だが、明治時代になってからは徐々に埋め立てられ消滅し、溜池という地名だけが残っている。

A3.原宿代々木公園の道路

原宿代々木公園の道路

正解は原宿代々木公園の道路。

かつては休祝日ともなれば、原宿代々木公園の道路は歩行者天国(通称:ホコ天)となっていた。

パステルカラーの独特な衣装を身に纏い、ディスコサウンド(ジンギスカン等)にのってダンスを踊る「竹の子族」や、ツイストを踊るツッパリ(≒ヤンキー)、等々、大勢の若者達が毎週集結していた。

しかし、1996年~1997年にかけての代々木公園前歩行者天国の試験廃止および1998年8月31日の歩行者天国完全廃止によって原宿代々木公園の道路での大勢の若者達の姿を二度と観ることができなくなってしまった。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

赤坂見附の今昔

赤坂見附の今昔

アメリカ大使館前の今昔

アメリカ大使館前の今昔

原宿代々木公園の道路の今昔

原宿代々木公園の道路の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

プリンスホテルはなぜプリンスホテルと命名されたのか?【連載:アキラの着目】

名だたる大物歌手がクリスマス・パーティや「●●周年記念リサイタル」などを開催する場所は大抵有名どころの都心ホテルだ。

特にグランドプリンスホテル高輪(東京都港区高輪)や、かつてバブルの華やかりし頃の赤坂プリンスホテル(通称:赤プリ。2011年3月閉館)などが、そういった会場として頻繁に利用されたものだ。

これらプリンスホテルは、西武グループのホテル・レジャー部門を担う「株式会社プリンスホテル」が事業を展開しているのだが、なぜプリンスホテルというブランド名にしたのだろうか?

これにはちゃんとしたわけがあるのだ。

1953年開業のグランドプリンスホテル高輪が建っている場所は、元々皇族であった竹田宮の邸宅があった所。
グランドプリンスホテル高輪が建っている場所は、元々皇族であった竹田宮の邸宅があった所

第2次世界大戦で日本が無条件降伏し、GHQのメスが皇室にまで及び、幾つかの名門・宮家が廃止されたのだ。

その結果、竹田宮家は皇室離脱を余儀なくされ、いわゆる平民扱いにされることに。

皇族であれば、国家予算で生活が保証されるのだが、皇室離脱ともなると生活に支障が出てしまう。

そういう生活に困窮した旧宮家の土地を西武グループは購入しホテルを開業、そのホテルのブランドを「プリンスホテル」としたのだ。

その際、生活に困窮された旧宮家の方々を西武グループ、すなわち「プリンスホテル」は雇用し、宮家の方々の生活を安定させることに大きく貢献した。

ちなみに前述の赤坂プリンスホテルがあった場所は、明治時代にまで遡れば、北白川宮邸があり、その後は旧大韓帝国・李王の邸宅があった場所だ。

なので、グランドプリンスホテル高輪や、今はなき赤坂プリンスホテルは、都心にしてはかなり立地条件が良かったり、やたらと綺麗な庭園があるのは、旧宮家の土地だったからなのだ。

東京は、現在も生き物のごとく街が変革し続けている。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

ここは一体東京のどこ?~Part5~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第5弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。

では順番に正解を発表する。

A1.赤坂見附

赤坂見附
正解は赤坂見附。

古い写真の右手には江戸城外堀の弁慶堀が、正面には密集した木造建築群の赤坂の街が、左手には少しだけ写る溜池の”尻尾”の水面(みなも)が写り込んでいるが、現在の写真だとすっかり首都高速道路でかき消されてしまった。

また、古い写真には、赤坂見附の坂道両側に土塁があるが、写真右手の土塁は現在でもわずかながら残っている。

A2.六本木(ドン・キホーテ六本木店付近)

六本木(ドン・キホーテ六本木店付近)
これは比較的簡単な問題だったかと。

というのも、東京タワーがヒントになっているからだ。

出題した白黒写真は昭和33年以降に撮影されたと思われる。

なぜ昭和33年以降なのかというと、東京タワーの開業が昭和33年だからだ。

古い写真では、まだ低い空の六本木だが、現在の写真ではビルが道路に沿って林立し、一見して都会とわかるくらいに変貌を遂げてしまった。

ちなみに六本木は、戦前は軍の街で、現在のような浮かれた繁華街とは正反対の趣きであったとのこと。

A3.溜池(特許庁付近)

溜池(特許庁付近)
出題した木版画は、明治初期に井上安治によって描かれた東京真画名所図解『葵坂』だ。

葵坂というのは、現在の溜池交差点から特許庁の辺りまであった坂だ。

木版画では滝が描かれているが、この滝はここに元々あった溜池から流れ落ちたもので、地盤の落差があったことを物語っている。

その後、葵坂は傾斜を削られ、現在では上掲の写真のようにほぼ水平になってしまった。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

赤坂見附の今昔

赤坂見附の今昔

六本木(ドン・キホーテ六本木店付近)の今昔

六本木(ドン・キホーテ六本木店付近)の今昔

溜池(特許庁付近)の今昔

溜池(特許庁付近)の今昔

今後も気になる東京の街の浮世絵や錦絵、木版画、昔の写真を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~赤坂見附~【連載:アキラの着目】

東京の地名の由来に関する記事の第2弾だ。

今回は赤坂見附を取り上げる。

赤坂見附を直訳すると…

国会議事堂や政党がある永田町とは乗換駅として繋がっている赤坂見附。

赤坂見附の西側エリアは、赤坂の歓楽街があり、前述した永田町とは対照的だ。

赤坂TBS前
赤坂TBS前

その赤坂を隣に従えている赤坂見附だが、赤坂見附を”直訳”すると、「赤坂の見張り所」という意味になる。

「見附」は、街道や交通の要所に配置された見張り所で、徳川将軍のいる江戸城には、見附がこの赤坂見附を含めて36ヵ所あり、「江戸三十六見附」と称された。

赤坂見附石垣
赤坂見附石垣赤坂見附城門石垣

赤坂見附は城郭考古学的にいうと「枡形虎口」

”見張り所”である赤坂見附は、城郭考古学的にいうと「枡形虎口」(ますがたこぐち)という部類の城門になる。

「枡形虎口」とは、酒を飲む枡のような四角形をしている部分を持った虎口(出入口)という意味で、必ず入口と出口を繋ぐ進路を直角に折り曲げる構造になっている。

なぜ直角に折り曲げているのかというと、理由は2つある。

1つは、入口と出口の進路が一直線だと、敵の侵入をたやすくさせてしまい、勢いが乗った状態で突破されてしまうから、敵の勢いを削ぐために直角に折り曲げている。

もう1つは、入口と出口の進路を直角に折り曲げることで、味方の攻撃を前方と側面の2方面からできるようになるからだ。

赤坂見附 構造図

そのうえこの赤坂見附は、枡形を石垣で組み、入口部分に高麗門を配しており、かなり頑丈な構造だった。

というのも、この見附を突破されたら、江戸城の外堀の内側エリアに侵入されることになるから、鉄壁な造りにしていたのだ。

昔の写真を見ると、当然のことながら、高麗門を支える右側にも石垣があるが、現在は左側部分の石垣しか遺っていない。

明治初期の赤坂見附御門
明治初期の赤坂見附御門

しかし、他の江戸城の見附・城門に比べれば、石垣がかなり遺されている方だ。

現在の赤坂見附

清水谷や紀尾井町方面に行く際に渡る弁慶橋からでも赤坂見附は望めるので、永田町・赤坂見附界隈に出向いた際は、赤坂見附の石垣を見るとよいだろう。

弁慶橋から望む赤坂見附石垣

地下鉄路線図

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099