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「真田街道六城攻城記念御城印」、8月1日より無料頒布!【連載:アキラの着目】

8月1日(土)より「真田街道六城攻城記念御城印」の無料頒布がスタート。

真田街道六城攻城記念御城印 信州上田観光情報 上田市ホームページから引用
真田街道六城攻城記念御城印
信州上田観光情報 上田市ホームページから引用

長野県と群馬県にまたがる真田氏ゆかりの上田城(長野県上田市)、松代城(長野県長野市)、沼田城(群馬県沼田市)、名胡桃城(群馬県みなかみ町)、岩櫃城(群馬県東吾妻町)、中山城(群馬県高山村)の6城全ての御城印を提示した人が無料頒布の対象だ。

ちなみに、御城印をよく知らないという人のために説明すると、御城印とは半紙等に名城やゆかりのある城主の家紋の印を押したものだ。

最近の御朱印ブームにあやかり、城も寺院・神社みたいに、訪れたら入手できるものがあったほうが、登城のモチベーションが上がるのではということで、ここ1、2年の間に御城印をゲットできる城が増えた。

城マニアと戦国武将マニアはかなり重なり、ましてや今回のように頭に「真田」が付くとなると、真田マニアが居ても立っても居られなくなるのは言うまでもない。

以前のニッポンニュースでも触れたが、戦国大名の中でも決して大きくはない真田氏が、かの天下を獲った徳川氏をさんざん苦しめたのだから、人気になっているのだ。

公に正真正銘の真田マニアとして認められたい貴方は、「真田街道六城攻城記念御城印」を必ずやゲットすべし!

【真田街道六城攻城記念御城印 頒布場所】

●上田市観光会館 2階観光案内所
https://www.city.ueda.nagano.jp/site/kankojoho/14383.html

●真田神社(上田城跡公園内)
http://sanada-jinja.com/

●信州松代観光協会(平日)・松代観光案内所(土曜日・日曜日・休日)
http://www.matsushiro-kankou.com/

●沼田市観光案内所
https://www.numata-kankou.jp/

●名胡桃城址観光案内所
http://www.enjoy-minakami.jp/

●東吾妻町観光協会
http://www.tohgoku.or.jp/~aysk/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

信州・上田城(長野県上田市)~FJ時事新聞おすすめ名城~【連載:アキラの着目】

上田城東虎口櫓門今回ご紹介する「FJ時事新聞おすすめ名城」が、真田昌幸・信繁(幸村)親子の居城として有名な信州の上田城だ。

ある程度、城に詳しい人からすれば、「なぜ今さら上田城を取り上げるんだ、ブームは2年前ではないか!」と叱責されるかもしれない。

というのも2年前は、真田信繁(幸村)を主人公とするNHK大河ドラマ『真田丸』が放送されており、上田城がそのドラマの影響やブームに乗っかって、大変な賑わいだったのだ。

逆にいうと、その賑わいや混雑ぶりを避けたく、遅れること2年、ようやく今年になって筆者が上田城を訪城したというわけだ。

上田城の歴史について簡潔に説明しよう。

上田城は天正11年(1583)に、越後(現在の新潟県)の戦国大名・上杉景勝に対抗するための前線基地として、徳川家康の援助の下、真田昌幸が築城した平城だ。

その後、真田昌幸が自領の沼田(現在の群馬県沼田)を関東の戦国大名・北条氏に割譲するよう徳川家康からいわれたため、それを不服として徳川家康の下を離れ、上杉景勝につくことになり、それに怒った徳川家康が上田城に7,000の兵を差し向けたのが天正13年(1585)の第一次上田合戦だ。

また、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍についた真田昌幸・信繁は、中山道から進軍する徳川秀忠の大軍(38,000人)をわずか2,500~3,000の兵で撃退したのが第二次上田合戦で、これら二度の合戦で大大名の徳川をコテンパンにやっつけた城として有名なのだ。

小さな大名が少ない手勢で、大きな大名の大軍を二度も撃破した城は、上田城以外では例がない。

真田昌幸が属した西軍が関ヶ原の戦いで敗れたことで、真田昌幸は九度山に配流され、上田城主は真田信之となり、以後、仙石氏(三代)、松平氏(七代)と変わり、廃城後は公園となって現在に至っている。

では、実際に上田城を巡ってみよう。

上田城縄張図(考察=三島正之氏) - 真田期の上田城縄張り - 信州まちあるき から引用および番号付記
上田城縄張図(考察=三島正之氏) - 真田期の上田城縄張り - 信州まちあるき から引用および番号付記

市営野球場の対面の駐車場に車を駐車したため、筆者が最初に訪れたのが(1)の空堀だ。

小泉曲輪側から見た上田城空堀

小泉曲輪側から観た写真で、わかりにくいかもしれないが、向かって左へ直角にくびれた堀がめぐらされている。

これは、横からも矢や火器を敵に浴びせることができるように、直角に堀を曲げているのだ。

こうした仕掛けを「横矢掛り」という。

(2)は尼ヶ淵の崖から見た上田城西櫓だ。

尼ヶ淵の崖から見た上田城西櫓

現在は公園や駐車場になっているこの尼ヶ淵は、上田城築城当時は千曲川が流れる天然の要塞で、この上田城南側は鉄壁の守りとなっていた。

(3)は尼ヶ淵の崖から見上げた上田城南櫓だ。

尼ヶ淵の崖から見上げた上田城南櫓

やはり(2)同様に高低差があり、ここをよじ登って城内に侵入することは不可能だ。

二の丸橋を渡り、武者溜りを抜けると、(4)上田城東虎口櫓門が視界に現れる。

上田城東虎口櫓門

門に向かって右の石垣には、とてつもない大きさの「真田石」が積まれており、観る者を圧倒する。

東虎口櫓門をくぐると、そこは上田城の本丸だ。

本丸の周囲は小高い土塁があり、そこから(5)本丸を囲む百間堀を望むことができる。

上田城本丸土塁から望む百間堀

(6)は西櫓手前から見下ろす尼ヶ淵の崖だ。アスファルトの通路と青々とした芝生の領域は、前述の通り築城当時は千曲川が流れていた。

上田城西櫓手前から見下ろす尼ヶ淵の崖

二の丸へ向かい、本丸を囲む百間堀を見ると、(7)本丸の角が意図的に斜めに削られた箇所に出くわす。

上田城本丸隅欠きの土塁(本丸土塁の隅欠き)

この斜めに削られた箇所は「隅欠きの土塁(本丸土塁の隅欠き)」といい、鬼門除けのために北東隅の土塁を斜めに削ったものだ。

この「隅欠きの土塁(本丸土塁の隅欠き)」により、北東角の鬼門を無くし、万全な構えにしたということだ。

(8)は二の丸北虎口で、やはり直角に通路を折り曲げ、敵が一気呵成に直進してこないようにしているのと、横矢をかけられるようにしているのと、2つの意味がある。

上田城二の丸北虎口

最後に上田城から東へ10分ほど歩いたところにある大手門跡だ。

上田城大手門跡

現在この大手門跡は緩やかなカーブになっているが、これまた築城当時は直角に折れ曲がっていたのは言うまでもない。

以上、駆け足で信州・上田城を見てきたが、いかがであったろうか?

『真田丸』のブームが去った今だからこそ、ゆっくりと城内を観ることができるので、かなりおすすめだ。

■信州上田観光ガイド 上田城・上田城跡公園【信州上田観光協会】長野県上田市の大河ドラマ真田丸で知られる上田城
http://www.ueda-cb.gr.jp/uedajo/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099