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ここは一体東京のどこ?~Part11~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第11弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。

では順番に正解を発表する。

A1.目黒 行人坂

目黒 行人坂

正解は目黒の行人坂。

出典は、歌川国貞「江戸自慢三十六興」の中の「目黒行人坂富士」だ。

この行人坂は都内でも有数の勾配がある坂として古くから知られている。

老舗芸能プロダクションの事務所が行人坂の途中にあるのもかなり有名で、タレント泣かせの坂とも言われてるとか言われていないとか。

A2.赤坂 紀伊国坂

赤坂 紀伊国坂

正解は赤坂の紀伊国坂。

絵は小林清親の木版画。

紀伊国坂は、小泉八雲の代表作『怪談』所収の「狢(むじな)」で知られた坂。

狢(むじな)とは穴熊のことで、地方によっては狸やハクビシンをいうこともある動物。

話の内容は、この狢(むじな)がのっぺらぼうに変身し、紀伊国坂を通る人たちを怖がらせるというストーリーだ。

紀伊国坂を下ると赤坂、今では赤坂見附交差点で、反対に紀伊国坂を登ると江戸城喰違見附、今では迎賓館方面になる。

小林清親の木版画では、紀伊国坂下に赤坂の町並みと、その向こうに深緑色した溜池が見える。

溜池は埋め立てられ、現在は地名でしか残っていない。

A3.愛宕神社

愛宕神社

正解は愛宕神社。

長い階段から愛宕神社と気づいた人もいたことかと。
愛宕神社

東京23区内で最も高い山として知られる愛宕山(標高25.7m)は、高層建築のなかった時代は江戸を見渡せる景勝地として栄えた。

愛宕神社は、「出世の神社」や、明治政府軍参謀・西郷隆盛と江戸幕府重臣・勝海舟が会談した地としても知られており、近年は人気になっている神社だ。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

目黒 行人坂の今昔

目黒 行人坂の今昔

赤坂 紀伊国坂の今昔

赤坂 紀伊国坂の今昔

愛宕神社の今昔

愛宕神社の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

目黒駅から徒歩15分に●●場!?(東京都目黒区)【連載:アキラの着目】

まずは現在の地図をじっくりとご覧頂きたい。

どの辺りの地図なのか。

そう、目黒駅から西側一帯の地図だ。

道もよ~くご覧頂きたい、変わった道が見えてこないだろうか?

東京の、それも目黒の地理に詳しい人ならば、特徴のある道を簡単に見つけられるかもしれない。

回答をいうと、丸みのあるカーブの小道から、このような赤い線のエリアを思い浮かべることができたら、かなりの目黒通(つう)だ。

実は、かつてこの一帯に目黒競馬場があったのだ。

1896-1909 東京
1896-1909 東京

なんと目黒駅から徒歩15分の距離に。

その目黒競馬場の名残で、前述した丸みのあるカーブの小道があったり、「元競馬場前」という名前のバス停があったりするのだ。

現在でこそ、この一帯は住宅地で、この辺りの目黒通りは中古家具店や中古インテリア店が多いことから「インテリア通り」とも呼ばれているが、元々は「東京府荏原郡目黒村」。

東京の外れにある辺鄙な農村だったのだ。

そんな郊外だから、巨大施設を造ってしまおうというのは、いつの時代でもよくあること。

明治時代もご多分に漏れず、1907年(明治40年)、東京府荏原郡目黒町(この時はすでに村ではない)に目黒競馬場を造ったのだった。

目黒競馬場 Wikipediaから引用
目黒競馬場
Wikipediaから引用

この目黒競馬場は1933年(昭和8年)まで存在し、現在の日本競馬における最高峰のレース「東京優駿大競走(日本ダービー)」も第1回は、この目黒競馬場で開催された。

しかし、東京の発展に伴う近隣の宅地化によって、目黒競馬場の敷地拡張や施設の拡充が難しくなったこと、その上、敷地の大部分が借地で、地主から地代の値上げを要求され、町議会議員からは町の発展を妨げると非難をされるようになったこと、等々により目黒競馬場は存続困難に追い込まれた。

その結果、さらなる郊外の東京市北多摩郡府中町(現:東京都府中市)への競馬場移転となったのだ。

辺鄙な田舎に競馬場を建てたけれども、次第に辺鄙な田舎ではなくなってしまい、ゆえにもっと田舎に競馬場を移転させたということなのだが、現在の目黒を知る者にとっては、昔の目黒が辺鄙な田舎というのがやはり想像できない。

江戸城の総構えの内側が江戸であり、それより越えてしまうエリアは江戸ではなく、だから目黒は江戸城外の辺鄙な農村だったといってしまえば、それまでだが。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099