現在では浅草などの観光地で見かける人力車(人力俥とも表記)。
海を渡った日本発の人力車は、インドではリキシャ(Rickshaw)と呼ばれ、現在も移動用車両として利用されている。
人力車は、明治3年(1870年)に和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助の3名により製作され、同年に東京府より製造と営業の許可を得たのだが、その営業許可が出た日が3月22日だ。
つまり、人力車の営業許可が出たのは、今からちょうど150年前の出来事なのだ。
日本橋で人力車の営業を始めてからは、手軽に利用できる近距離交通手段として人力車は爆発的に広まり、翌年には東京府下で1万輌以上にまで増えた。
こうした状況をうけて、東京府は、人力車営業組合を組織させ、営業許可書の発行や車税の取り集めなどを行う人力車総行事に和泉要助たちを任命するに至った。
しかし、明治6年の税制整備により雑税が廃止されたことで、区・町・村の長が車税を徴収することになり、そのため人力車総行事の職が廃止されてしまった。
また、人力車は、特許制度の不備等により、営業許可が下りた当初から特許の許可が下りず、和泉要助たち発明者は人力車の専売権を持つことができず、その恩恵に恵まれなかった。
ようやく明治33年に賞勲局から和泉要助たちに一時金を下賜することになり、起業家としての功績を大いに認められることになったのだった。
欧米からは、人が馬の代わりに馬車を引いているなどと揶揄された人力車だが、最盛期には国内で20万輌を超えるほど重宝された。
3月22日はそんな人力車の第一歩の日だったのだ。