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ここは一体東京のどこ?~Part19~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第19弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。

では順番に正解を発表する。

A1.中目黒(駒沢通り)

中目黒(駒沢通り)

正解は中目黒、それも駒沢通りだ。

かつては東京を縦横無尽に走行していた都電。

昔の写真(諸河久 氏 1965年3月30日撮影写真から引用)は、奥の恵比寿側から手前の山手通りとの交差点に向かって走行する、8系統築地行きの都電だ。

中目黒は、かつてこの8系統築地行きの終点駅であり、終点なのに安全地帯のない停留所だった。

現在の同じ地点は、蔵もなくなり、オフィスビルやマンション等に建て変わっている。

A2.表参道

表参道

正解は表参道。

昔の写真に写っている建物は、同潤会アパート。

今でいうと、同潤会アパートは、東京の「郊外」に建つ高級マンションみたいな位置づけになるかと。

というのも、渋谷、原宿、表参道は現在のような繁華街やトレンディ・スポットではなく、「東京市豊多摩郡」に属する町に過ぎず、辺鄙な場所だったからだ。

その同潤会アパートも表参道ヒルズの建設に伴い、解体された。

なので、今の写真に写っているのは、表参道ヒルズだ。

A3.渋谷宮益坂下

渋谷宮益坂下

正解は渋谷宮益坂下。

渋谷は現在もそうだが、まさに谷で、周辺地よりも最も低く、いくつもの川が渋谷を流れていた。

今では暗渠となり、明治通りの下や裏原宿の下を流れている渋谷川は、昔は”堂々”と流れていたので、宮益坂下の交差点のある地点は、橋が架かっていたのだった。

一応、説明しておくと、今昔写真とも右に行くと宮益坂になるので、やや勾配がついている。

因みに、左に行くと渋谷駅になる。

では最後に恒例の今昔対比でおさらいを。

中目黒(駒沢通り)の今昔

中目黒(駒沢通り)の今昔

表参道の今昔

表参道の今昔

渋谷宮益坂下の今昔

渋谷宮益坂下の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

目黒駅から徒歩15分に●●場!?(東京都目黒区)【連載:アキラの着目】

まずは現在の地図をじっくりとご覧頂きたい。

どの辺りの地図なのか。

そう、目黒駅から西側一帯の地図だ。

道もよ~くご覧頂きたい、変わった道が見えてこないだろうか?

東京の、それも目黒の地理に詳しい人ならば、特徴のある道を簡単に見つけられるかもしれない。

回答をいうと、丸みのあるカーブの小道から、このような赤い線のエリアを思い浮かべることができたら、かなりの目黒通(つう)だ。

実は、かつてこの一帯に目黒競馬場があったのだ。

1896-1909 東京
1896-1909 東京

なんと目黒駅から徒歩15分の距離に。

その目黒競馬場の名残で、前述した丸みのあるカーブの小道があったり、「元競馬場前」という名前のバス停があったりするのだ。

現在でこそ、この一帯は住宅地で、この辺りの目黒通りは中古家具店や中古インテリア店が多いことから「インテリア通り」とも呼ばれているが、元々は「東京府荏原郡目黒村」。

東京の外れにある辺鄙な農村だったのだ。

そんな郊外だから、巨大施設を造ってしまおうというのは、いつの時代でもよくあること。

明治時代もご多分に漏れず、1907年(明治40年)、東京府荏原郡目黒町(この時はすでに村ではない)に目黒競馬場を造ったのだった。

目黒競馬場 Wikipediaから引用
目黒競馬場
Wikipediaから引用

この目黒競馬場は1933年(昭和8年)まで存在し、現在の日本競馬における最高峰のレース「東京優駿大競走(日本ダービー)」も第1回は、この目黒競馬場で開催された。

しかし、東京の発展に伴う近隣の宅地化によって、目黒競馬場の敷地拡張や施設の拡充が難しくなったこと、その上、敷地の大部分が借地で、地主から地代の値上げを要求され、町議会議員からは町の発展を妨げると非難をされるようになったこと、等々により目黒競馬場は存続困難に追い込まれた。

その結果、さらなる郊外の東京市北多摩郡府中町(現:東京都府中市)への競馬場移転となったのだ。

辺鄙な田舎に競馬場を建てたけれども、次第に辺鄙な田舎ではなくなってしまい、ゆえにもっと田舎に競馬場を移転させたということなのだが、現在の目黒を知る者にとっては、昔の目黒が辺鄙な田舎というのがやはり想像できない。

江戸城の総構えの内側が江戸であり、それより越えてしまうエリアは江戸ではなく、だから目黒は江戸城外の辺鄙な農村だったといってしまえば、それまでだが。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099