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ここは一体東京のどこ?~Part15~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞ニッポンニュース恒例の、昔の東京の街に関する写真や絵を見て、それがどこなのかをあてるシリーズの第15弾。

ではいつもの通り早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこなのか?

Q2.ここは東京のどこなのか?

Q3.ここは東京のどこなのか?

おわかりになったであろうか。では順番に正解を発表する。

A1.新宿駅(東口)

新宿駅東口(ルミネエスト新宿店)

先ほどの写真の場所は、新宿駅東口のルミネエスト新宿店となっている。

新宿駅ができたのは1885年(明治18年)で、宿場町の内藤新宿からは離れていたため、当時の乗降客数は50人/日程度だったとのこと。

約353万人(2017年)で世界一(ギネス世界記録認定)の乗降客数を誇る今の新宿駅とは思えぬ少なさだ。

A2.虎ノ門

虎ノ門

正解は虎ノ門。

かつては古い写真の通り、江戸城の堀と城門・虎ノ門があった。

しかし、溜池から続く堀は埋め立てられ、虎ノ門も撤去された。

現在は官庁やオフィスが立ち並ぶエリアとして、その名は内外に知られている。

門が撤去され、消滅しても地名に残る分だけマシと思わないといけないか。

A3.西新宿副都心

西新宿副都心

この設問は先の2問に比べると、楽勝だったのでは。

正解は西新宿副都心。

高層ビルや都庁が群立する副都心に通ずる地下通路が見え、これがヒントになったことだろう。

以前のFJ時事新聞ニッポンニュースでも触れたが、元々この地は西新宿とは言わず、角筈や十二社と名乗る風光明媚な地だった。

広大な土地だったため、1898年(明治31年)に淀橋浄水場が造られ、1965年(昭和40年)まで利用された。

白黒写真は、淀橋浄水場跡地の再開発真っ最中のものだ。

新宿駅(東口)の今昔

新宿駅(東口)の今昔

虎ノ門の今昔

虎ノ門の今昔

西新宿副都心の今昔

西新宿副都心の今昔

今後も気になる昔の東京の街の写真や浮世絵、錦絵、木版画を見つけたら、取り上げてみたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~赤坂見附~【連載:アキラの着目】

東京の地名の由来に関する記事の第2弾だ。

今回は赤坂見附を取り上げる。

赤坂見附を直訳すると…

国会議事堂や政党がある永田町とは乗換駅として繋がっている赤坂見附。

赤坂見附の西側エリアは、赤坂の歓楽街があり、前述した永田町とは対照的だ。

赤坂TBS前
赤坂TBS前

その赤坂を隣に従えている赤坂見附だが、赤坂見附を”直訳”すると、「赤坂の見張り所」という意味になる。

「見附」は、街道や交通の要所に配置された見張り所で、徳川将軍のいる江戸城には、見附がこの赤坂見附を含めて36ヵ所あり、「江戸三十六見附」と称された。

赤坂見附石垣
赤坂見附石垣赤坂見附城門石垣

赤坂見附は城郭考古学的にいうと「枡形虎口」

”見張り所”である赤坂見附は、城郭考古学的にいうと「枡形虎口」(ますがたこぐち)という部類の城門になる。

「枡形虎口」とは、酒を飲む枡のような四角形をしている部分を持った虎口(出入口)という意味で、必ず入口と出口を繋ぐ進路を直角に折り曲げる構造になっている。

なぜ直角に折り曲げているのかというと、理由は2つある。

1つは、入口と出口の進路が一直線だと、敵の侵入をたやすくさせてしまい、勢いが乗った状態で突破されてしまうから、敵の勢いを削ぐために直角に折り曲げている。

もう1つは、入口と出口の進路を直角に折り曲げることで、味方の攻撃を前方と側面の2方面からできるようになるからだ。

赤坂見附 構造図

そのうえこの赤坂見附は、枡形を石垣で組み、入口部分に高麗門を配しており、かなり頑丈な構造だった。

というのも、この見附を突破されたら、江戸城の外堀の内側エリアに侵入されることになるから、鉄壁な造りにしていたのだ。

昔の写真を見ると、当然のことながら、高麗門を支える右側にも石垣があるが、現在は左側部分の石垣しか遺っていない。

明治初期の赤坂見附御門
明治初期の赤坂見附御門

しかし、他の江戸城の見附・城門に比べれば、石垣がかなり遺されている方だ。

現在の赤坂見附

清水谷や紀尾井町方面に行く際に渡る弁慶橋からでも赤坂見附は望めるので、永田町・赤坂見附界隈に出向いた際は、赤坂見附の石垣を見るとよいだろう。

弁慶橋から望む赤坂見附石垣

地下鉄路線図

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責任編集:拡輪 明-HS099