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国民の8割は理解不能!?秋田弁VS鹿児島弁の会話【連載:アキラの着目】

狭い国土の日本だが、方言は地域の数だけ存在する。

近隣地域の方言ならば、多少は理解できるものの、北と南では距離が離れ過ぎて、さらに気候が異なるので、言葉が全く異なり、意思の疎通が簡単ではないのだ。

極寒のため、口の開け締めを最小限にしたい北のエリア、温暖でのどかな南のエリアでは、発声からして全く相反しているということだ。

そこで今回のニッポンニュースでは、どれほど北と南では方言が異なるのかがわかる動画を取り上げる。

北は秋田弁、南は鹿児島弁だ。

方言で対決!~秋田弁 VS 鹿児島弁~ YouTubeから引用
方言で対決!~秋田弁 VS 鹿児島弁~ YouTubeから引用

■方言で対決!~秋田弁 VS 鹿児島弁~

同じ日本人が話しているとは思えないくらいに彼女たちの言葉がわからない。

おそらく日本国民の8割は、彼女たちの話す方言を理解することができないと思われる。

もちろん、その8割には神奈川県生まれの筆者も含まれているのはいうまでもない。

秋田弁も鹿児島弁も独特過ぎて、標準語いわゆる東京弁とは異なり過ぎている。

テレビやインターネットが十分に普及している平成31年現在でも、地方の方言を理解できていないのだから、さぞかし幕末や明治維新の頃のお偉方同士の会話は、今以上に相手が何を話しているのか、さっぱり検討がつかなかったことだろう。

だからこそ明治になってから、江戸言葉すなわち江戸弁を標準語にしましょう、ということまで決めたのだ。

しかし、方言が飛び交うことによる意思の疎通が難しくても、身振り手振りで気持ちが伝わることができれば、それも立派な意思の疎通。

方言は各地方の個性であるから、各地方の方言をなくしたり、廃れさせることのないようにいつまでも残すべきだ。

各地方の方言は、立派な観光資源なのだから。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

TVが言葉を変化させる【連載:アキラの着目】

ニュースの原稿を読むアナウンサー。

どこのチャンネルに回しても、どこの地域で視聴しても、標準語で伝えている。

今でこそこのような状況だが、明治以前の日本は、日本全国を統一する標準語はなく、方言だらけだったのだ。

それというのも、様々な説があるが、日本は今でいう都道府県に近い単位で「国」があり、また江戸時代移行は「藩」毎の統治であったこともあり、それぞれに特色のある文化や方言が育ったのだ。

その背景には、住民の大多数を占める農民たちの移動がなかったことにより、その地域・領域だけの言葉が発達したことが挙げられよう。

なので、明治維新になったばかりの頃は、九州の人と東北の人が会話しても、お互いに相手の言葉を十分に理解し、意志の疎通をする、といったことができなかったようだ。

九州の方言「すごか」

平成の現在でも、関東の人間が青森弁を聴いても理解できないのだから、当時はもっと理解できなかったであろうことは想像に難くない。

また、自分たちの藩と隣接する藩とは敵対関係にあるという地域もあったようで、そうした状況においては、藩内の情報を安易に隣接する藩に伝わらないようにするためにも、独自の言い回しや方言が発達したのではないか、との説もある。

そんな方言だらけの日本全国だったのだが、平成30年の現在では、まだ各地に方言やなまりが存在するものの、かつての頃と比べると、かなり鳴りを潜めてしまったようだ。

大阪の小学校では、クラスの半分近くの児童が地元の大阪弁ではなく、標準語を日常会話として遣っているというところも出てきたようだ。

その一方で「めっちゃ」という言葉は、今では「全国区」にまで昇格している。

元々関西で遣われていた「めっちゃ」は、「めちゃくちゃ」の下略形で、英語の「very」とほぼ同義語になるのだが、東京の女子高生も当たり前に「めっちゃ」を多用しており、すっかり違和感がない。

こうした現象は、やはりTVの影響によるもので、関西出身の人気タレントが「めっちゃ」を多用することで、それを視聴した若者たちの間で瞬く間に拡散・定着し、すっかり「標準語」となった。

「言葉は時代を追うごとに変化する”生き物”だ」みたいなことがよくいわれたりするが、この調子だと方言は「絶滅危惧種」になること間違いないだろう。

筆者の母親の故郷・愛媛県松山市ではかつて語尾に「~ぞなもし」を付ける方言があったが、今ではかなりのお年寄りでないと、聴くことがないという(例文:今日は良い天気ぞなもし)。

実際、筆者が今年1月に松山を訪れた際、若い人たちは標準語で会話しており、それは驚いたものだ。

各地域の特色は残った方が面白いはずなのだが、言葉に限っては、ますます標準語の流れに抗えないようだ。

つくづくTVの影響は大きいと感じる。