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古き良き日本の佇まいを残す小江戸・川越【連載:アキラの着目】

2013年3月からの東急東横線と東京メトロ副都心線の相互直通運転により、訪れる人が増えたと言われている観光地がある。

1つは横浜中華街。

東武東上線沿線に住む埼玉県民が電車1本で「元町・中華街」に行けるようになったからだ。

さらにもう1つは川越。

先ほどとは反対で、神奈川県民が電車1本で小江戸・川越に行けるようになったからだ。

洗練された洋服屋さんなどの店舗や通りが特徴の元町や、歩けば中国にいるかのような気分に浸れる中華街と異なり、古き良き日本の佇まいを観ることができるのが川越だ。

それも、川越の至る所で歴史を感じさせてくれるスポットが多数あるのだから、1日はあっという間に経ってしまうのだ。

その中でもやはり、川越のアイコンともいうべき存在は蔵通りだろう。

小江戸川越観光協会 公式サイトから引用

かつて大火事(明治26年の川越大火)を経験した教訓として、燃えにくい土蔵造りの蔵が通りの両脇に並び建つに至った。

鉄道敷設計画が浮上した際、「陸蒸気」(=おかじょうき。蒸気機関車のこと)を通すと、吹き上げる火の粉で田畑や家屋、町が焼かれるからとの迷信で、蔵通りが立退きされることなく今に残ったんだという説もある。

こうした様々な諸条件が折り重なって、奇跡的に蔵通りが現存しているのだ。

この蔵通り以外では、喜多院や川越氷川神社をはじめとした寺社仏閣も多くあり、これまた巡りたくなる観光スポットとなっているし、川越城跡も”通”向きといえるだろう。

とりわけ川越城中之門跡の堀は、戦国時代のものではなく、江戸時代になって整備された中世城郭の堀で、なかなかの”ツラ構え”だ。

一般住宅にグルリと囲まれた川越城中之門跡の堀はなかなかレアな風景で、インスタ映えするかもしれない。

川越城中之門跡の堀 小江戸川越観光協会 公式サイトから引用
川越城中之門跡の堀
小江戸川越観光協会 公式サイトから引用

以上、駆け足で述べてきたが、川越にはノスタルジックな、でも場所によっては新旧が混在した異景色があったりで、飽きさせない街だ。

それが評価されたのか、平成8年には環境省の「残したい“日本の音風景100選”」に川越は認定されたのだ。

かなり遠くの地方にまで足を運ばなくとも、都心から1時間少々で行けて、古き良き日本を感じ取れるスポットが川越であることをおわかり頂けたであろうか。

 

■小江戸川越観光協会
https://www.koedo.or.jp/

■公益社団法人小江戸川越観光協会 公式Facebook @KoedoKawagoeTravel
https://www.facebook.com/KoedoKawagoeTravel/

 

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

全国で2つだけの現存本丸御殿のうちの1つがある川越城(埼玉県川越市)【連載:アキラの着目】

川越城本丸御殿今回のFJ時事新聞ニッポンニュースは、”小江戸”川越にある川越城を取り上げる。

別名、初雁城とも霧隠城ともいわれる川越城は、長禄元年(1457)、扇谷上杉持朝(おうぎがやつ うえすぎ もちとも)の命を受けた家臣の太田道真(資清)・道灌(資長)父子が築城した(築城当時は川越城ではなく河越城)。

天文6年(1537)に北条氏綱が河越城を奪取し、河越城は以降、後北条氏の武蔵国支配の拠点となった。

しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐で河越城が落城、豊臣秀吉の命により徳川家康が関東に封ぜられたのに伴い、徳川氏譜代筆頭の酒井重忠が1万石で川越城主となった。

以後、川越城主は、酒井家→酒井家→堀田家→大河内松平家→柳沢家→秋元家→越前松平家→松井松平家と推移する。

弘化3年(1846)に二ノ丸にあった御殿が焼失し、嘉永元年(1848)に越前松平家・松平斉典により本丸御殿が再建され、この本丸御殿が現存しているのだ。

川越城の歴史はこのくらいにして、早速歩いてみよう。

川越城縄張図(アルファベットは写真のアルファベットに対応)
川越城縄張図(アルファベットは写真のアルファベットに対応)

川越は、昨日のニッポンニュースで紹介した通り、蔵通りが観光地として有名だ。

まずはこの蔵通りを散策してから川越城に行くことをおすすめする。

西武新宿線「本川越」駅前から北に伸びる通りをしばらく真っ直ぐ北に歩くと、蔵通りへと変貌する。

左右の漆黒で彩られた蔵の店を眺めながら、さらに歩みを進めると、「札の辻」交差点に達するので、そこを右折しよう。

3分ほど歩けば、かつての川越城追手曲輪の西大手門があった交差点に達する。

A 川越城追手曲輪西大手門跡
A 川越城追手曲輪西大手門跡

目印としては、交差点左側に前述の太田道灌の銅像があるのでわかりやすいかと。

太田道灌銅像
太田道灌銅像

さらに真っ直ぐ進むと、通り右手に現れるのが、川越城中曲輪の中ノ門跡だ。

B 川越城中曲輪の中ノ門跡
B 川越城中曲輪の中ノ門跡

復元された木造門があるので、これもわかりやすいはずだ。

門をくぐると、視界に飛び込んでくるのが中ノ門堀跡だ。

川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀跡

かつての川越城は四方を大小の堀で囲まれた堅固な城塞で、中ノ門堀跡はかつての川越城を偲ぶアイテムとしてしっかり遺っているのがありがたい。

中ノ門堀跡を観終えたら、またそのまま直進すると、本丸御殿入口に達するので、そこを右折。

すると、本丸門跡の石碑が現れ、かつては本丸御殿への城門があったことを伝えてくれている。
川越城本丸門跡

C 川越城本丸門跡
C 川越城本丸門跡

ここまで来たら、もう川越城本丸御殿だ。

川越城本丸御殿
川越城本丸御殿

川越城本丸御殿はその名通り天守ではなく本丸御殿、つまり藩主が起居したり、政務を行なったりする建物なので、戦闘目的の建物ではないのであしからず。

ちなみに全国に現存する本丸御殿は、この川越城と、もう1つは高知城だけである。

本丸御殿に入ると、日光を上手に取り入れた和室から感じられる温かみや、デザインのような陰影を鑑賞できて面白い。
川越城本丸御殿内川越城本丸御殿中庭

家老詰所だった和室は、当時を再現する人形が配置され、イメージしやすい。

川越城本丸御殿家老詰所
川越城本丸御殿家老詰所

広間には、日の出と松を描いた杉戸がある。
川越城本丸御殿 広間

川越城本丸御殿 広間の杉戸
川越城本丸御殿 広間の杉戸

この広間にはこれ以外にもまだ見どころがある。

それは天井だ。

天井を見上げると、バレーボールの跡がクッキリと付いているのだ。

川越城本丸御殿 広間 バレーボールの跡が付いた天井
川越城本丸御殿 広間 バレーボールの跡が付いた天井

というのも、戦後この広間が小学校の体育館として使用されたことがあり、その時に生徒がボールを天井にぶつけたことで付いた跡なのだとか。

以上、川越城本丸御殿を中心に駆け足で見てきたがいかがだっただろうか。

川越城は日本100名城にも選出されており、蔵通りの街並みと併せて観光することを提唱したい。

■川越城本丸御殿
http://museum.city.kawagoe.saitama.jp/hommaru/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

”小江戸”川越でプチ・タイムスリップ(埼玉県川越市)【連載:アキラの着目】

今回取り上げるのは、”小江戸”と呼ばれる川越だ。

埼玉県南西部に位置し、人口約35万人の川越市の中心となる街・川越は、江戸時代には親藩・譜代である川越藩・川越城の城下町として栄えた。

現在、その川越城は、日本全国で2つしか現存していない本丸御殿のうちの1つを有する城として名を馳せているものの、大部分の曲輪や土塁、堀は残っておらず、中ノ門跡の堀など、一部しか残っていない。

しかし、川越は戦災や震災を免れたため、歴史的な街並が残っており、とりわけ蔵通りと呼ばれるメインストリートは、明治時代以前における日本の街の原風景そのままで、プチ・タイムスリップしたかのような気分になれる。

こうしたプチ・タイムスリップを味わうべく、内外から川越を訪れる観光客が絶えないのだ。

前回同様、動画を撮影したので、この動画を観て、”小江戸”川越でのプチ・タイムスリップを疑似体験してみよう。

動画の最後に映っているのは、時の鐘だ。
”小江戸”川越の蔵通り

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099