東京都港区海岸にある当社「BUKKYO時事新聞株式会社」。
東京湾に面していることもあり、事務所の窓を開ければ、汐風が吹き込んでくるロケーションだ。
毎日昼休みには会社周辺を歩くのだが、結構昔の名残を発見することができる。
今回は、当社周辺で見ることのできる昔の東京の海岸線を取り上げてみたい。
当社「BUKKYO時事新聞株式会社」のあるエリアは、海だった!
元来、江戸切絵図を見るのが好きなこともあり、昔の東京はどうなっていたのか、現在の地図と照らし合わせ、比較検討したりしてきた。
そこで判明したことは、当社「BUKKYO時事新聞株式会社」のあるエリアは、海だったということと、東京都港区を走る山手線(京浜東北線、新幹線)を堺に、内側(西側)が陸地、外側(東側)がすぐ海であったということだ。
厳密にいうと、開業当初は、線路は海の上にあったのだ。
東海道の邪魔にならないようにとのことで、海岸のすぐ沖合を埋め立て、線路敷設用地を盛土したのだ。
したがって最初は海岸線に沿って鉄道が敷かれていた。
それが時代が下るにつれ、陸地はどんどん埋め立てられ、沖合が伸び、現在のようになった次第だ。
芝浦周辺(浜松町-田町)で見ることができる旧海岸線
かつて海岸だった名残が浜松町駅に見ることができる。
大門から浜松町に伸びる大通りが、浜松町駅前のJR線ガードに到達する直前で、斜めに道路が降下するのだ。
これは海岸、すなわち砂浜から海にかけての傾斜であったことを物語っており、まさに浜松町駅のある場所は、陸地と海の際(きわ)だったことがわかる。
似たような地形の名残は田町駅にも見てとれ、また、浜松町・田町間におけるいくつかのガード下も同様だ。
「江戸無血開城」の舞台となった薩摩屋敷の裏手も海だった!
第1京浜通り沿いには、「西郷南洲・勝海舟会見の地」の碑があり、西郷隆盛と勝海舟が会談した有名な「江戸無血開城」はまさにこの地で行われた。
ここには江戸期、薩摩藩屋敷があり、屋敷のすぐ裏は浜辺だったことが確認できる文献も現存することから、やはりここも陸地と海の際(きわ)だったことがわかる。
また、浜松町から田町にかけてのエリアは芝浦と呼ばれ、古典落語「芝浜」の舞台となった浜も、現在は児童公園として生まれ変わっている。
なお、浜松町からほど近い家電メーカーの東芝は、元々は「東京芝浦電気」という名称で、この芝浦が発祥の地であることが今も社名に残っている。
芝浦以外でもまだまだ古き良き江戸・東京は残っている!
以上見てきたように、芝浦界隈(浜松町・田町周辺)には、昔の海岸線の名残が存在する。
芝浦以外でも、探せば古き良き江戸・東京が意外とまだまだ残っているものなので、これをきっかけに歩くことをオススメする。