美濃和紙の産地でもあり、飛騨高山という著名な観光地を有する岐阜県。
他に岐阜県には、岐阜県出身の杉原千畝がおり、彼の業績を記念して建てられた杉原千畝記念館がある。
これらを巡る観光タクシーが人気を集めており、それが「ぎふガイドタクシー」だ。
「ぎふガイドタクシー」には「杉原千畝から美濃和紙コース」、「杉原千畝から美濃・高山コース」の2コースがある。
ほぼ1日で上記のスポットを回り4万円前後の料金だ。
乗車定員めいいっぱい、例えば4人で利用すれば、1人あたりの料金は安くなり、1万円前後になるので、お得感を感じられるだろう。
岐阜を訪れる際は利用するのも手だ。
ちなみに、杉原千畝についてご存知のない人のために説明する。
そのためには、まず当時の時代背景、つまり戦前の日本及び国際状況を説明しなければならない。
戦前の日本は軍部が暴走し政権を掌握、民主主義を糾弾し、戦争独裁国家の道を歩んでしまったのはご承知のことかと。
その結果、国際連盟を脱退、ドイツ・イタリアと軍事同盟を締結、連合国側と熾烈な対立を生むこととなった。
同盟国ドイツはユダヤ人迫害政策によって多くのユダヤ人の命を奪ったのだが、そうした状況下で同盟国ドイツとは意に反する対応をとったのが、当時の外交官・杉原千畝だ。
ナチスの目を盗んで逃げてきたユダヤ人たちが、ヨーロッパから逃れるために日本への渡航許可証を求め、杉原千畝のいたリトアニアの日本領事館前におしかけてきたのだが、杉原千畝は日本外務省の命令に背き、ユダヤ人たちにその渡航許可証を発給したのだ。
一人でも多くのユダヤ人たちの命を救うために、入国ビザを必要としない南米キュラソー行きの”命のビザ”を、僅かな時間も惜しんで書き続けた杉原千畝は、リトアニアの日本領事館を退去した後もホテルで渡航許可証を書き続けた。
ついに杉原千畝自身もリトアニアを出国するという最終日には、出発駅にまで殺到してきたユダヤ人たちに対しても、発車間際まで渡航許可証を書き続け、最後の渡航許可証は列車の窓から手渡したのだった。
戦後、帰国した杉原千畝は、外務省の命令に背いたことで外交官の職を解かれ、彼の一家は生活に困窮する。
しかし、戦後28年経ってから、ボロボロになった当時の渡航許可証を手にしたユダヤ人のニシュリ氏が杉原千畝のもとを訪ね感謝の意を述べたことで、ようやく杉原千畝は自分がしてきたことは誤りではなかった、間違ってはいなかったと実感し、戦後からこれまでの苦労が報われたとのことだ。
有名な日本人はそれなりにいるが、世界に誇れる日本人は誰かといったら、まず杉原千畝だろう。
これには誰も異論を挟むまい。
■杉原千畝から美濃和紙コース/杉原地畝から美濃・高山コース|ぎふガイドタクシー
http://www.gifu-guidetaxi.jp/course/sugihara.html
■杉原千畝記念館
http://www.sugihara-museum.jp/