今回のFJ時事新聞ニッポンニュースは、”小江戸”川越にある川越城を取り上げる。
別名、初雁城とも霧隠城ともいわれる川越城は、長禄元年(1457)、扇谷上杉持朝(おうぎがやつ うえすぎ もちとも)の命を受けた家臣の太田道真(資清)・道灌(資長)父子が築城した(築城当時は川越城ではなく河越城)。
天文6年(1537)に北条氏綱が河越城を奪取し、河越城は以降、後北条氏の武蔵国支配の拠点となった。
しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐で河越城が落城、豊臣秀吉の命により徳川家康が関東に封ぜられたのに伴い、徳川氏譜代筆頭の酒井重忠が1万石で川越城主となった。
以後、川越城主は、酒井家→酒井家→堀田家→大河内松平家→柳沢家→秋元家→越前松平家→松井松平家と推移する。
弘化3年(1846)に二ノ丸にあった御殿が焼失し、嘉永元年(1848)に越前松平家・松平斉典により本丸御殿が再建され、この本丸御殿が現存しているのだ。
川越城の歴史はこのくらいにして、早速歩いてみよう。
川越は、昨日のニッポンニュースで紹介した通り、蔵通りが観光地として有名だ。
まずはこの蔵通りを散策してから川越城に行くことをおすすめする。
西武新宿線「本川越」駅前から北に伸びる通りをしばらく真っ直ぐ北に歩くと、蔵通りへと変貌する。
左右の漆黒で彩られた蔵の店を眺めながら、さらに歩みを進めると、「札の辻」交差点に達するので、そこを右折しよう。
3分ほど歩けば、かつての川越城追手曲輪の西大手門があった交差点に達する。
目印としては、交差点左側に前述の太田道灌の銅像があるのでわかりやすいかと。
さらに真っ直ぐ進むと、通り右手に現れるのが、川越城中曲輪の中ノ門跡だ。
復元された木造門があるので、これもわかりやすいはずだ。
門をくぐると、視界に飛び込んでくるのが中ノ門堀跡だ。
かつての川越城は四方を大小の堀で囲まれた堅固な城塞で、中ノ門堀跡はかつての川越城を偲ぶアイテムとしてしっかり遺っているのがありがたい。
中ノ門堀跡を観終えたら、またそのまま直進すると、本丸御殿入口に達するので、そこを右折。
すると、本丸門跡の石碑が現れ、かつては本丸御殿への城門があったことを伝えてくれている。
ここまで来たら、もう川越城本丸御殿だ。
川越城本丸御殿はその名通り天守ではなく本丸御殿、つまり藩主が起居したり、政務を行なったりする建物なので、戦闘目的の建物ではないのであしからず。
ちなみに全国に現存する本丸御殿は、この川越城と、もう1つは高知城だけである。
本丸御殿に入ると、日光を上手に取り入れた和室から感じられる温かみや、デザインのような陰影を鑑賞できて面白い。
家老詰所だった和室は、当時を再現する人形が配置され、イメージしやすい。
広間には、日の出と松を描いた杉戸がある。
この広間にはこれ以外にもまだ見どころがある。
それは天井だ。
天井を見上げると、バレーボールの跡がクッキリと付いているのだ。
というのも、戦後この広間が小学校の体育館として使用されたことがあり、その時に生徒がボールを天井にぶつけたことで付いた跡なのだとか。
以上、川越城本丸御殿を中心に駆け足で見てきたがいかがだっただろうか。
川越城は日本100名城にも選出されており、蔵通りの街並みと併せて観光することを提唱したい。