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祟りとご利益の両パワーを持つ将門塚(しょうもんづか・東京都指定旧跡)【連載:アキラの着目】

日本人は、悲劇のヒーローが好きだったり、判官贔屓(ほうがんびいき・はんがんびいき)であったりする。

ゆえに源義経や真田信繁(真田幸村)が好まれるのだ。

そうした悲劇のヒーローの中でも、関東全域を一時的に平定した豪族の平将門(たいらのまさかど・903年~940年)公に対して好意を寄せる日本人はかなりおり、とりわけ江戸っ子は平将門公が大好きで、平将門公を祀った神田明神に足繁く参拝する。

この平将門公は、人に頼まれると人情に厚い人だから、何とかしようとする人物だったが、反逆の士として当時の朝廷から睨まれ、討たれてしまった。

平将門公の首は処刑された京都から、当時の武蔵国豊島郡平川村(現在の皇居平河門周辺)に飛んできたとも、観音堂の傍らに埋葬したとも言い伝えられ、その首を祀ったのが将門塚(しょうもんづか)と言われている。

現在この将門塚は千代田区大手町にあり、前述した判官贔屓の江戸っ子たちによって長年大切に保護されてきた。

東京都千代田区大手町にある将門塚の案内板
東京都千代田区大手町にある将門塚の案内板

しかし、近代になってから以下のような破壊の憂き目に度々遭い、その度に平将門公の祟りにあったと思われる死亡や怪我・病気が頻発した。

1.関東大震災で全焼した大蔵省庁舎の再建工事の際に、将門塚を壊し、大蔵省仮庁舎を建設したところ、そのわずか2年間で大蔵大臣を始めとする関係者14名が死亡、また多くの怪我人・病人が続出した。

2.戦後、日本占領中のGHQ(米軍)が将門塚の取り壊し工事を始めたら、工事用重機が横転、その運転手が死亡し、やむなく取り壊し工事を中止するに至った。

これら以外でも、高度経済成長期に将門塚の一部が売却され、その地に建設されたビルの、将門塚に面した社員が次々に病気になる事態に陥り、お祓いしたということもあった。

こうした平将門公の祟りに触れないよう、現在では将門塚に隣接するビルは、将門塚に尻を向けぬようデスクの配置をしたり、将門塚を見下ろすことがないよう、隣接ビルには窓を設けない等の配慮がされているようだ。

このように、将門塚を壊したり、不敬なことをするから平将門公の逆鱗に触れ、祟るのであり、真面目に平将門公および将門塚を敬えば、むしろご利益にあやかれる。

平将門公が神田明神の祭神となる遥か昔から祭神として祀っている筑土神社は、日本武道館の氏神でもあり、武道を志す方たちから崇敬されており、あらゆる勝負事に対する絶大なご利益を授与しているのだ。

因みにこの筑土神社、戦前までは平将門公の首級を納めた首桶、平将門公肖像画、木造の束帯坐像等が社宝として伝わっていたものの、戦災で焼失、現在はそれらの写真のみが残っている。

千年以上もの時が流れても、平将門公のパワーは強大で、今もなお人々の信仰を集める人気の存在なのだ。

【将門塚 詳細データ】
・所在地:千代田区大手町1-2-1
・アクセス:東京メトロ大手町駅C5出口すぐ

■将門塚保存会
http://masakado-zuka.jp/

■千代田区観光協会将門塚
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/362/Default.aspx

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~半蔵門(東京都千代田区)~【連載:アキラの着目】

今回取り上げる「東京の様々な地名の由来」は、半蔵門だ。

半蔵門は江戸城の城門の1つで、服部正成(通称・服部半蔵)がこの周辺の警護を任されていたことから、半蔵門の名が付いたといわれている。

服部正成(通称・服部半蔵)
服部正成(通称・服部半蔵)

現在では、江戸城門の半蔵門及び東京メトロ半蔵門線「半蔵門駅」周辺のエリアを半蔵門と総称するが、正式な番地としての地名では半蔵門は使われていない。

城門としての半蔵門は、皇居への出入口として機能し、江戸時代では徳川将軍の住まいであった江戸城の搦手門(からめてもん)として機能していた。

余談だが、搦手門についてよくわからない人のために簡単に説明すると、搦手門とは、早い話が出口、退却口として機能する門のことをいう。

城郭には必ず入口としての大手門、それに対して出口としての搦手門、というようになっているのだ。

万が一、攻められやすい低地側、つまり大手門や桜田門辺りから徳川将軍のいる江戸城が敵に攻撃され、防戦一方になった場合は、この搦手門である半蔵門から脱出するわけだ。

なので現在、半蔵門から西に真っ直ぐに延びている新宿通り、すなわち甲州街道は元々非常時の脱出路として整備されたのだ。

非常時の将軍の脱出路・甲州街道

甲州(現在の山梨県甲府市)には、幕府の天領(=直轄地)があることから、非常時に甲州を目指すというのはそういうことなのだ。

そして半蔵門から四谷までの甲州街道沿いには、前述した元・伊賀忍者の服部半蔵及びその部下たちが常駐しており、非常時は「捨て奸(すてがまり)」で敵を退けることになっていた。

元・伊賀忍者の服部半蔵及びその部下たちが常駐していた組屋敷

因みに「捨て奸」とは、関ヶ原合戦の退却の際に敵中突破の手段として、薩摩の島津義弘が用いた戦法だ。

それは具体的にいうと、隊の最も後ろの兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする戦法だ。

捨て奸(すてがまり)
捨て奸(すてがまり)

その小部隊が全滅すると、また新しい足止め隊を退路に残して留まらせ、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせるのだ。

話が横道にそれてしまったが、以上をまとめると、万が一の非常時に、徳川将軍を江戸城から脱出させるための城門や街道があり、脱出をサポートするための元・伊賀忍者である服部半蔵とその部下がこの地に常駐していたから、その城門をいつしか半蔵門と呼ぶようになったということ、そして現代では、その江戸城の城門である半蔵門の周辺エリアをひっくるめて半蔵門と呼んでいることだ。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099