2036 49.P0477 佛祖历代通载 (22卷)〖元念常集〗

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

  No. 2036

  佛祖历代通载序

  浮图氏之论世。动以大劫小劫为言。中国文字未通。盖不可知也。摩腾竺法兰至汉而后。释迦佛之生灭。可以逆推其岁年。自是中国之人。得以华言记之。自天竺及旁近诸国东来者。莫盛于西晋。至于姚秦石赵等国。其人则鸠摩罗什佛图澄那连耶舍昙无谶诸师。而东土卓绝奇伟之士。生肇融睿等相为羽翼。翻译经义尽为华言。而佛理之精无不洞究。先觉之士至有逆知。其至理之未至者。佛学之行莫博于此时矣。弥天道安至于远公辟地东南佛陀耶舍远相从游而辟世。君子相依于离乱之世。乃若宝公双林诸公起而说法。而佛学大盛于东南矣。若夫智者弘法华于天台。三藏开般若于唐初。清凉广华严于五台。密公说圆觉于草堂。宣公严律教于南山。金刚启秘密于天宝。大小三乘唯识等论。专门名家豪分缕析。汗牛充栋。学者千百。有皓首而不能穷极者焉。达磨之来则有五传其衣。五宗斯立。同源异派自梁历宋。谓之传法正宗。我

  国朝秘密之兴义学之广。亦前代之所未有。此其大略也。记载之书昔有宝林等传。世久失传。而传灯之录僧宝之史。仅及禅宗。若夫经论之师各传于其教。宰臣外护因事而见录。岂无遗阙。近世有为佛祖统纪者。拟诸史记书事无法。识者病焉。时则有若嘉兴祥符禅寺住持华亭念常。得临济之旨于晦机之室。禅悦之外博及群书。乃取佛祖住世之本末。说法之因缘。译经弘教之师。衣法嫡传之裔。正流旁出散圣异僧。时君世主之所尊尚。王臣将相之所护持。论驳异同参考讹正。二十余年始克成编。谓之佛祖历代通载。凡二十二卷。其首卷则言彰所知论器世界情世界道果无为五论。则我

  世祖皇帝时。

  发思八帝师对

  御之所陈说。是以冠诸篇首。其下则以天元甲子。纪世主之年。因时君之年。纪教门之事。去其繁杂谬妄。存其证信不诬。而佛道世道污隆盛衰。可并见于此矣。嗟夫十世古今不离当念。尘影起灭何足记哉。尝见沩山有问于仰山。每有年代深远之对。则亦悯先觉之无闻者乎。而法华一经。前劫后劫十号无二。又曰。观彼久远犹古今日。则此书宜在所取乎。至正元年六月十一日。微笑庵道人虞集序。

  华亭梅屋常禅师本传通载序

  夫语言文字。载道之器。传远之用。历千古微简牍。何以纪事考实耶。

  大成至圣。春秋作而贼乱惧。

  大觉世尊。经律集而贤哲兴。其五经六艺诸子百家。立言垂训。后之来学明今酌古。游心仁义。非编册之益乎。佛祖历代通载。梅屋禅师之所作也。其文博其理明。叙事且实出入经典考正宗传。殊有补于名教。至正辛巳。翰林道园虞公。序冠其首益尊韪之。禅师世居华亭。黄姓。父文祐。母杨氏。初祈嗣于观世音。忽一夕梦僧庞眉雪发。称大长老托宿焉。因而娠。至元壬午三月十有二日诞于夜。神光烛室异香袭人。逾日不散。既长喜焚香。孤坐。风骨秀异气宇英爽。年十二恳父母求出家。母钟爱之。诱以世务终莫夺其志。遂舍之。依平江圆明院体志。习经书尚倜傥。疏财慕义栖心律典。元贞乙未江淮总统所。授以文凭。剃发受具。弱冠游江浙大丛林。博究群经。宿师硕德以礼为罗延之。皆撝谦弗就。至大戊申。佛智晦机和尚。自江西百丈。迁杭之净慈。禅师往参承值上堂。佛智举太原孚上座闻角声因缘。颂云。琴生入沧海。太史游名山。从此扬州城外路。令严不许早开关。有省于言下。投丈室呈所解。佛智颔之。遂俾掌记室。嘱之曰。真吾教伟器。外护文苑之奇材也。服勤七年。延祐乙卯佛智迁径山。禅师职后版。表率明年。

  朝廷差官理治教门。承遴选瑞世嘉兴祥符。至治癸亥夏五乘驿赴

  京缮写黄金

  佛经。暇日得以观光三都游览胜概。礼五台曼殊室利。披燕金遗墟之迹。由以动司马撰书之志。出入翰相之门讨论坟典。升诸名师堂奥讲解经章。如司徒云麓洪公别峰印公。皆尊爱之。

  帝师命坐授食。闻大喜乐密乘之要。自京而回姑苏。万寿主席分半座以延说法。众服其有德。自非宿有灵姿禀慧多生。曷以臻其明敏。著述祖祢彰显正教。致公卿大人笃敬也耶。至大间愚执侍佛智。获奉教于禅师。知梗概而序之。禅师讳念常。梅屋其号焉。至正四年三月。松江余山昭庆住持比丘觉岸谨序。

  佛祖历代通载凡例

  一世祖皇帝玉音一百段。出弘教集。实帝师大臣钦承对旨。谨置于编。

  一帝师所说彰所知论。冠于篇者尊之也。

  一吾佛世尊未生以前时代。本不与书。欲便初学。卷自太古始。

  一往古帝王。即位改元崩殂及僭国之主。宰臣护教尊法者。略见始末。余不书。

  一帝王于圣教御制赞序及大臣硕儒撰述。其间有关大教者。皆具载焉。

  一僧道对析论辨。详收始末以备参考。

  一世尊示灭之后。凡经百年必书。其于旃檀像及教被东土之年仿此。

  一佛祖传法偈。翻译详见梁大同六年。

  一教门隆替。并依史籍编录。使来学知有自焉。

  一诸祖事实。备载于示寂之年。仿先经终义之例。

  一屏山居士鸣道集说。凡二百一十七篇。今录一十九篇。盖彰其识见耳。

  一教门事要。异同讹正略加考定。据诸传记摭集。不以私臆谬加论辨。或恐繁失于冗简失于陋。以俟博雅之士。改而正之。

  一太史公史记称。黄帝三十八年。命风后定甲子。始因而编之。随年列为横历于上。

  佛祖历代通载凡例。

  佛祖历代通载目录

  第一卷

  (一)七佛偈(二)彰所知论器世界品(三)日轮(四)月轮(五)诸星宿(六)妙高山三十三天(七)情世界总有六种(八)人祖大梵(九)三末多王及诸王种(十)器世界坏(并赞)

  第二卷

  (一)盘古王 (二)天皇 (三)地皇 (四)人皇 (五)五纪 (六)有巢氏 (七)燧人氏 (八)伏羲氏 (九)社神 (十)神农氏 (十一)黄帝 (十二)少昊 (十三)颛顼 (十四)帝喾 (十五)唐尧 (十六)虞舜 (十七)夏后氏 (十八)殷汤 (十九)周文王 (二十)武王 (二十一)成王(立七庙制) (二十二)稷神 (二十三)四国诸侯 (二十四)康王

  第三卷

  (一)周昭王(二)世尊示降生(三)世尊示出家

  (四)穆王(五)世尊示成道(六)瑞像缘起(七)世尊示说法(八)世尊示涅槃

  (九)孝王(十)第一祖摩诃迦叶(十一)秦非子

  (十二)厉王(十三)二祖阿难(十四)上座大众二部

  (十五)宣王(十六)三祖商那和修(十七)王杀杜伯感报

  (十八)平王(十九)四祖优波鞠多

  (二十)庄王(二十一)五祖提多迦

  (二十二)襄王(二十三)六祖弥遮迦

  (二十四)定王(二十五)老聃生于楚(二十六)七祖婆须密

  (二十七)灵王(二十八)孔子生于鲁

  (二十九)景王(三十)八祖佛陀难提

  (三十一)敬王(三十二)九祖伏驮密多

  (三十三)贞定王(三十四)十祖胁尊者

  第四卷

  (一)周安王(二)十一祖富那耶舍

  (三)显王(四)十二祖马鸣大士

  (五)?王(六)十三祖迦毗摩罗

  (七)秦始皇(八)室利防等十八化人(九)十四祖龙树尊者

  (十)西汉文帝(十一)十五祖迦那提婆

  (十二)武帝(十三)十六祖罗睺罗多

  (十四)昭帝(十五)十七祖僧迦难提

  (十六)宣帝(十七)论师无著天亲

  (十八)成帝(十九)十八祖伽耶舍多

  (二十)新室王莽(二十一)十九祖鸠摩罗多

  (二十二)东汉明帝(二十三)帝梦金人(二十四)教流东土(二十五)摩腾竺法兰(二十六)释道比较焚经(二十七)二十祖阇夜多

  第五卷

  (一)安帝(二)二十一祖婆修盘头

  (三)桓帝(四)安世高至洛(五)二十二祖摩拏罗

  (六)灵帝(七)竺佛朔至洛(八)黄巾作叛

  (九)献帝(十)牟子理惑论(十一)汉史范晔论释(十二)袁宏论佛(十三)康猛竺大力至京(十四)二十三祖鹤勒那(十五)道始作灵宝醮章

  (十六)三国魏文帝

  (十七)蜀先生

  (十八)吴大帝(十九)维祇难支谦

  (二十)明帝(二十一)曹植传

  (二十二)齐王芳(二十三)康僧会至吴(二十四)吴阚泽论佛(二十五)二十四祖师子尊者(二十六)昙摩迦罗等传律

  (二十七)高贵乡公(二十八)罽宾贼乱累释

  (二十九)陈留王(三十)沙门朱士衡讲经始

  第六卷

  (一)西晋武帝(二)吴皓毁神祠及梵宇(三)竺法护至京(论)(四)育王塔缘起

  (五)惠帝(十六国附见)(六)鲍靖撰三皇经(七)竺耆域至洛

  (八)愍帝(九)维卫迦叶石像至吴

  (十)元帝(有叙)(十一)沙门吉友至建康

  (十二)明帝(十三)二十五祖婆舍斯多

  (十四)成帝(十五)三藏惠理至杭(十六)庾冰议令僧拜俗(十七)何充议不应拜俗

  (十八)穆帝(十九)佛图澄示寂(论)(二十)释涉公入寂(二十一)沙门于法开医术

  (二十二)哀帝(二十三)诏竺潜讲经(二十四)诏支遁继讲(二十五)郄超慕佛

  (二十六)废帝(二十七)释道安法师(论)(二十八)孙绰(二十九)许询(三十)桓温末年奉法

  (三十一)简文帝(三十二)诏法旷禳星

  第七卷

  (一)东晋武帝(二)东林惠远法师(三)刘遗民卒(四)符秦德星现获安什(五)秦主姚苌感报(六)北魏道武皇帝(七)二十六祖不如密多

  (八)安帝 (九)太山竺僧朗 (十)北魏兴佛教诏 (十一)罗什法师(论) (十二)道䂮僧正 (十三)道融与婆罗门辩论 (十四)道恒道标抗表行道 (十五)僧睿四海僧望 (十六)僧肇详定经论 (十七)天竺弗多罗尊者 (十八)佛陀耶舍尊者 (十九)柏玄下书令僧拜俗 (二十)沙门不敬王者论(五) (二十一)佛驮跋陀被摈 (二十二)招渊明入社 (二十三)法果初受封爵

  (二十四)法显西天取经始(二十五)三藏昙无谶至姑臧(二十六)道生法师竖石为徒

  (二十七)恭帝(二十八)北魏崔浩荐寇谦之(论)(二十九)玄高禅师被谮(三十)齐著作魏收佛老志

  第八卷

  (一)宋文帝 (二)神僧杯渡 (三)求那跋陀罗入朝 (四)帝幸大庄严寺 (五)谢灵运伏诛 (六)求那跋摩三藏 (七)萧京尹请制建寺像 (八)帝幸曲水 (九)惠琳叛教获报(论) (十)诏法瑗主天保寺 (十一)浩谮太子及僧玄高 (十二)魏寇谦之修张鲁术 (十三)魏武诏诛天下沙门 (十四)魏武受箓建靓轮宫 (十五)魏崔皓伏诛(论) (十六)沙门昙始至魏救法 (十七)魏又下诏复释

  (十八)武帝(十九)二十七祖般若多罗(二十)诏求那跋陀罗(二十一)诏道猷为新安法主(二十二)中兴寺宝亮法师(二十三)羌人高阇反累释(二十四)右司陈僧拜俗(二十五)朱灵期遇圣僧(二十六)姚兴钦重僧导

  (二十七)废帝(二十八)疏勒王送佛衣

  (二十九)明帝(三十)宝志大士(三十一)康居邵硕公(三十二)诏僧瑾为僧正(三十三)魏史释老志

  (三十四)齐太祖(三十五)帝幸僧远所居

  (三十六)武帝 (三十七)敕法献为僧主 (三十八)玄畅首述华严疏(论) (三十九)宝志狱中显化 (四十)昙超为龙说法 (四十一)顾欢夷夏论 (四十二)司徒袁粲驳夷夏论 (四十三)孟景翼正一论 (四十四)张融作门律辟之(论) (四十五)魏诏度僧尼

  (四十六)东昏侯(四十七)陈显明造步虚经

  (四十八)和帝(四十九)僧伽跋陀罗律藏

  第九卷

  (一)梁武帝 (二)陶弘景造太清经 (三)诏志公任便宣化 (四)郗氏夫人求忏 (五)帝舍邪归正愿文 (六)何点何胤不仕 (七)帝注大品命法云讲 (八)魏主尚释 (九)诏僧旻讲胜鬘经 (十)帝制涅盘疏序 (十一)宗庙祭祀戒杀 (十二)沈休文中食论 (十三)魏胡太后建寺 (十四)惠皎着高僧传 (十五)僧朗及道英神异 (十六)帝受归戒 (十七)僧达入水观 (十八)僧藏谏帝律僧 (十九)藏登御座 (二十)魏评释道 (二十一)魏书佛老志 (二十二)初祖达磨大师(论) (二十三)昭明太子 (二十四)刘勰出家 (二十五)双林傅大士 (二十六)惠约法师 (二十七)高王经缘起 (二十八)译佛祖偈始末 (二十九)隐士阮孝绪 (三十)古今书籍之数 (三十一)逆贼侯景反 (三十二)梁史魏徴论

  (三十三)简文帝(三十四)北齐台宗惠文禅师

  (三十五)元帝(三十六)真谛三藏(三十七)荆山居士陆法和(三十八)北齐诏稠禅师

  (三十九)敬帝(四十)北齐敕陆修静与昙显角试(四十一)北齐杜弼(四十二)齐著作王劭述佛(四十三)周恶黑衣废释

  第十卷

  (一)陈高祖(二)柏岩稠禅师(三)洪偃法师(四)宝琼法师(五)卫元嵩上疏减僧

  (六)废帝(七)天台惠思禅师

  (八)宣帝(九)周武命三教伸述利病(十)周武灭佛(十一)甄鸾上笑道论(十二)道安着二教论(十三)周武登座序废立义(十四)静蔼以法灭舍身(十五)任道琳伸请复教

  (十六)隋文帝 (十七)下诏复教 (十八)法师昙延授帝八戒 (十九)释尼智仙传 (二十)律师灵藏陪驾 (二十一)李士谦喻报应说 (二十二)二祖惠可大师 (二十三)天台智者禅师 (二十四)诏三十州建塔 (二十五)文中子讲道(负苓篇附并论) (二十六)阇那笈多译法华经 (二十七)诏问洪山智舜禅师

  (二十八)炀帝(二十九)诏僧道拜俗明瞻登对而罢(三十)三祖僧璨大师(三十一)杨宏率僧道论议

  (三十二)恭帝(三十三)神僧法喜传(并论)第十一卷

  (一)唐高祖(二)诏僧道论议定优劣(三)傅奕疏请灭释(四)李师政内德论(辨惑篇附)(五)诏汰释道二教

  (六)太宗 (七)帝问群臣治政难易 (八)敕建寺以度陈亡 (九)玄奘往西天求法 (十)敕葬玄琬法师 (十一)诏度僧尼建寺 (十二)太子问张士衡奉佛事 (十三)诏道先释后 (十四)敕魏王泰祭虞世南 (十五)诏三学秀异论议 (十六)惠琳被谮 (十七)华严杜顺法师 (十八)傅奕感报 (十九)丞相萧瑀传 (二十)帝幸弘福寺 (二十一)祇罗国主仰唐声教 (二十二)原州瑞石记国祯祥 (二十三)玄奘赍经归朝 (二十四)三藏进新译经请序 (二十五)秘谶女主代有天下 (二十六)帝劝奘师罢道为政 (二十七)奘陈辞愿终身行道 (二十八)帝制三藏圣教序(谢表附) (二十九)太子继圣教序 (三十)赐奘百金磨衲 (三十一)诏创弘法院留奘师 (三十二)诏建大慈恩寺 (三十三)诏奘陪驾 (三十四)史赞并论

  第十二卷

  (一)唐高宗 (二)四祖道信大师 (三)敕建大慈恩塔 (四)惠宽禅师及姐信相 (五)天竺致书奘师(答书附) (六)立法师斥吕才论 (七)制设官监护译经 (八)御制大慈恩寺碑(谢表附) (九)奘法师示疾 (十)诏辨二教先后 (十一)牛头法融禅师 (十二)追僧道论议 (十三)奘法师表辞还山 (十四)复追僧道论议 (十五)屈僧拜俗道宣上疏 (十六)法师玄奘示寂 (十七)道世法师辩道经真伪 (十八)南山道宣律师 (十九)诏僧道定夺化胡经 (二十)五祖弘忍大师(史赞) (二十一)佛陀波利尊者 (二十二)慈恩窥基法师 (二十三)道世着法苑珠林

  (二十四)则天武后 (二十五)始定母服及建明堂 (二十六)庆山始出 (二十七)译华严大经 (二十八)诏康法藏为僧 (二十九)诏嵩山惠安禅师 (三十)义净三藏自西土回 (三十一)敛僧钱铸佛像(论) (三十二)诏贤首法藏讲新经 (三十三)铸像成百僚礼祀

  (三十四)中宗 (三十五)房融润文译楞严 (三十六)诏六祖不起 (三十七)大通神秀禅师(张说作记) (三十八)神僧万回法云公(论) (三十九)诏僧道齐行并集 (四十)安国师卒 (四十一)诏三藏实叉难提 (四十二)泗洲大圣 (四十三)召道岸律师授戒 (四十四)菩提流志译宝积经 (四十五)诏一行赴阙不起

  第十三卷

  (一)唐睿宗(二)六祖惠能大师

  (三)玄宗 (四)永嘉玄觉禅师 (五)诏一行禅师赴阙 (六)嵩岳元圭禅师(论) (七)天竺三藏无畏至京 (八)宋璟礼六祖塔 (九)诏一行改撰大衍历 (十)智升上藏经目录 (十一)一行制黄道仪成 (十二)郭行女尝斋感报 (十三)牛云求聪感应 (十四)日本始有律 (十五)三藏菩提流志卒 (十六)嵩山破灶堕 (十七)一行示寂(论) (十八)般若心经序(张说作) (十九)重定五服制 (二十)三藏金刚智卒 (二十一)义福禅师卒 (二十二)恒州张果先生 (二十三)三藏无畏卒 (二十四)不空三藏降狂象(论) (二十五)法秀献回向寺玉箫 (二十六)李长者着华严合论 (二十七)青原行思禅师 (二十八)兴唐寺普寂卒 (二十九)太子詹事严挺之 (三十)诏本净禅师赴? (三十一)南岳怀让禅师 (三十二)诏道士吴筠问道 (三十三)制僧尼给祠部始 (三十四)诏不空验罗思远 (三十五)鹤林玄素禅师 (三十六)诏立毗沙门天王祠 (三十七)台宗左溪玄朗禅师 (三十八)天台法门议(梁肃作) (三十九)鲁山元德秀卒(论)

  (四十)肃宗(四十一)阆州斩画像(四十二)纳钱度僧道始(四十三)新罗无漏凌空立化(四十四)诏南阳惠忠禅师(四十五)诏置放生池碑(颜真卿撰)(四十六)王摩诘卒(四十七)真如升天授十三宝

  第十四卷

  (一)唐代宗 (二)良贲造新仁王经疏 (三)道义始作盂兰盆会 (四)杜鸿渐问法于无住禅师(论) (五)清凉澄观国师 (六)召忠国师试太白山人 (七)诏径山国一禅师 (八)牛头惠忠禅师 (九)忠国师试大耳三藏(论) (十)不空三藏碑(严郢作) (十一)昙一律师碑(梁肃作) (十二)三祖镜智禅师碑(独孤及作) (十三)抚州宝应戒坛记(颜真卿作) (十四)史华与僧崇惠角法 (十五)李源访圆泽 (十六)诏耽源问无缝塔话 (十七)天柱山崇惠禅师

  (十八)德宗 (十九)千臂千钵文殊经序 (二十)南岳明瓒禅师 (二十一)荆溪湛然禅师 (二十二)止观统例(梁肃作) (二十三)御制大乘六波罗蜜经序 (二十四)马祖道一禅师 (二十五)大珠惠海禅师 (二十六)石头希迁禅师 (二十七)诏清凉讲华严经题 (二十八)诏清凉讲华严宗旨 (二十九)东林熙怡律师碑(许尧佐作) (三十)黄石岩记(刘轲作) (三十一)云峰法证律师 (三十二)陆羽传 (三十三)东都圣善凝公 (三十四)幽州盘山宝积禅师 (三十五)浚上人归淮南序(子厚作) (三十六)南岳般州和上碑(子厚作)

  (三十七)顺宗(三十八)鹦鹉舍利记(韦皋作)(三十九)帝问法于佛光满禅师

  第十五卷

  (一)唐宪宗 (二)鹅湖大义禅师 (三)寒山拾得丰干 (四)荆州天皇道悟禅师 (五)荆州天王道悟禅师(并论) (六)江西北兰让禅师 (七)上问政宽猛孰先 (八)信州草衣记(德舆撰) (九)上问澄观华严法界 (十)无著禅者入五台 (十一)诏怀恽禅师居上寺 (十二)庞居士 (十三)弥陀和尚碑(子厚作) (十四)永州净土院记(子厚作) (十五)智?法师施食感报 (十六)道树法师降夭幻 (十七)百丈怀海禅师 (十八)大明律师碑(子厚作) (十九)马总奏六祖谥碑(子厚作) (二十)五台邓隐峰 (二十一)归宗智常禅师 (二十二)布毛会通侍者 (二十三)重巽赴中丞请序(子厚作) (二十四)陕右马郎妇 (二十五)上弘律师碑(白乐天作) (二十六)台教元浩禅师 (二十七)诏迎佛骨韩愈排佛表 (二十八)韩潮州遇大颠辨论 (二十九)潮阳大颠禅师 (三十)柳州刺史子厚 (三十一)北山神清法师

  (三十二)穆宗(三十三)鸟窠禅师(三十四)诏无业禅师不赴(三十五)龙潭崇信禅师(三十六)杭永福石壁经记(元微之作)(三十七)王智兴冒禁置戒坛(三十八)福州古灵禅师

  第十六卷

  (一)唐敬宗(二)诏刘从政资质仙事

  (三)文宗 (四)药山惟俨禅师碑 (五)李翱作复性书(二) (六)苏州重玄石经碑(白居易作) (七)丹霞天然禅师 (八)凌行婆 (九)蛤蜊中现菩萨像 (十)李训上疏沙汰僧尼 (十一)南泉普愿禅师 (十二)大达法师碑(裴休作) (十三)清凉国师碑铭(御赞附) (十四)圭峰宗密禅师

  (十五)武宗(十六)潭州云岩晟禅师(十七)帝锐意永仙诏(僧道论议)(十八)作望仙台于禁中(十九)敕并省天下佛寺(二十)诏下废释(史赞)

  (二十一)宣宗 (二十二)诏复释氏 (二十三)香山居士白居易 (二十四)贬李德裕诏 (二十五)华林善觉禅师 (二十六)黄檗希运禅师 (二十七)诏弘辩问南北宗旨 (二十八)复庐山东林碑(崔黯作) (二十九)沩山灵祐禅师 (三十)李节赠疏言序 (三十一)诏罗浮轩辕问摄生 (三十二)补陀示现事迹

  第十七卷

  (一)唐懿宗(二)大慈寰中禅师(三)德山宣鉴禅师(四)临济义玄禅师(五)长沙景岑禅师(六)洞山良价禅师(七)悟达国师知玄传(八)裴相国禅源诠序(九)诏迎佛骨(史赞附)

  (十)僖宗(十一)夹山善会禅师(十二)岩头全豁禅师

  (十三)昭宗(此下十三处霸)(十四)仰山惠寂禅师(十五)赵州从谂禅师(十六)云居道膺禅师

  (十七)五代(十八)梁太祖朱温(十九)雪峰义存禅师(二十)玄沙师备禅师(二十一)惟劲集宝林传

  (二十二)末帝(二十三)明州布袋和上

  (二十四)唐庄宗李存勖(二十五)兴化存奖禅师

  (二十六)明宗(二十七)长庆惠棱禅师(二十八)圣节设立试僧科

  (二十九)晋石敬瑭(三十)打钟息苦缘起

  (三十一)辽主德光御汴宫

  (三十二)汉刘知远(三十三)云门文偃禅师

  (三十四)周郭威(三十五)南院惠颙禅师

  (三十六)世宗(三十七)诏废释造僧帐(三十八)清凉文益禅师

  第十八卷

  (一)宋太祖(二)诏雕佛经一藏(三)德韶国师示寂(四)风穴延沼禅师(五)永明智觉禅师(六)吴越王作宗镜序(七)宗镜后序(杨无为作)

  (八)太宗(九)御制三藏圣教序(十)赞宁修大宋僧传(十一)诏立译经院(十二)赵普报应(十三)香林澄远禅师(十四)南安自严尊者(十五)首山省念禅师

  (十六)真宗 (十七)帝制继圣教序 (十八)道原集传灯录 (十九)诏诸路建天庆观 (二十)孤山智圆法师 (二十一)汾阳善昭禅师 (二十二)赐天台教入藏 (二十三)大阳警玄禅师 (二十四)四明法智讲师 (二十五)长水子璇法师 (二十六)慈云遵式忏主 (二十七)御制广灯录序 (二十八)慈明楚圆禅师 (二十九)杨岐方会禅师 (三十)言法华 (三十一)李觏留意佛书 (三十二)浮山法远禅师 (三十三)诏怀琏禅师住净因 (三十四)雪窦重显禅师 (三十五)华严道隆禅师 (三十六)达观昙颖禅师 (三十七)天衣义怀禅师 (三十八)欧阳修问临终事 (三十九)天钵重元禅师

  (四十)英宗(四十一)云峰文悦禅师(四十二)诏赐民间寺额

  第十九卷

  (一)宋神宗(二)圆通居讷禅师(三)明教契嵩禅师(四)白云守端禅师(五)华亭惠辨都师(六)吉州庆间禅师(七)舒州义青禅师(八)嘉兴真如法堂记(司马光作)(九)金国李屏山论(十)明道厌科举立论(十一)金国屏山有辨

  (十二)哲宗 (十三)送蹇拱辰参照觉(张无尽作) (十四)高丽义天僧统 (十五)晋水净源禅师 (十六)蒋山赞元禅师 (十七)苏老泉圆觉院记 (十八)东坡磨衲赞 (十九)圆通法秀禅师 (二十)东林常总禅师 (二十一)玉泉承皓禅师 (二十二)辨才元净法师 (二十三)净因道臻禅师 (二十四)智海慕喆禅师 (二十五)云居元祐禅师 (二十六)佛印了元禅师 (二十七)瑞光宗本禅师 (二十八)黄龙祖心禅师

  (二十九)徽宗 (三十)御制续灯录序 (三十一)蕲州五祖法演禅师 (三十二)法云善本禅师 (三十三)蔡京食鹑感梦 (三十四)大树惠持入定 (三十五)帝幸玉清昭阳宫 (三十六)女真叛辽 (三十七)死心悟新禅师 (三十八)灵芝元照律师 (三十九)林灵素以术要君 (四十)黄龙惟清禅师 (四十一)佛鉴惠勤禅师 (四十二)上听林灵素讲经 (四十三)大金立国 (四十四)改佛号灭僧寺 (四十五)张无尽传 (四十六)觉范德洪禅师 (四十七)诏道法师复僧服(北涧铭附)

  第二十卷

  (一)南宋高宗(二)西竺苏陀室利(三)圆悟克勤禅师(四)虎丘绍隆禅师(五)佛智端裕禅师(六)牧庵法忠禅师(七)真歇清了禅师(八)感山晓莹禅师(九)宏智正觉禅师

  (十)孝宗 (十一)应庵昙华禅师 (十二)径山宗杲禅师 (十三)大禅了明禅师 (十四)石室祖琇禅师 (十五)普庵印肃禅师 (十六)庆寿教亨禅师 (十七)瞎堂惠远禅师 (十八)帝制原道论(并观音赞) (十九)诏刊天台教藏 (二十)德藏可观法师 (二十一)帝注圆觉经赐径山 (二十二)宋遣宇文虚中使金

  (二十三)光宗(二十四)王孝礼言影表(二十五)净慈彦充禅师

  (二十六)宁宗(二十七)灵隐崇岳禅师(二十八)佛照德光禅师(二十九)紫微观记(元遗山作)(三十)屏山居士鸣道集说(三十一)吽哈啰悉利幢记(三十二)郑州普照道悟禅师(三十三)资寿尼无著禅师

  第二十一卷

  (一)大元太祖皇帝(二)天竺此峰宗印讲师

  (三)宪宗(四)庆寿海云印简大师

  (五)世祖(上) (六)拜刘秉忠太保参领中书省事制 (七)帝师说羯磨仪轨序 (八)刘太保神道碑 (九)谥刘太保文贞制 (十)帝师发思八行状 (十一)圣旨僧道辨析 (十二)焚诸路道藏经碑 (十三)辨伪录随函序 (十四)辨伪录一十四章(一之八)

  第二十二卷

  (一)世祖(下)(二)辨伪录(九之十四)(三)诏禁道藏经品目(四)焚道藏经下火文(五)僧道持论名衔(六)江南禅教登对录(七)径山云峰妙高禅师(八)世祖弘教玉音百段

  (九)成宗(十)五台真觉文才国师(十一)胆巴金刚上师

  (十二)武宗(十三)敕撰临济正宗记(十四)乞台萨里碑(十五)上都华严至温禅师(十六)革僧衙门论

  (十七)仁宗(十八)三藏沙啰巴译师(十九)秦州普觉英辨论师(二十)敕建瑞像殿记(二十一)加封普庵宣命(二十二)京都崇恩谦讲师(二十三)京城普庆法闻律师(二十四)三藏达益巴国师(二十五)京师宝集妙文讲师

  (二十六)英宗(二十七)诏各路建帝师殿碑(二十八)五台普宁了性讲师(二十九)玉山普安宝严讲师(三十)天目中峰明本国师(三十一)大都妙善尼舍蓝蓝(三十二)临坛大德惠汶律师

  今上皇帝万万岁

  佛祖历代通载目录(终)

  佛祖历代通载卷第一

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  (一) 七佛偈

  毗婆尸佛(过去庄严劫第九百九十八尊)偈曰。身从无相中受生。犹如幻出诸形像。幻人心识本来无。罪福皆空无所住。长阿含经云。人寿八万岁时此佛出世。种刹利。姓拘利若。父槃头母槃头婆提。居槃头婆提城。坐婆罗树下说法。三会度人三十四万八千人。神足二。一名骞茶。二名提舍。侍者无忧。子方膺。

  尸弃佛(庄严劫第九百九十九尊)偈曰。起诸善法本是幻。造诸恶业亦是幻。身如聚沫心如风。幻出无根无实性。长阿含经云。人寿七万岁时此佛出世。种刹利。姓拘利若。父明相。母光曜。居光相城。坐分陀利树下说法。三会度人二十五万。神足二。一名阿毗浮。二名婆婆。侍者忍行。子无量。

  毗舍浮佛(庄严劫第一千尊)偈曰。假借四大以为身。心本无生因境有。前境若无心亦无。罪福如幻起亦灭。长阿含经云。人寿六万岁时此佛出世。种刹利。姓拘利若。父善灯。母称戒。居无喻城。坐博洛叉树下说法。二会度人一十三万。神足二。一名扶游。二名郁多摩。侍者寂灭。子妙觉。

  拘留孙佛(见在贤劫第一尊)偈曰。见身无实是佛身。了心如幻是佛幻。了得身心本性空。斯人与佛何殊别。长阿含经云。人寿四万岁时此佛出世。种婆罗门。姓迦叶。父礼德。母善枝。居安和城。坐尸利沙树下说法。一会度人四万。神足二。一萨尼。二毗楼。侍者善觉。子上胜。

  拘那含牟尼佛(贤劫第二尊)偈曰。佛不见佛知是佛。若实有知别无佛。智者能知罪性空。坦然不怖于生死。长阿含经云。人寿三万岁时此佛出世。种婆罗门。姓迦叶。父大德。母善胜。居清净城。坐优昙婆罗树下说法。一会度人三万。神足二。一舒槃那。二郁多楼。侍者安和。子导师。

  迦叶佛(贤劫第三尊)偈曰。一切众生性清净。从本无生无可灭。即此身心是幻生。幻化之中无罪福。长阿含经云。人寿二万岁时此佛出世。种婆罗门。姓迦叶。父梵德。母财主。居波罗奈城。坐尼拘类树下说法。一会度人二万。神足二。一提舍。二婆罗婆。侍者善友。子进军。

  释迦牟尼佛(贤劫第四尊)偈曰。法本法无法。无法法亦法。今付无法时。法法何曾法。姓刹利。父净饭天。母大清净。居舍卫城。坐菩提树下说法。一会弟子一千二百五十人。度人无数。神足二。一舍利弗二目犍连。侍者阿难。子罗睺罗。

  古佛应世绵历无穷。不可以周知悉数也。世尊有云。我以如来知见力故。观彼久远犹若今日。故按佛名经。纪过现二劫千如来。暨于释迦但标七佛。阿含经云。七佛精进力。放光灭暗冥。各各坐诸树。于中成正觉。佛祖偈翻译。乃高僧云启一同天竺那连耶舍三藏。于龟兹国译出。本末载于梁大同六年。

  大元帝师发合思巴说

  彰所知论 宣授江淮福建等处释教总统法性三藏弘教佛智大师沙罗巴译。

  (二) 器世界品

  器世界所成之体。即四大种种具生。故地坚水湿火暖风动。是等大种最极微细者曰极微尘。亦名邻虚尘。不能析释。彼七邻虚为一极微。彼七极微为一微尘。彼七微尘为一透金尘。彼七透金尘为一透水尘。彼七透水尘为一兔毛尘。彼七兔毛尘为一羊毛尘。彼七羊毛尘为一牛毛尘。彼七牛毛尘为一游隙尘。彼七游隙尘为一虮量。彼七虮量为一虱量。彼七虱量为一麦量。彼七麦量为一指节。三节为一指。二十四指横布为一肘四肘为一弓。五百弓量成一俱卢舍。八俱卢舍成一由旬。此是度量世界身相。成世界因由。一切有情共业所感。云何成耶。从空界中十方风起互相冲激。坚密不动为妙风轮。其色青白极大坚实。深十六洛叉由旬。广量无数。由暖生云名曰金藏。降注大雨依风而住。谓之底海。深十一洛叉二万由旬。广十二洛叉三千四百半由旬。其水搏激上结成金。如熟乳停上凝成膜。即金地轮。故水轮减唯厚八洛叉。余转成金。厚三洛叉二万由旬。金轮广量与水轮等。周围即成三倍。合三十六洛叉一万三百五十由旬。其前风轮娑婆界底。地水二轮四洲果底。于地轮上复澍大雨即成大海。被风钻击精妙品聚成妙高山。中品聚集成七金山。下品聚集成轮围山。杂品聚集成四洲等。其妙高体。东银南琉璃西玻璃珂北金所成。余七唯金。四洲地等杂品所成。彼轮围山唯铁所成。其妙高量入水八万緰缮那。比于余山皆悉高妙。故曰妙高。然后次第七金山者。一逾乾陀罗。高四万由旬。二伊沙陀罗。高二万由旬。三佉得罗柯。高一万由旬。四修腾娑罗。高五千由旬。五阿输割那。高二千五百由旬。六毗泥怛迦那。高千二百五十由旬。七尼民陀罗。高六百二十五由旬(藏论疏云。一持双山。二持轴山。三檐木山。四善见山。五马耳山。六象鼻山。七鱼嘴山)四大洲外有轮围山。高二百一十二由旬半。彼等广量各各自与出水量同。七金山间诸龙王等游戏之处名曰戏海。八山间七海近妙高者。一逾乾陀罗海。广八万由旬。二伊沙陀罗海。广四万由旬。三佉得罗柯海。广二万由旬。四修腾娑罗海。广一万由旬。五阿输割那海。广五千由旬。六毗泥怛迦那海。广二千五百由旬。七尼民陀罗海。广一千二百五十由旬。盈八功德水。八山七海其相咸方。外海味咸。尼民陀罗至轮围山。二山相去三洛叉二万二千由旬。其外海水虽无有分。由妙高色。东海色白。南海色青。西海色红。北海色黄。现是等色。故称四海。是彼周边三十六洛叉七百五十由旬。外轮围山。周围三十六洛叉二千六百二十五由旬。其外海南赡部洲者。状如车厢。狭向铁围三由旬半。余三边者。各二千由旬。周围六千三由旬半。有二中洲。东遮摩罗(此云猫牛)西婆罗摩罗(此云胜猫牛)赡部中央摩竭陀国。三世诸佛所生之处。次此向北度九黑山有大雪山。名具吉祥。其山北边有香醉山。是二山间有大龙王。名曰无热。所居之池曰阿耨达(此云无热)其状四方面各五十由旬。周围二百由旬。池内遍满八功德水。从此池内出四大河。东殑伽河。从象口中流出银沙。共五百河流归东海。南辛渡河。从牛口中流出琉璃沙。共五百河流归南海。西缚刍河。从马口中流出玻璃珂沙。共五百河流归西海。北悉怛河。从师子口中流出金沙。共五百河流归北海。是彼四河从无热池右绕七匝随方流转。是香山北度二十由旬。彼处有岩名难陀。岩面各五十由旬。周围二百由旬。高三由旬半。又有八千小岩。其岩北边二十由旬有娑罗树王。名曰善住。其根入地四十弓量。高八十弓量。七重行树罗列围绕。东边度二十由旬有缓流池。其状圆相。广五十由旬。周围一百五十由旬。又有八千小池。盈八功德水。内有莲华。叶若牛皮。其茎如轴。花若车轮味美如蜜。是处又有帝释临战。所乘象王名曰善住。与八千象寒四月时住金岩所。热四月时住善住所。雨四月时住缓流池。无热池侧有赡部树。果实味美其量如瓮。熟时堕水出赡部音。龙化为鱼吞啖是果。残者遇流成赡部金。由此树名故号赡部。此洲向西有乌佃国。大金刚宫持种所居。金刚乘法从彼而传。南海之中山曰持舡。观音菩萨居止其顶。圣多罗母居止山下。东有五峰。文殊菩萨居止其上。有十六大国千数小国。又有三百六千种人。七百二十种异音。其外海东洲曰胜身。状若半月。对妙高边三百五十由旬。余边六十由旬。周围六千三百五十由旬。其洲二边有二中洲。北提诃(此云身)南毗提诃(此云胜身)是彼三洲越余洲等七多罗树。或曰。洲人相貌端严其身胜故。名曰胜身。其外海北洲曰鸠娄。其状四角。畟方相似。边各二千由旬。周围八千由旬。其洲二边有二中洲。一名鸠娄(此云有胜)二高罗娑(此云有胜边)彼洲人等所有受用出如意树。临没七日。其如意树出不美音。报曰。当七日死。或曰洲人卑舌即割食肉鬼音。故曰鸠娄。是不美音。其外海西洲曰牛货。形如满月。径二千五百由旬。周围七千五百由旬。有二中洲。南舍?(此云具谄)北揾怛罗曼怛哩拏(此云仪上)彼洲人等多宝牛货。故曰牛货。洲海山等向下皆悉八万由旬。近金地故近赡部洲。星割棘洲金洲月洲等者。系赡部洲。余大洲等。小洲亦尔。次上空中四万由旬。纯净无碍。胜坚风轮。从右而旋。日月星宿空居天等依止而住。

  (三) 日轮者。火珠所成。径五十一由旬。周围百五十三由旬。厚六由旬零十八分。上有金缘。其上复有金银琉璃玻璃珂等。秀成四角。日天子等所居宫殿由风运行。一昼一夜绕四大洲。日行向北时日即长。南行时短。行南北间时昼夜停。由游处光即有寒暑。为冬夏际。北行六月南行六月。行至中道。曰日月回。星轮历遍谓之一岁。

  (四) 月轮者。水珠所成。径五十由旬。周围百五十由旬。厚六由旬零十八分。其上复有金银琉璃玻璃珂等。秀成四角。月天子等所居宫殿。是彼日月相去远近自影增减。由增一分即生上半十五分毕。谓之圆满。由减一分即生下半自影覆彼十五分毕。曰不圆满。由增减故名曰宿空。由一昼夜名曰宿地。如是三十名曰一月。

  (五) 诸星宿者。空居天宫诸宝所成。其形皆圆。小一牛吼。中三牛吼。大六牛吼。周围三倍。系四王众。

  (六) 妙高山者。有四层级。始从水际向上相去十千由旬。即初层级。从妙高山傍出十六千由旬。向上相去一万由旬。即二层级。傍出八千由旬。向上相去一万由旬。即三层级。傍出四千由旬。向上相去一万由旬。即四层级。傍出二千由旬。彼妙高山。其顶四角。各秀一峰。高四由旬半。广百二十五由旬。周围五百由旬。有药叉神于中止住。是山顶上三十三天。中央城曰善见。纯金所成。高一由旬半。面各二千五百由旬。周万由旬。其城体金。俱用百一杂宝严饰。其地柔软如兜罗绵。是城四面有一万六千宝柱宝桴宝椽宝檐。四面四门又有千数?一小门。四大衢道有诸小衢。其四门侧。五百天子皆服坚铠守护是门。城中有帝释殿曰最胜处。亦曰殊胜殿。其状四方。高四百由旬半。面各二百五十由旬。周千由旬。百一却敌。一一却敌各有七楼。一一宝楼各七小楼。一一小楼各七池沼。一一池沼各七莲华。一一华上各有七数童男童女。奏种种乐。歌舞欢娱。善见城东有诸所乘。曰众车苑。高千由旬。南临战处曰粗恶苑。西诸行处曰相杂苑。北游戏处名欢喜苑。纵广同前。其苑等外度二十由旬有善地。曰众车粗恶相杂欢喜。量同四苑。善见东北有如意树。名波利阇多。亦名圆生树。根深五十由旬。高百由旬。枝条傍布五十由旬。能施欲乐。下有盘石。曰阿㗚摩丽歌。色白如㲲面各五十由旬。周二百由旬。善见西南诸天集处。名善法堂。周九百由旬。其状圆相。是堂中央有帝释座。纯金所成。其座周围有三十二辅臣之座。咸皆布列。三十三天。向上度八万由旬。于空界中依风而住。诸宝所成○离诤天宫。量若妙高山顶二倍。上度一亿六万由旬。于空界中依风而住。诸宝所成○兜率天宫量如离诤。纵广二倍。上度三洛叉二万由旬。于空界中依风而住。诸宝所成○化乐天宫量如兜率。纵广二倍。上度六洛叉四万由旬。于空界中依风而住。诸宝所成○他化自在天宫量同化乐。纵广二倍。此即欲界。上有初禅。如是四洲七山妙高轮围欲界六天并初禅等。谓四洲界一数至千为小千界。一小铁围山围绕。此小千界一数至千为中千界。一中铁围山围绕。此中千界一数至千为三千大千世界。一大铁围山围绕。如是有百亿数四洲界等皆悉行布。铁围山等诸洲山间黑暗之处。无有昼夜举手无见○初禅天量等四洲界○二禅天量等小千界○三禅天量等中千界。○四禅天量等三千大千世界。其相去量皆倍倍增。谓曰色界○无色界者。无别处所。若有生者何处命终。即彼生处住无色定。故曰无色。

  (七) 情世界品

  谓情世界总有六种。一者地狱。二者饿鬼。三者傍生。四者人。五者非天。六者天。此等六种名义云何。谓斫坏肢体。故曰地狱。饥渴所逼。故曰饿鬼。傍覆而行。故曰傍生。意多分别。故名曰人。摩㝹沙义。身及受用虽与天同。微分鄙劣。或由无酒。故曰非天。阿修罗义。从梵身生游戏娱乐。或应供养。故谓曰天。是提婆义。一地狱者。赡部洲下过二万由旬。旷廓四方二万由旬。纯铁所成。火焰洞然有八热狱。一曰更活。二曰黑绳。三曰众合。四曰号叫。五曰大号叫。六曰炎热。七曰大炎热。八曰无间○更活狱者。生彼有情先业所感。执众器仗互起冤憎。递相斫害段段堕落。闷绝暂死。空音更活。彼等有情即便更活复相斫害。彼寿量者。四天王天一生之期为一昼夜。如是算数寿五百岁。受是苦楚○黑绳狱者。其狱卒等。于有情身从顶至足。拼界黑绳以火锯钺解斫肢体。由先业力解下上生。彼寿量者。忉利天一生之期为一昼夜。如算数寿一千岁。受是苦楚○众合狱者。生彼有情。以铁槌打或二铁山。犹如羊头二山相合研磕摧坏。二山开时复自然火。又被摧坏。彼寿量者。离诤天一生之期为一昼夜。如是算数寿二千岁。受是苦楚○号叫狱者。生彼有情。怖热铁池入稠林中。火焰炽盛永岁焚烧。由先业力其舌纵广千由旬量。有一大牛。铁角铁甲架铁犁铧。火焰炽盛耕犁其舌。彼寿量者。兜率天一生之期为一昼夜。如是算数寿四千岁。受是苦楚○大号叫狱者。亦与前同。其苦倍增。彼寿量者。化乐天一生之期为一昼夜。如是算数寿八千岁。受是苦楚○炎热狱者。三重铁城火焰洞彻内受苦楚。彼寿量者。他化自在天一生之期为一昼夜。如是寿数万六千岁。受是苦楚○极炎热狱者。亦同其前。其苦倍增。彼寿量者。等半中劫。受是苦楚○无间狱者。于铁室内身一聚焰受极苦楚。彼寿量者。等一中劫○十六增狱者。八热狱傍面各四所。一煻煨增。深皆没膝。有情游彼。才下足时。皮肉与血俱焦烂坠。余剩其骨。举足还生。平复如本。二户粪增。不净淤泥没有情腰。于中多有攘矩吒虫觜利如针钻皮透骨咂食其髓。三峰刃增。复有三种。一刀刃路。谓于此中仰布刀刃以为大道。有情游彼。才下足时。皮肉与血俱断碎坠。举足还生。平复如本。二剑叶林。谓此林树纯以铦利剑刀为叶。有情游彼。风吹叶坠斩刺肢体骨肉零落。有乌驳狗䶥掣食之。三铁刺林。名铦摩利。谓此林树有利铁刺。长十六指。有情被逼上下树时。其刺铦利上下劖刺。是等有情血肉皮等挂染刺上。唯剩觔骨。有铁觜乌。探啄有情眼睛脑髓。争竞而食。刀刃路等三种虽殊而铁仗同。故一增摄四。烈河增。名曰无渡。遍满极热烈灰汁水。有情入中。或浮或没。或逆或顺。或横或竖。被蒸被煮骨肉糜烂。如大镬中满盛灰汁置稻米等。猛火下然米等于中上下回转举体糜烂。有情亦然。设欲逃避。于两岸上有诸狱卒。手执刀枪御捍令回。无由得出。此河如堑。前三似苑。彼等名曰近边地狱○八寒狱者。一曰水疱。二曰疱裂。三阿吒吒。四阿波波。五呕喉喉。六裂如郁钵罗华(此云青莲华)七裂如莲华。八裂如大莲华○水疱狱者。生寒冰间极甚严寒。随身生疱曰水疱狱。彼寿量者。摩伽陀国所有大斛八十斛麻。百年除一若芝麻尽。彼寿亦尔○疱裂狱者。由极严寒。其疱而裂黄水漏流。彼寿量者。倍前二十○阿吒吒狱者。由大严寒咬齿忍耐。彼寿量者。倍前二十○阿波波狱者。忍寒音声。彼寿量者。倍前二十○呕喉喉者。由寒号泣出是苦声。彼寿量者。倍前二十○裂如郁钵罗华狱者。严寒身裂如郁钵罗华叶。彼寿量者。倍前二十○裂如莲华狱者。严寒身裂如莲华开。彼寿量者。倍前二十○裂如大莲华狱者。身裂越前。如大莲华开敷多叶。彼寿量者。倍前二十。孤独狱者。在赡部提旷野山间。一昼一夜受苦受乐。相杂受故八热地狱八寒地狱近边孤独。如是名为十八地狱。

  二饿鬼者。王舍城下过五百由旬有饿鬼城。名曰黄白。亦名惨淡。彼鬼王曰阎罗法王。共三十六眷属等居。其类有四。一者外障。二者内障。三者饮食障。四者障饮食。一外障者。饮食音声亦不得闻。二内障者。获微饮食口若针窍不能得入。设能入口咽如马尾无能得过。设若过咽腹若山廓不能饱满。虽满腹中胫如草茎无能举动。受此大苦。三饮食障者。见饮食时。无量狱卒执诸器仗守御无获。四障饮食者。食饮食时。由业所感铁丸铜汁泻置口中从下流出。如是四种皆是饿鬼。彼寿量者。人间一月为一昼夜。如是算数寿五百岁。即当人间一万五千岁。或居人间寒林等处。食血肉等皆饿鬼类。

  三傍生者。多居河海。亦如酒糟混漫而住。以大食小以小食大。互相惊怖。由海波涛住所不定。或处人天。彼寿量者。长如龙王寿半中劫。短如蚋等寿一刹那。身量无定。

  四人者。住四大洲八中洲等及诸小洲。彼寿量者。如赡部洲人。初成劫时其寿无量。次后渐减。今六十岁。次后渐减至十岁间。次复渐增无有定量。北鸠娄人定寿千岁。东胜身人寿五百岁。西牛货人寿二百五十岁。除北鸠娄余有夭横。彼等受用。北鸠娄中食自然稻。衣服璎珞出如意树。余三洲者。食谷肉等资宝受用。彼等身量赡部提人身量(四肘。东胜身人身量八肘。西牛货人身十)六肘。北鸠娄人身三十二肘。人等面相亦如洲状。其小洲人亦如大洲。身各减半。故如是说。

  五非天者。妙高水际下。过一万一千由旬。山旷廓闲光明城内。阿修罗王曰罗睺罗(此云摄脑)众眷属居。又过一万一千由旬。星鬘城内阿修罗王。名曰项鬘。众眷属居。又过一万一千由旬。坚牢城内阿修罗王。名曰妙镇。又曰大力。众眷属居。又过一万一千由旬。甚深城内阿修罗王。名曰毗摩质多罗(此云丝种种亦云纹身)众眷属居。常共帝释比对斗诤。城曰具金。殿名奏乐。如意树王名即怛钵㗚。聚集之处。名曰贤财。石名善贤。苑名普喜。妙喜最喜甚喜善地。亦名普喜妙喜最喜甚喜。临战所乘象名无能敌。游戏所乘象名垒雪。马曰峭脖。是等非天共三十三天。诤须陀味及修罗女为战诤故从山廓出。身服金银琉璃玻璃珂等坚固铠甲。手执剑槊标枪弓箭。领四部军。彼阿修罗王罗睺罗。项鬘。妙镇。毗摩质多罗等。或前三来。或四皆来。是时帝释五守护众。一住戏海。愿乐白法龙王等众与非天军斗战今回。龙若不胜去坚守所。共二守护复与修罗斗战。又若不胜去持鬘所。共三守护复与斗战。又若不胜去恒憍所。共四守护复与斗战。又若不胜去四王所。共五守护复与斗战。四大天王率四军众。服宝坚铠执诸戈杖斗战。多分四天王胜。若不能却去忉利天。前白帝释曰。我等守护不能回彼修罗王应却敌。如是白已。天主帝释乘善住象。告三十三天众等曰。汝等应知。今修罗军至妙高顶。当服坚铠取所乘车与修罗战。说是语已。彼诸天子各服宝铠执持戈仗。去众车苑取所乘车。入粗恶苑身心转恶。出善见城共修罗战。若修罗胜侵至城内。若天得胜逐修罗军至第一海。斗战之时。天与非天断其颈腰。彼等即死。手足若断。复生如本。若薄伽梵辟支佛转轮圣王住世间时。诸阿修罗不起诤心。设若相持诸天必胜。世间善增天众亦胜。世不善增阿修罗胜。是故诸天护持善事。

  六天者。欲界六天。色界十七。无色界四。欲界六天者。苏迷卢山第一层级坚首众居。第二层级持鬘众居。第三层级恒憍众居。持双山上北方有城。名阿那迦缚帝。多闻天王药叉众居。如是东方城名贤上。有大天王。名曰持国。乾闼众居。西方有城。名曰众色。有大天王。名曰广目。龙神众居。南方有城。名曰增长。有大天王。名曰增长。焰鬘众居。余四层级七金山等日月星宿铁围轮山赡部洲山多罗树所四王部众亦共止住。咸属四王。是谓一部。彼寿量者。人五十岁为一昼夜。如是寿量经五百年。若其身量一俱卢舍四分之一。三十三天妙高顶上天主帝释住最胜处共非天女。名曰妙安。同众天女受诸欲乐无有厌足。复有临战所乘象王。名曰善住。游戏苑中所乘象王。名曰蔼罗筏拏(此云持地子)二象周围各七由旬。各以八千小象众居。又有马王。名迅疾风。与八千马居。天主辅臣数三十二。是故名曰三十三天。诸天子等耽五欲乐。若放逸时。有大天鼓。鼓声出音警诸天曰。诸行无常。有漏皆苦。诸法无我。寂灭为乐。与修罗军斗战之时。出除苦音警曰。天愿得胜。愿修罗败。宫殿城池树集石等。如前所辨。彼天寿量。人间百岁为一昼夜。如是算数寿一十岁。其天身量半逾阇那○焰摩天者。三十三天共非天诤。此离诤故名离诤天。彼天寿量。人二百岁为一昼夜。如是算数寿二千岁。其天身量二逾阇那○兜率陀天者。有慈氏尊。绍世出世。法王之位受大法乐。谓曰兜率。是俱乐义。人间四百年。彼天一昼夜。寿四千岁。身量四逾阇那○化乐天者。自化受用。谓之化乐。人间八百年。彼天一昼夜。寿八千岁。身量八逾阇那○他化自在天者。受用他化。谓之他化自在。彼天中王威德自在。即是魔主人间千六百年。彼天一昼夜。寿一万六千岁。身十六逾阇那。下从无间至他化自在天。谓之欲界。耽着欲乐所食段食。故如是说○色界一十七天者。四静虑摄○初禅三天者。谓梵众。梵辅。大梵。彼天寿量。梵众半劫。梵辅一劫。大梵一劫半。彼天身量次第。半由旬。一由旬。一由旬半○二禅三天者。谓少光。无量光。极光。彼天寿量。少光二劫(以上四天。四十中劫为一大劫。已下诸天。八十中劫为一大劫)无量光四劫。极光八劫。彼天身量少光二由旬无量光四由旬。极光八由旬○三禅三天者。谓少善。无量善。广善。彼天寿量。少善一十六劫。无量善三十二劫。广善六十四劫。彼天身量。少善十六由旬。无量善三十二由旬。广善六十四由旬○四禅八天者。无云。福生。广果。三是凡居。无烦。无热。善现。善见。色究竟。五是圣居。名曰五净居。彼天寿量。无云百二十五劫。福生二百五十劫。广果五百劫。无烦一千劫。无热二千劫。善现四千劫。善见八千劫。色究竟一万六千劫。彼天身量。无云一百二十五由旬。福生二百五十由旬。广果五百由旬。无烦一千由旬。无热二千由旬。善现四千由旬。善见八千由旬。色究竟一万六千由旬。始从梵众至色究竟。皆名色界。出离欲乐非离色故。故名色界○无色界四天者。无有身色亦无处所。从定分四。谓空无边处。识无边处。无所有处。非想非非想处彼天寿量。空无边处二万大劫。识无边处四万大劫。无所有处六万大劫。非想非非想处八万大劫。彼等四处。谓无色界。非离定色出离粗色。故名无色。彼等寿量。谓岁劫时。其量云何。时最少者。名为刹那。百二十刹那为一怛刹那。六十怛刹那为一罗婆。三十罗婆为一牟休多(此云须臾)三十牟休多为一昼夜。三十昼夜即为一月。十二个月即为一年。劫有六种。一中劫(或名减劫)二成劫。三住劫。四坏劫。五空劫。六大劫。一中劫者。或赡部人从无量岁渐渐减至八万岁时。即成劫摄。从八万岁减至十岁。谓中劫初。复增八万岁减至十岁。为一辘轳。如是增减十八数者。为十八中劫然后十岁至八万岁中劫。后际前后中间十八辘轳。为二十中劫。二成劫者。始从风轮至无间狱。生一有情器世界成。经一中劫如前已说。

  (八) 情世界者。此三千界火坏后成。从极光天天人命终。生大梵处孤生疲倦呜呼。若有同分生此界者。有何不可。发如是心。虽非念力极光天人有命终者。即生彼处。先生之心而作是念。由我贪生。故世咸称人祖大梵。如次梵辅梵众他化自在乃至四王。次第而生北鸠娄洲西牛货洲东胜身洲南赡部洲。次第而生。时赡部洲人寿无量岁。饮食喜乐有色意成。身带光明腾空自在。如色界天有如是类。地味渐生其味甘美。色白如蜜其香馥郁。时有一人禀性耽味。嗅香起爱取尝便食。亦告余人随学取食。食段食故身光隐没。由众业惑日月便出照曜四洲。次地味隐复生地饼。其味甘美色红如蜜。竞耽食之。地饼复隐。次林藤生竞耽食。故林藤。复隐有非耕种自然稻生。众共取食。此食粗故。即余滓秽根道俱出。尔时诸人随食早晚取香稻食。后时有人禀性懒惰。长取香稻储宿为食。余亦随学香稻隐没。随共分田虑防远尽。于己分田生吝护心。于他分田有怀侵夺。故生争竞。是时众人议一有德封分田主。众所许故。谓曰大三末多王(此云众所许)王多有子。相续绍王。嫡子号曰光妙。彼子善帝。彼子最善。彼子静斋。是等谓曰成劫五王。静斋王子。名曰顶生。彼子妙帝。彼子近妙。彼子具妙。彼子严妙。是等谓曰五转轮王。严妙王子。名曰舍帝。彼子舍双。彼子舍固尼彼子固室。彼子善见。彼子大善见。彼子除碍。彼子金色。彼子具分。彼子离恶。彼子妙高。彼子定行。彼子甚吼音。彼子大甚吼音。彼子能安。彼子方主彼子贤尘。彼子能广。彼子大天。此王种族五千相承。其最后子七千相承。曰阿思摩迦王。最后子八千相承。曰鸠娄王。其最后子。曰具头王。有九千王。其最后子。名曰龙音。有一万王。其最后子。怛弥留怛一万五千。其最后子名瞿昙氏。即甘蔗裔。彼子相承。甘蔗王种一千一百数。其最后子甘蔗种王。名曰增长。即懿师摩王。王有四子。一名面光。二名象食。三名调伏象。四名严镯。称释迦氏。严镯有子。名严镯足。彼子致所。彼子牛居。彼子狮子颊王有四子。一名净饭。二名白饭。三名斛饭。四名甘露饭。净饭王子。即婆伽梵。次名难陀。白饭王二子。一名帝沙。即调达。二名难提迦。斛饭王二子。一名阿尼娄驮。二名跋提梨迦。甘露饭王二子。一名阿难。二名提婆达多。婆伽梵子名罗睺罗。释迦种族至斯已矣○又别种王依法兴教。如来灭度后二百年。中印土国王曰无忧。于赡部提王。即多分中结集时。而为施主兴隆佛教。后三百年。赡部西北方有王。名曰割居尸割。三结集时。而为施主广兴佛教。梵天竺国。迦湿弥罗国。勒国。龟兹国。捏巴辣国。震旦国。大理国。西夏国等。诸法王众。各于本国兴隆佛法。如来灭度后千余年。西番国中初有王。曰呀乞㗚赞普。二十六代有王。名曰夹陀朵㗚思颜赞。是时佛教始至。后第五代有王。名曰双赞思甘普。时斑弥达名阿达陀。译主名曰端美三波罗。翻译教法。修建夹萨等处精舍。流传教法。后第五代有王。名曰乞㗚双提赞。是王名请善海大师莲华生上师迦摩罗什罗班弥达众成就人等毗卢遮那罗佉怛及康龙尊护等七人。翻译教法。余斑弥达。共诸译主广翻教法。三种禁戒兴流在国后第三代有王。名曰乞㗚俫巴胆。是王界广。时有积那弥多并湿连怛罗菩提斑弥达等。共思割干吉祥积酌罗龙幢等。已翻校勘。未翻而翻。广兴教法。西番王种至今有在。斑弥达等翻译。译主善知识众广多有故。教法由兴。

  北蒙古国。先福果熟生王。名曰成吉思(二合)始成吉思从北方王。多音国如铁轮王。彼子名曰斡果戴。时称可罕。绍帝王位疆界益前。有子名曰古伟。绍帝王位。成吉思皇帝次子名孕罗。孕罗长子名曰蒙哥。亦绍王位。王弟名曰忽必烈。绍帝王位。降诸国土。疆界丰广。归佛教法。依法化民。佛教倍前光明炽盛。帝有三子。长曰真金。丰足如天法宝庄严。二曰厖各辣三曰纳麻贺。各具本德。系嗣亦尔。兹是始从。释迦王种至今王种。

  始帝王祖三未多王。是时田分互起侵盗。初发偷盗。被王推问言不曾偷。始起妄语。王法诛戮。即有杀害。不善法生。尔时众生造不善法。命终之后。即生傍生。次生饿鬼。渐生地狱。次无间狱生一有情。时成劫终。如是有情行诸不善。寿量渐减受用乏少。阎浮提人寿八万岁。无间地狱生一有情。是二同时。如是情世界成。十九中劫器世界成。即一中劫。如是成劫二十中劫。阎浮提人八万岁时。始为住劫。住劫亦经二十中劫。至十岁时刀兵灾起。唯七昼夜。疾疫灾起七月七日。饥馑灾起七年七月七日。多分死殁。余者相睹。起希有心互相睦恋。远离杀害渐生善故。寿量受用复增益盛。至八万岁增上之时。转轮王出依法化民。下减之时婆伽梵出拔济众生。增减时间独觉出世。令诸有情而作福田。住劫亦经二十中劫始坏劫。初情世界坏。无间狱中无有情生。先生业尽。即生别趣。若有未尽生上地狱。或别世界地狱中生无间狱空。如是向上地狱渐空生饿鬼趣。如是饿鬼傍生趣空。人趣之中除鸠娄人。余共欲天无师法然获初静虑生初禅天。北鸠娄人生欲界天。获初静虑生初禅天。无师法然获二静虑生二禅天。从无间狱至梵世空。如是亦经十九中劫。然后四洲有七日出。初不降雨药草丛林悉皆枯槁。二日出时沟池干涸。三日出时殑伽河等悉皆枯竭。四日出时无热池竭。五日出时海水没膝。六日出时大海亦竭。七日出时彼器世界一聚火耸。从无间狱直至梵世以火烧坏。经一中劫坏劫总经二十中劫。空劫亦尔。如是成住坏空即八十劫。总此八十名一大劫。为梵众等寿量之数。

  (十) 器世界坏有其三种。火水风坏者。亦如前说。如是七次后。世界复成。又被水坏至二禅天。从极光天即生大云降注大雨。其器世界如水化盐消镕皆尽。彼水自竭一水灾。次复七火灾度七火灾还有一水。如是水灾满至七。次复七火灾后世界成。被风灾坏至三禅天。其风之力吹散妙高。何况其余。第四禅天虽无外灾。是等有情生与殿生命尽殿隐。如是器情世界。并成坏等咸皆说已。

  念常赞曰。轲书所谓五百年必有王者兴。其间必有名世者。诚哉是言也。迨我。

  皇元。混一区宇。万邦咸宁。敬崇佛乘。礼请。

  法王上师萨思迦大斑弥达发思巴惠幢吉祥贤。为帝师。广兴好事。诏制。

  大元国字。师独运摹画作成。称旨即颁行。朝省郡县遵用。迄为一代典章。今兹彰所知论。乃。

  裕宗潜邸时。请师所说也。大旨约标器情道果无为五法。总摄一切所知。故名此论。大概依念处日藏起世等经论对。

  法相应之义。而错综其宏纲尔。苟非具大智辩穷法实相。其孰能明空劫邻虚之细大。昭然如庵摩勒果观于掌中哉。钦惟。

  世祖圣德神功文武皇帝。道契佛心德超义圣。弘护大教锡以。

  皇天之下一人之上。西天佛子大元帝师玺篆。宠优其尊师重道。岂特为万世。

  帝王之彝典耶。抑亦灿昏涂迷惑之真灯也。姑录器情二章。著于编首。余道果无为三章。具于本论云。

  佛祖历代通载卷第一

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第二

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  太古诸君(太至极也。古兆今也。君主也。白虎通。群也。群下之归心也)

  (一) 盘古首君治一万八千岁(列子曰。运即盘古也。北山曰。天曰高一丈。地曰厚一丈。盘古曰。长一丈。头极东。足极西。左手极南。右手极北。开目为曙。闭目为夜。呼为暑。吸为寒。吹气成风云。吐气成雷霆。四时行焉。万物生焉。八纮九围之大。其孰与多。三皇五纪之。尊其孰与先。古今记盘古死后形分物象也)。

  (二) 天皇氏。一身十三头。韦昭曰。兄弟十三人。分地治化。各一万八千岁。古今记曰。天皇一身。上十三首也。

  (三) 地皇氏。一身十一头。韦昭曰。兄弟十一人。治一万一千年。帝王甲子云。九千年也。有云三皇皆一万八千年。

  (四) 人皇氏。一身九头。韦昭曰兄弟九人。分治九州。帝王甲子云。四千五百年。人皇六十五代。四万五千六百年。

  (五) 五纪

  五龙纪五姓。在位二十七万三千六百年。时人食叶居巢。

  摄提纪七十二姓。在位六十四万九千五百二十年。始分昼夜日时月朔。月为玉兔虾蟆。金乌三足。出扶桑没咸池也。

  合熊纪三姓。在位六万三千年也。

  连迳纪六姓在位六万九千年。韦昭曰。三万二千年。

  叙命纪四姓。在位四万年也。

  (六) 有巢氏。百代不记年。礼曰。昔者先王未有宫室。冬则茔窟。夏则居橹巢。未有火化。食草木之实鸟兽之肉。饮血茹毛也。

  (七) 燧人氏。钻木出火。礼曰。燔黍擘豚。注曰。中古未有釜甑。择米脾肉加于烧石之上食矣。古今记曰。以木德王。治八万年。

  大古以还。四时既序。昼夜长短。分至斯兴。书曰。期三百有六旬有六日。以闰月定四时成岁(天体至圆。周围三百六十五度四分度之一。绕地左旋。常一日一周而过一度。日丽天而少迟。故日行一日亦绕地一周。而在天为不及一度。积三百六十五日九百四十分日之二百三十五而与天会。是一岁日行之数也。月丽天而尤迟。一日常不及天十三度十九分度之七。积二十九日九百四十分日之四百九十九而与日会。十二会得全日三百四十八余分之积。又五千九百八十八如日法。九百四十而一得六不尽三百四十八。通计得日三百五十四九百四十分日之三百四十八。是一岁月行之数也。岁有十二月。月有三十日。三百六十者。一藏之常数也。故日与天会而多五日九百四十分日之二百三十五者。为气盈月与日会而少五日九百四十分日之五百九十二者为朔虚而闰生焉。故一岁闰率则十日九百四十分日之八百二十七。三岁一闰则三十二日九百四十分日之六百单一。五岁再闰则五十四日九百四十分日之三百七十五。十有九岁七闰则气朔分齐。是为一章也。故三年不置闰。则春之一月入于夏。而时渐不定矣。子之一月入于丑。而岁渐不成矣。积之之久至于三失闰。则春皆入夏。而时全不定矣。十二次失闰。子皆入丑。岁全不成矣)。

  三皇(中庸子曰。皇大也。内外无为。以道化民者也)。

  雷氏曰(上古洪荒起自三皇羲农轩辕)。

  (八) 太昊伏羲氏(风姓。号太昊。母曰华胥。履巨人迹感而生焉。蛇身人首。养牺牲以庖厨。亦曰。庖牺。安国首之王。谥静民。则法曰皇)木德都陈留(令兖州小黄县界)在位。一百一十年。始画八卦。造书契(以代结绳之制由是文籍生焉)制嫁娶(女适曰嫁男婚曰娶)设网罟以取鱼(网罗也。尔雅鸟罟谓之罗。鱼罟谓之筌。兔罟谓之置)造二十五弦瑟(长七尺二寸广一尺八寸)女娲氏(姓风。伏羲之妹。能变化万物也)造笙簧(长四尺。列管匏中施簧。大者十九簧小者十三簧。竿三十七。簧长四尺二寸。用竹为之。形状参差如鸟羽)炼五色石以补天缺。断鳌足以立四极。在位一百四十年。

  共工氏 大庭氏 柏皇氏 中央氏 陆栗氏 骊连氏 [亦-〦+(并-(前-刖))]胥氏 尊卢氏 混沌氏 昊英氏 葛天氏 朱襄氏 阴康氏 无怀氏。凡一十五代。通一万七千七百八十七年。经史不载。

  (九) 社神(昔共工氏有子。曰后土。能平九州。祀为社神五土之主。五土者。谓山川陂泽丘陵坟衍原隰也。土远广润封土祀之以报土功。不知何代配乎后土。更俟知者)。

  (十) 炎帝神农氏(姜姓。号炎帝母女登氏。感神龙而生。人身牛首。长于姜水。因以为姓也)王火德。都陈迁曲沃。在位一百四十年。葬长沙。易曰。神农氏。斫木为耜。柔木为耒。始教天下播种五谷。又尝百味为本草治医药演八卦为六十四。作市井货易。作祭?制五弦琴。象五行也。自下帝承帝临魁帝明帝直帝来帝哀帝揄罔。凡八代。五百四十年。

  (十一 丁亥) 黄帝有熊氏(姓公孙名轩辕。少典次子。生而神灵。弱而能言。幼而循齐。长而敦敏。成而聪明。榆冈末年诸侯相伐。帝作弧矢征之。天下咸伏。伏虎貔貙貅之于?坂。有蚩尤兄弟八十一人铜头铁额。啖沙吞石。是山海之精。以乱天下。战于涿鹿之野。受斩于中帝。铸鼎成飞仙。攀龙去也。寿二百一十岁。葬衣冠于桥山)在位一百年。臣左彻(刻木为相。率诸侯朝十年行政)造合宫制衣服。使鲁班造舟车(舟游也。可以济水。车舍也。可以行居)建屋宇制棺椁以送死。始有葬礼(礼曰。天子七日而殡。七月而葬。诸侯五日而殡。五月而葬。大夫及士庶人。三日而殡。三月而葬。天子坟高三仞。树以松。诸侯半之。树以柏。大夫八尺。树以栗。适士官高四尺。树以槐。庶人无坟。树以杨柳)。作咸池乐。用天老力牧太山稽为相。

  (甲子 一) 风后定甲子(一云大桡 帝即位三十八年。始命大桡作甲子。故以三十八年为第一甲子。逆推元年得丁亥岁也)容成造历隶首算数。问道广成子。苍颉为史。岐伯辨草木。俞附定脉经。伶伦制律吕(以调律吕。管长九寸以竹为之。或损或益。以定五音)置九州(历帝纪云。黄帝有子二十五人。得姓者十二人。姬酉祁已滕箴任荀僖始儇休。分治九州。谓冀青徐豫雍梁楚扬燕。从长至幼。以次封之。后子孙五帝三王。并其苗裔。帝娶大庭氏生二子。长曰玄枵。幼曰昌意)凡十八代。一千五百二十年。

  五帝(中庸子曰。帝者体也。内心无为而迹涉有为。以德教化民也。德象天地曰帝)。

  雷氏曰(少颛喾唐尧虞舜传夏)。

  (十二 甲子 二) 少昊金天氏(姓已。名挚。字青阳母曰女节。有星如虹下流。感意而生。被发跣足无冠冕。黄帝之子寿一百岁)丁卯立。在位八十四年。王金德。都穷桑。又迁曲阜。立坊市。用度作乐置一百二十行。以鸟纪官。凤皇至。凡十代。四百九十年。

  (十三 甲子 三) 颛顼高阳氏(姓姬。名颛顼。黄帝孙。昌意子。有星如虹。女妪感而生。寿九十八崩。葬于顿丘书疏载)辛卯立。在位七十八年。王水德。都帝丘(今濮阳县)作历以孟春为元。造平冠冕(广八寸。长一尺六寸。至周始制旒。前后各十二用藻玉)制三公九。仪二十四司。养材任地。戴时象天。神人不杂。万物有序。生八才子谓之八凯。平九黎之乱。制气以教化。洁诚以祭祀。辨君臣之道。作五茎之乐(合为五行之根基也)凡八代五百二十年。

  (十四 甲子 四) 帝喾高辛氏(姓姬。名岐。黄帝曾孙。玄枵孙。蟜玄子。寿一百五岁崩。葬于宜阳)己酉立。在位七十九年。王木德。都亳(今偃师县)师赤。松子置五行官。以勾芒为木正(少昊之子)祝融为火正(颛顼之子)蓐收为金正(少昊之子)玄冥为水正(亦少昊子)后土为土正(高阳之子)生八才子。谓之八元。造铛镬鞞鼓钟磬埙篪(鼓以皮合木。击乃鸣。钟范金合土。似铃而不圆。高二尺二寸半。厚八分。名悬钟。磬前长三律二尺七寸。后长二律一尺八寸。名黄钟。磬埙烧土为之。大如雁卵。锐上平底而有五孔。白虎通云。形如秤锤有六孔。与周礼少别。篪以竹为之。一尺四寸围三寸。小者尺二。上有六孔也)凡九代。三百五十年(左传曰。苍舒隤敱梼戭大。临厖降庭坚仲容叔达。谓之八凯。伯奋仲堪叔献叔豹季仲伯虎仲熊李狸谓之八元也)。

  (十五 甲子 五) 帝尧陶唐氏(姓伊祁。名放勋。黄帝玄孙。帝喾次子。娠十四月而生。眉分八采。土阶茅室)甲辰立。在位九十八年。王火德。都平阳(今晋州)又迁安邑。通舜为政。一百一十八年(始丙寅终癸卯舜丧服二年至乙巳。寿一百八十崩。葬谷林。谥翼善传圣曰尧)号年曰载。师具英先生。命羲和历象日月星辰。敬授民时。天降牝羊(名触邪。死埋殿右。生蓂荚草。高八尺。月朔生一叶。至望全十五叶。望后凋一叶。至晦凋尽。有羔名獬豸。死葬殿左。生朱草长一丈。名指佞草)立衡室作围棋(三百六十路象三十六旬。教丹朱矣)作大乐章。嘉禾茂凤皇来。有贤人三十二人(未详名姓)立敢谏鼓洪水九年(命鲧及禹治之)十日并现(命羿射之。九禽毙于地。儒说东南有羲和国。有女名羲和。生十日浴于海中。王时十日并现。羿射之九。唯一在焉○张羿善射人也。尝于西王母处得不死药。乃兽芝也。妻盗食之。奔入月宫。名嫦娥。因此月名蟾蜍。即田父矣)。

  (十六 甲子 六) 帝舜有虞氏(姓姚。名重华。字都君。颛顼六代孙。龙颜大口。目有重瞳。年二十以孝闻于天下。三十登庸南巡。崩于苍梧。寿一百五十矣)王土德。都蒲坂(今河中府)尧时摄政二十八年。通治五十年(丙午即真终乙未。葬九疑山。谥仁圣惠明曰舜)咏南风诗。举十六相(谓八凯八元也)去四凶(左传曰。欢凶黄帝子。不才人也。掩义隐德。好行凶暴。谓之浑敦。共工少昊。不才子也。毁信废忠崇饰恶言。谓之穷奇。鲧颛顼。不才子也。傲狠明德。以乱天常。谓之祷机三苗。黄帝之臣缙云氏不才子。贪于饮食。冒于货利。谓之饕餮也)。臣倕造漆器。使皋陶断狱定五刑(书曰。五刑起自舜代。郑注。礼曰。墨谓刲额涅之以墨。非事出入。不以道义者。以此加之。劓即去鼻。革舆服改制度者。以此加之。剕乃刖足。决关渠逾城郭。以此加之。宫谓男去其势女闭幽室。男女不以礼义交通者。以此加之。大辟死罪也。寇盗劫掠者。以此加之)作韶乐造总章(韶有九数十一。堂上乐有六。谓柷如如漆桶。方二尺四寸。深一尺八寸。中有椎柄。以此起乐也。敔如伏虎。背上为二十四锄铻。刻以木长尺许。法三九阳数之穷。戛之以止乐也。琴长三尺六寸。象三百六十日。广六寸。象六合。上窍曰池。下窍曰滨。前广后狭。象尊卑也。上员下方。法天地七弦。炼朱丝为之。长七尺二寸。法七十二候。有说。周文武王。足五弦琴成七弦。大小二弦以合君臣之思矣。风俗通云。琴者乐之统也。君子御之不离于身。非若钟鼓陈于宫庙列于簨?也。以其大小得中而声韵和雅。大不諠哗而流漫。小不湮灭而不闻。足以发人之意气也。瑟如前注。搏拊形如鼓。以韦为之。实之以糠。击之以节。乐球玉也。为磬击之使鸣也○堂下乐有五。箫如凤翼。编竹为之。长一尺五寸。大者二十三管曰凋箫。小者十六管曰雅箫。周礼。有二雅箫。长一尺四寸。二十四管烦箫。二十三管洞箫。长一尺二寸。[(凵@(暴-(日/共)))/(敲-高+壴)]鼓持柄摇之旁耳。自击镛大钟也。笙如前注。管竹为之。而有七孔也)立十二州。葬用瓦棺(少昊之前。天下之号象其德。颛顼以来。天下之号因其名。若高阳高辛。皆所兴之地。刘氏外纪以三皇五帝之号为俗传)。

  三王(中庸子曰。王往也。加以刑防政。谥仁义所往之谓王)谓夏商周三代。

  夏 雷氏曰(禹启三康相宁槐芒泄隆局仅甲皋发桀。主合十七。四百三二)。

  (十七 甲子 七) 夏后氏(姓姒。名文命。字高密黄帝八代孙。鲧之子。号禹王。初舜举禹治水。不贵尺璧而重寸阴。三过其门而不入)王金德。都安邑(今均州迁阳翟)为尧司徒(地官也。郑注。一吏部尚书。亦曰天官。蒙宰太宰。二兵部尚书。夏官。亦名大司马。三户部。地官。亦曰大司徒。四刑部。秋官亦曰大司寇。五礼部。春官。亦曰铨长六工部。冬官。亦曰大司空。禹乃第三部)治水十二年。乘四载(陆行车。水行舡。泥行橇。山行辇)开九州(冀州东河西。西河南。南河北。兖州东南据济。西北距河。青州东北海。西南距岱。徐州东至海。北至岱。南及淮。杨州北距淮。南距淮。荆州北山据荆。南及衡阳。豫州西南据荆。北距河。梁州东距华山。西据黑水。雍州西距黑水。东据龙门。西河通九道。陂九泽。度九山。决九川。尧锡玄圭告厥成功。舜荐之于天下为嗣焉)在位十六年(始甲戌终己酉。东巡至会稽崩。寿一百年。谥受禅。成功曰禹)号年曰岁。建寅为正。作大夏乐。葬用?(烧土为之。时有防风氏。长四十尺)。

  (甲子 八) 启禹之子(母化为石一云生石中)癸未立在位九年(一云十年)郊禘祖宗(禘黄帝 文祖 郊鲧 配天祖 祖颛顼 配文祖 太祖 宗禹 父)启祀立庙祧坛 太祖禹(二昭二穆)五庙。

  (甲子 九) 太康(启之子。畋于洛十旬不返。五子作歌风之。遂失其位)壬辰立。治二十九年。

  仲康(太康之弟)辛酉即位。

  帝相(仲康子。徙都商丘。为有穷后羿所杀而篡其位。治二十八年。羿立。二年为臣寒浞所杀。寒浞杀羿自立。十年复为夏臣靡诛之已上三主。通合四十年)。

  (甲子 十) 少康(相之子。母曰有仍氏。有田一成。有众一旅。灭于獟?。还禹旧邦。是为中兴)。

  癸未立。治四十九年(作箕帚秣酒)宁(少康子)癸卯立。治十七年。

  槐(宁之子)庚申立。在位二十六年。

  芒(槐之子)丙戌立。治十八年。

  (甲子 十一) 泄(芒之子)甲辰立。在位十六年。

  不降(泄之子)庚申即位。治五十九年。

  扃(不降弟)己未立。在位二十一年。

  (甲子 十二) 仅(扃之子)庚辰即位。治二十年。

  孔甲(不降子。好事鬼神。淫乱。夏氏德衰。诸侯叛之)幸丑立。在位三十一年(汤王始生)。

  (甲子 十三) 皋(孔甲之子)壬申立。治十一年。

  发(皋之子)癸未即位。治十年(一云十一)。

  桀(发之子。名履癸。嬖有施氏女曰未喜。淫湎暴虐荒色迷酒。峻宇雕墙民坠涂炭。以谏为妖。杀关龙逢焚黄图)。

  (甲子 十四) (二臣。大废夏道。时有二日闭明晦自分。汤伐之放于南巢而死谥贼仁多杀曰桀)壬寅即位。都安邑。治五十二年。

  凡十七代。通四百三十二年。

  (十八) 殷 雷氏曰(降及殷汤外丙仲壬太甲沃丁太庚小甲雍已太戊仲丁外壬河亶甲祖乙祖辛沃甲祖丁南庚阳甲盘庚小辛小乙武丁祖庚祖甲廪辛庚丁武乙太丁帝乙。帝辛。王三十主。六百二九)。

  (甲子 十五) 汤(姓子氏。其先高辛子契十四世孙。始祖[├/(呙-┌+乂)]为尧司徒官)王水德。都亳(今偃师县即毅熟也)昭明○相土○昌生○曹围○冥○振○微○报丁○报乙○报丙○主壬○主癸(生子履也)王名履(字天乙。以乙日生也。黄帝二十一代孙。其先契。母简狄。吞于玄卵。剖背而生。契以玄鸟因子而生。故姓子氏。有改祝德及禽兽矣)夏桀不道。举伊尹为相。伐之承祚。东征西怨南征北怨。大旱七年。自责六过烧身。乃雨。乙未立。大治十三年。寿一百岁建丑为正。号年曰祀(谥曰除虐去残)代有彭祖(姓篯。名铿。贤大夫也。寿八百岁。好述古事。谥曰彭祖)。

  外丙(汤次子)治三年○仲壬(外丙弟)治四年。

  太甲(汤长孙。太丁子。立而不明。伊尹放诸桐宫。三年悔过。复迎归亳。政其位)治三十三年。立庙六([├/(呙-┌+乂)]二昭汤二穆)太甲郊祀祖宗(禘帝喾文祖 郊冥配天祖 祖契 配文祖太祖 宗汤 父)太甲祀。

  (甲子 十六) 沃丁(太甲子)辛巳立。治三十年(八年伊尹卒)。

  太庚(沃丁弟)治三十年(一云二十五年。古今纪三十五年)。

  (甲子 十七) 小甲(太庚子)治十七年(七年二月甲申朔起历)。

  雍己(小甲之弟殷道废)治十二年。

  (甲子 十八) 太戊(雍己弟。初立不道。诸侯叛之。以伊尹子陟为相。殷道复兴)治七十五年。

  仲丁(太戊子自亳迁开封陈留)治一十七年(一云十一)。

  (甲子 十九) 外壬(仲丁弟)治十五年○河亶甲(外壬弟复迁于相殷又衰)治九年。

  祖乙(亶甲子又迁于耿。今河东皮氏县。巫贤任职兴)治一十九年。

  (甲子 二十) 祖辛(乙之子)治十六年○沃甲(祖辛弟)治二十五年。

  祖丁(沃甲兄祖辛弟)治二十五年○南庚(沃甲子)治二十九年。

  阳甲(祖丁子)治十七年。

  (甲子 二一) 盘庚(阳甲弟。改殷曰商。复迁都于亳)治十八年。

  小辛(盘庚弟)治二十一年(殷道衰。百姓思先帝。作盘庚三篇)。

  (甲子 二二) 小乙(小辛之弟)治二十二年。

  武丁(小乙子。以传说为相。修德布政。天下咸欢。书曰。高宗谅闇三年君不言。礼云。三年之丧君不言。百官咸听蒙宰)治五十九年。寿一百岁。庙号高宗。

  (甲子 二三) 祖庚(武丁子)治七年○祖甲(祖庚弟商道废)治十六年。

  廪辛(祖甲子)治六年○庚丁(廪辛弟。迁于朝歌。今卫州界)治二十一年。

  武乙(庚丁子。不道慢神虐民。猎河渭间。暴雷震死)治四年。

  (甲子 二四) 太丁(武乙子)治三年○帝乙(太丁子商道衰)治三十七年。

  (甲子 二五) 纣辛。一名受(帝乙之子。微子启弟。启之母贱。在朝不得嗣位。辛母正后。承祚不道。内嬖妲己。外用恶来。设酒池肉林糟丘。使男女裸形相逐其间。作长夜宫。计一百二十日为一昼夜。制炮烙刑热熨斗。衣宝玉衣剖贤人之心。斫朝涉之胫。诸侯叛乱。武王克之。以衣蒙头。赴火而死)治三十一年(谥曰残义损善曰纣)殷有三仁(箕子微子叔比干也)丁位即位。

  凡三十主通六百二十九年。

  周 雷氏曰(下迨有周文武成康昭穆共懿孝夷厉宣幽槜平桓庄僖惠襄顷匡定简灵景悼敬元贞哀考威烈安夷显圣慎靓赧归。秦王三十。七八百六七)。

  (十九 甲子 二六) 文王(姓姬氏至武王都于镐。今京兆)王木德。其先起于后稷(帝喾之妃姜嫄。履大人迹而生。多有异相。弃之厄巷。牛马不践。移山兽育。置水禽养。复收而育。故名弃姓。好种植事。尧为稷官。功封于邰。曰后稷也)不窋○鞠○公刘○庆节○皇仆○差弗○毁渝○公非○高圉○亚圉○公祖类○太王亶父(一曰古公)生三子太伯虞仲季历(文王父也。初国于豳。古公迁于岐伯仲知古公欲立季历以传昌。乃奔荆蛮。果立历以传昌也。古今记世纪有异于史记。)王名昌(季历子。一名大王。少子都丰为纣西伯。大有贤德)在位五十年(寿九十七。谥忠信接礼曰文)重八卦之爻为周易干六宫数有九三十六老阳也坎一宫七数二十二少阳也艮八宫七数二十八少阳也震三宫七数二十八少阳也巽四宫八数三十二少阴也离九宫八数三十二少阴坤二宫六数二十四老阴兑七宫八数三十二少阴。每卦有六爻六神名。主吉凶之事。谓青龙朱雀白虎玄武腾蛇勾陈。

  (甲子 二七) 伯夷叔齐(姓墨。孤竹君子)闻西伯善养老。归之(虞芮有争愬于西伯。又请纣去炮烙之刑)。

  (二十) 武王发(文王子周公兄)既立。以太公望为师。周公旦为辅。召毕之徒为左右。同谋伐纣。起兵洧水。诸侯不期会者八百。皆云。纣可伐矣。戊午日兵临孟津。癸亥夜陈于商郊。甲子战于牧野。前徒倒戈血流漂杵。既克殷。大定天下(归马华山之阳。放牛桃林之下)倒载干戈。在位七年(寿九十三。葬于镐。谥克定祸乱曰武)礼曰。天下有王。分地建国置都立邑(古制。王畿千里。公百里。侯七十里。伯子男各五十里。不及曰附庸。周置王畿千里。公五百里。侯四百里。伯三百里。子二百里。男一百里。不及曰附庸)葬之以翣(世本曰。武王作翣。其形如扇。置墙以饰棺)乙卯立。建子为正。

  十四国诸侯(随王代封各出其次)雷氏曰(郑宋晋吴卫秦齐鲁陈杞曹蔡燕召楚蛮。诸侯十四)。

  吴太伯(太王子。与弟虞仲奔于荆蛮。断发文身示不可用。以辟季历。荆人立为君。号曰勾。吴。武王克殷。封章为吴章。至寿梦十九世称王梦生四子。次曰季扎。大有贤德。欲立扎。扎让兄诸矾。吴人同立扎。扎又舍之。至余祭立封扎于延陵。自太伯至夫差。二十五世。越王勾践灭之。周章至夫差。二十一君。六百五十五年。敬王时也)列子曰。昔吴太宰问孔子曰(夫子圣者与。曰丘博识强记。非圣人也。三王圣者与。曰三王善用智勇。圣非丘所知。五帝圣者与。曰五帝善用仁信。圣则非丘所知。三皇圣者与。曰三皇善用时政。圣则丘弗知。太宰嚭骇曰。然则孰为圣者与。夫子有间动容而对曰。西方有圣者焉。不治而不乱。不言而自信。不化而自行。荡荡乎民无能名焉)。

  齐太公望(亦名吕尚。东海人也。本姓姜氏。其先佐禹治水有功封于吕。文王卜得飞熊之兆。猎渭而会。曰吾望子久矣。因名吕望。一名武师。伐纣。亦名尚父。封于营丘。今青州临淄也。至小白称桓公。始霸。自太公下。丁公吕伋乙公癸公哀公胡公献公武公厉公文公成公庄公厘公襄公桓公孝公昭公懿公惠公倾公灵公庄公景公儒子悼公简公平公宣公康为田和篡灭。共三十君七百四十七年。当周安王十七年也)管仲鲍叔宁戚晏子之徒(景公之前后也)。

  陈胡公满(有虞之后。姓妫氏。昔舜为庶人。尧妻二女居于妫妠因以为姓。武王克殷。乃求舜后。得满。封于陈以奉舜祀。是为胡公。自胡公下。申桓孝慎幽厘武英平文桓厉庄宣穆共灵成哀惠怀湣。二十三君。六百五十三年。敬王四十一年。为楚灭之也)。

  祀东楼公(夏禹之后。殷时或封或绝。武王克殷于祀陈留。雍丘县是也。自东楼公。至简公春。一十九君。五百三十九年。定王二十四年楚惠灭之)。

  曹叔振铎(文王第六子。武王弟。封之于曹。今济阳定陶县也。至伯阳。好田弋。怠政而亡。后曹伯背晋于宋。自振铎下。太伯仲君宫伯孝伯夷伯幽公戴伯惠伯顾伯穆公桓庄僖昭共文宣成武平悼襄隐靖伯阳。二十六世。六百四十五年。敬王三十三年。为宋景公灭之也)。

  蔡叔度(文王第五子。武王弟。克殷后。封叔鲜于管。封度于蔡。使二相纣子武庚。一名禄父。治殷余民。自度至侯齐。二十七君。五百二十七年。当定王时。为楚灭之)。

  鲁周公旦(文王第四子。武王克殷。封少昊之墟。今兖州仙源县也。公不就。留佐武王。武王崩后辅成王。使子伯禽代就于鲁。公诫曰。我文王子。武王弟。成王叔。于天下亦不贱矣。然我一沐三握发。一食三吐哺。起以待士。恐失天下贤人。子之鲁。母以国骄人。伯禽受命于鲁。自伯禽下。考炀幽魏厉献真武懿伯御孝惠隐桓庄闵僖文宣成襄昭定哀悼元穆共康景平文倾。三十四君。九百一十五年。至秦庄襄元年楚考烈王灭之○隐公春秋始哀公卒。哀公十六年孔子卒)。

  燕召公奭(与周同姓。武王克殷。封于燕。成王时。召为三公。主陕西。甚得兆民之意。巡行乡邑。有甘棠树。决狱其下。召卒民思伯。不敢伐之。作甘棠诗焉。自公之下。元世王惠侯厘倾哀郑缪宣桓庄襄桓宣昭武文懿惠悼元平简献孝成湣厘桓文易王子哙昭惠武成孝今喜。三十七君。八百九十四年。秦始皇灭之)。

  (二十一) 成王诵(武王子都于洛)年十三即位。周公摄政。制礼作乐。天下和睦。七年归政于王。卜世三十。卜年七百。治四十七年。周公定君臣礼乐成王褒之。制三公(太师太傅太保)九卿(一太常主音乐。二光禄主酒馔。三大理主刑律。四宗正主皇亲。五太府主库藏。六司农主种植。七鸿胪主蕃客。八太仆主车马。九卫尉主敷设)二十七大夫(九品各三)八十一元士。重定五刑立七庙制。礼曰(王制。天子七庙。三昭三穆与太祖之庙而七。注曰。此周制。七庙太祖及文武二祧与清庙四七。太祖社稷也。昭明也。察下为义。穆肃也。敬上为义。太祖居西面东。三昭面南。三穆面北。凡穆主藏文庙。昭主藏武庙。有祷出主祭于坛。文武二祧朝享之。皆四孟月○五代祖主藏之于祧有祷则出迁祭之。无祷乃止矣)。

  

  祭法曰(凡祭有四。春祭曰?薄也。夏祭曰禘弟也。秋祭曰尝。嗜百谷味。冬祭曰烝进也。品物进之。天子祭天地。一年九祭。三祭昊天。六祭五方。大帝。诸侯祭社稷。大夫祭五祀。司命中?门行厉五也○诸侯五庙。太祖与二昭二穆。大夫三庙。太祖与一昭一穆适士官师二庙。庶士一庙。庶人无庙。祭之于寝矣)郊禘祖宗(禘帝喾文祖配文祖太祖○郊稷配天亦祖文王 宗武王 父也)成王祭三(天曰祭。地曰祀。人鬼曰享也)明堂制(布政之宫也。在国之阳三里之外。七里之内。丙巳之地。东西九筵。南北七筵。东西凡五室。南北亦然。上员法天。下方法地。八窗象八风。四闼法四时。九室法九州十二阶法十二月。三十六户法三十六旬。七十二牖法七十二气。四庙九室十三位也)制冕旒衮服(有十二章)○○日月星辰(三象其明)龙(象其变化表圣人德)华虫(雉也象其文也)(宗彝宗庶虎蚔之蜼也。象其其孝)藻(水草也象其洁)粉米(为米而粉象其养人)山(贵静取其性不取其势也)火(以圆也取其神不取其锐)(白与黑谓之黼。为之斧形取其善断)(黑与青谓之黻。两巳相背取其能辨。是以绘绣服上)丙戌即位。

  (二十二) 稷神(昔厉山氏之子。名桂善植五谷。夏禹之前。皆配祀稷。周公后稷代之。自周而下。皆配祀矣。五谷之长。祀以报其功也。五谷者。稻梁菽麻麦。分成百也)。

  (二十三) 宋晋卫楚四国成王封(同姓者。长曰伯父。幼曰叔父。异姓者。长曰伯舅。幼曰叔舅)。

  宋微子启(纣之庶兄。武既克殷。启乃持祭器造于军门。袒肉面伏。左牵羊右把茅。膝行而前。武王遂释微子。封纣子武庚以续殷祀。使管蔡二叔傅之。武王崩。周公辅成王。殷叛王命诛武庚。乃封启代殷为宋。今睢阳也。后至襄公。始霸。自启下。微仲稽丁湣汤厉厘惠襄戴武宣穆殇庄湣姑桓襄成昭文共平元景昭悼伏辟别成。偃公称王淫乱无道。诸侯与齐魏楚伐之三分其地。凡三十三君。八百三十年。当周赧王三十九年也)。

  晋叔虞(字子干。武王子。成王弟。成王与叔虞戏削桐叶为圭。以与虞曰。以此封君。史佚因请择日立叔虞。王曰。吾与戏焉。佚曰。天子无戏言。遂封于唐。今河东皮氏也。叔虞子燮是为晋侯。至献公灭虢始都。后文公重耳始霸。自叔虞下。燮武成厉靖厘献穆殇文昭孝鄂哀湣献惠怀文襄灵成景厉悼平昭顷定出哀幽烈孝静公也。三十六君。七百四十九年。安王时韩魏赵灭之)。

  卫康叔(文王第九子。武王同母弟。成王以殷余民。封康叔为卫公。居河淇之间。故商墟也。至元公徙野王县。今河内也。自康叔下。康伯孝嗣康靖真顷厘共武庄桓宣惠辛懿文成共穆定献殇襄灵出庄班起悼敬昭怀慎声成平公嗣怀元君角。凡四十三君。九百年也。秦二世废君角为庶人)。

  楚熊绎(颛顼之后。至季连以劳为氏。后裔熊绎也。成王举文武勤劳之后嗣。封绎于楚蛮。今江陵枝江县也。至申君徙都寿春。自绎至负刍。二十五君。计七百八十九年。归秦)。

  (二十四) 康王钊(成王子)召毕二公。受顾命而相之。二世安宁。刑错不用四十余年。治五十二年。癸亥即位。

  佛祖历代通载卷第二

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第三

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  周

  (一 己丑癸丑) 昭王瑕(康王子。王道微缺。因南巡狩乘胶船沈于水)治五十一年。

  二十五年四月八日。大圣现白象瑞。七支案地乘云而下。降神大术胎中。右胁而住。岂若虹枢现表厥命世者也。

  (二 甲寅) 二月八日。世尊生于迦毗罗卫国蓝毗尼园沙罗叉树下。从母摩耶夫人右胁而出。姓刹利。父净饭天。母大清净。生时九龙吐水。金盘沐已周行七步。自言。吾受最后生身。天上天下唯吾独尊。相好庄严具三十二大人之相。诸经有别(且依一文。三十二者。一足下平满。二千辐轮纹。三手柔软如兜罗绵。四指间网鞔犹如鹅王。五诸指纤长。六足跟充满。七足趺相承。八双臂修直。九双腨圆满如伊尼延鹿王。十阴峰藏密如象马王。十一毛青右旋。十二发毛上靡。十三身皮金色。十四皮闰离垢。十五七处充满。十六肩项殊妙。十七膊腋?直。十八容仪红满。十九身相端严。二十量圆孤柳。二十一颔臆狮子。二十二常光一寻。二十三齿白齐密。二十四牙鲜锋利。二十五常得上味。二十六舌覆面轮。二十七梵音频伽。二十八眼睫绀青。二十九眼睛如牛王。三十面如满月。三十一眉间白毫。三十二乌瑟腻吒犹如天盖。更有八十随好。具如般若等说)。

  (丙辰) 太子三岁。父王携谒天神庙。神像起立。王惊叹曰。天中天。

  (庚申) 太子七岁。诣师习世间书典。

  (三 癸亥甲子) 太子十岁。与兄弟捔力。以手掷象城外。射透铁鼓九重。世尊示出家。太子出游四门。见生老病死者。北门见出家人生欣乐心。二月八日夜。净居天报言。太子出家时至。遂乘马逾城。至檀特山拔剑斩发入弥楼山阿蓝迦处习不用处定。

  (戊寅) 今依六年苦行三十成道之教也。有说。十二月八日出家。诸部说异。玄赞疏云。总会诸文而为二说。一云诸部说。十九出家三十成道。本起因缘经。亦十九岁。思惟无相三昧经。三十成道。智论。亦十九。不说成道时。佛住世实八十年。有会。十九出家。五年事仙人行乐行。六年行苦行。三十成道。智论用此。二云。亦有诸部及大乘说。二十九出家。三十五成道。增一中杂三阿含经出曜经和须密论。并说二十九。悲华经善见论说三十五成道。本起经云。三十五也。菩提流支引经偈云。八年作婴儿。七年作童子。四年学五明。十年受五欲。六年行苦行。三十五成道。四十五年中。教化诸众生。真谛及西域记并同此说。金光明经报恩经等。同说佛寿八十年也。甲子但七十九年。略释偈曰(言五明者。瑜伽释云○一者内明有二种。相一显示正因果相。二已作不失未作不得相○二者因明有二种相。一示摧伏他论胜利相。二示免脱他论胜利相○三者声明亦有二相。二示安立字界及能成立相。二示语工巧胜利相○四医方明有四种相。一示病体善巧相。二示病因善巧相。三示断已更生善巧相。四示断已不生善巧相○五者工巧明善诸世法○三端六义等。言三端者。一文笔。二武锋。三辨舌也。六义者一礼。长幼谦谨二乐风俗正变。三书。八体六书。四数。穷知稊壤。五射。能开弓弩。六御。善调象马。世尊在宫为太子时。性自仁贤。曰礼。通诸风俗。曰乐。六十四书悉晓。曰书。百二十数并穷。曰数。透九重铁鼓。曰射。掷塞门大象。曰御。余如经论广陈)。

  (四 庚辰) 穆王满(昭王子)用造父为御。乘乎八骏。日行千里(具如周史)治五十五年(五十岁即位寿一百四年)作甫刑(王命甫侯吕级入为司寇。增轻减重。约五刑为三千。墨劓各一千。剕五百。宫三百。大辟二百。孝经甫刑是)傀儡(乃偃师之作始献于王也)化人(北山曰。王时西极有化人来。反山州移城邑。入水火贯金石。千变万化不可穷矣。王敬之若圣。筑中天台以居之。乃曼殊室利目连等示相也。然王未知是佛弟子)。

  (五 癸未) 世尊示成道。苦行六年既满。沐于熙泥连河。受牧牛女之乳糜。纳吉祥之软草诣菩提树王坐金刚座上三十四心示成正觉。号天人师。具一切智。住世垂训四十九年。说法三时初中后善。以有空言破空有执。二边既离中道斯存。俾利钝机发修自行。故演而伸之。为八万四千之法藏也。博施济众因果张焉。断恶惩善圣凡别矣。群生自兹有仗也。

  (甲申) 初入鹿苑度五比丘。度优楼频罗迦叶千人出家。

  (乙酉) 佛象头山。为龙鬼说法等。

  (丙戌) 佛度舍利弗目犍连二百五十人出家。

  (丁亥) 须达长者布金。买祇陀园。建寺奉佛。

  (戊子) 佛在拘耶尼国。为婆陀和菩萨。说苦行般若等经。

  (己丑) 佛在柳山。为纯真陀罗王等说法。

  (庚寅) 佛在秽泽。为阿掘摩说法。及升忉利天。

  (六) 栴檀像始建。世尊成道八年上忉利天。为母说法。经九十日。优阗国王思慕如来。命大目连及毗首羯摩天化为匠人。诣天宫摹佛相好。以栴檀香木刻像供养。既而夏满下降中天。王及大臣及国人民同往迎佛。其像腾空向佛问讯。佛为摩顶受记曰。我灭度千年以后。汝往震旦广利人天。

  (辛卯) 佛还摩竭国。为弗沙王说法等。

  (七 壬辰) 佛为弥勒说修行本起经。

  (癸巳) 佛还迦毗罗国。为父王说法。普曜经载此。

  (戊戌) 佛于欲色二界。说大集等经。

  (己亥) 佛始说十六会八部般若等经。

  (辛丑) 佛始检约徒众。创置戒律。

  (丙午) 佛从弟阿难始出家。

  (辛亥) 阿难请佛。度摩诃波阇波底比丘尼等出家。

  (甲子辛未 二九) 佛说金光明并法华等经于灵山会上。是年世尊拈花示众。百万人天皆茫然。唯金色头陀破颜微笑。世尊曰。吾有正法眼藏涅槃妙心实相无相微妙法门。分付于汝。汝当护持。并敕阿难副贰传化。听吾偈曰。法本法无法。无法法亦法。今付无法时。法法何曾法。尔时世尊说此偈已。复告迦叶。吾将金缕僧伽黎传付于汝。转授补处慈氏。毋令断绝(拈花一事荆国王公对佛惠禅师泉万卷言。亲见于梵王问佛经中。具载。但此经多言国家帝王之事。藏之秘府。世故罕闻)。

  (八 壬申) 二月十五日。世尊示涅槃。应世七十九年。化缘周毕。于拘尸罗国金沙跋提河间娑罗双树下。说涅槃经及遗教经已。安住常寂灭光。名大涅槃右胁而卧。于中夜寂然无声。阇维得舍利八斛四斗(涅槃经前后分具明)时有白虹一十二道南北贯通。连宵不灭。穆王问太史扈多曰。是何徴也。对曰。西方有大圣人。灭度衰相现也。王曰。朕常患此。今既灭度。更何忧耶。西土诸王以香木阇维分身建塔。震旦计十九处。

  (乙亥) 共王繄扈(穆王子)有圣德治十二年(王尝游于泾上。密康公从有三女奔。康公受之而不以献。王遂灭密)。

  (丁亥) 懿王艰(共王子)周室衰(诗人刺之迁都槐里。又迁废丘)治二十五年(齐五世。哀公荒淫王命烹之。作变风刺之)。

  (九 壬子) 孝王辟方(共王弟懿王叔)王时外国有进二尺虎又进四角犀。治十五年。

  (十 丙辰) 第一祖摩诃迦叶。摩竭陀国人也。姓婆罗门。父饮泽。母香志。昔为锻金师。善明金性使其柔伏。付法传云。尝于久远劫中。毗婆尸佛入涅槃后。四众起塔。塔中像面上金色有少缺坏。时有贫女。将金珠往金师所。请饰佛面。既而因共发愿。愿我二人为无姻夫妻。由是因缘九十一劫身皆金色。后生梵天。天寿尽生中天摩竭陀国婆罗门家。名曰迦叶波。此云饮光胜尊。盖以金色为号也。繇是志求出家冀度诸有。佛言善来比丘。须发自除袈裟着体。常于众中称叹第一。复言。吾以清净法眼将付于汝。汝可流布无令断绝。涅槃经云。尔时世尊欲涅槃时。迦叶不在众会(嵩禅师正宗记评曰。昔涅槃会之初。如来告诸比丘曰。汝等不应作如是语。我今所有无上正法。悉已付嘱摩诃迦叶。是迦叶者。当为汝等作大依止。然正宗者圣人密相传授。不可必知其处与时也。以经酌之则法华先而涅槃后也。方说法华迦叶预焉。及涅槃而不在其会。吾谓付法之时其在二经之间耳。或谓。灵山拈花。又曰。付法于多子塔前。然此未见所出。吾虽稍取亦不敢果以为审也)佛告诸大弟子。迦叶来时。可令宣扬正法眼藏。尔时迦叶在耆阇崛山宾钵罗窟。睹胜光明。即入三昧以净天眼观见世尊于熙连河侧入般涅槃。乃告其徒曰。如来涅槃也。何其驶哉。即至双树间悲恋号泣。佛于金棺内现双足。尔时迦叶告诸比丘。佛已茶毗。金刚舍利非我等事。我等宜当结集法眼无令断绝。乃说偈曰。如来弟子且莫涅槃。得神通者当赴结集。于是得神通者悉集王舍耆阇崛山宾钵罗窟。时阿难为漏未尽。不得入会。后证阿罗汉果。由是得入。迦叶乃白众言。此阿难比丘。多闻总持有大智慧。常随如来梵行清净。所闻佛法如水传器无有遗余。佛所赞叹聪敏第一。宜可请彼集修多罗藏。大众默然。迦叶告阿难曰。汝今宜宣法眼。阿难闻语信受。观察众心而宣偈言。比丘诸眷属。离佛不庄严。犹如虚空中。众星之无月。说是偈已。礼众僧足升法座而说是言。如是我闻一时佛住某处说某经教。乃至人天等作礼奉行。时迦叶问诸比丘。阿难所言不错谬乎。皆曰。不异世尊所说。迦叶乃告阿难言。我今年不久留。今将正法付嘱于汝。汝善守护。听吾偈言。法法本来法。无法无非法。何于一法中。有法有不法。说是偈已。乃持僧伽黎。

  (甲子丁卯 三十) 衣入鸡足山。俟慈氏下生。即周孝王五年丙辰岁也。

  (十一) 秦非子(其先高阳之后。始女修大业大费佐舜为相。大廉孟戏中衍乃大廉玄孙。鸟身人言。为殷太武之御中潏飞廉恶来秦之先也。后至柏翳佐禹治水有功。舜赐姓嬴氏。后之非子。周孝王使主马。又大蕃息。封于秦。号曰秦嬴。至德公居雍城。秦州陇城县也。后穆公始霸。至昭襄称王自非子下。秦侯公伯秦仲庄平文宣出武德宣城穆康共桓襄惠悼厉躁怀灵简惠出献孝惠文王武王昭王。三十二君。六百三十八年也)。

  夷王燮(懿王次子。周室陵迟。诸侯朝朔。下堂迎之。治十六年)。

  (十二 癸未) 厉王胡(夷王子。暴虐无道。国人叛之。袭杀于彘。通周召五十一年)。

  (十三 癸巳) 二祖阿难。王舍城人也。姓刹利帝。父斛饭王。实佛之从弟也。梵语阿难陀。此云庆喜。亦云欢喜。如来成道夜生。因为之名。多闻博达智慧无碍。世尊以为总持第一。尝所赞叹。加以夙世有大功德。受持法藏如水传器。佛乃命为侍者。后阿阇世王白言。仁者。如来迦叶尊胜二师皆已涅槃。而我多故悉不能睹。仁者。般涅槃时愿垂告别。阿难许之。后自念言。我身危脆犹如聚沫。况复衰老岂能长久。又念。阿阇世王与吾有约。乃诣王宫告之曰。吾欲入涅槃。故来辞耳。门者曰。王寝不可以闻。阿难曰。俟王觉时当为我说。时王梦中见一宝盖七宝严饰。千万亿众围绕瞻仰。俄而风雨暴至吹折其柄。珍宝璎珞悉坠于地。心甚惊异。既寤门者具白上事。王闻语已失声号恸哀感天地。即至毗舍离城。见阿难在恒河中流跏趺而坐。王乃作礼而说偈言。稽首三界尊。弃我而至此。暂凭悲愿力。且莫般涅槃。时毗舍离王亦在河侧。复说偈言。尊者一何速。而归寂灭场。头住须臾间。而受于供养。尔时阿难见二国王咸来劝请。乃说偈言。二王善严住。勿为苦悲恋。涅槃当我净。而无诸有故。阿难复念。我若偏向一国而般涅槃。诸国争竞。无有是处。应以平等度诸有情。遂于恒河中流将入寂灭。是时山河大地六种震动。雪山中五百仙人睹兹瑞应飞空而至。礼阿难足胡跪白言。我于长老当证佛法。愿垂大慈度脱我等。阿难默然受请。即变殑伽河。悉为金地。为其仙众说诸大法。阿难复念。先所度脱弟子应当来集。须臾五百罗汉从空而下。为诸仙人出家受具。其仙众中有二罗汉。一名商那和修。二名末田底迦。阿难知是法器乃告之曰。昔如来以大法眼传大迦叶。迦叶入定而传于我。我今将灭。用传于汝。汝受吾教。当听偈言。本来传有法传了言无法。各各须自悟。悟了无无法。阿难传法眼藏竟。踊身虚空作十八变。入风奋迅三昧。分身四分。一分奉忉利天。一分奉娑竭罗龙宫。一分奉毗舍离王。一分奉阿阇世王。各建宝塔而供养之。乃厉王十年癸巳岁也。

  (辛亥) 世尊入灭一百年矣。

  (十四) 传曰。百岁已前。人传虽异法味一如。五师传教首迦叶波。传之阿难。阿难传商那和修。商传优波鞠多。优传末田底迦。自此百年之后。法疏一味水乳两和。析㲲分金各宗异见。源流派别二部斯兴。一上座部。二大众部。三百年来展转分破。大众本末别成九部。大众部。一说部。说出世部。鸡胤部。多闻部。说假部。制多山部。西山住部。北山住部○上座本末成十一部。说一切有部。上座部。犊子部。法上部。贤胄部。正量部。密林山部化地部。法藏部。饮光部。经量部。呜呼正法加丝以麻。嘉谟增乳以水。慕道者惑于异端。孰非曷是。悲哉。

  (庚申甲子) 共和元年王崩(王时不道滥谤。百姓不言政道。路相逢视之以目。由是作乱。叛王子彘。在政三十七年。周召二伯行政。号共和。凡十四年)。

  (十五 甲戌) 宣王靖(厉王子。初王奔彘。太子匿召公家。国人围之。公以子代之。太子方得脱。既长周召二伯立之为王。修文武成康之风。诸侯复宗周。时天下大旱。王自责身六年乃雨)治四十六年。王臣史籀改苍颉古文为大篆(今岐下石鼓有数字至宋苏轼辨得几字)。

  (乙未) 郑桓公友(厉王少子。宣王之弟。初封郑。今华阴县。后徙荣阳。今新郑是。至幽公弟君乙为君。自桓下。武庄厉昭亹婴厉穆灵襄悼成厘简定献声哀共濡君乙。凡二十三君。二百八十一年)。

  (十六) 第三祖商那和修。摩突罗国人也。亦名舍那婆斯。姓毗舍多。父林胜。母憍奢邪。在胎六年而生。梵云商诺迦。此云自然服。即西域九枝秀草名也。若罗汉圣人降生。则此草生于净地。祖生时瑞草斯应。昔如来行化至摩突罗国。见一青林枝叶茂盛。语阿难曰。此林地名优留茶。吾灭度后一百年。有比丘商那和修。于此地转妙法轮。后百岁果诞祖。出家证道。受庆喜尊者法眼化导有情。及止此林降二火龙归顺佛教。龙因施地以建梵宫。祖化缘既久。思传正法。寻于吒利国。得优波鞠多。以为给侍。因问鞠多曰。汝年几邪。答曰。我年十七。祖曰。汝身十七性十七耶。答曰。师发已白。为发白耶心白耶。祖曰。我但发白。非心白耳。曰我身十七。非性十七也。和修知是法器。三载后遂为落发受具。乃告曰。昔如来以无上正法眼藏传嘱迦叶。展转相授而至于我。我今传汝。勿令断绝。汝受吾教。听吾偈言。非法亦非心。无心亦无法。说是心法时。是法非心法。说偈已即隐于罽宾国南象白山中。后于三昧中见弟子鞠多有五百徒众。常多懈慢。祖乃往彼现龙奋迅三昧。以调伏之。而说偈曰。通达非彼此。至圣无长短。汝除轻慢意。疾得阿罗汉。五百比丘闻偈已。依教奉行皆获无漏。祖乃作十八变。火光三昧用焚其身。鞠多收舍利。葬于梵迦罗山。五百比丘各。

  (十七 己未) 持一幡迎导。至彼建塔供养。乃宣王二十二年乙未岁。王无辜杀杜伯。一日出畋。见杜伯持弓矢射王中心。堕车折脊而死。事见墨子载也。

  (庚申) 幽王宫涅(宣王子。嬖褒姒。生伯服。废太子与申后而立伯服。褒姒不好笑。王乃举烽燧大鼓。诸侯皆至。又且无寇。褒姒大笑。王悦后申侯与犬戎同伐王于骊山。复举烽燧。诸侯不至。遂死山下。乃扶太子宜臼为王。以奉周祀)在位十一年。

  (庚午) 携王伯服(幽王庶子。西兵杀王。伯服乃立。国人不顺。未经年而废之)。

  东周(二十四主都于洛阳)

  (十八 辛未) 平王宜臼(幽王太子申侯立之)东迁洛京以辟难。治五十一年。

  (壬申) 诸候寖盛政出方伯。

  (辛卯) 世尊示灭二百年矣。

  (十九 庚子) 第四祖优波鞠多。吒利国人也。亦名优波崛多。又名邬波鞠多。姓首陀。父善意。十七出家二十证果。随方行化至摩突罗国。得度者甚众。由是魔宫震动波旬愁怖。遂竭其魔力以害正法。祖即入三昧观其所由。波旬复伺便。密持璎珞縻之于颈。及祖出定。乃取人狗蛇三尸化为华鬘。耎言慰谕波旬曰。汝与我璎珞。甚是珍妙。吾有华发。以相酬奉。波旬大喜。引颈受之。即变为三种臭尸虫蛆坏烂。波旬厌恶大生忧恼。尽己神力不能移动。乃升六欲天告诸天王。又诣梵王求其解免。彼各告言。十力弟子所作神变。我辈凡陋何能去之。波旬曰。然则奈何梵王曰。汝可归心尊者。即能除断。乃为说偈令其回向曰。若因地倒。还因地起。离地求起。终无其理。波旬受教已。即下天宫礼尊者足。哀露忏悔。鞠多告曰。汝自今去。于如来正法更不作娆害否。波旬曰。我誓回向佛道永断不善。祖曰。若然者。汝可口自唱言归依三宝。魔王合掌三唱。华鬘悉除。乃欢喜踊跃。作礼尊者而说偈曰。稽首三昧尊。十力圣弟子。我今愿回向。勿令有劣弱。尊者在此化导证果最多。每度一人以一筹置于石室。其室纵十八肘。广十二肘。充满其间。最后有一长者子。名曰香众。来礼尊者志求出家。祖问曰。汝身出家心出家。答曰。我来出家不为身心。祖曰。不为身心复谁出家。曰夫出家者无我我故。无我我故即心不生灭。心不生灭即是常道。诸佛亦常。心无形相其体亦然祖曰。汝当大悟心自通达。宜依佛法僧绍隆圣种。即为剃度受具足戒。仍告之曰。汝父尝梦金日而生汝。可名提多迦。复谓曰。如来以大法眼藏次第传授。以至于我。今复传汝。听吾偈言。心自本来心。本心非有法。有法有本心。非心非本法。传法已。乃踊身虚空。呈十八变。然复本坐跏趺而逝。多迦以室内筹。用焚其躯。收舍利建塔供养。即平王三十年庚子岁也。

  (己未) 王四十九年。乃鲁隐公元年。孔子春秋编年始于此。

  (二十 壬戌) 桓王林(平王孙太子泄早卒立王)在位二十三年。

  (甲子乙酉 三三) 庄王佗(桓王子)在位十五年。

  (二十一 己丑) 第五祖提多迦者。摩伽陀国人。初生之时。父梦金日自屋而出照耀天地。前有大山诸宝严饰。山顶泉涌滂沱四流。后遇鞠多尊者。为解之曰。宝山者。吾身也。泉涌者。法无尽也。日从屋出者。汝今入道之相也。照耀天地者。汝智慧超越也。尊者本名香众。师因易今名焉。梵语提多迦。此云通真量也。多迦闻师说已。欢喜踊跃而唱偈言。巍巍七宝山。常出智慧泉。回为真法味。能度诸有缘。鞠多尊者亦说偈曰。我法传于汝。当现大智慧。金日从屋出。照耀于天地。提多迦闻师妙偈设礼奉持。后至中印度。彼国有八千大仙。弥遮迦为首。闻尊者至率众瞻礼。谓尊者曰。昔与师同生梵天。我遇阿私陀仙人授我仙法。师逢十力弟子修习禅那。自此报分殊涂已经六劫。尊者曰。支离累劫诚哉不虚。今可舍邪归正以入佛乘。弥遮迦曰。昔阿私陀仙人授我记云。汝却后六劫。当遇同学获无漏果。今也相遇。非宿缘邪。愿师慈悲今我解脱。尊者即度出家命圣授戒。余仙众始生我慢。尊者示大神通。于是俱发菩提心一时出家。乃告弥遮迦曰。昔如来以大法眼藏密传迦叶。展转相授而至于我。我今传汝。当护念之。乃说偈曰。通达本法心。无法无非法。悟了同未悟。无心亦无法。说偈踊身虚空作十八变。火光三昧自焚其躯。弥遮迦与八千比丘。同收舍利于班茶山中起塔供养。即庄王五年己丑岁也。

  (庚子) 僖王胡齐(庄王子一名厘)治五年○五霸次兴(中庸子曰。霸者假也用威刑而防政。使仁义而不湮。秦汉皆霸道也。春秋称五霸者。左传曰。齐桓公九合诸侯一匡天下。孔子称为五霸之首○晋文公召天子于河阳而朝诸侯矣○秦缪公因伐郑而败诸崤悔过修德○宋襄公为鹿上之盟。求诸侯于楚。楚人许之○楚庄王率诸侯伐陈。而立陈灵公。诸侯皆伏矣)。

  (乙巳) 惠王阆(僖王子。初庄王嬖姬妃生子颓。颓有宠而后作乱。王奔郑。郑伯伐颓杀之立王。时齐桓伐楚子。责包茅不贡入周矣)。

  (甲子 三四) 治二十五年。

  (二十二 庚午) 襄王郑(惠王子。子带作乱。王奔郑。晋文公杀子带立王)治三十三年。

  (辛未) 世尊入灭三百年矣(此后龙猛菩萨。造中论。等破除有见。后提婆等诸大论师。造百论等。弘阐大义了义灯明)。

  (二十三 甲申) 第六祖弥遮迦者。中印度人也。既传法已。游化至北天竺国。见雉堞之上有金色祥云叹曰。斯道人气也。必有大士为吾法嗣。乃入城。于阛阓间有一人。手持酒器逆而问曰。师何方而来。欲往何所。师曰。从自心来。欲往无处。曰识我手中物否。师曰。此是触器而负净者。曰师还识我否。师曰。我即不识。识即非我。又谓曰。汝试自称名氏。吾当后示本因。彼因说偈而答。我从无量劫。至于生此国。本姓颇罗堕。名字婆须密。师曰。我师提多迦说。世尊昔游北印度。语阿难言。此国中吾灭后三百年有一圣人。姓颇罗堕。名婆须密。而于禅祖当获第七。世尊记汝。汝应出家。彼乃置器礼师侧立而言曰。我思往劫。尝作檀那献一如来宝座。彼佛记我云。汝于贤劫释迦法中宣传至教。今符师说。愿加度脱。师即与披剃复圆戒相。乃告之曰。正法眼藏今传于汝。勿令断绝。乃说偈曰。无心无可得。说得不名法。若了心非心。始解心心法。说偈已。入师子奋迅三昧。踊身虚空高七多罗树。却复本座。化火自焚。婆须密收灵骨贮七宝函。建浮图置于上级。即襄王十五年甲申岁也。

  (癸卯) 顷王壬臣(襄王子)治六年(楚庄王始霸)。

  (己酉) 匡王班(顷王子)在位六年。

  (壬子) ○(有云。此年世尊入灭者。破邪论引误)。

  (二十四 乙卯) 定王瑜(匡王子)治二十一年○(楚子问鼎之大小轻重)。

  (二十五 丁巳) 老聃氏。于是年九月十四日生于楚国陈郡苦县赖乡曲仁里。魏书云。老聃父姓韩名干字元毕。母曰精敷。二合而娠。孕八十年而生于李树下。因以为姓。名耳字伯阳。身长四尺六寸。额凸眉粗反唇骞鼻髆尖?阔聃耳髼头。故谥曰聃。以疑独之道秘于心。三宝之德资于用。一曰慈。二曰俭。三曰不敢为天下先。景王己卯紫气浮关。欲往流沙。时有函关令尹喜。知道之人也。乃请言教。老氏遂着道德二篇。合五千言。皆评大道也。既而弗克。至于流沙。薨于槐里。年八十四岁。时有秦佚之吊。三号而出。是知天命殒于周也。

  (甲子 三五) 墓在槐里西南三十里渭水之阳。今兴平县也。佛先三百四十五年。

  (二十六 辛未) 第七祖婆须密者。北天竺国人也。姓颇罗堕。常服净衣执酒器游行里闬。或吟或啸。人谓之狂。及遇弥遮迦尊者宣如来往志。自惺前缘投器。出家授法。行化至迦摩罗国。广兴佛事。于法座前忽有一智者。自称我名佛陀难提。今与师论义。师曰。仁者论即不义。义即不论。若拟论义终非义论。难提知师义胜。心即钦伏曰。我愿求道沾甘露味。尊者遂与剃度而授具戒。复告之曰。如来正法眼藏我今传汝。汝常护持。乃说偈曰。心同虚空界。示等虚空法。证得虚空时。无是无非法。尊者即入慈心三昧。时梵王帝释及诸天众。俱来作礼而说偈言。贤劫众圣祖。而当第七位。尊者哀念我。请为宣佛地。尊者从三昧起。示众云。我所得法而非有故。若识佛地离有无故。说此语已。还入三昧示涅槃相。难提即于本座起七宝塔以葬全身。即定王十七年辛未岁也。

  (丙子) 简王夷(定王子)治十四年。

  (丁丑) ○老氏仕周为守藏吏。时年二十二矣。

  (己丑) ○老氏迁太史令。时年三十四矣。一云。柱下史。自是五十四年不调。时人目为吏隐也。王十四年。鲁襄元也。

  (庚寅) 灵王泄心(简王子)生而有髭。治二十七年。

  (二十七 庚戌) 二十一年。老氏五十五岁矣。

  (二十八) 孔子生干鲁国今兖州邹邑平乡晋昌里。实隐公后第九代襄公二十一年冬十一月初四日。按殷本纪。孔子父姓叔梁名纥。为邹邑宰。先娶邹氏女。生子孟皮。不才。后娶颜氏女名徴。在夫妇祷尼丘山而生孔子生而有发。身长九尺六寸腰带十围。垂手过膝。河眸海口龙颜方颡。凤颙燕颔虬髭虎视。有中和之德。衣庄而严。色温而厉。有四十二表如世家。自易姓孔氏。名丘字仲尼。至唐玄宗。谥曰文宣王。丘先殷之后裔颖考叔弗何祖焉。至纥移居鲁。易姓叔梁。后孔子追昔先生姓字。以子配一。更姓孔氏。是不忘本仁也。学无常师。自然英才诞秀。圣德不群世号素王。大宣文教矣鲁哀公十一年。自卫反鲁修文教于洙泗之滨。祖述尧舜宪章文武之风。约鲁史而修春秋。周平鲁隐始之自己未。终敬王鲁哀壬戌记二百四。十二年之事。明王室衰诸侯霸褒贬得失。绝笔于获麟之句也。而传有五。左丘明公羊高谷梁赤邹氏郏氏。删诗三百。而咏国风雅颂正变之道也。而传者分为四诗。毛韩鲁齐。诗以关睢首之。明有夫妇。次有父子君臣之道。三纲逆顺辨其国政。定尚书凡百篇。始于二典。次及三王典谟誓诰之文。备悉明也。秦火之后。汉儒伏生口授。裁二十余篇。正礼乐有二礼记四十九篇。而以曲礼首之。终于丧服之制。俾夫孝弟施行。安上治民广大悉备。而传者徐生首焉。周礼者六官之属王百七十五。明宗庙社稷王侯等差朝格典仪。大全其式矣。赞易道始于太极。是生两仪。四象八卦万物生焉。作十翼书以明之。谓上系下系上彖下彖上象下象文言说卦叙卦杂卦。而传者古今众矣。资学三千。达者七十有二。四科十哲。德行颜回闵损冉耕仲弓。言语宰予端木赐。政事冉求仲由。文学言偃卜商。子鲤伯鱼。孙伋子思。皆预其数。寿七十三岁薨。佛先二百九十九年。

  (辛亥) 世尊示灭四百年矣(时迦湿弥罗国五百六通依法智论造毗婆沙论)。

  (二十九 丁巳) 景王贵(灵王次子)治二十五年。

  (三十 甲子丙寅 三六) 第八祖佛陀难提者。迦摩罗国人也。姓瞿昙氏。顶有肉髻。辨捷无碍。初遇婆须密尊者出家受教。既而领徒。行化至提迦国城毗舍罗家。见其舍有白光上腾。谓徒众曰。此家圣人口无言说。真大乘器。不行四衢知触秽耳。言讫长者出致礼问。何所须祖曰。我求侍者。曰我有一子。名伏祖驮密多。年已五十口未曾言足未曾履。曰。如汝所说真吾弟子。祖既见之。遽起礼拜而说偈曰。父母非我亲。谁是最亲者。诸佛非我道。谁是最道者。祖以偈答曰。汝言与心亲。父母非可比。汝行与道合诸佛心即是。外求有相佛。与汝不相似。欲识汝本心。非合亦非离。伏驮密多闻祖妙偈。便行七步。祖曰。此子昔曾值佛悲愿广大。虑父母爱情难舍。故不言不履耳。时长者遂舍令出家。祖寻授具戒。复告之曰。我今以如来正法眼藏传嘱于汝。勿令断绝。乃说偈曰。虚空无内外。心法亦如此。若了虚空故。是达真如理。密多承师传嘱。以偈赞曰。我师禅祖中。当得为第八。法化众无量。悉获阿罗汉。尔时尊者佛陀难提。即现神变。却复本坐。俨然寂灭。众兴宝塔葬其全身。即景王十年丙寅岁也。

  (乙亥) 孔子时年二十六。适周问礼于老聃。聃年已七十九。

  (己卯) 老聃是年薨。寿八十四岁。

  (辛巳) 四月王崩。刘子单子立王子猛。六月子朝作乱。十月晋纳王于王城。十一月猛卒(是为悼王)。

  (三十一 壬午) 敬王丐(悼王弟)刘献公单穆公韩宣等伐子朝立王。治四十三年。

  (乙酉) (冬克巩逐王子朝入成周。自是谓王城为西周。成周为东周)。

  (壬辰) 十一年乃鲁定元年。

  (辛丑) 孔子为鲁司寇年已五十二矣。

  (癸卯) 孔子去鲁适卫。

  (乙巳) 孔子之宋如陈。

  (戊申) 孔子微服过宋。

  (己酉) 孔子厄于陈。

  (庚戌) 二十八年。鲁哀十一年。孔子自卫返鲁。作春秋定六经。时年六十一岁矣。

  (三十二 甲寅) 第九祖伏驮密多者。提迦国人。姓毗舍罗。既受佛陀难提传嘱。后至中印度行化。时有长者香盖。携一子而来瞻礼尊者曰。此子处胎六十年。因号难生。复尝会一仙者。谓此儿非凡。当为法器。令遇尊者。可令出家。祖即与落发授戒。羯磨之际祥光烛座。仍感舍利三十粒现前。自此精进忘疲。既而师告之曰。如来大法眼藏今传于汝。汝护念之。乃说偈曰。真理本无名。因名显真理。受得真实法。非真亦非伪。尊者传法已。即入灭尽三昧而般涅槃。众以香油旃檀阇维真体。收舍利建塔于。那烂陀寺即敬王三十三年甲寅岁。

  (庚申) 孔子绝笔于获麟。

  (壬戌) 王四十年。鲁哀十六年夏四月八日孔子薨于曲阜。四十三年吴灭矣。

  (甲子丙寅 三七) 元王仁(敬王子)治八年○(越王勾践始霸矣)。

  (三十三 癸酉) 贞定王介(元王子)在位二十八年。

  (辛卯) 世尊示灭五百年矣。

  (三十四 己亥) 第十祖胁尊者。中印度人也。本名难生。初将诞。父梦一白象背有宝座。座上安一明珠。从门而入。光照四众。既觉遂生。后值伏驮尊者。执侍左右。未尝睡眠。谓其胁不至席。遂号胁尊者焉。初至华氏国憩一树下。右手指地而告众曰。此地变金色。当有圣人入会。言讫即变金色。时有长者子富那夜奢。合掌前立。尊者问曰。汝从何来。夜奢曰。我心非往。尊者曰。汝何处住。曰我心非止。祖曰。汝不定耶。曰诸佛亦然。祖曰。汝非诸佛。曰诸佛亦非。祖因说偈曰。此地变金色。预知于圣至。当坐菩提树。觉华而成已。夜奢复说偈曰。师坐金色地。常说真实义。回光而照我。令入三摩谛。祖知其意即度出家复具戒品。乃告之曰。如来大法眼藏今传于汝。汝护念之。乃说偈曰。真体自然真。因真说有理。领得真真法。无行亦无止。传法已。即现神变入于涅槃化火自焚。四众以衣裓盛舍利。随处兴塔焉。即贞王二十七年己亥岁也。

  (辛丑) 考王嵬(一名隗贞王子)治十五年。

  (丙辰) 威烈王午(考王子)在位二十四年。

  (甲子 三八) 王十九年。魏斯好贤即文侯之德。

  (丁丑) ○通鉴始于此。宋司马光集。

  (戊寅) 王命赵魏韩为诸侯。自此号为七雄。

  佛祖历代通载卷第三(终)

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第四

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  (戊寅) 韩魏赵 雷氏曰(魏赵韩齐燕楚及秦。是为七雄)。

  韩武子(其先与周同姓。后事晋封于韩。自武子至王安。十二君。一百九十六年)。

  魏武子(毕公万之后。与周同姓。武王克殷。封于毕○时秦王尝欲伐魏。或曰。文侯师田子方受子夏经。义客段干木过其阊。君礼人贤国民称仁。上下和合。未可图也。有贤人孟轲邹衍淳于髡之徒矣○惠王时有女子。化为丈夫○其先毕万事于晋。晋献公封于魏。在河东郡。至悼公在绛阳。文武复魏。自毕万至王假。凡九世。通计一百年。至秦始皇灭之)。

  赵武子(其先与秦同祖。殷飞廉二子恶来季胜。季胜赵之先。后造父为穆王御。封于赵城因姓赵氏。至敬侯都邯郸。自后至大王嘉为秦将王贲虏之。凡十一世。计一百八十七年。齐燕楚秦见上注)。

  (庚辰) 安王骄(一名龙威烈王之子)治二十六年。

  (辛巳) 二年晋分为三晋。赵魏及韩。同谋灭晋三分其地也。

  (丙申) ○(齐灭矣)。

  (戊戌) 第十一祖富那夜奢。华氏国人也。姓瞿昙氏。父宝身。既得法于胁尊者。寻诣波罗奈国。有马鸣大士。迎而作礼。因问曰。我欲识佛。何者即是。祖曰。汝欲识佛不识者是。曰佛既不识焉知是乎。祖曰。既不识佛焉知不是。曰此是踞义。祖曰。彼是木义。复问。踞义者何。曰与师平出。又问。木义者何。祖曰。汝被我解。马鸣豁然惺悟。稽首归依。遂求剃度。祖谓众曰。此大士者。昔为毗舍离国王。其国有一类人。如马裸露。王运神力分身为蚕。彼乃得衣。王后复生中印度。马人感恋悲。鸣因号马鸣焉。如来记云。吾灭度后六百年。当有贤者马鸣。于波罗奈国摧伏异道。度人无量。继吾传化。今正是时。即告之曰。如来大法眼藏今付于汝。即说偈曰。迷悟如隐显。明暗不相离。今付隐显法。非一亦非二。付法已。即现神变湛然圆寂。众兴宝塔以閟全身。即安王十九年戊戌岁也。

  (丙午) 烈王喜(安王子。王时天雨金子栎阳)治七年。是岁日食。

  (癸丑) 显王扁(烈王子)在位四十八年(时苏秦游说六国)。

  (甲寅) 二年秦惠始称王矣。

  (甲子 三九) 王十二年。

  (辛未) 世尊示灭六百年矣。

  (甲午) 第十二祖马鸣大士者。波罗奈国人也。亦名功胜。以有作无作诸功德最为殊胜。故名焉。既受法于夜奢尊者。后于华氏国转妙法轮。忽有老人坐前仆地。师谓众曰。此非庸流。当有异相。言讫不见。俄从地踊出一金色人。复化为女子。右手指师而说偈曰。稽首长老尊。当受如来记。今于此地上。宣通第一义。说偈已瞥然不见。师曰。将有魔来与吾校力。有顷风雨暴至。天地晦冥。师曰。魔之来信矣。吾当除之。即指空中现一大金龙。奋发威神震动山岩。师俨然于坐魔事随灭。经七日有一小虫。大若蟭螟。潜形坐下。师以手取之示众曰。斯乃魔之所变。盗听吾法耳。乃放之令去。魔不能动。师告之曰。汝但归依三宝即得神通。遂复本形作礼忏悔。师问曰。汝名谁邪。眷属多少。曰我名迦毗摩罗。有三千眷属。师曰。汝尽神力变化若何。曰我化巨海极为小事。师曰。汝化性海得否。曰何谓性海。我未尝知。师即为说性海云。山河大地皆依建立。三昧六通由兹发现。毗摩罗闻言遂发信心。与徒众三千俱求剃度。师乃召五百罗汉与授具戒。复告之曰。如来大法眼藏今当付汝。汝听偈言。隐显即本法。明暗元不二。今付悟了法。非取亦非离。付法已。即入龙奋迅三昧。挺身空中如日轮相。然后示灭。四众以真体藏之龙龛。即显王四十二年甲午岁也。

  (辛丑) 慎靓王定(显王子)治六年(王时六国皆自称王)。

  (丁未) ?王延(慎靓王子)治五十九年(东西周分治为诸侯所侵。王与居人无异。王徙都太子治束)。

  (甲子 四十) 十八年。

  (丙子) 三十年宋灭矣。

  (壬辰) 第十三祖迦毗摩罗。华氏国人也。初为外道有徒三千通诸异论。后于马鸣尊者得法。领徒至西印度。彼有太子名云自在。仰尊者名请于宫中供养。祖曰。如来有教。沙门不得亲近国王大臣权势之家。太子曰。今我国城之北有大山焉。山中有一石窟。师可禅寂于此否。祖曰诺。即入彼山。行数里逢一大蟒。祖直进不顾。遂盘绕祖身。祖因与受三归依。蟒听讫而去。祖将至石窟。复有一老人。素服而出。合掌问讯。祖曰。汝何所止。答曰。我昔尝为比丘多乐寂静。有初学比丘数来请益。而我烦于应答起嗔恨想。命终堕为蟒身。住是窟中。今已千载。适遇尊者获闻戒法。故来谢耳。祖问曰。此山更有何人居止。曰北去十里有大树荫。覆五百大龙。其树王名龙树。常为龙众说法。我亦听受耳。尊者遂与徒众诣彼龙树。出迎尊者曰。深山孤寂龙蟒所居。大德至尊何枉神足。祖曰。吾非至尊。来访贤者。龙树默念曰。此师得决定性明道眼否。是大圣继真乘否。祖曰。汝虽心语吾以意知。但办出家何虑吾之不圣龙树闻已悔谢。尊者即与度脱及五百龙众俱受具戒。复告龙树曰。今以如来大法眼藏付嘱于汝。谛听偈言。非隐非显法。说是真实际。悟此隐显法。非愚亦非知。付法已。即现神变化火焚身。龙树收五色舍利。建塔瘗之。即?王四十六年壬辰岁也。

  (乙巳) ○(王与六国攻秦。昭王怒攻西周。王惧伏于秦。尽献其邑。是年秦使将军摎攻之。取九鼎宝器。王渐而卒。已上八百六十七年内三百二十五年载春秋周灭)。

  右周合三十七君八百六十七年。

  秦 雷氏曰(昭襄孝文庄襄始皇胡亥子婴。秦朝六君。四十九年)。

  (丙午) 昭襄王稷(惠文王子)姓嬴氏。王水德。都咸阳(今京兆也)治五年。至始皇时建亥正通。霸五十一年。

  (辛亥) 世尊示灭七百年矣。

  孝文王戊(昭王子)元年修先王功臣褒厚亲施苑囿除丧。在位三月。运数一年。

  (壬子) 庄襄王楚(孝文王子以吕不韦为相)治三年○次年癸丑日食。

  

  (乙卯) 始皇政(庄襄子昭。四十八年正月旦日。生于郸邯。其年十三。庄襄崩。代立为秦王。自号始皇。欲至万世。独称曰朕。改年朝贺。皆自二月朔。衣服旌旗皆尚黑。置守尉监筑长城。名民曰黔首。用吕不韦赵高李斯为相。蒙恬白起王翦为将。并吞六国平一天下。分三十六郡。自后骄纵周游天下。因之会稽琅玡还至沙丘。忽患病。七月丙申崩于平台矣)治三十七年(寿五十)。

  (甲子 四一) 下令逐诸侯客李斯谏而止。

  (辛未) 灭韩。

  (癸酉) 灭赵。

  (丙子) 灭魏。

  (戊寅) 灭楚。

  (己卯) 虏燕王喜。

  (庚辰) 灭齐。

  (壬午) 二十八年。东巡郡县。上邹峄山及登琅玡。刻石颂德。又上泰山立石封祠祀。值风雨于松下。因封五大夫。又遣徐福求仙。

  (八 癸未) 沙门室利防等一十八人。来自西域。帝恶其异俗以付狱。俄有金刚神。碎狱门而出之。帝惧即厚礼遣之。时国事区区。弗克敬奉。

  (丁亥) 筑长城。

  (戊子) 焚书。

  (己丑) 坑儒作阿房宫。

  (九) 第十四祖龙树尊者。西天竺国人也。亦名龙胜。始于毗罗尊者得法。后至南印度。彼国之人多信福业。闻尊者为说妙法。递相谓曰。人有福业世间第一。徒言佛性谁能睹之。尊者曰。汝欲见佛性。先须除我慢。彼人曰。佛性大小。尊者曰。非大非小非广非狭。无福无报不死不生。彼闻理胜悉回初心。尊者复于座上现自在身如满月轮。一切众唯闻法音不睹师相。彼众中有长者子。名迦那提婆。谓众曰。识此相否。众曰。目所未睹安能辩识。提婆曰。此是尊者现佛性体相以未我等。何以知之。盖以无相三昧形如满月。佛性之义廓然虚明。言讫轮相即隐。复居本座而说偈言。身现圆月相。以表诸佛体。说法无其形。用辨非声色。彼众闻偈咸愿出家以求解脱。尊者即为剃发。命诸圣授具其国先有外道。五千余人作大幻术。众皆宗仰。尊者悉为化之令归三宝。复造大智度论中论十二门论。垂之于世。后告上首弟子迦那提婆曰。如来大法眼藏今当付汝。听吾偈言。为明隐显法。方说解脱理。于法心不证。无瞋亦无喜。付法讫。入月轮三昧。广现神变。复就本座凝然禅寂。迦那提婆与诸四众共建宝塔以葬焉。即秦始皇三十五年己丑岁也。

  (壬辰) 二世胡亥(始皇少子。帝崩。李斯秘之。独赵高胡亥知之。高遂矫诏。杀扶苏而立为帝。二十一即位。治三年)。

  (癸巳) ○(刘季起沛。项羽起江东。率诸侯伐秦。陈胜吴广起。天下大乱矣)。

  (甲午) ○(为赵高杀于望夷宫)。

  三世子婴(扶苏子○初赵高使婿阎乐杀二世。乃引玺佩之。百官莫从。将上殿。殿欲坏者三。高知天命不与。乃立子婴即位。三世杀赵高于齐宫。夷其三族○后沛公入关。子婴即系颈以组。白马素车奉玺降于轵道。为秦王四十六日○沛公既入咸阳。封宫室府库还军坝上○项羽后入关。遂杀子婴。秦遂灭矣)。

  右秦(自始皇二十六年。初并天下。居帝位凡十五年。而汉灭之)。

  (十) 西汉 雷氏曰(汉高惠吕文景武昭昌邑宣元成衰平孺。十有四君。二百十四)。

  (乙未) 高祖邦(字季。姓刘氏。王火德。治十二年。初用秦正太初元年。改用夏正。都长安。今京兆也。礼沛中阳里人。隆准龙颜。左股有七十二黑子。初为泗上亭长。单父吕公。妻之以女。因徙徒骊山到礼西泽中放之。徒中壮士愿从者十人。初行山泽斩当路白蛇。后人见老妪哭曰。吾子白帝子。为赤帝子斩之。秦二世元年。布衣起于沛而灭秦为汉。以萧何为相。韩信为将。张良为谋。即汉有三杰焉。共灭项羽于乌江。生于秦昭四十六年。寿六十二岁。大定天下。丁未夏四月。崩于长乐宫。葬长陵)。

  西楚霸王项羽(名藉下相人也。楚将项燕之孙。身长八尺。目有重瞳。势可拔山力能举鼎。吴中子弟皆惮之。秦二世元年。从季父项梁起江。东至三年灭秦。自号西楚。都彭城。立五年。汉会诸侯于垓下。大溃破之。追至乌江。自刎而死矣)。

  (丙申) 二年冬十月。五星聚东井。十一月召诸县父老。约法三章。杀人者死。伤人及抵谪罪。余去秦法项羽使英布杀义帝于綝。

  (丁酉) 是年灭韩赵魏三国。

  (戊戌) 灭齐。

  (己亥) 灭燕。与项羽约洪沟为界。以分天下。

  (庚子) 会诸将围羽于垓下。虞姬自刎。

  (辛丑) 改咸阳为长安。

  (丁未) 孝惠盈(字日满高祖子。母吕氏。十七即位。见母残酷。使人请太后曰。吾终不能治天下。遂纵酒色淫乐。甲寅八月崩于未央宫。葬安陵。寿二十四岁)。

  治七年始有笛(帝时丘仲作之。笛者涤也。涤荡邪秽纳于雅正。龙笛有七孔。竹笛五孔。羌笛三孔也)。

  (癸丑) 起长安西市修建仓敖。

  (甲寅) 高后雉(姓吕氏。单父吕公女。少帝幼太后临朝称制。立诸吕为王。欲谋天下。几危刘氏。刘章周勃诛诸吕矣)治八年(寿七十一)。

  (乙卯) ○地震○六月晦日食○行八铢钱。

  (丙辰) ○秋星昼见。

  (戊午) 五年南越王自称武帝。

  (己未) ○春星昼见○行五分钱。

  (庚申) 正月日食。

  (壬戌) 文帝恒(高祖次子。母薄姬。初吕后封诸吕为王。陈平周勃刘章共诛诸吕三千人。以立文帝。性资宽惠温纯谨洁。衣不华饰。百姓富乐。自即位后。凡下二十七诏利民太平。甲申崩未央宫。葬㶚陵。寿四十六)治二十三年。

  (甲子 四二) 文帝三年也。

  (十一 庚辰) 第十五祖迦那提婆。南天竺国人也。姓毗舍罗。初求福业兼乐辩论。后谒龙树大士将及门。树知是智人。先遣侍者以满钵。水置于座前。提婆见之。即以一针投之而进。忻然契会。树即为说法。不起于坐现月轮相。唯闻其声不见其形。师语众曰。今此瑞者。师现佛性表说法非声色也。师得法后至毗罗国。彼有长者。曰梵摩净德。一日园树生大耳如菌。味美甚。唯长者与第二子罗睺罗多。取而食之。取已随长。尽而复生。自余亲属皆不能见。时尊者知其宿因。遂至其家。长者问其故。尊者曰汝家昔曾供养一比丘然此比丘道眼未明。以虚沾信施故报为本菌。唯汝与子精诚供养。得以享之。余即否矣。又问。长者年多少。曰七十有九。尊者乃说偈曰。入道不通理。覆身还信施。汝年八十一。此树不生耳。长者闻偈弥加叹伏。且曰。弟子衰老不能事师。愿舍次子随师出家。尊者曰。昔如来记此子。当第二五百年为大教主。今之相遇盖符宿因。即与剃发执侍。至巴连弗城。闻诸外道欲障佛法计之既久。尊者乃执长幡入彼众中。彼问祖曰。汝何不前。祖曰。汝何不后。又曰。汝似贱人。祖曰。汝似良人。又曰。汝解何法。祖曰。汝百不解又曰。我欲得佛。祖曰。我灼然得佛。又曰。汝不合得。祖曰。元道我得汝实不得。又曰。汝既不得。云何言得。祖曰。汝有我故所以不得我无我我故自当得。彼辞既屈。乃问祖曰。汝名何等。祖曰。我名迦那提婆。彼既夙闻祖名。乃悔过致谢。时众中犹互兴问难。尊者折以无碍之辩。由是归伏。乃告上足罗睺罗多而付法眼。偈曰。本对传法人。为说解脱理。于法实无证。无终亦无始。说偈已。入奋迅定身放八光而归寂灭。学众兴塔而供养之。则前汉文帝十九年庚辰岁也。

  (乙酉) 景帝启(文帝子。母窦氏。三十二岁即位。好黄老二子。令宫人皆诵之。因改于书为经。庚子崩未央宫。葬阳陵。寿四十八)治十六年。

  (丁亥) ○(三年用晁错策。七国皆反。遣周亚夫将三十六将攻之。复用袁盎之谋。斩错以谢七国。天下大定矣)。

  (辛亥) 世尊示灭八百年矣。

  (戊戌) ○(帝灭笞法定棰令○疑周亚夫功大欲狱之。遂呕血而死)。

  (十二 辛丑) 武帝彻改建元(景之中子。母王夫人。尝得策文曰。二十七倒策。果七十二岁崩于五祚殿。葬于茂陵。十七即位)。

  治五十四年(依运历图辛丑建元。东方朔为太史)。

  (乙巳) ○(帝好仙术。敬方士文成五利等○铸半两钱。贪地好杀○命司马迁等。造汉太祖历。以正月为岁首。色尚黄。数用五。兴太学修郊祀定音律作诗乐。建封禅礼百神。绍周后。号令文章焕然可述矣)。

  (丁未) 改元光。

  (癸丑) 改元朔。

  (己未) 改元狩○(淮南王安衡山王赐以谋反诛戮。其党。累数万人)。

  (庚申) ○用孙宽为相。卫青霍去病为将。北伐丐奴。开河朔之地○又平南越王○东灭朝鲜为郡县。西历五国。执昆耶王收休屠王○后遣张骞西往身毒国。寻浮图教。果获之。

  (甲子 四三) 四月初作诰官之有诰始此。

  (乙丑) 改元鼎。

  (十三 戊辰) 第十六祖罗睺罗多者。迦毗罗国人也。行化至室罗筏城。有河名曰金水。其味殊美。中流复现五佛影。祖告众曰。此河之源凡五百里。有圣者僧伽难提居于彼处。佛志一千年后当绍圣位。语已领诸学众溯流而上。至彼见僧伽难提安坐入定。祖与众伺之。经三七日方从定起。祖问曰。汝身定邪心定邪。曰身心俱定。祖曰。身心俱定。何有出入。曰虽有出入不失定相。如金在井金体常寂。祖曰。若金在井若金出井。金无动静。何物出入。曰言金动静。何物出入许金出入。金非动静。祖曰。若金在井出者何金。若金出井在者何物。曰金若出井在者非金。金若在井出者非物。祖曰。此义不然。曰彼理非着。祖曰。此义当堕。曰彼义不成。祖曰。彼义不成我义成矣。曰我义虽成法非我故。祖曰。我义已成我无我故。曰我无我故复成何义。祖曰。我无我故故成汝义。曰仁者师于何圣得是无我。祖曰。我师迦那提婆证是无我。曰稽首提婆师而出于仁者。仁者无我故。我欲师仁者。祖曰。我已无我故。汝须见我我。汝若师我故。知我非我我。难提心意豁然。即求度脱。尊者曰汝心自在非我所系。语已即以右手擎金钵举至梵宫。取彼香饭将斋大众。而大众忽生厌恶之心。尊者曰。非我之咎汝等自业。即命僧伽难提分坐同食。众复讶之。祖曰。汝不得食。皆由此故。当知与吾分坐者。即过去娑罗树王如来也。愍物降迹。汝辈亦庄严劫中已至三果而未证无漏者也。众曰。我师神力斯可信矣。彼云过去佛者。即窃疑焉。罗睺罗多知众生慢。乃曰。世尊在日世界平正。无有丘陵江河沟洫。水悉甘美草木滋茂。国土丰盈无八苦行十善。自双树示灭八百余年。世界丘墟草木枯悴。人无至信正念轻微。不信真如唯爱神力。言讫以右手渐展入地。至金刚轮际取甘露水。以琉璃器持至会所。大众见之即时钦慕悔过作礼。于是尊者命僧伽难提而付法眼。偈曰。于法实无证。不取亦不离。法非有无相。内外云何起。付法已安坐归寂。四众建塔当前汉武帝二十八年戊辰岁也。

  (辛未) 改元封。

  (丁丑) 改太初。

  (辛巳) 改天汉。

  (乙酉) 改太始。

  (己丑) 改征和。

  (庚寅) ○(巫蛊起。江充等㭾蛊于太子宫。太子与皇后谋斩。充与丞相刘屈厘大战长安。死者不啻数万)。

  (十四 乙未) 昭帝弗(武之子。母赵婕好九岁即位。霍光受遗诏。以周公辅政。至戊申四月崩未央宫。葬于平陵。寿二十二岁)治十三年改始元。

  (辛丑) 改元凤(上官桀子。安与霍光争权。帝终知霍光之忠烈矣)。

  (丁未) 改元平。

  (十五) 第十七祖僧伽难提者。室罗筏城宝庄严王之子也。生而能言。常赞佛事。七岁即厌世乐。以偈告其父母曰。稽首大慈父。和南骨血母。我今欲出家。幸愿哀愍故。父母固止之。遂终日不食。乃许其在家出家。号僧伽难提。复命沙门禅利多为之师。积十九载未尝退倦。尊者每自念言。身居王宫胡为出家。一夕天光下。属见一路坦平。不觉徐行。约十里许。至大岩前有石窟焉。乃燕寂于中。父既失子。即摈禅利多出国。访寻其子不知所在。经十年尊者得法受记已。行化至摩提国。忽有凉风袭众身心悦适非常。而不知其然。祖曰。此道德之风也。当有圣者出世嗣续祖灯乎。言讫以神力摄诸大众游历山谷。食顷至一峰下。谓众曰。此峰顶有紫云如盖。圣人居此矣。即与大众徘徊久之。见山舍一童子持圆鉴直造尊者前。祖问。汝几岁邪。曰百岁。祖曰。汝年尚幼。何言百岁。曰我不会理正百岁耳。祖曰。汝善机邪。曰佛言若人生百岁不会诸佛机。未若生一日而得决了之。祖曰。汝手中当何所表。曰诸佛大圆鉴。内外无瑕翳。两人同得见。心眼皆相似。彼父母闻子语。即舍令出家。祖携至本处。受具戒讫。名伽邪舍多。他时闻风吹殿铜铃声。祖问。铃鸣邪风鸣邪。舍多曰。非风非铃。我心鸣耳。祖曰。心复谁乎。曰俱寂静故。尊者曰。善哉善哉。继吾道者非子而谁。即付法。偈曰。心地本无生。因地从缘起。缘种不相妨。华果亦复尔。付法已。右手攀树而化。大众议曰。尊者树下归寂。其垂荫后裔乎。将奉全身于高原建塔。众力不能举。即就树下起塔。当前汉昭帝十三年丁未岁也。

  (戊申) 昌邑王(名贺。哀王髆之子。武之孙。在位二十七日。狂纵淫戏无度。罪犯一千一百二十七事。霍光与田延年白太后解玺送之。昌邑废为海昏侯。诛昌邑。群臣不能辅道者二百余人。唯王吉龚。遂以数谏得免)。

  (十六) 宣帝询改本始(武帝曾孙。戾太子孙。生而足下有毛。初名病已。及太子被巫蛊事。已在襁褓。赖丙吉救养在于掖庭。外家霍光废昌邑。奏太后就民间迎之即位。远方来朝。号中兴主。壬申十二月崩未央宫。寿四十三。葬杜陵)。

  治二十四年(时谷一石五钱)。

  (壬子) 改地节。

  (丙辰) 改元康。

  (庚申) 改神爵。

  (甲子 四四) 改五凤。

  (戊辰) 改甘露。

  (辛未) ○(帝兴自民间。知民疾苦。魏相丙吉为相。黄霸龚遂为太守。从耿寿昌奏。置常平仓以利民)。

  世尊示灭九百年矣。

  (十七) 时北天竺富娄叉国。有大论师。名憍尸迦。三子同号婆苏槃豆。此曰天亲。长曰阿僧佉。此云无著。首畅大乘。阿瑜阇国大讲堂中。请圣慈尊说瑜伽论。广明五分十七地义。次曰伐苏畔徒。此云世亲。首学小乘造俱舍论。后从兄化演畅真宗。造唯识等穷探大义。幼曰比邻持弗婆提。此云狮子觉。造集论释大有研寻。异矣哉。三弘中道并誉五天。妙栴檀林宁容荆棘。俱求知足归真应期。御世谈玄难可详矣。

  (壬申) 改黄龙。

  (癸酉) 元帝奭改初元(宣之子。二十七岁即位。戊子五月崩于未央宫。葬渭陵。寿四十三。用儒)治十六年。

  (戊寅) 改永光。

  (癸未) 改建昭。

  (戊子) 改竟宁。

  (十八 己丑) 成帝骜改建始(字太孙。元帝子。二十即位。以诸舅王凤等为列侯。更递为相。五侯专政。贤臣屏退。甲寅三月崩未央宫)。

  在位二十六年(寿四十五葬延陵)。

  (癸巳) 改河平。

  (丁酉) 改阳朔。

  (辛丑) 改鸿嘉○(光禄大夫刘向传比观典籍往往见有佛经)。

  (乙巳) 改永始。

  (十九 戊申) 第十八祖伽邪舍多。摩提国人也。姓郁头蓝。父天盖。母方圣。尝梦大神持鉴。因时有娠。凡七日而诞。肌体莹如琉璃。未尝洗沐。自然香洁。幼好闲静。语非常童。持鉴出游。遇难提尊者得度。领徒至大月氏国。见一婆罗门舍有异气。祖将入彼舍。舍主鸠摩罗多问曰。是何徒众。曰是佛弟子。彼闻佛号心神竦然。即时闭户。祖良久自扣其门。罗多曰。此舍无人。祖曰。答无者谁。罗多闻语知是异人。遽开关延接。尊者曰。昔世尊记曰。吾灭后一千年。有大士出现于月氏国。绍隆玄化。今汝值吾。应斯嘉运。于是鸠摩罗多发宿命智。投诚出家。受具讫付法。偈曰。有种有心地。因缘能发萌。于缘不相碍。当生生不生。付法已。踊身虚空现十八变化。火光三昧自焚其身。众以舍利起塔。当前汉成帝二十年戊申岁也。

  (己酉) 改元延。

  (癸丑) 改绥和(都水使者刘向集列仙传。检藏得梵本佛经六十余卷。编入仙传。则知自周以来自之人未识尔)。

  (乙卯) 哀帝欣改建平(元帝庶孙定陶恭王子。十九即位。六年庚申六月崩未央宫。葬义陵。寿二十五)在位六年。

  (己未) 改元寿(景宪使西域大月氏王。令木子口投献浮图经)。

  (辛酉) 平帝衍改元始(元帝庶孙。中山孝王兴之子。三岁封为王。元寿二年九月即位。时方九岁。王莽秉政。已丑崩未央宫。葬康陵。寿十四)。

  治五年(加王莽为大司马。又升为太傅。号安汉公)。

  (甲子 四五) 立莽女为后○莽加宰衡。

  (丙寅) 孺子婴(宣帝玄孙。广戚侯显之子。莽既鸩平帝。婴在襁褓。年二岁即位。莽初行周公故事。一如天子。吏民称臣。帝至戊辰而崩矣)治三年。

  (二十 戊辰) 改初始(王莽以伪符瑞遂即位矣)。

  新室(姓王氏都长安。以十二月建平)雷氏曰(莽玄盆子合十八年)。

  (己巳) 莽字巨君(王皇后弟。成帝之舅。王曼之子。元城人。初封新都侯。以女为正帝后。后纂夺即位。国号大新。至地皇四年。为汉光武军师杀之)。

  在位十五年改元建国。

  (甲戌) 改天凤。

  (庚辰) 改地皇。

  (二十一 壬午) 第十九祖鸠摩罗多者。大月氏国婆罗门之子也。昔为自在天人(欲界第六天)见菩萨璎珞忽起爱心堕生忉利(欲界第二天)闻憍尸迦说般若波罗蜜多。以法胜故升于梵天(色界)以根利故善说法要。诸天尊为导师以继。祖时至遂降月氏。后至中天竺国。有大士阇夜多。问曰。我家父母素信三宝。而尝萦疾瘵。凡所营作皆不如意。而我邻家久为旃陀罗行。而身常勇健所作和合。彼何幸而我何辜。尊者曰。何足疑乎。且善恶之报有三时焉。凡人但见仁夭暴寿逆吉义凶。便谓亡因果虚罪福。殊不知影响相随毫厘靡忒。纵经百千万劫亦不磨灭。时阇夜多闻是语已。顿释所疑。祖曰。汝虽已信三业。而未明业从惑生。惑因识有。识依不觉。不觉依心。心本清净。无生灭无造作。无报应无胜负。寂寂然灵灵然。汝若入此法门可。与诸佛同矣。一切善恶有为无为。皆如梦幻。阇夜多承言领旨。即发宿慧恳求出家。既受具。尊者告曰。吾今寂灭时至。汝当绍行化迹。乃付法眼。偈曰。性上本无生。为对求人说。于法既无得。何怀决不决。祖曰。此是妙音如来见性清净之句。汝宜传布后学。言讫既于坐上以指爪[((牙-才+木)*ㄆ)/(厂@刀)]面如红莲开。出大光明照耀四众而入寂灭。阇夜多起塔。当新室十四年壬午岁也。

  (癸未) 淮阳刘玄(字圣公。景帝七代孙。光武族兄。景帝生长沙王发。舂陵侯买。戴侯熊渠。苍梧太守利子张生圣公为王素懦弱羞愧汗流举手不能言二年因。牧马于郊下因。缢杀之光。武使邓禹葬于霸陵)治二年改元更始。

  (甲申) 刘盆子(太山式人。阳城王章之后。宪武侯萌之子。初与樊崇起莒皆朱眉破莽。建武三年降于光武。遂封赵王)治一年。

  (二十二) 东汉(都洛阳姓刘氏王火德)雷氏云(光明章和殇安北乡顺冲质桓灵献遭殃。合十三主百九十五)。

  (乙酉) 世祖光武帝秀(字文叔南蔡人。高祖九世孙。景帝子。长沙王发生舂陵侯买。郁林太守外钜鹿都尉回。南顿令钦之子生。有赤光照室。既长用严子陵策。复兴汉室。遂即位于鄗南。后移都洛。丁巳二月崩于南宫前殿。寿六十二。葬原陵)治三十三年。改元建武。

  (戊戌) 封孔子为褒城侯。

  (辛亥) 世尊示灭一千年(此后护法诸大菩萨等相次出世造论矣)。

  (丙辰) 改中元○京师有醴泉出饮者疾愈矣。

  (戊午) 明帝庄(光武第四子。十岁通春秋。三十即位。大兴儒学。乙亥崩于东宫前殿。寿四十八。葬显节陵)。

  治十八年。改元永平。

  (二十三 辛酉) 帝梦金人身长丈六。项佩日轮飞至殿庭。旦集群臣令占所梦。通人傅毅奏曰。臣按周书异记。昭王二十四年甲寅四月八日。平旦之时。暴风忽起宫殿人舍咸悉震动。夜有五色光气入贯太微。遍于四方尽作青红色。王问太史苏由曰。是何祥也。对曰。西方有大圣人生也。王曰。于天下何如。对曰。此时无他。后一千年声教被及此土。王使鑴石记之。埋在南郊天祠前。以年计之。至今辛酉一千一十年也。陛下所梦将必是乎。帝信以为然。即遣中郎将蔡愔博士王遵秦憬等十有八人。西访其道至。大月氏国果遇迦叶摩腾竺法兰二三藏。持优填王第四造白㲲像并四十二章经。愔等奉迎而归于洛矣。

  (甲子 四六)。

  (二十四 戊辰) 教流此土。十二月三十日。愔等迎二沙门。至于洛阳。帝令模像置清凉台及显节陵并洛京西门以示万姓。梵汉二经。安兰台石室。

  (二十五 己巳) 诏以释迦宝像奉安显节陵及清凉台供养。帝于城西雍门外立寺。与腾兰居之。以白马驼经而来。遂名白马寺。腾兰初译四十二章经。帝幸其寺。腾兰进曰。寺东何馆。帝曰。昔有阜无因而起。夷之复然。夜有光怪。民呼为圣蒙。因祀之。疑洛阳神也。腾曰。按天竺金藏诠所志。阿育王藏如来舍利。于天下凡八万四千所。今支那震旦境中十有九处。此其一也。帝大惊。即日驾幸圣蒙。而腾兰随往拜起。忽有圆光现蒙上。三身现光中。侍卫呼万岁。帝喜曰。不遇二大士安。知上圣遗祐哉诏。塔于上受。制度于腾兰塔。成九层高。二百尺明。年光又现有。金色手出塔顶尺许。如琉璃中见。天香郁然。帝驾幸拜瞻。光随步武旋绕。自午及申而灭矣。

  (庚午) 法兰出十地断结经。

  (辛未) (楚王英皇弟也。学黄老与佛。作图谶以谋反。废徙丹阳自杀。累及千余人)。

  (二十六 壬申) 释道比较焚经。是年正月一日。五岳诸山道士褚善信等上表欲相比较。时南岳道士褚善信等。西岳道士刘正念等。北岳道士桓文度等。东岳道士焦德心等。嵩岳道士吕惠通等。诸山道士费叔才祁文信等。一千三百一十人。表以奏闻。敕纳表。遣尚书令宋庠引入长乐宫。以今月十五日可集白马寺筑坛火验。时道士等将真元五诀符录等五百九卷。茅成子等二十七家二百三十五卷。通计七百四十八卷。置之坛上。褚费之徒焚香咒已。遂使火之。诸子道书皆灭灰烬。褚费二人自感而死。次将梵本火然赫奕。宛如鼎新更增光洁。时摩腾法师神变凌空冷然偈曰。狐非师子类。灯非日月明。池无巨海纳。丘无山岳嵘。法云垂世界。善种得开萌。显通希有法。处处化群生。乃至弘宣法戒藏等神通胜事惊心。士庶投诚出家者众。时有司空阳城侯刘善峻等一千余人。出家慕道。四岳道士吕惠通等六百二十八人。抽簪落发。夫人王婕妤等与宫媛二百三十余人。厌俗归真。南岳道士葬褚善信不蒙披剃。既而明帝设斋。亲与下发广施衣钵。大启玄宗广度僧尼。高崇十寺。城外七寺安僧。城内三寺安尼。寺之得名自斯而始。备如佛道论。

  石室论云。昔西域圣人之教。既非衰周暴秦之君能致。然西汉二三英主有可致之德。而圣教亦不致独现梦于显宗。凡近古高僧皆推圣人。去世登千载而后教至。曾未有考着显宗之德。有必感圣人之理。此予通论所以作也。夫两汉有天下。传一十四世。有君德者二祖四宗而已。二祖盖立极之主。固无可议。若三宗各有其美而不能亡其弊。唯显宗为至焉。有太宗恭俭之美。而文雅威重过之。有世宗经略四夷之勋。而无世宗淫侈之弊。有中宗政治之明。而崇儒尚德过之。斯盖兼有三宗之长。而无三宗之短。是以班固傅毅颂其勋德。于汉为最盛。然世之学者不以班傅为信。徒见钟离意傅谓帝性褊察好以耳目隐发为明。遂以此为显宗实录。呜呼岂笃论哉。昔仲尼平章讨论五帝三王治具以贻后世。迨其殁。遭暴秦燔毁之余。世宗仅能举之而已。至显宗乃始躬行儒术尊养三老五更飨社礼毕帝正坐自讲诸儒执经问难。于是时冠带缙绅之士。圆桥门而观听者。亿万计。济济乎洋洋乎。由三代以来儒风之盛。莫甚于永平时也。及章和之后。诸儒开馆授道著籍者。动逾千数。盖永平之化行。犹周南麟迹之应也。初虽狱讼繁剧。帝临政刻意裁断精严。盖善善恶恶之实。犹孔子为司寇七日而诛少正卯。暂临夹谷而尽诛优倡。此诚不可以少假仁恕也。谓之褊察则过矣。予谓使孔子复生。必曰显宗吾无间然矣。由显宗包举西汉三宗之美。躬行古帝王之道。此所以精爽与吾佛感通。而圣教因之被于中夏。与儒相表里而广天下以善也。夫岂偶尔哉。

  (二十七 甲戌) 第二十祖阇夜多者。北天竺国人也。智慧渊冲化导无量。后至罗阅城敷扬顿教。彼有学众唯尚辨论。为首者名婆修盘头(此云遍行)常一食不卧六时礼佛。清净无欲为众所归。祖将欲度之。先问彼众曰。此遍行头陀能修梵行。可得佛道乎。众曰。我师精进。何故不可。祖曰。汝师与道远矣。设苦行历于尘劫。皆虚妄之本也。众曰。尊者蕴何德行而讥我师。祖曰。我不求道。亦不颠倒。我不礼佛。亦不轻慢。我不长坐。亦不懈怠。我不一食。亦不杂食。我不知足。亦不贪欲。心无所希。名之曰道。时遍行闻已发无漏智欢喜赞叹。尊者又语彼众曰。会吾语否。吾所以然者。为其求道心切。夫弦急即断。故吾不赞令其住安乐地入诸佛智。复告遍行曰。吾适对众抑挫仁者。得无恼于衷乎。曰我忆念七劫前生安乐国。师于智者月净记我。非久当证斯陀含果。时有大光明菩萨出世。我以老故策杖礼谒。师叱我曰。童子轻父。一何鄙哉。时我自谓无过。请师示之。师曰。汝礼大光明菩萨。以杖倚壁画佛面。以此过慢遂失二果。我责躬悔过。以来闻诸恶言如风如响。况今获饮无上甘露。而反生热恼邪。唯愿大慈以妙道垂诲。祖曰。汝久植众德。当继吾宗。听吾偈曰。言下合无生。同于法界性。若能如是解。通达理事竟。付法已。不起于坐奄然归寂。阇维收舍利建塔。当后汉明帝十七年甲戌岁也。

  佛祖历代通载卷第四

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第五

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  东汉

  (丙子) 章帝炟改建初(一名坦。明帝第五子。十九即位。戊子正月崩于章德殿。寿三十一。葬敬陵)治十三年。

  (庚辰) 帝命郑玄等诸生作白虎通。

  (甲申) 改元和(徐州刺史王景上。金人颂美。先帝致佛之功。载汉书○有神雀凤皇白鹿白乌之瑞)。

  (丁亥) 改章和。

  (己丑) 和帝肇改永元(章第四子。十岁即位。乙巳崩章德前殿。寿二十七。葬慎陵)在位十七年。

  (乙巳) 改元兴。

  (丙午) 殇帝隆改延平(和之少子。降诞百余日。即位于元兴元年十二月。时邓太后临朝称制。次年八月崩崇德前殿。寿龄二岁。葬康陵)在正位一年。

  (一 丁未) 安帝祐改永初(章帝孙清河孝王庆之子。年十三即位。乙丑二月因南巡狩。幸于叶。崩之车辇。寿三十二。葬恭陵矣)治十九年。

  (甲寅) 改元初。

  (二 丁巳) 第二十一祖婆修盘头者。罗阅城人也。姓毗舍佉。父光盖。母严一。家富而无子。父母祷于佛塔而求嗣焉。一夕母梦吞明暗二珠。觉而有孕。经七日有一罗汉。名贤众。至其家。光盖设礼。贤众端坐受之。严一出拜。贤众辟席云。回礼法身大士。光盖罔测其由。遂取一宝珠。跪献贤众。试其真伪。贤众即受之。殊无逊谢光盖不能忍。问曰。我是丈夫。致礼不顾。我妻何德。尊者辟之。贤众曰。我受礼纳珠。贵福汝耳。汝妇怀圣子。生当为世灯慧日。故吾辟之。非重女人也。贤众又曰。汝妇当生二子。一名婆修盘头。则吾所尊者也。二名刍尼(此云野鹊子)昔如来在雪山修道。刍尼巢于顶上。佛既成道。刍尼受报为那提国王。佛记云。汝至第二五百年。生罗阅城毗舍佉家。与圣同胞。今无爽矣。后一月果生二子。尊者婆修盘头。年至十五。礼光度罗汉出家。感毗婆诃菩萨与之授戒。行化至那提国。彼王名常自在。有二子。一名摩诃罗。次名摩拏罗。王问尊者曰。罗阅城土风与此同异。尊者曰。彼土曾三佛出世。今王国有二师化导。曰二师者谁。尊者曰。佛记第二五百年有一神力大士出家继圣。即王之次子摩拏罗是其一也。吾虽德薄敢当其一。王曰。诚如尊者所言。当舍此子作沙门。尊者曰。善哉大王。能遵佛旨。即与受具付法。偈曰。泡幻同无碍。如何不了悟达法在其中。非今亦非古。尊者付法已。踊身高半由旬。屹然而住。四众仰瞻虔请。复坐跏趺而逝。茶毗得舍利建塔。当后汉安帝十一年丁巳岁也。

  (庚申) 改永宁。

  (辛酉) 改建光。

  (壬戌) 改延光。

  (甲子 四七) 王十八年也。

  (丙寅) 北乡侯懿(章帝孙。济北王寿之子。阎太后立之。是年三月即位。至十月而薨。治二百七十二日)。

  顺帝保改永建(安帝子。年十一登位梁商父子秉政。甲申八月崩玉堂前殿。寿三十。葬于宪陵。永宁初为太子)在位十九年。

  (壬申) 改阳嘉。

  (丙子) 改永和。

  (壬午) 改汉安。

  (甲申) 改建康。

  (乙酉) 冲帝炳改永嘉(顺帝子。母曰虞贵人。建康甲申八月即位。时年二岁。梁太后临朝。梁冀辅政。次年三月而崩玉堂前殿。寿三岁。葬于怀陵)运数一年。

  (丙戌) 质帝缵改本初(章帝玄孙。渤海王鸿之子也。八岁即位。聪惠夙成。尝朝会日。梁冀曰跋扈将军。冀恶之。鸩于玉堂前殿。寿九岁葬静陵)在位一年。

  (三 丁亥) 桓帝志改建和(章帝曾孙。蠡吾侯翼之子。十五即位。梁冀辅政。永康丁未崩于德阳前殿。寿三十六。葬宣陵也)在位二十一年。

  (四 己丑) 安息国沙门。安清字世高。本世子当嗣位。让之叔父舍国出家。既至洛京译经二十九部。一百七十六卷。绝笔于灵帝建宁三年。因附舟浮游次庐山之䢼亭庙。舣舟祠下庙神灵甚。能分风送往来之舟。有乞神竹者。未许而斫。神怒覆其舟致竹斫处。过者雀息汗下。高之舟人奉牲请福。神辄降语曰。舟有沙门。乃不与俱来耶。高至庙下神复降与高语奋。因泣曰。弟子家此湖。千里皆所辖。坐宿多嗔今报形极丑。又旦夕且死必入地狱。有缣千段并杂宝玩。当为建寺塔为冥福。高许之。徐曰。能出形相劳苦乎。神曰。形恶奈何。高曰。第出之。于是出其首帐中。盖巨蟒也。高梵语咒之。蟒若雨泪俄不见。高舟未发。有少年跪前。高又咒之乃去。舟人问谁氏子。高曰。庙神已脱蟒形。故来谢耳。高至豫章建寺。即今大安是也。由高而名盖江淮寺塔之始。

  (庚寅) 改和平。是年月支国沙门支娄迦谶。亦云支谶。至洛阳。少时习语大通华言。遂译经。至中平年凡二十一部。六十三卷。永兴元年桓帝于宫中铸黄金浮图老子像。覆以百宝华盖。身奉祀之。由是百姓向化。事佛弥盛。

  (辛卯) 改元嘉。

  世尊示灭一千一百年矣。

  (癸巳) 改永兴。

  (乙未) 改永寿。

  (戊戌) 改延熹。

  (五 乙巳) 第二十二祖摩拏罗者。那提国常自在王之子也。年三十遇婆修祖师。出家传法至西印度。彼国王名得度。即瞿昙种族。归依佛乘勤行精进。一日于行道处现一小塔。欲取供养众莫能举。王即大会梵行禅观咒术等三众。欲问所疑。时尊者亦赴此会。是三众皆莫能辨。尊者即为王广说塔之所因(阿育王造塔此不繁录)今之出现。王福力之所致也。王闻是说。乃曰。至圣难逢世乐非久。即传位太子。投祖出家。七日而证四果。尊者深加慰诲。曰汝居此国善自度人。今异域有大法器。吾当化令得度。曰师应迹十方动念当至。宁劳往邪。尊者曰然。于是焚香遥语月氏国鹤勒那比丘曰。汝在彼国教导鹤众。道果将证宜自知之。时鹤勒那为彼国王宝印说修多罗偈。忽睹异香成穗。王曰。是何祥也。曰此是西印度传佛心印祖师摩拏罗将至。先降信香耳。曰此师神力何如。答曰。此师远承佛记。当于此土广宣玄化。时王与鹤勒那俱遥作礼。尊者知已即辞得度比丘往月氏国。受王与鹤勒那供养。后鹤勒那问尊者曰。我止林间已经九白(印土以一年为一白)有弟子龙子者。幼而聪慧。我于三世推穷莫知其本。尊者曰。此子于第五劫中。生妙喜国婆罗门家。曾以旃檀施于佛宇作槌撞钟。受报聪敏为众钦仰。又问。我有何缘而感鹤众。尊者曰。汝第四劫中。尝为比丘。当赴会龙宫。汝诸弟子咸欲随从。汝观五百众中无有一人堪任妙供。时诸子曰。师常说法。于食等者于法亦等。今既不然。何圣之有。汝即令赴会。自汝舍生趣生转化诸国。其五百弟子以福微德薄生于羽族。今感汝之惠故。为鹤众相随。鹤勒那闻语曰。以何方便令彼解脱。尊者曰。我有无上法宝。汝当听受化未来际。而说偈曰。心随万境转。转处实能幽。随流认得性。无喜复无忧。时鹤众闻偈飞鸣而去。尊者跏趺寂然奄化。鹤勒那与宝印王起塔。当后汉桓帝十九年乙巳岁也。

  (丁未) 改永康。

  大教至东夏一百年矣。

  (六 戊申) 灵帝宏改建宁(章帝玄孙。渎亭侯苌之子。十二即位。己巳四月崩南宫。寿三十四。葬文陵)在位二十二年(宝武立之)。

  (壬子) 改熹平。

  (七 癸丑) 是年天竺沙门竺佛朔至洛阳。译道行般若经。弃文存质深得经意。至光和中同支谶译般舟三昧经共三卷。是岁安息国优婆塞都尉安立至洛邑。同清信士严佛调译经七部。于时复有沙门支曜康巨康猛详昙果竺大力。皆善方言。终汉世译经凡三百余部。

  (丙辰) 诏刻五经文字。立于太学门外。

  (戊午) 改光和。

  (八 甲子 四八) 改中平○道始黄巾作叛(初钜鹿张角假术治病谋反。自称大贤良师。又称黄天。不数年结三十六万人。皆着黄巾。以甲子年同起杀人。建安癸未焚燎郡县。内外太恐。举左中郎将皇甫嵩讨灭之张角病死。斩其尸。二弟皆战败。俱斩而尽。传首京师)。

  (戊辰) ○(綦稠自称天子起兵作乱)。

  (己巳) ○(益州黄巾马相自称天子○黄巾贼起。鬻狱卖官。宦者卜常侍弄权。天下大乱)。

  洪农王辩(灵帝子即位。改元光熹○袁术收阉人无少长斩之。又改昭宁。太原牧董卓入朝。因废帝为洪农王。寻又杀之。立陈留王为少帝矣)在位一百七十日。

  (九 庚午) 献帝协改初平(灵帝中子。昭宁九年九月。董卓废皇子辩立之。九岁即位)在位三十年(董卓自称太师。劫土迁都长安。三年王允吕布共诛卓灭其族矣)。

  (十 癸酉) 帝初平中。牟子未详名字。世称牟子。既修经传诸子。书无大小靡不好之。虽不乐兵法。然犹读焉。虽读神仙不死之书。抑而不信。以为虚诞。会灵帝崩后天下扰乱。独交州差安。北方异人咸来在焉。多为神仙辟谷长生之术。牟子常以五经难之。道家术士莫敢对焉。先是牟子将母辟世。年二十六。归苍梧娶妻。太守闻其守学。谒请署吏。时年方盛志精于学。又见世乱无仕宦意。竟不就。是时州郡相疑隔塞不通。太守以其博学多识。使致敬荆州。牟子以为荣爵易让使命难辞。会牧弟豫章太守为中郎将笮融所杀。牧遣骑都尉刘彦将兵赴之。恐外界相疑兵不得进。乃谓牟子曰。弟为逆贼所害。骨肉之痛愤发肝心。尝遣刘都尉行。恐界外疑难行人不通。君文武兼备有专对才。今欲相屈之零陵桂阳假涂于通路何如。牟子重违其意诺之。适其母卒。遂不果行。久之叹曰。老子绝圣弃智修身保真。万物不干其志。天下不易其乐。天子不得臣。诸侯不得友。故可贵也。于是锐志于佛道兼研老子五千文。舍玄妙为酒浆。玩五经为琴篁。世俗之徒多非之者。以为背五经而向异道。欲争则非道。欲默则不能。遂以笔墨之间。略引圣贤之言证解之。名曰牟子理惑云。

  问曰。何以正言佛。佛为何谓乎。牟子曰。佛者觉也。犹名三皇神五帝圣也。佛乃道德之元祖。神明之宗绪。佛之言觉者。恍惚变化分身散体。或存或亡。能小能大。能圆能方。能老能少。能隐能彰。蹈火不烧履刃不伤。在污不染在祸无殃。不行而到。无作而光。故号为佛也。

  问曰。何谓之为道。道何类也。牟子曰。道之言导也。导人致于无为。牵之无前引之无后。举之无上抑之无下。视之无形听之无声。四表为大蜿蜒其外。毫厘为细间关其内。故谓之道。

  问曰。孔子以五经为道教。可拱而诵履而行之。今子说道虚无恍惚。不见其意不指其事。何与圣人言异乎。牟子曰。不可以所习为重所希为轻。惑于外类失于中情。立事不失道德。犹调弦不失宫商。天道法四时。人道法五常。老子曰。有物混成先天地生可以为天下母。吾不知其名。强字之曰道。道之为物。居家可以事亲。宰国可以治民。独立可以治身。履而行之充乎天地。废而不用消而不离。子不解之。何异之有乎。问曰。夫至实不华至辞不饰。言约而至者丽。事寡而达者明。故珠玉少而贵瓦砾多而贱。圣人制七经之本。不过三万言。众事备焉。今佛经卷以万计言以亿数。非一人力所能堪也。仆以为烦而不要矣。牟子曰。江海所以异于行潦者。以其深广也。五岳所以别于丘陵者。以其高大也。若高不绝山阜。跛羊凌其巅。深不绝涓流。孺子浴其渊。麒麟不处苑囿之中。吞舟之鱼不游数仞之溪。剖三寸之蚌。求明月之珠。探枳?之巢。求凤凰之雏。必难获也。何者小不能容大也。佛经前说亿载之事。却道万世之要。太素未起太始未生。乾坤肇兴。其微不可握。其纤不可入。佛悉弥纶其广大之外。剖析其窈妙之内。靡不纪之。故其经卷以万计言以亿数。多多益具众众益富。何不要之有。虽非一人所堪。譬若临河饮水。饱而自足。焉知其余哉。问曰。佛经众多。欲得其要而弃其余。直说其实而除其华。牟子曰否。夫日月俱明各有所照。二十八宿各有所主。百药并生各有所愈。狐裘备寒。絺绤御暑。舟舆异路俱致行旅。孔子不以五经之备。复作春秋孝经者。欲博道术恣人意耳。佛经虽多。其归为一也。犹七典虽异。其贵道德仁义亦一也。孝所以说多者。随人行而与之。若子张子游俱问一孝。而仲尼答之各异。攻其短也。何弃之有哉。

  问曰。佛道至尊至大。尧舜周孔曷不修之乎。七经之中不见其辞。子既耽诗书悦礼乐。奚为复好佛道喜异术。岂能逾经传美圣业哉。窃为吾子不取也。牟子曰。书不必孔丘之言。药不必扁鹊之方。合义者从。愈病者良。君子博取众善以辅其身。子贡云。夫子何常师之有乎。尧事尹寿。舜事务成。旦学吕望。丘学老聃。亦俱不见于七经也。四师虽圣。比之于佛。犹白鹿之与麒麟。燕鸟之与凤凰也。尧舜周孔。且犹与之。况佛身相好变化神力无方。焉能舍而不学乎。五经事义或有所阙。佛不见记何足怪疑哉。

  问曰。云佛有三十二相。八十种好。何其异于人之甚也。殆富耳之语。非实之云也。牟子曰。谚云。少所见多所怪。睹馲驼言马肿背。尧眉八彩。舜目重瞳。皋陶鸟啄。文王四乳。禹耳三漏。周公背偻。伏羲龙鼻。仲尼反宇。老子日角目玄鼻有双柱手把十文足蹈二五此非异于人乎。佛之相好奚疑哉。

  问曰。孝经言。身体发肤受之父母。不敢毁伤。曾子临没。启予手启予足。今沙门剃头。何其违圣人之语。不合孝子之道也。吾子常好论是非平曲直。而反善之乎。牟子曰。夫讪圣贤不仁。平不中不智也。不仁不智何以树德。德将不树顽嚚之俦也。论何容易乎。昔齐人乘船渡江。其父堕水。其子攘臂捽头颠倒。使水从口出。而父命得苏。夫捽头颠倒不孝莫大。然以全父之身。若拱手修孝子之常。父命绝于水矣。孔子曰。可与适道。未可与权。所谓时宜施者也。且孝经曰。先王有至德要道。而泰伯断发文身。自从吴越之俗。违于身体发肤之义。然孔子称之。其可谓至德矣。仲尼不以其断发毁之也。由是而观。苟有大德不拘于少。沙门捐家财弃妻子不听音视色。可谓让之至也。何违圣语不合孝乎。豫让吞炭漆身。聂政皮面自刑。伯姬蹈火。高行截容。君子为勇而死义。不闻讥其毁没也。沙门剃除须发。而比之于四人。不已远乎。

  问曰。夫福莫逾于继嗣。不孝莫过于无后。沙门弃妻子捐货财终身不娶。何违其福孝之行也。自苦而无奇。自拯而无异矣。牟子曰。夫长左者必短右。大前者必狭后。孟公绰为赵魏老则优。不可以为滕薛大夫。妻子财物世之余也。清躬无为道之妙也。老子曰。名与身孰亲。身与货孰多。又曰。观三代之遗风。览乎儒墨之道术。诵诗书修礼节。崇仁义视清洁。乡人传业名誉洋溢。此中士所施行。恬惔者所不恤。故前有隋珠后有虓虎。见之走而不敢取何也。先其命而后其利也。许由栖巢木。夷齐饿首阳。圣孔称其贤曰。求仁得仁者也。不闻讥其无后无货也。沙门修道德。以易游世之乐反淑贤以贷妻子之欢。是不为奇孰与为奇。是不为异孰与为异哉。

  问曰。黄帝垂衣裳制服饰。箕子陈洪范。貌为五事首。孔子作孝经。服为三德始。又曰。正其衣冠尊其瞻视。原宪虽贫不离华冠。子路遇难不忘结缨。今沙门剃头发被赤布。见人无跪起之礼仪。无盘旋之容正。何其违貌服之制。乖搢绅之饰也。牟子曰。老子云。上德不德。是以有德。下德不失德。是以无德。三皇之时。食肉衣皮巢居穴处。以崇质朴。岂复须章甫之冠。曲裘之饰哉。然其人称有德而敦庞。正信而无为。沙门之行有似之矣。或曰。如子之言。则黄帝尧舜周孔之俦。弃而不足法也。牟子曰。夫见博则不迷。听聪则不惑。尧舜周孔修世事也。佛与老子无为志也。仲尼栖栖七十余国。许由闻禅洗耳于渊。君子之道。或出或处。或默或语。不溢其情。不淫其性。故其道为贵。在乎所用。何弃之有乎。

  问曰。佛道言。人死当更复生。仆不信此言之审也。牟子曰。人临死其家上屋呼之。死已复呼谁。或曰。呼其魂魄。牟子曰。神还则生。不还则神何之乎。曰成鬼神。牟子曰。是也。魂神固不灭矣。但身自朽烂耳。身譬如五谷之根叶。魂神如五谷之种实。根叶生必当死。种实岂有终已。得道身灭耳。老子曰。吾有大患。以吾有身也。若吾无身。吾有何患。又曰。功成名遂身退。天之道也。或曰。为道亦死。不为道亦死。有以异乎。牟子曰。所谓无一日之善。而问终身之誉者也。有道虽死神归福堂。为恶既死神当其殃。愚夫闇于成事。贤智预于未萌。道与不道如金比草。祸之与福如白方黑。焉得不异。而言何易乎。

  问曰。孔子云。未能事人。焉能事鬼。未知生焉知死。此圣人之所纪也。今佛家辄说生死之事鬼神之务。此殆非圣哲之语也。夫履道者当虚无淡泊归志贺朴。何为乃道生死以乱志。说鬼神之余事乎。牟子曰。若子之言。所谓见外而未识内者也。孔子疾。子路不问本末。以此抑之耳。孝经曰。为之宗庙以鬼享之。春秋祭祀以时思之。又曰。生事爱敬死事哀戚。岂不教人事鬼神知生死哉。周公为武王请命曰。旦多才多艺能事鬼神。夫何为也佛经所说生死之趣。非此[颛-而+(一/糸)]乎。老子曰。既知其子复守其母。没身不殆。又曰。用其光复归其明。无遗身殃。此道生死之所趣。吉凶之所住。至道之要。实贵寂寞。佛家岂好言乎。来问不得不对耳。钟鼓岂有自鸣者。桴加而有声矣。

  问曰。孔子曰。夷狄之有君。不如诸夏之亡也。孟子讥陈相更学许行之术曰。吾闻用夏变夷。未闻用夷变夏者也。吾子弱冠学尧舜周孔之道。而今舍之更学夷狄之术。不已惑乎。牟子曰。此吾未解大道时之余语耳。若子可谓见礼制之华。而闇道德之实。?炬烛之明。未睹天庭之日也。孔子所言矫世法矣。孟轲所云疾专一耳。昔孔子欲居九夷。曰君子居之。何陋之有。及仲尼不容于鲁卫。孟轲不用于齐梁。岂复仕于夷狄乎。禹出西羌而圣哲。瞽叟生舜而顽嚚。由余产狄国而霸秦。管蔡自河洛而流言。传曰。北辰之星。在天之中。在人之北。以此观之。汉地未必为天中也。佛经所说上下周极。含血之类物皆属佛焉。是以吾复尊而学之。何为当含尧舜周孔之道。金玉不相伤。隋璧不相妨。谓人为惑。特自惑乎。

  问曰。孔子称。奢则不孙俭则固。与其不孙也宁固。御孙曰。俭者德之共。侈者恶之大也。今佛家以空财布施为名。尽货与人为贵。岂有福哉。牟子曰。彼一时也。此一时也。仲尼之言疾奢而无礼。御孙之论刺庄公之刻桶。非禁布施也。舜耕历山恩不及州里。太公屠牛惠不逮妻子。及其见用。恩流八荒惠施四海。饶财多货贵其能与。贫困屡空贵其履道。许由不贪四海。伯夷不甘其国。虞卿捐万户之封。救穷人之急。各其志也。僖负羁以盘餐之惠。全其所居之闾。宣孟以一饭之故。活其不赀之躯。阴施出于不意。阳报皎如白日。况倾家财发善意。其功德巍巍如嵩泰。悠悠如江海矣。怀善者应之以祚。挟恶者报之以殃。未有种稻而得麦。施祸而获福者也。

  问曰。人之处世。莫不好富贵而恶贫贱。乐欢逸而惮劳倦。黄帝养性以五肴为上。孔子食不厌精鲙不厌细。今沙门被赤布。日一食闭六情自毕于世。若兹何聊之有。牟子曰。富与贵是人之所欲。不以其道得之不处也。贫与贱是人之所恶。不以其道得之不去也。老子曰。五色令人目盲。五音令人耳聋。五味令人口爽。驰骋畋猎令人心发狂。难得之货令人行妨。圣人为腹不为目。此言岂虚哉。柳下惠不以三公之位易其介。段干木不以其身易魏文之富。许由巢父栖木而居。自谓安于帝宇。夷齐饿于首阳。自谓饱于文武。盖各得其志而已。何不聊之有乎。

  问曰。若佛经深妙靡丽。子胡不谈之于朝廷。论之于君父。修之于闺门。接之于朋友。何复学经传读诸子乎。牟子曰。子未达其源而问其流也。夫陈俎豆于垒门。建旌旗于朝堂。衣狐裘以当蕤宾。被絺绤以御黄钟。非不丽也。乖其处非其时也。故持孔子之术入商鞅之门。赍孟轲之说诣苏张之庭。功无分寸过有丈尺矣。老子曰。上士闻道勤而行之。中士闻道若存若亡。下士闻道而大笑之。吾惧大笑。故不为谈也。渴不必待江河而饮。井泉之水何所不饱。是以复治经传耳。问曰。老子云。智者不言。言者不智。又曰。大辩若讷大巧若拙。君子耻其言过行。设沙门有至道。奚不坐而行之。何复谈是非论曲直乎。仆以为此德行之贱也。牟子曰。来春当大饥今秋不食。黄钟应寒蕤宾重裘。备预虽早不免于愚。老子所云。谓得道者耳。未得道者何知之有乎。大道一言而天下悦。岂非大辨。老子不云何。功遂身退。天之道也。身既退矣。又何言哉。今之沙门未及得道。何得不言。老氏亦犹言也。如其无言五千何述焉。若知而不言可也。既不能知。又不能言愚人也。故能言不能行。国之师也。能行不能言。国之用也。能行能言。国之宝也。三品各有所施。何德之贱乎。唯不能言。又不能行。是贱也。

  问曰。如子之言。徒当学辨达修言论。岂复治情性履道德乎。牟子曰。何难悟之甚乎。夫言语谈论各有时也。蘧瑗曰。国有道则直。国无道则卷而怀之。宁武子曰。国有道则智。国无道则愚。孔子曰。可与言而不与言失人。不可与言而与言失言。故智愚自有时。谈论各有意。何为当言论而不行哉。

  问曰。云佛道至尊至快无为淡泊。世人学士多讥毁之。云其辞说廓落难用虚无难信何也。牟子曰。至味不合于众口。大音不比于众耳。作咸池设大童发箫韶咏九成。莫之和也。张郑卫之弦。歌时俗之音。必不期而柎手也。故宋玉云。客歌于郢为下俚之曲。和者千人。引商激角。众莫之应。此皆悦邪声不晓于大度者也。韩非以管窥之见而谤尧舜。接舆以毛厘之分而刺仲尼。皆耽小而忽大者也。夫闻清商而谓之角。非弹弦之过。听者之不聪矣。见和璧而名之石。非璧之贱也。视者之不明矣。神蛇能断而复续。不能使人不断也。灵龟发梦于宋元。不能免豫且之网。大道无为非俗所见。不为誉者贵。不为毁者贱。用不用自天也。行不行乃时也。信不信其命也。

  问曰。吾子以经传理佛之说。其辞富而义显。其文炽而说美。得无非真诚是子之辩也。牟子曰。吾非辩也。见博故不惑耳。问曰。见博其有术乎。牟子曰。由佛经也。吾未解佛经之时。惑甚于子。虽诵五经适以为华未成实矣。吾既睹佛经之说。览老子之要。守恬淡之性。观无为之行。还视世事犹临天井而窥溪谷。登嵩岱而见丘垤矣。五经则五味。佛道则五谷矣。吾自闻道以来。如开云见白日。炬火入冥室焉。

  问曰。子以经传之辞华丽之说。褒赞佛行称誉其德。高者陵青云。广者逾地圻。得无逾其本过其实乎。而仆讥刺颇得疹中而其病也。牟子曰。吁吾之所褒。犹以尘埃附嵩岱。收朝露投江海。子之所谤。犹握瓢觚欲减江海。操耕耒欲损昆仑。侧一拳以翳日光。举土块以塞河冲。吾所褒不能使佛高。子之毁不能令其下也。

  论曰。牟子理惑三十有七篇。梁僧祐律师载之宏明集。可谓所从来远矣。观其崇德辨惑闲邪御侮。发挥大教之耿光。盖闳览博物之君子也。当是时。吾佛法源滥觞之初。凡西域沙门至中国者。由腾兰而下不过十人。所新出经三百余卷。俱小乘教。若微妙大乘诸经。皆所未至。牟子乃能玄鉴颖悟契佛心宗。得法味若是之深。比夫汉末祢衡陈元龙孔北海诸公。虚负奇资终于不闻道。不过为一俗士而死矣。然则牟子贤矣哉。惜其书不能备载。聊取二十篇辅成通论。大抵世之惑也者。虽世尊在世。尚莫能无。矧今去圣逾二千载。欲天下之廓廓皆正信。其可得哉。虽然是书正不可不以垂世也。

  (十一) 汉书西域传。史官范晔论曰。西域风土之载前史未闻也。张骞怀致远之略。班超奋封侯之志。终能立功西遐羁服外域。自兵威之所肃服。财赂之所怀诱。莫不献方奇纳爱质。露顶肘行东向而朝天子。故设戊巳之官分任其事。建都护之帅总领其权。其后甘英乃抵条支。而历安息临海以望大秦。拒五门阳关四万余里。靡不周尽焉。若其境俗性习之优薄。产载物类之区品。川河障岭之基源。气节凉暑之通隔。梯山栈谷绳行沙渡之道。身热首痛风灾鬼难之域。莫不备写情形审求根实。至于佛道神化。兴自身毒。而二汉方志莫有称焉。张骞但着地多暑湿乘象而战。班超虽列其奉浮图不杀伐。而精文善法导达之功。靡所传述。予闻之说也。其国则殷乎中土。玉烛和气灵圣之所降集。贤懿之所挺生。神迹诡异则理绝人区。感验明显则事出天外。而骞超无闻者。岂非道秘往运数开叔叶乎。不然何诬异之甚也。汉自楚王英始盛斋戒之祀。桓帝又修华盖之饰。将微义未译而但神明之耶。详其清心释累之训。空有兼遣之宗。道书之流也。且好仁恶杀蠲救崇善。所以贤达君子多爱其法焉。然好大不经奇谲无已。虽邹衍谈夭之辩。庄周蜗角之论。尚未足以概其万一。又精灵起灭因报相寻。若晓而昧者。故通人多惑焉。盖导俗无方适物异会。取诸同归措夫疑说。则大道通矣。晔字蔚宗。生晋末仕于宋。凡史籍议论释氏。自晔而始。

  (十二) 袁宏汉纪曰。永平十一年。浮屠者佛也。西域天竺有佛道焉。佛者汉言觉。将觉悟群生也。其教以修善慈心为主。不杀生专务清净。其精者号为沙门汉言息心。盖息意去欲而归于无为也。又以为人死精神不灭。随复受形。生时所行善恶皆有报应。故所贵行善修道。以炼精神不已。以至无为而得为佛也。佛身长一丈六尺。黄金色项中佩日月光。变化无方无所不入。故能化通万物而大济群生。初明帝梦见金人长大项有日月光。以问群臣。或曰。西方有神。其名曰佛。其形长大。因遣使天竺问其道术。图其形像而还。有经数千万卷。以虚无为宗。包罗精粗无所不统。善为宏阔远大之言。所求在一体之内。所明在视听之外。世俗之人。或以为虚诞。然归于玄微。深远难得而测。故王公大人观死生报应之际。莫不矍然而自失焉。本朝东坡居士曰。此殆中国始知有佛时语也。虽浅近大略具足矣。野人得鹿。正尔煮食之耳。其后卖与市人。遂入公庖中馔之百方。然鹿之所以美。未有丝毫加于煮食时也。袁宏汉纪。论佛世罕见全篇。东坡大全集所载。袁宏论佛说。乃唐章瑰太子注汉书楚王英传。所引用汉纪者。当以此全篇为正云。

  (甲戌) 改兴平。

  (乙亥) (谷一石二十五万。麦与豆一石。各二十万钱)。

  (丙子) 改建安。帝东归洛。

  (丁丑) (曹公迁都。许昌。以操为司空。刘备为豫州牧)是年千岁宝掌和尚至自西土。

  (十三 戊寅) 沙门康猛竺大力。译四谛及兴起本行等经。六部凡十一卷于洛阳。

  (辛巳) (曹操与远绍将颜良战于官渡。为关云长走马。入寨刺杀颜良)。

  (己丑) (吴周瑜破曹公于赤壁矣)。

  (十四) 第二十三祖鹤勒那者(勒那梵语。鹤即华言。以尊者出世常感群鹤恋慕故名)月氏国人也。姓婆罗门。父千胜。母金光。以无子故祷于七佛金幢。即梦须弥山顶一神童持金环云我来也。觉而有孕。年七岁游行聚落。睹民间淫祀。乃入庙叱之曰。汝妄兴祸福幻惑于人。岁费牲牢伤害斯甚。言讫庙貌忽然而坏。由是乡党谓之圣子。年二十二出家。三十遇摩拏罗尊者付法眼藏。行化至中印度。彼国王名无畏海。崇信佛道。尊者为说正法次。王忽见二人绯素服拜尊者。王问曰。此何人也。师曰。此是日月天子。吾昔曾为说法。故来礼耳。良久不见。唯闻异香。王曰。日月国土总有多少。尊者曰。千释迦佛所化世界。各有迷卢日月。我若广说即不能尽。王闻忻然。时尊者演无上道度有缘众。以上足龙子早夭。有兄师子。博通强记。事婆罗门。厥师既逝弟复云亡。乃归依于尊者。而问曰。我欲求道。当何用心。尊者曰。汝欲求道无所用心。曰既无用心谁作佛事。尊者曰。汝若有用即非功德。汝若无作即是佛事。经云。我所作功德而无我所故。师子闻是言已。即入佛惠。时尊者忽指东北问云。是何气象。师子曰。我见气如白虹贯乎天地。复有黑气五道横亘其中。尊者曰。其兆云何。曰莫可知矣。尊者曰。吾灭后五十年。此天竺国当有难起婴在汝身。吾将灭矣。今以法眼付嘱于汝。善自护持。乃说偈曰。认得心性时。可说不思议。了了无可得。得时不说知。师子比丘闻偈欣惬。然未晓将罹何难。尊者乃密示之。言讫现十八变而归寂。阇维毕分舍利各欲兴塔。尊者复现空中而说偈曰。一法一切法一切一法摄。吾身非有无。何分一切塔。大众闻偈遂不复分。就驮都之场而建塔焉。即后汉献帝二十年己丑岁也。

  (十五 丙申) ○道始作灵宝(张陵客蜀。居鹄鸣山作此经。又造章醮道书二十四卷。以惑百姓。陵传子衡。衡传子鲁。自号三师。结寇谋叛。后曹操入蜀率众降之。黄衣始灭。三张鬼法自兹始)。

  (己亥) ○(正月魏王曹公薨。子丕袭位。三月改建康。十月帝禅位于丕国号魏。改元黄初。封帝为山阳公。四子俱列侯。青龙三年山阳公方崩。寿五十四。以汉天子礼葬于禅陵)。

  东汉十二君。一百九十五年。

  三国(蜀吴附魏年纪)魏(五主王土德姓曹氏都于邺)雷氏曰(魏武文明齐芳高贵陈留归晋。五主四八)。

  (十六 庚子) 武帝操(字孟德。沛国谯人也。汉相国参之后。为汉相破黄巾定天下。自撰兵书三十卷。又注孙子兵法。汉封魏王。寿六十六薨。葬洛阳高陵)谥。

  太祖武皇帝

  文帝丕(字子桓。武帝子。受汉禅即位。丁未五月崩嘉福殿。寿四十岁。葬于首陵)改黄初。治七年。

  (十七 辛丑) 蜀(姓刘氏二主都于蜀)雷氏曰(蜀唯二主四十四年)。

  先主备(字玄德。涿群人也。汉景帝孙。中山靖王胜之后。三顾茅庐。举诸葛亮孔明为谋相。关羽张飞为将。立蜀三年崩永安宫。葬惠陵。寿六十三岁)。

  谥曰昭烈大帝(改年章武)吴(姓孙氏都金陵)雷氏曰(权亮休浩四主六二)。

  (十八 壬寅) 大帝权(字仲谋汉将军坚之子。盖孙武子之后。吴郡富春人。黄龙元年春即正位于南郊。迁都建业。太元二年改神凤。夏四月薨寿七十一。葬蒋陵)。

  谥大帝(改年黄武)治三十一年。

  论曰。自汉以来天下一统。建安之后鼎峙始分。袁曹竞逐于中原。刘孙分鹿于江峡。五岳尘拥九牧云屯。或二祀而启帝图。或三分而陈霸业。故使魏祖挟天子而令诸侯。刘宗冯剑阁而规雍[启-口+车]。孙氏英略高枕长江。横武爪牙。卧龙威力。别据一域吞噬为心。各跨疆场牙严关塞。广延俊乂以佐股肱。厚礼贤能宾为国宝。良匠妙法复此徂来。僧会适吴。舍利耀灵于江左。迦罗游魏。禁律创启于洛都。归戒自此大行。图塔由斯特立。译人随俗仍彼方言。出经逐时便题名目。故有吴品蜀晋耀焉。重叠再翻由此而始。派流失译良在于兹。且三国峙居。夫何西蜀一都。独无于代录。今大吴次纪。而以魏朝道俗具列于左方云。

  (甲辰) 蜀后主禅(字公嗣。先主子。改元建兴。在位四十一年。崩于洛矣。魏青龙二年。武侯卒。景元四年降于魏。蜀遂灭矣)。

  (十九) 沙门维祇难(此云障碍)天竺国人。同沙门竺律炎至武昌郡。译经二部。及祇难卒。律炎复于扬都译经三部凡三卷。时优婆塞支谦者字恭明。月氏国人。初游洛邑。受业于支亮。亮字纪明。受业于支谶。世称天下博知不出三支。谦博览经籍为人细长黑瘦。眼多白而睛黄。时人语曰。支郎眼中黄。身虽细是智囊。及辟地归吴。主见而大悦。拜为博士。译经一百二十九部。一百五十二卷。

  (二十 丁未) 明帝睿。改太和(字元仲。聪悟能文文之子也。景初三年庚申崩嘉福殿。寿三十六。葬于高平陵)在位十三年。

  (二十一) 陈思王曹植者。字子建。武帝中子。十岁诵诗书十余万言。善属文。太祖见而异之曰。汝倩人耶。植曰。言出成论下笔成章。顾面试。奈何倩人乎。及长于世间艺术无不精练。邯郸淳见而骇叹。称为天人。植每读佛经。留连嗟玩以为至道之宗极。转读七声升降曲折之响。世皆讽而则之。游鱼山闻有声特异清飏哀婉。因仿其声为梵囋。今法事中有鱼山梵。即其遗奏也。始魏武欲立为嗣。植荒酒自秽。以故得免。文帝颇嫉其才。抑而不用。尝求自试。帝不允。既而十一年中。三徙其藩。植滋不得志而薨。年三十一。初植登鱼山临东阿。喟然有终焉志。遂营墓遗诫其子令薄葬。植在日不甚信黄老。着辨道论见意。今载藏经中弘明集。

  (己酉) 吴称帝迁建业。改元黄龙。

  (壬子) 吴改嘉禾。

  (癸丑) 改青龙。

  (丁巳) 改景初。建丑为正月。

  (戊午) 蜀改延熙○吴改赤乌。

  (二十二 庚申) 齐王芳。改元始(字兰卿。明帝无子。养秦王询。宫省事秘人皆不知。年八岁承魏祚。至嘉平六年。为司马懿废之)治十三年。

  (二十三 辛酉) 康僧会至吴。按吴书。赤乌四年有康居国大丞相子姓康名僧会。弃俗归缁。以游化为任。行至建康营立茅茨。设像行道。吴人初见谓为妖异。有司奏闻。主欲幽之。诏至问状。会进曰。如来大师化已千年。然灵骨舍利神应无方。昔阿育王奉之为八万四千塔。此其遗化也。权以为夸己曰。舍利可得当为塔之。苟无验则国有常刑。会假请七日。谓其属曰。大法废兴在此一举。当加意洗心洁斋恳求。至期无验。乃展二七又无应。权趣烹之。会默念。佛名真慈。夫岂违我哉。更请展期以死祈之又七日。众惧无天色。五鼓矣闻铿然有声。起视瓶中五色错发。大呼曰。果吾愿矣。黎明进之。权与公卿聚观叹曰。希世之瑞也。会又言。舍利威神一切世间无能坏者。权使力士槌之。砧碎而光明自若。于是建塔度人立寺。以其所名佛陀里。寺曰建初。奉会居焉。

  (二十四) 阚泽字德润。会稽山阴人也。家世为农。泽好学。居贫无资。常为人佣书自给。所写既毕即能诵。由是博览群籍。虞翻见而称之曰。阚生矫杰。仲舒子云流也。仕吴官太子太傅。僧会入吴。吴主因问泽曰。汉明何年佛教入中国。何缘不及东方。泽曰。永平十一年佛法初至。计今赤乌四年。则一百七十年矣。永平十四年。五岳道士褚善信等乞与西僧角法。于是善信负妄而死。其徒以尸归葬南岳。凡中国人例不许出家。无人流布。加之罹乱岁深方至本国。吴主曰。孔子制述典训教化来业。老庄修身自玩。放荡山林归心澹泊。何事佛为。泽曰。孔老二教法天制用。不敢违天。佛教诸天奉行。不敢违佛。以此言之。优劣可见也(出宗炳明佛论)。

  (二十五 甲子丁卯 四九) 第二十四祖师子比丘者。中印度人也。姓婆罗门。得法游方至罽宾国。有波利迦者。本习禅观。故有禅定知见执相舍相不语之五众。尊者诘而化之。四众皆默然心服。唯禅定师达磨达者。闻四众被责愤悱而来。尊者曰。仁者习定何当来此。既至于此胡云习定。曰我虽来此心亦不乱。定随人习。岂在处所。祖曰。仁者既来。其习亦至。既无处所岂在人习。曰定习人故非人习定。我虽来此其定常习。祖曰。人非习定定习人故。当自来时其定谁习。彼曰。如净明珠内外无翳。定若通达必当如此。祖曰。定若通达一似明珠。今见仁者非珠之徒。彼曰。其珠明彻内外悉定。我心不乱犹若此净。祖曰。其珠无内外。仁者何能定。秽物非动摇。此定不是净。达磨达蒙师开悟心地朗然。尊者既摄五众名闻遐迩。方求法嗣遇一长者。引其子问尊者曰。此子名斯多。当生便拳左手。今既长矣。而终未舒。愿尊者示其宿因。尊者睹之。即以手接曰。可还我珠。童子遽开手奉珠。众皆惊异。祖曰。吾前报为僧。有童子名婆舍。吾尝赴西海斋。受嚫珠付之。今还吾珠。理固然矣。长者遂舍其子出家。祖与受具。以前缘故名婆舍斯多。祖即谓曰。吾师密有悬记。罹难非久。如来正法眼藏今转付汝。汝应保护普润来际。偈曰。正说知见时。知见俱是心。当心即知见。知见即于今。尊者说偈已。以僧伽梨衣密付斯多。俾之他国随机淹化。斯多受教直抵南天。当魏齐王芳元始八年丁卯岁也。尊者以难不可苟免。独留罽宾。时本国有外道二人。一名摩目多。二名都落遮。学诸幻法欲共谋乱。乃盗为释子形像潜入王宫。且曰。不成即罪归佛子。妖既自作祸亦旋踵。事既败。王果怒曰。吾素归心三宝。何乃构害一至于斯。即命破毁伽蓝祛除释众。复自秉剑至尊者所。问曰。师得蕴空否。尊者曰。已得蕴空。曰离生死否。曰已离生死。王曰。既离生死可施我头。祖曰。身非我有何吝于头。王即挥剑断尊者首。涌白乳高数尺。王之右臂旋亦堕地。七日而终。太子光首叹曰。我父何故自取其祸。时有象白山仙人者。深明因果。即为光首广宣宿因解其疑网(事具圣胄集及宝林传中)遂以师子尊者报体。而建塔焉。尊者付婆舍斯多心法信衣为正嗣。外傍出达磨达四世二十二师。祖罹难时。乃在魏高贵乡公己卯岁也。

  (二十六 己巳) 改嘉平。

  (庚午) 嘉平二年。西竺昙摩迦罗及婆芬陀至洛阳。与康僧顗等翻译众经。四分律钞云。自汉以来法流滥觞。比丘特剪发而已。未有律仪。供会斋忏事同祠祀。至曹魏之初。一同汉式。迨嘉平间。天竺昙摩迦罗(此云四时)及梵僧昙无德。康僧藏师地梨茶耶。乃阿瑜阇第九世弟子也。藏承其后妙善律宗。准用十僧大行佛制。而以戒心为日用。立羯磨受具。中夏戒律之始也。

  (辛未) 吴改太元。

  世尊示灭一千二百年矣。

  (壬申) 吴王亮(字子明。权之少子。十岁即位。改元建兴。治七年。后孙綝黜亮为会稽王。立兄孙休)。

  (二十七 甲戌) 高贵乡公髦(字士彦。文帝孙。东海定王霖子。己卯为司马昭弑之。寿二十)。

  改正元。治六年。

  吴改五凤。

  (丙子) 改甘露○吴改太平。

  (戊寅) 蜀改景耀。

  吴王休(字子烈。权第六子。孙綝废亮立之。改永安元年。治六年。寿三十崩)。

  (二十八 己卯) 罽宾国贼。窃释子形服作乱。王怒以为释子不知恩。遂毁伽蓝罢释氏。二十四祖师子尊者遇害而寂。

  (二十九 庚辰) 陈留王奂。改景元(武帝孙。燕王宇之子。是年六月大将军司马师。弑其君高贵乡公。复立常道乡公。即奂也。是为元帝。咸熙二年二月让位晋王。晋王固辞。八月薨。孙晋炎继其位。帝又让之。炎受而立之。是为西晋矣)治五年。

  (三十 辛巳) 沙门朱士衡。于洛讲道行般若经。义有阙文发足于阗求正本。汉地讲经自此而始。

  (癸未) 蜀改炎兴。魏邓艾兵至。后主出降国亡右蜀汉二主。四十三年(而魏并之)。

  (甲申) 魏咸熙元。

  吴王皓(字元宗。孙和之子。初号明主。后恣淫虐。尝烧锯断人头。或剥人面皮凿人眼睛。在位十七年。死于洛阳。寿四十二。改元兴)。

  佛祖历代通载卷第五

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第六

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  西晋

  (一) 雷氏曰(宣景文武惠怀愍帝西晋四主五十二年)。

  高祖宣帝懿(姓司马氏。王金德都洛阳。字仲达。河内温人也。高阳氏之后。祖隽颖川太守。父防京兆尹。帝乃防之次子。事魏忠烈。大有贤能。寿七十三崩。葬高原陵)。

  景帝师(字子元。宣之长子。寿四十八。崩于许昌。葬峻平陵)。

  文帝昭(字子上。景之母弟。寿五十五。崩于露寝。葬峻平陵)。

  (乙酉) 武帝炎(字安世。文之长子。宽惠仁厚。好庄老之书。咸熙二年受魏禅降。封晋宾为陈留王。迁于邺。用天子仪卫之。帝自灭吴之后。奢侈纵恣。后宫殆将万人。尝乘华车至于所寝。己酉四月崩含章殿。寿五十五。葬峻阳陵)在位二十五年。改元大始。

  (二) 吴孙皓始即位。改甘露元年。下令遍毁神祠被及梵宇。臣僚谏。先帝感瑞创寺。不可毁也。乃遣臣张昱往告康僧会。会挫其辞理辩锋出。昱不能屈。归以会才高闻。皓召至。问曰。佛言善恶报应。可得闻乎。会曰。明主以孝慈治天下。则赤乌翔而老人见。以仁德育万物。则醴泉冽而嘉禾茁。善既有应恶亦如之。故为恶于隐鬼得而诛之。为恶于显人得而诛之。易称积善余庆。诗美求福不回。虽儒典之格言。即佛教之明训。皓曰。然则周孔既明。安用佛教。会曰。周孔不欲深言。故略示其迹。佛教不止浅言。故详示其要。皆为善也。圣人唯恐善之不多。陛下以为嫌何也。皓无以酬之。遂罢。他日宿卫治圃得金像。皓使置秽处蒙不洁以为笑乐俄得肿疾昼夜呻吟。占者曰。坐犯神祠。祷诸庙不效。宫人有奉佛者曰。乃不请福于佛耶。皓仰视曰。佛神若是怪乎。曰佛之威灵视神如天渊。皓乃悟曰。吾以慢像致此耳。趣迎像龛而供事之。仍请会说法悔罪。会为开示玄要。并取本业百二十愿。分二百五十事。使皓行住坐卧增益善意。及授之五戒。少顷疾愈。由是奉会为师。崇饰寺塔。

  (三) 太始元年。月氏国沙门昙摩罗奈。晋言法护。至洛阳。护学究三十六国道术。兼通其语。及自天竺大赍梵本婆罗门经达于玉门。因居炖煌。世号炖煌菩萨。后游洛邑及之江左。永嘉中随处译经。未尝暂停。时优婆塞聂承远执笔助翻。垂四百卷。及承远卒。其子道真者。询禀咨承法护。笔授外道真自译经六十余卷。时晋沙门释法炬法立支敏度及优婆塞卫仕度等。译出众经。外炬与立等每相参合。广略异同编次部类。凡一百四十余卷。复有沙门疆良娄至安法钦竺叔兰白法祖支法度等。各出众经。所以西晋已来宣译渐盛。

  论曰。吴黄武初。陆绩有言曰。从今更六十年。天下车同轨书同文。及泰康改元而吴平天下一统。果如绩言。自是才二十载。至永宁之初。正道?颓群雄岳峙。赵王创基叛逆。篡主于朝张轨继请外迁。擅据凉土内外糜沸。仍渐乱阶。刘渊所以平阳。李雄因兹井络。怀帝蒙尘外郡。愍后播越长安。既道藉时兴而两都版荡。法由人显属二主恓惶。万姓崩离归信靡托。百官失守释种无依。时有沙门竺法护及释法炬等。忘身利物志在宏宣。匪惮苦辛阐法为务。护于晋世译经最多。且晋虽不文文才实着。翻传妙典日有赏音。所以礼乐衣冠晋朝始备。信源道种相资而兴焉。

  (丙戌) 吴改宝鼎。

  (丁亥) 大教东流二百年矣。

  (己丑) 吴改建衡。

  (壬辰) 吴改凤凰。

  (乙未) 改咸宁○吴改天册。

  (丙申) 吴改天玺。明年又改天纪。

  (己亥) ○九月会公示疾而化。

  (庚子) 改大康(灭吴) 右吴四主六十年(而晋并之天下一统)。

  (四 壬寅) 会稽育王塔缘起。有刘萨诃。病死入冥见梵僧。指往会稽育王塔处忏悔。既稣出家名惠达。及至会稽遍求不见。偶一夜闻地下钟声。倍加诚恳。经三日忽从地涌出宝塔。高一尺四寸。广七寸。佛像悉具。达既见塔精勤礼忏。瑞应甚多。明州塔此其始也。

  (五 庚戌) 惠帝衷改永熙(字正度。武次子。生而不惠。不辨菽麦。娶贾充女南风为后。淫虐酷残。诛灭大臣。致天下大乱。为司马越鸩于显阳殿。寿四十八。葬太阳陵)治十七年。

  (六 辛亥) 改元康。又改永平。

  道家三皇经。乃鲍静所撰十四纸也。彼曰。凡诸侯有此文者必为国王。大夫有此文者为人父母。庶人有此文者钱财自聚。妇人有此文者必为皇后。既犯国讳。永康中被诛。出晋史。后人改曰三洞。至唐二十年贞观间。吉州囚人刘绍妻王氏。有五岳真仙图及鲍静所撰三皇经。时吉州司法参军吉辨因检囚。于王氏处得之申省。敕令邢部郎中纪怀业等。追京下道士张惠元成武英等勘问。得在先道士鲍静所撰妄为墨本。非今元等所造。敕令毁除。追诸道士及百姓有此文者。其年冬并集得之。遂于礼部厅前悉焚之。

  (甲寅) 瑞像到龟兹国(已上一千二百八十五年在西竺。是年始到丘慈。凡住六十八年)。

  (七) 永平四年。天竺沙门耆域至洛阳。指沙门竺法渊曰。此菩萨从羊中来。指竺法兴曰。此菩萨从天中来。又曰。比丘衣服华丽大违戒律。非佛意也。望见帝都宫室曰。大略似忉利天宫。然人天殊分。疲民之力缮刻如此。不亦侈乎。未几而洛阳乱。域辞归天竺。数百人遮道。请中食乃行。域许之。明日百余家域分身同时赴之。家喜其来。及发迹洛南。域徐行而追者不及。即以杖画地曰。于此诀矣。是日有出长安者。见域在寺中。有贾胡湿登者。其夕会域宿于流沙。盖一昔万里沙门神迹。于此为湿云。初域来交广。并有灵异。既达襄阳。欲寄载过江。舟人见是胡僧。轻而不渡。及舡达岸域已前行。路见两虎。虎弭耳掉尾。域以手摩其头。虎下道而去。见者皆敬焉。

  (庚申) 改永康。

  (辛酉) 改永宁(正月赵王伦纂位遂诛之)。

  十六国(自永宁之后所在分十六国五凉四燕二赵三秦大夏并蜀为十六)。

  雷氏曰。张轨据凉号曰前凉。九主六七符坚侮亡。

  李特据益号曰后蜀。六主四六桓温戮辱。

  刘渊平阳号曰前赵。四主二六石勒平剿。

  石勒襄国号曰后赵。六主三二冉闵除讨。

  符健长安号曰前秦。五主四四姚苌反臣。

  慕隽据邺号曰前燕。二主二二灭于符坚。

  姚苌长安号曰后秦。三主三二刘裕即真。

  乞伏金城号曰西秦。四主二八赫连使宾。

  吕光姑臧号曰后凉。四主十三姚兴复强。

  慕容山中号曰后燕。四主四二冯跋灭焉。

  乌狐广武号曰南凉。三主十九炽盘僭王。

  慕德广固号曰南燕。二主十一刘裕得天。

  李皓炖煌号曰西凉。二主二四蒙逊威强。

  蒙逊张掖号曰北凉。二主三九拓跋乃昌。

  赫连朔方号曰大夏。二主二五魏有天下。

  冯跋昌黎号曰北燕。魏灭。二主二十八年。是十六国杂晋魏间。

  前凉张轨(字士彦。安定乌氏人。汉张耳十七代孙。永宁初凉州刺史。建兴年僭立为王。依晋王朔立十三年晋武太元灭)。

  (壬戌) 改大安。

  后蜀李特(字玄休。巴西宕渠人。其先廪君之裔。自氐羌之乱。随流人至蜀。自称益州牧。号蜀。改年建初)。

  (癸亥) 蜀武帝雄(字仲隽。特第三子。母曰罗氏。是年罗尚杀特而立帝。二十年改元建兴。咸和八年生疡于头六日。而卒寿六十一)。

  (甲子 五十) 改永兴。

  前赵刘渊(字元海。新兴匈奴人。冒顿之后。初汉祖以宗女为公主。妻冒顿。约为兄弟。故子孙冒姓刘氏。都平阳六年改光熙)。

  (丙寅) 改光熙○蜀改晏平。

  (丁卯) 怀帝炽改永嘉(字礼度。武帝二十五子也。生而姿奇。后无罪为刘聪虏之。寿三十岁)治六年。

  (戊辰) 赵改永凤。

  (庚午) 赵和(字玄泰。渊之子。身长八尺。既立改年河瑞。未几为锐景斩于光极台矣)。

  逍刘聪改称汉(字玄明。刘渊第四子。性极勇杰。承位自号昭武帝。改元光兴。在位八年。时河东大蝗食田。唯不食黍豆。靳准率人收埋之。哭声闻十余里。钻土复出。黍豆竟尽食矣)。

  (辛未) 汉改嘉平。

  (八 癸酉) 愍帝邺改建兴(字彦奇。武帝孙。吴王晏之子。初即位时。长安城中不盈百户。篙棘成林官无章服印绶。唯桑板署号尔。后被刘聪虏之。使帝戎服执戟前导。降封怀安侯遇害于洛。寿十八岁)治四年。

  凉张寔(字安逊。在位五年。寿四十八。号昭公)。

  (九) 吴中是年有维卫迦叶二佛石像。泛海而至。吴淞江沪渎口。遥见浮游道士巫师往迎。并风涛汹涌。吴县朱膺素奉正法。乃同数人共迎像。于是乘流自到。背有铭志。登舟其轻如羽。乃奉安通玄寺供养(今开元寺事载珠林)。

  (甲戌) 日陨○三日并出西方○汉星陨平阳化肉。

  (乙亥) 汉改建元。

  (丙子) 汉改麟嘉。

  东晋 雷氏曰(元明成康穆哀废简武安楚恭。东晋十一。一百四年)。

  (十 丁丑) 元帝睿改建武(司马氏。王金德。迁都建邺。避愍帝名改建康。字景文。宣帝曾孙。琅瑘王觐之子。生于洛阳。刘聪破洛。与王导南渡据江东。壬午崩内殿。葬平陵。寿四十七)治六年。

  叙曰。经云。三界无常。有为非久。晋氏之基。魏室远系。乃诛曹爽而绝其宗。设帝策而陈其绩。金承土运历数在躬。平蜀而降大吴。升平而布宽政。文既允备武亦戢戈。百六奄臻王官失守。天下大乱莫匪斯焉。于时道俗崩离。朝不谋久。寄政江表法随代兴。沙门信士于是攸集。故就纪之。别号东晋。元帝者宣皇曾孙。恭王觐之子也。讳睿字景文。初生之辰。内有神光一室尽明。白毫生于日角之左。累官都督杨州诸军事左丞相。怀愍败后百官分离。或走江南。或为俘戮。长安失据帝幽平阳江东于时。忽有五日并出。都下劝睿宜称晋王。统摄万机以临亿兆。愍帝崩后遂即居尊。立元建武。因都建邺。避愍帝讳改名建康。先是泰康二年。吴旧将管恭作乱。太史伍振筮曰。恭即灭矣。然更三十八年。杨州当有天子。至是果如其言。又秦始时。望气者云。吴金陵山五百年后当出天子。始皇忌之。因发兵凿金陵山断。改称抹陵冀绝其王。凡自政至睿五百二十六年。有晋金行奄君四海。又时谣曰。五马浮渡江。一马化为龙。永嘉丧乱宗室中。唯琅瑘西阳汝南南顿彭城五王。获济江表。而睿首基为帝。将知受命上感天灵。欲跨舆图下资地势。地负其势。始皇凿之而弗亡。天降其灵。刘曜歼之而莫尽。爰自建武至于元熙。凡十二主。一百四年。华戎道俗译经律论垂六百卷。而弘法之务至是特盛焉。

  (戊寅) 改大兴。

  前赵刘曜(字永明。刘元海族子。少孤贫。养于元海家而承位。十二年改光初元年)。

  (己卯) 后赵石勒(字世龙。上党武乡人。其先匈奴别部也。年十四至洛阳。依笑上都门。王衍异之曰。胡雏声视有奇志。将为天下之患。遣人收之。会勒已去。后起兵据襄国一十五年。寿六十。勒初暴政。及见图澄钵长青莲之验。回心纳谏。延及子虎慕德推贤)。

  (辛巳) 凉茂(字成逊寔之弟在位四年)。

  (壬午) 改永昌。上忧崩。

  (十一) 天竺沙门。吉友抵建康。丞相王导见之曰。我辈人也。太尉庾亮光禄周顗廷尉柏彝。一时名公皆造门结友。声名著搢绅间。尝对王导解带盘礴。尚书卞望之适至。友正容肃然。有问其故。对曰。王公风道期人。卞令轨度格物。吾正当以此应之耳。柏彝欲为友作目。久之未得。友曰尸黎密(此云吉友)可谓卓朗。彝绝叹以为尽品目之极。大将军处仲。闻友为诸公器重。心未然。及见不觉手足增敬。周顗为仆射。领选将入局。过友叹曰。为朝廷选贤。得如君真令人无愧耳。及顗殁友慰其孤。对灵作梵呗。清响凌云。又咒语千余言而去。王导尝戏之曰。外国有君。一人而已。友笑曰。使我如诸君。今日岂得在此。时以为名言。译孔雀经。梵名尸黎密。盖让王位出家。如吴泰伯然。

  (十二 癸未) 明帝绍改太宁(字道畿。元之长子。敏有机断。故能以弱制强。克复大业。惜乎降年不永。未致太平崩。寿二十七。葬于平陵)治三年。

  (乙酉) 凉骏(字公建。寔之子。立二十二年。寿四十)。

  (十三) 第二十五祖婆舍斯多者。罽宾国人也。姓婆罗门。父寂行。母常安乐。初母梦得神剑。因而有孕。既诞拳左手。遇师子尊者显发宿因。密受心印。后适南天至中印度。彼国王名迦胜。设礼供养。时有外道。号无我尊。先为王礼重。嫉祖之至。欲与论议。幸而胜之以固其事。乃于王前谓祖曰。我解默论。不假言说。祖曰。孰知胜负。曰不争胜负。但取其义。祖曰。汝以何为义。曰无心为义。祖曰。汝既无心。安得义乎。曰我说无心。当名非义。祖曰。汝说无心。当名非义。我说非心。当义非名。曰当义非名。谁能辨义。祖曰。汝名非义。此名何名。曰为辨非义。是名无名。祖曰。名既非名。义亦非义。辨者是谁。当辨何物。如是往返五十九翻。外道杜口信伏。于时祖忽然面北合掌。长吁曰。我师师子尊者今日遇难。斯可伤焉。即辞王南迈。达于南天潜隐山谷。时彼国王名天德。迎请供养。王有二子。一凶暴而色力充盛。一和柔而长婴疾苦。祖乃为陈因果。王即顿释所疑。又有咒术师。忌祖之道。乃潜置毒于饮食中。祖知而食之。彼返受祸。遂投祖出家。祖即与受具。后六十载太子德胜即位。复信外道致难于祖。太子不如密多以进谏被囚。王遽问祖曰。予国素绝妖讹。师所传者当是何宗。祖曰。王国昔来实无邪法。我所得者即是佛宗。王曰。佛灭已千二百年。师从谁得邪。祖曰。饮光大士亲受佛印。展转至二十四世师子尊者。我从彼得。王曰。予闻。师子比丘不能免于刑戮。何能传法后人。祖曰。我师难未起时。密授我信衣法偈以显师承。王曰。其衣何在。祖即于囊中出衣示王。王命焚之。五色相鲜薪尽如故。王即追悔致礼。师子真嗣既明。乃赦太子。太子遂求出家。祖问太子曰。汝欲出家当为何事。曰我若出家不为其事。祖曰。不为何事。曰不为俗事。祖曰。当为何事。曰当为佛事。祖曰。太子智慧天至。必诸圣降迹。即许出家。六年侍奉。后于王宫受具羯磨之际。大地震动颇多灵异。祖乃命之曰。吾已衰朽安可久留。汝当善护正法眼藏普济群有。听吾偈曰。圣人说知见。当境无是非。我今悟本性。无道亦无理。不如密多闻偈再启祖曰。法衣宜可传授。祖曰。此衣为难故假以证明。汝身无难何假其衣。化被十方人自信向。不如密多闻语作礼而退。祖现于神变化三昧火自焚。平地舍利可高一尺。德胜王创浮图而秘之。当东晋明帝太宁三年乙酉岁也。

  (十四 丙戌) 成帝衍。改咸和(字世根。明帝长子。五岁即位。庾后临政。寿二十五)治十七年。

  (十五) 三藏理法师名惠理。西竺人也。东晋咸和初。来游此土。至杭州见山岩秀丽曰。吾国中天竺灵鹫山之一小岭。不知何年飞来。佛在世时多为仙灵所隐。今此亦复尔耶。洞旧有白猿。遂呼之。应声而出。人始之信。飞来由是得名。师即地建两刹。先灵鹫后灵隐。常宴坐岩中。号理公岩。今瘗塔在焉。

  (戊子) 赵改太和。

  (庚寅) 后赵改建平。

  (壬辰) 燕慕容皝立。

  (癸巳) 蜀斑(字世文。雄兄之子。初署南平将军后立为太子。雄疾。斑侍。卒而立。一年复为雄子越杀之。寿四十一)。

  赵弘(字大雅。勒之次子。立一年改元建熙。寿四十二)。

  (甲午) 赵石虎(勒弘自立。尽杀勒种。改元建熙)。

  (乙未) 改咸康○赵改建武。

  蜀期(字世运。雄第四子。立三年改元玉桓。后自缢死。雄诸子皆为寿所杀)。

  (丙申) ○后赵大旱。斗米直金一斤。

  (戊戌) 蜀寿(字武考。骧之子。雄之弟。杀期自立。六年改元汉兴。国号汉)。

  (十六) 咸康六年。成帝幼冲。庾冰以元舅辅政。奏沙门应尽礼王者。尚书令何充等议。不应致拜。下礼官详议。博士议与充合。而门下承冰风旨为驳。尚书令充仆射褚翌诸葛恢尚书冯怀戴广等奏曰。世祖武皇帝。以盛明革命。肃祖明皇帝。聪圣玄览。岂于时沙门不易屈膝。顾以不变其修善之法。所以通天下之志也。臣等谓。宜遵承先帝故事于义为长。冰固谓应尽敬。下制曰。夫万方殊俗神道难辩。有自来矣。达观旁通诚当无怪。况跪拜之礼。何必尚然。当后原先王所以尚之之意。岂直好此屈折而坐遘盘辟哉。良有以也。既其有以。将何以易之。然则名礼之设。其无情乎。且今果有佛耶无佛耶。有则其道固弘。无则义将安取。纵其信然。将是方外之事。方外之事岂方内所体。而当矫形体违常度易礼典弃名教。是吾所甚疑也。名教有由来。百代所不废。昧旦丕显后世犹殆。殆之为弊其故难寻。而今当远慕茫昧依稀未分。弃礼于一朝。废教于当世。使夫凡流傲逸宪度。又是吾所甚疑也。纵其信然。纵其有之。吾将通之于神明。得之于胸怀耳。轨宪宏谟固不可废之于正朝。凡此等类皆晋民也。论其才智又常人也。而当因所说之难辨。假服饰以凌度。抗殊俗之傲礼。直形骸于万乘。又是吾所弗取也。诸君并国器也。悟言则当测幽微。论治则当重。

  (十七) 国典。苟其不然。吾将何述焉。充等重抗。表曰。臣等暗短。不足以赞扬圣旨。宣畅大义。伏省明诏震惧屏营。辄共寻详有佛无佛。固非臣等所能定。然考其遗文钻其旨要。五戒之禁实助王化。贱昭昭之名行。贵冥冥之潜操。行德在于忘身。抱一心之精妙。且兴自汉世迄至于今。虽法有隆衰而弊无妖妄。神道经久未有其比也。夫议有损也。况必有益。臣之愚诚。实愿尘露之微增润岱岳。区区之况上裨皇极。今一令其拜。遂坏其法。修善之俗废于圣世。习实生常。必致怨惧。隐之臣心窃所未安。臣虽愚蔽。讵敢以偏见疑误圣听。直谓世经三代人更明圣。今不为之制无亏王度。而幽冥之格可无雍滞。是以复陈愚诚。乞垂省察。冰犹以为不可。复下制曰。省所陈具情旨。幽昧之事诚非寓言所尽。然较略其大。人神常度粗复有分例用。大率百王制法虽文质随时。然未有以殊俗参治恢诞杂化者也。岂曩圣之不达。来圣之宏通哉。且五戒之才善粗拟似人伦。而更与世之略其礼敬服礼重矣。敬大矣。为治之纲尽于此矣万乘之君非好尊也。区城之民非好卑也。而尊卑不陈。王教不得不一二之则乱斯曩圣。所以宪章国体宜而不惑也。通才博采往往备其事。修之家可。以修之国及朝则不可。斯岂不远耶。省所陈。果亦未能了有之与无矣。纵其了。犹谓不可以参治。而况都无而当以两行耶。充等三上章执奏曰。臣等虽诚愚蔽不通远旨。至干干夙夜思循王度。宁苟执偏管而乱大伦。直以汉魏逮晋不闻异议。尊卑宪度无或暂亏也。今沙门之守戒专专。然及为其礼一而已矣。至于守戒之笃。亡身不恪。曷敢以形骸而慢礼敬哉。每见烧香祝愿。必先国家欲福裕之。备情无极已。奉上崇顺出于自然。礼仪之简盖是专一守法。是以先圣御世。因而弗革也。然天网恢恢疏而不失。臣等慺慺以为。不令致拜于法无亏。因其所利而惠之。使贤愚莫敢不用情。则上有天覆地载之施。下有守一修善之人。谨复陈其愚浅。愿蒙省察冰议遂寝。何充字次道。庐江潜人。魏光禄大夫宴之孙。少以文义见称。初为王敦掾。敦兄含守庐江贪污。敦尝于坐称之曰。家兄在郡定佳。庐江士人称之。充正色曰。充即彼郡人。所闻异此。敦默然。坐客皆为不安。充宴然自若。丞相庾亮尝荐之于明帝曰。何充器局方概。有万夫之望。若能总录朝端为老臣副。及充拜尚书令。推能用功不私树恩。世甚重之。初阮裕尝戏之曰。卿志大宇宙。勇迈前古。充审其故。裕曰。我图数千户郡。尚未能。卿图作佛不亦大乎。卒年五十有五。其后门世事佛甚精。厥孙尚之及点胤等。并建大义阐明佛法云。

  (癸卯) 康帝岳。改建元(字世同。成之母弟。年二十一即位。庾亮为相专权。后崩式干殿。寿二十三。葬昌陵)治二年。

  (甲辰) 蜀势(字子仁。寿之长子。身长七尺九寸。腰十四围。善俯仰。立五年改元太和。后死建康)。

  (十八 乙巳) 穆帝聃。改永和(字彭祖。康之长子。二岁即位。母褚后临朝。寿十九崩于显阳殿。葬永平陵)在位十七年。

  (丙午) 蜀改嘉宁。

  (丁未) 凉张重华(字大临。骏次子。立七年。寿二十七)。

  (戊申) 后赵佛图澄。谏杀太子宣。

  (己酉) 后赵改太宁。即帝位。寻死而国乱。

  前燕俊(姓慕容。字子英。祖名廆。字奕。昌黎棘城鲜卑人。其先有能之裔。世居北夷。邑于紫蒙之野。晋封燕王迁都龙城。生子皝俊。乃皝之次子也。居邺十一年。寿四十二岁)。

  (十九) 天竺佛图澄至洛。自言百余岁。常服气自养。能积日不食。善诵咒役使鬼神。腹旁有孔以绵塞之。夜读书则拔绵出光照室。又每临溪从孔中出肠胃洗濯还纳腹中。能听铃音言吉凶。莫不奇验。会洛阳寇乱潜伏草野以观时变。时石勒屯葛陂多残杀。澄杖锡谒勒。勒命试以道术。澄取满钵水咒之。俄青莲花生钵中。光色耀目。勒由此神敬。延之军中。未几刘曜求战以决雌雄。左右以为未可。勒以访澄。澄曰。相轮铃音云。秀支替戾冈仆谷劬秃当。此羯语也。秀支军也。替戾冈出也。仆谷刘曜胡位也。劬秃当捉也。言军出捉得刘曜。又令童子洁斋三日。取麻油合胭脂。躬自涂于掌中。举手示童子。灿然有辉。童子惊曰。有军马。一人白晰以朱丝缚肘。澄曰。此即曜也。勒遂出战。果生擒刘曜。勒称赵王行皇帝事。敬澄弥笃。每举事必咨而后行。勒殂。弟季龙袭其位。徙都邺城。尤倾心事澄。下令衣以绫锦乘雕辇。朝会引见。常侍御史悉助举舆升殿。太子诸公扶翼而前。主者唱大和尚。坐者皆起。敕司空季农朝夕问候。时支道林闻之曰。澄公其以季龙为鸥鸟耶。及晋军侵淮泗。季龙怒曰。吾奉佛供僧返更致寇。佛无神矣。澄入见曰。陛下前身为商人。经罽宾寺设大会。会有六应真。吾其一也。有圣者曰。此檀越报尽为鸡乃王晋地。今陛下为天子。岂非奉佛供僧而致耶。疆场侵噬有国之常。何为怨谤三宝兴毒念乎。季龙悔谢。因问曰。佛法不杀。朕为天下掌生杀。恐违佛戒。澄曰。帝王事佛在恭俭慈忍。显赞法道不为暴虐不害无辜。民有为恶化之不悛者。其可不罚乎。但杀不可滥。刑不可不恤耳。尚书张离家富事佛。而所为不法。澄曰。事佛在清净无欲。君虽崇饰寺塔。而贪冒不已无益也。及将去世诣辞季龙。惊曰。大和尚遽弃我。国有难乎。澄曰。出生入死道之常也。修短分定无由增损。但道贵行全德贵不怠。苟德行无玷虽死如生。咸无焉千岁尚何益哉。然有可恨者。国家存心佛理建寺度僧。当蒙祉福而布政猛虐赏罚交滥。特违圣教致国祚不延也。季龙号恸呜咽。澄安坐而逝。后有沙门自雍州来。见澄入关以闻季龙。命发塳视之。唯块石存焉。季龙大恶之叹曰。石吾姓也。大和尚埋我而去。其能久乎。未几石氏果灭。澄度弟子数千万人。凡居其所。国人无敢向之涕唾。每相戒曰。莫起恶心。大和尚知汝。其道化感物如此。自大教东来。至澄而盛。

  论曰。大觉琏禅师有云。妙道之意圣人尝遇之于易。由生民已来淳朴未散。则三皇之教简而素。春也。及情窦日凿。则五帝之教详而文。夏也。时与世异情随日迁。故三王之教密而严。秋也。至周衰先王之法坏礼义亡。迨为秦汉则无所不至。而天下至有不忍愿闻者。于是我佛世尊之教入东土。示以性命之理。教以慈悲之行。冬也。旨哉斯言。观澄公区区西来。当石勒季龙碜暴虓噬之际。而能悯物垂轨。示以玄言德祥。导以慈悲之行。卒使二暴革心道化融洽。於戏天有四时循环。以生成万物。而圣人之教。迭相扶持以化成天下。厥有以哉。

  (庚戌) 赵石祗(三月即位。襄国改永宁。去帝号。刘显杀祇。冉闵以显为大单于。称帝于襄国。引兵攻邺。败还。魏克襄国。杀显及公卿焚宫室。迁其民于邺。至辛亥国除)。

  魏冉闵(杀石虎。子孙十八人。及胡羯二万人。壬子克襄国。杀刘显。后为慕容俊所灭。杀闵于遏。径山七里之内草木皆枯。半年不雨。祭之乃雨。国除)。

  (辛亥) 前秦符健(字建业。洪第三子。洛阳临渭氏人。其先有扈之裔。父洪字广世。为西戎酋长。初住石虎。灭洪。有师十万。自称秦王。生健。背有草付字。改姓苻氏。僭立四年。都长安。改元皇始。寿二十九。而终)○符子朗(坚之兄。英洁不仕。著书二十篇。曰符子多赞释)。

  世尊入灭一千三百年矣。

  (壬子) 燕改元玺。

  (甲寅) 凉张祚(改和平元)。

  (乙卯) 符生(字长生。健第三子。立二年改元寿光。二十三为坚杀之)。

  凉张玄靓立。

  (丁巳) 改升平。帝加元服。

  符坚(字永固。洪之子。雄武智略。尽有中原。以百万之众伐晋。为谢石所败。立二十七年。寿四十八终。改元永兴)。

  燕改寿光。

  (二十) 释涉公。本蜀人也。预言多验。游化至长安。时天大旱。坚命师祈雨。咒龙钵中。其雨沛然。恪加敬事。师不食五谷。日行五百里。是年示灭而岁复旱。坚谓秘书朱彤曰。涉公若在。岂使朕焦心于云汉哉。其思仰如此。

  (己未) 秦改甘露。

  (庚申) 燕慕容暐(字景茂。俊第二子。僭立十年。改元建熙)。

  (二十一 辛酉) 沙门于法开。兰公徒弟也。善放光法华。尤精医法。尝值妇人在草危急。开曰此易治耳。主人宰羊欲祀神。开令取肉为羹进竟。因气针之。须臾羊瘼裹儿而出。或问。法师高明刚简。何以医术经怀。答曰。明六度以除四魔之病。调九候以疗风寒之疾。自利利人。不亦可乎。

  (二十二 壬戌) 哀帝丕改隆和(字千龄。成之长子。即位修身。后断谷服长生药。过度中毒。崩于西堂。寿二十五。葬于安平陵)治四年。

  栴檀瑞像(已上六十八年。在龟兹。此下一十四年。在西凉府)。

  (癸亥) 改兴宁。

  (甲子) 凉张天锡立(骏之少子。玄靓委政。与臣谋杀。自立。至丙子。为符坚所虏)。

  (二十三) 是年哀帝。诏法师竺潜。讲般若于禁中。尝着屐至殿中。人聚观叹道德高风。初不省有市朝。时简文辅政。沛国刘惔尝遇潜于简文座中。嘲曰。道人亦游朱门乎。对曰。君自见朱门。贫道以为蓬户。及辞还剡山。支遁寓书求买沃州小岭归隐。潜答曰。欲来当给。未闻巢由买山而隐也。宁康二年卒。武帝下诏曰。法深理悟虚远风鉴清高弃宰辅之荣。袭染衣之素。山居世外笃勤匪懈。方赖宣道以济苍生。奄从迁谢用痛于怀。其赐缗钱十万。助建茔塔。潜字法深。凡中国敕葬沙门。自潜而始。

  (二十四) 法师支遁字道林。与谢太傅安王右军羲之厚善。安守吴兴。以书抵遁。略曰。思君日积北辰尤甚。知欲还剡自治为之怆然。人生如寄耳。自顷风流得意事殆磨灭都尽。唯终日戚戚。迟君一来以晤言消遣之。一日千载也。及竺潜辞阙。有诏遁。继讲法于禁中。一时名士殷浩郄超孙绰柏彦表王敬仁和充王坦之袁彦伯。并与结方外交。天下想见其标致者刘系谒于白马寺。谈庄周以适性为逍遥。遁曰。不然。桀跖以残虐为性。岂亦逍遥乎。于是注逍遥篇。学者宗之。王蒙尝极精思作数百语。诣遁曰。与君别久。而君了不长何也。蒙惭汗曰。绛钵之王何也。郄超尝问谢太傅曰。遁谈何如嵇中散。太傅曰。嵇努力裁得半耳。又曰。何如殷浩。太傅曰。亹亹论辨恐当抗衡。超拔渊源殷有惭德。超后与亲旧书曰。林公神理所通玄拔独悟。数百年来绍隆大法。令真理不绝一人而已。太和二年。废帝海西公在位。遁抗表辞还山。有诏资给敦遣。诸公祖饯于征虏亭。蔡子叔者。先至近道林坐。适起而谢。万亟趋其处。子叔还合褥举万投诸地。万曰。几损我面。子叔曰。吾初不为卿面计。其为当时所慕如此。晚居山阴讲维摩。许询为都讲。遁通一义。众意询不能难。及询设难。又意遁不能通。而宾主之难相寻无穷。听者多言。自得遁旨。诘之辄失。着即色游玄圣不辩知等论。有遗其马者。畜之曰。吾爱其神骏耳。有遗其鹤者。纵之曰。冲天之物岂耳目玩哉。君子多其达。及卒戴逵过其塔叹曰。德音未远而拱木已繁。计神理绵绵不与气运俱尽也。

  (二十五) 郗超字嘉宾。少有旷世之度。谈论义理精微。标志慕佛加好行檀。大将军桓温辟为参军。时王珣同府。珣为主簿。超美髯。珣身短小。府中语曰。髯参军短主簿。能令公喜。能令公怒。谢安王坦之诣温府。温先令超卧帐中。听其论事。俄风动帐开。安笑曰。郄生可谓入幕之宾矣。超喜隐遁。闻拂衣者。必为起屋具器用遗之。支道林每谓。其造微之功足参正始。甚重之。又与汰法师厚善。尝约先殁者。凡幽冥报应当以相报。俄而汰卒。一夕见梦曰。向与君约报应之事。今皆不虚。愿君无忘修德。以升济神明。超由是循道弥笃云。

  (二十六 乙丑) 秦改建元。

  (丙寅) 废帝奕(字延龄。哀之母弟。后大司马桓温。废为海西公。十月卒于吴。寿三十五)。

  改太和在治五年。

  (丁卯) 大教东被三百年矣。

  (二十七) 释道安者姓卫。常山扶柳人。图澄之门学。家世英儒。早失覆荫。为表兄所养。早年读书一览无忘。十一出家而能日记万言。终为缁林奇表。宁康初。安于襄阳檀溪寺。建浮图铸铜像。能起自行。至方山而止。光明烛天倾都瞻拜。欢呼动山谷。秦主符坚送外国金饰倚像金缕结珠弥勒等。安每讲设以作证。一夕像光照室。视之顶有舍利焉。习凿齿襄阳高士。先以书通好。乃诣安自称曰。习凿齿。安曰。弥天释道安。相得欢甚。即以书抵谢东山。称安盖非常胜士。恨公不一见耳。孝武帝闻安名。诏曰。法师以道德照临天人。使大法流行。为苍生依赖。宜日食王公禄。所司以时资给。安固辞不受。未几符坚攻陷襄阳。得安而喜。谓左右曰。吾以十万师取襄阳。得一人半耳。左右问为谁。曰安公一人。习凿齿半人也。安入关。沙门万数皆随师姓而名。安曰。师莫如佛世也。应沙门宜以释为氏。及增一阿含经至乃云。四河入海无复异名。四姓出家同称释氏。遂与符合焉。世益重之。又蓝田得古鼎。容二十有七斛。腹有篆文。朝无识之者。有以问安。安曰。鲁襄公所铸也。由是符坚敕三馆学士有所疑皆师于安。国人语曰。学不师安义不禁难。时符氏东极沧海。西并龟兹。南包襄阳。北尽沙漠。唯建康未服。坚雅意欲取而有之。群臣谏不从。太尉符融者叩头请安。为苍生一言。安诺。及坚出东苑。命安升辇同载。仆射权翼进曰。臣闻天子法驾侍中陪乘。道安毁形宁可参厕。坚怒曰。安公道德可尊。朕以天下易舆辇之荣。未称其德。即诏翼扶安登辇。于是翼跪而掖之。坚顾谓安曰。朕将与公南游吴越。整六师以巡狩。登会稽以观沧海。不亦乐乎。对曰。陛下应天御世。富有八州居中而制四海。宜栖神无为与尧舜比隆。今欲以百万之师求厥田下下之土。东南地区势卑气厉。昔舜禹游而不返。始皇适而不归。以贫道观之。未见其可。平阳公懿戚石越重臣。皆忧国至深。其论可听。坚曰。非区域不广也。朕欲简天心明大运所在耳。顺时巡狩。且有格言傥如高论。则帝王无省方之文乎。安曰。必欲往。宜驻跸洛阳枕戈畜锐传檄江南。如其不服伐之未晚。坚不纳。太元七年坚自将步骑。百万次寿春。为晋徐州刺史谢玄所败。单骑遁还。安每疏经义必求圣证。一日感庞眉尊者降。安出所制似之。尊者钦叹以为尽契佛心。仍许以密助弘通。安识其为宾头卢也。因设日供祀之。今供宾头自安而始。门弟子通其业者数十人。知名于世有法遇者。传教长沙。门徒数百。有私饮者。遇纵而不举。安兼知之。即封荆以寄。遇抱荆而泣曰。董众无状而远遗师忧。于是俯伏躬受其谴。太元十四年正月晦日。安命其徒具浴。忽见异僧出入隙中。安以生处问之。僧指西北即云开见楼阁如幼出。曰彼兜率天也。是夕有敷百小儿。皆就浴而去。识者以为应真之侣也。二月八日跏趺而逝。安貌侻而姿黑。博学善词章。谚曰。漆道人惊四邻。左臂有肉方寸许隆起如印。时号印手菩萨。着僧尼轨范及法门清式二十四条。世遵行之。

  论曰。法源滥触之初。由佛图澄而得安。由安而得远公。是三大士化仪轨则。或无以异。至于出处操尚。若相戾者何哉。大抵晋室渡江自明帝之后。当代时君虽无可称者。然而朝廷纪纲法度未始或亏。当是之际。故远公得以遂其高。天子临浔阳而诏不出山。若澄安二公。失身偏霸之朝。万一不区区俯仰曲徇其情。彼季龙符坚其肯容之高卧山林。而不为之屈耶。此古所谓易地皆然。三大士有之矣。孟轲氏称伯夷伊尹柳下惠。皆曰圣人者。良以其道通方而善趋时也。世谓澄安之操不逮远公。吾弗信矣。

  (二十八) 孙绰字兴公。父楚有重望。绰博学美文辞。与高阳许询俱有高尚之志。初隐稽山放情山水。作遂初赋。以见志。友道林问绰曰。君何如许。答曰。高情远志弟子早已伏膺。然一咏一吟。许将生面。尝作天台赋。示友人范荣期曰。卿试以掷地当作金声。荣期曰。恐此金声非中宫商。然每至佳句。辄云。应是我辈语。于吾道多有论撰。具见弘明等集。年五十八卒。史臣称绰有匪躬之节。不徒文雅而已。

  (二十九) 许询字玄度。高阳人。魏中领军允曾孙也。澡心学佛。甚为江左诸公卿仰慕。简文帝高其风。每月白风恬。思清言妙理必造焉。至其亹亹。简文不觉前席。达旦忘倦。帝谓亲友曰。玄度才情故未易有。刘真长为时谭宗。而与结清言友。每谓人曰。吾不见玄度几为轻薄令尹。又尝曰。清风明月何尝不思玄度。

  (戊辰) ○王珣与弟珉舍宅为寺。今虎丘是也。

  (庚午) ○符坚灭燕。

  (三十) 晋司马桓温。末年奉法。有尼造之。温敬而不倦。浴必移晷。讶而私觌。见尼挥刃自割。截支分脔。有顷尼出。温以情问尼曰。君志若遂形当如之。时温方谋问鼎。闻此怅然乃止。尼遂辞不测所之(出感通录)。

  (三十一 辛未) 简文帝昱(字道万。元之少子。神识怡畅。无济世之略。后崩于东堂。寿五十。葬高平陵)。

  (三十二) 改咸安○是年慧星现。帝诏竺法旷禳之。旷曰。陛下当勤修德政以赛天谴。贫道当尽情。帝乃斋忏灾遂灭。

  佛祖历代通载卷第六

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第七

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  东晋

  (癸酉) 孝武帝曜。改宁康(字昌明。简文第三子。十岁即位。崇德太后临朝。二月桓温拥兵来朝。有不臣之志。三月疾还姑孰。七月卒。弟冲代领兵。尽忠王室。三十五崩清暑殿。葬隆平陵。治廿四年)。

  (丙子) 改太元○栴檀瑞像是年到长安。住一十七年。

  (癸未) 后秦姚苌(字景茂。南安赤亭羌人。其先有虞之裔。父弋仲。有二十四子。苌幼子也。初仕苻坚为阳武将军。因南伐败绩而归。遂缢苻坚而据长安僭立。八年改建兴。寿六十四)。

  西秦乞伏国仁(本西鲜卑人。其先自汉北出阴山。后降苻坚。署为南单于镇勇士川。苻坚既败国仁。自称大单于王。后号西秦。据金城僭立。四年乙酉改建义)。

  后凉吕光(字世明。洛阳氐人也。父婆娄。仕苻坚官至太尉。生光身长八尺四寸。目有重瞳。王猛见而异之。举以为将。率兵七万西征。降者四十余国。至龟兹获罗什。闻坚死据姑。俱臧称凉州牧。立十年)。

  后燕慕容垂(字道明。皝之弟。身长七尺五寸。垂手过膝。因惧诛奔秦。苻坚用之将使伐晋。既败。遂据中山。改国号燕立十三年。寿七十一)。

  (甲申) 苻丕(字永叔。坚之庶子。既闻坚卒。出镇于邺。据晋阳。立一年。改大安)。

  后秦改白雀。

  (二) 太元九年。法师惠远以秦乱来归于晋。远出雁门贾氏。少为儒生。博极群书。尤邃周易庄老。尝与弟惠持造安法师席下。闻出世法而悦之。叹曰。九流特秕糠耳。遂出家。安门徒数千。远居第一座。及关中扰乱。安散其徒。皆谆谆规诲而遣之。远别独不与一言。远怪问。安曰。若汝吾何言哉。遂自荆州将之罗浮。抵浔阳见匡山。爱之庐于山阴。大守桓伊为创精舍。一昔风雷拔树鼓沙石。荡平基致木于土。时以为神运焉。初太尉陶侃镇广州。有渔于海。得文殊像。送寒溪寺。寺尝经火而像屋无恙。其后侃镇武昌。使人迎之。十辈不能举。既而丛力致之舟。舟辄没。遂失其像。时谣曰。侃唯剑雄。像以神标。可以诚致。难以力招。及远创寺。心祈之。于是像冷然自至。时晋室微而天下奇才多隐居不仕。若彭城刘遗民豫章雷次宗雁门周续之新蔡毕颖之南阳宗炳张士民李硕等。从远游。并沙门千余人结白莲社。于无量寿像前建斋立誓期生净土。及闻罗什法师入关。远望风钦敬。遗书通好。词曰。去岁得姚右军书。且承德闻。仁者曩日殊域。越自外境。于时音译未交。闻风而悦。顷承怀宝来游。则一日九驰。徒情欣雅味而无由造尽。寓目望途增其劳伫。夫旃檀移植则异物同薰。摩尼吐曜则众珍自积。且满愿不专美于绝代。龙树岂独善于前踪。今往比量衣裁。愿登高座为着之。什答曰。既未言面。又文词殊隔。导心之路不通。得意之缘圮绝。传译来贶粗述德风。比何如必备闻一途可以蔽百。经言。末后东方当有护法菩萨。勖哉仁者善弘其事。夫才有五备。福戒博闻辩才深智。兼之者道隆。未具者凝滞。仁者备之矣。所以寄言通好。因译传心。岂其能尽粗酬来意耳。损所致比量衣裁。欲令登法座时着。当如来意。但人不称物。以为愧耳。今往常所用鍮石双口澡灌。可以备法物数也。并遗偈一章曰。既已舍染乐。心得善摄否。若得不驰散。深入实相否。毕竟空相中。其心无所乐。若悦禅智惠。是法性无照。虚诳等无实。亦非停心处。仁者所得法。幸愿示其要。远复答以偈曰。本端竟何从。起灭有无际。一微涉动境。成此颓山势。惑想更相乘。触理自生滞。因缘虽无主。开涂非一世。时无悟宗匠。谁将握玄契。来问尚悠悠。相与期暮岁。初中国未有涅槃常住之说。但云。寿命长劫。远曰。佛是至极。至极则无变。无变之理岂有穷哉。乃着法性论。略曰。至极以不变为性。得性以体极为宗。罗什见论叹曰。远未及见经。暗与理会。岂不妙哉。秦王姚兴致书饷远龟兹细缕杂变像。以伸款敬。安城侯姚嵩献珠像并释论。曰。大智论新记。龙猛所作。法师当冠以叙文以昭示万世。此邦道人同所钦闻也。远以大论文广。谦让不诺。乃抄其要为二十卷。而别叙之。桓玄辅政。劝安帝沙汰僧尼诏曰。沙门有能伸述经牒演说义理。律行修整可宣寄大化者。听依所习。不者悉令罢道。唯匡山道德所居。不在搜简。远以书抵玄。阳纵而阴夺之。遂停其诏远尝稽考禅宗别传之旨源流所自。及祖师达磨之来。遂皆符合云。陶渊明隐居柴桑。从远问道。深相敬仰。谢灵运投名入社。远拒之不内。及宗炳着明佛论。颜延之析达性论。周颙驳夷夏论。郑道子着神不灭论。皆禀远是正焉。至隆安中桓玄重申庾冰之义。欲沙门尽敬王者。朝廷承风旨多与玄合。因以问远曰。此一代大事。不可使朝廷失体也。得八座书。今以似君。君其件件详论不敬之意以释其疑。便当行之。远答其书。并着沙门不敬王者论五篇剧陈所以不拜之意。玄始意坚。及得远论即缓其事。未几篡位。乃下书曰。佛法弘大所不能测。推奉主之情欲兴其敬。今事既在己。宜体谦冲应诸道人。勿复致礼也。安帝避玄还次浔阳。诏远见于行在。辅国何无忌劝远一出。远固辞以疾。帝再诏问劳。敕九江太守岁时送米资奉。卜居三十年。影不出山迹不入俗。送客以虎溪为限。弟惠持亦有高行。莲社众数千。持居第一座。太尉王珣尝问豫章刺史范寗。远公与持孰愈。寗曰。贤弟兄也。珣曰。但令如弟所未易有。况复贤耶。远临终其徒进蜜浆者。远惧违律。令左右检律。未终卷遂合掌西面而逝。年八十有三。有匡山集三十卷。行于世。

  宋朝明教大师契嵩。过远影堂。列六事题之。其辞曰。陆修静异教学者。而送过虎溪。是不以人而弃言也。陶渊明耽湎于酒。而与之交。盖简小节而取其达也。跋陀高僧。以显异被摈。而延且誉之。盖重有识而矫嫉贤也。谢灵运以心杂不取。而果没于刑。盖识其器而慎其终也。卢循欲叛。而执手求旧。盖自信道也。桓玄震威而抗对不屈。盖有大节也。大凡古今人情莫不畏威而苟免。忘义而避疑。好名而昧实。党势而忍孤。饰行而畏累。自是而非人。孰有道尊一代为贤者师。肯以片言而从其人乎。孰有夙禀胜德为行耿洁。肯交醉乡而高其达乎。孰有屈人师之尊。礼斥逐之客。而申其贤乎。孰有拒盛名之士不与于教而克全终乎。孰有义不避祸敦睦故旧而信道乎。孰有临将帅之威。在杀罚暴虐之际。守道不挠而全其节乎。此固远公识量远人独出于古今矣。若其扶荷至教广大圣道垂裕于天人者。非蒙乃能尽之。其圣欤贤耶。伟乎大块噫气六合清风远公之名闻也。四海秋色神山中耸远公之清高也。人龙僧凤长揖巢许远公风轨也。白云丹壑玉树瑶草远公栖处也。

  (三) 刘程之字仲思。彭城人。少孤事母以孝闻。才藻自负不委气于时俗。虽寒饿在己威福当前。其意湛如也。司徒王谧承相桓玄侍中谢琨太尉刘裕。咸嘉其贤。欲相推荐。程之力辞。乃之匡山托于远公。远曰。官禄巍巍何以不为。程之曰。君臣相疑疣赘相亏。晋室无磐石之固。物情有累卵之危。吾何为哉。远然其说大相器厚。太尉亦以其志不可屈。与群公议遗民之号旌焉。时雷次宗周续之毕颍之张秀实宗炳等。同依远公。远曰。诸君之来岂宜忘净土之游乎。有心焉当加勉励。无宜后也。以程之最文使志其事。号莲社誓文。其辞曰。维岁在摄提格七月戊辰朔二十八日乙未。法师释惠远真感幽兴霜怀特发。乃延命同志息心正信之士雷次宗刘程之等百有二十三人。集于庐山之阴般若台精舍阿弥陀佛像前。率以香花敬荐而誓。惟兹一会之众。夫缘化之理既明。而三世之传显矣。迁感之数既符。则善恶之报必矣。推交臂之潜论。悟无常之期切。审二报之相催。知险阻之难援。此其同志诸贤所以夕惕宵勤仰思攸济者也。盖神者可以感涉。而不可以迹求。必感之有物则幽路咫尺。苟求之无方则渺茫何津。今幸以不谋而感。佥心西境叩篇开信。亮情天发。乃机象通于寝梦。欣欢百于子来。于是云图表晖景侔神造。功由理谐事非人运。兹实天启其诚冥运求萃者矣。可不克心克念重精叠思以凝其虑哉。然景续参差功福不一。虽晨期云同而夕归攸隔。即我师友之眷。良可悲矣。是以慨然胥命整衿泫堂。等施一心亭怀幽极。誓兹同人俱游绝域。其有警世绝伦首登神界。则无独善于云峤忘兼全于幽谷。先进后升勉思汇征之道。然后妙观大仪启心真照。识以悟新形由化革。藉芙蕖于中流。荫琼柯以咏言。飘灵衣于八极。沉香风以穷年。体忘安而弥穆。心超乐以自怡。听三途而缅谢。傲天宫而长辞。绍众灵而继轨。指太息以为期。究兹道也。岂不弘哉。

  (四) 太元初。符秦盛时德星屡现。太史奏。外国当有智人入辅。及秦主攻襄阳得法师道安。喜以为应。安谦让不敢当。因劝秦主迎龟兹国法师鸠摩罗什。坚从之。即遣骁骑将军吕光以铁骑七万伐龟兹。谓曰。若获罗什驰驿送归。光军至。什谓龟兹王白纯曰。国运替矣。有就敌从日下来。宜供承之。勿抗其锋。钝不纳拒之。大为光所破。遂获罗什。光见什齿少。凡人戏之。妻以龟兹王女。什苦辞以为不可。光饮以醇酒同闭室中。遂为所逼。及光还而符坚已败。因僭王姑臧。父子相继皆庸材不知道。什蕴深解混居其国亡所宣化。

  (五) 秦主姚苌者。西戎羌也。符坚之败。苌为宿将率其部属反叛。坚与之战不利。遂为苌缢杀之于佛寺。苌袭其位都雍关。改长安为常安。在御八年。符坚领鬼兵白日入宫刺中其阴。出血石余而崩。子兴即位。降帝号而称天王。未几干戈寝息风化大行。嘉祥沓现。及树连理创生于殿庭。咸谓智人入国之瑞乃遣姚硕德伐凉吕隆。迎罗什法师至。秦主深加礼遇待以国师。大阐经论。震旦宣译至符秦并什法师等。两朝出经律论三藏。凡八百余卷云。

  (乙酉) 符丕改大安。

  西秦改建义。

  (六) 北朝魏(姓拓跋王水德都云中)。

  雷氏曰(道武明元太武文成献文孝文宣武孝明孝庄节闵后废出帝魏主十二一百四九)。

  太祖道武皇帝圭(其先十一主。国号代晋。始拓跋诘汾。因畋于野遇天女而生力微。即魏之始祖神元皇帝也。)(帝时辟暑五台山。有梵僧来乞坐具地。帝然之。遂敷坐具于是。头出星辰。尾摇日月。方圆五百里。皆属圣基。乃文殊化身也。)(始祖生章帝悉鹿。平帝绰。思帝弗。昭帝禄官。穆帝猗庐平文帝郁律。惠帝贺傉。炀帝纥那。烈帝翳槐。昭成帝什翼犍。已上十一主未通中国○圭按世录。其先出自黄帝之后。昌意之子。受封北国。有大鲜卑山。自以为号。西晋之乱有拓跋庐。出居楼烦。晋封为代王。于后部落分散。经六十余年至庐孙什翼涉圭。魏书云。圭即魏太祖道武帝也。太元元年据朔州东三百里筑城邑。号恒安。为符坚护将军。坚败后。乃即真号太祖道武。殂明元立。元殂世祖太武帝立。自是又四主至世宗孝文帝。迁都于洛。改姓元氏。去胡衣冠绝虏语尊华风。是时天下唯二国谓之南北朝。魏初未闻佛。及神元与晋通聘。方知致信。僧至二百万。寺院三万余所。译经律论一千九百余卷。自古佛图塔之盛无出于此。改年登国)。

  (丙戌) 前秦符登(字文高坚之族孙在位九年改元太初。寿五十二)。

  后秦改建初(入长安称帝)凉改大安。

  燕改建兴。

  (丁亥) 西秦乞伏干归(国仁弟立二十四年。后为兄杀之)。

  (戊子) 西秦改太初(称王于河南)。

  (七) 第二十六祖不如蜜多者。南印度德胜王之太子也。既受度得法至东印度。彼王名坚固。奉外道师长爪梵志。暨祖将至。王与梵志同睹白气贯于上下。王曰。斯何瑞也。梵志预知尊者入境。恐王迁善。乃曰。此魔来之兆耳。何瑞之有。即鸠诸徒众议曰。不如蜜多将入都城。谁能挫之。弟子曰。我等各有咒术。可以动天地入水火。何患哉。尊者至。先见宫墙有黑气。乃曰小难耳。直诣王所。王曰。师来何为。祖曰。将度众生。曰以何法度。祖曰。各以其类度之。时梵志闻言不胜其怒。即以幻法化大山于尊者顶上。尊者指之忽在彼众头上。梵志等怖惧投尊者。尊者愍其愚惑。再指之化山随灭。乃为王演说法要俾趣真乘。又谓王曰。此国当有圣人而继于我。是时有婆罗门子。年二十许。幼失父母。不知名氏。或自言缨络。故人谓之缨络童子。游行闾里丐求度日。若常不轻之类。人问汝何行急。即答云。汝何行慢。或问何姓。乃云。与汝同姓。莫知其故。后王与祖同车而出见缨络稽首于前。尊者曰。汝忆往事否。曰我念远劫中与师同居。师演摩诃般若。我转甚深修多罗。今日之事盖契昔因。尊者又谓王曰。此童子非他。即大势至菩萨是也。此圣之后复出二人。一人化南印度。一人缘在震旦。四五年内却返此方。遂以昔因故名般若多罗。付法眼藏。偈曰。真性心地藏。无头亦无尾。应缘而化物。方便呼为智。尊者付法已。即辞王曰。吾化缘已终。当归寂灭。愿王于最上乘毋忘外护。即还本坐跏趺而逝。化火自焚。王收舍利塔而瘗之。当东晋孝武帝太元十三年戊子岁也。

  (己丑) 后凉改麟加。

  (癸巳) 栴檀瑞像此下至江南。住一百七十三年矣。

  (甲午) 前秦符崇改延初(十月为干归所杀国除)。

  后秦姚兴改皇初(字子略。苌长子弁。之长安立于槐里。二十二年。寿五十五岁)。

  (八 丙申) 安帝德崇(武帝长子。生而不惠。至于寒暑饥饱不能辨。年三十二。崩于东堂。葬休平陵。一名儒宗。十五岁即位。治二十二年)。

  后凉改龙飞(称凉天王)。

  后燕慕容宝(字道祐。乘之第四子。立二年。改元永康。寿四十四岁)。

  北魏改皇始(建天子旌旗)。

  南燕慕容德(字玄明。皝少子。身长八尺二寸。姿貌雄伟。后燕宝死。乃据滑台号燕都广。僭立七固年。寿五十而卒)。

  南凉秃发乌孤(河西鲜卑人。其先与魏同出。八世祖匹孤率其部。自塞北迁于河西。吕光遣使署为益州牧。自称大单于西平王。都广武徙乐都。改年太初。僭立三年)。

  此凉改业(据张掖次年改神玺)。

  西凉李皓(字玄盛。龙西成纪人。汉将军李广十六代孙。祖弇仕张轨为将。因据河右至皓称凉。立十七年○即唐太宗八世祖也)。

  (九) 竺僧朗。京兆人也。专以讲说为任。而疏食布衣志耽物外。自皇始移上太山剃茅居之。时闻风而造者百有余焉。道德凝怀。千里哲人竞凑。芳声播远。五朝天子移风。贡物飞符孰能并驾。

  一符坚书曰。皇帝敬问太山朗和尚。大圣应期灵权超逸。荫盖十方化融无外。若四海之养群生。等天地之育万物。养生存死澄神寂妙。朕以虚薄生与圣会。而隔万机不获辇驾。今遣使人安车相请。庶冀灵光迥盖京邑。今并奉紫金数斤供镀形像。绩绫三十疋。奴子三人。可备洒扫。至人无违。幸望纳受。想必玄鉴见朕意焉。既请已师礼事之。

  二晋武帝曜书曰。皇帝敬问太山朗和上。睿德光时声飞东岳。乃至思与和上同养群生。至人通微想明朕意。今遣使者送五色珠像一躯。光锦五十疋。象牙箪五领。金钵五枚。到愿受纳。

  三后燕成武帝慕容垂书曰。皇帝敬问太山朗和上。澄神灵绪慈荫百国。凡在含生孰不蒙润。朕承籍纂统。方夏事膺。昔蜀不恭魏武含慨。今二贼不平。朕岂获安。又元戎克兴狂扫暴乱。至人通灵随权指化。愿兵不血刃四海混伏。委心归依久敬何已。今遣使者送官绢一百疋。袈裟三领。绵五十斤。幸为咒愿。

  四魏太祖道武皇帝书。皇帝敬问太山朗和上。承妙圣灵要须经略。已命元戎。上人德同海岳神算遐长。冀助威谋克宁荒服。今遣使送素绢二十端。白㲲五十领。银钵三枚。到愿受纳。

  五南燕慕容德。亲与齐州朗和上建神通寺。与师书曰。敬问太山朗和上。遭家多难灾祸屡臻。昔在建熙王室西越赖武王中兴。神武御世大启东夏。拯拔区域遐迩蒙苏。天下幸甚。天未忘灾。武王即宴。永康之始东倾西荡京华播越。每思灵阙屏营饮泪 朕以无德生在乱兵遗民未几继承天禄。幸和上大思神祇盖护。使者送绢百疋。并假东齐王奉高山荏二县封给。书不尽意。称朕心焉。五朝御启。师悉回答。恐烦不录。见唐弘明集。

  (丁酉) 改隆安○北凉改神玺。

  后燕改永康。

  (戊戌) 后燕慕容盛(字道运。宝之庶子。立三年。寿二十九卒。改年建平)。

  (十) 北魏是年即帝位。改元天兴。道武下诏曰。夫佛法之兴其来远矣。济益之功冥及存没。神踪遗法信可依凭。敕有司于京师建饰容像修整宫舍。令信向之徒有所居正。是岁作浮屠殿二所。谓耆阇须弥。别构禅房法座。莫不严具焉。

  (己亥) 后秦改弘始○后燕改长乐(字道文垂。少子在。位六年寿。二十三岁)。

  后凉吕纂改咸宁○北凉改天玺。

  (庚子) 南凉利鹿孤(乌孤之弟立二年改建和)。

  (十一) 是年什法师卒。鸠摩罗什。此翻童寿。天竺人也。家世勋烈。父鸠摩罗炎。有美节。避相位出家。龟兹王闻请为国师。以妹妻焉遂生什。日诵千偈三万余言。大小乘宗莫不该览。符秦建元十三年。德星现之。苻坚使吕光西讨。及闻坚败。据姑臧称凉。弗获师面。姚秦弘始三年三月。庭树生连理。逍遥园有葱变茝。以表智人应入中国。九月吕隆来降。十二月二十日。迎师居逍遥园。兴以国师礼待之。甚见优宠。仍命译经论三百余卷。资学三千拔萃有八。曰道生僧肇道融僧睿道恒僧影惠观惠严等。各有著述。知别传明。可谓一时之盛千载光华。又举僧䂮为僧正。以政僧事。沙门惠睿精诚远到。随什传写。每与睿言。西方辞体特重文制。其宫商体韵以入管弦。为善。凡觐王者必有赞德。经偈皆其式也。尝叹曰。吾着大乘阿毗昙非迦旃延比也。时无深识者。因凄然而止。独与秦王着实相论二卷。秦王机政之暇。躬与什对译。寻览旧经多所纰缪。什厘正之。尝讲经草堂寺。及朝臣沙门数千众肃容观听。一日王谓什曰。法师才明超悟海内无双。可使法种不嗣哉。遂以宫嫔十人逼令受之。什亦自谓。每讲有二小儿。登吾肩欲障也。自是不住僧房。别立廨舍。诸僧有效之者。什聚针盈钵谓曰。若相效能食此者乃可畜室耳。举已进针如常膳。诸僧愧止初在龟兹。邻国诸王会同。每请什说法。必跪伏座前命什践肩而登座。尝与母谒大月氏国北山尊者。北山谓其母曰。善护此沙弥。年三十五。毗尼无缺。度人如优波鞠多。不尔正俊法师耳。杯渡比在彭城。闻什入关。叹曰。吾与此子戏别三百年矣。相见杳然未期。迟于来世耳。什尝升座。每曰。譬如臭泥中生莲华。但取其华勿取臭泥也。居秦才九年而疾。口出三番神咒令外国弟子诵之。以自救。未及致力转觉危殆。于是力疾集众告别曰。因法相逢殊未尽心。方复后世。恻怆可言。自以闇短谬充传译。所出经论。唯十诵律未及删繁。若义契佛心焚身之日舌不焦坏。言讫而逝。阇维日舌果若红莲色而不坏云。

  论曰。汉光武生于南阳。而南阳无贱士。罗什至关中而奇才毕集经称。圣贤出世。皆有因中同行开士。随从下生以佐佑其化。信不诬矣。方魏晋以来大法草昧。西域沙门至者。例以神迹显化中国。虽有奇杰闲出。然多囿情外学。迨什公之来然后大法渊源始淳。学者得以尽心方等而蔑视老庄。盖什公有力于法门。岂小补哉。特以宿障之累。致其居关中才九年所蕴十未行一而不克寿。秦王有致什之功而弗能成其美。呜呼使什公峻德梵行副其所蕴。获永天年以光大教之序。虽弥勒出世。尚何加焉。

  (十二) 法师道䂮。以奉律精苦。为秦王所重。自什公入关。僧尼以万数。颇多愆滥。秦王患之。遂置僧正。下诏曰。大法东迁于今为极。僧尼寖多宜设纲领。宣授远视以济颓绪。䂮法师早有学谊。晚以德称。可为国僧正。给舆吏力资侍中秩。传诏羊车各二人。又以僧迁禅惠为悦众。以法钦惠斌为僧录。班秩有差。寻加亲信仗身白从各三十人。

  (十三) 时师子国有婆罗门。号聪明。为异道之宗。闻什在关中。驮其书至。乞与僧辨论。关中沙门相视缺然。什谓法师道融曰。子可以当之。融顾外道经书未读。乃密使人录其书目。一览即诵。克日议论。秦主与公卿大集。婆罗门以能博观为夸。融数其书并秦地经史三倍之。什乘胜嘲曰。卿乃未闻秦有博学者乎。敢轻远来。于是婆罗门愧服再拜融足下而去。

  (十四) 法师道恒。幼事后母以孝闻。母亡去为沙门。从什公游。什爱其才。与道标齐名。秦主雅闻二人有经纶术业。令尚书姚显宣旨敦勉罢道辅政。恒标抗表陈情。略曰汉光武成严陵之节。魏文帝全管宁之高。陛下天纵之圣。议论每欲远辈尧舜。今乃冠巾两道人。反在光武魏文之下。主复命什䂮等勉谕之。必欲遂其心。什䂮等奏章叙其事。略曰。惟圣人能通天下之志恒标业已毁除须发。着不正之衣。今使处簪绅之朝。非其志也。且大秦龙兴异才辈出。如恒标等未为卓越。主又下书。于是举众恳乞。乃得寝。恒叹曰。名进真道之累。乃与标去入琅邪山。终世不出。

  (十五) 法师僧睿。幼有盛名。及从罗什受业。妙悟绝伦。秦王尝问司徒姚嵩曰。睿公谁可比。嵩曰。未见归宿及朝会公卿大集。睿风神朗彻。主指以谓嵩曰。四海僧望也。睿讲成实论。什公曰。此诤论中有七处破毗昙。子能办乎。睿举以应问。皆当其意。什叹曰。子真精识。传译有赏音。吾何恨焉。

  (十六) 法师僧肇。幼家贫。为人佣书。遂博观子史。尤善庄老。盖其粗也。年二十为沙门。名震三辅。什公在姑臧。肇走依之。什与语惊曰。法中龙象也。及归关中详定经论。四方学者辐凑而至。设难交攻肇迎刃而解。皆出意表。着般若无知论。什览之曰。吾解不谢子。文当相揖耳。传其论至匡山。刘遗民以似远公。公抚髀叹曰。以为未尝有也。复着物不迁等论。皆妙尽精微。秦主尤重其笔札。敕传布中外。肇卒年三十有二。当时惜其早世云。

  (辛丑) 凉吕隆改神鼎。

  北凉沮渠蒙逊(临松卢水胡人。其先为凶奴。逊后杀歆。立于张掖。治三十三年。寿六十六。改永安)。

  后燕慕容熙改光始。

  (壬寅) 改元兴。

  南凉傉檀(利鹿孤弟。立十三年。寿五十五。改元弘昌)。

  (十七) 元兴元年。天竺弗多罗尊者至秦。义学沙门数百人从之。于中寺出十诵梵本。什公翻译。及半而弗多卒。会沙门昙摩流支至。亦善毗尼。匡山远公闻而喜。走书关中劝流支出其律足成之。流支乃与什公续而终焉。律仪大备自此而始。

  (十八) 天竺尊者佛陀耶舍至姑臧。闻什公受秦宫女。叹曰。什如好绵。其可使入棘刺乎。什闻耶舍为已远来。恐相失而返。劝秦王迎之。使至。耶舍曰。明旨远降。便当驿驰副檀越待士之勤。脱如见礼罗什。则贫道当在北山北矣。使还。王钦伫不已。复遣使尽礼致之。耶舍乃肯来。王郊迎。别创精舍处之。供设如王者。耶舍一无所受。时至分卫一食而已。善毗婆沙论。而髭赤。时号赤髭毗婆沙。后游匡山为远公所重。躬自负铁。于紫霄峰顶铸塔。以如来真身舍利藏其中。今存焉。

  (十九 癸卯) 元兴二年。太尉桓玄久怀篡夺。及升宰辅。以震主之威下书。令沙门致拜君亲。玄与八座书。重申何庾议沙门不敬王者。以谓庾意在尊主而礼据未尽。何出于偏信遂沦名体。夫佛之为化。虽诞以范浩推乎视听之外。以敬为本。此处不异。盖所期者殊。非恭敬宜废也。老子同王侯于三大。原其所重皆在于资生通运。岂独以圣人在位而比称二仪哉。将以天地之大德曰生。通生理物在乎王者。故尊其神器而礼实惟隆。岂是虚相崇重。义在君御而已。沙门之所以生生资存。亦日用于理命。岂有受其德而遗其礼。沾其惠而废其敬哉。于时尚书桓谦中书王谧等。抗谏曰。今沙门者意深于敬。不以形屈为礼。如育王礼比丘足。魏文侯之揖干木。汉光武之遇子陵。皆不令屈体。况沙门之人也。于是亟其书咨于远公。远嘅然惜之曰。悲夫斯乃交丧之所由。千载之否运。惧大法之将沦。感往事之不忘。故著论五篇究叙微意。庶后之君子崇敬佛教者。或详览焉。

  (二十)沙门不敬王者论在家第一。

  原夫。佛教所明。大要以出处为异。出处之人凡有四科。其弘教通物。则功侔帝王化兼治道。至于感俗悟时。亦无世不有。但所遇有行藏。故以废兴为隐显耳。其中可得论者。请略而言之。在家奉法则是顺化之民。情未变俗迹同方内。故有天属之爱奉主之礼。礼敬有本。遂因之而成教。本其所因则功由在昔。是故因亲以教爱。使民知有自然之恩。因严以教敬。使民知有自然之重。二者之来。实由冥应。应不在今。则宜寻其本。故以罪对为刑罚。使惧而后谨。以天堂为爵赏。使悦而后动。此皆影响之报而明于教。以因顺为通而不革其自然也。何者夫厚身存生。以有封为滞累。深固在我未忘。方将以情欲为苑囿。声色为游观。沉湎世乐不能自免而特出。是故教之所检。以此为涯而不明其外耳。其外未明则大同于顺化。故不可受其德而遗其礼。沾其惠而废其敬。是故悦释迦之风者。辄先奉亲而献君。变俗而投簪者。必待命而顺动。若君亲有疑则退求其志以俟同悟。斯乃佛教之所以重资生助王化于治道者也。论者立言之。旨貌有所同。故位夫内外之分。以明在三之志。略叙经意宣寄所怀。

  沙门不敬王者论出家第二。

  出家则是方外之宾。迹绝于物。其为教也。达患累缘于有身。不存身以息患。知生生由于禀化。不顺化以求宗。求宗不由于顺化。则不重运通之资。息患不由于存身。则不贵厚生之益。此理之与形乖。道之与俗反者也。若斯人者因誓始于落簪。立志形乎变服。是故凡在出家。皆遁世以求其志。变俗以达其道。变俗则章服不得与世典同礼。遁世则宜高尚其迹。夫然故能拯溺俗于沈流。拔幽根于重劫。远通三乘之津。广开天人之路。如令一夫全德。则道洽六亲泽流天下。虽不处王侯之位。亦已协契皇极在宥生民矣。是故内乖天属之重。而不违其孝。外阙奉主之恭而不失其敬。从此而观。故知超化表以寻宗。则理深而义笃。照太息以语仁。则功末而惠浅。若然者虽将面冥山而游步。犹惑耻闻其风。岂况与夫顺化之民尸禄之贤。同其孝敬者哉。

  沙门不敬王者论求宗不顺化第三。

  问曰。寻老氏之意。以天地得一为大。王侯以顺体而尊。终于义存于此。斯沙门所以抗礼万乘高尚其事不爵王侯而沾其惠者也。

  沙门不敬王者论体极不兼应第四。

  问。历观前史。上皇已来。在位居宗者未始异其原本。本不可二。是故百代同典咸一其统。所谓唯天为大。惟尧则之。始此则非智有所不照。自无外可照。非照有所不尽。自无理可尽。以此推视听之外廓无所寄。理无所寄则宗极可明。今诸沙门不悟文表之意。而惑教表之文。其为谬也。固已全矣。若复显然验。此乃希世之闻。

  答曰。夫幽宗旷邈神道精微。可以理寻难以事诘。既涉乎教则以因时为检。虽应世之具优劣万差至于典成在用。咸即民心而通其分。分至则心。其智之所不知。而不关其外者也。若然则非体极者之所不兼。兼之者不可并御耳。是以古之语大道者。五变而形名可举。九变而赏罚可言。此但方内之阶差。而犹不可顿说。况其外者乎。请复推而广之以远其类。六合之外存而不论者。非不可论。论之或乖。六合之内论而不辨者。非不可辨。辨之或疑。春秋经世先王之志辩而不议者。非不可议。议之或乱。此三者皆其身耳目之所不至以为关键。而不关视听之外者也。因此而求圣人之意。则内外之道可合而明矣。常以为道法之与名教。如来之与尧孔。发致虽殊潜相影响。出处诚异终期则同。详而辨之指归可见。理或有先合而后乖。有先乖而后合。先合而后乖者。诸佛如来则其人也。先乖而后合者。历代君王体极之至。斯其流也。何以明之。经云。佛有自然神妙之法。化物以权广随所入。或为灵仙转轮圣帝。或为卿相国师道士。若此之伦在所变现。诸王君子莫知为谁。此所谓先合而后乖者也。或有始创大业。而功化未就迹有参差。故所受不同。或期功于身后。或显应于当年。圣王即之而成教者。亦不可称算。虽抑引无方。必归涂有会。此谓先乖而后合者也。若命乖而后合。则拟步通涂者必不自涯于一检。若令合而后乖。则释迦之与尧孔归致不殊断可知矣。是故自乖而求合。则知理会之必同。自合而求乖。则悟体极之多方。但见形者之所不兼。故或众涂而骇之而异耳。因兹而观。天地之道功尽于运化。帝王之德理极于顺通。若以对夫独绝之教不变之宗固不得同年而语其优劣。亦以明矣。

  沙门不敬王者论形尽神不灭第五。

  问曰。论旨以化尽为至极。故造极者必违化而求宗。求宗不由于顺化。是以引历代君王。使同之佛教。令体极之至以权君统。此雅论之所托。自必于大通者也。求之实当。理则不然。何者夫禀气极于一生。生尽则消液而同无。神虽妙物。固是阴阳之化耳。既化而为生又化而为死。既聚而为始。又散而为终。以此而推。固知神形俱化原无异统。精粗一气始终同宅。宅全则气聚而有灵。宅毁则气散而照灭。散则反所受于本。本灭则复归于无物。反覆终穷。皆自然之数耳。孰为之哉。若反本则异气。数合则同化。亦为神之处形。犹火之在木。其生必并。其毁必灭。形离则神散而罔寄。木朽则火寂而靡托。理之然矣。假使同异之分昧而难明。有无之说必存乎聚散。聚散气变之总名。万化之生灭。故庄子曰。人之生气之聚。聚则为生。散则为死。若死生为彼之徒。则吾又何患。古之善言道者。必有以得之。若果然耶。至理极于一生。生尽不化。义可寻矣。

  答曰。夫神者何耶精极而为灵者也。精极则非封象之所图。故圣人以妙物为言。虽有上智犹不能定其体状穷其幽致。而谈者以常识生疑。多同自乱。其为诬也亦已深矣。将欲言之。是乃言夫不可言。今于不可言之中复相与言依俙。神也圆应无主妙尽无名。感物而动。假数而行。感物而非物。故物化而不灭。假数而非数。故数尽而不穷。有情则可以物感。有识则可以数求。数有精粗。故其性各异。智有明闇。故其照不同推此而论。则知化以情感。神以化传。情为化之母神为情之根。情有会物之道。神有冥移之归。悟彻者及本。惑理者逐物耳。古之论道者。亦未有所同。请弘之明之。庄子发玄音于大宗。称皇帝之言。形有美而不化。又云。火传于薪。犹神之传于形。此曲从养生之谈。非远寻其类者也。就如来论。假令形神俱化始自天本。愚智资生同禀所受。问所受者为受之于形耶。受之于神耶。若受之于形凡在有形皆化而为神矣。若受之于神。是为以神传神。则丹朱与帝尧齐圣。重华与瞽瞍等灵。其可然乎。如其不可。固知冥缘之合。著于在昔。明闇之分。定于形初虽灵钧差运。犹不能变性之自然。况降兹已还乎。验之于理则微言而有徴。校之以事可无惑于大通。论成。后有退居之宾。步朗月而宵游。相与共集法堂。因而问曰敬寻雅论大归可见。殆无所间。一日试重研究。盖所未尽亦少许处耳。意以为沙门德式是变俗之殊制。道家之名器施于君亲。固宜略于形敬。今所疑者谓甫创难就之业。远期化表之功。潜泽无现法之效来报玄而未应乃令王公献供信士屈体。得无坐受其德陷乎早计之累。虚沾其惠同夫素餐之讥耶。主人良久曰。请为诸贤近取其类。有人于此。奉宣时命远通殊方九译之俗。问王当资以糇粮锡以舆服否。答曰然。主人曰。类可寻矣。夫称沙门者何耶。谓其能蒙俗之幽昏。启化表之玄路。方将以兼忘之道与天下同往。使希高者揖其同风。漱流者味其余津。若然虽大业未就。观其超步之迹。所悟固已弘矣。然则运通之功资存之益。尚未酬其始誓之心。况三业之劳乎。又斯人者。形虽有待情无近寄。视夫四事之供。若雀蚊之过乎其前耳。濡沫之惠复焉足语哉。众宾于是始悟冥涂以开辙为功。息心以净毕为道。乃忻然怡衿咏言而退。

  (甲辰) 魏改天赐。

  (乙巳) 改义熙。

  南燕慕容超改太上。

  夏赫连勃勃(字屈局。凶奴有贤王去卑之后。刘卫之子。渊之族。身长八尺五寸。腰阔十围。据夏州自称天王。尚性凶暴以杀为乐。立二十年)。

  西凉改建初。

  (二十一 丙午) 天竺尊者佛驮跋陀。自义熙二年至长安。什公倒屣迎之。以相得迟暮为恨。议论多发药。跋陀曰。公所译未出人意。乃有高名何耶。什曰。吾以年运已往。为学者妄相粉饰。公雷同以为高可乎。从容决未了之义。弥增诚敬。秦太子姚泓。延至东宫。对什论法。什问曰。法云何空。答曰。众微成色。色无自性。故色即空。又问。既以极微破色空。复云何破一微。答曰以一微故众微空。以众微故一微空。沙门宝云译出此语。不省其意。皆谓跋陀所计微尘是常。更申请之。跋陀曰。法不自生。缘会故生。缘一微故有众微。微无自性则是空矣。宁当言不破一微乎。时秦尚玄化沙门出入宫阙者数千。跋陀隤然而已。偶谓弟子曰。昨见天竺五舶俱发。应合至矣。又其徒自言得初果。僧正道䂮曰。佛不许言自所得法。五舶之论何所穷诘。弟子轻言诳惑。于律有违义不同处。跋陀遂渡江入匡山见远公。议论不为远屈。远高之。遣书关中雪其枉。后于江都谢司空寺译华严经六十卷。感二青衣童子每旦自庭沼中出。炷香添瓶不离座右。暮夜则潜入治中。日以为常。至译经毕。遂绝迹不见。

  (丁未) 夏改龙升。

  后燕高云(字子羽。惠文熙之长子。自云高阳之后。因以为姓。熙死僭立一年。改国曰大燕。年改正始)。

  (二十二) 渊明陶潜字元亮。为彭泽令。解印去居柴桑与庐山相近。时访远公。远爱其旷达。招之入社。陶性嗜酒谓许饮即来。远许之。陶入山。久之以无酒攒眉而去。

  (戊申) 南凉改嘉平。

  北燕冯跋(字文起。长乐信都人。小字乞直伐。其先毕万之后。子孙皆食爵冯狮者。因以氏。冯跋善饮酒一石不乱。初仕后燕。因杀慕容熙立云。云复为臣离班桃仁所弑。跋乃僭称燕于昌黎。次年改太平。在位二十一年)。

  (己酉) 西秦改更始。

  魏明元皇帝嗣(乃道武长子。是年即位。改元永兴。在位十五年。寿三十二崩西宫。葬云中金陵)。

  (二十三) 沙门法果。戒行精至开演法籍。是岁明元皇帝进加僧统。言允惬赐封辅国宜城子忠信侯安城公之号。师皆固辞。帝亲幸其居。以门巷狭小不容舆辇。更广大之。瞻敬慰问若此。年八十余卒。帝三临其丧。追赠老寿将军赵胡灵公。

  (二十四 庚戌) 法师法显自西域还。初显于隆安二年。同惠景昙整等入西域求法。渡流沙迷失路。以日准东西。视人骨处进行。遭热风恶鬼不顾。至葱岭积雪有毒龙飞。砂路盘空而进。不顾皆万仞险处。梯而过者。七日以绳为梁蹑而济者。水阔八十步。汉张骞甘英皆所未至也。过小雪山寒甚。惠景股栗而死。显哭之恸。收涕孤征。又三十余国至中天竺。去王舍城三十里。入一寺问耆阇崛山路。僧曰。日暮矣。彼多师子。且食人。不可往。显念吾欲瞻灵境。幸至而晚。今夕若死吾志不酬。身非所爱。乃畏师子乎。显既至日已夕。遂留山中。流涕拜曰。我不自知至此也。坐树下诵经。夜三更师子蹲踞舐龁。显以手循之曰。欲肉醉我迟诵经毕乃可耳。于是妥尾而去。明日归。老僧植杖立揖不答。徐去。有少年来。显问耆年谓谁。曰头陀大迦叶也。显追之至山。有石塞岩窦不得往。至南天竺。得摩诃僧祇律泥洹等经。留三年学梵字。以经像附商。至师子国。同侣皆无存。翩然自止。会有以纨扇供佛者。显见之动东归之思。又二年达于青州。太守李嶷躬迎之。护送入于京师。

  (壬子) 西秦炽盘(干归之子。立十六年。改元永康)北凉改玄始。

  (二十五) 西域三藏昙无谶。由龟兹至姑臧。凉王沮渠蒙逊素奉大法。谶居久之遍晓华言。译大般涅槃大集等经六十余万言。犹以涅槃品数未足。复还西域访求得之。至凉译成。四十二卷。凡一万偈。谶神异颇多。时拓跋圭王中山。闻谶思一瞻礼。遣使来迎。逊不许。圭再遣高平公李顺。策拜逊凉王加九锡谕之曰。昙无谶道德广大。朕思一奉见。可驰驿送至。逊曰。臣奉事朝廷亡所负。前表乞留谶。今复来追。此臣师也。有死则已。欲往则不可也。顺曰。朝廷钦王忠义。故显加殊礼。今乃以一道人亏损大功。不忍一朝之忿。吐所不当言。失朝廷待遇之意。切为大王不取也。逊曰。如公之言诚美。第恐情不副此耳。逊竟不遣谶。于是拓跋圭衔之。道进者从谶求授菩萨戒。谶曰。当自悔七日乃未。既而诣谶。谶忽怒。进曰。此宿障也。遂精修三年。梦中感释迦世尊为授戒法。是夕十余人同梦如进所见。于是复诣谶望见大喜曰。善哉已感戒矣。今为汝作证。及固辞西归逊怒其去已。密遣亲信中路刺杀之。初谶出关日。谓送者曰。业期至矣。虽上圣不能逃。非爱死而固欲相远也。未几逊心愧悔。白日见鬼以剑刺之而卒。其国为魏所并。

  (癸丑) 夏改凤翔。

  (二十六) 道生法师天纵妙悟。初涅槃后品未至。生熟读久之曰。阿阐提人自当成佛。此经来未尽耳。于是文字之师交攻之。诬以为邪说。于律当摈。生白众誓曰。若我所说不合经义。愿于此身即见恶报若实契佛心。愿舍寿时据师子座。于是袖手南来入虎丘山。竖石为听徒讲涅槃经。至阐提有佛性处。曰如我所说义契佛心不。群石皆首肯之。后游匡山居销景岩。闻昙无谶重译涅槃后品至南京。果言阐提皆有佛性。生慰喜不自胜遂誓死奉法。

  (甲寅) 魏改神瑞。

  (丙辰丁巳) 后秦泓(兴之子。立二年。晋刘裕灭之。寿三十。改永和)魏改泰常。

  (戊午) 西凉李歆(立三年改嘉兴)。

  (己未) 夏改昌武。次年改真兴。

  (二十七) 恭帝德文改元熙(安帝母弟。永初元年。刘裕使后兄叔度逾垣杀之。寿三十六葬于沛陵。晋室灭矣)。

  治二年○是年梁志公生。

  右(西晋都洛阳。四主三十七年。而有五胡之炖。东晋都建业十二主一百四年。而归于宋)。

  (庚申) 西秦改建弘。

  西凉冠军恂。改永建(二年河西王拔炖煌。恂自杀国亡)。

  (二十八) 北朝魏泰常五年。光禄卿崔浩被谗。帝命浩以公归第。因修服食养性之术。初嵩山道士寇谦之。修张道陵术。自言尝遇老子降。命谦之继道陵为天师授以辟谷轻身之术。及科戒二十卷。使之清正道教。又遇神人李谱文云。老子之玄孙也。授以图箓真经六十余卷。并出天宫静轮之法。谦之奉其书献于太武。朝野多未之信。崔浩独师事之。从受其术。且上书赞明其事。太武忻然。使谒者奉玉帛牲牢祭嵩岳迎致谦之起天师道场于平城之南重台五级。道徒由此而盛。

  宋司马文正公曰。老庄之书。大旨欲同生死轻去就。而为神仙者服饵修炼以求轻举。炼草石为金银。其为术正相戾矣。是以刘歆七略叙道家为诸子。神仙为方技。其后有符水禁咒之术。至谦之遂合而为一。至今循之。其讹甚矣。崔浩不信佛老之书而信谦之之言。其故何哉。昔臧文仲祀鶢鶋。孔子以为不智。如谦之者其为鶢鶋亦大矣。诗三百一言以蔽之。曰思无邪。君子之于择术。可不谨哉。

  (二十九) 禅师玄高居夌?山。与沙门昙弘友善。闻昙无毗自北山至凉妙禅观。高往亲之。旬日即悟。无毗叹异以为胜己。及无毗西归。有妖比丘。嫉高谮于河南王世子曼曰。高今聚徒将为国害。曼信之欲杀高。其父不许。遂摈于河北。居林阳堂山。山盖地仙所宅。夜有钟磬声。高门弟子百余辈。拔萃者玄绍有神力。尝指地出水以给众。如绍者又十有一人。河南王迎昙弘至。问王何以摈高。其人希世之瑞也。王厚礼迎之。高欲赴命。山中草木为摧偃乱石塞路。高曰。吾志弘道。自滞岩窦无益也。路乃可行。王郊迎之礼以为师。后游凉土。沮渠蒙逊礼遇尤勤。弟子僧印自谓得阿罗汉果。高假以神力。使于定中见十方无尽世界。及闻诸佛所说之法。各各不同。即于一夏寻其所见不尽。方生愧惧。明年魏使请高入于平城。拓跋焘在位。益加诚敬令太子晃师事之。

  (三十) 齐著作魏收。着魏书佛老志。其略曰。释氏之学闻于前汉。武帝元狩中。霍去病获昆耶王及金人。率长丈余。帝以为大神。列于甘泉宫烧香礼拜。此则佛道流通之渐也。及开西域遣张骞使大夏。还云身毒天竺国有浮图之教。哀帝元寿中。景宪受大月氏王口授浮图经。后汉明帝梦金人项有日光飞行殿庭。傅毅始以佛对帝。遣中郎蔡愔等使于天竺。写浮图遗范。仍与沙门迦叶摩腾竺法兰还洛阳。得四十二章经及释迦立像帝令画工图之。置清凉台及显节陵。缄经于兰台石室。浮图或言佛陀。声相转也。译云净觉。言灭秽明道为圣悟也。

  凡其经旨。大抵言生生之类。皆因行业而起。有过去当今未来三世。神识常不灭也。凡为善恶必有报应。多积胜业陶冶粗鄙。经无数形藻练神明。乃至无生而得佛道。其间阶次心行等级非一。皆缘浅以至深。藉微而为着。率在于积仁顺蠲缘欲。习虚静而成通照也。故其始修心则依佛法僧。谓之三归。若君子之三畏也。又有五戒。去杀盗淫妄言饮酒。大意与仁义礼智信同。奉持则生天人胜处亏犯则堕鬼畜诸苦。又善恶生处。凡有六道焉。

  诸服其道者。则剃落发须释累辞家。结师资遵律度。相与和居治心修净。行乞以自给。谓之沙门。或曰桑门。亦声相近也。其根业各差。谓之三乘。声闻缘觉及以大乘。取其可乘运以至道为名也。上根者以修六度进万行。整度亿流弥历长远。登觉境而号为佛也。本号释迦文。此译能仁。谓德充道备戡济万物也。降于天竺迦维罗卫国王之子。于四月八日从母右胁而出。姿相超异三十二种。天降嘉瑞亦三十二而应之。以二月十五日而入涅槃。此云灭度。或言常乐我净。明无迁谢及苦累也。又云。诸佛有二义。一者真实。谓至极之体妙绝拘累不得以方处期。不可以形量限。有感斯应体常湛然。二者权应。谓和光六道同尘万类。生灭随时修短应物。形由感生体非实有。权形虽谢真体不迁。但时无妙感。故莫得常见耳。斯则明佛生非实生灭非实灭也。

  佛既谢往香木焚尸。灵骨分碎大小如粒。击之不坏。焚之不焦。而有光明神验。谓之舍利。弟子收奉。竭香花致敬募建宫宇。谓之为塔。犹宗庙也。故时称为塔庙者是矣。于后百年有王阿育者。以神力分佛舍利。役诸鬼神造八万四千塔。布于世界。皆同日而就。今洛阳彭城姑臧临淄。皆有育王寺。盖承其遗迹焉。而影迹爪齿留于天竺。中途往来者咸言见之。

  初说教法。后皆著录。综核深致无所漏失。故三藏十二部经。如九流之异。统其大归终以三乘为本。后有罗汉菩萨。相继著论。赞明经义以破外道。皆傍诸藏部大义。假立外问而以内法释之。传于中国。渐流广矣。汉初沙门皆衣赤布。后乃易以杂色云。

  论曰。唐太宗世既修晋书。复有劝修南北七朝史者。太宗以元魏书甚详。故特不许。以今考之信然也。凡佛老典教于儒者九为外学。或欲兼之。自非夙薰成熟愿力再来。莫能窥其仿佛。况通其旨归而祖述源流者乎。异哉魏书佛老志。不介马而驰迁固之间。御靡旌以摩荀杨之垒。步骤雍容有足观者。然则魏收兼三圣人难兼之学。平四作者不平之心。厥书独见信于后世。顾不美哉。

  佛祖历代通载卷第七

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第八

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  (一 庚申) 宋(姓刘氏都建康)雷氏曰(高少文武前明后顺宋朝八主合六十年)高祖武皇帝。裕改永初(字德舆。小字寄奴。彭城县绥舆里人。汉高弟。楚元王交二十世孙。彭城楚都。故苗裔家焉。帝仕晋为太尉。有雄才大略而清简寡欲。晋氏东迁。刘氏移居晋陵。受禅晋室。幸建康宫。六十七岁崩于西殿。葬建康县蒋山初宁陵。治三年)。

  西秦改建弘。

  西凉冠军恂。改永建。

  (壬戌) 四月上殂。

  (癸亥) 营阳王义符。改景平(小字车兵。武帝长子。所为多乘失。皇太后令废为营阳王。年十九终。治一年)。

  (甲子 五一) 文帝义隆。改元嘉(小字车儿武帝第三子。身长七尺五寸。聪明仁厚躬勤政事。江左之政未尝有也。寿四十七。为张超之杀于合殿。葬长宁陵。在位三十年)。

  魏世祖太武帝焘。改始光(明元长子。寿四十五崩于永安宫。在位二十九年)。

  (乙丑) 夏赫连昌改承光。

  北燕有女人化男子○魏崔浩自比张良。

  (二 丙寅) 元嘉三年。神僧杯渡初出冀州。如清狂者。挈十木杯。渡水必乘之。因号焉。尝自孟津乘杯绝岸至金陵。时年四十许。状寒窭喜怒不常。遇盛寒辄穴冰而浴或着屐登山。或跣足市中行。荷一芦圈。时造延贤寺。沙门法意遇之尤勤。忽弃去行瓜步欲登舟。舟人不即应。遂乘杯绝北岸。广陵村有李氏。方饭僧。渡径入以芦圈置庭中坐席上。众环目之。渡自若座有怒者。见芦圈碍道移之。饶力不能动。渡食毕挈之而去。笑曰。四天王。时有童子。窃见圈中。有四小儿。皆长数寸。眉目如画。及追之失所在。由此显迹。及卒后复时时有人见之云。

  (戊辰) 西秦慕末改永弘。二年夏灭之。

  夏赫连定立二年改胜光。次年魏灭之(昌之弟也)北凉改丞玄○魏改神䴥。

  (三 己巳) 天竺求那跋陀罗至金陵。文帝遣使郊迎。跋陀神情爽迈。帝见之大悦。命居祇桓寺。屡延入内供养。仆射何尚之彭城王义康。南谯王义宣。并师事之。请讲华严。跋陀以未通华言。乞观音为增智力。夜梦神力士易其头。旦起犹觉痛甚。遂遍晓华言。即为众讲之。时以跋陀妙大乘宗旨。因号摩诃衍。

  (辛未) 北凉改义和。

  北燕冯弘。改大兴(跋之弟。杀跋之子翼。自立七年)。

  (壬申) 魏改延和。

  (四) 九年文帝幸大庄严寺设大会。亲同四众地坐。及斋众疑日过午。不敢下箸。帝曰。日才午耳。法师道生在席。即曰。白日丽天。今天言方中。何谓过耶。举钵便食。一众从之。帝大悦。下诏。留生止都下。一时巨公王弘范泰颜延之等。皆造门结友。生每以经文未能达诸佛之旨而学者多滞闻见因着善不报论。顿悟成佛论。二谛论。佛性有常论。法身无色论。佛无净土论。应有缘论皆网罗旧说发其渊奥皎如日星。又明年正月庚子升法座。词音朗润听者悟悦。俄麈尾堕地隐几而化。

  (癸酉) 北凉牧虔(蒙逊子立六年改永和)。

  (五) 是岁谢灵运以谋叛弃市。初灵运与颜延之齐名。其文纵横俊发过于延之。深邃则弗及。袭封康乐侯。居会稽与隐士王弘之孔淳之。放荡为娱。太守孟顗事佛精恳。为灵运所轻。尝谓顗曰。得道须惠业。文人生天当在灵运前。成佛必在灵运后。顗深恨此语。及顗入朝。屡为裁抑不得召用。晚为临川内史。在郡游放不法。为有司所纠。司徒遣随州从事郑望生收之。运即兴兵叛逸。遂有逆志。望生追擒之送廷尉。帝怜其才减死徙广州。既而复叛。有旨弃市。年四十九。

  (六 甲戌) 十一年。天竺三藏求那跋摩。初让国出家。解四阿含。精贯三藏诵数百万言。属国诸王皆从之禀受归戒。每谓诸王曰。道在精通。遇缘即应但依慈悲。勿故发害意足矣。游阇婆国。其王欲出家事跋摩。群臣固请不可。乃令国中曰。若率土奉大和尚归戒。勿杀害赈给贫乏。即从尔请。于是群臣士民稽首遵命。朝廷雅闻其名。沙门惠观等白于文帝。请遣使致之。有诏交州刺史津遣。沙门道冲等航海邀之。冲至跋摩欣然附舶抵广。诏听乘驿诣阙。道由始兴。爱其山类灵鹫。为留周期。寺有宝月殿。跋摩于东壁戏作定光儒童布发像。极妙。夜辄有光。尝在定累日不出寺僧遣沙弥候之。见白狮子仰蹑柱而戏弥空皆青莲花沙弥惊走大呼。寺僧争至。豁无所有。至金陵引对。帝迓劳殊勤。因从容问曰。寡人每欲持斋。以身应物不获所愿。法师远来。陋邦之幸。何以教寡人。对曰。道在心不在事。法由己不由人。且帝王所修与匹夫异。匹夫身贱名微。言今不威。倘不克己苦节。何以为用。帝王以四海为家。万民为子。出一嘉言则士庶咸悦。布一善政则人臣以和。刑不夭命。役不劳力。则风雨时若寒暑应节。百谷滋繁桑柘郁茂。以此为持斋。不杀亦大矣。安在辄半日之餐全一禽之命。然后为弘济耶。帝抚几叹曰。俗迷远理。僧滞近教。如法师之言。可与论天人际矣。命居祇桓寺。讲法华并十地品。帝率公卿日集座下。法席之盛前此未闻也。摩即于寺译菩萨善戒经等十八卷。

  (乙亥) 魏改太延。

  (七) 十二年京尹萧谟之请制建寺铸像。帝以问侍中何尚之吏部羊玄保曰。朕少读经不多。比日弥复无暇。因果之事昧然未究。所以不敢立异者。以卿辈时秀率皆信敬耳。范泰谢灵运皆言。六经法度本任济世。必求妙道。当以佛经为指南。比见颜延之析达性论。宗炳难白黑论。其说汪洋大明至理。若使率土之民皆敦此化。则朕坐致太平矣。夫复何事。昨萧谟之请制。即以相示。委卿增损。必有以戒遏浮[泳-永+(炙-火+(午/一))]。无伤弘奖者。以当着尔。尚之对曰。横目之俗闻不敬信。以臣庸陋独有愚勤。实惧缺薄上玷大法。更蒙奖论重有愧耳。然前代群英则不负明诏。自渡江而来。王导周顗庾亮王蒙谢安郗超王坦之王恭王谧郭文谢尚戴逵许询及亡祖兄弟王元琳昆季范汪孙绰张玄殷凯。或宰辅冠冕。或人伦羽仪。或致情天人之际。或抗迹云霞之表。靡不倒心归依。其间比对如兰护开潜渊遁崇邃。并亚迹黄中。或不测人也。近世道俗较论便尔。若悉举者。夷夏汉魏奇杰辈出不可胜数。惠远云。释迦之化无所不可。适道固自教源。齐物亦为要务窃味此言。有契至理。何则百家之乡千人持五戒则十人淳谨。千室之邑。百人修十善则百人和睦。传此风教以周寰区。编户亿千则仁人百万。夫能行一善则去一恶。去一恶则息一刑。一刑息于家。万刑息于国。此明诏所谓坐致太平者是也。故图澄适赵二石减暴。灵塔放光符健损虐。神道助化昭然可观。谟之请制不谓全非。但伤蠹道俗本在无行僧尼。然而情伪难分。去取未易耳。至土木之工。虽若靡费。且植福报恩不可顿绝。臣比斟酌进退未安。今日面奉德音实用忻抃。羊玄保进曰。此谈盖天人之学。非臣愚所宜预闻。切恐秦楚论强兵之术。孙吴尽吞并之计。无取于此。帝曰。此非战国之具。良如卿言。尚之曰。夫礼隐逸则战士息。贵仁德则兵气消。尚以孙吴为志。动期吞并。则将无取于尧舜之道。岂特释教而已哉。帝悦。谓尚之曰。释门之有卿。犹孔氏之有季路也。自是帝留神释典益重玄化。及颜延之着离识论及论检。敕法师惠严辨其同异。酬酢终日。帝笑曰。卿等殆不愧支许矣。

  (八 丙子) 文帝幸曲水。公卿毕集。帝命赋诗。沙门惠观诗先成奏之。句有奇胜之韵。帝悦以示百官。皆叹服其才。观与惠严谢灵运等。详定大涅槃经。颇增损其辞因梦为神人呵之曰。乃敢妄以凡情轻渎圣典。观等惶惧而止。

  (九) 时有僧惠琳者。以才学得幸于帝与决政事。时号黑衣宰相。致门下车盖常不容迹。琳妄自骄蹇。见公卿才寒暄而已。著白黑论。毁佛叛教遂感现报。肤肉糜烂历年而死。

  论曰。世智辩聪人情所歆慕以为英灵者也。佛世尊则以为八难之一。何哉。灵运恃才傲世。以谋叛伏诛。惠琳毁形衣僧伽黎而窃与朝政。既叛教矣。复从而毁佛。遂蒙恶报以死。呜呼盖世智之为难也明矣。观严二人妄以凡情轻议圣典。向使不遇神人呵之。则世智之难亦几不免。大哉跋摩尚之对制之言。可谓旨穷大体而识尽精微。真天下之通论也。

  是岁文帝。诏求沙门能述生法师顿悟义者。刺史庾登之以释法瑗闻召对顾问瑗伸辩详明。何尚之叹曰。意谓生公之殁微言永绝。今复闻象外之谈。所谓天未丧斯文也。未几天保寺成。诏瑗主之。王景文至。值其讲叹曰。所举皆所未闻。所指皆出意表。真法中龙也。湘宫寺成。复移瑗居之。帝临幸听法。时以为荣。

  (庚辰) 魏太武焘即位改太平真君。

  (壬午) 真君三年。上诣道坛受箓。

  (十 甲申) 是年。北魏太武以戊寅平荡中原。江北尽臣伏。又为寇谦之倚崔皓为天师。故改真君之号。迨今五年。崔信寇术憎释愈甚。太子晃师事法师玄高。崔皓妒晃谗于太武。疑之令幽死晃求哀于高。高为作金光明忏。太武梦其先祖让之曰。不当以谗疑太子。既寤以所梦语群臣。臣下皆称。太子无过待之如初。其相崔皓惧太子将不利于己。白太武曰。太子前实有谋。仍结玄高以术致先帝。恐陛下耳。若不早诛必为大害。太武大怒。收玄高惠崇害之。高弟子玄畅居云中。闻高遇害。日驰六百里。至魏阙泣曰。和上神力当为我起。于是高开眸曰。大法应化随缘盛衰。盛衰在迹理恒亘然。但惜汝等行如我耳。或恐过之矣。唯玄畅南渡。汝等死后法当更兴。善自修心毋令中悔。言讫即化。沙门法进号呼曰。圣人去世。我何用生。应声见高于云中。进顶礼乞救高曰。不忘一切。宁独弃汝耶。曰和尚与崇公并生何所。高曰。我往恶处。救护众生。崇已归安养矣。言讫不见。

  (十一) 世祖时。道士寇谦之字辅真。雍州人。早好仙道修张鲁之术。服食饵药历年亡效。有仙人成公兴。求谦为之弟子。相与入华山居石室。兴采药与谦之服。能不饥。又共入嵩山石室。寻有异人。将药与谦之。皆毒虫臭物。谦之惧走。兴叹息曰。先生未仙。正可为帝王师耳。未几兴仙去谦守志嵩山忽遇大神。乘云驾龙导从百灵。集于山顶称太上老君。谓谦之曰。自天师张陵去世以来。地上旷职。汝文身直理。吾故授汝天师之位。锡汝云中新科二十卷。自开辟以来。不传于世。汝宣吾新科清整道教。除去三张伪法租米钱税及男子合气之术。大道清虚宁有斯事。专以礼度为首。加之以服食闭练。使玉女九疑十二人授谦之导引口诀。遂得辟谷气盛颜色鲜丽云。

  (十三 丙戌) 是岁即元嘉二十三年。魏太武三月西伐长安。与崔皓皆信重寇谦之而奉其道。皓特不喜佛。每言于魏主。以为佛法虚诞为世费害。宜悉除之。及魏主讨盖吴。至长安入佛寺。沙门饮从官酒。从入其室。见大有兵器出白太武。武怒曰。此非沙门所用。必与盖吴同谋欲为乱耳。命有司按诛合寺僧。阅其财产大有酿具。及州郡牧守富人所寄物以万计。又为窟室以匿妇人。皓因说帝。将诛天下沙门毁诸经像帝从之。寇谦之切谏以为不可。皓不从。先尽诛长安沙门焚烧经像。还宫敕台下四方命一依长安法。诏曰。昔后汉荒君信惑邪伪以乱天常。自古九州之中未尝有此。夸诞大言不本人情。叔季之世莫不眩焉。由是政化不行礼仪大坏。九服之内掬为丘墟。朕承天绪欲除伪定真复羲农之治。其余一切荡除灭其踪迹。自今已后敢有事胡神及造形像泥人铜人者门诛。自王公已下。有私养沙门者。限今年三月十五日。过斯不首身死有司。宣告征镇将军刺史。诸有浮图形像及一切经。皆击破焚烧。沙门无少长悉坑之。太子素好佛法。屡谏不听乃缓宣诏书。使远近预闻之。得各为计。沙门多亡匿获免收藏经像。唯塔庙在魏境者。无复孑遗。

  魏真君九年。天师寇氏勉帝以京之东南地建靓轮天宫。奏曰。陛下以真君御世开古未有。应受符命。帝然之。遂受符录。建靓轮天宫令极高大。不闻鸡犬之音。要与天神交接。工力万计。经年不成。其寇谦之恶疾死。功遂止。

  (十五 庚寅) 真君十一年。崔皓尝见妻郭氏读金刚经。乃夺之火焚弃厕。初崔皓为魏司徒。自恃才略。及魏主所宠任专制朝权。太武以皓监秘书。其党闵湛者。劝皓刊所撰国史于石以彰直笔。皓从之。于是刊石立于郊坛。书魏先世事皆详实。往来见者咸以为言。北人无不忿恚。相与谮皓于帝。以为暴阳国恶。帝大怒。使有司按皓罪状。皓惶惑不能对。执皓槛车置于城南道侧。使卫士路人行溲其面。呼声嗷嗷彻于道曰。此吾投经溺像之报也。凌迟而死。时年七十矣。崔寇二家悉夷五族。坐及僚属凡百二十人。皓既劝魏主除荡释氏。及经像毁废。皓行路见遗像必停车溺之。及族诛尸无收者。又积怨在人。于是竞溺皓尸。至糜溃乃止(已上见北史)。

  论曰。崔皓之不智。司马温公论详矣。大抵拓跋氏起自沙塞未迁都时。性残忍杀人如甘美饮食。其俗习然也。初太子晃被谗。而玄高等数僧受诛颇见其无辜矣。及罢释氏沙门诛而坑之者。岂胜道哉。此虽虏人性凶。亦崔皓当权用法如此。既而皓被谗。迹其所坐。盖作史之失。在唐世不过黜官荣投之荒裔而已。假令诛之亦不过一已。乃遂夷灭五族何哉。盖以无辜而施于人也。深则其报之于己也必厚。此天道常数而不易者也。至于吾释之经像。于皓庸有伤害哉。而皓每见必停车而溺之。及皓未旋踵而尸亦为人溺之。至糜溃而止。呜呼皓不畏圣人之言而欺天也又如此。故天复为之速报以警动乎人世也。可不戒哉。可不戒哉。

  (辛卯) 魏改正平。

  世尊示灭一千四百年矣。

  (十六) 魏朝元会。沙门昙始振锡至宫门。吏白太武曰。趣斩之。刃下无伤。又白。临殿陛矣。太武抽佩剑自斩之。亦不能伤。剑微有㾗如线。令收捕投虎槛中。虎皆怖伏不敢瞬。左右请以天师试之。虎即虓吼太武大惊。延始上殿。再拜悔谢。魏书佛老志云。沙门惠始清河张氏子。初闻罗什出经。诣长安见之。学习禅定于白渠北。昼入城听讲。夕还处静。三辅识者高之。武帝灭姚氏留子义真镇长安。及义真为赫连屈局所败。始身被刃而无伤。屈局怒召始于前。以所佩剑自击之。又不能害。乃惧而谢。后至魏多所化导。自初习定至卒。五十余年。未尝寝卧。跣行足不沾泥。愈加鲜白。世号白足阿练若。太武深加敬礼。始预知终期。斋洁端坐。僧徒满侧。泊然而寂。停尸十日容色不变。阅十余年改葬貌亦如存。举世叹异。及葬日送者万余人。皆号慕哭之恸。中书监高允。为传颂其德云。

  魏太武以疠作二月五日卒矣。

  (壬辰) 魏文成帝?改兴安(景穆帝长子。先太子晃被害。立吴王。改元正平。十月一日吴王亦崩。立太孙。浚晃之子也。既立有人君之度。视前昏失复弘圣道。在位十二年。寿二十六崩太华殿也)。

  (十七) 二十九年魏太武帝殂。吴王立。未几而薨。

  高宗文成帝即位。乃太武之孙也。群臣劝请兴复释氏。下诏曰。夫为帝王者。必祇奉明灵显彰仁道。其能惠着生民济益群品虽在往古犹序其风烈。是以春秋喜崇明之礼。祭典载功施之族。况释教如来功济大千惠流尘境。寻生死者叹其达观。览文义者贵其妙门。助王政之禁律。益仁智之善性。排拨群邪开演正觉。故前代已来莫不崇尚。亦我国家常所尊事。世祖太武皇帝开广边荒德泽遐被。沙门道士善行纯诚。如惠始之伦。无远不至。风义相感往往如林。夫山海之深。宁免奸淫之俦得容假托。讲寺之中。致有凶党。是以先朝因按假亹戮其有罪。所司失旨一切禁断。景穆皇帝每为慨然。值军国多事未遑修腹。朕承鸿绪君临万邦。思述先志以隆斯道。今制诸州郡。众居之所各听建佛图一区。其有好乐道法欲为沙门。性行素笃乡里所明者。听出家。于是天下承风朝不及夕。往时所毁图寺经像。并还修复。有罽宾王种沙门师贤者。东游凉城。至魏值罢教。权假药术守道不改。于复教日即为沙门。同辈五人。高宗亲为下发。命师贤为僧统。明年有旨。于五级大寺为太祖已下五帝铸释迦文像五尊。各长丈有六尺。用赤金二十五万斤云(出魏书佛老志)。

  (十八 甲午) 武帝骏改孝建(字休龙。小字道人。文帝第一子。聪明颖悟。文武所全。寿三十五崩玉烛殿。在位十年)。

  魏改兴光。

  (十九) 第二十七祖般若多罗者。东印土人也。既得法已。行化至南印度。彼王名香至。崇奉佛乘尊重供养度越伦等。又施无价宝珠。时王有三子。其季开士也。尊者欲试其所得。乃以所施珠问三王子曰。此珠圆明有能及此否。第一子月净多罗。第二子功德多罗。皆曰。此珠七宝中尊。固无逾化。非尊者道力。孰能受之。第三子菩提多罗曰。此是世宝。未足为上。于诸宝中法宝为上。此是世光。未足为上。于诸光中智光为上。此是世明。未足为上。于诸明中心明为上。此珠光明不能自照。要假智光光辨于此。既辨此已即知是珠。既知是珠即明其宝。若明其宝。宝不自宝。若辨其珠。珠不自珠珠不自珠音。要假智珠而辨世珠。宝不自宝者。要假智宝以明法宝。然则师有其道其宝即现。众生有道心宝亦然。尊者叹其辨慧。乃复问曰。于诸物中何物无相。曰于诸物中不起无相。又问。于诸物中何物最高。曰于诸物中人我最高。又问。于诸物中何物最大。曰于诸物中法性最大。尊者知是法嗣。以时尚未至。且默而混之。及香至王厌世众皆号绝。唯第三子菩提多罗。于柩前入定。经七日而出。乃求出家。既受具戒。尊者告曰。如来以正法眼付大迦叶。如是展转乃至于我。我今嘱汝。听吾偈曰。心地生诸种。因事复生理。果满菩提圆。华开世界起。尊者付法已。即于座上起立。舒左右手。各放光明二十七道五色光耀。人踊身虚空高七多罗树。化火自焚。空中舍利如雨。收以建塔。当宋孝武帝孝建元年甲午岁也(正宗记云。宋孝武之世也。注云。以达磨六十七年计之。当在宋孝武孝建元年。传灯作丁酉非)。

  (二十) 孝建元年。宋孝武帝举兵诛元凶。而求那跋陀罗逃民间。其后王玄谟军梁山。孝武令军中。得跋陀者驿驰至台。俄得之。送金陵引见。帝曰。企德日久。乃今始遇。间关来归亦有恨乎。曰亡所恨。但念夙缘遇此遂成熟耳。帝慰之且戏曰。尚念谯王乎。对曰。古人不忘一饭。王饭我十年。乃敢遽忘耶。念当从陛下求为王长修冥福。帝凄然改容。中兴寺成。有旨命住持。帝宴东府。公卿毕集。召跋陀至。皤然清臞孝武望见谓谢庄曰。摩诃衍有机辩当戏之。必能悟人情。跋陀趋升陛。帝曰。摩诃衍不负远来。唯有一在。即应声曰。贫道客食圣朝三十载。恩德厚矣。所欠者一死耳。帝大悦移席相促。一座尽倾。

  (乙未) 魏改大安。

  (二十一) 孝武诏沙门道猷。为新安寺镇寺法主。初文帝间惠观。顿悟之理孰精。观以猷对。有旨召入大内。盛集名流。猷敷宣有绪法义粲然。闻者开悟。有攻难者猷必挫以释之。帝拊髀称善。至是为天下法主。甚允时望。

  (二十二 丙申) 法师宝亮居中兴寺。中书袁粲见而异之。以书抵其师道。明略曰。比见亮公。非常人也。日闻所未闻。不知岁之将暮。然珠生合浦。魏人取以照乘。玉在邯郸。秦人请以华国。天下之宝不可自专。当与同之也。自是亮名益重。晚居灵味寺。讲席冠京邑。弟子三千余。亮英气骎骎逼人。辞锋错逸。议者或蔽于理。亮释之莫不涣然。

  (丁酉) 改大明。

  (二十三) 是岁有羌人高阇反。累及沙门。昙标乃下诏付所司。精加沙汰。遂设诸条。自非戒行精苦之者。并令还俗。诏虽严重竟不施行。

  (庚子) 魏改和平。

  (二十四 壬寅) 大明六年九月右司陈言。臣闻邃拱凝居非期弘峻。拳跪盘伏岂止恭敬。将以昭彰四维缔制六寓。故虽儒法支派名墨条流。至于崇亲严上。厥繇靡爽。唯浮图教特异于此。凌灭礼度偃居尊戚。失随方之妙迹。迷至化之渊美。臣闻佛以谦俭自牧。以忠顺为道。不轻比丘逢人必拜。目连大士遇长则礼。宁有屈膝四辈而闲礼二亲。稽颡耆腊而直骸万乘者耶。故咸康创议元兴再述。而事屈于偏党。道剉于余分。今鸿源远洗群流仰镜。九仙赆宝百神[芝/耳]职。而畿辇之内含弗臣之民。阶席之间延抗礼之客。惧非所以澄一风轨详示景则者也。臣等参议以为沙门接见皆当尽礼敬之容。依其本俗则朝徽有序。乘方兼遂矣。制可。法师僧远闻而叹曰。我剃头为沙门。本出家求道。何关于帝王。即日拂衣归于林壑。

  (二十五) 是岁吴郡朱灵期者。自高丽还舶为风携至一洲。洲有山因意登之十余里闻午梵知有寺。寺七宝所成。见僧数辈皆石像。欲返有呼灵期再拜得食。食味香美非世间有也。有人云。此去金陵二万余里。尝识杯渡道人否。灵期曰。识之。其人指北壁一囊并瓶锡曰。乃其钵具耳。今取附君并书。又以青竹杖授之曰。见杯渡即付之。令一沙弥送至舶。沙弥命灵期以竹杖置前水中。三日而至石头淮。遂失竹杖。有须渡来。得钵大笑曰。我不见此钵且四千年矣。以掷云中。又接之乃去。渡屡示寂。已而复游于世。复至齐谐家。同吕道惠杜天期水丘熙。三大士在焉。谐大惊即再拜。渡曰。年大凶。无忘修福业。法意道人德高。可亲之以禳灾。俄门楣上一僧呼渡。仰见之即辞去。后不复见。

  (二十六 癸卯) 释僧导。京兆人也。十岁从师所学弘大。为王者之敬。初姚兴钦重出入同辇。后帝悦其贤。躬为寿春立光山寺敕开讲。首曰。昔王宫托生双林见灭。自尔已来岁逾千载。淳源永谢浇风不追。给苑丘墟鹿园芜秽。九十五种。以趣下为升高。三界群生。以火宅为净土。岂知上圣流涕大上凄惶者哉因即涕泗四众为之改容。

  (二十七 乙巳) 废帝业改景和(小字法师。孝武长子。不仁不孝。淫虐无度。其嬖臣寿寂之投之。年十七崩光华殿。在位一年)。

  (二十八) 魏文成帝末年。疏勒国王遣使送佛袈裟一顶。长二丈余。帝审是佛衣。应有灵异。置之猛火经日不然。于是骇然心形俱肃信乎(出北史)。

  (二十九) 明帝或改太始(字休炳。小字荣期。文帝第十一子。好事鬼神。严酷暴虐。寿三十四崩于景福殿。在位七年)。

  魏献文帝弘(文成长子。即位治六年。禅位与太子。自号太上皇。二十三岁崩)。

  (丙午) 改永光。

  魏改天安。

  (丁未) 大教东被四百年矣 ○魏改皇兴。

  魏是年建永宁寺浮图。七级高三百余尺。为天下第一。又铸释迦文像。高四十三。尺用赤金十万斤黄金六百斤。又造三级石浮图。

  (三十) 宝志大士于是年往来皖山剑水之下。发而徒跣着锦袍。俗呼为志公。面方而莹彻如镜。手足皆鸟爪。初金陵东阳民朱氏之妇。上巳日闻儿啼鹰巢中。梯树得之。举以为子。七岁依钟山大沙门僧俭出家。专修禅观。至是显迹。以剪尺拂子挂杖头。负之而行。经聚落儿童哗逐之。或微索酒。或累日不食。尝遇食鲙者从求之。食者分啖之。而有轻薄心。志即吐水中。皆成活鱼。时时题诗。初若不可解。后皆有验。

  (三十一) 邵硕者。本康居国人。大口丑目状如狂。小儿得侮慢。时时从酒徒入肆酣饮。后为沙门号硕公。与志最善。出入经行不问夜旦。意欲为之则去游益州诸县。皆以滑稽言事。能发人欢笑。因劝以善。家家喜之。将亡谓沙门法进曰愿露骸松下。然两脚须着屐。进诺之。已而化。舁其尸露之。明日往视失所在。俄有自[郫-卑+((白-日+田)/廾)]县来者曰。昨日见硕公着一屐行市中曰。为我语进公。小儿见欺。止与我只履。进惊问沙弥。答曰。舁尸时。一履堕。行急不及系也。

  (三十二 戊申) 明帝诏僧瑾。为天下僧正。止灵根寺。帝多讳忌。犯者必杀之瑾每匡谏。赖免者甚众。时京邑诸师立二谛义。有三宗。宗各不同。于是汝南周颙。作三宗论以通其异。然畏讥不敢传。法师智林者。最有时望。以书抵颙。略曰。切闻三宗论。钩深索隐。尽众生之情。廓而通之。尽诸佛之意。使法灯有种胜利无穷。借使国城妻子之施。何以逮此哉。传者以为公畏讥评故欲中辍。讵可特缠疑障。自发现行乎。颙得书戄然悟。此论遂行于世矣。

  (辛亥) 元魏文皇帝宏改延兴(献文长子。生多详感。五岁受禅。有人君之度。马太后临朝称制。十七始亲政。改姓元氏。迁都洛阳。断胡服番语。在位二十九年。寿三十三崩。葬长陵)。

  (三十三) 释老志曰。有魏孝文者。圣天子也。五岁受禅十岁服冕。太和十八年迁都于洛。二十年改姓元氏。文章百篇。冠绝今古。初登诏诰假手有司。太和以后并自运笔。前后诸帝不能及之。凡下七诏大兴三宝。帝建鹿野鹿苑二浮图。岩房禅室无不严丽。

  (壬子) 改泰豫。四月上殂。太子昱立。十岁。

  (癸丑) 后废帝昱改元徽(字德融。明帝长子。淫虐不道。废为苍梧王。寿十五岁。为扬王夫弑之。在位四年)。

  (丙辰) 魏改承明。

  (丁巳) 顺帝准改升明(字仲谟。小字智观。明帝第三子。萧道成为司空总军国事。戊午三月以太傅为相国。又加丸锡。遂禅位于道成在位八年)。

  魏改太和。

  右宋八主六十年(而禅于齐)。

  (三十四 己未) 齐 雷氏曰(高武郁林海陵明帝东昏及和。斋朝七主二十四年)。

  太祖高皇帝道成(姓萧氏。字绍伯。小字闻将。汉相国何二十四代孙。祖整过江居晋陵。遂为兰陵人。皇考承之。仕宋为汉中太守。生帝龙颡钟声。亦仕宋立功。苍梧王屡欲害之。遂生猜衅而伐宋为齐王。寿五十四岁。崩临光殿。在位四年。顺帝之禅位也。泣而弹指曰。愿后身世世勿生天王家)。

  改建元。

  (三十五 庚申) 是年高祖有事于钟山。因幸沙门僧远所居。远床坐辞以老病不能出迎。高祖将诣床下见之。左右以房合狭不容舆盖。遂驻跸遣使劳问卧起而去。远居山凡五十余年。初犹有食。食不继涧饮二十余年。天下仰其高行。及终武帝致书沙门法献曰。承远上无常。弟子夜中已知。远去此玄甚得好处。诸佳非一。不复增悲也。一二迟见法师方可叙瑞梦耳。今为作功德。所须可具疏来。

  (三十六 癸亥) 武帝颐改永明(字宣远。高帝长子。性俭约好积储库。至八亿万。金银布帛不可称计。寿五十四崩延昌殿在位十一年)。

  (三十七 三十八 甲子 五二) 敕沙门法献玄畅。为天下僧主。他日会于帝前。对制称名而不坐。中兴寺僧钟对帝称贫道。武帝讶之。以问中书王俭。俭曰。汉魏佛法未盛。传记无载者。独宋魏始盛。而沙门多称贫道而预坐。晋庾冰桓玄皆欲屈之。然竟不可行。今亦称贫道。帝曰。献畅二师道行如此犹称名。朕以称名乃得宜。可著令以为定式。初献公慕法猛西游。自巴蜀出河南。经芮芮国到于阗欲度葱岭。会栈道绝不得往。获佛牙一枝。舍利十有五粒。并经论梵夹而还。畅公精究经律博贯子史百氏之言。初华严未有疏。畅首为之。学者得以祖述焉。风诣高简弘道辅世有功国。家莫年特听肩舆入殿。时称黑衣二杰焉。

  明教嵩禅师论曰。近古高僧见天子不名。预制书则曰师曰公。钟山僧远銮舆及门而床坐不迎 虎溪惠远天子临浔阳而诏不出山。当时待其人尊其德。是故圣人之道振其徒尚德。儒曰。贵德何如。以其近于道也。后世之慕其高僧者。交卿大夫尚不得预下士之礼。其出其处不若庸人之自得。况如惠远之见天子乎。僧远之自若乎。望吾道之兴吾人之修。其可得乎。存其教而不须其人。存诸何以益乎。惟此未尝不涕下也。

  (丙寅) 魏始服衮冕乘御辇。

  (己巳) 魏祀员丘方泽作孔子祠。

  (三十九) 永明七年。帝怒大士宝志惑众。收逮建康狱。是日国人咸见大士游行市井。既而检校仍在狱中。其夕语吏曰。门外有两舆食。金钵盛饭。汝可取之。果文惠太子竟陵王送供至。建康令吕文显以闻。帝悔谢迎至禁中。俄有旨屏除后宫为家人宴。志例与众暂出。已而犹见行道于显阳。殿比丘七辈徒其后。帝惊遣吏至。问吏。白志久出在省中及视之身如涂墨焉。帝益神敬之。后在华林园忽重着三顶布帽。亦不知自何而得之。未几而帝崩。文惠太子豫章王相继而殂。果如其谶。灵味寺沙门宝亮者。欲以衲帔遗之。未及有言。志忽来牵帔而去。王仲熊问。仕何所至。不答直解杖头左索与之。仲熊初不晓。后果至尚书左丞焉。建武末。平旦出门。忽褰裳走过曰。门上血腥。及明帝遇害。果以犊车载尸自此门出。舍阉人徐龙驹宅。而帝颈血流被门限。初郁林多害宗室。高士江必忧南康王问志。志覆香炉灰示之曰都尽无余。徐陵儿时父携之谒志。志拊曰。天上石麒麟也。陵后果显于世。

  沙门昙超者。居钱塘灵苑山。一夕有异人至曰。此邦蒙师留。苍生之福。然富阳民无故凿山麓。断坏群龙之室。龙忿不致雨。今二百日矣。欲法师一往诲龙为苍生请福。岂有意乎。超曰。此檀越事。吾何能为哉。神曰。弟子力能吐云。不能致雨。超诺之。至赤庭山为龙说法。俄大雨。因止临溪。县令闻超在。办舟迎之。超即日遁还灵苑。

  (辛未) 逸士顾欢。隐居不仕。尚黄老。南史云。欢以佛道二家教异学者。互相非毁乃着夷夏论。其略曰。辨是与非宜据圣典。道经云。老子入关之天竺。维卫国王夫人曰净妙。老子因其昼寝乘日精入净妙口。后年四月八日剖右腋而生。堕地即行七步。于是佛道兴焉。此出玄妙内篇。佛经曰。释迦成佛有尘沙之数。或为国师道士儒林之宗。出瑞应本起。试论之。曰五帝三皇未闻有佛。国师道士无过老庄。儒林之宗孰出周孔右。孔老非圣谁或当之。然二经所说若合符契。道则佛也。佛则道也。其圣则符。其迹则反。或和光以明近或耀灵以示远。道济天下。故无方而不入。智周万物。故无物而不为。其入不同。其为必异。各成其性。不易其事。是以端委缙绅诸华之容。剪发旷衣群戎之服。全形守礼继善之风。毁貌易形绝恶之学。岂伊同人爰及异物。无尽世界圣人代兴。或昭五典。或布三乘。在鸟而鸟鸣。在兽而兽吼。教华而华言。化夷而夷语。虽舟车均于致远。而有川陆之节。佛道齐乎达化。而有夷夏之别。若谓其致既均其法可换者。是车可涉川而舟可行陆乎。屡见刻有。沙门守株道士互争。小大交相弹射。或域道以为两。或混俗以为一。是牵异以为同。破同以为异。则乖争之由淆乱之本也。寻夫圣道虽同而法有左右。始乎无端。终乎无末。泥洹仙化各是一术。佛号正真。道称正一。一归无死。真会无生。在名则返。在实则合。但无生之教赊。无死之化切。切法可以进谦弱。赊法可以退夸强。佛教文而博。道教质而精。精非粗人可信。博非精人所能。佛言华而引。道言实而抑。抑则明者独进。引则昧者竞前。佛经繁而显。道经简而幽。幽则妙门难见。显则正路易遵。此二法之辨也。圣匠无方。方圆有体。器既殊用。教亦异施。佛是破恶之方。道是兴善之术。兴善则自然为高。破恶则勇猛为贵。佛迹光大宜以化物。道迹密微宜用为己。优劣之分大略在兹。欢虽同二法而意党道教。

  (四十二) 司徒袁粲托为沙门通公驳之。略曰。白日停光恒星隐照。诞降之应事在老先。固非入关方昭斯瑞。又西域之记佛经之说。俗以膝行为礼。不慕蹲坐为恭。道以三绕为虔。不尚踞傲为肃。岂专戎土爰及兹方。襄童谒帝膝行而前。赵王见周三环而上。今佛法乘化或因或革。清信之士容衣不改。息心之人服貌必变。变本从道不遵彼俗。俗风自殊无患其乱。孔老释迦其人或同。观其设教其道必异。孔老教俗为本。释氏出世为宗。发轸既殊。其归亦异。又仙化以变形为尚。泥洹以陶神为先。变形者白首为缁。而未能无死。陶神者使尘惑日损。而湛然常住。泥洹之道无死之地。陶神若此。何谓其同。时何常侍镇之。睹顾欢和同二教大不平之。以书抵欢。剧言道教不足以拟释氏。欢答其书固自封执。镇之重与之书。猥辱返释究详渊况。既和光道佛而泾渭释李。触类长之爰至棋弈。然敷佛弥过精旨愈昧。所谓驰走灭迹跳动息影。焉可免乎。辄复略诸近要以标大归。夫太极剖判两仪妄立。五阴合兴形识谬彰。识以流染因结。形以爱滞缘生。三皇之前民多颛愚。专愚则巢居穴处饮血茹毛。君臣父子自相胡越。犹如禽兽。又比童蒙。道教所不入。仁义所未移。及其沈欲沦波。触涯思济。思济则祈善。祈善则圣应。夫圣者何耶。感物而遂通者也。夫通不自通感不自感。常在此通每自彼。自彼而言悬镜高堂。自此而言万像斯归。故知天竺者居娑婆之正域。处淳善之嘉会。故能感通于至圣。中土于大千。圣应既彼声被则此。睹日月之明。何假离朱之察。闻雷霆之音。奚事子野之听。故卑高殊物不嫌同道。左右两仪无害天均。无害天均则云行法教。不嫌同道则雨施夷夏。夫道者一也。形者二也。道者真也。形者俗也。真既犹一。俗亦犹二。尽二得一。宜一其法。灭俗归真。必其违俗。是以如来制轨玄劫同风。假令孔老是佛。则为韬光潜导。匡救褊心立仁树义将近顺情。是以全形守祀恩接六亲。摄生养性自我外物乃为尽善。不为尽美。盖是有涯之制。未鞭其后也。何得拟道菩提比圣牟尼哉。且佛教敷明要而能博。要而能博则精疏两级。精疏两级则刚柔一致。是以清津幽畅诚视易。准夫以视为员者易。以手为员者难。将不舍其所难从其所易耶。道家经籍简陋多生穿凿。至如灵宝妙真采撮法华。制用尤拙。如上清黄庭。所尚服食。咀石餐霞。非徒法不可效。道亦难同。其中可长唯在五千之文。全无为用。全无为。用未能违有。违有为怀。灵芝何养。佛家三乘所引九流均接。九流均接则动静斯得。禅通之理是三中之一耳。非其极也。禅经微妙境相精深。以此缔真尚未能至。今云道在无为得一而已。无为得一是则弃契千载。弃契千载不俟高唱。夫明宗引会导达风流者。若当废学精思不亦怠哉。岂道教之筌耶。敬寻所辨。非徒不解佛。亦不解道也。反乱一首。聊酬启齿。

  乱曰。运往兮韬韬明。玄圣兮幽幽翳。长夜兮悠悠。众星兮晰晰。太晖灼兮升曜。列宿奄兮消蔽。夫轮桷兮殊材。归敷绳兮一制。苟专迷兮不悟。增上惊兮远逝。卞和恸兮荆侧。岂偏尤兮楚厉。良筝蔑兮诐若。焉相责兮智慧。时复有朱常侍昭之。因何镇之书。乃作难夷夏论。而朱广之作咨夷夏论。并章分句解。以破顾欢之蔽于浅也。汝南周颙高僧惠通。并着驳夷夏论。欢之作遂不胜其谬矣。复有法师绍正者。着二教论其略曰。佛明其宗道全其生。守生者蔽。明宗者通。今道名长生不死。名补天曹。大乖老庄立言之旨。

  (四十三) 齐文惠太子及竟陵王子良。并酷好佛。竟陵着净住子四部二十卷。阐扬佛教。有吴兴道士孟景翼者。颇有时誉。太子召入玄圃。众僧大会。子良使景翼礼佛。景翼弗礼。子良送十地经与之。景翼造正一论。略曰。佛以一音演说法。老子抱一以为天下式。一之为妙。空玄绝于有境。神化赡于无穷。为万物而无为。处一数而无数。莫之名。而强号为一。在佛为实相。在道为玄牝。道之大象。即佛之法身。以不守之守守法身。以不执之执执大象。但物有八万四千行。说有八万四千法。法乃至于无数。行亦达于无央。等级随缘须道归一。归一即回向。向正即无邪。邪观既遣亿善日新。三五四六随用而施。独立不改绝学无忧。旷劫诸圣共遵斯一。老释未始于常分。迷者分之而未合。亿善遍修。遍修成圣。虽十号千称。终不能尽。终不能尽。岂思议哉。

  (四十四) 司徒中郎张融作门律云。道之与佛逗极无二。吾见道士与道人战儒墨。道人与道士辨是非。昔有鸿飞天。首积远难亮。越人以为凫。楚人以为乙。人自楚越鸿常一耳。以示汝南周颙。颙难之曰。虚无法性其寂虽同。位寂之方其旨则别。论所谓逗极无二。为逗极于虚无。为无二于法性耶。足下所宗本一物而为鸿乙耳。驱驰佛道无免二未。未知高鉴缘何识本。轻而宗之。其有旨乎(已上出南史)。

  论曰。自汉西域传范晔论释氏大概。陈寿三国志则置而勿言。唐太宗晋书则班班纪着沙门神异之迹。未始辄有一言訾佛。况佛化自晋抵南北朝始大振于天下。贤哉魏收李延寿之作。当世帝王公卿从事吾佛者。未尝讳之而不书。书之亦未尝以人事议佛也。及顾欢传则假乎当时群公。评议二教而罪欢曰。欢虽同二法。而意党道教。呜呼可谓良史矣。陋哉欢翼之论。犹昔人宝燕石者。渠信有真玉哉。

  (四十五 壬申) 元魏太和十六年。下诏。每四月八日。七月十五日。听大州一百人为僧尼。中州五十人。下州二十人。着之制令。以为常准○祀孔子于中书省。

  (甲戌) 郁林王照业。改隆昌(文惠长子。武帝之孙。初上淫虐。鸾伐之而立其太子之子昭文。改延兴。奢佚无度。废先君储积数月而尽。西昌侯鸾以太后令废之而自立)。

  明帝鸾改建武(字景栖。太祖兄安贞王道之子。小字玄庆。性多情忌。好占吉凶利害。寿四十七崩正福殿。在位五年○立太子宝卷)。

  (丙子) 魏改国姓元。

  (戊寅) 改永泰。

  (四十六 己卯) 东昏侯宝卷改永元(字正严。明帝次子。自即位不与臣下相接。奢佚后宫。一年之中府库匮乏。民间倍价市金。与潘妃作金步莲花。和帝刺于制州。举萧衍伐之。遂废为东昏侯。寿十九而终。在位二年)。

  (庚辰) 元魏宣武恪改景明(孝文第五子。即位深好佛法。百二十三。葬景平陵。在位十六年)。

  (四十七) 道士陈显明。妄造道真步虚品经六十四篇(出珠林)。

  (辛巳) 和帝宝融改中兴(字智昭。明帝第八子萧衍迎立于江陵。明年三月禅位于梁。梁武奉帝为巴陵王。年十五崩。在位一年)。

  齐高帝萧道成。自戊午升明二年四月受宋禅。相袭七主。二十四年。传译华戎道俗二十人。所出经律论传录等四十七部。凡三百五十卷。

  外国有所谓天竺沙门僧伽跋陀罗者。师资相传云。佛涅槃后优波离结集律藏讫。即于其年七月十五日。受自恣竟。以香花供养律藏。便下一点置律藏前。年年如是。优波欲涅槃时。付弟子陀写俱。陀写俱付弟子须俱。须俱付弟子悉伽婆。悉伽婆付弟子目犍连子帝须。帝须付弟子旃陀跋阇。如是师师相付。至今三藏法师。法师将律藏至广州。临上舶还本国。时以律藏付弟子僧伽跋陀罗。罗以永明六年共沙门僧猗于广州竹林寺译出善见毗婆沙一部十八卷。即共安居。以七年庚午岁七月望。受自恣竟。如前师法以香花供养律藏。即下一点。当其年凡得九百七十五点。点是一年也。至梁大同元年。有隐士赵伯休。于庐山遇苦行律师弘度。得此点记年月。伯休因问度曰。自永明七年后云何。不复见点。度云。自彼已前皆得道圣贤手自下点。度乃凡夫止可奉持顶戴而已。故不复点也。伯休因旧点推至大同元年。凡一千二十年。今以此究参诸家传记。佛世尊诞生入灭之年并不相类。大抵西域山川之广。国土之多佛化之盛。各承一宗。此亦一家之说不可废。故附著于此。

  (壬午) ○(四月宝融禅位于萧衍寻后之)。

  右萧齐七主二十四年(而禅于萧梁)。

  佛祖历代通载卷第八

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第九

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  (一) 梁(姓萧氏四主都建康)○雷氏曰(高太世敬梁朝四主五十七年)。

  (壬午) 高祖武皇帝衍改天监(字叔达。南兰陵都里人。与齐同出。亦汉相何二十四代孙。父顺之为丹阳尹。母曰张氏。生帝状貌奇伟日角龙颜项有圆光身不映日。受齐禅后酷好佛法。降将侯景反叛举兵围帝于台城。断食而崩于净居殿。寿八十六。在位四十八年○或问曰。梁武终身奉佛。然困殍于台城。佛法之验其在何也。答之曰。有是疑乎。有是诮也。且夫人之性命业性定焉。苟往世之业会矣。岂今生之善革哉。故文中子曰。斋戒修而梁国危非释迦之罪也。缘行齐废帝之愆。值侯景台城之困业理既昭。惑疑遣矣)。

  (二) 道家太清经。及众醮仪十卷。乃梁时陶弘景妄造(出珠林)。

  (三 癸未) 武帝诏曰。大士宝志迹拘尘垢神游冥寂。水火不能燋濡。蛇虎不能侵惧。语其佛理则声闻以上。谈其隐沦则遁仙高者。岂可以俗法常情空相疑忌。自今中外任便宣化。帝一日问志曰。弟子烦惑未除。何以治之。答曰。十二。帝问。其旨云何。答曰。在书字时节刻漏中。帝益不晓。他日更问国祚有留难否志指其颈示之。帝曰。朕享国几何。答曰。元嘉。元嘉。帝喜以为倍宋文之年。时革命之初帝临政刻急。志假帝神力。令见先君受极苦于地下。由是䘏刑。尝诏画工张僧繇寒志像。僧繇下笔辄不自定。既而以指厘面门分披。出十二面观音。妙相殊丽或慈或威。僧繇竟不能写。他日与帝临江纵望。有物溯流而上。志以杖引之。随杖而至。乃紫旃檀也。即以属供奉官俞绍雕志像。顷刻而成。神采如生。帝悦以安内庭时法云云光二师俱有重望。每讲法天辄雨华。帝疑其证圣。夜于便殿焚疏请志偕光云三大士斋。翌日志独赴。而光云俱未知。帝由是益异其礼。又尝与帝登钟山之定林寺。指前独龙冈阜曰。此为阴宅则永其后。帝曰。谁当得之。曰先行者得之。至十三年。大士示寂。帝忆其言。以金二十万易其地。建浮图五级其上。镇以无价宝珠。敕王筠勒碑。葬日车驾亲临致奠大士忽现于云间。万众欢呼声震山谷。自是道俗奉祀。奇瑞显应为天下万一。凡大士所为秘谶偈句多着南史。为学者述大乘赞十篇科诵十四篇并十二时歌。皆畅道幽致。其旨与宗门冥合。今盛传于世。

  (四) 是岁帝妃郄氏者。初生有赤光照室。器皿尽明。及长性明惠。善隶书读史传女工之事靡不闲习。宋齐间诸王求婚。父晔皆不许后以适帝。生三女。帝为雍州刺史而妃薨。其性酷妒。及是化为巨蟒入于后宫。通梦于帝。帝体将不安蟒辄激水腾涌。或现龙形光彩照灼。因于露井上为殿衣服委积。置银辘轳金瓶灌百味以祀之。帝毕世不复议立皇后云。

  (五 甲申) 天监三年四月八日。帝率道俗二万余人升重云殿。亲制文发愿。乞凭佛力永弃道教。不在崇奉。略曰。经云。发菩提心者即是佛心。一切散善不得为喻。弟子萧衍比经荒逆耽事老君。累叶相承深此邪法。今舍弃奋习归仗正因。愿使未来世童男出家广弘经教化度含识。共证菩提。宁在正法中长沦恶道。不乐归依老子暂得神仙。陟大乘心永离邪见。正愿诸佛证明菩萨摄受。弟子萧衍和南。

  十一日敕门下曰。大经中说。九十六种唯一佛道是其正道。余皆邪也。朕舍道以事诸佛正内之道。公卿能入此誓者各可发菩提心。老君周公孔子等。虽是如来弟子化迹既邪。止是世间之善。不能革凡成圣(具载如弘明集)。

  (六) 是岁诏隐士何点。点以巾褐入见帝。帝赐之酒。特除侍中。点前席将帝须曰。乃欲臣老子耶。固辞不受。复诏何胤。胤谓使者曰。吾年五十七矣。月食四斗米不尽。那复有宦情耶。帝知不可致。有旨给白衣尚书禄。胤苦辞。晚入虎丘之西寺讲维摩经。及将终梦天女六十余人列于前。及寤犹见之如故。即具浴俨衣冠。少顷而卒。何氏自晋司徒充宋司徒尚之。并建大义伸明佛法。累叶遵承至胤侄侍中敬容而止。

  (七 丙戌) 五年帝注大品。臣僚命法师法云讲之。云辞疾不赴。帝遣使强起之曰。将冀流通。非高德无以凭也。云始从之。云最有誉当世。雅为昭明太子所敬。儒释两优。为天下第一。

  (戊子) 魏改永平。

  (八 己丑) 八年。魏主于式干殿。为诸僧及朝臣讲维摩诘经。时魏朝专尚释氏不事经籍。中书侍郎裴延隽上疏。以为汉光武魏武帝虽在戎马间未尝废书。先帝行师还都。手不释卷。良以学问多益不可辍故也。陛下升法座亲讲大觉。凡在瞻听尘蔽俱开。然五经治世之楷模。应务之所先。伏愿经书互览孔释兼存。则内外俱周真俗斯畅。时洛阳中国沙门之外。自西域来者三千余人。魏主别立永明寺千余间。以处之远近承风无不事佛。比及延昌州郡凡一万三千余寺。僧至二百万。

  (九 辛卯) 十年诏法师僧旻。入惠轮殿讲胜鬘经。帝临听。公卿毕集。有旨于庄严寺建八座法轮。妙选奇杰番次主之。时以旻为第一。当讲日听者倾都。堂无容足。名士刘叶尝谓旻曰。法师佛学有余。何故弘义多伸儒旨。旻曰。昔生公以顿悟通经。次公以毗昙发论。若贫道初不以儒释限。但据文义所向耳。沙门道超者频年力学。慕旻公之讲。誓欲齐之。夜梦神告之曰。旻公毗婆尸佛时预宣法化。君新发意者何能类之。第自求成名。不必苟齐也。旻性谦冲不恃能矜物。一时公卿道俗咸推仰之。

  (壬辰) 魏改延昌。

  (十) 十一年有旨。命宝亮法师授涅槃义疏。帝为之序。略曰。离文字以设教。忌心相以通道。欲使珉玉异价泾渭分流。制六师而正四倒返八邪而归一味。则法雨降而燋种受荣。慧日升而长夜蒙晓。发迦叶之悱愤。吐真实之诚言。虽复三施等于前。五大陈于后。三十四问参差异辩。方便劝发各随意答。举要论经不出两途。佛性开其有本之源。涅槃明其归极之旨。非因非果不起不作。义高万善事绝百非。空空不能测其真际。玄玄不能穷其妙门。自非德均平等心合无生。则金墙玉室岂易入哉。

  (十一 癸巳) 下诏曰。夫宗庙牺牲修行佛戒。蔬食断肉省贪绝欲。天下水陆不令搜捕。又敕太医不使肉药。公家织官锦帛并断。又造断酒肉文。及着净业赋。

  (甲午) 天监十三年志公和尚示寂。

  (十二) 是年特进沈约卒。约字休文。婺州东阳人。左目重瞳。腰有紫志。少为书生。名闻一时。以风流见称。而肌体清臞。时谓沈郎瘦。甚为武帝所重。官业具南史。尝出意撰声律以革古诗。后世取则。号曰四声。约甚精佛理。着中食论。理趣甚高。其略曰。人所以不得道者。由于心神昏惑。心神所以昏惑。由于外物扰之。扰之大者其事有三。一则势利荣名。二则妖妍靡曼。三则甘旨肥醲。荣名难日用于心。要无晷刻之累。妖妍靡曼方之已深。甘旨肥醲为累甚切。万事纭纭皆三者之枝叶耳。圣人知不断此三事求道无从可得。乃为之法使简而易从。若也直云。三事惑本并宜禁绝。而此三事。是人情所甚惑。念虑所难遣。虽有禁之之旨。而事难卒从。譬如方舟济河。岂不欲直至彼岸。河流湍急。会无直济之理。不得不从流。靡久而获至。非不愿速。事难故也。禁此三事。事宜有端。何则食之于人不可顿息。其于情性三累莫甚。故推此晚食并置中前。自中之后清虚无事。因此无事念虑得简。在始未专。在久自习。于是束以八支纡以禁戒。靡曼之欲无由得前。荣名众累稍随事遣。故云。往古诸佛过中不餐。此盖是遣累之筌罤。适道之捷径。而惑者咸谓止于不食。此乃迷于向方。不知厥路者也。又尝着设会谓意谓如来在日。众居伽蓝不置食具。时至则分卫持钵以福众生。今之僧徒一皆违废。不止不持中食。甚者甘腴厨膳丰美饮食。或遇请召得蔬蔌之具。莫不颦蹙以为不能甘也。此岂有志于道哉。其论略曰。出家之人本资行乞。戒律炳然。不许立厨帐并蓄净人。今既取足官寺。行乞事废。或有持钵登门。便呼为僧徒鄙事。既为众所鄙耻。不复行乞。悠悠后进求理者寡。将谓乞食之业不可复行。由净饭王子转轮之贵。持钵行乞以福施者。岂不及千载之外凡庸沙门躬命仆竖自营口腹者乎。行乞受请二事不殊。今不复行乞。又不赴请。则行乞之法于此永冥。此法既冥则僧非佛种。佛种既离则三宝坠地矣。约有文集百余卷。行于世。

  (十三 乙未) 是年魏胡太后。作永宁石窟二寺。极土木之美。而永宁尤盛。有金像高丈八尺如中人者又十躯。为浮图九级。筑基下及黄泉。其高九十丈。上立刹复高十丈。每夜静铃铎声闻十余里。佛殿如太极殿。三门如端门。僧房千楹。玉珠锦绣。骇人心目。未几雷电火爇其塔。远近咸见烟焰中有塔升空而没。后月余有自东州来者云。此日见塔乘空飞海上。而望海者时亦见之。

  (丙申) 魏孝明帝诩(宣武次子。六岁即位。胡太后临朝。在位十二年。十九岁崩。葬定陵。改熙平)。

  (戊戌) 魏改神龟。

  (十四 己亥) 会稽沙门惠皎。以宝唱所撰名僧传颇多浮泛。因着高僧传十四卷。始元汉永平十年终于是岁。凡四百五十三载。二百五十有七人。附见者二百余人。开其德业大略为十例。其自叙曰。前古撰集多曰名僧。然名者实之宾也。若实行潜光则高而不名。若寡德适时则名而不高。兹焉用纪。高而不名则备今录。世以为确论。

  (十五) 释僧朗者。常诵法华。风度凝远饮啖不常。每出一狗一猴随之。日循乞得饮膳。即置木盂中。食毕举其余以饲猴狗。善作龟藏。或时手足头颈俱缩不见。又尝登舟初无篙力。朗坐其中猴狗驯侧。舟自溯流而上。法师道英。初隐太行山禅宴。树枝萦结如盖覆之。居久之弃去。行龙台泽。观游鱼爱之。即解衣入水。宴坐深渊七日而出。又尝隆冬睹严冰爱其莹澈。就卧其上信宿而起。晚居蒲州普济寺。一日讲起信。至真如门奄尔气绝。众意其逝矣。有都讲识之。即谓众曰。此入灭尽想耳。三日乃苏矣。

  (庚子) 改普通○魏改正光。

  (十六) 普通元年。帝于禁中筑圆坛。将禀受归戒。妙选德行尤异者为之师。朝议以惠约法师望高。诏至。约以礼逊让不许。夏四月丁巳。帝行问道。礼禀约为师授具足戒。方羯磨次甘露降于庭。有三足乌二孔雀。历阶驯伏。帝大悦。赐约别号智者。自是入朝必设特榻处之。而帝座其侧。凡太子诸王公卿道俗从约授戒者。四万八千人。沙门虽在耆艾。亦重禀授。独法云公曰。吾既戒矣。其可以佛法为人事耶。于是议者高之。

  (十七) 时有达禅师者。得水观三昧。每入此定。有窥之者。唯见清水凝渟满室。沙门道仙从达游。得火光三昧。所居之室玄夜大明焉。

  (十八) 帝留神法门。时释子多纵率。主僧懦不能制。帝患之。欲自以律行僧正事。诏下京城大德。无敢议者。独藏法师以为佛法渊博非一人能尽之。执不奉诏。帝讶之。召入光华殿问状。藏面陈大旨。秉执有据。帝不能夺。遂从之。藏退谓诸僧曰。上以佛法为己任诚当推顺。然衣冠家子弟十辈。犹不能俱称父意。今糅杂五方之众而以一己好恶绳之。戒律将废矣。诸君不虑此何也。法云公叹曰。教理深致未能多谢。一日之事良可愧服。

  (十九) 帝自受具。寝处略同沙门。虽宫禁每亦恣僧游览。独禁御座而已。藏公一日升殿登之。左右呵止之。藏曰。贫道定光金轮之裔。宁愧此座。倘见杀不虑无受生处。帝闻置之弗罪。藏少时遇相者曰。法师寿不过三十一藏。岁惧日诵金刚般若。至期梦前人复来告曰。法师以般若力故。寿倍僧矣。又尝梦维摩诘降其房与语。临别以素麈尾遗之而去。藏自是玄辩日新矣。

  (二十) 魏正光元年孝明帝加元服。命沙门道士讲道于禁中。时道士姜斌沙门昙谟最对论。帝曰。佛与老子同时否。姜斌曰。按开天经云。老子西入化胡。佛充侍者。明是同时。昙谟最曰。老子当周何年而生。斌曰。定王三年生。简王四年仕于周。敬王四年年八十五西入化胡。最曰。吾佛以周昭王二十四年诞生。穆王五十二年灭度。自世尊灭度至定王三年。凡三百四十五年。老子方生。及敬王元年老子西游。则世尊示寂已四百二十五年矣。据此相去悬远。而言化胡。无乃谬乎。斌曰。佛生周昭之世。有何文记。最曰。周书异记。汉法本内传。并有明文。斌曰。孔子制法。于佛迥无文记何也。最曰。孔子有三备十经。谓天地人也。佛之文言出于中备。斌曰。孔子圣人何假十乎。最曰。佛是众圣之王。达一切含识先后际。吉凶终始不假卜筮。自余小圣虽晓未然。必藉蓍龟方通休咎。时侍中刘腾宣敕曰。姜斌论无宗旨。宜退席。又问。开天经何从而得。是谁所说。可疾取来。及取经至。帝命群臣详定真伪。时太尉萧综太傅李寔洎公卿大夫百六十余人。览毕劾奏曰。老子止着五千文。更无他说。今姜斌所据。文词鄙俚宗旨乖谬。既渎先师又罔圣德。罪当惑众。制可。将抵以刑。三藏菩提流支奏解。斌特流马邑。昙谟最善大小乘有律行。初在邯郸说律。感异比丘六十余辈降席听戒。流支每见称为东方开士焉。

  (二十一) 魏书佛老志曰。道家之源出于老子。其自言也。先天地生以资万类。上处玉京为神王之宗。下在紫微为飞仙之主。千变万化有德不德。随机应物厥迹无常。授轩辕于峨嵋。教帝喾于牧德。大禹闻长生之诀。尹喜受道德之旨。至于丹书紫字升玄飞步之经。五石金光妙有灵洞之说。不可胜纪。其为教也。咸蠲去邪累澡雪精神。积行树功累德增善。乃至白日升天长生世上。是以秦皇汉武甘心不息。劳心竭思所在追求。终莫之致。退恨于后。故有栾大徐氏之诛。然其道惑人效学非一。灵帝置华盖于濯龙。设坛场而为礼。及张陵授道于鹤鸣。因传天宫章本千有二百。弟子相授其事大行。斋祠跪拜各有成法。于是三元九府百二十宫。一切诸神咸所统摄。又称劫数颇窃佛经。及其劫终称天地俱坏。其书多有禁秘。非其徒不得辄观。至于化金销王行符敕水奇方妙术万等千条。上云羽化飞天。次称消灾减祸。故好异者往往而尊事之。初文帝入宾于晋。从者云登仙伊阙。太祖好老子之言。诵咏不倦。天兴中仪曹郎董谧上服食仙经数十篇。乃置仙人博士。立仙坊煮炼百药。封西山以供其薪蒸。令死罪者服之。多死无验。久之太祖意少懈乃止。

  (壬寅) 魏用正光历。

  (癸卯) 铸铁钱。民盗铸者多。物价腾踊。

  (乙巳) 魏改孝昌。

  (丁未) 改大通。上幸同泰寺舍身。

  (二十二) 初祖菩提达磨大师。天竺南印度国香至王第三子也。王薨师出家。遇二十七祖般若多罗付以大法。因问。我既得法。宜化何国。多罗曰。汝得法已。俟吾灭度六十余年。当往震旦国阐化。曰彼有法器堪继吾宗。千载之下有留难否。多罗曰。汝所化方。得菩提者不可胜数。吾灭度后彼有劫难。水中文布善自降之。汝至时南方不可久留。听吾偈曰。路行跨水复逢羊。独自凄凄暗度江。日下可怜双象马。二株嫩桂久昌昌。复演八偈。皆预为谶。至多罗示寂。师演化本国。会其侄异见王者轻毁三宝。师遣其徒波罗提。微现神力摄化归正。师以震旦缘熟即别其众。而异见王枉驾见师。曰告之曰。当勤修福行护持三宝。吾去非晚一九即回。王泣曰。叔既有缘在彼。非吾所留。唯愿不忘父母之国。事毕早回。遂具大舟实以众宝。王躬率臣僚送至海滨。师同商驭舟达于南海。广州刺史萧昂馆之。以表闻奏。有诏迎见。师入朝。帝问。朕即位以来。造寺写经度僧。不可胜数。有何功德。师曰。并无功德。帝曰。何以并无。师曰。人天小果有漏之因。虽有非实。帝曰。何谓真功德。师曰。净智妙明体自空寂。如是功德不于世求。帝曰。何为圣谛第一义。曰廓然无圣。帝曰。对朕者谁。曰不识。帝不省玄旨。师迟留数日。遂度江之魏。止于嵩山少林寺。终日壁观而已。有僧神光者。因神人发起来见师。师端坐不顾。会天大雪。光立雪中。至积雪过膝。师悯而问曰。汝久立雪中。求何事耶。光曰。唯愿大慈开甘露门广度群品。师曰。诸佛无上妙道旷劫难逢。岂小德小智轻心慢心欲冀真乘徒劳勤苦。光闻诲励喜不自胜。即以利刀自断左臂置于师前。师曰。诸佛最初求道重法忘身。汝今断臂吾前。求亦可矣。光承其言即易名惠可。复问曰。诸佛法印可得闻乎。师曰。诸佛法印匪从人得。曰。我心未宁。乞师与安。师曰。将心来与汝安。可曰。觅心了不可得。师曰。与汝安心竟。久之为可等略辨大乘入道四行。其辞曰。

  夫入道多云。要而言之。不出二种。一理入。二行入。理入者。谓藉教悟宗。深信含生同一直性。但为客尘妄想所覆不能显了。若舍妄归真凝住壁观。无自无他凡圣一等。坚住不移。更不随于文教。此则与理冥符。无有分别寂然无为。名之理入。行入者。有四。一报冤行。二随缘行。三无所求行。四称法行。谓报冤行者。凡修道人若受苦时。当念我从往昔无数劫中。弃本逐末流浪诸有。多起冤憎违害无限。今虽无犯。是我夙殃恶业果熟。非天非人所能见与。甘心忍受都无怨恨。作是观时与理相应。体冤进道。故名报冤行。随缘行者。众生无我并缘业所转。苦乐齐受皆从缘生。若得胜报荣誉等事。皆是过去夙因所感。缘尽还无何喜之有。得失从缘心无增减。喜风不动冥顺于道。名随缘行。无所求行者。世人长迷处处贪着。智者悟真安心无为。万有皆空无所希冀。三界久居犹如火宅。有身皆苦谁得而安。了达此处息念无求。故经云。有求皆苦无求乃乐。是则无求真为道行。故名无所求行。称法行者。性净之理因之为法。此理众相斯空。无染无著无此无彼。经云。法无有我。离我垢故。智者信解此理。应当称法而行。法体无悭。于身命财行檀舍施。心无悭惜。达解三空不倚不着。但为无垢。称化众生而不取相。此为自行。亦复利人。庄严菩提之道。檀施既尔。余五亦然。为除妄想。修行六度而无所行。是名称法行。

  大同元年十月。师将示寂。道副尼总持道育惠可等。侍侧。曰时将至矣。汝等盖各言所得乎。时道副曰。如我所见。不执文字不离文字。而为道用。师曰。汝得吾肉。尼总持曰。我今所见。如庆喜见阿閦佛国。一见更不再见。师曰。汝得吾皮。道育禅师曰。四大本空五阴非有。而我见处无一法可得。师曰。汝得吾骨。大师惠可即礼三拜复依位而立。师曰。汝得吾髓。即顾谓可曰。世尊以正法眼藏付嘱大迦叶。展转传授以至于吾。吾今付汝。汝当护持。并授汝袈裟以为法信。可跪受其衣。愿闻指示。师曰。内传法印以契真心。外付法衣以定宗旨。后代浇薄疑虑竞生。谓吾西土汝乃此方。凭何得法以何为证。或遇难缘。但出此衣用以表信。其化无碍。至吾灭后二百余年。衣止不传。法周沙界。潜符密契千万有余。汝当阐化勿轻未悟。一念回机便同本有。听吾偈曰。吾本来兹土。传法救迷情。一花开五叶。结果自然成。又曰。吾有楞伽经四卷。亦付与汝。即是如来心地要门。吾自离南印来此东土。见赤县神州有大乘气象。遂逾海越漠为法求人。际会未谐如愚若讷。今得汝传授。吾意已终。乃与其徒往禹门千圣寺。有期城太守杨炫之。问曰。西天五印师承为祖。其道云何。师曰。明佛心宗行解相应。名之曰祖。炫之曰。弟子素奉三宝而智慧昏蒙。愿师慈悲开示宗旨。师以偈答之曰。不睹恶而生嫌。不观善而勤措。不舍智而近愚。不抛迷而就悟。达大道兮过量。明佛心兮出度。不与凡圣同缠超然。名之曰祖。炫之闻偈乃稽首曰。愿师慈忍久住世间。师曰。吾化缘已毕传法得人。吾即逝矣。是日端坐而寂。门人奉全身葬熊耳山定林寺。明年魏使宋云西域回。遇师于葱岭。手携只履翩翩独迈。云问。师今何往。曰西天去。及云归朝具言其事。门人启圹唯空棺只履存焉。梁武帝闻师显化始末如此。遂亲撰碑。刻石于钟山。

  论曰。昔嵩明教着传法正宗记。称达磨住世凡数百年。谅其已登圣果得意生身。非分段生死所拘。及来此土示终葬毕。乃复全身以归则其住寿固不可以世情测也。传灯录云。师以九月二十一日至广州。刺史以表闻奏。帝遣使赍诏迎之。师以十月一日至金陵。然自广至金陵亡虑三千余里。将命者往而复。师方启行。岂以十日之间能历三千里乎。又谓魏孝明帝钦师异迹三屈诏命。师竟不下少林。及师示寂。宋云自西域还遇师于葱岭。孝庄帝有旨令启圹。如南史普通八年即大通元年也。孝明以是岁四月癸丑殂。师以十月至梁。盖师未至魏时。孝明已去世。及其子即位未几。为尔朱荣所弑。乃立孝庄帝。由是魏国大乱。越三年而孝庄殂。又五年而分割为东西魏。然则吾祖在少林时。正值其乱。及宋云之还则孝庄去世。亦五六年。其国至于分割久矣。乌有孝庄令启圹之说乎。奋唐史云。后魏末有僧达磨。航海而来。既卒。其年魏使宋云于葱岭回见之。门徒发其墓但有只履而已。此乃实录也。又谓光统律师菩提流支数下毒害师。师遂不救。呜呼甚哉。光统流支法门龙象。讵能尔乎。是皆立言者误也。虽然吾宗从上来事。昭昭若揭日月而行。故二祖礼三拜后依位而立。当尔之际。印尘劫于睡息。洞刹海于毫端。直下承当全身负荷。正所谓通玄峰顶不是人间。入此门来不存知解者也。抑乌有动静去来彼此时分而可辩哉。

  (戊申) 魏庄帝子攸(献文之孙。彭城王第三子。是年二月孝明为胡太后鸩之。时尔朱荣立帝即位。二年改元建义。永安二号后复欲篡逆求九锡。九月入朝。帝知召荣手杀之。其弟尔朱兆举兵向洛。立东海王晔。改元建明。十二月杀子攸。空宫百日。兆又以晔疏远杀之。而更立孝文之侄广陵王恭。是为节闵帝)。

  (己酉) 改中大通。

  九月上幸同泰寺舍身。群臣以钱一亿万奉赎回宫。

  (庚戌辛亥) 十月上幸同泰寺。升座讲涅槃经。十一月讲般若经。

  (二十三) 是年四月。昭明太子薨。太子讳统字维摩。天监元年生于霸府。三日而建康平。识者以为天命所集。幼聪睿。三岁受孝经论语。五岁遍读五经悉能讽诵。八岁于寿光殿讲孝经。名儒重臣毕集座侧。太子词吐华畅渊源无滞。皆钦服以为圣童。年十二于内省决狱。剖断平允。自是数使听讼。赖活者不可胜数。性慈孝美容止。读书数行俱下。过目忆诵无违。帝既留心内典躬自讲说。太子亦天性好佛。凡释部经论披览略遍。于东宫别立惠义殿。专为法集之所。招引名僧。撰次法事仪注。及立三谛等义。世咨美之。母薨每哭辄动绝水浆不入口。帝敕左右宣旨曰。毁不灭性圣人所制。不胜哀比于不孝。有我在那得自毁如此。即可强进饮粥。太子奉旨始进粥。体素肥腰带十围。至是减削过半。帝寻委以军国政事。太子处决无留滞。引纳天下奇材赏爱无倦。东宫有书凡二万余卷。群贤毕集。文雅之盛由晋已来未之有也。尝游后池乘彩文舸。摘芙蕖以嬉。姬人荡舟没溺而出。感疾动股。恐贻帝忧。不以闻。遂薨。天下哭之如丧其亲焉。

  (二十四) 刘勰者名士也。雅为太子所重。撰文心雕龙五十篇。家贫不婚娶。依沙门僧裕遂博通经论。区别部类而为之序。定林寺藏经即其铨次也。中书令沈约绝重其文。常置几桉间。凡都下寺塔及名僧碑碣皆出其手。累官通事舍人。表求出家。先燔须自誓。帝嘉之。赐法名惠地。

  安定王朗改中兴(十月高欢起兵言都。讨尔朱氏。乃奉太武玄孙朗。行至芒山。既平尔朱兆。以朗疏远。又以恭英毅难制。乃幽之。假安定王诏奉之。文曰孙修即位)。

  节闵帝恭改普泰(是年安定王节闵帝皆为高欢所杀)。

  右魏自太祖(登国丙戌凡十二主。百四十九年。至梁中大通而分东西之焉)。

  (壬子) 西魏孝武修改永熙(字孝则。孝文之孙。广平武穆王怀之子。高欢废节闵而立帝。欢有不臣之迹。帝欲除之。欲觉举兵内发。帝恐奔长安。依关西大都督字文泰。在位三年。寿二十五)。

  (癸丑) 大通五年。义乌双林大士者。姓傅氏名翕法号善惠。年十六纳刘氏女妙光为室。生二子普建普愿。尝有西域沙门嵩头陀者。见大士曰。吾与汝毗婆尸佛所同发誓。今兜率宫衣钵现在。何日当归。因命临水观其影见圆光宝盖。大士笑谓之曰。炉鞴之所多纯钱。良医之门足病人。度生为急何思彼乐乎。居无几常见释迦金粟定光三如来放光袭其身。大士喜曰。吾得首楞严三昧。即舍田宅及卖妻子。得钱五万以设法施会。遂于松山之顶。因双梼树创寺而居。故名双林。日自营作夜则行道。有偈云。空手把锄头。步行骑水牛。人从桥上过。桥流水不流。复一日于山顶。绕连理双树行道。感七佛相随。释迦前引维摩接后。唯释尊频顾大士共语。由是异迹日显。是年正月十五日。遣弟子傅暀致书于朝。其辞曰。

  双林树下当来解脱善惠大士。白国主救世菩萨。今欲修上中下善悉能受持。其上善略以虚怀为本。不着为宗。无相为因。涅槃为果。其中善略以治身为本。治国为宗。天上人间果报安乐。其下善略以护养众生胜残去杀普令百姓皆禀六斋。今闻皇帝崇法欲申论义未遂襟怀。故遣弟子傅暀告白。暀投书太乐令何昌。昌曰。约法师犹置启。翕是国民。又非长老。殊无谦卑。岂敢进达。暀烧手御路。昌乃驰往同泰寺询皓法师。劝速呈。二月十一日进书。帝览之。遽遣诏迎。既至。帝问曰。从来师事何人。答曰。从无所从。来无所来。师事亦尔。昭明太子问大士。何不论义。答曰。菩萨所说非长非短非广非狭非有边非无边如如正理。复有何言。帝曰。何为真谛。答曰。息而不灭。帝曰。息而不灭。此则有色。有色故钝。如此则居士未免流俗。答曰。临财无苟得。临难无苟免。帝曰。居士大识礼。答曰。一切诸法不有不无。大千世界所有色像莫不皆空。百川丛注不过于海。无量如法不出真如。如来何故于三界九十六道中独超其最。视一切众生有若赤子。天下非道不安非礼不乐。帝默然。大士辞退。异日帝于寿光殿讲金刚经。圣师云。大士能耳。帝即召大士。大士对帝执拍板讲经。唱成四十九颂。遂还双林。至陈太建元年四月将示寂。谓其徒曰。此身甚可厌恶。众苦所集。要在护持三业精勤六度。若堕地狱卒难得脱。常须忏悔。又曰。吾灭已不得移寝床。七日当有法猛上人持像及钟来镇于此。弟子问。既归寂后形体如何。曰山顶焚之。问若不遂复何如。曰勿用棺敛。但累甓为坛移尸于上。屏风周绕绛纱覆之。上建浮图随意安立。又问诸佛灭度时皆说功德。师之发迹可得闻乎。曰。我从第四天来为度汝等次补释迦。故大品云。有菩萨从兜率天来。诸根猛利疾与般若相应。即吾身是也。言讫跏趺而逝。寿七十有三。至七日上人法猛果持织成弥勒像及九乳钟来镇龛所。须臾不见。大士道具十余事。晋天福中钱王发塔取灵骨十有六片。皆紫金色。并道具。就府城南建龙华寺。塑像安置。大士尝着心王铭一篇。其辞曰。

  观心空王。玄妙难测。无名无相。大有神力。能灭千灾。成就万德。体性虽空。能施法则。观之无形。呼之有声。为大法将。心戒传经。水中盐味。色里胶青。决定是有。不见其形。心王亦尔。身内居停。面门出入。应物随情。自在无碍。所作皆成。了本识心。识心见佛。是心是佛。是佛是心。念念佛心。佛心念佛。欲得早成。戒心自律。净律净心。心即是佛。除此心王。更无别佛。欲求成佛。莫染一物。心性虽空。贪瞋体实。入此法门。端坐成佛。到彼岸已。得波罗蜜。慕道真士。自观自心。知佛在内。不向外寻。即心即佛。即佛即心。心明识佛。晓了识心。离心非佛。离佛非心。非佛莫测。无所堪任。执空滞寂。于此漂沈。诸佛菩萨。非此安心。明心大士。悟此玄音。身心性妙。用无能改。是故智者。放心自在。莫言心王。空无体性。能使色身。作邪作正。非有非无。隐显不定。心性虽空。能凡能圣。是故相劝。好自防慎。刹那造作。还复漂沈。清净心智。如世黄金。般若法藏。尽在身心。无为法宝。皆浅非深。诸佛菩萨。了此本心。有缘遇者。非去来今。

  (甲寅) 东魏孝静善见改天平(孝文之孙。清河宣王亶之子。高欢迎立都洛迁邺。年十一即位。十七年。寿二十八岁)。

  (二十六 乙卯) 改大同○惠约法师垂诫门人。言讫合掌而逝。帝辍朝三日。素服哭之。葬志公塔之左方。尝从约授戒者四万八千人。皆服缌麻哭送至塔。约尝所乘青牛垂泪悲鸣。及双鹤绕塔哀唳。弥月而去。

  (丙辰) 作皇基寺○陶弘景号山中宰相。

  (二十七 丁巳) 东魏定州孙敬德。虔事观音。为贼横引坐罪。临刑念救苦观音。刀三斫不伤。三换刀俱折。有司以闻高欢。欢为表请免死。敬德还家。事像项有三痕。今世谓高王经出此也。

  (戊午) 李胤之得佛舍利遂大赦○东魏改元象东魏元象元年。有使西域。回至葱岭。见达磨只履单己而西还。门徒启圹礼之唯存只履。

  (己未) 东魏改兴和。

  (二十八 庚申) 佛祖传法偈。按禹门太守杨炫之铭系记云。东魏静帝兴和二年庚申。西魏文帝大统六年。梁武大同六年。高僧云启往西域求法。至龟兹国。遇天竺三藏那连耶舍欲来东土传法。云启曰。佛法未兴且同止此。遂将梵本译为华言。云启去游印土。那连亲将至西魏。值时多故乃入高齐。以宣帝礼遇甚厚廷居石窟寺。以齐方受禅。未暇翻译别经。乃将龟兹与之合所译祖偈因缘。传居士万天懿。乃殷勤扣问深悟玄旨。遂将校勘昭玄沙门昙曜同天竺三藏吉迦夜所译付法藏。失于次序兼无偈谶。写本进去魏朝证其差谬付法藏传乃魏武真君年中。崔浩寇谦之邪说毁灭佛法。至文成帝和平中重兴故缺。梁简文帝闻魏有本。遣使刘玄运往彼传写。归建康流布江表。唐贞元中金陵沙门惠炬将此祖偈往曹溪。同西天胜持三藏。重共参校。并唐初以来传法宗师机缘集成宝林传。光化中华岳玄伟禅师集贞元以来出世宗师机缘。将此祖偈作其基绪。编为圣胄集。开平南岳三生藏惟劲头陀又录光化以后出世宗匠机缘。亦以祖偈为由。集成续宝林传。宋景德中吴僧道原集传灯录进于真宗。敕翰林学士杨亿工部员外李淮太常丞王曙同议校勘具奏。诏作序编入大藏颁行。天圣中附马都尉李遵勖参石门聪禅师发明因缘。聚禅学僧列此祖偈世系事缘。成广灯录上仁宗。御制序文。敕入大藏流通。建中靖国元年沙门惟白将此祖偈以为标本。成续灯录进上(云云)。他宗不知其原。谓七佛偈无译。寡闻浅识一至妄谬。良可笑也。

  (二十九) 时隐士阮孝绪。陈留人也。家世仕宦。父彦大尉从事中郎。孝绪年十三通五经大旨。十六丁家难。终丧入钟山。听讲久之。母有疾。绪在席心惊而归。合药须生人参。躬入钟山采求未获。忽一鹿在前。心异之至鹿息处。果得人参。药成母疾得愈。齐尚书令王晏来候之。绪恶其人穿篱而遁。及晏被诛以非党获免。尝以鹿林为精舍。环以林池杜绝交游。世罕得而见之。御史中丞任昉欲访焉而不敢进。乃指鹿林谓其兄曰。其室则迩。其人甚远。繇是朝贵绝于造请。唯与裴子野交好。天监末累召不赴。天子以为苟立虚名以要显誉。故二何孝绪并得遂其高焉。南平元襄谓曰。昔君大父举不以来游取累。吾弟独执其志何也。绪曰。若麇䴥尽可参驭。何以异乎騄骥哉。鄱阳忠烈王其姊夫也。岁时之馈。一无所受。与刘著作同年。刘卒。绪曰。吾其几何。即辨后事数日而亡。寿五十八。孝绪博极群书。无一不善。精力强记为学者所宗。既卒。门人谥曰文贞处士。初汉刘歆着七略。齐王俭着七志。孝绪普通四年着七录。前五曰内篇。六曰佛法录七曰仙道录。谓之外篇。刘歆七略则以道家为诸子。以神仙为方技。王俭七志则先道而后佛。孝绪七录则先佛而后道。盖所宗有不同。亦由其教有浅深也。

  (三十) 七录内外图书。总四万四千五百二十六卷。凡天下之遗书秘记尽于此矣。内佛法录经律论等五部。凡五千四百卷。至隋文帝仁寿间。嘉则殿书凡三十七万卷。及唐开元中秘府以甲乙丙丁四部为次。列经史集四库。并唐之学者所著之书。共八万二千三百七十四卷。今唐书艺文志。四部著录者。凡五万二千一百卷。不著录者二万七千六百三十卷。共七万九千八百三十卷。其间释部特载僧俗二十五家所著之书。凡三百九十五卷而已。此古今书籍之数也。

  (癸亥) 东魏改武定。

  沙门尚圆为武陵王。遣宫中鬼怪。一称南无佛陀。鬼皆失所。自尔安静○是年黄门侍郎顾野王玉篇成。

  (甲子 五四) 上自天监以来事佛长斋。日止一食。惟菜羹粝饭。

  (丙寅) 改中大同。

  (丁卯) 改太清。

  (三十一 己巳) 太清三年夏四月。逆贼侯景陷台城。以甲士五百人自卫。带剑上殿拜讫。帝神色自若。使引向三公坐榻。谓曰。卿在戎日久。无乃为劳。景惶惧不能对。出谓左右曰。吾每据鞍临敌。矢石交下了无所怖。今见萧公使人畏慑。岂非天威难犯。吾不复见之矣。及景自称大丞相而徴求无已。帝愤之。遂寝疾。然斋戒不衰。日夕念佛不绝于口。独皇子侍侧。五月丙辰大测。不能进膳。久而口苦。索蜜未至。而举手曰荷荷。遂崩于净居殿。年八十有六。帝日角龙颜舌文八字。项有浮光身映日无影。右手文成武字。幼尝蹈空而行。所居之室常若云气。人或遇者体辄肃栗。前后受命符端凡六十余事。及即位太极殿常有六龙。各守一柱。其神奇异瑞自书契以来人君皆所未有。幼而好学。六艺备闲棋登逸品。至于阴阳纬候卜筮占决草隶尺牍骑射。并洞精微。虽登大位万机多务。犹手不释卷。然烛测光常至戊夜。撰通史六百卷金海三十卷五经义注讲疏等合二百余卷。赞序诏诰铭诔箴颂笺奏诸文凡一百二十卷。晚奉佛道日止一食。膳无鲜腴唯豆羹粝饭而已。或遇事拥不暇就食日才过中。便嗽口而坐。制涅槃大品净名三惠诸经义记数百卷。听览余暇即于重云殿同泰寺讲说。名僧硕学四部听众常万余。衣布衣木绵皂帐。一冠三载一被二年。自五十外便断房室不饮酒不取音乐。非宗庙祭祀大会飨宴及诸法事。未尝举乐。勤于政事。每冬月四更竟即敕把烛看事。执笔触寒手为皴裂。然仁爱不断。亲亲及所近幸愆犯多纵舍。坐是政刑珥紊。每决死罪常矜哀流涕然后可奏。性方正为居小殿暗室常理衣冠小坐。暑月未尝褰袒。虽见内竖小臣如遇严宾焉。谥曰武皇帝。庙号高祖(出南史)。

  (三十二) 史官魏徴曰。高祖固天攸纵聪明稽古。道亚生知学为博物。允文允武多艺多才。爰自诸生不羁之度。属昏凶肆虐天伦及祸。纠合义旅将雪家冤。曰纣可伐。不期而会。龙跃樊汉电击湘郢。剪离德如振槁。取独夫如拾遗。其雄才大略固不可得而称矣。既悬白旗之首。方应皇天之眷。而布泽施仁悦近来远。开荡荡之王道。革靡靡之商俗。大修文学盛饰礼容。鼓扇玄风阐扬儒业。介胃仁义折冲樽俎。声振寰区泽周遐裔。干戈载戢凡数十年。济济焉洋洋焉。魏晋以来未有若斯之盛也。然不能息末敦本斫雕为朴。慕名好事崇尚浮华。抑扬孔墨流连释老。或终夜不寐。或日旰不食。非弘道以利物。唯饰智以惊愚。且心未遗荣。虚厕苍头之位。高谈脱屣。终恋黄屋之尊。夫人之大欲在乎饮食男女。至于轩冕殿堂。非有切身之慈。高祖屏除嗜欲眷恋轩冕。得其所难而滞其所易。可谓神有所不达。智有所不通矣。

  论曰。魏郑公论梁武帝。可谓天下仁人之言也。而新唐史萧瑀传赞。亦曰。梁萧氏兴江左。实有功在民。厥终无大恶。以浸微而已。故余祉及其后裔。以此验郑公之论。益可详矣。然韩退之尝曰。梁武饿死台城。盖谓其屏嗜欲绝午后食至临终斋戒不衰。在恣情丰美享用者视之。近乎饿死耳。犹孔子称伯夷叔齐饿死首阳。其微意乃所以成其美焉。岂谓不得食而饿死哉。凡谓得失成败。如魏郑公之言。乃春秋责备贤者之旨。得不为万世之公道哉。

  (三十二 庚午) 简文纲改大安(字世赞。小字六通。武帝第三子。侯景破台城立帝。大安二年景又废之)。

  右东魏十六年(而高洋篡之)。

  北齐(姓高氏五主都于邺)雷氏曰(神武文襄文宣孝昭武成后主。北齐五帝。二十九年)。

  高祖神武帝欢(字贺六。浑渤海蓨人。崩于晋阳。葬漳水矣)。

  文襄帝澄(字子惠。高祖长子。为梁将所害。寿二十九岁也)。

  文宣帝洋(字子进。高祖次子。承父相位。朝臣使受禅。使中张亮谓孝静曰。五行递运有始有终。愿陛下远法尧舜。孝静敛容避逊而出。齐王洋入即位。降封孝静为中山王。洋恶过桀纣。复鸩静帝在位十年。改元天保。寿三十一)。

  (三十四) 沙门慧文禅师。当齐高之世独步河淮。法门非世所知。履地戴天莫知高厚。阅中论发明。论是龙树所说。故遥禀焉。是为台宗二祖北齐尊者(九祖传)。

  (辛未) 侯景(怀朔镇人。初仕高欢为将。拥兵十万专制河南十三州。欢死降梁祖。后反改梁祖立简。是年弑简自立称汉。改年太始。登太极殿御床脚陷。借立百日。陈霸先杀之)。

  (三十五 壬申) 元帝绎改承圣(字世诚。小字七符。武帝第七子。初父梦僧眇一目执香炉云。托生王宫。已而母梦月坠怀中。后生帝也。首封湘东王。统义兵于江陵。既台城失守。即位于江陵。复命陈霸先王僧辨破侯景。又为诗四绝。西魏进士襄弑之。寿四十七。在位三年)。

  西魏废帝钦(受帝太子。字文泰立之。虽在位而制由泰。帝不胜愤。欲除之。泰觉遂废帝立恭帝即位。二年不改号)。

  (三十六) 世尊示灭一千五百年矣。

  承圣元年。三藏真谛将归天竺。至广州。刺史欧阳颜延之。制止寺沙门东恺等请译起信俱舍等论。谛有气宇风神爽迈。颜之子纥居别墅。在河渚间。谛每访纥。以坐具敷水面跏趺其上飘然往还。坐具略不沾润。或不敷具。即折荷叶而济。时好事多图画而奉祀之。

  (三十七) 荆山居士陆法和。少隐江陵清溪山。服勤沙门执弟子礼。及长出游。语音巴楚。容色异常。以操行绝等为梁湘东王所重。即以间散甚为诸公钦敬。初侯景始降。法和知其必叛。以语朱元英。元英不了其意。未久景围京城。元英求策。和曰。取果宜待熟。景遣将任约击湘东王。法和就乞军御之。对垒赤沙湖。贼因风纵火烧庐。法和以白羽挥风。风即返。约军大溃。士卒求约不获。法和曰。洲际有水刹。约在其下也。可往擒之。果得约。抱刹仰头出鼻。法和舍之。谓王曰。他日当得力。约后果立效。法和所至江湖必立放生池。切戒杀生。湘东王即位。是为元帝。以法和为郢州刺史。始法和欲大举定魏。帝不许。法和笑曰。吾尝不希释梵天王坐处。岂窥人王位耶。但于空王佛所与王有因缘。如不能用则奈业何。帝败归齐。齐宣帝喜其来。封太尉赐甲第。法和乞为佛寺。身居偏室。日手持香炉行道体佛烧香凝坐预期死日。时至坐去。尸缩三尺许。题壁曰。十年天子为尚可。百日天子急如火。周年天子递代坐。又曰二母生三天。两天共五年。指娄太后也。人惧涂削之。终不能去。其神异如此。

  (三十八) 承圣二年。北齐高帝。诏僧稠禅师。稠将启行。而峰峦振响飞走悲鸣。如是者三日而止。稠至京师降跸迎候。命入宫授菩萨戒。尽停五坊鹰犬及伤生之具。禁境内屠杀。稠留禁中四十日。出居外寺。寻有旨罢讲席。俾沙门尽习禅观。稠入谏帝。以为弘通教理渐诱童蒙正赖讲授。愿勿禁也。从之。及宣帝即位。尝谒稠。稠床坐不迎。其徒有劝迎者。稠曰。昔宾头卢尊者迎阿育王起行七步。致王失国七年。贫道虽寡德。冀帝获福耳。俄以此被谮。帝衔之。将复入寺按其不敬诛之。稠已知之。及帝入寺预出十里许候之。帝怪问。稠曰。恐身血污伽蓝。故远来就刃耳。帝惧然悔谢。谓其臣杨遵曰。朕不明几妄黩圣师。即奉之如故。因从容启帝曰。陛下前身罗刹也。今好杀盖余习耳。帝问。何以知之。稠请以盆贮水自咒之命帝临观。果自形正罗刹之状。仍有群罗刹随之。帝大惊。自是绝荤终日坐禅礼佛行道如旋风焉。

  (三十九 甲戌) 敬帝方智(字惠相。小字法真。元第九子。元被西魏破江陵杀之。陈霸先杀王僧辨而立帝即位。以霸先为相。进封陈王。明年受禅。帝十六岁终。在位二年)。

  西魏恭帝廓(文帝第四子。字文泰以柳刺之言。废钦立帝。泰卒其子。觉袭相位进封周公。时年十有五岁。其叔宇文护逼帝禅位于觉。封帝为宋公。帝在政三年)。

  (乙亥) 改绍泰。

  后梁(姓萧氏都江陵)雷氏曰(宣察岿琮西魏附庸。后梁三主三十四终)。

  宣帝察(字理孙。兰陵人。武帝孙。昭明太子统第二子也。字文泰立之于江陵。在位八年。改元大定。寿四十四矣)。

  (四十) 北齐敕二教角试。天保六年九月。下诏。敕诸沙门与道士达者十人亲自对校。于时金陵道士陆修静等初为梁武所弃。遂奔入魏。至是颇盛。而齐文帝复事佛。静等忌之。诣阙请与释子角法。有旨令上统法师克日较胜负。至期大集公卿。修静等以术咒僧衣钵及宫殿梁柱。皆举震动。诸僧相顾缺然无对。于是万众諠哗得以道流为胜。修静等雀跃鱼视高自矜夸。以己为神仙辈也。又言。沙门现一我即现二。今以小术诱之耳。帝顾谓上统曰。佛门岂无人哉。统曰。方术小技儒俗鄙之。况出家人也。既承天命令拒。可令最下座僧对之。于时有法师昙显。不知何许人。居下位被酒昂兀而坐。统令二人扶上高座。登而笑曰。向咒衣柱而飞动者。我故开门试卿术耳。令取稠禅师衣钵置地使咒之。静徒并力作法。逾时不能动。帝敕取衣一加十辈并不能举。显即自取置诸梁上使咒梁柱。亦不能动。显又曰。我先醉耳有所闻云。沙门现一我当现二。果尔否。静曰然。显乃翘一足曰。我正现一。请卿现二。静徒默无所为。相顾惭缩失色。独修静更欲以颊舌胜之。即曰。尔佛自言为内。内即小也。以道家为外。外即大也。显应声曰。然则天子居九重之内。亦应小于百官耶。静气咽无对。群臣皆呼万岁。忻跃而罢。显风度弘旷趣向叵测。后不知终。帝亲鉴臧否于十月乙卯朔日也。是月丙辰文帝诏曰。法门不二真法在一。求之正路寂泊为本。祭酒道者中世假妄。俗人未悟乃有祗崇。麹[麦*薛]是味丧昧虚宗。既乖仁祀之源。复违祭典之式。宜从禁止。无或遵风应。道士自谓得神仙者可上三爵台飞腾远举。不能尔者并宜改迷归正。诣昭玄上统剃度出家。繇是齐境道流遂绝矣。

  (四十一) 杜弼字辅言。中山曲阳人。年十三进士。甄琛问策。下笔如流。王澄见所答。叹曰。王佐才也。仕高欢甚见敬。使魏帝知弼深于佛理。问经中佛性法性何异。弼曰。正是一理。帝曰。说者言法性宽佛性狭如何。弼曰。在宽成宽在狭成狭。若论性体非宽非狭。帝曰。既言成宽成狭。何得非狭非宽。弼曰。若定是宽则不能成狭。若定是狭亦不能为宽。以非宽非狭故能宽能狭。所成虽异能成常一。帝曰善。奉使称旨既还。文襄问政要。弼曰。天下大务莫过刑赏二端。赏一人而天下喜。罚一人而天下服。二事得中自然尽善。文襄悦曰。言虽不多于理甚要。

  (丙子) 改太平○右西魏二十五年(而禅于宇文周)。

  后齐。

  (四十二) 叙曰。元魏将季其祚分崩。肃宗孝明帝崇尚佛法。胡太后亲临国政。一纪之内天下晏然。及帝崩太后死。高欢诛贼尔朱荣于邺烧洛阳宫室。奉清河郡王立于邺。凡一十七载扶翼魏朝。至太清三年武帝崩。欢亦先殒。世子澄袭相王位。未几而殂。魏静帝乃逊位于高洋。即欢之第三子也。世族武川。仍都邺下。神用卓诡智愚混兼。十余年间教法中兴。僧至二百余万。寺院凡四万余所。六主相承二十有八年。为周所灭。齐书。著作王劭述佛曰。释氏非管窥所及。率尔妄言之。又引列御寇书。述商太宰问孔子圣人事。又黄帝游华胥氏之国。华胥氏之国在佛游神而已。此之所言仿佛于佛。石符姚世经译遂广。盖欲柔伏人心。故多寓言以方便。不知是何神异。浩荡之甚乎。其说人身心善恶世事因缘。以慈悲喜舍常乐我净。书辨至精明如日月。非正觉孰能证之。凡在顺首莫不归念。达人则谨其身口修其定慧。平等解脱究竟菩提。及僻者为之。不能通理。徒务费竭财力功利烦浊。犹六经皆有所失。未之深也已矣。

  (丁丑) 右梁五十七年(而禅于陈)。

  后周(宇文氏。王木德。共五主都长安)雷氏曰(太祖闵明武宣静帝后周五主二十五年)。

  (四十三) 叙曰。周之艺祖宇文觉者。即魏大丞相泰之世子也。泰举高阳王为帝。迁都长安号西魏。凡一十八年。废帝更立齐王为帝。四年而泰薨。觉承魏禅当年被废。立弟毓为帝。四年而殂。乃立弟邕。邕即周武帝也。阅十余年至建德初。惑于道士张宾等妖言。恶黑衣之谶除废释氏。毁寺院四万余所。僧三百万悉令还俗。洎灭齐未几改元宣政。五月而殂。太子赟立。自称天元皇帝。大象二年五月崩。太子衍立。明年二月禅位于隋。周五主凡二十五年国除。初宇文泰及大蒙宰字文护。并崇重佛法。与西域三藏十余人宣译经论天文等。凡百余卷云。

  周太祖文皇帝(小字黑獭。郡代武川人。其先出于炎帝之后。炎为黄帝?。子孙遁居朔野。有裔孙普回。狩得玉玺三细。文曰。皇帝玺。回以为天授。俗谓天文曰宇。乃遂以国号宇文并以为姓。后废齐即位焉)。

  孝闵帝觉(小字陀罗尼。文帝第二子。泰卒帝受魏恭帝禅。不改年号。王木德。在位二年)。

  佛祖历代通载卷第九

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第十

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  (一) 陈(都建康) 雷氏曰(陈高霸先文废宣后合为五主三十三年)。

  (丁丑) 高祖武皇帝(姓陈。讳霸先。字兴国。小字法生。吴兴长成下里人。受梁敬帝逊禅即位。年五十七。崩于璇玑殿。在位三年)。

  改元永定○周闵帝(字文觉。从兄护杀之而立毓)。

  叙曰。有梁祚微祸难自作。东魏贼侯景因隙来奔。高祖建义内之。封为河南王。乘宠作乱遂陷台城。先是梁湘东王出镇荆陕。使王僧辨陈霸先等平金陵。未几湘东王为西魏所灭。侯景既诛。僧辨仍为霸先所杀。太平元年梁敬帝逊位。霸先即帝位于金陵。以姓为国。盖吴兴长城下里人也。世本甚微。自云。汉太丘长陈寔之裔。身长九尺二寸。须长三尺。垂手过膝。神明高敬有大志略。众所推重。既临大宝复梁旧政崇重释氏。金陵旧来七百余寺侯景焚荡几尽。陈高祖悉皆修复。翻经讲道不替前朝。自创国至祯明三年。凡五主三十三年国入于隋。其二十四年与周同政。九载与隋同政。时天竺优禅尼国三藏法师拘那陀罗。陈言真谛。十四年间随处译经论疏传等四十八部。凡二百三十二卷云。

  真观法师释门龙象也。时徐仆射领军御世。欲僧兵之。师驰书勉止。其言伤怛足以发回向之心。又着无性因缘论。

  周明帝(毓小字统万。宇文之长子每在位四年。改元武定)。

  (庚辰) 文帝篟改天嘉(字子华。高祖兄昭烈王兴之长子。高祖与兄同经营帝业故遗诏立之。天康乙酉崩于有觉殿。在位七年)。

  周(明帝中从兄护毒死而立弟邕)。

  (二) 沙门稠禅师乃魏跋陀三藏之资也。受具往嵩山少林。又抵覃怀王屋之柏岩寺。解二虎斗。由是举世知名。齐乾明元年示寂于龙山云门寺。

  齐孝昭帝演改皇建(字延安。神武第六子。聪敏仁孝勤于政治。一年因捕兔。惊马坠地而崩。寿五十七。葬静陵)。

  周武帝邕改保定(小字弥罗。宇文之第四子。登位唯布衣帔。无金宝饰。禁断华绮。土阶听政。不施栌栱。后宫嫔御不过十人。在位十八年。寿三十六。崩于辇舆。葬孝陵)。

  (三) 法师洪偃。雅为文帝所重。及齐使崔武子有专对才。朝廷惮之。帝以偃才学两优命馆伴武子。武子加叹而归。由是朝仪欲夺其志敛以冠巾。偃闻命即绝食以死自誓。帝以其确诚从之。时称偃四绝。谓姿容德行文章草隶。临终谓其徒曰。世人为贪心之所暗。贪己则惜落一毫。贪他则永无厌足。至于身死之后。高其坟重其椁。必谓九泉之下还结四邻一何可叹。今瞑目之后。以脯腊鄙形布施飞走。及卒弟子如其诫。有文集二十卷。诏藏秘阁。

  (四) 法师宝琼。陈宣帝命为僧统。绥御有法四众安之。屡入重云殿讲道。帝尊之为师。初梁魏间僧统盛饰杖直僭拟官府。至琼奏罢之。每出从数头陀杖笠而已。于时海东有十二国。闻琼道德不可见。遣使奉金帛求琼画像。其为天下敬慕如此。及卒。法师昙衍继为僧统。亦有重名。衍初生下四十齿已具举世异之。

  (壬午) 后梁世宗岿改天保(字仁远。?第三子。在位二十三年)。

  齐武成湛改太宁(神武第九子。淫乱无度。信用嬖宠。传位太子。在位四年。寿三十二崩)又改河清。

  (癸未) 周(保定三年有牛生足于背上。出北史)。

  (乙酉) 齐后主纬(字仁纲。武帝长子。昏乱暴虐。杀于崔季等忠臣。在位十三年。改天统)旃檀瑞像至此三百六十七年在淮南。

  (五) 是年卫元嵩上疏减僧。初周武崇佛氏。天保六年嵩上十一条省寺减僧。云僧多怠惰贪财冒利不足钦尚。召百僧入内道场。七日伺过不得。无何乃止。嵩后感恶疾而卒。世尊曰。狮子身中虫。嵩何不当之矣。

  (丙戌) 改天康○周(改天和用天和历)。

  (六 丁亥) 废帝伯宗改光太(十九岁而卒在位二年)。

  大教东被五百年矣。

  (七) 台宗三祖惠思禅师。姓李氏。武津人也。少以宽慈顶生肉髻耳有重轮。象视牛行与世自异。梦梵僧勉令出俗。辞亲入道。及禀具戒日唯一食不受别施。闻北齐惠文聚徒众法清净。乃往归依。从受正法性乐苦节。营僧为业。于三七日中得宿命智。而习漏未尽。后于定中放身倚壁。未至间霍尔开悟法华三昧。大乘法门一念明达。十六特胜背舍徐入。便自通彻不由他悟。示众曰。道源不远性海非遥。但向己求莫从他觅。觅亦不得得亦非真。侯在大苏弊于烽警。山侣不遑安处。将四十余僧径趣南岳。时陈光大二年六月二十三日也。至即告曰。吾至此满十年耳。先是梁僧惠海居衡岳寺。及见师欣然让之。时称思大和上。或问。何不下山教化众生。思答曰。三世诸佛被我一口吞尽。有何众生可化。尝不豫。因念曰。病由业生业由心起。心缘不起外境何状。业病与身都是云影。作是观已身遂轻安。陈高祖徴至都。安置栖玄寺。甚蒙咨揖。久之辞还南岳。师曰。寄迹兹山止十年耳。期满当移。时众不识其旨。及还大集门学连日说法。苦切呵责。闻者寒心。陈大建九年丁酉六月二十二日。咸闻异香。师更摄心谛坐。至尽顶暖身软颜色如生。春秋六十有四。师奉菩萨三聚净戒。至如缯纩皮革。多由损生故。其服章率皆以布。寒则艾衲用犯风霜。至于所被法衣都无蚕服。纵皆受法不云得成。若乞若得蚕绵作衣。准津结科斩舍定矣。约情贪附何由纵之。唯南岳独断高遵圣检也。今之列其派者。华裾茜服恣尚鲜丽。得无恧乎。

  (八 己丑) 宣帝顼改大建(字绍世。小字师利。昭烈王兴次子。文之弟也。身长八尺三寸。大有勇力善骑射。生五十一子。年五十三岁崩宣福殿。在位一十四年)。

  (九) 周武天和四年。帝命名儒僧道伸述三教利病。沙门道安作二教论二十篇。以儒道九流为外教。释氏为内教。意谓上古朴素坟典之诰未弘。淳风日浇丘索之文乃着。苞纶七典统括九流。咸为治国之谋。并是修身之具。若派而分之。数应为九。若总而合之。则同属儒宗。今乃一化之内令九流争川。大道之世使小成竞辨。岂不上伤皇极莫大之风。下开拘放鄙荡之弊哉。及阐译内兴奏之于朝。久而无报。安勤于奉母。凡薪水饮食皆自力营进。其徒有代之者。安曰。吾母也。岂可劳人哉。及周武废教。以安宿望欲官之。安以死拒绝。寻以大教堙厄号恸而卒。

  (十) 周武天和四年。谣言黑衣。武以猜为心。有道士张宾之等。谲诈罔上私构其党。以黑释为国忌。以黄老为国祥。帝纳其言信道轻释。亲受符录。躬服衣冠。是年己丑三月十五日。召三教名士文武百官二千余人。帝御正殿量述三教。以道最先出于无名之前超乎天地之表。议者纷纭弗定。至二十日。依前集论是非更广。帝曰。儒道二教此国常遵。佛教后来。朕意不立佥议陈理无由除削。至四月初。更依前集。虽极言陈无得面从也。又各理伸弗克定矣。遂敕司隶大夫甄鸾详审二教。至于天和五年。鸾详二教上笑道论三卷。其表略曰。

  (十一) 切以佛道二教事迹不同。出没隐显变通亦异。幽微妙密未易详度。且一件相对。佛者以因缘为宗。道者以自然为义。自然者无为而成。因缘者积行乃证。春秋传曰。君所谓可而有否焉。臣献其可以去其否。臣亦何人。奉敕降问。敢不实答。其道德二篇可为儒林之宗。疑纰缪者去其两端。请量删定。按五千文曰。上士闻道勤而行之。中士闻道若存若亡。下士闻道则大笑之。不笑不名为道。臣诹率下士见为笑道论三卷。合三十六条。三卷者笑其三洞之名。三十六条者笑其道经有三十六部。战汗上呈心魂失守(出弘明集)。

  周武至五月十日。大集群臣。详鸾上论。以为伤蠹道法不惬本图。火焚而已。论具如弘明集。周大夫甄鸾者寔高识君子也。弗知惧大敌而勇于小敌者焉。王令详定二教优劣。直以正见剖析。无使遍意在怀。而着此论褒贬臧否。诗曰。岂弟君子求福不回。其此之谓夫。伤哉火矣。

  (十二) 又上道安所著二教论二十篇。帝详审诸以问朝宰。无有抗者。遂寝其事。其论略曰。炼心之术名三乘。内教也。救形之术名九流。外教也。道无别教即在儒流。汉书艺文志曰。儒家者流盖出于司徒之官。助人君顺阴阳。明教化者也。游文于六经之中。留意于五德之际。祖述尧舜宪章文武。宗师仲尼。其道最高也。道家者流盖出史官。清虚以自守。卑弱以自持。此君人者面南之术。合于尧之克让易之谦谦。是其所长也。阴阳家者流盖出于羲和之官。敬顺昊天历象日月敬授民时。此其所长也。法家者流盖出理官。信当辟罚以辅礼制。易曰。先王以明罚劝政。此其所长也。名家者流盖出于礼官。古者名位不同礼亦数异。孔子曰。必也正名乎。名不正则言不顺。言不顺则事不成。此其所长也。墨家者流盖出清庙之官。茅屋采椽。是以贵俭。养三老五更。是以墨兼爱。选士大射。是以上贤。宗祀严父。是以有鬼。此其所长也。纵横家者流盖出于行人之官。孔子曰。诵诗三百。使于四方不能专对。虽多亦奚以为。又使乎使乎。言其当权受制宜受命而不受词。此其所长也。杂家者流盖出于议官。兼儒墨含名法。知国体之有此。见王制无不贯之。此其所长也。农家者流盖出于农稷之官。播五谷劝耕桑以足衣食。故八政曰。一曰食。二曰货。此其所长也。若派而别之则应有九。若总而合之则同属儒宗。其论文之作内外该括。文词峭拔义理淳简。诚可敬也。

  (庚寅) 齐改武平。

  (壬辰) 周改建德。

  (甲午) 周废释。建德三年五月十七日。周武终成妒忌信张宾之议。欲偏废释教。因大集百僚命沙门与道士辩优劣。预令张宾之饰诡辞以挫释子。冀即其义负而挤之。于时法师知炫对帝抗酬。辞吐精壮。帝意宾不能制。即逞天威垂难辞。左右叱炫听制旨。炫安详应对。陈义益高。陪位大臣莫不动容钦叹。帝不能屈。明日诏下。遂兼道教罢之。

  (丙申) 齐改隆化(周兵陷并州。上走邺。传位太子恒)。

  (子酉) 周伐齐至邺。齐王纬走获之封为温国公幼主恒改承化(与后主俱走青州。周兵执之。国已)。

  右高齐五主二十八年宇文周并之。

  (十三 戊戌) 周武承光二年。灭北齐据邺都。用韦孝宽杨坚等眷东平高氏。召前修大德并赴殿下。帝登座序废立义。其略曰。六经儒教礼义忠孝。于世有宜。故须存立。且真佛无相遥敬表心。佛经广叹崇建浮图徒废民财。凡是经像皆毁灭之。一切僧尼并令还俗。朕意如此。诸大德谓理何如。于时沙门大统五百余人。咸以王威震赫决谏难从。关内已除。义非孤立。众各默然。下敕催答。并相顾无色。俯首垂泪。于时有沙门惠远者。姓王氏。乃昙始和上之门资也。声名光价。乃自惟曰。佛法之寄四众是依。岂以杜言谓能通理。遂排众出对曰。陛下统临大域得一居尊。随俗致词宪章三教。诏云。真佛无相诚如天旨。但耳目生灵赖闻经佛藉像表真。今若废之无以兴敬。帝曰。虚空真佛咸自知之。何假经像。远曰。汉明已前经像未至此土。含生何故不知虚空是佛。帝时无答。远曰。若不藉经教自知有法者。三皇以前未有文字。人应自知有五常等法。当时诸人何故但识其母不识其父同于禽兽。帝又无语。远曰。若以形像无情事之无福故须废者。则国家七庙岂是有情而妄相尊事。帝又不答。乃曰。佛经外国之法。此国不须。国家七庙上代所立。朕亦不以为是。将同废之。远曰。若以外国之经非此用者。仲尼所说出自鲁国。秦晋之地亦应废而不行。又以七庙为非将亦废者。则是不尊祖考。祖考不尊则昭穆失序。昭穆失序则五经无用。前存儒教其义安立。若是则三教同废。将何治国。帝曰。鲁邦之与秦晋封域乃殊。莫非王者一化。故不类佛经。七庙之难帝无以通。远曰。若以秦鲁同遵一化经义通行者。其震旦之与天竺国界虽殊。莫不同在阎浮四海之内轮王一化。何不遵佛经而令独废。帝又无答。远曰。退僧还家崇孝养者。孔经亦云。立身行道以显父母。即是孝行。何必还家。帝曰。父母恩重交资色养。弃亲向疏未成至孝。远曰。若如是者陛下左右皆有二亲。何不放之乃使长假五年不见父母。帝曰。朕亦依番上下得归侍奉。远曰。佛亦听僧。冬夏随缘修道。春秋归家侍养。故目连乞食饷母。如来檐棺临葬。此理大通未可独废。帝又无答。远抗声曰。陛下今恃王力自在废灭佛法。是邪见人。阿鼻地狱下拣贵贱。陛下何得不怖。帝悖然作色大怒。直视于远曰。但令百姓得乐。朕亦不辞地狱诸苦。远曰。陛下以邪法化人现种苦业。当共陛下同趣阿鼻。何处有乐可得。帝屈无对。所图意盛更无所答。但云。僧等且还。有司录取论僧姓字。帝已行虐。师知时不济。隐居楚泽青莲山养道。造涅槃等疏。有掷笔凌空之验。武既怒佛道二宗俱被废灭。东川寺观凡四万余区。并赐王公。僧道三百万人悉充军民。财产并收入官。帝以为得志焉。伤哉。

  (十四) 法师静蔼者。闻诏下慨然曰。食周之粟而忘其事。谓之忠乎。即诣阙奉表求见。武帝许之。及引对极陈毁教祸福报应之事。指证明白。帝为改容。顾业已成。既行之诏不可返。因谢遣之。蔼退而泣曰。大教厄塞。吾何忍见之。遂遁入终南山。帝寻欲官之遣卫士求蔼。蔼闻徙入太一曰。卫士不获而返。蔼以法灭号泣七日夜声不绝。撰三宝录二十卷。假设主宾抑扬飞伏。广罗文义弘赞大乘。并录见闻事实藏诸岩洞。庶后代之再兴耳。寻告弟子曰。吾生无补于世。将事舍身。众号泣不许。因令侍者出山。蔼沥血书偈一篇。遂坐磐石留一内衣自条其肉布于石上。引肠胃挂于松枝。五脏皆外见。余筋肉手足头面呙拆都尽。以刀割心捧之而卒。侍者归山。犹见捧心而坐。余骸并无遗血。但见白乳傍流凝于石次。闻者靡不流涕。时年四十有五云。

  (丁酉) 周武承光三年。既克齐改元宣政。帝疠疾稍作。五月一日归长安延寿殿。疠甚。二十四日迁云阳宫。六月一日。殂子赟立于同州○唐吏部尚书唐临冥报记云。自言外祖为隋仆射封齐公。亲见文帝。问死还活者。初死见周武帝云。为我上闻大隋天子。昔日与我共食仓库。玉帛亦我储之。我今为灭佛法受大极苦愿帝为我助作功德也。帝以库藏不敢私费。乃化天下人各一钱。为追福忏罪也。

  (戊戌) 周宣帝赟(字干伯。武长子。即位未及年禅位太子。自称天元皇帝。骄佚淫湎。改元大成。又改大象。年三十二崩葬定陵。在位一年)。

  (十五) 释任道琳者。以学业淹博得近周武。议论二十余日。酬酢七十番。周武穷极精思不能屈。尝许以复教。会其崩不果。至是道琳伸请尤力。帝从之。

  (己亥) 周宣帝二月二十六日。诏曰。佛法弘大前古共崇。讵宜沉隐舍而不行。自今应王公下逮黎庶并宜修事。知朕意焉○四月二十六日。复诏曰。教义幽深神奇弘大。虽以广开化仪通其修事。而崇奉之徒勿须剪发以乖大道。宜视菩萨仪范权服冠缨。所司条为仪注。于是琳等妙选旧沙门懿行贞粹声望卓异者百二十人。入陟岵寺。仍旧住持。

  (庚子) 周静帝衍更名阐(宣之长子大象即位。隋公杨坚修政。十二月封为隋国公。罢入市税钱。复佛道二教。大定元年。孙位于隋。居于别宫。隋氏奉帝为介国公。服饰礼乐一如周制。上书不称表答不称诏。隋开皇元年五月帝年十九而崩葬之恭陵。在位一年○五月天元殂以天元皇后之父杨坚辅政。袭封隋国公也)。

  (辛丑) 周改大定(正月改元二月禅于隋)。

  右宇文周(五主共二十五年)。

  (十六) 隋高祖文皇帝名坚(小字那罗延。本弘农华阴人也。其先汉太尉杨震之后八世孙[筑/心]仕燕。北平太守元寿仕魏。武川司马惠[嘏-(巨-匚)+几]太原太守烈平原太守定远真隋国公忠生帝坚。相周封隋王。大定元年受周禅。八年废梁。九年平陈。天下一统克俭为良主。都于龙首山。故长安也。仁寿四年太子广弑之。寿六十四。葬之太陵。在位二十三年)。

  改年开皇。

  (壬寅) 上殂太子立○设无碍会舍身。

  (癸卯) 后主叔宝改元至德(字元秀。小字黄奴。宣之长子。即位荒淫酒色。祸乱非常。后与张丽华孔贵嫔逃入宫井。隋文废为长城公。至仁寿四年癸亥十一月壬子。终于洛阳。寿五十二岁。在位六年)。

  (甲辰) 隋初行甲子历。

  (丙午) 后梁琮(字温文。岿太子。宽仁大度。博学善射。即位改元广运。后其叔安平王嵓拥江陵。仕庶奔陈。琮时朝隋。隋乃废琮为莒国公。在位二年而梁绝矣)。

  (丁未) 改祯明。

  (己酉) 右陈五主三十三年(而隋并之)后梁三主三十四年(而隋并之)。

  (庚戌) 隋文帝开皇十年。

  (十七) 序曰。天命有隋膺斯五运。帝君荣祐宅此九州。所以诞育之初神光洞发。君临已后灵瑞竞臻。故使天兆龟文水浮五色。地开泉醴山响万年。云庆露甘珠明石变。聋闻瞽视哑语躄行。禽兽见非常之祥。草木呈难纪之瑞。是知昔闻七宝匪局金轮。今则神异四时遍知玉烛。往以赤若之岁黄屋驭宸。土制水行。兴废毁之佛日。火乘木运。启嘉号于开皇。高祖以周靖帝大定二年。黄龙降于旧第。卿云见于城闉。二月十三日。周以帝祚归禅在隋。景命既临服黄簪皂。废(周六)官依汉三省。佛日还曜法水潜通。其冬有周沙门赍西域梵经二百余部膺期而至。下敕所司访人翻译。开皇二年仲春之月便就宣传。季夏诏。以龙首之山川原秀丽卉木滋阜宜建都邑。凡城殿门县园寺。皆以大兴为额。三宝慈化自此而兴。万国仁风缘兹远大。伽蓝郁峙法宇交临。开士肩联信心踵接。及仁寿启号宝塔是兴。百有余州皆陈瑞应。于斯时也。四海静浪九州无尘。大度僧尼将三十万。崇缉寺宇向有五千。翻译道俗二十四人。所出经论垂五百卷。及炀帝嗣箓卜宅东都。仍于洛滨上林园置翻经馆。四事供养无乏于时。今叙一朝两代三十七年祖师顾儒高僧法匠十有五人。显大隋我教之隆盛焉。

  (十八 辛亥) 法师昙延。姿度环异身长九尺六寸。垂手过膝目光外射。才望与惠远相捋。述诸经义疏。议者谓标举纲目远不逮延。文句惬当延不逮远。齐太祖从之问道给月俸。会周使周弘正来聘。大臣举延接伴。弘正恃才气出人上。见延悠然意消。及还求延画像并所著疏论而归。帝益重之。进位昭玄上统。周武废教。延遁入太行山。及隋受禅。即日削发。以沙门谒见。文帝大悦下书复教。久之岁旱。有旨命延率众祈雨。雨不降。帝问故。对曰。事由一二。帝遣京尹苏成问一二之意。延曰。陛下躬万机之政。群臣致股肱之力。虽通治体然俱愆玄化。欲雨不雨。事由一二也。帝识其意。敕有司择日于正殿设仪。命延授以八戒。群臣以次受讫。方炎威如焚而大雨沛然倾注。帝悦。自是延每入朝。必亲手奉御馔供之。临终以表辞帝托以外护。帝哭之哀甚。葬日百僚缟素送之。内史薛道衡文祭。略曰。往逢道丧玄纲落纽。栖心幽岩确乎不拔。高位厚禄不能回其虑。严威峻法不足惧其心。经行宴坐夷险莫二。戒德威仪始终如一。圣皇启运像法再兴。卓尔缁衣郁为称首。屈宸极之重。申师资之义。三宝由之弘护。二谛藉以宣扬。信足以追踪澄什超迈安远矣。

  (十九 壬子) 释尼智仙者。河东蒲坂刘氏女也。少出家有戒行。长通禅观。时言吉凶成败。事莫不奇验。居般若寺。会文帝生于寺。方季夏盛暑。乳母遽扇之。帝寒甚。几绝不能啼。左右大惊。尼就视之曰。儿天佛所祐。宜勿忧也。即举之呼曰。那罗延。因以为小字抱诣太祖。语曰。儿来处绝伦。俗家秽杂不宜留。请为养之。太祖遂割宅为小门通寺以鬼委仙视育。后皇妣来抱。忽见儿为龙惊堕于地。仙失声曰。奚为触损我儿。令晚得天下。及帝稍长。仙密告之曰。汝后大贵。当自东方来。佛法时灭赖汝而兴。及周武废教仙隐其家。内着法衣戒行弥笃。至是帝果自山东来入为天子。大兴释氏。仙前此而卒。帝对群臣称阿阇黎以为口实。又云。朕兴由佛法。而好食麻豆。前身定从道人中来。少时在寺长育。至今乐闻钟磬之声。

  (二十) 是年关辅旱。帝引民就食洛州。先是律师灵藏者。帝为布衣交。至是命藏陪驾。既而趣向藏者极盛。帝闻之手敕曰。弟子是俗人天子。律师是道人天子。有乐离俗者任师度之。藏由是度人前后数万。间有谮之者。帝曰。律师化人为善。弟子禁人为恶。言虽有异意则无殊。

  (二十一) 是年李士谦卒。士谦字约。少丧父。事母以孝闻。其族长伯玚每叹曰。此子吾家颜子也。善天文术数。自以少孤未尝饮酒食肉。如此积三十年。雅好举止约以戒定。有谓其修阴德。士谦笑曰。夫阴德其犹耳鸣。唯己知之。人无得而知者。今吾所作仁者皆知。何阴德之有。最善玄言。客有疑佛报应之说。士谦喻之曰。积善余庆积恶余殃。岂非休咎之徴耶。佛曰。轮转五道无复穷已。而贾谊亦云。千变万化未始有极。至若鲧为黄熊。杜宇为鶗鴂。褒君为龙牛哀为虎。君子为鹄。小人为猿。彭生为豕。如意为犬。黄母为鼋。宣武为鳖。邓艾为牛。徐伯为鱼。羊祜前身李氏子。此皆佛家变异形报之验。客人曰。邢子才云。世有松柏化为樗栎。仆以为然。士谦曰。此不类之谈也。变化皆由心业。岂关木乎。又问三教优劣。士谦曰。佛日也。道月也。儒五星也。客不能难而去。

  论曰。北史史官蒋沈等。记李君之事。详悉如此。岂非心怀佛德尽已之诚不敢欺[言*末]后之来者欤。士谦以日月星方三教。然乍观似有优劣。至若照明世界运转生灵。则一德也。是三者阙一则安立不成。故易曰。乾道变化各正性命。贤哉李君。吾见其深于性命之大原也。

  (二十二 癸丑) 二祖惠可大师。示寂于开皇十三年三月十六日也。师虎牢人。少博极群书尤精玄理。及览佛经超然自得。遂出家依龙门香山宝静禅师得度具戒。年甫四十。忽一日定中神告曰。将证圣果无滞于此。须臾顿觉头痛如刺。欲行求治。空中有声曰。此换骨耳。非常痛也。因以告师。师视其顶。有五峰隆起。乃曰。神既助汝。可行求道。吾闻天竺达磨近至少林。宜往依之。师至少林投机授法。语载达磨章中。及少林归寂。师继阐玄化。尝至北齐遇一居士。不言姓氏。且曰。弟子身缠风恙。请师忏罪。师曰。将罪来与汝忏。居士良久曰。觅罪了不可得。师曰。与汝忏罪竟。宜依佛法僧住。曰今见师已知是僧。未审何名佛法。师曰。是心是佛。是心是法。法佛无二。僧宝亦然。曰今日始知罪性不在内不在外不在中间。其心亦然。佛法无二也。师器之。即为剃发云。是吾宝也。宜名僧璨。授具戒毕乃告之曰。达磨大师来自天竺。以正法眼藏密授于吾。吾今付汝并达磨信依。汝当护持无令断绝。听吾偈曰。本来缘有地。因地种花生。本来无有种。花亦不曾生。汝受吾教。宜处深山。未可行化。当有国难。曰师既预知。愿闻示诲。师曰。昔达磨传般若多罗谶记云。心中虽吉外头凶。吾校年代正在汝身。当审前言勿罹世难。然吾亦有夙累。今要偿之。师于邺都随宜行化。经三十四年。乃晦迹混俗。或过屠门。或入酒肆。有怪而问之者。答曰。我自调心。非关汝事。最后于管城县匡救寺三门下谈无上道。听者云集。有辩和法师者。于寺中讲涅槃经。学徒闻师说稍稍别去。和不胜愤。兴谤于邑宰翟仲侃。侃惑其说。加师以非法。遂怡然委顺。年一百有七。识真者谓师偿债。葬磁州淦县东北七十里。唐德宗谥大祖禅师。

  (二十三 丁巳) 天台智者禅师。示寂于开皇十七年十一月二十四日。师讳智顗。字德安。姓陈氏。颖川人。有晋迁都。寓居荆州华容县。梁散骑益阳公起第三子。母徐氏梦。香烟五彩萦回在怀。欲拂去之。闻人语曰。宿世因缘寄托王道。福德自至何以去之。诞育之夜室内洞明。信宿其光乃止。忆先灵瑞呼为王道。卧必合掌。坐必面西。年长时口不妄啖。见像便礼。逢僧必敬。七岁喜往伽蓝。诸僧讶其情志。口授普门品。初启一遍即得。二亲遏绝不许更诵。志学之年仕梁。承圣属元年沦没。北度硖川依乎舅氏寻讨名师。年十有八。投湘州果愿寺法绪出家。授以十戒。仍北度诣惠旷律师。北面横经具蒙指诲。又诣光州大苏山南岳禅师。受业心观。乃于北山行法华三昧。始住三夕。诵至药王品心缘苦行至是真精进白解悟便发。见共思师处灵鹫山七宝净土听佛说法。思为印可。尝令代讲。思躬执如意在座观听。语学徒曰。此吾徒之义儿。恨其定力少耳。于是师资改观名闻遐迩。学成往辞思。思曰。汝于陈国有缘。往必利益。思既入南岳。大师诣金陵绵历八周。语默每思林泽。乃梦岩崖万重云日半垂。其侧沧海无畔。见一僧摇伸手臂挽师上山。以梦通告门人。咸曰。此天台山也。因挟道南征隐沦斯岩。陈少主降敕徴入。前后七使师乃赴都。迎入太极殿之东堂讲智论。及金陵败覆。策杖荆湘。会大业在蕃任总淮海。承风佩德欲遵戒法。致书累请。师初陈寡德。次让名僧。后举同学。三辞不免。开皇十一年十一月二十三日于杨州设千僧会。为王授戒。未几王入朝。师旋台岳。躬率禅门行光明忏。仍立誓曰。若于三宝有益者。当限此余年。若其徒生愿从速化。不久告众曰。吾当卒此地矣。诫曰。宜各默然。吾将去矣。言已端坐如定而卒于天台大石像前。春秋六十七矣。弟子章安亲传戒法焉。

  (二十四 辛酉) 改仁寿。

  初文帝龙潜时遇梵僧。以舍利一裹授之曰。檀越他日为普天慈父。此大觉遗灵。故留与供养。僧既去。求之不知所在。帝登极后。尝与法师昙迁。各置舍利于掌而数之。或少或多。竟不能定。迁曰。诸佛法身过于数量。非世间所测。帝始作七宝箱贮之。至是海内大定。帝忆其事。是以岐州等三十州各建塔焉。

  是年六月十三日。诏曰。仰惟正觉大慈大悲。救护众生津济庶品。朕归依三宝重兴圣教。思与四海之内一切人民俱发菩提共修福业。使当今现在爰及来世永作善因同登妙果。宜请沙门三十人谙解法相兼堪宣导者。各将侍者二人散官一人薰陆香一百二十片。分送舍利往前三十州建塔。每州僧三百六十人。为朕及皇太子后妃诸王内外官僚士庶忏悔。及于相州战场立寺七日行道。任人布施。限十文而止。所施之钱以供营塔。若少不充役。正下及用库物。别外州郡僧尼普为舍利设斋。限十月十五日午时同下石函。总管刺史下至县尉。自非军机停务七日。专检校行道务尽诚敬。副朕意焉。是日帝亲以七宝箱奉三十舍利。自内而出置于御座之桉。与诸沙门烧香礼拜。愿弟子常以正法护持三宝。救度一切众生。乃取金瓶琉璃瓶各三十。以琉璃瓶盛金瓶。置舍利于其内。薰陆为泥涂盖而印之。诸沙门各奉而行。初入州境。总管刺史夹道步引。四部大众威仪斋肃。共以宝盖幡幢华台像辇佛帐经舆香山香钵种种音乐。尽来供养围绕赞呗。依阿含经舍利入拘尸那城法。于是沙门对四部大众。作是唱言。至尊以菩萨大慈无边无际。哀愍众生切于骨髓。故分布舍利。共天下同作善因。又引经文种种方便。诃责之教。导之深至。恳恻涕零。及宣读忏悔文。至舍利将入函。沙门高奉宝瓶巡示大众。人人拭目谛视共睹光明。哀恋号泣声响震地。凡是安置之处。悉亦如之。帝于十月十五日午时。在大兴宫之大殿西面。执圭而立。延请佛像及沙门三百六十人。幡盖香花赞呗音乐。自大兴善寺来居殿堂。帝烧香礼拜降御东廊。亲率文武百僚素食斋戒。及舍利入塔讫。帝曰。尔佛法重兴。必有感应。其后处处表奏。皆如其言(见著作王邵舍利感应记)。

  (癸亥) 三年文中子王通。既冠慨然有济世之志。西游长安见帝。坐大极殿召见。因奏太平策十有二道。尊王道推霸略稽古验今。恢恢乎运天下于掌上。帝大悦曰。得生几晚。天不以生赐朕也。下其议于公卿。公卿不悦。时将有萧墙之忧。通知谋之不用也。作东征之歌而归。乃续诗书正礼乐修元经赞易道。九年而六经大就。门人自远而至者。河南董常。太山姚义。京兆杜如晦。赵郡李靖。南阳程元。扶风窦威。河东薛收。中山贾琼。清河房元龄。钜鹿魏徴。太原王圭温彦博。颖川陈叔达等。咸称师。北面受王佐之道余往来受业者千余人。大业中累徴不就。十三年疾病闻江都有变。泫然而兴曰。生民厌乱久矣。天其或者将启尧舜之运。吾不与焉命也。遂卒。门人谥曰文中子。尝为中说以拟论语。其周公篇曰。诗书盛而秦世灭。非孔子之罪也。玄虚长而晋室乱。非老庄之罪也。斋戒修而梁国亡。非释迦之罪也。易不云乎。苟非其人道不虚行。或问佛。文中曰。圣人也。曰其教何如。曰西方之教也。中国则泥。又曰。观皇极谠议。三教于是乎一矣。通弟绩亦著书。号东皋子。

  (二十五) 文中子讲道于白午之磎。弟子捧书北面环堂成列。讲罢程生退省于松下。语及周易。薛收叹曰。不及伏羲氏乎。何辞之多也。俄而有负苓者。皤皤然委担而息曰。吾子何叹也。薛收曰。叟何为者而徴吾叹。负苓者曰。丽朱者赤。附墨者黑。盖渐而得之也。今吾子所服者道。而犹叹。是六腑五脏不能受也。吾是以问。收曰。收闻之师。易者道之蕴也。伏羲画卦而文王系之。不逮省文矣。吾是以叹。负苓者曰。文王焉病。伏羲氏病甚者也。昔者伏羲氏之未画卦也。三才其不立乎。四序其不行乎。百物其不生乎。万象其不森乎。何营营乎而费画也。自伏羲氏泄道之密漏神之几。分张太和磔裂先气。使天下之智者诡道逆出。曰我善言象而识物情。阴阳相磨远近相取。作为刚柔同异之说。以骇人志。于是知者不知而大朴散矣。则伏羲氏始兆乱者。安得羸叹而嗟文王。负其苓而行。追而问之居与姓名。不答。文中子闻之曰。隐者也。

  石室论曰。宋司马文正公曰。文中子云。佛圣人也。审如文中子之言。则佛之心可见矣。弟今言禅者。好为隐语以相迷。大言以相胜。使学者伥伥然益入于迷妄。因广文子之意。作解禅颂六首。果如此言虽中国亦可行矣。不然则吾所不知也。其卒章曰。言为百世师。行为天下法。为贤为大圣。是名佛菩萨。噫文正公继孔孟荀杨为大贤者也。庸有不知佛哉。观其颂则文正公平生所为。皆佛菩萨之心也。特禅之一法。虽吾门亦标表以为教外别传。自非积三二十年息心绝虑。则莫能究其旨。谓之隐语大言。似是而实非也。何则东皋子犹以伏羲画卦泄道之密漏神之机分张太和磔裂元气使知者不知大朴散矣。矧不立文字之禅。直指人心。于语言形迹之表。讵可常程义理而求其言说耶。是不独文正公。文中子杨孟诸贤。未暇留神。吾徒传教大法师辈。固有不知而兴谤者。故先德云。千人万人中捞捷一个半个而已。夫岂易信也哉。

  (二十六) 阇那崛多。西天竺人也。帝时至长安大兴善寺。奉敕译法华等经。是年示灭。

  (二十七) 仁寿初。诏曰。皇帝敬问章洪山之南谷智舜禅师。冬月极寒味道安隐。勉勖苍生成就圣业。惟慈愿力。朕实嘉焉。今遣开府卢元寿。宣朕意起禅师赴阙。舜以疾辞不赴。初舜从稠禅师出家习定。或时觉有妄念。即以锥刺股。由是尘虑不入至不得已或出一言。不过戒定慧而已。如是十余年。稠奇之曰。汝于人事殆无心哉。而今而后可与言道矣。后辞入赞皇山。好事者奉米面供之。舜辞去一不受。或问故。舜曰。山居橡栗足以御饥。何烦于人其简易如此。见啖肉者必惨容戒之曰。六道殊形汝无不经。一切有命皆女父母。一切有生皆女曩形。而食其肉者。是食女父母。女心。

  (二十八 甲子 五五) 安忍哉。闻者悛革也(诏赏罚度支。并付太子广。上疾。杨素使张衡入侍。上暴崩。太子即位)。

  ○(时天下户口抄计八百九十万)。

  (乙丑) 炀帝广(小字阿[序-予+(樊-大+女)]。高祖次子。篡立于仁寿宫。初登有政治民。后幸洛阳营建东京。发河南人夫数百万。开通济渠而达淮泗龙舟凤舸。又至江都。民不堪命。而群盗蜂起。四海土崩。后为宇文弑之。寿五十九年)。

  (二十九) 冬炀帝有事于南郊。诏僧道并同俗拜。道流莫敢言。诸沙门例不奉诏。帝诘之曰。诏条久颁。卿等固不奉命何也。时法师明瞻者对曰。陛下若使准制罢道。则微躯敢不奉命。如知大法可崇。则法服之下僧无敬俗之礼。帝曰。何以致拜周武。瞻曰周武任威纵暴仁德不施。不足为有国者法。陛下圣政惟仁不枉非罪。是以贫道得尽忠言。帝默然而罢。有司以瞻抗对。将抵以罪。瞻曰。所坐者瞻也。愿不以非律加吾徒。帝壮其不挠而不问。凡敬主之议由此而绝焉。

  (三十 丙寅) 是岁三祖僧璨大师示寂。师或云徐州人。初以白衣谒二祖既授衣。属周武废教。往来司空山。积十余年人无识者。隋开皇十二年有沙弥道信。礼师曰。愿和尚大慈乞与解脱法门。师曰。谁缚汝。曰无人缚。师曰。何更求解脱乎。信于言下大悟。服劳九载。授具戒已屡验以玄犍。知其缘熟乃付衣。说偈曰。花种虽因地。从地种花生。若无人下种。花地尽无生。并付法衣曰。吾既得汝能事已毕。即优游江国。历罗浮诸山复还旧止。士民乐其归相率致供。师为四众说法已。于法会大树下俨立合掌而逝。十月十五日也。唐玄宗谥曰鉴智禅师。着信心铭一篇。其辞曰。至道无难。唯嫌拣择。但莫憎爱。洞然明白。毫厘有差。天地悬隔。欲得现前。莫存顺逆。违顺相争。是为心病。不识玄旨。徒劳念静。圆同太虚。无缺无余。良由取舍。所以不如。莫逐有缘。勿住空忍。一种平怀。泯然自尽。止动归止。止更弥动。唯滞两边。宁知一种。一种不通。两处失功。遣有没有。从空皆空。多言多虑。转不相应。绝言绝虑。无处不通。归根得旨。随照失功须臾反照。胜却前空。前空转变。皆由妄见。不用求真。唯须息见。二见不住。慎莫追寻。才有是非。纷然失心。二由一有。一亦莫守。一心不生。万法无咎。无咎无法。不生不心。能随境灭。境逐能沈境由能境。能由境能。欲知两段。元是一空。一空同两齐含万象。不见精粗。宁有偏党。大道体宽。无易无难。小见狐疑。转急转迟。执之失度。必入迷路。放之自然。体无去住。任性合道。逍遥绝恼。系念乖真。昏沉不好。不好劳神。何用疏亲。欲取一乘。勿恶六尘。六尘不恶。还同正觉智者无为。愚人自缚。法无异法。妄有爱着。将心用心岂非大错。迷生寂乱。悟无好恶。一切二边。良由斟酌。梦幻虚花何劳把捉。得失是非。一时放却眼若不寐诸梦自除。心若不异。万法一如。如如体玄兀尔忘缘。万缘齐观。复归自然。泯其所以。不可方比。止动无动。动止无止。两既不成。一何有尔。究竟穷极。不存轨则契心平等。所作皆息。狐疑净尽。正信调直。一切不留。无可记忆。虚明自照不劳心力。非思量处。识智难测。真如法界。无他无自。要急相应。唯言不二。不二皆同。无不包容。十方智者皆入此宗。宗非促延。一念万年。无在不在。十方目前。极小同大。忘绝境界。极大同小。不见边表。有即是无。无即是有。若不如是。必不须守。一即一切。一切即一。但能如此。何虑不毕。信心不二。不二信心。言语道断。非去来今。

  (三十一 丁卯) 始平令杨宏。率道士名儒。入智藏寺启曾义法莚。命法师惠净与道士余永通论议永通欲先立义。净曰。道流入寺。义有主宾汝安得先。于是净问老子云。有物混成先天地生。吾不知其名。字之曰道。且道体一故混耶。体异故混耶。若体一故混则正混之时已自成一。是则一非道生。若体异故混。且未混之时已自成二。然则二非一起矣。永通茫然不知所对。无言而罢。

  (乙亥) 炀帝穷奢极侈。乘龙舟锦帆沿汴而下入于杨州。天下诸侯反叛称帝王者各据一方。凡五十二处。太原唐公李渊起义兵而来救驾矣。

  (丙子) 唐师至江都。帝以手琢案曰。渠有奇相。渠得之矣。十一月唐师入京。遥尊为太上皇。立代王侑为帝。绍隋室也。

  (三十二) 恭帝侑(炀之孙。元德太子之子。十三即位。以唐公为相。进封唐王。次年五月禅位与唐。封为鄗固公。武德二年薨。寿十五。在位二年)。

  (丁丑) 改义宁(上在汀都淫虐日甚。宇文化及因思归之士夜入宫弑帝及宗室皆死)。

  (三十三) 神僧法喜者貌寝陋。年若四十许。岭表父老咸言。儿时见之。谈晋宋间事。历历可听。又自言。尝从东林远公游。语默不常。然皆为吉凶之兆。炀帝幸维杨。闻其有异召之。俄一日绕宫中遍索羊头。帝恶之以付廷尉。手足银铛禁卫严甚。喜日丐于市饮食自若。有司以闻。帝命按视封钥如故。及启户视之。唯见袈裟覆黄金骨。骨皆连锁。遽以白帝。敕长安王怛核实如状。诏以香泥树骨塑之。是夕喜以泥像起行。言笑如故。遂释其禁。未几示疾。命尝所善者。去其荐置身箦上。下以炽炭炙之数日。半身红烂即死。葬之香山寺侧。后数岁有自海南归者。见喜无恙其人发冢视之。唯空棺尔。计是时喜已三百余岁矣。及炀帝于江都遇弑。方悟喜索羊头之验云。

  石室论曰。唐牧之云。昔有相士。称文帝当有天下。后果篡夺得之。周末杨氏为八柱国。公侯相继久矣。一旦以男子偷窃位号。不三十年。老壮婴儿皆不得其死。彼知相法当曰此为杨氏祸。乃可谓善相者。牧之之论诚为警绝。然文帝削平天下混一海字。君临万国者二十四年。创置礼乐法度。多为唐所遵用。仁寿间天下户至八百七十万。以唐疆宇之广。历五朝至天宝末。才九百余万户。隋文开统而身及太平。固一代之英主也。惜其末年任一杨素而弗获其终。呜呼岂唯隋文而已哉。凡魏晋以来符石姚刘二萧陈高宇文杨氏十三朝。兴亡因果循环之验。皆毫末无差。吾教所以诞敷六合有大益于天下国家者。其言因果报应之事。与天道大合。有以助天为劝沮也。故鸿经广论深切着明。必欲人人自信。因即如是。果亦如之。莫可逭也。儒虽曰其事好还。然未伸劝沮之理。此所以牧之唯诋隋文而不远推累朝积习循环之弊。独唐家之兴则异于彼。故其运祚灵长。益足以为天下之至鉴右隋三主凡三十八年。

  佛祖历代通载卷第十

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第十一

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  唐(姓李氏王土德都二京)雷氏曰(神太高则中睿玄肃代德顺宪穆景文武宣懿僖昭哀濮亡。唐主二十二。二百九十二年)。

  (戊寅) 高祖神尧皇帝渊改武德(字叔德。陇西成纪人。其先武昭王李皓之后。李歆弘农太守重耳金门镇将熙李天锡周八柱虎。西魏赐姓大野氏。官至太尉。与李弼等八人佐周有功。皆为柱国号八柱也。虎卒周追其功封唐国公。公生昞。袭封唐公。高祖父也。仕隋为安州总管。生高祖于长安。紫气充庭。体有三乳。性宽仁厚。又袭唐公。隋恭帝进封唐王。既太宗世。民知隋必亡。谋举大事。祖从之。秋七月举义兵。冬十一月克京城。明年夏五月恭逊位于高祖。即位于长安。改国号唐。在位九年。寿七十一崩。葬献陵内禅太宗太宗。佛心天子也。创基定业廊清方维。传世二十二。凡二百九十二年。自开辟以来。有天下者俱未若唐甚盛也。吾教盛衰常与帝道相望。由是内外护圣贤之多典章之备。亦无出此朝。故于唐颇称全书幸名教君子。与夫吾属后之来者有以稽考焉)。

  七庙制(东西直排皆面阳明。始祖居中。三昭居左三穆居右次序如是)。

  (二) 帝受隋禅百官拜舞。僧但山呼拱立一面。鄂国公尉迟敬德金吾卫将军刘文靖奏曰。僧未登圣。俱是凡夫。何乃高揖王侯父母反拜。孰可忍也。帝令定儒释优劣编入朝典议讫表闻。不合拜上。

  (己卯) 定租税法。

  (甲申) 七年二月丁巳。高祖释奠于国学召名儒僧道论义。道士刘进喜问沙门惠乘曰。悉达太子六年苦行求证道果。是则道能生佛。佛由道成。故经曰。求无上道又曰体解大道发无上心。以此验之。道宜先佛。乘曰。震旦之于天竺。犹环海之比鳞洲。老君与佛先后三百余年。岂昭王时佛而求敬王之道哉。进喜曰。太上大道先天地生。郁勃洞灵之中。炜烨玉清之上。是佛之师也。乘曰。按七籍九流。经国之典宗本周易。五运相生二仪斯辟。妙万物之谓神。一阴一阳之谓道。宁云别有大道先天地生乎。道既无名。曷由生佛。中庸曰。率性之谓道车胤曰。在己为德。及物为道。岂有顶戴金冠身披黄褐鬓垂素发手执玉璋居大罗之上独称大道。何其谬哉。进喜无对。已而太学博士陆德明随方立义。遍析其要。帝悦曰。三人皆勍敌也。然德明一举辄蔽之。可谓贤矣。遂各赐之帛。

  (三 乙酉) 太史令庾俭。耻以术官。荐傅奕自代。奕在隋为黄冠。甚不得志。既承革政得志朝廷。及为令有道士傅仁均者。颇闲历学。奕举为太史丞遂与之附合。上疏请除罢释教事。十有一条其略曰。佛在西域言妖路远。汉译胡经恣其假托。故使不忠不孝。削发而揖君亲。游手游食。易服而逃租赋。演其妖书述其邪法伪启三途谬彰六道。恐訹愚夫诈欺庸品。凡百黎庶通识者稀。不究根源信其矫妄。仍追既往之罪。虚拟将来之福。至有躬造恶逆触法抵刑。方乃狱中礼佛口诵梵言。晓夕忘疲视免其罪。且死生寿夭本于自然。刑德威福关之人君。而愚僧矫托皆言由佛。窃人主权攘造化理。其为害政良可悲也书曰。惟辟作福。惟辟作威。惟辟玉食。臣无有作福作威玉食。害于而家。凶于而国。自五帝三王。皆未有佛法。君明臣忠年祚长久。至汉明始立胡祠。令西域乘门自传其法西晋已前不许中国之人髡发出家。洎符石乱华。乃弭厥禁政虐祚短。皆由佛教致灾。梁武齐宣尤足为戒。昔褒姒一女荧惑幽王致亡其国。况今僧尼十万。刻绘泥像以耗天下者乎。陛下以十万之众。自相夫妇。十年滋产。十年教训。自可足食足兵四海免蚕食之患。百姓知威福所自。则妖妄之风息而淳朴之化还也。且古今忠谏鲜不逮祸。近北齐章仇子他献言。僧尼縻损国家。塔寺虚费金帛。为诸僧尼附会宰相依托妃主阳谗阴谤。子他卒死都市。及周武入齐首封其墓。臣虽不敏窃希其踪。疏奏。不报。

  (丙戌) 九年太史令傅奕。前后七上疏请除罢释氏。词皆激切。帝春秋高而优柔无断。颇信之。以其疏付群臣杂议。大臣皆言佛法兴自累朝。弘善遏恶冥助国家。理无废弃。独太仆卿张道源。附奕称其奏合理。宰相萧瑀廷斥奕曰。佛圣人也。奕为此议非圣人者无法。请置严刑。奕曰。礼本于事亲。终于事君。此则忠孝之礼着。臣子之道成。佛逾城出家逃背其父。以匹夫抗天子。以继体悖所亲。瑀非出于空桑。而反尊无父之教。臣闻非孝者无亲。瑀之谓矣。瑀曰。地狱正为此人设也(已上见旧唐史)。

  (四) 帝复以奕疏。颁示诸僧问。出家于国何益。时法师法琳者。姓陈氏。颖川人。祖因从宦寓襄阳。后住长安齐法寺。作破邪论二卷。博引图史及道教经籍。大略申明佛教。彻万法之源。而孔老立言。特域中之治。未阳远涂。非尽究竟之理。凡出家者。守志明道。弘善兴福。启迪昏迷利国非浅。法师明概作决对奕谤佛僧事八条。法师惠乘作辩正论。十喻九箴。破道士李仲卿十异九迷之谬。琳等奉表奏上。并致启秦王。而门下典仪李师政。着内德论三篇。开陈佛化之益。仍自序而进之。其词曰。若夫十力调御。运法舟于苦海。三乘汲引。坦夷途于火宅。劝善进德之广。七经所不逮。戒恶防患之深。九流莫之比。但穷神知化。其言宏大而可惊。去惑绝尘厥轨清邈而难蹈。华夷仕庶朝野文儒。各附所安鲜味斯道。自非研精以考真妄。沉思而察苦空。无以立匪石之信根。去若亡之疑。盖远则净名妙德。弘道胜而服勤。近则天亲龙树。悟理真而敦悦。罗什道安之笃学。究玄宗而益敬。僧睿惠远之归信。迄皓首而弥坚。迈士安之淫书。甚宣尼之玩易。千金未足惊其视。八音不能改其听闻之博而乐愈深。思之深而信弥笃。皆欲罢而不能。则其非妄也必矣。我皇诞膺天命弘济区宇。覆等苍旻载均厚地扫氛祲清八表救涂炭宁兆民。五教惟敷九功惟叙。总万古之徽猷。改百王之余弊。网罗庶善。崇三宝以津梁芟夷群恶。迸四部之稊莠。遵付嘱之遗旨。弘绍隆之要术。功德崇高昊天罔喻。但缙绅之士祖述多途。各师所学异论蜂起。或谓三王无佛而年永。二石有僧而政虐。损化由于奉佛。益国在于废僧。苟明偏见未申通理。博考兴王足证浮伪。何则亡秦者胡亥。时无佛而土崩。兴佛者汉明。世有僧而国治。周除佛寺。而天元之祚未永。隋弘释教。而开皇之令无虐盛衰由布政。治乱在庶官。归咎佛僧实非通论。且佛唯弘善。不长恶于臣民。戒本防非何损治于家国。若人人守善家家奉戒。则刑罚何得而广。祸福无由而作。骐骥虽骏不乘无以致远。药石徒丰未饵焉能愈疾。项籍丧师。非范增之无算。石氏兴虐。岂浮图之不仁。但为违之而暴乱。未有遵之而凶虐。由此观之。亦足明矣。复有谓正觉为妖神。比净居于淫祀。訾而谤之。无所不至。圣朝劝善。立伽蓝以崇福。迷民兴谤。反功德以为尤。此深讪上。非徒毁佛。愚窃抚心而太息。所以发愤而含毫者也。忝赖皇恩预沾法雨。切磋所惑积稔于兹。信随闻起。疑因解灭。昔尝苟訾而不信。今则笃信而无毁。近推诸己广以量人。凡百轻毁而弗钦。皆为讨论之未究。若令探赜索隐。功齐于澄什。必皆深信笃敬。志均于名僧矣。师政学匪钩深识不臻妙。少有所闻微去其惑。谨课庸短著论三篇。辨惑第一明邪正之通蔽。通命第二辨殃庆之倚伏。空有第三破断常之执见。核之以群言。考之以众善。上显圣朝之净福。下析淫祀之虚非。徒有斯意实乏其材。属词鄙陋援证肤浅。虽竭愚勤何宣圣德。庶同病于未愈者。闻浅譬而深悟也。如藩篱之卉。或蠲疾于腹心。藜藿之餐。傥救馁于沟壑。若金丹在目玉馔盈。桉顾瞻菲薄良足陋矣。内德论辨惑篇第一。其略曰。有辨聪书生。谓忠正君子曰。盖闻释迦生于天竺。修多出自西胡。名号无俦于周孔。功德靡称于典谟寔远夷所尊若。非中夏之师儒。逮摄摩腾之入汉。及康僧会之游吴。显舍利于南国。起招提于东都。自兹厥后乃尚浮图。沙门盛洙泗之众。精舍类王侯之居。既营之于[塽-(爻*爻)+((人/人)*(人/人))]垲。又资之以膏腴。擢修幢而曜日。拟甲第而当衢。王公大臣助之以金帛。农商富族施之以田庐。其福利之焉在。何遵崇之有余也。未若销像而绝鑴铸。货泉可以无费。毁经以禁缮写。笔纸不为之贵。废僧以从编户。益黍稷之余税。坏塔以补不足。广赈恤之仁惠。欲诣阙而效愚忠。上书而献斯计。窃谓可以益国而利民矣。吾子以为何如乎。忠正君子曰。是何言之过欤。余昔笃志于儒林。又措心于文苑。颇同吾子之言论。良由闻法之迟晚。赖指南以去惑。幸失途之未远。每省过而责躬。则临餐而忘饭。子若博考而深计。亦将悔迷而知返矣。窃闻有太史令傅君者。又甚于曩日之惑焉。内自省于昔迷。则十同其五矣。请辩傅君之惑言。以释吾子之邪执。傅谓佛法本出于西胡。不应奉之于中国。余昔同此惑焉。今则悟其不然矣。夫由余出自西戎。辅秦穆而开伯业。日磾生于北狄。侍汉武而除危害。臣既有之。师亦宜尔。何必取其同俗而舍于异方乎。师以道大为尊。无论于彼此。法以善高为胜。不计于遐迩。若夫尚仁为美去欲称高。戒积恶之余殃。劝为善以邀福。百家之所同。七经无以易。但褊浅而未深至。龌龊而不周广。其恕己及物。孰与佛之弘乎。其睹未知本。孰与佛之远乎。其劝善惩恶。孰与佛之广乎。其明空析有。孰与佛之深乎。由此观之。其道妙矣。圣人之德。何以加焉。岂得生于异域而贱其道。出于远方而弃其宝。夫绝群之骏。非唯中邑之产。旷世之珍。不必诸华之物。汉求西域之名马。魏收南海之明珠。贡犀象之牙角。采翡翠之毛羽。物生远域尚于此而为珍。道出遐方独奈何而可弃。若药物出于戎夷。禁咒起于胡越。苟可以蠲邪而去疾。岂以远来而不用之哉。夫灭三毒以证无为。其蠲邪也大矣。除八苦而致常乐。其去疾也深矣。何得拘夷夏而计亲疏乎。况百亿日月之下。三千世界之内。则中在于彼域。不在此方矣。传计诗书所未言。以为修多不足尚。余昔同此惑焉。今又悟其不然矣。夫天文历象之秘奥。地理山川之卓诡。经脉孔穴之诊候。针药符咒之方术。诗书有所不载。周孔未之明言。然考之吉凶有时而徴矣。察其行用而多效矣。且又周孔未言之物。蠢蠢无穷。诗书不载之法。茫茫何限。信乎书不尽言。言不尽意。何得拘六经之局教。而背三乘之通旨哉。夫能事未兴于上古。圣人开务于后世。故栋宇易橧巢之居。文字代结绳之制。饮血茹毛之馔。则先用而未珍。火化粒食之功。虽后作而非弊。彼用舍之先后。非理教之通蔽。岂得以诗书早播而得隆。修多晚至而当替。人有幼啖藜藿长饭粱肉。少为布衣老遇侯服。岂得以藜藿先获谓胜粱肉之味。侯服晚遇不如布衣之贵乎。万物有迁三宝常住。寂然不动感而遂通。化身示隐显之迹。法体绝兴亡之数。非初诞于王宫。不长逝于双树。何得论生灭于赴感。计修促于来去乎。傅氏誉老子而毁释迦。赞道书而非佛教。余昔同此惑焉。今又悟其不然矣。夫释老之为体。一而不二矣。同蠲有欲之累。俱显无为之宗。老氏明而未融。释典言臻其极。道若果是佛。固同是而无非。佛若果非道。亦可非而无是。理非矛盾之异。人怀向背之殊。既同众狙之喜怒。又似叶公之爱畏。至如柱下道德之旨。漆园内外之篇。雅奥而难加。清高而可尚。窃尝读之。无间然矣。岂以信奉释典而苟訾之哉。抑又论夫死生无穷之缘。报应不朽之旨。释氏之所创明。黄老未之言及。不知今之道书何因类于佛典。论三世以劝刑。出九流之轨躅。若目睹而言之。则同佛而等其照。若耳闻而放之。则师佛而遵其说。同照则同不当非。相师则师不可毁。誉道而非佛。何谬之甚哉。傅云。佛是妖魅之气寺为淫邪之祀。此其未思之甚也。妖唯作㜸。岂弘十善之化。魅必凭邪。宁兴八正之道。妖犹畏狗。魅亦惧猫。何以降帝释之高心。摧天魔之神力。又如图澄罗什之侣。道安惠远之俦。高德高名。非醉非狂。岂容舍爱辞荣求魑魅之邪道。勤身苦节事魍魉之妖神。又自昔东汉至我大唐。代代而禁妖言处处而断淫祀。岂容舍其财力放其士民。营魑魅之堂塔。入魍魉之徒众。又有宰辅冠盖人伦羽仪王导庾亮之徒。戴逵许询之辈。置情天人之际。抗迹烟霞之表。并禀教而归依。皆厝心以崇信。岂容尊妖奉魅以自屈乎。良由睹妙知真使之然耳。又傅氏之先。毅字武仲。高才硕学世号通人。辩显宗之祥梦。证金人之冥感。释道东被毅有功焉。窃揆傅令之才识。未可齐于武仲也。何为毁佛谤法。与其先之反乎。吴尚书令阚泽对吴主孙权曰。孔老二家比方佛法优劣远矣。何以言之。孔老设教。法天以制用。不敢违天。诸佛说法。天奉而行。不敢违佛。以此言之。实非比对。愚谓阚子斯论知优劣之一隅矣。凡百君子可不思其言乎。夫大士高僧。观于理也深矣。明主贤臣。谋于国也忠矣。而历代宝之以为大训何哉。知其穷理尽性道莫之加故也。傅氏观不深于名僧。思未精于前哲。独师心而背法。轻绝福而兴咎。何其为国谋而不忠乎。为身虑而不远乎。大觉穷神而知化。深观过患而豫防。惟可龄之易尽嗟五福而难常。命川流而电逝。业地久而天长。三涂极迍而杳杳。四流无际而茫茫。凭法舟而利济。藉信翮以翱翔。宜转咎而为福。何罔念而作狂也。傅云赵时梁时皆有僧反。况今天下僧尼二十万众。此又不思之言也。若以昔有反僧而废今之法众。岂得以古有叛臣而弃今之名士。邻有逆儿而逐己之顺子。皆有乱民而不养今之黎庶乎。夫普天之下出家之众。非云集于一邑。实星分于九土。摄之以州县。限之以关河。无徴发之威权。有宪章之禁约。纵令三五凶险一二阐提。既无缘于乌合。亦何忧于蚁聚。且又沙门入道。岂怀亡命之谋。女子出家。宁求带甲之用。何乃混计僧尼之数。当同枭镜之党架虚以乱真。蔽善而称恶。君子有三畏。岂当如是乎。夫青衿有罪。非关尼父之失。皂服为非。岂是释尊之咎。僧干朝宪。尼犯俗刑。譬诵律而穿窬。如读礼而骄倨。但以人禀顽嚚之性而不迁于善。非是经开逆乱之源而令染于恶。人不皆贤。法实惟善。何因怒恶而反善。咎人而弃法。若夫口谈夷惠而身行桀跖。耳听桀跖而口废诗礼。然则人有可诛之罪。法无可废之过。但应禁非以弘法。不可以人而贱道。窃笃信于妙法。不苟党于沙门。至于耘稊稗以殖嘉苗。肃奸危以清大教。所深愿矣。所深愿矣。傅云。道人土枭皆是贪逆之恶种。此又不思之言也。夫以舍俗修道。故称道人。学道离贪逆。若云贪菩提道逆生死流。则僖子兴言未及斯旨。观沙门之律行也。行人所不能行。止人所不能止。具诸释典可得而究。蠕动之物犹不加害。况为枭镜之事乎。嫁娶之礼尚舍不为。况为禽兽之心乎。何乃引离欲之上人。匹聚尘之下物。援有道之贤俊。比无知之庶类。毁大慈之善众。媲不祥之恶鸟。谓道人为逆种。以梵行比兽心。害善一何甚乎。反正顿如此乎。余昔每引孝经之不毁伤。以讥沙门之法去须发谓其反先王之道。失忠孝之义。今则悟其不然矣。若夫事君亲而尽节虽杀身而称仁。亏忠孝而偷存。徒全肤而非义。论美见危而致命。礼防临难而苟免。何得一概而诃毁伤雷同而顾肤发。割股纳肝伤则甚矣。剔须落发损乃微焉。立忠不顾其命。论者莫知咎。求道不爱其毛。何独以为过。汤恤烝民。尚焚躯以祈泽。墨敦兼爱欲磨足而至顶况夫上为君父深求相利。须发之毁何足顾哉。夫圣人之教。有殊途而同归君子之道。或反经而合义。则泰伯其人也。废在家之就养。托采药而不归。弃中国之服章。依剪发以为饰。反经悖礼莫甚于斯。然而仲尼称之曰。泰伯可谓至德矣。其故何也。虽迹背君亲。而心忠于家国。形亏百越。布德全乎三让。故泰伯弃衣冠之制。而无损于至德。则沙门舍缙绅之容。亦何伤乎妙道。虽易服改貌。违臣子之常仪。而信道归心。愿君亲之多福。苦其身意。修出家之众善。遗其君父。延历劫之深庆。其为忠孝不亦多乎。浪谓沙门为不忠。未之信矣。傅又云。西域胡人因泥而生。是以便事泥瓦。此又未思之言也。夫崇立灵像摸写尊形。所用多涂。非独泥瓦。或雕或铸。则以铁木金铜。图之绣之。亦在丹青缣素。复谓西域士女遍从此物而生乎。且又中国之庙以木为主。则谓制礼君子皆从木而育邪。亲不可忘。故为之宗庙。佛不可忘。故立其形像。以表罔极之心。用申如在之敬。钦圣仰德何失之有哉。夫以善为过者。故亦以恶为功矣。傅又云。帝王无佛则国治年长。有佛则政虐祚短。此又未思之言也。则谓能仁设教。皆阐淫虐之风。菩萨立言。专弘桀纣之事。以实论之。殊不然矣。夫殷丧大宝。灾兴姐已之言。周失诸侯祸由褒姒之笑。三代之亡。皆此物也。三乘之教。岂斯尚乎。佛之为道慈悲喜舍。齐物而等怨亲。与安乐而救危苦。古之所以得其民者。佛既弘之矣民之所以逃其上者。经甚戒之矣。羲轩舜禹之德。在六度而苞笼。羿浞癸辛之咎。总十恶以防禁。向使桀遵少欲之教。纣顺大慈之道。伊吕无以用其谋。汤武焉得行其计。可使鸣条免去国之祸。牧野息倒戈之乱。夏后从洛汭之歌。楚子违干溪之难。然则释氏之化。为益非小。延福祚于无穷。遏危亡于未兆。傅谓有之为损。无之为益。是何言与。是何言与。佛何仇而诬之至此。佛何负而疾之若仇乎。傅又云。未有佛法之前。人皆淳和世无篡逆。此又未思之言也。夫九黎乱德。岂非无佛之年。三苗逆命。非当有法之后。夏殷之季何有淳和。春秋之时宁无篡逆。寇贼奸宄。作士命于皋陶。玁狁孔炽。荡伐劳于吉甫。而傅谓佛兴篡逆。盗法佛犹戒之。岂长篡逆之乱乎。一言之竞佛亦防之。何败淳和之道乎。惟佛之为教也。劝臣以忠。劝子以孝。劝国以治。劝家以和。弘善示天堂之乐。惩非显地狱之苦。不唯一字以为褒。岂止五刑而作戒。乃谓伤和而长乱。不亦诬谤之甚哉。亦何伤于佛日乎。但自沦于苦海矣。轻而不避。良可悲夫。于是书生心伏而色愧。避席而谢曰。仆以习俗生常违道自佚。忽于所未究。玩其所先述。背正法而异论。受邪言以同失。今闻佛智之玄邃。乃知释教之忠质。豁然神悟而理摅。足以荡迷而祛疾。虽从邪于昔岁。请归正于兹日。谨诵来戒以为口实矣。

  论曰。昔司马文正公。讥元魏崔浩昧于择术。若傅令者。不善择术尤可数也。方天意大启唐祚。而太宗以大权圣人示现出世。为千载道德盛明之主。岂易遇哉。有文中子者。身任百世师儒。出河汾间。凡太宗一时宰辅。若凌烟阁上诸公。皆北面称师。受王佐之道。当是时使傅令稍知向方。预出王氏之门。则其施设纵非公台之任。亦不失为名卿才大夫。徒以卜史占候下技。位貌既卑无以自逞。乃以夙昔私憾。谤黩大教。规窃声誉。及太宗登位。天下文明诸公雍容庙堂。论道经邦制礼作乐。虽尧舜之运。亡以加也。此时奕之学素荒而伎且索矣。抱惭自废于家。其无聊而毙也可知矣。妙哉李君内德论。熟览之盖天下精识谠论也。其通命一篇。以儒所谓命释所谓业。原始要终合而通之。尤为警绝。惜辞多未能具载云。

  是岁夏四月。太子建成秦王世民。怨隙已成将兴内难。而又边境屡优军国务殷。傅奕妄生毁佛。乞行废教之请复云云未决。及法琳等诸僧著论辨之。合李黄门内德论。同进之于朝。帝由是悟奕等誉道毁佛为协私。大臣不获已。遂兼汰二教而施行焉。五月辛巳。诏曰。

  (五) 释迦阐教清净为先。远尘离垢除去贪欲。所以弘宣胜业修植善根。开导愚迷津梁庶品。是以敷演经教检括学徒。调忏身心舍诸染着。衣服饮食咸资四辈。自大觉迁谢道法流行。末代陵迟渐以亏损。乃有猥残之侣规自尊高。游堕之民苟辟徭役。妄为剃落托号出家。嗜欲无厌营求不已。致有出入闾里周旋阛阓。驱策畜产聚积货财。耕织为生沽贩为业。事同偏户迹等齐人。进违戒律之文。退无礼典之训。或有躬行劫掠身自穿窬。造作奸讹交通豪猾。每罹宪网自蹈重刑。渎玷真如亏损妙法。譬夫稂莠有秽嘉苗。类若淤泥混乎清水。又伽蓝之地本曰净居。栖心之所理尚幽清。近代以来多立寺舍。不求间旷之地。唯趋諠杂之方。缮彩崎岖甍宇殊错。拓舛隐慝诱纳奸邪。或有接延䣑邸邻近屠沽。尘埃满室腥膻盈路。徒长轻薄之心。有亏崇敬之义。且老氏垂化本实冲虚。养志无为违情外物。全真守一是谓玄门。驱驰世务尤乖宗旨。朕应期御宇兴隆教法。志思利益情在护持。欲使玉石区分薰莸有辨。长存妙道永固福田。正本澄源宜从沙汰。诸僧尼道士女冠。有精勤练行守戒律者。并令就大寺观居止。供给衣食不令乏短。其不能精进无行业。弗堪供养者。并令罢道各还桑梓。所司明为条式务依教法。违制之坐悉宜停断。京城留寺三所观二所。其余天下诸州各留一所。余悉毁之。六月四日。秦王以府兵平内难。高祖以秦王为皇太子。付以军国政事是月癸亥大赦天下。停前沙汰二教诏。甲子高祖逊于位。称太上皇。太子即位于东宫。是为太宗。

  (六 丁亥) 太宗文皇帝世民改贞观(高祖次子。厥性仁贤。轻财重义。隋末起义兵。高祖谓之曰。破家亡躯由汝。化家为国亦由汝焉。肇兴唐室。皆太宗之功也。武德九年太子建成齐王元吉死。八月受禅即位。制体作乐选贤任良。与公卿大臣论议政事。吞蝗以整年谷之凶。其睿德如此。用魏徴李靖房玄龄杜如晦等诸贤为相。慰迟敬德刘文靖为将。在位二十三年)。

  (七) 帝对群臣太息曰。今大乱之后。其难治乎。魏徴对曰。大乱之治譬饥人之易食。帝曰。古不云乎。善人为邦百年而后胜残去杀。徴曰。此不为圣哲之论。圣哲之治其应如响。盖不其难。仆射封德彝曰。不然。三代之浇诡日滋。秦任法律汉杂霸道。皆欲治而不能。非能治而不欲。徴书生好虚论徒乱国家不足听。徴曰。五帝三王不易民而教。行帝道而帝。行王道而王。顾所行何如耳。黄帝战蚩尤。七十而战胜其乱。因致无为。九黎害德。颛顼征之。既克而治。桀为乱。汤放之。纣无道。武伐之。汤武身及太平。若人渐浇诡不复扑。今当为鬼为魅。尚安得而化之哉。德彝不能对。然复以为不可。帝雅以徴对为然。他日帝尝召傅奕。赐之食而谓曰。佛道微妙圣迹可师。且报应显然屡有徴验。汝独不悟其理何也。奕曰。佛是西方桀黠欺谜夷狄。及流入中国。尊尚其教皆邪僻纤人。摸写庄老玄言饰其妖妄。无补于国家。有害于百姓。帝恶其言不答。自是终身不齿。

  (己丑) ○放宫女三千。

  (八) 七月蝗害稼。帝在苑中掇蝗而言曰。民以谷为命。而汝害之。是害吾民也。百姓有过在予一人。汝而有灵。当食朕身无害吾民。将吞之。左右恐致疾遽求代。帝曰。所贵移灾朕躬。何疾之避。遂吞之。由是终帝世蝗不为害。冬十二月癸酉。诏曰。有隋失道九服沸腾。朕亲总见戎致兹明罚。其有桀犬婴此汤罗。衔须义愤终乎握节。各狥所奉咸有可嘉。日往月来逝川斯远。切恐九泉之下向沦鼎镬。八难之间永缠冰炭。愀然疚怀无忘兴寝。所以树立福田济其营魄。可于建义以来交兵之处为义士凶徒殒身戎阵者各建寺刹招延胜侣。望法鼓所振。变灾火于青莲。清梵所闻。易苦海于甘露。所司量定处所。并立寺名支配僧徒。及修院宇。具于事条以闻。称朕矜哀之意。仍命虞世南李伯乐褚遂良颜师古岑文本许敬宗朱子奢等。为碑铭以纪功业(已上见旧史)。

  (庚寅) ○禁笞背法。

  十月天下断狱。死罪二十有九人。东南薄海。西极于岭。北穷玄塞。户不夜闭。旅不赍粮。取给于路。米斗三钱。天下大治。蛮夷君长衣冠带刀宿卫。帝喜谓群臣曰。此魏徴劝朕仁义之效也。惜不令封德彝见之。因追念初平天下时。手诛千余人不及享太平。即以御服施诸寺。命僧礼忏荐擢焉。

  (辛卯) 诏僧尼拜父母。

  (壬辰) ○纵死囚四百还家。

  (九 癸巳) 七年。三藏法师玄奘。游天竺求法。达于王舍城。奘生洛州偃师陈氏。隋季出家具戒。博贯经籍。每慨前代译经多所讹略。志游西土访求异本以参订焉。以三年冬抗表辞帝。制不许。即私遁自原州出玉关抵高昌。高昌王麹文泰奉奘行资。护送达于罽宾。从僧伽论师决俱舍因明。大毗婆沙等论。至大林国。从婆罗门学中论及异道典籍。时婆罗门七百余岁。至仆底国。从伏光法师学对法宗显理门等论。至那伽罗国。从月胄论师学众事分毗婆沙。至禄勒那国从阇那屈多三藏学经部毗婆沙及萨婆多部辨真等论。至麹阇国从毗邪犀那三藏学二毗婆沙。王有胜兵十万雄冠西域。奘与胡商八十许人渡殑伽河。彼俗以人祀天。奘与诸商被执。以奘风度特异。将戮以祭。俄大风作尘沙涨天昼日晦暝。彼众震惧。以奘为圣人。遂释之。至中天竺。遇大乘居士。为奘开瑜伽师地。即入王舍城。彼预闻奘至。具礼郊迎之。安置那兰陀寺。寺七宝所成。僧以万数。奘见上方戒贤论师。时春秋一百有六。道德为西土宗师。号正法藏。国主以十城租赋奉之。奘启以求法意。贤咨嗟流涕曰。吾顷疾病且死。忽梦文殊大士谓吾曰。汝未应厌世。后三年震旦有大沙门。从女受道。自尔已来今三稔矣。于是慰喜交集。有同宿契焉。奘见王。王给象车从者三十辈。日供上馔。馔有龙脑香乳苏蜜及大人米。米香闻百步。然国产不多。唯君长与后。及主法上德与焉。奘寓其国。从正法藏穷探大乘秘奥。日益智证云。

  (十 乙未) 九年十月法师玄琬卒于延兴寺。遗表陈。圣帝明王赏罚三宝不滥痛愍。沙门犯法不应与民同科。乞付所属以僧律治之。并上安养论三德论各一卷。帝嘉纳。有诏伤悼。遣皇太子临吊。敕有司给葬具。唐敕葬沙门由琬而始。

  (十一) 十一月。诏曰。三乘结辙济度为先。八正归依慈悲为主。流智慧之海膏泽群生。剪烦恼之林津梁品物。任真体道理叶至仁。妙果胜因事符积善。朕钦若金轮恭膺宝命。至德之训无远不思。大圣之规无幽不察。欲使人免盖缠。家臻仁寿。比缘丧乱僧徒减少。华台宝塔窥户无人。绀发青莲栉风沐雨。眷言凋毁良用怃然。其天下诸州有寺之处宜度僧尼。数以三千为限。其州有大小地有华夷。当处所度多少有司详定务取德业精明。其往因减省还俗。及私度白衣之徒。若行业可称通在取限。必无人可取。亦任其开数。比闻多有僧徒溺于流俗。或假托鬼神妄传妖怪。或谬称医巫左道求利。或灼钻肤体骇俗惊愚。或造诣官曹嘱致赃贿。凡此等类大亏圣教。朕情在护持。必无宽贷。自今宜令所司依附六律。

  (十二 丙申) 参以金科明为条制。十年皇太子问张士衡曰。事佛营福其应如何。对曰事佛在清净仁恕。如贪惏骄虐。虽倾财事之无损于祸。且善恶必报若影赴形。圣人之言备矣。为君明。为臣忠。为子孝。则福祚永。反是则祸至矣。时太子有逆志。故士衡因对以箴之。

  (十三 丁酉) 帝幸洛京下诏曰。老君垂范义在清虚。释迦贻则理存因果。求其教也。汲引之迹殊途。论其宗也。弘益之风各致。然大道之兴肇于遂古。源出无名之始。事高有形之外。况是国家先宗。宜居释氏之右。自今已后斋供行位至于称谓。道士女冠可在僧尼之前。庶敦返本之俗。畅于九有。贻于万叶。京邑沙门各陈极谏。有司不纳。时有沙门智实者。洛下贤僧也。丰度隽颖内外兼明。携诸宿德随驾表奏于关口。其略曰。僧某等言。年迫桑榆。始逢太平之世。貌同蒲柳。方值圣明之君。窃闻父有诤子。君有诤臣实等虽在出家。仍在臣子之列有犯无隐。敢不陈之。伏见诏书。国家本系出自柱下。宗祖之风形于前典。颁告天下无德而称。今道士在僧尼之上。奉以周旋。岂敢拒诏。寻其老君垂范治国治家。所佩服章初无改易。不立观宇不领门人。处柱下以全真。隐龙德而养性。今道士等不遵其法。所著冠服并是黄巾之徒。实非老子之裔。行三张之鬼术。弃五千之玄言。反同张陵。谩行章醮。从汉以来常以鬼道化于浮俗。妄托老君之后。即是左道之苗。若在僧尼之上。诚恐国家同流有损国化。遂以道经及汉魏诸史佛先道后之事。具陈如左。帝壮其志于教。遣宰相岑文本谕旨遣之。实固执不奉诏。帝震怒。杖实于朝堂。民其服流之岭表。而卒。年三十有八。初实得罪。有讥其不量进退者。实曰。吾固知已行之诏不可易。所以争者。欲后世知大唐有僧耳。闻者莫不叹惜。◎

  ◎(十四 戊戌) 十二年尚书虞世南卒。帝手敕魏王泰曰。虞世南与我犹一体也。拾遗补过无日暂忘。当代名臣人伦准的。吾有小失。必犯颜而诤之。今其云亡石渠东观之中。无复人矣痛惜岂可言耶。未几帝赋往代兴亡诗一篇。辄叹惜曰。钟子期死伯牙不复鼓琴。朕此诗将何所示。令褚遂良持诣世南灵帐读毕焚之。冀其神识感悟焉。明年梦世南进谠言有如平生。因下诏曰。故礼部尚书文懿公虞世南。德行纯备文为辞宗。夙夜尽心志存忠益。奄从物化忽移时序。昨因夜梦倏睹斯人。兼进谠言有若平生之日。追怀遗美良用悲悼。宜资冥福申朕思旧之情。可即其家斋五百僧造佛像一躯(出旧唐史本纪)。

  (十五) 秋八月。诏三学秀异。于弘文殿论议。道士蔡子晃问法师惠净曰。法华称序品第一。未审序第何分。净曰。如来入定放光现瑞假远开近。为破二之鸿基。启一真之由致。此其序也。第者为居。一者为始。故曰序品第一。晃难曰。第者弟也。为弟则不宜称一。言一则不应称弟。两言矛盾。何以会通净曰。向不云。第者为居。一者为始。先生不省名义。安能难人。晃忙乱曲为之词。净乘胜剉折。遂蒙惭而退。净雅与房玄龄厚善尤为太常褚亮所敬。亮尝谓人曰。净俯视安远顾蔑生肇。真当世独步也。及天竺三藏波颇那罗译大庄严论。诏净笔授。并敕赵郡王孝恭詹事杜正伦同监护。

  (十六 己亥) 十三年。方士秦世英谮法师惠琳著论讪毁皇宗。有旨捕琳。琳知之变服自系诣阙请谴。制旨曰。据尔论。有念观世音者临刑不伤。今详罪犯当坐大辟。赐假七日。尔可勤念之。贵临刑自免。琳奉制一无所念。至期诏问所念观音感应如何对曰。隋季失德四海沸腾。陛下廓清寰宇道洽生灵。琳自七日已来。不念观音唯念陛下。帝讶其言。遣御史韦琮问琳所以念朕之状。对曰。观音至圣垂形六道。上天下地皆为师救。陛下御临宸极万国欢心。文治至平灵鉴无外。圣与观音齐等。所以唯念陛下。且琳挺志盖弘宣释氏之法以助皇化。冀民惧报应。畏刑罚而远恶也。琳何求而敢讪谤哉。陛下察琳忠于所事。则所谓临刑自免若唯谗是信。则琳伏尸无地。琮奏其语。有旨免刑流于益州(法师着辨正论八卷。为诸死于蜀百牢关。未几秦世英被诛矣)。

  (十七 庚子) ○定嫂叔甥舅服。

  华严法师法顺卒。顺生杜氏。亦称杜顺。如晦族长也。长安万年人。以陈永定二年生。少为隋文帝所重。给月俸供之。有病者。师对之危坐少顷即愈。或生而聋者。顺召之与言耳即聪。或生而哑者。顺就与之悟即能言。或狂而颠者。顺使人领住向之禅定少选。彼即拜谢而去。又尝临溪随侍者惧不可济。顺率同涉。水即断流。其神迹类如此。而顺隤然初不以介意。尤邃华严宗旨。帝素敬重之。尝引入宫禁。导迎善气妃主。戚里诸贵奉之有如生佛。集华严法界观门弟子智俨尊者传其教。

  (十八) 傅奕感报。于十四年秋卒暴而亡冥报记曰。奕初与傅仁均薛迹同司太史。仁均先死。迹昔欠仁均钱五千未偿。后梦仁均索讨。迹问先所欠钱当付与谁。仁均曰。付与泥人。又问。泥人者谁。曰傅奕也。是夕溤长命少府亦梦同焉。又多见先亡者。问佛经之虚实。彼曰。实也。曰傅奕毁法当受何报。彼曰。配越州泥人。长命入殿庭告迹。迹亦言如之。时有唐临在侧迹送钱与奕。及告其梦。不数日奕果暴亡。或为泥犁中人也。

  (十九) 相国萧瑀字时文。梁明帝子也。九岁封新安王。国除入隋晋王妃实瑀姊。官右千牛。尝疾。不肯呼医。自信天命。叹曰。吾更余年则从此遁矣。及晋王践祚姊为后。闻其言。召责之以其不安小官。后病损拜内史侍郎。以直言事颇为炀帝憎。隋乱瑀出为河池郡守。唐高祖入关以书招之。因挈郡归。封宋公。委以枢要。帝不名。呼为萧郎。瑀家世贵胄。自武帝以来。皆奉佛清修。瑀及其孙勉精严尤甚。太宗即位屡入相。既而房杜得君事任稍分。瑀不能无少望。尝乞度为僧。帝许之。瑀寻度不能而止。事两朝凡五入相位。年七十四薨。瑀性忠鲠雅薄福贵。善属文。通儒柳顾辈皆高其才。唐史称之曰。梁萧氏兴江左实有功在民。厥终无大恶。以寖微而亡。故余祉及其后裔。自瑀逮遘。八叶宰相名德相望。与唐盛衰。世家之盛古未有也。

  (二十 辛丑) 十五年五月戊辰。帝幸宏福寺。召大德道懿等五人赐座。谕以创寺为专一追崇穆太后。言发涕零。懿及左右皆哽咽逡巡。自制疏施绢二百疋。自称皇帝菩萨戒弟子。令回向罢。顾谓道懿等曰。顷以老子是朕先宗。故令名位在前。卿等应恨恨也。道懿曰。陛下尊祖宗降成式。懿等蒙荷国恩安闲学道。诏旨初下咸皆欢悦。讵敢有恨。帝曰。尊祖重亲有生之大本。故先老子以别亲疏之序。非不留心于佛也。自有国以来。未尝创立道观。凡有功德并归僧舍。虽往日操戈临阵。亦未始纵威滥杀。今所在战场皆立佛寺。至于太原旧第亦以奉佛。朕存心如此。卿等想未谕也。道懿等遽起趋谢。帝曰。少坐。此是朕意。不述则人不知。天时向热。寺宇未备。今所施可别造经寮令僧众宽展行道。

  (二十一 壬寅) 十六年。三藏玄奘法师。发王舍城入祇罗国国主郊迎之。已而问曰。而国有圣人出世。作小秦王破阵乐试为我言其为人。奘粗陈帝神武削平天下躬行尧舜之治。其王大惊。东向稽首曰我当朝觐与师偕行也。奘因出所撰制恶见论似之。王钦叹曰。此论一出。可谓日光既升萤火夺明矣。即以青象名马助奘驮经而还。

  (二十二 癸卯) ○图功臣于凌烟阁。

  八月四日。原州松昌鸿池谷忽有五石。皆青质白文。成字曰。高皇海出多子李元王八十年太平天子李世民千年太子李治书燕山人士乐大国主尚汪谭奖文仁迈千古大王五王六王七王十风毛才子七佛八菩萨及上果佛田天子文武贞观昌大圣延四方上不治示孝仙戈八为善。原州奏于朝。字初若不甚显。及群公拟定。遂粲然明着。十一月辛卯。有事于南郊。诏遣使以玉帛诣原州鸿池谷祭之曰。嗣天子讳祚继鸿业君临㝢县。宿兴旰食无忘于政。道德齐礼愧于前修。天有成命表瑞徴符。文字粲然历数惟永。既旌高庙之业。又锡眇身之祚。迨于皇太子治。亦降贞符。具纪李氏于石言。仰瞻宵汉空名大造。甫惟寡薄弥增寅惧。敢因大礼重荐玉帛。上谢冥灵之贶。以伸祗栗之诚。

  (二十三 乙巳) 十九年正月丙子。法师玄奘赍经像归于京师。留守房玄龄馆于宏福寺。以表闻帝。壬辰奘如东都。二月己亥见于仪鸾殿。帝曰师去何不相报。对曰。当去时表三上。以诚愿微浅。不蒙谅许。无任慕道之至。乃辍私行。专擅之罪惟深愧惧。帝曰。师出家与俗殊隔。能委命求法惠利苍生。朕甚嘉焉固不烦为愧。但念山川阻远方俗异心。怪师能达也。对曰。奘闻乘疾风者造天地而非远驭龙舟者涉江海而不难。自陛下握乾符清四海。德笼九域仁被八区。淳风扇炎景之南。圣威震葱岭之外。所以戎夷君长。每见翔云之鸟自东来者。犹疑发于上国。敛衽而敬之。况玄奘圆顶方亲承化育者耶。既赖天威。故得往还无难。帝曰。此长者之言。朕何敢当。因广问雪岭以西印度之境玉烛和气物产风俗八王故迹七佛遗踪。并博望之所不传。班马无得而载者。奘既亲游其地。记忆无遗。随问而对。皆有条理。帝大悦曰。师所经一百余国。可尽掇其山川风俗。撰大唐西域记以遗后来。不亦美乎奘奉诏将罢。帝谓侍臣曰。昔符坚称道安为神器。举国遵敬朕观法师。词吐温雅风节贞峻。非徒不愧古人。实过之远甚。司徒长孙无忌曰。诚如明诏。道安虽高行博识。然弘法之功。固不如法师躬趋圣域讨论众妙究探宗极者矣。时车驾将问罪高丽。闻法师之还。期暂引见。及对谈论不觉日莫。帝曰。匇匇言不尽怀。欲共法师东行。省方观俗。指挥之暇。别更谈叙可乎。对曰玄奘远归。兼有病疾。不堪陪驾。帝曰。师向能孤游绝域。今此行如跬步耳。尚何辞。对曰。陛下东征六军奉卫。伐乱诛奸必有牧野之功昆阳之捷。玄奘无所裨助。虚负道路之费。且兵刃交战。佛制沙门不得观视。惟陛下矜察。帝嘉纳而止。奘因奏西域所获梵本经论凡六百五十七部。乞就嵩山少林寺为国宣释。帝曰。朕顷为穆太后创宏福寺。极为虚静。可就彼翻译。所须并与玄龄平章。奘因进曰。百姓无知见奘远归妄有窥看。不徒妨废法务。兼虑不测之患。愿得监门官以防衅隙。帝悦曰。此言可谓保身之计当为处分。及罢即别。有旨差官监护。

  (二十四 丙午) 二十年七月辛卯。法师玄奘表上新译菩萨藏经六门陀罗尼经显杨圣教论大乘杂集论凡五部五十八卷。请帝为圣教序。降手敕曰。省书具悉雅意。法师夙标高行早出尘表。泛宝舟而登彼岸。搜妙道而辟度门。弘阐大猷荡除众罪。朕学浅心拙。在物犹迷。况佛道幽微。岂能仰赞。侧请为序。非己所闻。奘重表请曰。伏奉墨敕猥垂奖谕。祗奉纶言精守振越。玄奘行业空疏谬参缁侣幸属九瀛有截四海无虞凭皇灵以远征。恃国威而访道。穷遐冒险虽励愚诚。纂异怀荒实资朝化所获经论蒙遣翻译。见成卷轴志有铨序。伏惟陛下睿思云敷。天华景烂。理苞系表调逸咸英。跨千古以飞声。掩百王而腾实。切以神力无方。非神思不足铨其理。圣教玄远。非圣藻何以序其源。故乃冒犯威严敢希题目。宸眷冲邈不蒙矜许。抚躬累息相顾失图。奘闻。日月丽天。既分辉于户牖。江河纪地。亦流润于岩崖。云和广乐。不秘响于聋瞆。金玉奇珍。岂韬彩于愚瞽。敢缘此理重有干祈。伏乞雷雨曲垂天文俯照。配两仪而同久。与二曜而俱县。然则鹫岭微言。假神笔而弘远。鸡园奥典。托英词而宣扬。岂止区区梵众独荷恩荣。蠢蠢迷生方超尘累而已。制许之。

  (二十五 丁未) ○作翠微宫于终南山。

  是岁帝得秘谶云。唐三世而后女主武王代有天下。遂密召太史令李淳风访其事。对曰。臣据术推之。其兆已成。今在陛下宫中矣。逾三十年当有天下。诛唐子孙殆尽。帝曰。疑似者杀之何如。对曰。天命不可易。且真王者不死。徒使疑似之戮淫及无辜。今既在宫。已是陛下眷属。更三十年又当衰老。老则心慈。虽受终易姓。于陛下子孙或不甚损。今若戮之。即当复生少庄严毒。况又立仇则陛下子孙必无遗类。帝善其言而止。

  (二十六 戊申) 二十二年六月。帝在玉华宫。召法师玄奘至。乃曰。朕在京苦暑。故就此宫。泉石既凉气力稍佳。然忆法师故兹相屈。涉涂当大劳也奘谢曰。四海黎庶。依陛下而生。圣躬不安。则率土煌灼。伏闻。銮舆至此御膳顺宜。凡预含灵孰不无蹈。愿陛下永保崇高。与天地无极。玄奘庸薄猥蒙齿召。衔荷而来。不觉为劳。帝以法师德业冲博仪表绝伦。欲令罢道共康庶政。因曰。昔三五帝王。靡不以六合务广万机事殷。不能遍理。故周凭十乱。舜托五臣。翼亮朝猷弼谐邦国。彼盛明之后且尔。况朕寡昧而不寄众哲哉。意欲法师脱缁服挂纁衣。升铉路以陈谋坐槐庭而论道。师意何如。对曰。玄奘微生伏奉明诏。称三五之君不能独治。寄诸贤哲共而成之。此陛下盛德含光谦让之词。在理则不尔也。何哉。使臣能至治。桀纣柏灵之君岂无臣耶。以此而言不必由也。伏惟陛下圣哲之治。一人纪纲万事咸得其绪。况抚运已来。天地休平中外宁晏。皆陛下不荒不矜不丽不侈。兢兢业虽休勿休居安思危。为善承天之所致也。余何预焉。请粗陈其梗概。陛下经纬八纮驱驾豪杰。戡定祸乱崇阐雍熙。聪明文思之德。体元合极之姿。皆天之所授。无假于人。一也。敦本弃末崇儒尚德。移浇风于季俗。反淳政于上古。赋遵薄制刑用轻典。九州四海禀识怀生。俱沐恩波咸遂安逸。此又圣心自化。无假于人。二也。至道旁通深仁远洽。东逾日域西迈昆丘。南尽炎州北穷玄塞。雕题鼻饮之俗。卉服左衽之人。靡不候风瞻雨稽颡屈膝。献琛贡宝充委夷邸。此又天威所感。无假于人。三也猃狁为患其来自久。五帝所不止。三王莫能制遂使渭河为被发之野。酆鄗为鸣镝之场。中国陵迟匈奴得逞。殷周已来不能攘弭至汉武穷兵卫霍尽力。虽收枝叶根本犹存。自是而后无闻良策。陛下御图一征斯殄倾巢倒穴无复孑遗。浣海燕然之域。尽入提封。单于弓骑之人。俱充臣妾。若言由人。则虞舜已来贤辅多矣。何因不获。故知有道斯得。无假于人。四也。高丽小蕃失礼上国。炀帝总天下之师三自征伐。攻城无伤半堞。掠卒不获一人。虚丧六军狼狈而返。陛下暂行提数万骑。摧驻跸之强阵。破辽盖之坚城。振旅凯旋俘馘三十余万。用兵御将其道不殊。隋以之亡。唐以之得。故知由主无假于人。五也。天地交泰日月光华。和气氤氲庆云纷郁。五灵见质一角呈奇。白狼白狐朱雁朱草。昭章杂沓无量亿千不可遍举。皆应德而至。无假于人。六也。明诏乃欲比喻前王寄功十乱。切为陛下不取。总复须才。今亦伊吕多矣。

  (二十七) 玄奘庸陋何足以预之。至于守戒缁门阐扬遗法。此其诚愿。伏乞天慈终而不夺。帝大悦曰。师所陈并上玄垂祐。及宗庙之灵卿士之力。朕安能自致哉。师既欲敷扬妙道。亦不固违高志。中书令褚遂良曰。今四海廓清九域宁晏。皆陛下圣德。实如法师之言。帝笑曰。不如此。珍裘岂一狐之腋。大厦必众材共成。何有君能独济。法师欲自全雅操。故滥相光饰耳。因问比译何经。对曰。瑜伽师地论。帝曰。明何等此。对曰。此弥勒大士所造明十七地义。曰何谓十七地。奘曰。六识相应地。有寻有伺地。无寻唯伺地。无寻无伺地。三摩呬多地。有心地无心地。闻所成地思所成地。修所成地。声闻地。独觉地。菩萨地。有余依地。无余依地是为十七。及标举纲目陈列大义。帝深爱焉。遣使取论入宫凡一百卷。帝自详览睹其词义宏奥。非向所闻。谓侍臣曰。朕观法师新译经论。犹瞻天啖海莫极高深顷既军国务殷。未暇委寻。今而后知宗源杳旷。顾儒道九流犹汀滢之方溟渤耳。因敕有司拣秘书手写新译经论各九部。令宣赐九道总管展转流布。冀率土之内同禀未闻之法。

  司徒长孙无忌。中书令褚遂良。奏曰。佛教冲玄天人莫测。言本则甚深。语门则难入。伏惟陛下至道照明辉光昱日。泽沾遐界化溢中区。拥护五乘建立三宝。致法师当叔叶而秀质。闲千载而挺生。陟重险以求经。履危涂而访道。见珍异俗具获真文。归国翻宣。若庵摩之始说。精文奥义。犹金口之新开。皆陛下圣德所感。臣等愚瞽预此见闻。苦海波澜舟航有寄。况天慈广远使布之九州。蠢蠢黔黎俱餐妙法。臣等亿劫忻逢。不胜庆幸。

  (二十八) 六月。帝撰大唐三藏圣教序成。御庆福殿百官陪位。宣法师玄奘升殿赐座。敕弘文馆学士上官仪。以序对群臣宣读。霞焕锦舒极褒扬之美。其辞曰。盖闻。二仪有像。显覆载以含生。四时无形。潜寒暑以化物。是以窥天鉴地。庸愚皆识其端。明阴洞阳。贤哲罕穷其数。然而天地包乎阴阳而易识者。以其有象也。阴阳处乎天地而难穷者。以其无形也。故知像显可徴。虽愚不惑形潜莫睹。在智犹迷。况乎佛道冲虚乘幽控寂。宏济万品典御十方。举威灵而无上。抑神力而无下。大则弥于宇宙。细则摄于毫厘。无灭无生。历万劫而不古若隐若显。运百福而长今。妙道凝玄。遵之莫知其际。法流湛寂。揖之莫测其原固知蠢蠢凡愚区区庸鄙。投其旨趣能无疑惑者哉。然则大教之兴基于西土。腾汉庭而皎梦。照东域而流慈。昔者分形分迹之时。言未驰而成化。当常现常之世。民仰德而知遵。及乎晦迹归真迁仪越世。金容掩色。不镜三千之光。丽像开图空端四八之相。于是微言广被。拯含类于三涂遗训遐宣。导群生于十地。然而真教难仰。莫能一其旨归。曲学易遵。邪正于焉纷纠。所以空有之论。或习俗而是非。大小之乘。乍沿时而隆替。有玄奘法师者。法门之领袖也。幼怀贞敏。早悟三空之心。长契神情。先包四忍之行。松风水月。未足比其清华。仙露明珠。讵能方其朗润。故以智通无累神测未形。超六尘而迥出。夐千古而无对。凝心内境。悲正法以陵迟。栖虑玄门。慨深文之讹阙。思欲分条析理广彼前闻 截伪续真开兹后学。是以翘心净土往游西域。乘危远迈仗策孤征。积雪晨飞涂闲失地。惊沙夕起空外迷天。万里山川泼烟霞而进影。百重寒暑。蹑霜露而前踪。诚重劳轻求深愿达。周游西宇十有七年。穷历异邦询求正教。双林八水味道餐风。鹿苑鹫峰瞻奇仰异。承至言于先圣。受真教于上贤。探赜妙门精穷奥义。一乘五律之道驰骤于心田。八藏三箧之文。波腾于口海爰自所历之国。总将三藏要文凡六百五十七部。译布中夏宣扬胜。业引慈云于西极。注法雨于东垂。圣教阙而复全。苍生罪而还福。湿火宅之干焰。共拔迷途朗爱水之昏波同臻彼岸。是知恶因业坠善以缘升。升坠之端唯人所记。譬夫桂生高岭。零露方得泫其华莲出绿波。飞尘不能污其叶。非莲性自洁而桂质本贞。良由所附者高则微物不能累。所凭者净则浊类不能沾。夫以卉木无知。犹资善而成善。况乎人伦有识。不缘庆而求庆。方冀兹经流施。将日月而无穷。斯福遐敷。与乾坤而永大。于是御笔亲书。缀于新经之首。法师奉表。谢曰。六爻探赜。局于生灭之场。百物正名。未涉真如之境。远惟羲册睹奥不测其神遐想轩图历选普归其美。恭惟陛下玉毫降质金轮御天。廓先王之九州。掩百千之日月。广利代之区域。纳恒沙之法界。遂使给孤精舍尽入提封。贝叶灵文咸归册府。玄奘往因振锡聊谒崛山。经途万里。怙天威如咫步。匪乘千叶。诣双树如食顷。搜扬三藏。尽龙宫之所储。研究一乘。穷鹫岭之遗旨。并已载于白马还献紫宸。寻蒙下诏敕使翻译。玄奘识乖龙树。谬忝传灯之荣。才异马鸣。深愧泻瓶之敏。所译经论纰舛尤多。遂荷天威留神制序。文超象系之表。理括众妙之门。忽以微生亲闻梵响。踊跃欢喜如闻授记。无任感荷之极。手敕答曰。朕才谢圭璋言惭博达。至于内典尤所未闻昨制序文深惭鄙拙。秽翰墨于金简。标瓦砾于珠林。忽得来书谬承褒赞。循躬省虑弥益厚颜。善不足称虚劳致谢。

  (二十九) 时皇太子睹圣序遂撰述圣记。法师进启奉谢。帝复览新译菩萨藏经。爱其辞旨微妙。因诏皇太子撰菩萨藏经后序。其辞曰。盖闻。羲皇至赜。精粹止于龟文。轩后幽通。雅奥穷于鸟篆。考丹书而索隐。殊昧实际之源。徴录错以研几。盖非常乐之道犹且事光图史。振薰风于八埏德洽生灵。激尧波于万代。伏惟陛下转轮垂拱而化渐鸡园。胜殿凝旒而神交鹫岭。总调御于徽号。匪文思之所窥。极般若于纶言。岂象系之所拟。由是教覃溟表。咸传八解之音。训浃寰中。皆践四禅之轨。遂使三千世界。尽怀生而可封百亿须弥。入提封而作镇。尼莲德水。迩帝里之沧池。舍卫庵园。接上林之茂苑。虽复法性空寂。随感必通。真乘深妙无幽不阐。所以大权御极。导法流而靡穷。能仁抚运。拂劫石而无尽。体均相具不可思议。校美前王。焉可同年而语矣。爰自开阐地限流沙。震旦未融灵文尚隐。汉皇精感。托梦想于玄宵。晋后翘诚。降修多于白马。有同蠡酌。岂达四海之涯。取譬管窥。宁穷七曜之奥。洎乎皇灵遐畅。威加铁围之表。至圣发明德被金刚之际。恒沙国土普袭衣冠开解脱门践真实路。龙宫梵说之偈。毕萃清室。猊吼贝叶之文。咸归册府。洒兹甘露普润芽茎。乘此惠云遍沾翾走岂非归依之胜业。圣政之灵感者乎。菩萨藏经者。大觉义宗之要旨也。佛修此道已证无生。菩萨受持咸登不退。六波罗蜜关键所资。四无量心根力斯备。盖彼岸之津涉。正觉之梯航者焉。贞观年中身毒归化。越热坡而颁朔跨悬渡而输琛。文轨既同道路无壅。法师玄奘振锡寻真。出自玉关长驱奈苑。于天竺力士生处。访获此经。归而奏上。降旨翻译。于是毕功。余以问安之暇。澄心妙法之宝奉述天旨微表赞扬。式命有司缀于卷末。帝自是情信日笃平章法义不辍于口。与法师相得之深。无时暂闲。凡衣服卧具频诏换易。如家人焉。

  (三十) 八月丙申。赐奘百金磨衲并宝剃刀。奘奉表谢。略曰。忍辱之服。彩合流霞智惠之刀。铦逾切玉。谨当衣以降烦恼之魔。佩以断尘劳之网。帝自伐辽而还。气力不逮平昔有忧生之虑。既遇法师留神大教稍遂平复。因问欲植法门之益何所宜先。奘对曰。众生寝惑非惠莫启。惠芽抽植法为之资。弘法须人即度僧为最帝悦。

  九月乙卯。诏曰。隋季失御天下分崩。四海涂炭八埏鼎沸。朕属当戡乱亲履兵锋。亟犯风霜宿于马上。顷加药饵犹未痊除。比日以来方遂平复。岂非福善之致耶。京城及天下诸州寺。各度僧五人(时天下寺三千七百余所。度僧凡一万七千余人)。

  (三十一) 十月车驾还京师。敕有司于北阙紫微殿西南创弘法院。留奘居禁中。昼则陪御谈论夜分就院译经。

  (三十二) 十二月。皇太子为文德皇后创大慈恩寺成。诏选京城宿望五十大德。各度侍者六人。入居新寺。是月丙辰。太子备宝车五十乘。迎诸大德。并彩亭宝刹数百具奉安新获梵夹诸经及瑞像舍利等。敕太常九部乐及长安万年音乐京城诸寺。花幡导引入寺。帝御安福门楼。执炉致敬。经像过尽始罢。皇情大悦。

  (三十三 己酉) 二十三年四月。帝幸翠微宫。法师玄奘陪驾。每谈叙渊奥。帝必攘袂曰。与法师相值恨晚耳。未尽弘法之意。夏五月不豫。诏太尉长孙无忌中书令褚遂良入卧内。嘱曰公等忠烈着在朕心。昔汉武托霍光。刘备嘱诸葛亮。朕之后事一以委卿。太子仁孝。必须尽诚辅导永保社稷。无忌等叩头流涕。帝复执太子手曰。无忌遂良在。国家事汝无忧矣。是年崩于含风殿年五十有三。

  (三十四) 唐史赞曰。甚矣至治之君不世出也。禹有天下传十有六王。而少康有中兴之业。汤有天下传二十八王。而其甚盛者号称三宗。武王有天下传三十六王。而成康之治与宣之功。其余无所称焉。虽诗书所载有时阙略。然三代千有七百余年。传七十余君。其卓然着见于后世者。此六七君而已。呜呼可谓难得也。唐有天下传世二十。其可称者三君。玄宗宪宗皆不克其终。盛哉太宗之烈也其除隋之乱。比迹汤武。致治之美。庶几成康。自古功德兼隆。由汉以来未之有也。至其牵于多爱。复立浮图。好大喜功勤兵于远。此中材庸主之所常为。然春秋之法常责备于贤者。是以后世君子之欲成人之美者。莫不叹息于斯焉。

  论曰。君子谓立言之难其实非难。特为好恶所欺耳。如欧阳文忠公作太宗本纪赞。虽笔高语奇杰出诸史。至贬太宗复立浮图好大喜功勤兵于远类中材庸主所为而不取。予谓文忠责备之深。而为好恶所欺也。方贞观之世。天下昆虫草木咸被其泽。至于日月霜露所至之国。皆款关而修职直。独高丽莫离支叛逆阻命。太宗身任千载道德英雄之主。其肯坐视之。留为子孙忧。而不少假经略乎。盖其威德之盛。其势之必然。非好大喜功之谓也。昔黄帝平蚩尤。七十战而胜其乱。高宗伐鬼方。三年而后克。太宗举偏师而阴山平。临驻跸而高丽服。然黄帝高宗。经孔子而未尝少贬。文忠特以为太宗之疵。庸讵非责备之过与。以太宗盛德大业如此。犹曲贬之将恐后之君子。怀免贬之难而无意于功名也。文忠徒欲高尚其事。而不知此亦自蹈好大之失。矣至于复立浮。图乃所以和顺道德。而齐天地鬼神之心。以开济天下后世之人。为无穷之益也。文忠以为不当。则是太宗暗于取舍矣。使太宗果暗于此。则当时房杜王魏之流。亦因循户禄而暗于取舍者耶。或曰。文忠慕韩愈为人。故不得不尔。呜呼文忠何忍哉。慕人毁佛而兼弃太宗之道德。是不为好恶所欺耶。孔子立名教者也。老氏则非毁之。及孔子删礼。则曰。吾闻诸老聃云。然孔子亦以人而废言乎。亦若世情之好恶耶。况真佛也者耶。圣凡本有之体。毁之乃所以自毁之也。讵伤于真佛哉。尝闻文忠一昔梦。为勇士数辈摄至太宗之庭。太宗怒而责曰。吾文武勋烈如此。不能逃子之贬何也。文忠震惧而寤。后欲追改之。而业已进书颁行矣。遂不克改。尝慨然曰。平怀最难。此殆非偶然而云耳。

  佛祖历代通载卷第十一

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第十二

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  唐

  (一 庚戌) 高宗治改永徽(字为善。小名雉奴。太宗第九子。年五十六崩葬乾陵。在位三十四年。一云。三十六年。或云。三十年○复以周公为先圣。孔子为先师)。

  (辛亥) 世尊示灭一千六百年矣。

  (二) 四祖道信大师示寂。师姓司马。世居河内。后徙蕲州。生而超异。幼慕空宗诸解脱门。宛如夙习。既绍祖位。摄心无寐胁不至席者。仅六十年。隋大业末。领众至吉州。值群盗围城。七旬不解万众惶怖。师悯之。教诵摩诃般若。既而贼众望雉堞间。若有神兵。乃相谓曰。城中必有异人。遂即引去。武德中始居破头山学徒奔凑。尝一日于黄梅道中逢一小儿。骨相秀异。师曰。汝何姓。答曰。姓即有不是常姓。师曰。是何姓。答曰。是佛性。师曰。汝无性耶。答曰。性即空故。师默识其为法器。令侍者诣其母求之出家。母以夙缘故了无难色。以至传衣付法。偈曰。华种有生性。因地华生生。大缘与信合。当生生不生。遂以学徒委之。一日告众曰。吾尝游庐山。登绝顶望破头山。见紫云如盖。下有白气横分六道汝等会否。众皆默然。忍大师曰。莫是和上他后横出一枝佛法否。师曰善。贞观末太宗向师道味欲瞻风彩。诏赴京师师上表逊谢。前后三返竟以疾辞。第四度命使者曰。如果不起即取首来。使至山谕旨。师乃引颈就刃神色怡然。使异之。回以状闻。帝弥加叹慕。就赐珍缯以遂其志。及是忽垂诫门人曰。一切诸法悉皆解脱。汝等各自护念流化未来。言讫安坐而逝。寿七十有二。塔于本山。明年四月八日。塔户无故自开。仪相如生。尔后门人不敢复闭。代宗谥大医禅师云。

  (三 壬子) 雁塔成。太宗二十二年。上在春宫日。天阴掌疼问及左右对曰。应是太子洞玄下针处于是思报昊天追崇福业。命有司择地为母文德顺圣皇后建慈恩寺。凡十余院。一千八百九十七间。度僧三百员。敕奘三藏为上座。盛事如碑所载。至今永徽三年。帝用七宫亡者衣物财帛而建此塔于慈恩寺。其基四面各一百四十尺。仿西域制度而有五级。并象轮露盘高一百八十尺。层层中心皆葬舍利。不啻万颗。上层以石为室。南面立碑。载二圣所制三藏圣教序记。乃尚书右仆射河南公褚遂良笔也○西域之制以塔为方坟。然有四类。轮王一级。声闻四级。独觉十二级。菩萨如来十三级。各有所表也。

  (四 癸丑) 四年禅师惠宽卒。生杨氏。父为道士。号三洞先生。姊信相生而知道。终日凝然禅寂。宽五六岁日与信相谭论。俱非世事。家世奉道宽独不喜。父诟厉使拜天尊。宽不得已跪之。铁像蹶然崩坏。举族惊异。因录每与信相所论言句。先是龙怀寺禅师昙相临终。语弟子会曰。吾报缘当生广汉绵竹峰顶杨氏家。后七年汝来见吾。言讫而逝。其后会颇忘之。一昔梦相责以负约。会惊寤遂造峰顶而扣其扉。宽曰。扣扉者谁。会遽曰。弟子会也。宽笑曰。何以知吾而称子。会曰。得师声犹昔日声也。遂相见。其父出所录每与信相谭论示之。盖大庄严等论。会即奉宽再归龙怀寺落发。由是神异日显。俗呼圣和上。其姊信相亦随出家。尝因净惠寺异僧入定。满寺红焰亘然。而人未识之。信相曰。此火聚尊者入火光三昧耳。因入其寺。入水观一室湛然。唯水不见其形。异僧钦叹以为得果。时亦号圣尼。宽十世为大僧。今十生记存焉。累朝赐谥不一。

  (五 甲寅) 五年中天竺国摩诃菩提寺。遣僧致法师玄奘书。并献方物。其辞曰。微妙吉祥世尊金刚座侧摩诃菩提寺诸多闻众所共围绕上座惠天。致书摩诃支那国于无量经律论妙尽精微木叉阿遮利耶。敬问无量少病少恼。我惠天苾刍今造佛大神变赞颂及诸经论比量智等。今附苾刍法长将往。此无量多闻长老大德阿遮利耶。智光亦同前致问。邬波索迦日授稽首和南。今共寄白㲲一双示不空心。路远莫怪其少。愿领。彼须经论录名附来。当为抄送。木叉阿遮利耶愿知。及法长辞还。奘答长老智光书。其略曰。往年使还承正法藏大师无常。奉问摧割不能已已。呜呼苦海舟沉人天眼灭。迁夺之痛何可述欤。昔大觉潜辉。迦叶绍宗洪业。商那迁逝。鞠多阐其嘉猷。今法将归真。法师次任其事。惟愿清辞妙辨。共四海而弘流。福智庄严。与五山而永久。玄奘所将经论已翻瑜伽师地论等大小三十余部。即日大唐天子圣躬万福率土安民。以轮王之慈。敷法王之化。所出经论并蒙神笔制序。令所司抄写国内流行。爰及邻邦亦俱遵奉。虽居像季之末。而教法光荣邕邕穆穆。亦不异室罗筏逝多林之化也。伏愿照知。顷信度河失经一驮。今录名于后。有便请为附来。并有片物供养。愿垂纳受。是岁特旨度沙弥窥基为大僧。入大慈恩寺参译经正义。基姓尉迟代郡人(鄂国公敬德之侄。右金吾卫将军敬宗之子)母裴梦掌月轮吞之而孕。诞夕神光盈室。甫六岁能著书。初法师奘公于西域得一童子。敏悟绝伦。因携之诣宗。宗呼基出拜。奘使诵所著兵书。且数千言。奘数目童子。及基诵毕。奘绐之曰。此古书耳。宗未之信。奘令西域童子覆诵之。不差一字。宗大怒。以基窃古书罔已将杀之。奘就丐出家。基曰。听我御荤色晚膳即从出家。不然宁伏剑死不为饿死。奘爱其俊而许之。遂从入道。每览疏记过目成诵。义亦顿解。善大小乘。既参译经。从奘受瑜伽唯识宗旨。著论凡百部。时号百本论师。然性豪侈。每出必治三车。亦号三车法师。

  (六 乙卯) 六年五月。法师玄奘译因明论。沙门神泰等各造义疏释之。法师栖玄者。以其论示尚药奉御吕才。才深艺之士也。颇毁其文。作因明注解破义图。轻薄者听信之。秋七月译经法师惠立致书左仆射于志宁斥其谬。辞曰。闻诸佛之立教。文言奥远旨义幽深。等圆穹之寥廓。类沧波之浩浣。谈真如之性相。居十地而尚迷。说小草之因缘。处无生而犹昧。况有萦缠八邪之网。沉沦四倒之流。而欲窥究宗因辨彰其理者。无乃惑哉。切见大慈恩寺翻经法师惠基。早树智力夙成行洁。圭璋操逾松杞遂能。躬游圣域询禀微言。擅三藏于胸怀。苞四含于掌握。嗣清徽于曩哲。扇遗范于当今。实季俗之舟航。信缁林之龟鉴者也。所翻圣教已三百余轴。中有小论。题曰因明。诠论难之旨归。序催邪之轨式。虽未为玄门之要妙。亦非造次之所知。近闻尚药吕奉御。以常人之资。窃众师之说。造因明图释宗因义。不能精悟好起异端。苟觅声誉妄为穿凿。排众德之正说。任我慢之[恹-猒+扁]心。媒炫公卿之前。嚣諠闾巷之侧不惭颜厚靡倦神劳。数易炎凉心犹未已。然奉御于俗事少间。遂谓真宗可了。何异鼷鼠见釜灶之堪陟。乃言昆阆之不难。蛛螫睹棘林之易罗。遂谓扶桑之可网。不量涯分无以异斯。况大音希声大辩若讷。所以净名契理杜口毗耶。尼父德高恂恂乡党。未闻夸矜自媒而获缙绅之推仰也。立致书其事稍息。

  冬十月丁酉。太常博士柳宣。以其事寝。作归敬书并偈。檄译经大德。求毕其说。于是法师明?。答还述颂并书。极大尊严。而训吕才妄举。柳宣得书即劾吕才。列奏其事。有旨集公卿学士。领才诣慈恩寺。见法师受辞悔谢而退。

  (七 丙辰) 改显庆正月丙寅。立代王弘为皇太子。是日于慈恩寺斋僧五千员。敕黄门侍郎薛元超主其事。因问法师玄奘前代翻经之式。对曰。汉魏既远未可详论。晋宋已来翻经皆有监阅详缉之官。故符坚时昙摩难提译经。黄门赵整执笔。姚兴时罗什译经。兴及姚嵩执笔。后魏菩提流支译经。侍中崔光笔授。以至梁陈周隋之代。并亦如之。贞观初年波颇那罗译经。先帝敕赵郡王孝恭詹事杜正伦监护。今特阙如。又大慈恩寺庄丽轮奂今古罕俦。尚未建碑。贫道怀此二寺。愿闻之于上也。元超奏其语制可。

  (八) 是月壬申朝会中书令崔敦礼宣敕曰。大慈恩寺法师。玄奘新翻经论文义须精。宜令左仆射于志宁。吏部尚书来济。礼部尚书许敬宗。黄门侍郎薛元超。中书侍郎李义府杜正伦。时为看阅。或不稳处随事润色。朝罢遣内给事王君德。报法师曰。承须友人助翻经。已为处分于志宁等。其慈恩寺碑。朕望自作。不知师意如何。且令相报。奘奉旨。即率众诣阙抗表陈请。未几高宗亲制大慈恩寺碑文成。遣长孙无忌遍示群公。其辞曰盖闻乾坤缔构之初。品物权舆之始。莫不载形厚土藉覆穹苍。然则二曜辉天靡测。盈虚之像四溟纪地。岂究波澜之极。况乎法门虚寂。出生不灭之前。圣教牢笼。示有无形之外。故以道光尘劫化洽生灵。缅惟王宫发迹。莲披起步之花。神沼腾光。树曲高堤之?。演德音于鹿苑。会多士于龙宫。福已罪之群生。兴将灭之人代。能使下愚抱道。骨碎寒林之野。上哲钦风。身没雪山之偈。丝流法雨。清火宅以辞炎。轮升惠日。皎重冥而归昼。朕逖览缃史详观道义。福永劫者。其唯释教欤。文德皇太后凭柯琼树疏派泉源。德照涂山道光妫汭。流芬彤管。彰懿则于八纮。垂训紫宫。扇徽猷于万古。遽而乾精掩月永戢贞辉。坤维绝纽长沦茂毓。抚奁镜而增感望陟屺以何追。仲由兴叹于千钟。虞丘致哀于三失。朕之罔极。实有切于终身。故载怀兴缉创斯金地。却背邠郊点千庄之树锦前临终岳。吐百仞之峰莲。左面八川。皎池光而分镜。右邻九达。飞羽盖以连云抑天府之奥区。信上京之胜地。迹其雕轩架迥绮阁凌虚。丹空晓乌。焕日宫之泛丽。素天初兔。鉴月殿而澄辉。薰径秋兰。疏亭佩紫。芳岩冬桂。蜜户丛丹。灯皎繁花。焰转心中之鹤幡标迥刹。彩萦天外之虹。飞陛参差。含文露而栖玉。轻帘舒卷。网靥面而编珠。霞班低岫之红。池漠泛烟之翠。鸣珮与宵钟合韵。和风共晨梵分音。岂直香积天宫远惭轮奂。阆风仙阙遥愧雕华而已哉。有玄奘法师者。实真如之冠冕也。器宇凝邃若清风之肃长松。缛思繁蔚。如绮霞之辉迥汉。腾今照古之智。挺自生知。蕴寂怀真之诚。发乎龆龀。孤标一代迈生。远以照前。迥秀千龄。架澄什而光后。以为淳风替古浇俗移今。悲巨夜之长昏。痛微言之永翳。遂投迹异域广餐秘教。乘杯云汉之外。振锡烟霞之表。滔天巨海。浸惊浪而羁游。亘地严霜。犯凄氛而独逝。平郊散叙。衣单雪岭之风。旷野低轮。肌弊流沙之日。遐征月路。影对宵而暂双。远迈危峰。形临朝而永只。思穷妙境探赜至真。心罄玄津研几秘术。通昔贤之所不达。悟先典之所未闻。遂得金牒东流。续将绝之教。宝偈西徙补已阙之文。时眷灵基栖心此地。弘宣奥旨。叶重翠于祇林。远辟幽关。波再清于定水。朕之虔心八正肃志双林。冀延景福式资冥助。奉愿皇太后逍遥六度。神游丹阙之前。偃息四洲。魂升紫极之境。悲夫。玉烛易往。促四序于炎凉。金箭难留。驰六龙于晷漏。恐波迁树在。移溟海以变桑田。地是势非。沦高岸而为幽谷。于是敬刻贞石式旌真境。铭不录。

  三月庚申。百僚奉表美扬圣制。别诏礼部尚书许敬宗送碑文示法师玄奘。甲子奘率徒诣阙。奉表谢曰。造化之功。既播物而成教。圣人之道。亦因辞而见情。然则画卦垂文。空谈形于器宇。设爻分象。实未越于寰域。羲皇之德。尚见称于前古。姬后之风。亦独高于后代。岂若开物成务。阐八正以摛章。诠道立言。证三明而导俗。理穷天地之表。情该日月之外。校其优劣。斯为盛矣。共惟陛下金轮在运玉历乘时。化洽四洲仁覃九有。道苞前圣功茂乃神。纵多能于生知。资率由于天至。始悲奁镜即创招提。俄树胜幢乃敷文律。若乃天华款发睿藻波腾。吞笔海而孕龙宫。掩词林而苞鹤树。内该八藏。外核六经。奥而能典。宏而且密。使祇园遗迹。托宝思而弥高。奈苑余芳。假琼章而不朽。岂直抑扬梦境昭晰迷途。谅以镕范四天牢笼三界者矣。奘以其文宜得圣笔自写。因抗表劝请制不许。再表遂许之。

  四月八日。奘率京城僧尼。备幢幡宝辇香花梵仪扣芳林门迎御制碑。敕太常九部乐并长安万年二县乐戏及戚里侯王耆耋送之是日以雨不克。十四日遂迎之。旧史本纪云。帝御安福门楼观。法师玄奘迎御制大慈恩寺碑导从。以天竺法仪。其徒甚盛。帝望之大悦。

  (九) 五月法师玄奘寝疾。敕尚药奉御蒋孝章针医上官琮专视病。又遣北门使者伺气候递报消息。奘因陈先朝以释氏名位次道流之下。先帝晚年许为改正。又永徽初敕僧尼罪犯情难知者。同俗法推鞠。奘虑疾病委顿永隔天颜。附内使以闻。即日敕使报曰。所陈但佛道名位先朝处分事须平章。其同俗敕即为除落。师宜安意将息。奘疾寻愈。

  十一月会天后难月。命入宫祈福。及分难神光满宫。自庭烛天因号佛光王(即中宗也)初帝尝谓奘曰。若生男子即听出家。至是奘奉表请许。佛光王出家绍隆三宝。制可。

  (十 丁巳) 二月幸洛阳。诏奘陪驾。五月奘辞还陈留。改葬父母。敕有司给葬具。

  六月。召法师惠立与道士张惠。先辨二教先后。大臣临证惠先义负。

  (十一) 金陵牛头山法融禅师者。润州廷陵人也。姓韦氏。年十九学通经史。寻阅大部般若晓达真空。忽一日叹曰。儒道世典非究竟法。般若正观出世舟航。遂隐茅山投师落发后入牛头山幽栖寺北岩之石室。有百鸟衔花之异。唐贞观中。四祖遥观气象。知彼山有奇异之人。乃躬自寻访。问寺僧此间有道人否。曰出家儿那个不是道人。祖曰。阿那个是道人。僧无对。别僧云。此去山中十里许有一懒融。见人不起亦不合掌。莫是道人。祖遂入山。见师端坐自若曾无所顾。祖问曰。在此作什么。师曰。观心。祖曰。观是何人。心是何物。师无对。起曰。师自何来。尝识道信大师否。曰即贫道是也融再拜请示心法。祖曰。夫百千法门同归方寸。河沙妙德尽在心源。一切戒定慧门神通变化悉自具足不离汝心。一切烦恼业障本自空寂。一切因果皆如幻梦。无三界可出。无菩提可求。人与非人性相平等。大道虚旷绝思绝虑。如是之法汝今已得。更无欠少与佛何殊。汝但任心自在。莫作观行。亦莫息心。莫起贪嗔。莫怀愁虑。荡荡无碍任意纵横。不作诸善不造众恶。行住坐卧触目遇缘。皆是佛之妙用快乐无忧。故名为道。融曰。心既具足复谁是佛。又谁为心。祖曰。非心不问佛。问佛非不心。融曰。既不许作观行。于境起时如何对治。祖曰。境缘无好丑。好丑起于心。心若不强名。妄情何由起。妄情既不起。真心任遍知。汝但随心自在无复对治。即名常住法身无有变易。吾受璨大师顿宗法门。今以付汝。汝谛受吾言可止此山。当有五大士绍汝玄化。祖付法已归于双峰。师至显庆二年闰正月二十三日。终于建初寺。寿六十四。腊四十一。窆于鸡笼山。会送者万余人。广如传灯具载。

  (十二 戊午) 夏四月。追僧道各二七人入宫论议。道士李荣以本际立义。法师义褒徴曰。既标本际。为道本于际耶。际本于道耶。荣曰。互得。褒曰。若道本于际际为道本。则亦可际本于道道为际源。荣曰。亦通耳。褒曰。若本际与道互得相返。则亦可自然与道互相法也。荣曰。道法自然。自然不法道。褒曰。若尔则道本于际。本际不本于道矣。荣意前言之失不复主义。以他语嘲褒。褒正色曰。对万乘之前立论。申明邪正以简帝心。岂以他辞尘渎天听。荣惭服。帝嘉之令引荣退席。揖黄颐对褒谈论。极莫而罢。

  (十三) 是岁法师玄奘抗表。辞入嵩山少林寺。专意译经。降御札报曰。省表知欲晦迹岩泉。追遁远而架往。托虑神寂。轨澄什以标今。仰揖风规是所钦尚。朕业空学寡靡究高深。然以浅识薄闻未见其可。法师津梁三界汲引四生。智皎心灯定凝意水。非情尘之所翳。岂识浪之能惊。道德可居。何必太华叠岭。空寂可舍岂独少室重峦。幸戢来言勿复重请。则市朝大隐。不独贵于前贤。见闻弘益。更可珍于即代。奘进启奉谢。略曰。昔季重蒙魏君之礼。唯叙睽离。惠远辱晋后之书。才令给米。未睹辞兼空寂可舍之旨。诲示大隐市朝之情。故知人主之怀穷真罄俗。综有该无。超羲轩而更高。驾曹马而逾远者矣。时奘公道震天下。谋欲禁止旧经唯弘新典。有禅师法冲者。善楞伽宗旨。雅为房梁公所重。因见奘而谏之曰。闻君将废罢旧经不许弘宣。此未可也。法师顷依旧经入道。今若弃旧崇新。则法师亦当返初复依新经出家可乎。奘悟而止。

  (十四 己未) 四年帝在合璧宫。追僧道论义。法师会隐立五蕴义。法师神泰立九断知义。道士李荣黄寿不知名义。茫如梦海。虽事往返而廓落无归。遂敕道士立义。于是李荣立道生万物义。法师惠立问曰。先生立道生万物。未审此道是有知耶是无知耶。荣曰。人法地。地法天。天法道。既为天地之法。岂曰无知。立曰。必若有知则合唯生于善。何故亦生于恶。既善恶升沈丛杂混生则无知矣。请试剧陈之。如上古未开辟时。何不早生今日圣明子育黔黎与之荣乐。乃先诞共工蚩尤桀纣幽厉之徒而残贼斯民耶。人臣之中。何不唯生稷契夔龙之辈。而使飞廉恶来靳尚新莽之俦谀谄其君致邦国倾乱耶。羽族之中。何不唯生鸾凤嘉禽。而更生枭镜恶鸟乎。毛群之中。何不唯生麒麟骅骝。复生豺狼豪猬乎。以至草木等类美恶不同。既混糅俱生不别善恶。则道无知不能生物。云何得称天地取法而生万物乎。据佛世尊穷理尽性之教则天地万物是业。众生以业力故所感不同。以善业胜者。则琉璃为地。黄金为道。琼树荫陌。玉叶垂亭。甘露充餐。绮衣为座。恶业多者。沙壤为地。瓦砾为衢。稗饭充饥。麻衣蔽体。泥行雨宿。霜获暑耕。皆自业所感无人使之。吾子心迷不识。妄言道生。一何可悯。荣愕然不知所对。惠立乘机拂弄。荣亦杜默遂赧然下座。揖黄寿前席。立老子名义。法师会隐以老子国家先宗。既难其名恐有触犯。即奏曰。黄寿身预黄冠不知讳忌。城狐社鼠犹事依凭。国家远承龙德之后。陛下老氏子孙。岂有对人子孙而公谈祖讳。至如五千言中大有好义。寿不能标列而说圣人之名。计罪论刑死有余及。帝肯首曰。固当别立义。寿既遭沮挫惭汗失图。虽事言对而次序乖越。及罢。帝曰。朕观二家之论。宗旨竟未分明。法师惠立骤对曰。二家之论宗旨未明。实如明诏。何则众僧立义道士不识其源。既耻无辞遂谠?谩语。至如会隐立五蕴义。黄颐以荫名来难。且荫以覆盖为宗。蕴以积聚为义。如色有十一。聚在色名之下。识有八种。积在一名之中。举统以收称为蕴义。若以荫名见难义理全乖。又神泰立九断知义。道士生来。未闻此名。论座虽登不知发问之处。无以遮惭遂浪作余语。由是宗旨不明光渎天听。过在道士。然佛法大宗因缘为最。故云。未尝有一法不从因缘生。且如目见殿柱须具五缘。一识心不乱。二眼根不坏。三藉以光明。四有境现前。五中间无障。必具此缘方得见柱。若曦光已没龙烛未明。纵有朱楹何由可见。又如嘉谷阳和之月。假水土人工则能萌芽。夏盛瓮中冬藏地陷。缘不具故毕竟不生。而人亦然。内则业感为因。外则父母为缘。身方得生。父母乖违终无生理。乃至羽毛万汇悉亦如之。故经云。深入缘起断诸邪见。由佛智慧穷法实相。是称无上正觉为人天师。外道之辈则不如是。或计诸法自然。即同此方庄老。或言无因。或云宿作。并是邪宗不明法本。又对御说依他遍计圆成三性之义。及辞出宫。少选敕内给事王君德传宣曰。师等因缘义甚好。何不早论。诣道士李荣等传敕曰。何不学佛经。于是荣等羞缩。为之气塞。

  是岁帝敕奘三藏于玉华宫译般若经。至龙朔三年冬十月二十三日才毕。凡六百卷进上。帝嘉叹曰。朕以军国务殷不及委读。今观佛经之大。若其瞻天望海莫测高深。以儒道九流方之。如河滢之类溟渤也。而世云三教齐致者是妄谈耳。

  (十五 庚申) 屈僧拜俗诏。帝初崇三宝。后复憍慢。四月十五日下诏。令沙门致敬君亲。恐爽恒请。至十六日敕付有司详议。是月二十一日大庄严寺威秀等上不拜表。至二十五日沙门道宣等上雍州牧沛王伦不拜表。二十七日宣等又上荣国夫人杨氏不拜俗启及上叙佛教隆替事状。大意是前朝代兴替。然后引经不拜俗文。梵网经云。出家人法不向国王礼拜。不向父母礼拜。六亲不敬。鬼神不礼。涅槃经第六卷云。出家人不礼敬在家人。四分律云。佛令诸比丘相次礼拜。不应礼拜一切白衣。佛本行经五十三卷云。输头檀王与诸眷属百官次第礼佛足已。佛言。王今可礼优波璃并诸比丘足。王闻佛教即从座起顶礼五百比丘足。新出家者次第而礼。萨遮尼乾子经云。若谤声闻辟支佛法及大乘法毁訾留难者犯根本罪。僧道宣寻白朝宰群公。伏见诏书令僧致敬君父。事理深远非浅情能测。夫以出家之迹列圣齐规。真俗之科百王同轨。干木在魏。高抗而谒文侯。子陵居汉。长揖而寻光武。彼称小道尚怀高蹈之门。岂此沙门不垂闲放之美者矣。

  沙门威秀等谨录佛经。沙门不合跪拜父母。有损无益。其文如左。梵网如前。顺正理云。国君不求比丘礼拜。略曰。玄教东渐六百余载。上代皇王无不依经敬仰也。僧威秀等言。窃闻。真俗异区。桑门割有生之恋。幽显殊服。田衣无拜首之容。理同越情道仍舛物。伏惟陛下匡振远猷提奖幽概。既已崇之于国。亦以行之于家。足使舍俗无习俗之仪出家绝居家之敬。护法斯在提福莫先。自然教有可甄人知自勉。不胜诚恳之至。谨奉表以闻。于时上表者众不烦具录。备如弘明集○至五月十五日。大集文武百僚于中台。将议其事。京邑沙门道宣等三百余人竞陈状启。纷诤不定。有司各以表闻。一右司成令狐德业等五百三十九人表请不合拜。一右兼司平太常阎立本等三百五十四人表请合拜。帝览已下诏。朕啇确群议沉研幽颐。然箕颖之风高尚其事。遐想前代固亦有之。今于君处勿须致拜。其父母所慈育弥深。祗伏斯旷更将安设。自今已后即宜跪拜。主者施行。又至六月八日。京邑老人程士颙等上表。略曰。且高尚之风人王犹有抗礼。岂惟臣下。及受跪拜之仪。俯仰抚循无由启处。意愿国无两敬。大开方外之迹。僧奉内教便得立身行道。不任私怀之至。谨奉表以闻。拜俗之条从兹泯定矣。

  (辛酉) 改龙翔。

  (癸亥) 帝苦风疾。委政武后。◎

  ◎(甲子 五六) 改麟德武后专恣。

  (十六) 二月初五日。法师玄奘寝疾。命弟子大乘光录所译经论。凡一千三百三十有五卷。造弥勒像十俱胝。及疾革口诵色蕴不可得。受想行识不可得。眼界不可得。乃至意识界不可得。无明不可得。乃至菩提不可得。不可得亦不可得。复令左右同声三唱。南谟慈氏如来应正等觉。愿与含识速奉慈颜。南谟慈氏如来所居内院。愿舍寿必生其中。遂右胁安卧而逝。春秋六十有三。是夕白虹四道自北亘南。贯井宿直慈恩寺塔。计闻于朝。帝哭之甚哀。顾左右曰。朕失国宝矣。辍朝三日。自终及葬五降御札。裒录遗典勤恤丧事。俄异僧奉旃檀末香至。请依天竺法用涂法师之体。大乘光等以掩龛日久不欲开。其僧曰。别奉进旨。倘见拒即具奏。遂启龛而颜色如生。香气馥郁。其僧涂毕恍然不见。识者以为兜率内院人也。夏四月敕准佛世尊故事。敛以金棺银椁。塔于浐东门。弟子神泰栖玄会隐惠立明?义褒大乘光等。皆法门龙象焉。

  (十七) 道造伪经。天皇甲子。西京诸观道士郭行真等东明观李荣姚义玄刘道合会圣观田仁惠郭盖宗等。将隐没道书重更修改。私窃佛经改换文句。人法名数三界六道五荫十二入十八界三十七品大小法门。并偷安道经。并改长安经。为太上灵宝元阳经。改余佛经别号胜牟尼经。或云太平经等。及改酒脯祭祀。用干枣香水。以惑后人妖妄作矣。沙门道世表闻以辩真伪。其略曰。窃闻白马东游。三藏创兹而起。青牛西逝。二篇自此而兴。或阐玄玄以化民。或明空空而救物。检之图牒指掌可知。所以发唱显宗终乎此世。释教翻译时代炳然。文史备彰黎民不惑。至如道家玄籍。斯则不然。唯老子二篇李聃亲阐。自余经制皆杂凡情。何者前汉王褒造洞玄经。后汉张陵造灵宝经及章醮等二十四卷。吴葛孝先造上清经。晋世王浮造化胡经。又鲍靖造三皇经。齐朝陈显明造六十四真步虚经。梁陶弘景造太清经及众醮仪十卷。周武张宾之焦子顺马翼李运。挑揽佛经一千余卷。隋辅惠祥改涅槃经为长安经。笑道论曰。道家妄注诸子三百五十卷为道经。又按汉明帝时。褚善信等总将道经诸子书等三十七部七百四十四卷。晋葛洪神仙传云。老教所有度世消灾之法凡九百三十卷。符书等七十卷。宋太始七年。陆修静答明帝云。道家经书并药方符图等一千二百二十八卷云。一千九十卷已行于世。一百三十八卷犹在天宫。又检玄都目录。妄取艺文志书名。矫注八百八十四卷为道经。今玄都经目云。依宋陆氏所上之目。乃有六千三百六十三卷云。二千四十卷见有其本。四千三百二十三卷并未见。据此前数目有无不同虚妄明矣。增加卷目添足篇章。依傍佛经改头换尾。或言名山唱出。或云仙洞飞来。何乃黄领独知英贤不睹。书史无闻典籍不记。请问道士后世之经。为是老子别陈。为是天尊更说。纵其说也应有时方师资说处。代年邦月复是如何。如其有据容不㳅行。若也妄言理须焚剪。伏愿当今明朝(云云)。由是郭行真等舍邪归正。启愿文具如佛道论。

  (丙寅) 改干封○尊老君为玄元皇帝○米斗五钱。

  (丁卯) 大教东被六百年矣○用麟德历。

  (十八) 南山律师道宣卒。师京兆钱氏。父吏部尚书申。母梦月轮贯怀而孕。又梦梵僧语之曰。所孕者梁僧祐律师也。处胎弥十二月而生。九岁遍览群书。十二善习文墨。十五师日严頵公。十六诵法华两旬而彻。十七落发。二十依首师进具戒。三衣唯布常坐一食。武德四年再依首师学律。性好禅那期修正定。頵曰。戒净定明慧方有据。始听未闲持犯焉识。七年徙居终南纻麻兰若。始制行事钞。正观四年行般若三昧于清宫精舍。经九十日。龙化人形体觐听法。沙弥染心顾盻其女。龙怒欲害之。念师教诫顿息恶心。摄毒吐井。白师勿饮此水。及往视之其井涌沸。又于云际寺行此三昧。前后二十会。常感天童为之给侍。十九年偕奘公翻经弘福。笔受润文推为上首。永徽元年复居纻麻。干封二年春。天人告师曰。师报缘将尽。当生弥勒内宫。十月三十日。众见空中。幡华交列。异香天乐。天人同声。请师归觐弥勒。上闻之。诏天下寺院图形奉祀。穆宗制赞曰。代有觉人为如来使。龙鬼归降天神奉事。声飞五天辞惊万里。金乌西沈佛日东举。稽首归依肇律宗主。懿宗朝谥澄照。师所撰删定僧戒本(一卷今所盛行) 删定比丘尼戒本(一卷) 注僧戒本(三卷) 戒疏(四卷) 注羯磨经(二卷) 羯磨疏(四卷) 行事钞(二卷) 比丘尼钞(三卷) 拾毗尼义钞(三卷) 亡物轻重仪章服仪归敬仪正行忏悔仪新学教诫仪(各一卷) 法华义苑(三十卷亡本) 释迦方志(二卷) 佛道论衡(四卷) 续高僧传(三十卷) 后续僧传(十卷) 广弘明集(三十卷) 三宝感通记(三卷) 天人感通传(一卷) 大唐内典录(十卷)。

  (十九 戊辰) 改总章○诏僧道会于百福殿。定夺化胡经真伪。百官临证。僧法明者预选入。方三教首座议论纷纭。明察其非是。即排众出曰。老子化胡成佛之际。为作华言化之耶。为作胡语诱之。若作华言则胡人未善必作胡语。既传此土须假翻译。未审道流所谓化胡经者。于何朝代翻译。笔授证义。当复为谁。于是举众愕然无能应者。公卿列辟咸服其切当。忻跃而罢。有敕搜聚天下化胡经焚弃。不在道经之数。既而洛京恒道观桓彦道等奉表乞留。诏曰。三圣重光玄元统叙。岂忘老教偏意释宗。朕志款还淳情存去伪。理乖事舛者。虽在亲而亦除。义符名当者。虽有冤而必录。自今道经诸部有记及化胡事者。并宜削除。有司条为罪制。

  (庚午) 改咸亨。

  (癸酉) 上称天皇。后称天后。

  是岁让和上四月八日生。有白气六道贯天。太史奏闻。有德之象当应空门。帝曰。在何方位。史曰。安康分野。有顷金州太守韩偕具表奏闻。帝曰。道人之德国之善庆。敕偕亲诣抚恤。兼厚赐养育之费。一家蒙之。后长出家。果传六祖心印。住于南岳光大教门也。

  (甲戌) 改上元。

  (二十 乙亥) 是年五祖弘忍大师示寂。师蕲州黄梅周氏子。生而岐嶷。儿时有异僧叹曰。是子阙七种相。不逮如来。后遇信大师得法。嗣化于破头山。咸亨中有卢居士者名惠能。自远来参。师问。汝自何来。曰岭南。师曰。欲求何事。曰唯求作佛。祖曰。岭南人无佛性。若为得佛。曰。人即有南北。佛性岂然。师知其异。乃诃之曰。着槽厂去。能礼足而退。便入碓坊服劳于杵臼之间。经旬月祖知付法时至。遂告众曰。正法难解。不可徒记吾言将为已任。汝等各自随意述一偈。若语意冥符衣法皆付。时会七百余众。神秀居第一座。学通内外众所推仰。秀亦自负无出其右者。不复思惟。乃于廊壁间书一偈曰。身是菩提树。心如明镜台。时时勤拂拭。莫遣惹尘埃。祖因行次见偈。心知秀之所为。因绐曰。后代依此修行亦得道果。众聆此语人各讽诵。他日能在碓坊。闻偈乃问同列。此谁为之。同侣告以和上将欲付法各令述偈。此乃秀上座所为。能曰。美则美矣。了则未了。同侣共诃其谬妄。能至莫命童子引至廊间。能自执烛令童子于秀偈侧写偈曰。菩提本无树。明镜亦非台。本来无一物。何假拂尘埃。祖复见此默念。必能之所为。因故为之语曰。此谁作亦未见性。众以师弗许皆莫之顾。即于是夕潜使人自碓坊唤能至。告曰。诸佛出世为一大事因缘。随机大小而引化之。遂有十地三乘顿渐等法。以为教门。然以微妙秘密圆明真实正法眼藏付于上首迦叶。展转传授二十八世。至菩提达磨大师届于此土得可祖。承袭以至于吾。吾今授汝。并所传袈裟用以表信。汝善护持勿令断绝。听吾偈曰。有情来下种。因地果还生。无情既无种。无性亦无生。能受毕乃曰。法则既受。衣付何人。师曰。昔达磨初至。人未之信。故传此衣以明得法。今信心已熟。衣乃争端。止于汝身勿复传也。且当远引俟时行化。所谓受衣之人命如悬丝。能曰。当隐何所。祖曰。逢怀且止。遇会即藏。能礼足捧衣而出。通夕南迈。众皆未知。祖由是三日不上堂。众疑之因致问。祖曰。吾道行矣。又问。衣法谁传。祖曰。能者传之。众意卢居士名能必此人也。共力推寻能已不在。至有相率而物色追之者。祖既付法已。复经四载而寂。塔于东山。代宗谥大满禅师法雨之塔。

  旧唐史云。后魏末有僧达磨者。本天竺王子。以让国出家。得禅宗妙法云。自释迦相传有衣钵为记世相传授。达磨将衣钵航海而来。初至梁国。武帝问以有为之事。达磨不悦。乃之魏隐于嵩山少林寺。遇毒而卒。其年魏使于葱岭回见之。门徒发其墓。但有只履而已。达磨传惠可。可尝断臂以求其法。可传僧璨。璨传道信。信传弘忍。忍姓周氏。黄梅人。与信并住东山寺。世谓其法为东山法门。

  论曰。旧史叙诸祖虽简略。然大要与宝林传灯之说皆合。至谓达磨遇毒而卒及魏使复于葱岭见之。则毒与卒果有之乎。世称五祖前身盖栽松道者。往见四祖将付以衣法。俄惜之曰。汝耄矣。虽嗣化能复几何。倘再来可也。五祖因托质周氏。无父而生。母几受祸仅死而免。四祖果忍死以迟其来。卑以大法。噫吾祖出入死生正游戏耳。自非果位上圣。孰能与于此哉。

  (丙子) 改仪凤。

  (二十一) 北印度佛陀波利尊者。至五台清凉山逢一叟问曰。尔来何为。利曰。求礼觐文殊。叟曰。带佛顶尊胜咒来否。利曰。未也。叟曰。此土众生滋恶。而出家者犯四弃尤多。不持此咒随行远来奚益。能回取之以流此土可乎。波利作礼而返。以开曜元年取其咒至于长安。有旨命日照三藏翻译。帝闻此咒灵验特异。秘之禁掖。波利屡奏请布中外。高宗不得已从之。利即辞入五台。后不知终。时南天竺有菩提流志。习头陀行。从耶舍瞿沙受道。为西域宗师名震中夏。帝闻风而悦之。因使西域有诏敦请。

  (己卯) 改调露。

  (庚辰) 改永隆。

  (辛巳) 改开曜。

  (壬午) 改永淳。

  (二十二) 是岁慈恩法师窥基卒。世寿五十有一。有诏伤悼御制画像赞。敕葬樊川北渠。近奘公之茔。基貌丰硕长八尺。气概万夫项上有玉枕。十指纹皆盘折如印。见者詟伏。然心慈善诲人。晚节祈生内院。循戒弥笃。尝造玉文殊像。及金写大般若经。皆瑞应。初南山宣律师。以弘律名震五天。感天厨供馔。每薄基三车之玩。甚不为礼。基尝访宣。其日过午而天馔不至。及基辞去天神乃降。宣责以后时。天曰。适见大乘菩萨在此翊卫严甚。故无自而入。宣闻之大惊。于是遐迩增敬焉。先是奘公亲授西域戒贤师瑜伽师地唯识宗。而基尽领其妙恢廓源流。天下后世。尊之目为三乘法相显理宗。谓之慈恩教。

  隐士孙思邈卒。年百余。善庄老及阴阳推步医药之术。尤重释典。世称孙真人焉。

  (癸未) 改弘道。十一月上崩。遗诏军国大事取天后处分。太子显即位。

  (二十三) 法师玄恽卒。恽字道世。或云名道世。以避太宗偏讳故以字行。三学洞贯。尝慨教藏及古今图史之博而学者难以备究。因撰法苑珠林凡一百卷。各开门类。识者重其精博云。

  高帝于是年崩。中宗即位数月。天后废为庐陵王。幽于房州。天后临朝称制。是为则天。明年七月沙门十辈诣阙上大云经。盛称则天当即宸极。则天大悦。赐十沙门紫方袍银龟袋。颁经于天下郡国。各建大云寺。九月则天革唐命改国号周。自称圣神皇帝。

  (甲申) 中宗显改元嗣圣(二月改文明。正月立韦玄祯女为后。上谓我以天下与韦玄祯。何不可。二月天后废上为庐陵王。立其弟豫王旦为帝。居于别殿。天后临朝)。

  (二十四) 则天武后曌改元光宅(一云。顺圣曌并州文水人也。父武士蒦。官至工部尚书荆州都督。封应国公。天后尝为尼于感业寺。时年十四。天皇幸寺见而悦之。选为昭仪。进号宸妃。帝崩后摄政。立诸武为王。甲辰大定。及天后疾。狄梁公仁杰等。迎庐陵王登位。明年乙巳崩于上阳。寿八十一。附之乾陵。在位二十一年)。

  (乙酉) 改垂拱○制母齐缞。古者母亡期年而已。丧服篇云。天无二日。士无二主。国无二君。家无二尊。以一制期年礼也。自天皇上元元年。天后表请。父在为母三年。下诏依行。至今垂拱始编入格。

  (二十五 丙戌) 归政于帝。帝固辞。后乃临朝○始建明堂。贞观五年欲建明堂。敕孔颖达等十人定议制度。不成乃止。天皇永徽三年。宣问无式样。群儒执议不定又止。干封至三年。下诏又令群儒取议。复不克定而止焉。天后垂拱二年。又取议群儒创制。垂拱四年正月五日功毕。其制凡高二百九十四尺。东西南北各三百尺。而有三层。下设四方。中十二辰。上设二十四气。铸铁为槽。二十四步为辟雍之水。造舟为梁以通道路。与前代制度有别。夏曰世室。殷曰垂屋。周曰明堂也。

  (二十六) 是年有庆山始出。唐五行志曰。垂拱二年九月。雍州新丰县有大风雷电震吼涌出一山。高二十丈。有池周三百亩。池有龙凤之形禾麦之异。天后以为休应。故名曰庆山。

  (己丑) 改永昌。

  (庚寅) 改天授○二月辛酉。后策贡士于洛城殿。殿试始此○九月改元建国。号曰周。至朔同日用周正。

  (壬辰) 改如意。又改长寿。

  (甲午) 改延载。

  (乙未) 改证圣。九月又改。天册万岁。

  (二十七) 是岁则天加号天册金轮圣神皇帝。作七宝。复闻于阗国梵本华严大经。即遣使奉玉帛往求之。并请彼国善梵学者一人。随经以来。于是于阗主以实叉难提(此云喜学)妙华严宗旨遣赴命。则天见之大悦。诏入大遍空寺。同三藏菩提流志法师神测玄景复礼等翻译华严。则天时幸其寺。亲施供馔焉。至圣历二年十月八日功毕。成八十卷。

  (二十八) 天册万岁元年。诏沙弥康法藏于太原寺。开示华严宗旨。方绪经题感白光昱然自口而出。须臾成盖。停空久之。万众欢呼叹异。都讲僧恒奏其事。则天悦。有旨命京城十大德为藏授满分戒。赐号贤首。诏入大遍空寺参译经。

  (二十九) 是岁诏嵩岳惠安禅师。入禁中问道。与神秀禅师同被钦重。则天尝问安甲子几何。对曰不记。曰何以不记。安曰。生死之身有若循环。环无起尽焉用记为。况识心流注无有间断。见沤起者乃妄想耳。从初识至动相灭时。亦只如此。何年月而可记乎。则天叹美久之。时安春秋百余。而天下之人称为老安国师。

  (丙申) 改万岁登封。又改通天万岁。

  (丁酉) 改神功。

  (戊戌) 改圣历。迎中宗于房陵。立为太子。姚玄崇相。

  (三十) 五月戊辰。净义三藏自西域还。获梵本经论四百余部。及金刚座真容舍利三百余粒则天降跸上东门迎劳。安置佛授记寺。未几诏入大遍空寺。同实叉难提等译经证义。明年十月新华严经成。实叉难提等奉表奏上。则天亲制序引。御太极殿宣示百官。其护法弘通无出天后之德矣。法师姓张。齐州范阳人。家世圭璋。十五有西行志。三十七岁方遂雅怀。是年乃旋也。

  (己亥) 天后重眉八字○庆山佛现。敕建寺宇○李白生。

  (庚子) 改久视○十月复夏正。

  (三十一) 诏敛天下僧钱。日一文聚作大像于白马阪。宰相狄仁杰上疏谏曰。为政之本必先人事。陛下矜念群生迷谬弱丧无归。欲令像法兼行睹相生善。然今之伽蓝制过宫室。穷奢极壮刻绘尽功。宝技殚于缀严。瑰材极于轮奂。工不役鬼。物不天来。既皆出于民。将何以堪之。且生之有时。用之无度。编户所奉常若不充。痛切肌肤不辞捶楚。游僧一说矫陈祸福。剪发解衣仍渐其少。亦有离间骨肉事均路人。身自纳妻谓无彼我。皆托佛法挂误愚人。里陌动有经坊。阛阓尤多精舍。化诱谆切倍于官徴。法事供需严逾制敕。膏腴物业水硙庄园。富有其多不知厌斁。逃丁辟罪骈集法门。且一夫不耕犹受其弊。浮食者众又劫人财。臣每念之实切悲痛。昔梁武简文舍施无算。及三维浪沸五岭烟腾。列刹盈衢莫救危亡之祸。缁衣蔽路。岂有勤主之功。况北风尘屡扰征役稍繁。遽兴此务力所未堪。伏惟功德无量。何必兴建大像以劳费为名乎。虽敛僧钱百未及一。尊容既广不可露居。覆以百层尚忧未遍。臣今兼采众议。咸以为如来设教以慈悲为主。普济群品是其用心。岂以劳人而存虚饰哉。疏奏。则天不纳。

  论曰。法师支遁曰。沙门之于世也。犹虚舟之寄大壑耳。其来不以事退亦乘闲。四海之内竟自无宅。邦乱则振锡孤游。道洽则忻然共萃。盖谓吾徒于天下固无事人也。至末法败道之徒苟安衣食者。于狄梁公之论。殆不可得而讳焉。呜呼是岂真沙门者所为哉。疏谓如来设教以普济群品为心。讵以劳人而存虚饰。此不独匡则天之失。抑有以辅吾佛之正教也。与夫后世泛然排佛老以苟名者云泥矣。

  (辛丑) 改大足。又改长安。

  则天将建大像。御史张廷圭复上疏谏曰。夫佛者以觉知为义。因心而成。不可以诸相见也。经云。若以色见我。以音声求我。是人行邪道。不能见如来。此真如之果。不可以外求也。陛下信心归依发弘誓愿。壮其塔庙广其尊容。已遍于天下久矣。盖有为住相布施。非最上第一希有之法。何以知之。经云。若人满三千大千世界七宝以用布施其福甚多。不如有人于此经中受持四句偈等为人演说其福胜彼。如佛所说。则陛下倾四海之财。竭万夫之力。穷山之木以为塔寺。极冶之金以为尊像。劳则多矣。费则甚矣。其所获福乃不若禅房之匹夫。菩萨所作福德不应贪着。盖有为之法不足高也。况此营建事因土木。或开发盘礴峻筑基阶。或塞穴洞通转采斫。碾压虫蚁动盈巨亿。岂佛标坐夏之义。悯蠢动而不忍害其生乎。又役鬼不可。惟人是营。通计工匠率多贫寠。朝欧莫役劳筋苦骨。箪食飘饮晨炊星饭。饥渴所致疾疹交集。岂佛标徒行之义愍畜产而不忍苦其力乎。又营筑之役僧尼是税。虽展转乞丐穷乏尤多。州县徴输星火逼迫。或谋计靡所。或粥卖以充。怨声载路和气不洽。岂佛标喜舍之义愍愚蒙而不忍夺其产乎。且边朔未宁军装日急。天下虚竭海内劳弊。伏惟陛下慎之重之。思菩萨之行。为利益一切众生。应如是布施。则其福德若东西南北四维上下虚空不可思量矣。何必勤于住相雕苍生之业崇不急之务哉。臣以时政言之。则宜先边境畜府库养人力。以佛教论之。则宜救危苦灭诸相崇无为。伏惟察臣之言行佛之行。务以理为尚。无以人废言。疏奏则天大悦。御长生殿召见廷圭。赐以金帛。

  (三十二) 是岁诏贤首法师法藏。于东都佛授记寺讲新华严经。至华藏世界感大地震动。逾时乃息。即日召对长生殿。问帝网十重玄门海印三昧参合六相总别同异成坏之义。藏敷宣有绪玄旨通贯。则天骤闻茫然惊异。伸请再三。藏就指殿隅金师子为晓譬之。能所谓一毛头师子。百亿毛头师子。则天豁然领解。由是集其语。目为金师子章。初云华寺俨尊者。传杜顺华严宗旨。藏执侍俨尽传其教。及俨去世藏以巾帻说法。于是京城耆德连名抗表乞度为僧。凡藏落发受具皆则天特旨。又尝为则天以十圆镜置八隅上下。皆使相向中安佛像然烛照之。则镜镜现像互相摄入。及观之者交罗齐现。以表刹海十界普容无尽之旨。藏没清凉国师澄观宗其教。天下学者宗之。目为一念圆融具德宗。谓之贤首教。

  (壬寅) ○初试武举。

  (三十三) 是年则天铸像之费将具。纳言李峤上疏谏曰。臣闻。佛法慈愍菩萨护持。唯志利益群生非假修崇土木。伏闻。造像税非户口钱出僧尼。非假州县祗承不能济办。且天下编户贫弱者众。或佣力客作以济糇粮。或卖田贴舍以供王役。今造像钱数已有一十七万缗。若以散施广济贫穷。人与一千尚济一十七万户。拯饥寒之弊。省劳役之勤。顺诸佛慈悲之心。广人主停毒之意。则人神胥悦功德无量。则天不纳。是冬像成。率百僚礼祀。

  (三十四 乙巳) 中宗改神龙(高宗第七子。母曰则天皇后。纳狄仁杰谏。正月张柬之桓彦范等五王。以兵诛奸臣而迎帝即位。迁则天于上阳宫。冬崩。二月复国号曰唐○老君为玄元皇帝。景隆四年韦后安乐公主。于饼中进毒上崩。寿五十五。奉相王旦即位)。

  (三十五) 正月流房融于高州。夏四月融。于广州遇梵僧般剌密谛赍楞严梵夹至。刺史请就制止道场宣译。融笔授。及译经十卷毕。般刺复携梵本归于天竺。

  (三十六) 是月中宗降御札。召曹溪六祖惠能入京。其辞曰。朕请安秀二师宫中供养。万机之暇每究一乘。二师并推让云。南方有能禅师。密授忍大师衣法。可就彼问。今遣内侍薛简驰诏迎请。愿师慈念速赴上京。师以表辞疾愿终林麓。薛简曰。京城禅德皆云。欲得会道当须坐禅集定。若不因禅定而得解脱者。未之有也。未审师所说法如何。师曰。道由心悟。岂在坐耶。经云。若见如来若坐若卧。是行邪道。何则无所从来亦无所去若无生灭。是如来清净禅。诸法空寂。是如来清净坐。究竟无证。岂况坐耶。简曰。弟子回朝主上必问。愿师慈悲指示心要令得见性明道。祖曰。道无明暗。明暗是代谢之义。明明无尽亦是有尽。简曰。明喻智慧。暗况烦恼。学道人傥不以智慧照破烦恼。生死凭何出离。师曰。若以智慧照烦恼者。此是二乘小儿羊车等机。上智大根悉不如是。简曰。何谓大乘见解。师曰。明与无明其性无二。无二之性即是实性。实性者处凡愚而不减。在圣贤而不增。住烦恼而不乱。居禅定而不寂。不断不常不来不去。不在中间及其内外。不生不灭。性相如如常住不迁。名之曰道。简曰。师说不生不灭。何异外道。师曰。外道将灭止生以生显灭。灭犹不灭。生说无生。我说本自不生今亦无灭。所以不同外道。汝欲知心要但一切善恶都莫思量。自然得入清净心体。湛然常住妙用恒沙。简礼辞归阙。表上师语。帝咨美久之。寻遣使赐袈裟瓶钵等。谕天子向慕之意。

  (三十七 丙午) 大通禅师神秀入寂。中书令张说制碑曰。撰夫总四大者成乎身矣。立万始者主乎心矣。身是虚哉。即身见空始同妙用。心非实也。观心若幻乃等真如。名数入焉妙本乖。言说出焉真宗隐。故如来有意传要道力持至德。万劫而遥付法印。一念而顿授佛身。谁其弘之。实大通禅师其人也。禅师尊称大通。讳神秀。本姓李。陈留尉氏人也。心洞九流悬解先觉身长八尺秀眉大耳。应王霸之像。合圣贤之度。少为书生游问江表。老庄玄旨书易大义。三乘经论四分律仪。说通训诂音参吴晋。烂乎如袭孔翠。玲然如振金玉。既独鉴潜发多闻旁施。逮知天命之年。自拔人间之世。企闻蕲州有忍禅师。禅门之法胤也。自菩提达磨天竺东来。以法传惠可。可传僧璨。璨传道信。信传弘忍。继明重迹相承五光。乃不远遐阻翻飞谒诣。虚受与沃心悬会。高悟与真乘同辙。缕指忘识湛见本心。住寂灭境行无是处。有师而成。即然灯佛所。无依而说是空王法门。服勤六年不舍昼夜。大师叹曰。东山之法尽在秀矣。命之洗足引之并座。于是涕辞而去。退藏于密。仪凤中始隶玉泉。名在僧录。寺东七里地坦山雄。目之曰。此正楞伽孤峰度门兰若。荫松藉草吾将老焉。云从龙风从虎。大道出贤人。睹岐阳之地就去成都。华阴之山学来如市。未云多也。后进得以拂三有超四禅。升堂七十。味道三千。不是过也。尔其开法大略。则忘念以息想。极力以摄心。其入也品均凡圣。其到也行无前后。趣定之前万缘尽闭。发慧之后一切皆如。特奉楞伽递为心要。过此以往未之或知。久视年中禅师春秋高矣。诏请而来。趺坐觐君肩舆上殿。屈万乘而稽首。洒九重而宴居。传圣道者不北面。有盛德者无臣礼。遂称两京法主三帝国师。仰佛日之再中。庆优昙之一现。然处都邑婉其秘旨。每帝王分座后妃临席。鸳鹭四匝龙象三绕。时炽炭待矿。故对默而心降。时诊饥投味。故告约而义领。一雨普沾于众缘。万籁各吹于本分。非夫安住无畏应变无方者。孰能至尔乎圣敬日崇朝恩代积。当阳初会之所置寺曰度门。尉氏先人之宅置寺曰报恩。轼闾名乡表德非拟。局厌諠辇长怀虚壑。累乞还山既听中驻。久矣衰惫无他患苦。魄散神全形遗力谢。神龙二年二月二十八日。夜中顾命趺坐泊如化域。禅师武德八年受具于天宫寺。至是年丙午复终于此寺。盖僧腊八十矣。生于隋末百有余岁。未尝自言。故人莫审其数也。三界火心四部冰背。榱崩梁坏雷动雨泣。凡诸宝身生是金口。故其丧也如执亲焉。诏使吊哀王侯归赗。三月二日册谥大通。展饰终之义礼也。时厥五日。假安阙塞缓及葬之期怀也。宸驾临诀至午桥。王公悲送至伊水。羽仪陈设至山龛。仲秋既望还诏乃下。帝诺先许冥遂夙心。大常卿鼓吹导引城门郎监护丧葬。是日天子出龙门泫金榇。登高驻跸目尽回舆。自伊及江扶道哀侯。幡花百辇香云千里。维十月哉生魄。明即旧居后冈安神起塔。国钱严饰赐逾百万。巨钟盖先帝所铸。群经乃后皇所锡。金榜御题花幡内造。塔寺尊重远称标绝。初禅师形解东洛相见南荆。白雾积晦于禅山。素莲寄生于坐树。则双林变色泗水逆流。至人违代同符异感。百日卒哭也。在龙华寺设大会八千人度二十七人。二祥练缟也。成就西明道场数如前会。万回菩萨乞施后宫。宝衣盈箱珍价敌国。亲举宠贵侑供巡香。其广福博因存没如此。日月逾迈荣落相推。於戏法子永恋宗极。痛慈舟之遽失。恨涌塔之迟开。石城之叹也不孤。庐山之碑焉可作。窃比夫子贡之论夫子也。生于天地。不知天地之高厚。饮于河海。不知河海之广深。强名其迹以慰其心。铭曰。额珠内隐。匪指莫效。心镜外尘。匪磨莫照。海藏安静。风识牵乐。不入度门。孰探法要。倬哉禅伯。独立天下。功收密诣。解却名假。诣无所得。解亦都舍。月影空如。现于悟者。无量善众。为父为师。露清热恼。光射昏疑。冀将住世。万寿无期。奈何过隙。一朝去之。嗟我门人。忧心断续。进忆瞻仰。退思付嘱。尽不离定。空非灭觉。念兹在兹。敢告无学。时岐王范及徴君卢鸿一。皆勒碑制碣。旧唐史有传称。沙门被王者礼敬。古未之有。

  (丁未) 改景隆。

  (三十八) 神僧万回入宫。赐号法云公。馆于集贤院。给二美人奉事。未几忽求阌乡河水。左右仓皇莫能得。又曰。第穴堂前地可得也。既得之。回饮水毕湛然而逝。赐号国公。图形集贤院。初回幼能三千里致兄书。朝往暮归。因号万回。高宗闻其名诏入宫。度为沙门。则天在位。廷之禁中赐锦衣。令宫人给侍。庄惠太子始生。则天抱之示回。回曰。此西域树精。养之宜兄弟。及安乐公主怙韦后将谋逆。回遇之望尘唾曰。血腥不可近。未几安乐果诛。玄宗在蕃尝私谒回。回拊其背曰。五十年太平天子。睿宗为相王每将出。回必告市人曰。天子来。少顷而相王至。其神异类如此。示寂于长安醴泉里。寿七十四矣。

  论曰。法云公尝有偈曰。明暗两忘开佛眼。不系一法出莲丛。真空不坏灵智性。妙用尝存无作功。圣智本来成佛道。寂光非照自圆通。熟味厥旨。盖大乘了悟之言也。而法云特以小乘神异显化。至于佛菩萨出世宏正法眼。必涵光混世未始泄露密机。直至临终方有付嘱。然则法云章章显异。抑圣贤之权与。

  (三十九) 是年七月庚辰下诏曰。释典玄宗理均迹异。拯人化俗教别功齐。自今每缘法事聚集僧尼道士女冠等宜齐行并集。初太宗以老子为皇宗。升于释氏之上。至则天朝。复在释氏之下。今此已往遂为永式。令齐班并集云。

  (四十) 国师惠安卒。诫其徒曰。吾气尽将尸置林中恣野火焚之。偶神僧万回至。与安握手言论。其徒侧聆俱莫之省。至八日合户偃身而寂。春秋一百二十八。其徒奉命舁尸林中。果野火至阇维之。得舍利八十粒。五粒最巨而紫红色光焰夺目。诏留禁中云。

  (四十一) 是岁再诏于阗国三藏实叉难提至。帝降跸迎劳。备两街法仪。旌幢鼓吹迓之。载以青象安置荐福寺。难提风神宏旷仪韵秀整。善大小乘通华梵语。

  (四十二 戊申) 泗洲大士僧伽诏入宫供养。度惠俨惠岸木叉三人为侍者。帝亲书所居寺额曰普光王。未几迁止荐福寺。明年京畿旱。有旨命大士致雨。僧伽以瓶水散洒。即有浓云自所居而涌大雨倾注。又明年二月示寂。寿八十有三。神采如生。敕就荐福寺塑身建塔。即秽气满城。帝炷香祝之。许送归淮。言讫异香郁然。倾都叹异。遂奉全身归泗洲普光王寺建塔。帝尝问法云公万回曰。僧伽何如人。对曰。观音大士化身耳。神化事迹具如蒋颖叔所著传。大师自西国来。唐高宗时至长安洛阳行化。历吴楚间手执杨枝混于缁流。或问。师何姓。即答曰。我姓何。又问。师是何国人。师曰。我何国人。寻于泗上欲构伽蓝。因宿州民贺跋氏舍所居。师曰。此本为佛宇。令掘地果得古碑云。香积寺。即齐李龙建所创。又获金像。众谓然灯如来。师曰。普光王佛也。因以为寺额云。乾符中谥证圣大师。

  (四十三 己酉) 是岁召律师道岸入宫。为妃主授归戒。因留禁中。别日帝至。诸师皆辟席。岸独逡巡长揖而已。帝高其量图形于林光宫。御制赞曰。戒珠皎洁惠流清净。身局五篇心融八定。学妙真宗贯通实性。维持法务纲纪德政。律藏冀兮传芳。像教因而光盛。时以为荣焉。

  八月乙卯。以高宗旧第兴圣寺有柹树天授中枯死至是忽重荣。因大赦天下。赐百官封爵。普度僧尼道士凡数万。

  (四十四) 九月。诏三藏菩提流志。于北苑白莲池甘露亭译大宝积经。敕中书陆象先尚书郭元振宰相张说润文。经成凡五十九会。总一百二十卷。

  (四十五 庚戌) 是年三月。敕东都留守韦安石。赍诏起嵩山沙门一行赴阙。行辞疾不赴。遁入荆州当阳山。旧唐史云。行姓张氏。初名遂。剡国公公瑾之孙。武功令擅之子。少聪敏览观子史。尝诣道士尹崇。借太玄经读之。数日而还。崇曰。此经精微吾寻积年尚未晓。子宜研究无忽也。行曰。已究其义。因出所撰太衍玄图并义决。崇览之大惊。因与谈其渊奥。退谓人曰。此后生颜子也。由此知名于世。初武三思慕其学行就请结交。行遁匿辟之。寻出家遍历天下访求异术。至天台国清寺。见别院古松数十门有流水。行立门屏闻僧于庭中布算声。而语其徒曰。今日当有弟子自远来求吾算法。已合到门岂无人导引乎。即除一算曰。门前水当西流。弟子亦至矣。行返顾溪水果已西流。遂承其言。遽趋入再拜咨求其法。彼尽授与之。遂洞历象阴阳推步之学。回入嵩山。依普寂禅师参决禅门宗旨。及遁当阳山。又从律师惠悟学毗尼。凡经籍一览毕世不忘。

  佛祖历代通载卷第十二

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第十三

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  唐

  (一 庚戌) 睿宗旦改景云(高宗第八子。初封豫王。武后废中宗而立为帝者。七年而废封相王。寿五十五。立隆基为太子。任宋璟姚崇为政。帝妹太平公主恃功专横。在位三年)。

  (壬子) 初改太极又改廷和又改先天(七月传位太子)。

  (二) 先天元年。三十三祖惠能大师示寂。姓卢氏。其先范阳人。父行瑫。武德中左官于南海之新州。遂占籍焉。三岁丧父其母守志掬养。及长家贫。师樵采以给。一日负薪至市中。闻客读金刚经。悚然问客曰。此何法。得于何人。客曰。此名金刚经。得于黄梅忍大师。归告于母以为法寻师直抵黄梅。忍大师一见默识之。后传衣法令隐于怀集四会之间。仪凤元年正月八日届于南海。及返曹溪雨大法雨。一日示众曰。诸善知识各各净心听吾说法。汝等诸人自心是佛。更莫狐疑。外无一物而能建立。皆是本心生万种法。故经云。心生种种法生。心灭种种法灭。若欲成就种智。须达一相三昧一行三昧。若于一切处而不住相。于诸法中不生憎爱。亦无取舍。不念利益成坏等事。安闲恬静虚融淡泊。此名一相三昧。若于一切处行住坐卧纯一直心。不动道场即成净土。名一行三昧。若人具二三昧。如地有种能含藏长养成就其实。一相一行亦复如是。我今说法犹如时雨普润大地。汝等佛性譬如种子遇兹沾洽悉得发生承吾言者决获菩提。依吾行者定证妙果。师说法度人。往来学者尝逾千数。明年七月辞归新州故宅国恩寺。其徒泣曰。师归当复来不。师曰。叶落归根来时无口。又问。师之法眼何人传受。师曰。有道者得无心者通。至国恩寺。以八月三日示众曰。吾受忍大师衣法。今为汝等说法不付其衣。盖女等信根已熟决定无疑。堪任大事。听吾偈曰。心地含诸种。普雨悉皆萌。顿悟花情已。菩提果自成。复谓众曰。其法无二。其心亦然。其道清净亦无诸相。女等不用观静及空其心。此心本净无可取舍各自努力随缘好去。吾涅槃时至珍重。即跏趺而逝。于是山林变白鸟兽哀鸣。彩云香雾连日不开。既时广州都督韦据率韶新二郡官吏。迎奉全身归于曹溪宝林寺建塔。真身今尚存焉。旧唐史曰则天闻神秀名诏至都。肩舆入殿亲加跪礼。敕当阳山创度门寺以旌其德。时王公已下及京城士庶。闻风争来谒见。望尘拜伏日以万数。初神秀与惠能同师弘忍。而行业相埒。及忍卒能住韶州广果寺。韶阳山中旧多虎豹。一夕去尽。远近惊叹咸归伏焉。秀尝奏则天。请召能赴阙。能固辞。秀复自作书重邀之。能谓使者曰。吾形貌矬陋。北土见之恐不敬吾法。又先师以吾南中有缘。亦不可违。及中宗召之。竟不度岭而卒。天下散传其法。谓秀为北宗。能为南宗。

  (三 癸丑) 玄宗隆基改开元(睿宗第三子。嬖杨贵妃。为道士。曰太真。帝初用姚崇宋璟为相治平。晚年耽湎淫佚。用李林甫杨国忠为相。安禄山为将致乱。几致亡国。二十九即位。寿至七十八岁。至上元元年崩。葬泰陵)。

  (四 甲寅) 二年十月十七日。永嘉玄觉禅师示寂。姓戴氏。丱岁出家。博贯三藏精天台止观圆妙法门。与东阳策禅师偕谒六祖。师至振锡绕祖三匝。祖曰。夫沙门者具三千威仪八万细行。大德自何方而来生大我慢。师曰。生死事大无常迅速。祖曰。何不体取无生了无速乎。师曰。体即无生了本无速。祖曰。如是如是。师乃具威仪参礼。须臾告辞。祖曰。返太速乎。师曰。本自无动。岂有速耶。祖曰。谁知非动。师曰。仁者自生分别。祖曰。女甚明得无生之意。师曰。无生岂有意耶。祖曰。无意谁当分别。曰分别亦非意。祖曰。善哉善哉。少留一宿。时谓一宿觉。及回学徒奔萃。着证道歌一篇。梵僧传归天竺。彼皆钦仰目为东土大乘经。又着禅宗悟修圆旨十篇及观心十门。并盛传于世。

  (五 乙卯) 三月八日。玄宗遣礼部郎中张洽。赍诏诣当阳山。起沙门一行赴阙。行以再命不许辞赴之。有旨安置光泰殿。帝数访以安国抚民之要。行启陈无隐。未几永穆公主出降。诏依太平公主故事优厚发遣。行谏以为高宗末年唯有一女。所以特加优礼。而太平竟以骄僭得罪。不应引以为例。帝纳其言。遽追敕但依常礼。其忠谏多类此。或谓行优于忆诵。帝一日命出宫籍示之。行阅毕。令内侍执本对帝复之。不差一字。帝惊异顾谓左右曰。圣人也。自是频召咨质佛心之要。行雍容启沃圣眷日隆。天下之人。以帝从之问道。称为天师焉。

  (六 丙辰) 嵩岳元圭禅师示寂。师居岳之庞坞。一日有异人。峨冠盛服拥卫而至。圭曰。善来仁者。胡为而至。彼厉声曰。师宁识我耶。圭曰。吾观佛与众生等吾一目之。岂分别耶。曰我此岳神也。能生杀于人。师安得一目我哉。圭曰。吾本不生。汝安能杀。吾视身与空等。视吾与汝等。汝能坏空与汝乎。使果能之。吾则不生不灭也。况汝不能。焉能生杀我耶。神稽首曰。我聪明正直过于余神。讵知师有广大智慧。愿授以正戒令我度世。圭曰。汝既乞戒。即既戒矣。所以者何。戒外无戒。又奚戒哉。神曰。此理也我闻茫昧。止求师戒。我身愿为门弟子。圭即张座秉炉正几曰。付汝五戒。若能即曰能。不尔即曰否。神曰。谨奉教。曰汝能不淫乎。神曰。亦娶也。曰非谓此也。谓无罗欲也。神曰能。曰汝能不盗乎。神曰。无乏我也。安有盗取哉。曰非谓此也。谓飨而福淫不供而祸善。神曰能。曰汝能不杀乎。神曰。实司其柄。焉得不杀。曰非谓此也。谓有滥误疑混也。神曰能。曰汝能不妄乎。神曰。我惟正直。焉有妄哉。曰非谓此也。谓先后不合天心也。神曰能。曰汝不遭酒败乎。曰能。曰如上是为佛戒也。以有心奉持而无心拘执。以有心为物而无心想身。能如是则先天地生而不为精。后天地死而不为老。终日变化而不为动。毕竟寂灭而不为休。悟此则虽娶非妻也。虽飨非取也。虽柄非权也。虽作非故也。虽醉非惛也。是谓无心而已。无心则无戒。无戒则无心。无佛无众生。无汝亦无我。无汝则孰为戒哉。神曰。我神通去佛几何。曰汝神通则十句五不能。佛则十句七能三不能。神竦然辟席曰。可得闻乎。圭曰。汝能戾上帝东天行而西七曜乎。曰弗能也。圭曰。汝能夺地祇融五岳而结四海乎。曰弗能也。圭曰。是谓五不能也。佛能空一切相成万法智。而不能即灭定业。佛能知群有性穷亿劫事。而不能化导无缘。佛能度无量有情。而不能尽众生界。是谓三不能也。然定业亦不牢久。无缘亦谓一期。众生界本无增减。廓无一人能主有法。有法无主是谓无法。无法无主是谓无心。如我解佛。亦无神通也。但能以无心通达一切法耳。神曰。我诚浅昧。未闻空义。师所授戒我当奉行。今愿报慈德效我所能。师曰。吾观身无物。观法无常。了然更有何欲。神曰。师必命我为世间事展我神功。使已发心未发心信心不信心等人目我神踪知有佛有神有能有不能有自然有非自然者。师曰。吾无用是为。曰佛亦使龙神护法。师宁堕叛佛耶。第随意示诲。师不得已曰。东岩寺之障。莽然无树。北岫有之。然而背非屏拥。汝能移北树于东岭乎。神曰。既闻命矣。恐昏夜必有喧动。愿师无骇。即作礼辞去。使门人送而且观之。见仪卫逶迤如王者之状。岚霭烟霞纷纶间错。幢幡环佩凌空隐没。是夕果有暴风迅雷奔云震电。栋宇摇荡宿鸟惊呼。师谓众曰。无怖神与我契矣拂旦和霁则北山之松尽移东岭。森然行植焉。师诫其徒曰。吾没后无令外知。若为口实人将妖我矣。师伊阙人。姓李氏。幼岁出家具戒得法于老安国师。寿七十有三云。

  论曰。荆国王文公尝问张文定公曰。去孔子百年而有孟。轲此后迨孔孟者为。谁何吾道之寥寥乎。文定沉吟久之曰。有人第恐过之耳。曰谁耶。文定曰。南岳让嵩山圭马祖石头丹霞无业。若此类。孔孟之教辔勒不住。故归释氏矣。文公深肯之。其后张公无尽闻之叹曰。达人之论也。然嵩山盖祖庭之旁出者也。其感应超绝说法沛然如此。则南岳而下的传正续宗师。世教辔勒不住。端可见矣。二三公之谠论。渠不信夫。

  (七) 是岁天竺三藏法师无畏至京师。帝嗣位之初。一夕梦梵僧谒见。风度环异。及寤追忆不已。因追画工授以形段。图于殿壁。及畏至入对。帝熟视盖梦中所见僧也。竦然异之。馆于西明寺。宁薛诸王皆降礼钦重。其后秋旱。帝廉知无畏能致龙。遣内使传诏请雨。畏难之。奏以旱数当然若苦召龙恐暴物。帝再遣谕旨。人苦秋暑。虽暴风疾雨适足快意。畏诺之。有司设坛仪华彩光丽。畏笑曰。是可以致雨耶。命撤去之。独持满钵水。以小刀搅之。诵咒语百余番。即有微物如蚪龙。从钵矫首水面。顷之复沈。畏咒遣之。白气自钵腾涌。语诏使曰。速归雨即至矣。诏使驰出回顾有云如练。自讲堂盘旋而上。顷刻风雷震电。诏使趋入奏御。衣巾已透湿。于是震风凌雨。飘荡庐舍。士民悚惧。弥日而息。又尝霖霪逾时。诏畏止之。畏于寺捏泥媪五躯。向之作梵语。若斥骂者即刻而霁。其神验类如此。帝敬之若神。未几通华言。译虚空藏毗卢遮那苏悉地羯罗等经十余部。禅师一行三藏宝月等参预其事。畏性简静好禅观。每劝学者习之。累表求还。帝坚留不许。

  (八) 是岁广州节度宋璟入曹溪礼祖塔。誓曰。弟子愿毕世外护大法。祈一祥瑞表信。言讫微风飘香氤氲袭人。俄而甘雨倾注。唯遍一寺之内。璟忻跃而去。未几召入。与姚元崇相继执政。世称姚宋为中兴贤相。

  (九 辛酉) 朝廷以麟德历署日蚀比不验。诏禅师一行改撰新历。行受诏推大衍数立术以应之。较经史所书。气朔日名度数可考者。皆合而着之。久之道士邢和璞谓太史令尹愔曰。一行其圣人乎。昔洛下闳造太初历。尝记曰。八百年后当差一日。必有圣人出世纠正之。今年期差满。而一行推大衍数。以纠数家之谬。闳之言不诬矣。愔亦以为然。行复欲知黄道进退。而太史无黄道仪。表请创置之。制可。

  (十 壬戌) 帝注孝经并制序。

  是岁沙门智升。上释教经律论目录凡二十卷。铨次大藏经典及圣贤论撰。凡五千四十八卷。自是遂为定数。

  (十一 癸亥) 十一年十月癸酉。禅师一行制黄道仪成。帝自为之铭。诏安武成殿庭以示百官。其仪准圆天之像。具列宿赤道及周天度数。注水激轮令其自转。一昼夜而天运周外络二轮。缀以日月令得运行。每天东行一周。日西行一度。月行十三度。以十九分度之二十九转日有余日月会。三百六十五转而日周天。以木匮为地平。令仪半在地下晦明朔望迟速有准。立木人二于地平。其一前置鼓以候刻。至一刻则自击之。其一前置钟以候辰。至一辰亦自撞之。皆于地中略施轮轴。关锁交错相持。当时称其妙以为神功。无几铜铁渐涩不能自转。遂藏之于集贤院。

  是岁改政事堂曰中书门下省。

  (十二) ○有登州文登县郭行妻王氏。生女鹤喙。将丧自言。酬先世尝斋之报以此示人。

  (甲子 五七) 沙门牛云者少不慧。因诣台山礼文殊。初至东台见老人问曰。胡为而来。曰愿见大圣求聪慧耳。老人曰。文殊居北台尔往见之。云奉教趋北台。老人亦在彼矣。云意其即文殊也。遂拜之。老人曰。汝沙门也。不应礼俗士。云拜不已。老人怜之。为入定观云前身盖牛也。以尝驰经故获比丘报。老人起定为云言之。复云。汝性昏迷胸中有淤肉在。当为汝钁去之。因戒云闭目无辄开。云如约。颇觉老人以钁锄其胸。然不甚楚。少顷心怀开豁顿异往时。及开眸见老人现身为文殊妙相端严。谓云曰。与汝聪明竟。云喜跃作礼及起身而文殊隐。云自是总持辨悟为时导师。以夙因故牛云称焉。

  (十四 丙寅) 日本国沙门。荣睿普照等至于扬州。奉僧伽黎十领。其上缀以山川异物之状。盖其国主附之以施中国高行沙门。于时律师鉴真受其衣。叹外国人有佛种性。欲往化之。会睿照等亦劝请遂附舶而东。为恶风飘入鱼蛇等海。以真律行高皆脱祸。既至日本。彼王预知枉驾迎劳。馆于毗卢遮那殿。未几请真授归戒。夫人群臣皆以次禀授。日本自是始有律教。

  (十五 丁卯) 三藏菩提流志卒。春秋一百五十有六。流志南印土国王之子。以让位出家。高宗闻名有诏要之。以垂拱中至京师。凡四十年。如华严宝积经等。皆出其手。帝及重臣敬之如生佛。葬日特给卤簿羽仪。塔于龙门之西原。赐谥曰开元一切遍知三藏。名德之盛古未有焉。

  (十六) 时嵩山破灶堕和上者。不称名氏言行叵测。初见老安国师。契悟心要隐居嵩山。山有庙灵甚。殿中唯安一灶。远近祭祀烹宰无虚日。师领徒入庙。以杖击灶三下云。咄此灶泥瓦合成。圣从何来。灵从何起。恁么烹宰物命。又击三下。灶乃倾破堕落。须臾有一人青衣峨冠。设拜师前曰。我本庙灶神。久受业报。今蒙师说无生法。得说此处当生天上。特来礼谢。师曰。是汝本有之性。非吾强言。神再拜而去。少迁徒众问师。某等久在和上左右。未蒙指示。灶神得何径旨。便得生天。师曰。我只向伊道是泥瓦合成。别无道理为伊。众无语。师良久云。会么。众云。不会。师曰。本有之性为什么不会。众僧乃礼拜。师曰。破也破也。堕也堕也。于是其众皆悟玄旨。后有义丰禅师。举问安国师。国师叹曰。此子会尽物我一如。可谓如朗月处空无不见者。只是难凑伊语脉。丰曰。未审什么人凑他语脉。安曰。不知者。又僧问。物物无形时如何。师曰。礼即唯汝非我。不礼即唯我非汝。其僧礼谢。师曰。本有之物物非物也。所以道若能转物即同如来。有僧从牛头处来。师曰。来自何人法会。僧进前叉手绕师一匝而出。师曰。牛头会下不可有此人。僧乃回上边叉手而立。师云。果然果然。僧却问。应物不由他时如何。师曰。争得不由他。僧云。恁么即顺正归原去也。师曰。归原何顺。曰若非和上几错招愆。师曰。犹是未见四祖时道理。见后道将来。僧乃绕师一匝而出。师曰。顺正之道今古如然。又僧侍立次。师曰祖祖佛佛只说如人本性本心。此外别无道理。会取会取。僧礼谢。师以拂子打之曰。一处如是千处亦然。师后不知终。

  (十七) 是年十一月己丑。禅师一行寝疾于华严寺。旧唐史云。帝一夕梦游其寺见一室绳床竹窗气象萧索。及旦行以疾闻。帝遣中使候问。使还奏行居处之状。与所梦冥合。帝叹久之。有旨命京城十大德为行结坛祈福。既而行疾少间。诏陪驾幸新丰。未几行疾革。帝亲候问。遂沐浴端坐而逝。春秋四十有五。帝哭之哀甚。辍朝三日。有诏伤悼听停龛三七日。与中外赡礼。行容貌如生。而鬓发日长。帝亲制碑书之于石。出内库钱五十万建塔铜人原。谥曰大惠禅师。帝尝从容问国祚几何有留难不。行曰。銮舆有万里之行。社稷终吉。帝惊问故不答。退以小金合进之曰。至万里即开。帝一日发合视之。盖当归少许。及禄山乱驾幸成都至万里桥。忽悟未几果归。昭宗初封吉王。而唐以昭宗而灭。故云终吉。有里媪素供行。而媪一子坐杀人将之刑。媪悲泣请救。行怜之。令弟子捕生物。得雉豕七。行日藏其一于瓮中。为梵语咒之。七日北斗尽没。朝廷震惊。太史奏将有变。请避正殿禳之。帝密以问行。对曰。此无他。盖妖魔也。凡嗔心坏一切善。慈心降一切魔。若赐赦天下则妖不能为。帝然之。遂大赦。媪子由是得免。行日出一豕则一星现。至七日而斗复如故。其秘术多此类。着易论十二卷。大衍论二十卷。开元大衍历五十二卷。七政长历三卷。释氏系录。大衍玄图。心机算术。括遁甲十六局。六壬连珠歌。六壬髓经。天一太一经。太一局遁甲经。各一卷。五音地里经十五卷。宰相李吉甫奉诏撰一行传一卷。并见唐艺文志。十六年诏特进张说历官陈玄景等。编次一行所撰大衍历施用。三月驾幸温汤。道由一行塔所。帝为驻跸徘徊。令品官诣塔。告以出豫之意。赐帛五十疋。令莳塔前松柏。其为圣眷如此。宋史官欧阳文忠曰。自太初至麟德历。凡二十三家。与天虽近而未密。至一行则密矣。其倚数立法。固无以易也。后世虽有改作者。皆依仿而已。沙门道泓者。生黄州与侍郎张敬之厚善。能言吉凶亡不明验。尝为中书张说视宅。戒曰。无穿东北壬隅也。他日见说曰。宅气索然云何。与说共视隅有三坎丈余。泓惊曰。公富贵一世而已。诸子将不终。说惧将平之。泓曰。客土无气。与土脉不连。譬身疮痏。补他肉无益也。其后说诸子皆污禄山以斥死。果如其言。

  论曰。欧阳文忠公雅嫉吾释。未始略有假借。独于唐志尊一行大衍之作。而宋景文于方技篇削一行玄奘等传。而独著道泓地理之说。或者以为唐浮图行业无足为二公取者。故止于是而已。夫岂然哉。盖大衍所以统天时。地理则切于人事。是宜史笔取也。若吾释之盛莫甚于唐。凡三百年间。以道德为天下宗师者。不可悉数。欧宋以为奉异方之教。故讳之而不书。犹春秋时虽老聃郯子之贤。返不若江人黄人得书于经。岂亦老氏不足取哉。盖国经之典。凡礼乐刑政所及贵贱必书。若吾浮图大绝世累颖脱尘表者。于刑政何与焉。宜其不参于世典也。由是言之。欧宋黜吾释。其微意乃所以尊之也。盛哉一行。前膺洛下闳八百年之谶。当时则明天子跪之称为圣人。及其制作施于后世。缊天地贯幽明历数百年而其术益验。果圣与贤耶。吾弗得而知矣。

  (十八 己巳) 初以上生日为千秋节○用大衍历。

  是年太师燕国公张说薨。说为唐宗臣。朝廷大述作多出其手。为文属思精壮。尤善释典。尝谪岳州而诗益凄婉。时人谓得江山之助。天下不称姓而曰燕公。着石刻般若心经序曰。万行起于心。心人之主。三乘归于一。一法之宗。知心无所得是真得。见一无不通是玄通。如来说五蕴皆空。人本空也。如来说诸法空相。法亦空也。知法照空。见空舍法。二者知见复非空耶。是故定之与慧俱空法中。入此门者为明门。行此路者为超路。非夫行深般若者。孰能证于此乎。驸马都尉荥阳郑万钧深艺之士也。学有传僻书成草圣。乃挥洒手翰镌刻心经。树圣善之宝坊。启未来之华业。佛以无依相而说。法本不生。我以无得心而传。今则无灭。道存文字意齐天壤。国老张说闻而嘉焉。赞扬佛事题之乐石。又制法池院二法堂赞并序曰。法池西三归院二法堂。兹院长老初上禅师所造也。禅师姓彭氏名知。至性笃孝执亲之丧七日不食。微言密行志道探玄。究易老庄太一之旨。善正书。擅钟王品格。其点画婉秀毫缕必见。如折槁荷磨文石。筋理洒飒固非人力之所致也。中朝名士山薮高尚法流开胜远近慕焉。及晚年专意于禅颂。平生事业脱若遗尘矣。常叹帝王父母许我出家。雨露生成恩惟一揆。依如来教创是功德。万一乎献福二宫潜祐七祖。将与一切咸登道场。于是三归堂以长安元年辛丑子月望日癸卯立。善法堂以开元元年癸丑丑月望日戊辰建。禅师母弟仁婉弟子启疑及沙弥令哲。左右斯业实有力焉。而作赞曰。敬告诸佛子。一心清净观。欲求正真道。当从信根入。是佛虚空相。是法微妙光。定慧不相离。是僧和合义。人空法亦空。二空亦复空。住心三空宝。是名三归处。至哉初上人。建立善法堂。彩翠三世佛。庄严清净眼。能运无碍心。普入于一切。见若不染色。知若不取识。是名真实见。亦名解脱知。佛观离生灭。诸法等如是。

  (十九 壬申) 是岁定五服制。盖出自古。至天后请母三年。及卢氏驳议有异。开元五年卢履冰上言。众议纷然。自是卿士之家。孝服有异。今二十年萧嵩等改修五礼。敕下依行。五服礼者。一三年服。为父曰斩衰。哀情至切斩截其心。为母曰齐衰次其父也。然二十七个月终矣。十二月小祥。二十五月大祥。二十七月?服。更加一月心丧。服之终也。齐斩服以缞麻。臣孝于君亦尔。二期年服。十三个月。为祖父等。三大功。九月。为叔伯等。四小功。五月。堂兄弟等。五缌麻。三月。三从兄弟等内外族等。余如五服注疏全之。

  (二十) 八月壬申朔。三藏金刚智告其徒曰。白月圆时吾逝矣。至时绕毗卢像顶梵夹退归寝室跏趺而逝。赐谥灌顶国师。敕中书杜鸿渐撰纪德碑。智西域人。本王种。出家从龙智阿阇黎传密教及来东土初达南海。广州节度闻于朝。有旨驿驰赴阙入见。帝大悦。馆于大慈恩寺。未几夏旱。诏智祈雨智结坛图七俱胝像。约开眸即雨。阅三日像果开眸。有物自坛布云弥空。斯须而雨。帝特降诏褒美。明年辞游雁门不允。遂迁荐福寺。为人语默兴居容止凝粹。喜愠不形于色。见者莫测其涯。所至必结灌顶道场。弟子不空传其教。初不空事智。智授以梵本悉昙章及声明论。不逾旬而诵之。智奇其骏。引入金刚道场。以掷花验之。智以为胜己。不空因求瑜伽五部。智未之许。不空拟入天竺求之。智一夕梦京城佛像皆东行。及寤以诘不空。空启以西游意。智曰。汝有授道之资。吾何靳哉。即授以五部及毗卢遮那经苏息轨范。及智没不空奉遗教游天竺增广其学。

  是岁禅师义福卒。旧唐史云。福得法于神秀禅师。初止蓝田化感寺。处方丈之室。二十余年未尝出宇之外。尝随驾幸东都。蒲号二州刺史及官吏士民皆赍幡华迎之。所在涂路充塞。及卒有旨。赐号大智禅师。葬伊阙之上。送者数万人。中书严挺之为制碑。初神秀虽德行为禅门之杰得帝王钦重。而未尝聚徒开堂传法。至义福普寂。始于京城传教。二十余年人皆仰之。

  (二十二 癸酉) 恒州刺史韦济奏。方士张果有长年秘术。自言数百岁矣。则天尝召之。果徉死不赴。今复见之。帝闻遣中书侍郎徐峤赍玺书迎之。果至。帝闻其变化不测而疑之。时邢和璞者。善算。能知人寿夭。帝令。算果。懵然莫知其甲子。又有师夜光者。善视鬼。帝召果与之密坐。令夜光视之。夜光不能见。帝闻饮堇汁无苦者真奇士。会天寒以堇汁赐之。果饮三卮醺然如醉。顾左右曰。非佳酒也。倾之取镜视齿则尽燋黑。命左右取铁如意击齿堕尽。更出神药傅其龂寝。顷之齿复粲然如故。帝始信之。将妻以公主。果预知苦辞获免。后恳辞归山。下制曰。恒州张果先生游方之外者也。迹造高尚深入窈冥。早浑光尘应诏城阙。莫详甲子之数。且谓羲皇上人。问以道枢尽会宗极今特行朝礼。爰升宠命可银青光禄大夫。号通玄先生。其年果入恒山。后不知终。

  (二十三 乙亥) 二十三年三藏无畏卒。春秋九十有九。诏鸿胪丞李现监护丧事。塔于龙门之西山广化寺。藏其全身。畏本释种。甘露饭王之后。以让国出家。道德名称为天竺之冠。所至讲法必有异相。初在乌茶国演遮那经须臾众会咸见空中有毗卢遮那四金字各寻丈排列。久之而没。又尝过龙河。一托驼负经没水。畏惧失经。遽随之入水。于是龙王邀之入宫讲法。不许。彼请坚至。为留三宿而出。所载梵夹不湿一字。其神异多类此。

  (二十四) 是岁。三藏不空于师子国从普贤阿阇梨求开十八会金刚灌顶及大悲胎藏建坛之法。其王一日调象。俄而群象逸。莫敢御之者。不空遽于衢路安坐。及狂象奔至。见不空皆顿止跪伏。少顷而去。由是举国神敬之。

  论曰。自大教东流。诸僧间以神异助化。是皆功行成熟契彻心源。自觉本智现量发圣。绝非咒力幻术所致也。殆自东晋尸利密已降。宣译秘咒。要其大归。不过祀鬼神驱邪妄为人禳灾释患而已。其间往往不无假名比丘自外国来挟术惊愚。有所谓罗汉法者。正公䯢邪术下劣之技。亦犹道家雷公法之类也。兹岂高道巨德弘禅主教者齿哉。及开元中西域金刚智无畏不空三大士。始传密教。以玄言德祥开佑至尊。即其神功显效几与造化之力均焉。故三大士虽宏密教。抑本智现量发圣与。尝慨资治通鉴称。贞观中有僧自西域来。善咒术能令人立死。复咒之使苏。太宗择飞骑中壮者试之。皆如其言。因以问傅奕。奕曰。此邪术也。臣闻邪不干正。请使咒臣必不能行。帝命僧咒奕。奕初无所觉。须臾僧忽僵仆。若为物所系。遂不复苏。此恐好事者曲为之辞。何则若使果有是。则僧非真僧咒非真咒。正谓邪术耳。固不足以张吾教之疵也。矧万万无此理。向使彼能自西域远至长安厥术能死人而复苏。乃不暇自卫其身。对常人无故而僵死。虽儿童莫之信也。又当是时三大士者虽俱未至。若京城大德僧惠乘玄琬法琳明赡诸公。其肯坐视绝域伪僧破坏教门。不请峻治乃留帝命傅奕辨耶。佛制戒律。虽春蹊生草犹不许比丘践之。恐害其生。况说断人命咒传于世乎。故予谓好事者曲为之辞断可见矣。◎

  ◎(二十五 戊寅) ○始建置州学。

  二十六年。沙门法秀者。梦异僧劝置袈裟五百领。施回向寺僧。既觉叹异。遂乞丐造之。然遍访所谓回向寺者。咸无得焉。一日道逢一僧。逆而问曰。托置袈裟今成未。秀曰。成矣。僧曰。吾导女入回向寺。女可裹粮载燧从吾以往。秀曰诺。翌日随之入终南山。行二日。至深绝处。所见唯云物掩苒嵓洞崎岖。进遇石坛共止其上。僧命秀钻燧出火。炷香望层霄拜之。忽云开见崖半有朱门高耸刹幡飞扬。秀忻然与之攀跻而上。渐闻午梵清圆钟磬交作。须臾望见其寺。有额曰回向。其僧即趋而入。命阍者授秀馆。因具仪谒上方老宿。次见诸僧皆奇伟雍穆相劳问。明日秀出袈裟遍寺施之。老宿谢毕携秀入一空房。呼侍者取尺八。俄顷侍者持玉箫至。老宿曰。此唐天子旧居之室也。向在此好声乐。故降为人主。久当复归。秀止再宿不得留。老宿授与玉箫并袈裟。嘱曰。持归献唐天子。即遣僧送秀出寺。行未远回望而云雾四合。秀慨叹而还。诣阙表上所寄。帝览之。因取玉箫调弄。宛如夙御焉。其后燕沉香亭诏李白为辞。帝吹玉箫杨妃起舞。欢甚疑飘摇而仙去(旧唐史)。

  (己卯) ○封孔子文宣王(衣衮冕南面十哲坐图七十二贤庙壁)。

  (二十六 庚辰) 长者李通玄唐宗子也。开元二十八年顺世。长者以七年至太原盂县。有高仙奴者。识其为大贤。馆之斋中。每旦唯服枣十颗柏叶饼如七大者一枚。终日濡毫临纸。未尝接人事。如是三稔。迁马氏古佛堂侧。筑土室以居。尽日危坐而已。阅十年忽囊负经书而去。行二十里。偶一虎当途驯伏。玄抚之曰。吾将著论释华严经。能为择栖止处不。即以经囊负其背而随之至神福山原下土龛之前蹲驻玄取其囊置龛中。虎即妥尾而去。其龛莹洁广六七肘。圆转上下称之。盖天设以卑有道。非人力所为也。长者著论之夕。心穷玄奥口出白光。以代灯烛。于时忽有二女子。容华绝世皆可笄年。衣布衣俱以白巾幪首。日为长者汲泉炷香奉纸墨。每于卯辰之间。辄具净馔置长者前。斋毕彻器则引去莫测所之。如是五载。至长者著论毕。遂灭迹不见。长者美髭髯朗眉目。丹唇紫肥。冠桦皮衣麻衣。长裙博袖散腰徒跣而行。放旷人天靡所拘执。尝一日出山。遇里人高会燕乐。长者就语之曰。汝等好住。吾将归矣。众惊其去有送入山者。至龛而谢遣之。即于是夕烟云凝布嵓谷震荡。有二白鹤翔空哀唳。其余飞走悲呜满山。翌日里人共往候之。则已端坐示寂于龛中。寿九十有五。华严论四十卷决疑论四卷。会释二卷。十门玄义排科释略及缘生解迷十明论各一卷。十玄六相普贤行愿华严缘观偈赞诗赋等。里人聚于方山逝多兰若。大历中沙门超广始获之。遂行于世。

  (二十七) 十二月。青原行思禅师示寂。吉州安城人也。姓刘氏。幼年出家。初见六祖。问当何所务即不落阶级。祖曰。汝曾作什么。师曰。圣谛亦不为。祖曰。落何阶级。师曰。圣谛尚不为。何阶级之有。祖深器之。及居青原。有沙弥希迁者。见师。师云。子何方而来。曰曹溪。师曰。将得什么来。曰未到曹溪亦不失。师曰。恁么则用去曹溪作什么。曰若不到曹溪争知不失。迁问。曹溪还识和尚不。师曰。汝今识吾不。曰识又争识得。师曰。众角虽多一麟足矣。他日又问迁。汝什么处来。曰曹溪。师乃竖起拂子云。曹溪还有这个么。曰非但曹溪。西天亦无。师曰。子莫曾到西天不。曰若到即有也。师曰。未在更道。曰和尚也须道取一半。莫全靠学人。师曰。不辞向汝道。恐已后无人承当。又令迁往南岳和尚处下书曰。汝达书了速回。吾与汝个鈯斧子住山。迁至彼未呈书。便问。不重己灵不求诸圣时如何。让曰。子问太高生。何不向下问。迁曰。宁可永劫沈轮。不慕诸圣解脱。让便休。迁回。师问。子返甚速。书达不。迁曰。信亦不通。书亦不达。师曰。作么生。迁举前话了便云。去时蒙和上许鈯斧子。便请。师垂下一足。迁礼谢。辞往石头。即石头和上是也。及是师既归寂。门人咸尊为七祖焉。

  (二十八) 时京都兴唐寺禅师普寂卒。旧唐史云。寂生河东马氏。少时遍寻高僧学经律。师事神秀凡六年。秀奇之。尽以道授之。秀入京因荐与则天。得度为僧。秀殁天下好释氏者咸师事之。中宗闻其高行。特下制令代神秀统其法众。开元十三年有旨移寂于都城居止。时王公士庶争来礼谒。寂严重少言。来者难见其和悦之容。远近尤以此重之。及卒凡京城士庶曾谒见者。皆制弟子之服。有敕赐号大照禅师。葬日河东尹裴宽及其妻子并衰麻列于门徒之次。士庶倾城哭送市易几废。

  (壬午) 改天宝。

  (二十九) 九月。太子詹事严挺之卒。少有风操累登显用。皆着声绩。天下引领望其为相。帝亦知其贤。欲遂相之。晚为李林甫所抑。郁郁不得逞至是预为墓志曰。天宝元年挺之自绛州刺史抗疏陈乞。天恩允从许养疾归间。兼授太子詹事。前后历三十五官。每承圣恩常忝奖擢。不尽驱策驽蹇。何阶仰答鸿造。春秋七十无所展用。为上士所悲。其年九月寝疾于洛阳之私第。以某月某日葬于大照和上塔次之西礼也。尽忠事君叨载国史。勉拙从事或布人谣。陵谷可以自纪。文章焉用为饰。初挺之师事大照禅师惠义。深明释典。及遗葬大照塔次。示不忘其德。见旧唐史。

  (三十 癸未) 帝遣中使杨庭光入司空山采常春藤。光因诣无相寺问本净禅师曰。弟子慕道斯久。愿和上慈悲略垂开示。师曰。天下禅宗硕学咸会京城。天使足可启决。贫道猥山傍水无所用心。杨再拜。师曰。天使休礼贫道。天使为求佛耶。问道耶。曰弟子昏昧。未审佛之与道其义云何。曰若欲求佛即心是佛。若欲会道无心是道。曰云何即心是佛。曰佛因心悟心以佛彰。若悟无心佛亦不有。曰云何无心是道。曰道本无心。无心名道。若了无心。无心即道。庭光跪受。回阙具以山中所遇闻奏。即敕庭光赍诏起师。以是冬十二月到京安置白莲亭。明年正月上元日。追两街名僧硕学赴内道场。共师阐扬佛理。有远禅师者。问如禅师所见以何为道。师曰。无心是道。远曰。道因心有。何得言无心是道。师曰。道本无名。因心名道。心名若有。道不虚然。穷心既无。道凭何立。二俱虚妄总是假名远曰。禅师见有身心是道以否。师曰。山僧身心本来是道。远曰。适言无心是道。今又言身心本来是道。岂不相违。师曰。无心是道。心泯道无。心道一如。故言无心是道。身心本来是道道亦本是身心。身心本既是空。道亦穷源无有。远曰。观禅师形体甚小。却会此理。师曰。汝只见山僧相不见山僧无相。远曰。请禅师于相上说出无相师曰。净名经云。四大无主身亦无我。无我所见与道相应。大德若以四大有主是我。若有我见穷劫不可会道也。远惭汗而退。如远者又七人往复论道。师皆纵口词辩倾注。帝及四众莫不称善而罢。

  (三十一 甲申) 三年南岳怀让禅师示寂元和中名儒张正甫制其碑曰。天宝三载观音大师终于衡岳。春秋六十八。僧腊四十八。元和十年故大师弟子道一之门人曰惟宽怀晖。感尘劫遽迁塔树已拱。惧绝故老之口将贻后学之忧。丕若贻谋思扬祖德。乃列景行托于废文。强名无迹以慰乎罔极之思。曰自腾兰演教于此土也殆将千岁。达磨传心至六叶也分为二宗。不阶初入顿入佛慧。曹溪教旨于是乎传。弘而信之观音其人也。大师讳怀让。京兆杜氏。其先因家安康。即为郡人。髫年骏发聪悟绝众。群言所涉一览无遗。居常而未或好弄。在丑而不可亵近。尝默观止水。因而顾影。形仪颙若宛在镜中。三反厥像如初。沛然而心乎独得。还步未辍。闻于空中曰。佛法津梁俟子而大。既应付嘱。尔盍勉之。乃深割爱线亟从剃落。以荆土律藏之微密也。大士智京在焉。摄衣从之。既进而仪法峻整冠于等辈。以嵩岳禅之泉海也。长安长老在焉。稽首咨之。既授而身心自在超出尘垢。厌离文字恩会宗元。周法界以冥搜。指曹溪而遐举。能大师方弘法施学者如归。涉其藩阃者十三焉。跻其堂室者又十一焉。师以后学弱龄分于末席。虚中而若无所受。善闭而唯恐有闻。能公异焉。置之座右。会一音吹万有。衍方寸弥大千。同焉而友畅。异焉而吻合。同受秘印因为宗师。乃陟武当穷栖十霜朅来衡岳终焉是托般若胜概。有观音道场。宴居斯宇。因以为号。或微言析理。辩士顺风而杜其口。或杖屦将撰。山灵借留而现于梦。远自梁益近从荆吴。云趋影附风动川至。灵山圣会古今一时。至矣哉未始闻也。一公见性同德。弘教钟陵郁为名家。再扬木铎而施及宽晖。继传心灯共镇国土。乃追琢琬琰揭于故山。扬其耿光以示来劫。其受法弟子亦序列于左。式明我教之有开焉。

  (三十二 乙酉) ○立杨太真为贵妃矣○道士吴筠。是年诏见于大同殿。帝问道要。对曰。深于道者无如老子五千文。其余徒丧纸扎耳。复问神仙治炼法。对曰。此野人事。积岁月求之。非人主宜留意。筠每陈皆名教世务。以微言讽天子。天下重之。沙门嫉其见遇而高力士素事佛共短筠于帝。筠知不得留辞还山。下诏为立道馆。后徙茅山由会稽剡中卒。初筠见恶于力士而斥。故其文深诋释氏。议者讥其背向。时浙西观察使陈少游。大恶筠所为。因命法师神邕著论折之。邕着翻迷论以订其妄。筠论遂废。给事中窦绍。见邕论叹曰。邕可谓尘外摩尼论中师子。

  (三十三 丙戌) 五月制天下度僧尼。并令祠部给牒。今谓之祠部者。自此而始也。

  (三十四 丁亥) 是岁不空三藏自西域还。诏入内结坛为帝灌顶赐号智藏国师。时方士罗思远者。以术得幸。有旨令与不空验优劣。他日会于便殿。思远持如意向之言论次。不空就取如意投诸地。令思远举之。思远饶力不能举帝拟自取。不空笑曰。三郎彼如意影耳。即举手中如意示之。思远钦服而罢。不空凡祈祷必张绣座。手持木神诵咒掷之。神自立于座。四众环视必见其神目吻瞬动。所祷虽造化之功可夺。朝野奉之如佛焉。是年凤凰现。

  (辛卯) 世尊示灭一千七百年矣。

  (三十五 壬辰) 润州鹤林寺径山大师玄素卒。左补阙李华制碑。其略曰。呜呼菩提位中六十一夏。父母之生八十五年。赴哀泣者可思量否。至有浮江而奠望寺而哭。十里花雨四天香云。幡幢盖网光蔽日月。以其月二十一日。四众等号捧全身建塔于黄鹤山西原。象法也。州伯邑宰执丧师之礼率申哀慕。江湖震悼。曩于寺内移居高松互偃。涅槃之夕猗桐双枯。虎狼哀号声破山谷。人祇惨恸天地晦冥。及发隐登原风雨如扫。慈鸟覆野灵鹤徊翔。有情无情德至皆感。门人法镜法海。亲奉微言缮崇龛座。菩萨戒弟子故吏部侍郎齐翰。故刑部尚书张均。故江东采访使刘日正。故广东都督梁升。故润州刺史徐峤韦昭理。故给事中韩延赏。故御史中丞李丹。道流人望莫盛于此。弟子尝闻道于径山。犹乐正子春之于夫子也。洗心瞻仰天汉弥高。镜公门人悟甚深者。大理评事杨诣过去圣贤诸功德藏。志之所至无不闻知。鲁史从告。况乎传信。其文曰。浊金清镜在尔销炼。磨之莹之功至乃见。膏渍注然光明外遍。阳升律应草木皆变。启迪喑瞽唯吾大师。息言成教舍法兴悲。辰极不动风波自移。境由心寂道与人随。沓然玄默湛入无为。性本非垢云何净除。身心宴寂大极沦胥。内光无尽万境同如。甘露正味琉璃妙器。遍施大千无同无异。度未度者化周缘备。道树忽枯涅槃时至。我生无灭随世缘因。吉祥殿上应化诸天。寂寂灵塔滔滔逝川恒沙劫坏智月常圆。

  (三十六 癸巳) 西蕃寇围凉州。帝命三藏不空祈阴兵救之。空诵仁王密语数番。有神介胄而至。帝亲见之。问曰。神谓谁。空曰。北方毗沙门天王长子也。空诵密语遣之。数日凉州捷报。有神兵至威武雄盛。贼畏惧卷甲而去。帝悦诏天下。军垒皆立毗沙门天王祠。

  (三十七 甲午) 左溪玄朗法师卒。朗如意中得度。就会稽叩宗法师商略律部依恭禅师研究心法行头陀教。初南岳惠文禅师。悟法华宗旨以授惠思禅师。思授天台智顗。顗授章安灌顶。顶授缙云智威。威授东阳惠威。朗奉事东阳尽传其道。重山深林怖畏之地。独处岩穴凡三十年。宴坐左溪。因以为号。每曰。泉石可以洗昏蒙。云松可以遗身世。吾以此始亦以此终。建立精舍约而不陋。跪忏其间。奉观音上圣。愿生兜率亲近弥勒。心不离定口不尝药。或衣弊食绝。布纸而绽掬泉而斋。如缯纩之温。如滑甘之饱。或问。万行俱空云何苦行。答曰。本无苦乐妄习为因。众生妄除我苦随尽。又问。山水自利如聚落何。对曰。名香挺根于海岸。如来成道于雪山。未闻笼中比夫寥廓也。一日告门人曰。吾五印道成万行无得。戒为心本。尔等师之。言讫而逝。春秋八十有二。弟子神邕玄净法灯消辩湛然等数十人传其教。补阙李华志其碑阴。略曰。禅师诲人匪倦。谓不待众。一郁多罗四十余载。一尼师坛终身不易。食不重味居必遍厦。非披阅圣教。不空然一烛。非瞻礼尊仪。不虚行一步。其微细修心。皆循律法之制。是以远方沙门邻境耆宿拥室填门。

  (三十八) 若冬旸夏阴不召而自至也。其后翰林梁肃。深得台教之旨趣。尝着天台法门议曰。修释氏之训者务三而已。曰戒定慧。斯道也始于发心成于妙觉。经纬于三乘。导达于万行。而能事备矣。昔法王出世由一道清净。用一音演法。机感不同所闻益异。故五时五味半满权实偏圆小大之义。播于诸部粲然殊流。要其所归无越一实。故经曰。虽说种种道。其实为佛乘。又曰。开方便门示真实相。喻之以众流入海。标之以不二法门。自次两得同诣秘密。此教之所由作也。洎鹤林灭而法网散。神足隐而宗涂异。各权所得互为矛盾。更作其中。或三昧示生四依出现。应机不等持论亦别。故摄论地持成实唯识之类。分路并作。非有非空之谈。莫能一贯。既而去圣非远。其风东扇。说法者桎梏于文字。莫之自解。习禅者虚无其性相。不可牵复。是此者非彼。未证者谓证。慧解之道流以亡反。身口之事荡而无章。于是法门之大统。或几乎息矣。既而教不终否。至人利见。惠闻惠思或跃相继。法雷之震未普。故木铎重授于天台大师。大师像身子善现之超悟。备帝尧大舜之休相。相赞龙树之遗论。从南岳之妙解。然后用三种止观。成一事之因缘。括万法于一心。开十乘于八教。戒定慧之说。空假中之观。坦然明白可举而行。是故教无遗法。法无弃人。人无废心。心无择行。行有所证。证有其宗。大师教门所以为盛。故其在世也。光照天下为帝王师范。其去世也。往来上界为慈氏辅佐。卷舒于普门示现降德。为如来所使。阶位境智盖无得而称焉。於戏应迹虽往微言不坠。习之者犹足以抗折百家昭示三藏。又况闻而能思。思而能修。修而能信。信而不已者欤。斯人也虽曰未证。吾必谓之近矣。今之人正信者鲜。启禅关者或以无佛无法何罪何善之化。化中人已下。驰骋爱欲之徒。出入衣冠之类。以为斯言且不逆耳。故从其门者若飞蛾之赴明烛。破块之落空谷。殊不知坐致燋烂。而莫能自出。虽欲益之而实损之。与夫众魔外道为害一揆。由是观之。此宗之大训。此教之旁济。其于天下为不侔矣。自智者传法。五世至今湛然大师中兴其道。为予言之如此。故录之以系于篇。

  (三十九) 是岁鲁山令元德秀卒。德秀字紫芝。河南人。少孤事母孝。举进士不忍去左右。自负其母至京师。母亡庐墓侧。刺血写佛经数千言。绝笔感异香。芬馥弥日而息。食不盐酪藉无茵席。调南和尉。德秀不及亲在而娶。不肯婚。人以为不可绝嗣。答曰。兄有子先人得祀。吾何娶为。初兄子襁褓丧亲。无资得乳媪。德秀自乳之数日涌流。能食乃止。家苦贫求为鲁山令。岁满笥余一缣驾柴车还。爱陆浑佳山水。乃定居。家无仆妾。岁饥或日一爨。嗜酒陶然鼓琴以自娱。房管每见德秀。叹息曰。见紫芝眉宇。使人名利之心都尽。苏源明尝语人曰。吾不幸生衰俗。所不耻者识元紫芝也。及卒家唯枕履箪瓢而已。族弟元结哭之恸。或曰。子哭过哀礼与。结曰。若知礼之过而不知情之至。大夫弱无固壮无专老无在死无余。人情所耽溺喜爱可恶者。大夫无之。生六十年。未尝识女色。视锦绣未尝求足。苟辞佚色。未尝有十亩之地十尺之舍十岁之僮。未尝完布帛而衣具五味而餐。吾哀之以诫荒淫贪佞绮纨粱肉之徒耳。

  论曰。凡诸史杂传。俱未有卓行篇。唐史特设此题。载元鲁山数人而已。观鲁山行己之操及其弟元结所称。俨然一高僧耳。置唐史数千人中。遂崭然杰出。顾不美哉旧史称。其居母丧刺血写佛经数千言。绝笔感异香。芬馥弥日而息。而新史削之。夫鲁山居丧所为出乎至诚。宋景文何嫌而削之。若谓恶求福于佛。佛固未尝邀鲁山。鲁山自为之而不疑。何佛之嫌。若以身体发肤受之父母不应毁。则乳亦妇人之事。非男子有也。鲁山尚能出乳以食兄之子。独不当以血为母写经何也。景文深存名教。然君子百行殊涂同归。奚必靳靳然以儒释歉哉。

  (四十 乙未) (○安禄山请以蕃将三十二人代汉将。十一月反。兵十五万发范阳陷东都)。

  (丙申) 肃宗亨改至德元载(玄宗第三子。禄山反。玄宗幸蜀。权立太子于凤翔。因即位。李泌为相。郭子仪李光弼为平安禄山史思明之乱。帝年五十二崩葬建陵。在位七年)。

  (四十一) 五月。逆贼安禄山陷长安。玄宗幸蜀。或谓车驾入蜀之初。有守臣与禄山偕反者。其人曾为阆守。有画像在路次。玄宗忽见之不胜大怒。命侍臣。以剑斩像首。其人时在陕西。不觉其首无故忽堕于地。及是驾至成都渡万里桥。悟一行金合当归之谶。于是洗然忘忧云。

  秋七月。皇太子即位于灵武。是为肃宗。旬日诸镇节度兵至者数十万。乃以房管为相。兼元帅讨贼。未几为禄山所败。于时寇难方剡。或言宜凭福祐。帝纳之引沙门百余人。行宫结道场。朝夕讽呗。帝一夕梦沙门身金色诵宝胜如来名。以问左右。或对曰。贺兰白草谷有新罗僧名无漏者。常诵此佛颇有神异。帝益讶之。有旨追见无漏。固辞不赴。寻敕节度郭子仪谕旨。无漏乃来见于行在。帝悦曰。真梦中所见僧也。既而三藏不空亦见于行宫。帝并留之托以祈禳。

  (四十二 丁酉) 正月。安禄山子庆绪使李猪儿。弑禄山而自立。九月副元帅郭子仪破安庆绪复京师。十月帝至自灵武。十二月太上皇至自西蜀○未几于内禁立道场。讲诵赞呗甚严。宰相张镐谏曰。天子之福要在养人。以一函宇善风俗。未闻区区佛事能致太平。愿陛下以无为为心。不以小乘扰圣虑。帝不纳。寻敕五岳各建寺妙。选高行沙门主之。听白衣能诵经五百纸者度为僧。或纳钱百缗请牒剃落。亦赐明经出身及两京平。又于关辅诸州纳钱度僧道万余人。进纳自此而始。改乾元复称年○史思明杀安庆绪复反。

  (四十三 戊戌) 是岁新罗僧无漏示寂于右合门。合掌凌空而。立足去地尺许左右以闻。帝惊异降跸临视。得遗表乞归葬旧谷。有诏护送旧居建塔。至怀远县下院。辄举不动。遂以香泥塑全身。留之下院。

  (四十四 己亥) 是岁遣使诣韶州曹溪。迎六祖能大师衣钵。入内供养。诏南阳惠忠禅师赴阙。忠越州诸暨人。自受曹溪心印。居南阳党子谷中。凡四十年。足不下山门。尝示众曰。禅宗学者应遵佛语一乘了义契自心源。不了义者互不相许。如师子身虫。夫为人师若涉名利别开异端。则自他何益。如世大匠斤斧不伤其手。香象所负非驴所堪。及是赴诏。初安置千福寺。一日帝问。如何是十身调御。忠起身而立曰。会么。帝曰。不会。忠顾左右云。与老僧过净瓶来帝又问。如何是无诤三昧。答曰。檀越踏毗卢顶上行。帝曰。此意如何。忠曰。陛下莫认自己清净法身。帝益不晓。于是斋沐别致十问其一曰。见性已后用布施作福否。忠对。无相而施合见性。二曰。日夕作何行业合得此道。忠答。无功而修合此道。三曰。或有病难将何道理修行抵拟。忠对。无功而修了业本空得不动转。四曰。临终时作么生得清凉自在无疑。忠以努力自信道为对。五曰。烦恼起时将何止息。忠以本心湛然烦恼回归妙用。六曰。见性已去用持戒念佛求净土否。忠对。性即是佛性即是净土。七曰。舍此阴了当生何处。忠以无舍无生自在生为对。八曰。临终时有华台宝座来迎可赴否。忠以不取相为对。九曰。作么生得神通以佛国。忠以见性如贫得宝如民得王对。十曰。只依此本性修定得作佛否。忠对。定得作佛佛亦无相。无得乃为真得。前十对皆广有其辞。今约科目为对耳。帝由是凝心玄旨。

  (四十五) 三月己丑。诏天下州郡各置放生池。冬十月升州刺史颜真卿。撰有唐天下放生池碑铭并序曰。皇唐七叶我乾元大圣光天文武孝感皇帝陛下。以至圣之姿。属艰虞之运。无少康一旅之众。当禄山强暴之初。干巩劳谦励精为理推诚而万邦胥悦。克己而天下归仁。恩信侔于四时。英威达于八表。功庸格天地。孝感通神明。故得回纥奚霫契丹大食循蛮之属扶服万里决命而争先。朔方河东平庐河西陇右安西黔中岭南河南之师虓阚五年椎锋而效死。摧元恶如拉朽。举两京若拾遗。庆绪遁逃。已蒙赤族之戮。思明跧伏。行就沸鼎之诛。拯已坠之皇纲。据再安之宗社。迎上皇于西蜀。申子道于中京。一日三朝。大明天子之孝。问安侍膳。不改家人之礼。蒸蒸然翼翼然。真帝皇之上仪。诰誓所不及已。历选内禅。生人以来。振古及随未有如我皇帝者也。而犹妪煦万类忧勤四生。乃以乾元二年岁次己亥春三月己丑。端命左骁卫右郎将史元琮中使张廷玉。奉明诏布德音。始于洋州之兴道。洎山南剑南黔中荆南岭南浙西诸道。迄于升州之江宁秦淮太平桥。临江帝郭上下五里。各置放生池。凡八十一所。盖所以宣皇明而广慈爱也。易不云乎。信及豚鱼。书不云乎。洎鸟兽鱼鳖咸若。古之聪明睿智神武而不杀者。非陛下而谁。昔殷汤克仁。犹存一面之纲。汉武垂惠。才致衔珠之答。虽流水救涸宝胜称名。盖事止于当时。尚介祉于终古。岂我今日动者植者水居陆居。举天下以为池。罄域中而蒙福。乘陀罗尼加持之力。竭烦恼海生死之津。揆之前古曾何仿佛。微臣职忝方面。生丁盛美受恩寖深。无以上报。谨缘皋陶奚斯歌虞颂鲁之义。述天下放生池碑铭一章。虽不足雍容圣明万分之一。亦臣之精恳也。碑铭不录。

  (四十六 庚如) 改上元。

  (辛丑) 尚书左丞王维卒。维字摩诘。临终无病。遗亲故书数幅。停笔而化。工草隶善画。名盛于开元天宝间。豪英贵人虚左以迎之。宁薛诸王待以师友画思入神。至山水平远云势石色。绘工以为天机所到非由学致也。客有以按乐图示者。无题识。维曰。此霓裳第三叠最初拍也。客未然。引工按曲乃信。与弟缙皆笃志奉佛。食不荤血。衣不文彩。别墅在辋川地奇胜。有华子冈欹湖竹里馆柳浪茱萸[洉-口+ㄒ]辛夷坞。与裴迪游其间赋诗相酬为乐。丧妻不娶。孤居三十年。母丧表请以辋川第施为佛祠。

  (四十七 壬寅) 改宝应。四月庚戌。楚州龙兴寺尼真如恍若有人接之。升天见天帝。帝授以十三宝。谓真如。曰中国有灾。宜以第二宝镇之。甲子楚州刺史崔侁奉表献于朝。其一曰。玄黄天符(形如笏。长八寸阔二寸。黄玉也。有文云辟兵后)。二曰玉鸡(毛文悉备白玉也)。三曰谷璧(径六寸粟粒自然白玉也)。四曰西王母环二枚(径七寸白玉也)。五曰碧色宝(圆而有光)。六曰如意珠(形如卵光如月)。七曰红靺鞨(大如巨粟)。八曰琅玕珠二枚(长二寸)。九曰玉玦(如环四分缺其一)。十曰玉印(有文如鹿以印物则鹿形着)。十一曰。皇后采桑钩(长六寸形如箸屈。其末色如金又如银)。十二曰雷公斧(长二寸阔二寸)。十三曰(史失其名)帝览之大悦。以置日中则白气属天。名之曰定国宝。帝以献自楚州。即皇太子始封之国。又闻中原有灾。宜以第二宝镇之。遂诏皇太子摄政事。大赦天下。

  五月太上皇崩。年七十有八。帝自春至夏多不豫。及太上皇崩。哀感号恸致疾。相距十四日而崩。年五十四。皇太子即位。是为代宗。

  佛祖历代通载卷第十三

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第十四

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  唐

  (一 癸卯) 代宗豫改年广德(肃宗长子。玄皇诸孙百余人代居长为嫡孙即位。后用元载为相。而黜李泌。及诛元载复用杨绾。年五十三崩紫宸内殿。葬元陵。在位十七年)。

  (乙巳) 改年永泰○九月铸金铜佛像于光顺门。率百僚拜祀之。十月吐蕃寇逼京师。内出仁王经。辇送西明诸寺。置百尺高座讲之。寇平○帝梦六祖惠能大师请衣钵归于曹溪。翌日遣中使送还。是时寇难屡逼。帝寖以为忧。宰相王缙曰。国家庆祚灵长福报所凭。虽多难无足道者。禄山思明毒流方煽而皆有子祸。仆固怀恩临敌而踣。群戎来寇未及战辄去。非人事也。帝由是笃意佛道修祠祀。诏天下官司无棰辱僧尼。禁中讲诵仁王护国经。诏命不空三藏。

  (二) 重译旧本。帝亲为之序。官不空特进鸿胪卿。是年诏法师良贲。于大明宫之桃园。造新仁王经疏成。贲以表进呈。略曰。洗心涤虑扣寂求音。发明启自天宫。加被仰凭佛力。咸约经论演畅真宗。亦犹集群玉于荆山。约百川于溟海。火生于木。并两曜而俱明。识转于如。体一相而等照。成道者法也。载法者经也。广度群有同于大通。足菩提心如陛下意。帝览之称善。改大历元年。

  (三 丙午) 道义禅师。是年建金阁寺。敕十节使助之以二税。七月。始作盂兰盆会于禁中。设高祖太宗已下七圣位。备銮舆建巨幡。各以帝号标其上。自太庙迎入内道场。铙吹鼓舞旌幢烛天。是日立仗百僚于光顺门迎拜导从。自是岁以为常癸未太庙二宫生灵芝。帝赋诗美之。百僚皆属和。

  (四 丁未) ○大教东被七百年矣。

  七月。宰相杜鸿渐。出抚巴蜀。至益州遣使诣白崖山请禅师无住入城问法曰。弟子闻今和上说无忆无念莫妄三句法门。未审此三句是一是三。无住曰。无忆名戒。无念名定。无妄名慧。然一心不生则具戒定惠。非一非三也。曰后句妄字莫非从心否。无住曰。从女者是。曰有据否。无住曰。法句经云。若起精进心是妄非精进。若能心不妄精进无有涯。又问。师还以三句接人否。对曰。初心学人还令息念澄停识浪清水影现。悟无念体寂灭现前。无念亦不立也。时庭树鸦鸣。公曰。师还闻否。曰闻。鸦去矣。又问。师今闻否。曰闻。公曰。鸦去无声。云何言闻。无住顾四众曰。正法难闻。各宜谛听。闻与不闻非关闻性。本来不生今亦不灭。有声之时。是声尘自生。无声之时。是声尘自灭。而此闻性不随声生不随声灭。悟此闻性则免声尘流转。乃至色香味触亦复如之。当知闻无生灭闻无去来。公与僚属喜跃称善。又问。弟子顷着起信论疏二卷。得名解佛法否。曰夫造疏皆用心思量分别。但可着成传益初学。据论云。知一切法从本以来离言说相离文字相离心缘相毕竟平等无有变异。唯是一心故名真如。今相公着言说相著名字相着心缘相。既着种种相。何由体解佛法。公稽首曰。师今从理确论。合心地法门实不思议。然何由得不生不灭契解脱去答曰。见境心不起名不生。不生即不灭。既无生灭即不被前尘所缚。当处解脱。公曰。何谓识心见性。答曰。一切学道人随念流浪。盖为不识真心不见本性。真心者。念生亦不顺生。念灭亦不依寂。不来不去不定不乱。不取不舍不沈不浮。无为无相活鱍鱍平常自在。此心体毕竟不可得。无可知觉。触目皆如。无非见性也。鸿渐由是栖心禅悦。尝有诗云。长愿追禅理安能揖化源。晚以疾辞宰相。释位三日而薨。临终沐浴俨朝服加僧伽黎剃须发而逝。遗命依沙门法葬。

  论曰。无住说法简当明妙。雅合首楞严所谓闻无生灭之旨。宜乎闻者悟悦而信解也。鸿渐灵武策立功臣。家世奉佛。其临终剔发须服僧衣。遂与宋朝王文王公旦肖焉。虽文正公巨德元勋完名高节卓冠名臣之表非鸿渐所能仿佛。然暮年付嘱诸子及其友杨文公大年。丁宁曲折。文公谈苑着之甚详。兹可想见知佛之深而见道之明也。呜呼吾宗直指当人见闻觉知。一段大事本尔现成。柰何人自弃昧往往终身役役为他间事长无明者。天下碌碌皆是。若二公能自回头存心后世打彻大事。夫岂易得也哉。

  (五 戊申) 清凉国师澄观。字大休。会稽人。姓夏侯氏。生于开元戊寅。身长九尺四寸。垂手过膝。口四十齿。目光夜发。昼乃不眴。天宝七年出家。至肃宗二年丁酉受具。是年奉诏入内敕译华严。初至德中即以十事自励曰。体不捐沙门之表。心不违如来之制。坐不背法界之经。性不染情碍之境。足不履尼寺之尘。胁不触居士之榻。目不视非仪之彩。舌不味过午之肴。手不释圆明之珠。宿不离衣钵之侧。从牛头忠径山钦。问西来宗旨。授华严圆教于京都诜禅师。至是大历三年代宗诏入内。与大辩正三藏译经。为润文大德。既而辞入五台大华严寺覃思华严。以五地圣人栖身佛境心体真如。犹于后得智起世俗心学世间解。繇是博览六艺图史九流异学华夏训诂竺经梵字及四围五明圣教世典等书。靡不该洽。至建中四年下笔着疏。先求瑞应。一夕梦金容当阳山峙。光相颙颙。因以手捧咽面门。既觉而喜以谓获光明遍照之徴。自是落笔无停思。乃以信解行证。分华严为四科。理无不包。观每慨旧疏未尽经旨。唯贤首国师颇涉渊源。遂宗承之制疏。凡历四年而文成。又梦身为龙。矫首南台尾蟠北台。宛转凌虚鳞鬣耀日。须臾变百千数蜿蜓青冥。分散四方而去。识者以为流通之像也。初为众讲之。感景云凝停讲堂庭前之空中。又为僧睿等着随疏演义四十卷随文手镜一百卷云。

  (六) 是年帝召国师惠忠入内。引太白山人见之。帝曰。此人颇有见解。请师验之。忠曰。汝蕴何能。山人曰。忝识山识地识字善算。曰山人所居之山。是雄山是雌山。山人茫然不能对。忠曰。识地否。曰识。忠指殿上地问曰。此是何地。答曰。容弟子算方知。忠曰。识字否。曰识。忠于地上画一画曰。此甚字。山人曰。是一字。忠曰。土上一画是王字。何谓一字耶。又问。能算否。曰能。忠曰。三七是多少。山人曰。国师琉弟子。三七岂非二十一。忠曰。却是山人算贫道。三七是十。何谓二十一。复问。更有何能。答曰。弟子纵有亦不敢向国师开口。忠曰。纵汝有能。亦俱未是。师却谓帝曰。问山不识山。问地不识地。问字不识字。问算不解算。陛下何处得此懵汉来。帝谓山人曰。朕有国位不足为宝。师乃国宝也。山人曰。陛下真识宝者矣。

  (七) 是岁诏径山道钦禅师至阙下。帝亲加瞻礼。一日师在内庭。见帝起立。帝曰。师何以起。钦曰。檀越何得向四威仪中见贫道。帝悦谓忠国师曰。朕欲赐钦师一名。忠欣然奉诏。遂赐号国一禅师。后辞归本山。马祖大师令门人智藏问十二时中以何为境。师曰。待汝回去时有信。藏曰。只今便回。师曰。传语却须问取曹溪。又僧问。如何是祖师西来意。师曰。汝问不当。曰如何得当。师曰。待吾灭后却向汝说。至贞元八年示寂。赐谥大觉禅师。

  (八 己酉) 牛头惠忠禅师示寂。师得法于威师。为牛头宗第六祖。平生一衲不易器用唯一铛。尝有供僧谷二廪。盗者窥伺虎为守。县令张逊者入山顶谒。问师有何徒弟。曰有三五人。逊曰。可得见否。师敲床三下有三虎哮吼而出。逊惊怖而退。及移居庄严寺将建法堂。有古树群鹊巢其上。师谓巢曰。此地建堂女可速去。言讫群鹊迁巢他树。及筑基有二神人定其四角。潜资夜役不日而成。由是学徒云集。师有安心偈曰。人法双净。善恶两妄。直心真实。菩提道场。至是将终。石室前挂铛树挂衣藤无故枯死。师集众布萨讫净发浴身。是夕有瑞云覆其院。空中复有天乐之声。诘旦怡然坐化。俄顷风雨暴作震折林木。有白虹贯于岩壑云。

  (九 庚戌) 西域大耳三藏至京师。自云得他心慧眼。帝令入光宅寺。请国师惠忠试验。忠问。汝得他心通耶。对曰。不敢。忠曰。汝道老僧即今在什么处。三藏云。和上是一国之师。何得往天津桥看弄猢孙。又问。老僧即今在什么处。三藏曰。和上是一国之师。何得去西川看竞渡。忠第三问语亦如前三藏良久罔知去处。忠叱曰。这野狐精。他心通在什么处。三藏无对。

  论曰。四祖下融大师横说竖说。犹未知向上关棙子。此黄檗运公语也。以黄檗大机大用逸格手段。作如是说则其然矣异时学人相似语言以为禅道者。凡贬剥诸方往往犹不止于此。呜呼世谓学不躐等。矧吾宗单传心印用以了生死者。其可以躐等乎。观牛头诸祖道盛一时。于死生之际感验昭著。有生而百鸟䘖花虎狼给侍者。有灭而鸟兽哀鸣逾月乃止者。有异香经旬而歇者。有山林变白溪涧绝流者。有空中神幡从西而来绕山数匝者。有所居旧院林木变白七日而复者。及是忠禅师所感。皆不思议事。出于造化之表。自非神德妙行蔽天地而不耻关百圣而不惭者曷以臻此邪。如大耳三藏。分证小果得五神通。及见国师初二度国师以有所缘心则灼见其处。及第三度国师入甚深秘密大寂定门。大耳于是茫然不知。然则证果有阶级。大道有浅深。端不诬矣。或谓巫咸相壶子揕拟国师者。自性圆通与夫区区术数。乌可同年而语哉。

  (十) 是年大广智三藏不空示疾。诫门人曰。普贤行愿出无边法门。汝等勤而行之。宜观菩提心本尊大印直诠阿字。了法无生证大觉身。又命弟子赵迁执笔。授所撰涅槃轨范以贻后世。使准此送终。以表辞帝。诏遣内使赐。汤药劳问。就加开府仪同三司肃国公食邑三千户。辞让数四不允。不空叹曰。吾以法济世。不意垂死滥污封爵。乃以先师金刚智所付法物。因中使李宪诚进之。遂沐浴更衣。吉祥安卧而寂。阇维顶骨不坏。中含舍利光彩夺目。御史严郢撰纪德碑。太常徐浩书之于石。其辞曰。

  和上讳不空。西域人也。氏族不闻于中夏。故不书。玄宗烛知至道。特见高仰。迄肃宗代宗三朝。皆为灌顶国师。以玄言德祥开佑至尊。代宗初以特进大鸿胪褒表之。及示疾不起。又就卧内加开府仪同三司肃国公。皆牢让不允。特赐法号曰大广智三藏。大历五年夏六月癸未。灭度于京师大兴善寺。代宗为之废朝三日。赠司空追谥大辩正广智三藏。和上荼毗日。诏遣中谒者赍祝文祖祭。申如在之敬。睿词深切加荐令芳。礼冠群伦举无与比。明年九月。诏以舍利起塔于旧居寺院。和上性聪朗博观前佛法藏要旨。缁门独立邈荡荡其无双。稽夫真言字仪之宪度。灌顶升坛之轨迹。即时成佛之速。应声储祉之妙。天丽且弥地普而深。固非未学所能详也。敢不概见序其大归。昔金刚萨埵亲于毗卢遮那佛前受瑜伽最上乘义。后数百年传于龙猛菩萨。龙猛又数百年传于龙智阿阇黎。龙智传金刚智阿阇黎。金刚智东来传于和上。和上又西游天竺师子等国。诣龙智阿阇黎。扬搉十八会法。法化相承自毗卢遮那如来至于和上。凡六弃矣。每斋戒留中导迎善气。登礼皆答福应较然。温树不言莫可纪已。西域隘巷狂象奔突。以慈眼视之。不旋踵而象伏不起。南海半渡天吴鼓骇。以定力对之。未移晷而海静无浪。其生也。母氏有毫光照烛之瑞。其没也。精舍有池水竭涸之异。凡僧夏五十享年七十。自成童至于晚暮。常饰供具坐道场浴兰焚香入佛知见。五十余年晨夜寒暑未尝有倾欹懈倦之色。过人绝远乃如是者后学升堂诵说。有师法者非一。而沙门惠朗受补处之记。得传灯之旨。继明佛日绍六为七。至矣哉。於戏。法子永怀梁木将绝本行。托予勒崇。昔承微言今见几杖。光仪眇汉坛宇清怆。綦书昭铭小子何让。铭曰。呜呼大士。起我三宗。道为帝师。秩为仪同。昔在广成轩后顺风。岁逾三千。复有肃公。瑜伽上乘。真语密契。六叶授受。传灯相继。述者牒之。烂然有第。陆伏狂象。水息天吴。慈心制暴。慧力降愚。寂然感通。其可测乎。两楹梦奠。双树变色。司空宠终。辨正旌德。天使祖祭。宸衷凄恻。诏起宝塔。旧庭之隅。下藏舍利。上饰浮图。迹殊生灭。法离有无。刊石为碣。传之大都。

  (十一 辛亥) 越州律师昙一卒。补?梁肃制其碑曰。释氏先律师。讳昙一字觉胤。报年八十。僧夏六十一。以大历六年十二月七日。灭度于越州开元寺。迁座起塔于秦望山之阳。制缞会葬者以千百数。大师南阳张氏。曾祖隋太常恒。始家会稽之山阴。大师诞钟粹气聪悟夙发。幼学五经因探禹穴。至云门寺遂依沙门谅公出家。景龙中剃度。寻受具戒。天纵辩慧益以轨仪。翕然已为人望矣。开元初西游长安。观音亮律师见而奇之。授以毗尼之学。又依崇圣寺坛子法师。学俱舍唯识。从印度大沙门无畏。受菩萨戒。探道睹奥出类拔萃。期月之间名动京师。大师崖岸峻峙机神坦迈。体识详雅应用虚明。得三藏之隐赜。究诸宗之源底。加以素解玄儒旁总历纬。长老闻风而悦服。公卿下榻以宾礼。由是与少保兖国公陆公象先贺宾客知章李北海邕徐中书安贞褚谏议庭诲。为儒释之游莫逆之友。其导世皆先之以文行。弘之以戒定。入兰室而馨香自发。临水镜而毫发必鉴。不知其所由然矣。开元二十六年。复归会稽。谓人曰。三世佛法戒为根本。本之不修道远乎哉。故设教以尸罗为主。取邺郡律疏。合终南事钞。括其同异详发正义。学徒赖焉。大凡北际河朔南越荆闽。四分之宗自我而盛。烈炬之破昏黑。群流之赴涧泽。适来之时行化也如彼。有为而生乘化而息。草木潜润慈云无心。适去之时处顺也如此。人世迁转道存运往。瞻望不见寂寥空山。哀哉。铭曰。越水漫漫。崇山回合。大师化灭。式建灵塔。缅慕上士。诞修净法。有威有仪。不洼不杂。德溥化洽。云从海纳。勒铭垂后。千万亿劫。

  (十二) 是岁淮南节度使杨州牧御史大夫张延赏状舒州三祖行实。请谥于朝。夏四月。天子赐谥曰镜智禅师。刺史独孤及制赐谥碑曰。按前志。禅师号僧粲。不知何许人。出见于周隋间。传教于惠可大师。抠衣邺中。得道于司空山。谓身相非真。故示有疮疾。谓法无我。故居不择地。以众生病为病。故所至必说法。度人以一相。不在内外中间。故必言不以文字。其教大略以寂照妙用。摄群品流注生灭。观四维上下。不见法不见身不见心。乃至心离名字身等空界。法同梦幻无得无证。然后谓之解脱。禅师率是道也。上膺付属下拯昏疑。大云垂荫国土皆化。谓南方教所未至。我是以有罗浮之行。其来不来也。其去无去也。既而以袈裟与法。俱付悟者。道存影谢遗骨此山。今二百岁矣。皇帝即位后五年。岁次庚戌。某剖符是州登禅师遗居。周览尘迹明徴故事。其荼毗起塔之制。实天宝景戌中。别驾前河南尹赵郡李公常经始之。碑版之文隋内史侍郎河东薛公道衡唐相国河南房公管继论撰之。而尊道之典易名之礼。则朝廷方以多故而未遑也。长老比丘释湛然。诵经于灵塔之下。与涧松俱老。痛先师名氏未经邦国焉。与禅众寺大律师澄俊。同寅叶恭亟以为请。会是岁嵩山大比丘释惠融至自广陵。胜业寺大比丘释开悟至自庐江。俱慕我禅师后七叶之遗训。日相与叹塔之不命号之不崇。惧象法之根本坠于地也。愿申无边众生之弘。誓以纾罔极杨。州牧御史大夫张公延赏以状闻。于是六年夏四月。上霈然降兴废继绝之诏。册谥禅师曰镜智。塔曰觉寂。以大德僧七人扫洒供养。天书锡命辉焕崖谷。众庶踊跃谓大乘中兴。是以大比丘众议立石于塔东南隅。纪心法兴废之所以然。某以谓初中国之有佛教。自汉孝明始也。历魏晋宋齐及梁武。言第一义谛者不过布施持戒。天下惑于报应而人未知禅。世与道交相丧。至菩提达磨大师。始示人以诸佛心要。人疑而未思。惠可大师传而持之。人思而未修。迨禅师三叶其风寖广。真如法味日渐月渍。万木之根茎枝叶悉沐我雨。然后空王之密藏。二祖之微言。始行于世间浃于人心。当时闻道于禅师者。其浅者知有为无非妄想。深者见佛性于言下。如灯照物。朝为凡夫夕为圣贤。双峰大师道信其人道。其后信公以传弘忍。忍传惠能神秀。秀公传普寂。寂公之门徒万人。升堂者六十有三。得自在惠者一。曰弘正。正公之廊庑。龙象又倍焉。或化嵩洛。或之荆吴。自是心教之被于世也。与六籍侔盛。於戏微禅师吾其二乘矣。后代何迷焉。庸讵知禅师之下生不为诸佛故现比丘身以救浊劫乎。亦犹尧舜既往周公制礼。仲尼述之游夏弘之。使高堂后苍徐孟戴庆之徒可得而祖焉。夫以圣贤所振为木铎。其揆一也。诸公以为司马子长立夫子世家。谢临川撰惠远法师碑铭。今将令千载之后知先师之全身禅门之权舆王命之追崇在此山也。则扬其风纪其时宜在法流。某尝味禅师之道也久。故不让。其铭曰。人之静性。与生偕植。智诱于外。染为妄识。如浪斯鼓。与风动息。淫骇贪怒。为刃为贼。生死有涯。缘起无极。如来悯之。为辟度门。即妄了真。以证觉源。启迪心印。贻我后昆。间生禅师。俾以教尊。二十八世。迭付微言。如如禅师。应期弘宣。世溷法灭。独与道全。童蒙来求。我以意传。摄相归性。法身乃圆。性身本空我为说焉。如如禅师。道既弃世。将二十纪。朝经乃届。皇明昭贲。亿兆摸拜。凡今后学。入佛境界。于取非取。谁缚谁解。万有千岁。此法无坏。

  (十三 壬子) 鲁郡公颜真卿。撰抚州宝应寺律藏院戒坛记曰。如来以身口意业难调伏也。净尸罗以息其内。行住坐卧四威仪摄善心也。明布萨以昭其外。故曰。波罗提木叉是汝之师。则憍陈如之善来。迦叶波之尚法。诸声闻三归约众。十四年以八敬度尼羯磨相承。其致一也。汉灵帝建宁元年。有北天竺五叶门支法领等。始于长安译出四分戒本兼羯磨。与大僧受戒。至曹魏有天竺十尼自远而来为尼受具。后秦姚兴弘始十一年。有梵僧佛陀耶舍。释出四分律本。而关中先行僧祇。江南盛行十诵。至元魏法聪律师。始阐四分之宗。聪传道覆。覆传惠光。光传云晖愿。愿传隐乐洪云。云传遵。遵传知首。首传道宣。宣传法励满意。意传法成。成传大亮道省。亮传云一道岸超惠澄。澄传惠钦。皆口相授受臻于壸奥。钦俗姓徐。洪州建昌人也。盖汉孺子之后。年二十二寻师于临川楮山。后五岁削发隶于高安龙岗寺。遂受戒有唐义净。则译经上足曰洪州之灵杰。其秉宣羯磨者曰两京涤法锐钦。智度冲深神用高爽。行无权实身绝开遮。阐律藏而日月光明。骋辩才而龙象蹴踏。江岭之外凛然风生。开元末北游京师。充福先大德。常诵涅槃经而讲之。兼明俱舍论维摩金刚经。又登讲座。其下日有二三千人。由是名动辇毂。属禄山作乱杖锡南归。居于西山洪井双岭之间。慕高僧观显之遗踪。于寺比创置兰若。山泉之美颇极幽绝。钦虽坚持律仪而志在弘济。好读周易左传下笔成章。着律仪辅演十卷。尝撰本州龙兴寺戒坛碑。颇见称于作者。三年真卿添刺抚州。东南四里有宋侍中临川内史谢灵运翻涅槃经古台。基局俨然轩陛摧圮。高行头陀僧智清者。首事修葺安居住持。明年秋七月。真卿绩秩将满。有观察使尚书御史大夫赵国魏公。愿以我皇帝降诞之辰奏为宝应寺。仍请山林高行僧三七人。冬十月二十三日。圣恩允许。于是鼎新轮奂。其兴也勃焉。乃请止观大师法源法泉襄阳乘觉清凉善弘罗浮圆觉佛迹本喻余杭惠达洎常州海通海岸等。同住熏修以资景福。佥以为学徒虽增毗尼未立。明年三月乃请钦登坛而董木铎焉。仍俾龙岗道?天台法裔招提智融白马法胤衡岳智觉同德义盈香城藏选龙兴藏智开元明彻等同秉法事。于是远近骏奔。道场侧塞。圣像放光。而龙王不雨者四旬。僧尼等三百五十七人。而文士正议大夫前卫尉少卿张延皋脱俗归真。其法名曰坏网。为称首焉。又钦此年已来为受具者凡一万余人。江岭湖海之间幅员千里。像法于变。皆钦化道之力焉。临川在岭隅。未尝弘律。于是二众三百余人。请法裔敷演而依止之。后有上都资圣寺高德。曰还本律主。伟兹能辩深嗟叹而赞美之。谓于寺东南置普通无碍禅院。内立镇国观音道场。请善弘居之。以开悟心要。云一上足曰。智融精持本事如会尊众。乃命智晃等。于普通道场东置律藏院创立戒坛。以行钦公之来仪。且施肇纪之不朽。经营未几。坛殿郁兴肃乎。渡海浮囊。分毫绝罗刹之请。严身璎珞照耀有摩尼之光。则入佛位而披伽黎者。名香普熏神足无极。半月可胜纪而无绝乎。有唐大历辛亥岁。行抚州刺史鲁郡开国公颜真卿书而志之。

  (十四 十五 甲寅) 九年。道士史华以术得幸。因请立刃梯与沙门角法。有旨两街选僧克日校胜负。沙门崇惠者。不知何许人。常诵首楞严咒。表请挫之。帝率百僚临观。史华履刃梯而上。命惠登之。惠蹑刃而升。往复无伤。惠承胜命聚薪于庭举烈焰。惠入火聚呼史华令入。华渐汗不敢正视。帝大悦而罢。赐崇惠号护国三藏。后不知终。沙门圆泽者。寓东都惠林寺。与隐士李源厚善。惠林即源旧第也。父憕守东都。为禄山所害。源以故不仕常居寺中与泽谈噱终日。偶相率游峨嵋山。源欲自荆州溯峡以往。泽欲由长安斜谷。源以为久绝人事。不欲复入京师。泽不能强。遂自荆州舟次南浦。见妇人锦裆负罂而汲者。泽望而泣曰所不欲由此者为是。源惊问故。泽曰。妇人孕三稔矣。迟吾为之子。不逢则已。今既见之。无可逃者。公当以符咒助我令速生。三日浴见愿公临顾以一笑为信。后十三年。于杭州天竺寺外。当与公相见。源悲哀具浴。至暮而泽亡。妇乳三日。源往视之。儿见源果轩渠而笑。即具以语其家。葬讫源返寺中。后如期自洛之吴赴其约。至期于葛洪井畔闻有牧童扣牛角而歌曰。三生石上旧精魂。赏月吟风莫要论。惭愧情人远相访。此身虽异性常存。源曰。泽公健否。答曰。李君真信。士然世缘未尽。且勿相近。惟勤修不惰乃复相见。又歌曰。身前身后事茫茫。欲话因缘恐断肠。吴越江山寻已遍。却回烟棹上瞿塘。遂隐不见。源复归惠林。至长庆初年八十矣。御史中丞李德裕表荐曰。源天与至孝绝心禄仕。五十余年常守沉默理契深要。一辞开析百虑洗然。抱此真节弃于清世。臣窃为陛下惜之。穆宗下诏以源守谏议大夫。不赴寻以寿终。

  (十六 乙卯) 国师惠忠将终。耽源问。百年后有人问极则事作么生。忠曰。幸自可怜生须要护身符子作么。乃入辞代宗。代宗曰。师灭度后。弟子将何所记。忠曰。告檀越造取一所无缝塔。帝曰。请师塔样。忠良久曰。会么。帝曰。不会。忠曰。贫道去后有侍者应真。却知此事。以十二月九日右胁而寂。门弟子奉全身于党子谷建塔。赐谥大证禅师。帝寻召应真入内。举前语问之。真良久曰。圣上会么。帝曰。不会。真述偈曰。湘之南潭之北。中有黄金充一国。无影树下合同船。琉璃殿上无知识。代宗尝在便殿。指天下观军容使鱼朝恩。谓忠曰。朝恩亦解些子佛法朝恩即问忠曰。何者是无明。无明从何而起。忠曰。佛法衰相今现。帝曰。何也。忠曰。奴也解问佛法。岂非衰相今现。朝恩色大怒。忠曰。即此是无明。无明从此起。朝恩复抗声曰。有人言师今是佛得否。忠曰。朝廷有人言汝是天子果否。朝恩伏地曰。死罪死罪。朝恩实非天子。忠曰。我不是佛。所以二尊不并化。朝恩曰。师长作凡夫无成佛时耶。恩曰。我向后必当作佛。汝姓什么。朝恩曰。姓鱼。忠曰。我向后作佛不名惠忠。汝向后若作天子。改却姓莫不姓鱼否。朝恩伏地曰。死罪死罪。朝恩此去实不敢向师论佛法。忠谓帝曰。几帕杀此奴。

  (丁巳) 十二年。宰相元载王缙有罪。载伏诛。籍其家钟乳五百两。胡椒八百斛。他物称是。缙贬括州刺史。缙素奉佛不茹荤。晚节尤谨。妻死以第为佛祠。初帝未知重佛。每从容问缙所以然。缙必开陈福业报应。帝意向之。由是宫中祀佛。梵呗斋熏无少懈。群臣承风旨言死生报应。故人事置而不修。议者以缙与杜鸿渐泥佛太过云。

  (戊午) ○米斗三文○猫鼠同乳。

  (十七 己未) 三月上崩太子即位。

  十四年。天柱山崇惠禅师示寂。师彭州人。得法于牛头威禅师。后居天柱寺。僧问达磨未来此土。还有佛法也无。师曰。未来时且置。即今事作么生。曰某甲不会。师曰。万古长空。一朝风月。良久又曰。阇黎会么。自己分上作么生。干他达磨来与未来作么。他家来太似卖卜汉相似。见汝不会为汝锥破。卦文才生吉凶在汝分上一切自看。僧问。如何是解卜底人。曰汝才出门时便不中也。问宗门中请师举唱。答曰。石牛长吼真空外。木马嘶时月隐山。问如何是西来意。曰白猿抱子归青嶂。蜂蝶䘖花绿蕊间。及是迁化。肉身不坏。数百年犹在。

  (十八 庚申) 德宗适改年建中(代宗长子。诏天下勿上祥瑞。放驯象出宫女。用卢杞为相。致朱泚之乱。幸奉天。寿六十四崩。葬崇陵。在位二十五年○立诵为皇太子○始定秋夏二税)。

  (十九) 沙门惠超。于五台乾明寺录出大广智三藏不空所译大乘瑜伽金刚性海曼殊室利千臂千钵大教王。经其序文。曰。大唐开元二十一年岁次癸酉正月一日。于荐福寺道场内。金刚三藏与僧惠超授大乘瑜伽金刚五顶五智尊千臂千手千钵千佛释迦曼殊室利菩萨秘密菩提三摩地法。遂于其后受是法已。不空三藏奉事经于八载。至开元二十八载岁次庚辰四月十五日。闻奏开元圣上皇于荐福御道场内。至五月五日。奉诏译经。即时焚烧香火起首翻译。三藏演梵本惠超笔授。大乘瑜伽千臂千钵曼殊室利经法教。十二月十五日才讫。天宝元年二月十九日。三藏将此梵本及五天竺阿阇黎书。并付与梵僧目叉难陀婆伽。令送此经梵本并书。将与五印土南天竺国师子国本师宝觉阿阇黎。经今不回。后于大历九年十月再至大兴善寺大师大广智三藏和上边。复伸咨决大教瑜伽心地秘密法门。复将千钵曼殊经本。至建中元年四月十五日。到五台山乾元菩提寺。遂将旧翻唐言梵音经本。于寺校证。至五月五日惠超重与抄写出。一切如来大教王经瑜伽秘密金刚三摩地三密圣教法门述经秘义诸佛出世应物。随意志求者智镜玄通。念之者无忧不入。根缘感赴必籍此经。登菩提山除去邪执。契传二密得究瑜伽要秘法门穷理微妙。身口意业用智修持。戒定慧学显现通达。证如来地以信为首。乘般若舟速超彼岸。今述曼殊之德。灵迹殑伽圣觉无方。神力潜运以多尘劫。悲愿不住菩提。一主无二尊现为菩萨。自兹金色世界。来其忍士清凉之山。导引群品而即现灯现云。及万菩萨信生奇特。现光现相人皆发明正智。为利益三世苍生有趣。悉证菩提也。

  (壬戌) ○括富商钱出万缗者官借其余以供军。

  (癸亥) ○税闲架。◎

  ◎(二十 甲子 五八) 改兴元○是年寿州毛罕妻生子毛债。猪头象耳骡足鱼腮人身。铁杖自鞭金田扫地。偿盗常住钱债也。

  南岳明瓒禅师者。不知何许人也。初宰相李泌。乾元中辞入衡岳。瓒隐居上封。泌往谒之。瓒诵经其声先悲凄而后悦豫。泌隐知音。因谓曰。将非避隐者有云霄意乎。瓒唾之曰。莫相贼莫相贼。泌色不为动。瓒久之。见泌立候不懈。乃曰。饭未。泌曰。未也。瓒拨火出芋食与语。久之辞去。瓒抚其背曰。好做十年宰相。至是泌感事为帝言其高行。有诏徴之。使者至石窟宣麻命曰。尊者起谢恩。瓒寒涕垂颐凝坐略不以介意。使者叹其淳正不之迫。回奏其事。帝咨美之数四不已。瓒着歌一篇。其辞曰。兀然无事无改换。无事何须论一段。直心无散乱。他事不须断。过去已过去。未来犹莫算兀然无事坐。何曾有人唤。内外觅功夫。总是痴顽汉。粮不蓄一粒。逢饭但知?。世间多事人。相趁浑不及。我不乐生天。亦不爱福田。饥来吃饭。困来即眠。愚人笑我。智乃知焉。不是痴钝本体如然。要去即去要住即住。身披一破衲。脚着娘生裤。多言复多语。由来转相误。若欲度众生。无过且自度。莫谤天真佛。真佛不可见。妙性及灵台。何曾受熏炼。心是无事心。面是娘生面。劫石可移动。个中无改变。无事本无事。何须读文字。削除人我本。冥合个中意。种种劳筋骨。不如林下睡兀兀。举头见日高。乞饭从头?。将功用功展转昏蒙。取即不得不取自通。吾有一言绝虑忘缘。巧说不得只用心传。更有一语无过真与。细如毫末大无方所。本自圆成不劳机抒。世事悠悠不如山丘。青松蔽日碧涧长流。山云当幙夜月为钩。卧藤萝下块石枕头。不奉天子岂羡王侯。生死无虑更复何忧。水月无形我常只宁。万法皆尔本自无生。兀然无事坐。春来草自青。

  (二十一) 荆溪湛然禅师。临终告其徒曰。大道无方无体。生欤死欤。其旨一贯。吾归骨此山。报尽今夕。聊与汝等谈道而决。夫一念无相谓之空。无法不备谓之假。不一不异谓之中。在凡为三因。在圣为三德。爇炷则初后同相。涉海则浅深异流。自利利人在斯而已。尔其志之。言讫而化。翰林梁肃题其碑阴曰。圣人不兴。必有命世者出焉。自智者以法付灌顶。顶再世而至左溪朗。道若昧待公而发。乘此宝乘焕然中兴。其受业身通者三十有九人。而缙绅先生高位崇名屈体受教者数十。师严道尊遐迩归仁。自非命世亚圣。曷以臻此。

  (乙丑) 改贞元。

  (二十二 丙寅) 二年翰林梁肃。修天台止观论成。着止观统例曰。夫止观何为也。导万化之理而复于实际者也。实际者何也。性之本也。物之所以不能复者。昏与动使之然也。照昏者谓之明。驻动者谓之静。明与静止观之体也。在因谓之止观。在果谓之智定。因谓之行。果谓之成。行者行此者也。成者证此者也。原夫圣人有以见惑足以丧志。动足以失方。于是乎止而观之静而明之。使其动而能静。静而能明。因相待以成法。即绝待以照本。御大车以御正。乘大事而总权。消息乎不二之场。鼓舞于说三之域。至微以尽性。至颐而体神。语其近则一毫之善可通也。语其远则重玄之门可?也。用至圆以圆之。物无偏也。用至实以实之。物无妄也。圣人举其言所以示也。广其目所以告也。优而柔之使自求之。拟而议之使自至之。此止观所由作也。夫三谛者何也。一之谓也。空假中者何也。一之目也。空假也者相对之义。中道也者得一之名。此思议之说。非至一之旨也。至一即三至三即一。非相含而然也。非相生而然也。非数义也。非强名也。自然之理也。言而传之者迹也。理谓之本。迹谓之末。本也者圣人所至之地也。末也者圣人所示之教也。由本以垂迹。则为小为大。为通为别。为顿为渐。为显为秘。为权为实。为定为不定。循迹以返本。则为一为大。为圆为实。为无住为中。为妙为第一义。是一三之蕴也。所谓空也者通万法而为言者也。假也者立万法而为言者也。中也者妙万法而为言者也。破一切惑莫盛乎空。建一切法莫盛乎假。究竟一切性莫大乎中。举中则无法非中自假则何法非假。举空则无法不空。成之谓之三德。修之谓之三观。举其要则圣人极深研几穷理尽性之说乎。昧者使明。塞者使通。通则悟。悟则至。至则常。常则尽矣。明则照。照则化。化则成。成则一矣。圣人有以弥纶万法而不差。旁礴万劫而不违。焘载恒沙而不有。复归无物而不无。寓名之曰佛。强号之曰觉。究其旨解脱自在。莫大极妙之德乎。夫三观成功者如此。所谓圆顿者。非渐次非不定。指论十章之义也。十章者恢演始末通道之关也。五略者举其弘纲截流之津也。十境者发动之机立观之谛也。十乘者妙用所修发行之门也。始于正观而终于见境者。义备故也。阙其余者。非修之要也。乘者何也。载物运者也。十者何也。成载之事也。知其境之妙。不行而至者德之上也。乘一而已。岂藉夫九哉。九者非他相生之说。未至者之所践也。故发心者发无所发。安心者安无所安。遍破者遍无所破。爰至余乘皆不得已而说也。至于别其义例判为章目。推而广之不为繁。统而简之不为少。如连环不可解也。如贯珠不可杂也。如悬镜不可掩也。如通川不可遏也。议家多门非诤论也。按经正义非虚说也。辩四教浅深事有源也。成一事因缘理无遗也。噫止观其救世明道之书乎。非夫圣智超绝卓尔独立。其孰能为乎非夫聪明深达得意思象。其孰能知乎。今之人乃专用章句文字。从而释之。又何疏漏耶。或称不思议境与不思。议事皆极圣之域。等觉至人犹所未尽。若凡夫生灭心行三惑浩然。于言说之中推上妙之理。是犹醯鸡而说大鹏。夏虫之议层冰。其不可见明矣。今止观之说文字万数。广寻果地无益初学。岂如暗然自修功至自至。何必以早计为事乎。是大不然。凡所谓上圣之域。岂隔阔辽夐与凡境杳绝与。是惟一性而已。得之谓悟。失之谓迷。一理而已。迷而为凡。悟而为圣。迷者自隔理不隔也。失者自失性不失也。止观之作所以离异同而究圣神。使群生正性而顺理者也。正性顺理所以行觉路而至妙境也。不知此教者。则学何所入。功何所施。智何所发。譬如无目昧于日月之光行于重险之处颠踣堕落可胜己乎。噫去圣久远贤人不出。庸昏之徒含识而已。致使魔邪诡惑诸党并炽。空有云云为坑为阱。有胶于文句不敢动者。有流于漭浪不能住者有。太远而甘心不至者有。太近而我身即是者。有枯木而称定者。有窍号而称慧者。有奔走非道而言权者。有假于鬼神而言通者。有放心而言广者。有罕言而为密者。有齿舌潜传而为口诀者。凡此之类自立为祖。继祖为家。反经非圣。昧者不觉。仲尼有言。道之不明也。我知之矣。由物累也。悲夫。隋开皇十八年智者去世。至皇朝建中垂二百载。以斯文相传凡五家师。其始曰灌顶。其次曰缙云威。又其次曰东阳小威。又其次曰左溪朗公。其五曰荆溪然公。须于同门中慧解第一。能奉师训集成此书。盖不以文辞为本故也。或失则繁。或得则野。当二威之际缄授而已。其道不行。天宝中左溪始弘解说。而知者盖寡。荆溪广以传记数十万言网罗遗法。勤矣备矣。荆溪灭后知其说者适三四人。古人云。生而知之者上也。学而知之者次也。困而不学又其次也。夫生而知之者。盖性德者也学而知之者。天机深者也。若其嗜欲深耳目塞。虽学而不知。斯为下矣。今夫学者内病于蔽外役于烦。没世不能通其文。数年不能得其益。是则业文为之屦校梏足也。棼句为之簸糠眯目也。以不能之师。教不领之弟子。止观所以未光大于时也。予常戚戚。于是整其宏纲撮其机要。其理之所存教之所急。或易置之或引伸之。其义之迂其辞之鄙。或剃除之或润色之。大凡浮疏之患。十愈其九。广略之宜三存其一。于是祛鄙滞导蒙童。贻诸他人则吾岂敢。若同见同行且不以止观罪我。亦无隐乎尔。建中上元甲子首事笔削。三年岁在析木之津功毕云尔。

  (二十三 戊辰) 般若三藏新译大乘理趣六波罗蜜经成。代宗皇帝亲制叙文曰。大朴既散有为遂作。名利牵乎德。巧智丧乎真。爱恶攻乎性情。因缘坚其染习。内则百虑无节。外则六根竞诱。天理灭而莫知。道源迷而忘返。沦溺苦海劫尽还初。惟至人了万物之宗。越三界之表。廓独立而不改。遍诸有而常然。故能开导群迷济拔流品。六波罗蜜经者。众法之津梁度门之圆极也。昔日月灯明如来为菩萨说。历劫旷远真偈寂寥。文殊师利于耆阇会中与弥勒菩萨语及其事。成一切种智会无量义因。唯佛能知。唯佛能说。教必有主。其在兹乎。是以释迦如来为法而生俟时而现。三身不异。故处代而常离。万行无修。故随方而自在。运慈悲之力。开摄护之门。因其六尘示之六度。导于法分全证法身。结习纷纶乘理而悟。是真般若之旨也。故有慈氏善问大音赞言。天垂宝华云集仙盖。甘露流液光明烛幽。使迷方浅深皆得自然之慧。恒沙亿众能通般若之知。尝试论之。先儒有言。诚者自成而道自导也。夫诚己于内。则不勉而中不思而得。诚物于外。则不言而应不为而成。其内者证法之身。其外者大悲之力。德产之致密化育之功也。夫春风吹发万类咸滋。旭日升画群阴尽释。乾坤易简之道。是则大同神明幽赞之情。孰云区别。殊途一致其理固然。朕虔奉丕图保又烝庶。思建皇极以升。大猷遐想灵踪期于叶契。舍城妙说久秘梵文。徒怀泻瓶未启遗夹。微言不昧将或起予。于是罽宾沙门般若受旨宣扬。光宅沙门利言为之翻译。时大德则资圣寺道液。醴泉寺超悟。慈恩寺应真。庄严寺圆照。光宅寺道岸等。法门领袖人中龙象。证明正义辉润玄文。知释迦之宝城。识众尊之满字。以贞元四年岁次戊辰十二月二十八日。于西明寺译成上进。凡一部十卷。神龙翊卫。如从金口之传。梵众护持。无异毫光之现。朕斋心涤虑仰味宗源。闻所未闻寔为希有。聊因暇日三复斯经。虽法海甚深波流不让。举其梗概昭悟将来。

  (二十四) 二月江西马祖大师道一示寂。师汉州什邡人。姓马氏。容貌丰伟。牛行虎视。引舌过准。足有二轮文。遇怀让禅师密契心法。始自建阳迁临川次南康。所至聚徒说法创建禅林。大历中始居豫章开元寺。尝示众曰。汝等诸人各信。自心是佛此心即佛。达磨大师自南天竺国来此中华。传上乘一心之法。令汝等开悟。又引楞伽经文以印众生心地。恐汝颠倒不自信。此一心之法各各有之。故楞伽经云。佛语心为宗。无门为法门。又云。夫求法者应无所求。心外无别佛。佛外无别心。不取善不取恶。净秽两边都不依怙。达罪性空念念不可得。无自性故。故云。三界唯心森罗及万像一法之所印。凡所见色即是见心。心不自心。因色故有。但随时言说即事即理都无所碍。菩提道果亦复如是。于心所生即名为色。知色空故生即无生。若了此意。乃可随时着衣吃饭长养圣胎任运过时。复有何事。汝受吾教听吾偈曰。心地随时说。菩提亦只宁。事理俱无碍。当生即不生。师于开元示寂。先是师尝经由豫章泐潭之石门。爱其山水奇胜洞壑平坦。顾谓其从曰。吾朽质之日归骨于此。至是门弟子奉灵骨舍利。建道场于石门。相国权德舆为之碑。宣宗赐谥大寂禅师。得法弟子凡百三十有九人。一为一方宗主转化无穷。禅宗至此大盛于世。

  (二十五) 大珠惠海禅师者。建州人。初参马祖。祖问。从何处来。曰越州大云寺来。祖曰。来此拟须何事。曰来求佛法。祖曰。自家宝藏不顾。抛家散走作什么。我这里一物也无。求什么佛法。师遂礼拜问。那个是惠海自家宝藏。祖曰。即今问我者是汝宝藏。一切具足更无欠少。使用自在何假向外求觅。师于言下自识本心不由知觉。礼谢毕服劳。久之后以受业师年老归奉养。乃晦迹藏用外现痴讷。撰顿悟入道要门一卷。为好事窃出。及马祖见之。即告众曰。越州有大珠。圆明光透自在。无遮障处也。众中有知师本姓朱者。遂共寻访。师由是道望显著。说法彼翻海涌浩然无碍。有顿悟门及广语。行于世。

  (二十六 庚午) ○迎佛骨。

  六年石头希迁禅师示寂。师得法于清原。天宝中居衡山南寺。寺东有石其状如台。乃结庵其上。时号石头和尚。南岳鬼神多见身听法。师皆与之授戒。大历中江西主大寂。湖南主石头。往来憧憧并凑二大士之门。尝示众曰。吾之法门先佛传授。不论禅定精进。唯达佛之知见。即心即佛心佛众生菩提烦恼名异体一。汝等当知自己心灵。体离断常性非垢净。湛然圆满凡圣齐同。应用无方离心意识。三界六道唯自心现。水月镜像岂有生灭。汝等知之无所不备。师初阅肇论云。会万物为己者。其唯圣人乎。遂豁然曰。圣人无已靡所不已。因着参同契。其辞曰。竺土大仙心。东西密相付。人根有利钝。道无南北祖。灵源明皎洁。枝派暗流注。执事元是迷。契理亦非悟。门门一切境。回互不回互。回而更相涉。不尔依位住。色本殊质像。声元无乐苦。暗合上中言。明明清浊句。四大性自复。如子得其母。火热风动摇。水湿地坚固。眼色耳音声。鼻香舌咸醋。然依一一法。依根叶分布。本末须归宗。尊卑用其语。当明中有暗。勿以暗相遇。当暗中有明。勿以明相睹。明暗各相对。比如前后步。万物自有功。当言用及处。事存函盖合。理应箭锋拄。承言须会宗。勿自立规矩。触目不会道。运足焉知路。进步非远近。迷隔山河固。谨白参玄人。光阴莫虚度。

  (癸酉) ○张滂请税茶。得钱四十万缗。茶税之始也。

  (二十七 丙子) 十二年。宣河东节度使礼部尚书李诜。备礼迎法师澄观入京。观至。有旨命同罽宾三藏般若。翻译乌茶国所进华严后分梵夹。帝亲预译场一日不至。即差僧寂光依僧欲云。皇帝国事因缘如法僧事与欲清净。观承睿旨。翻宣既就进之帝命开示华严宗旨。群臣大集。观升高座曰。我皇御宇德合乾坤。光宅万方重译来贡。东风入律。西天输越海之诚。南印御书。北阙献朝宗之敬。特回明诏再译真诠。光阐大猷增辉新理。澄观顾多天幸。钦属盛明。奉诏译场。承旨幽赞。抃跃竞惕三复竭愚。露滴天池。喜含百川之味。尘培华岳。无增万仞之高。极虚空之可度。体无边涯大也。竭沧溟而可饮。法门无尽方也。碎尘刹而可数。用无能测广也。离觉所觉朗万法之幽邃佛也。芬敷万行荣耀众德华也。圆兹行德饰彼十身严也。贯摄玄微以成真光之彩经也。总斯七字为一部之宏纲。将契本性非行莫阶。故说普贤无边胜行。行起解绝智证圆明。无碍融通现前受用。帝大悦。赐观紫方袍。号教授和尚。其后相国齐抗郑余庆高郢。请撰华严纲要三卷。相国李吉甫侍郎归登驸马杜琮。请述正要一卷。又为南康王韦皋相国武元衡。着法界观玄镜一卷。仆射高崇文。请着镜灯说文一卷。司徒严绶司空郑元刺史陆长源。请撰三圣圆融观一卷。节度使薛华观察使孟简中书钱徽拾遗白居易给事杜羔等。请制七处九会华藏界图心镜说文十卷。又与僧录灵邃大师十八首座十寺三学上流。制华严圆觉四分中观等经律论关脉三十余部。皆古锦纯金随器任用云。

  (二十八 己卯) 十五年。清凉受镇国大师号。进加天下大僧录。四月帝诞节。敕有司备仪赞迎教授和上澄观。入内殿阐扬华严宗旨。观升高座曰。大哉真界万法资始。包空有而绝相。入言象而无迹。妙有得之而不有。真空得之而不空。生灭得之而真常。缘起得之而交映。我佛得之妙践真觉廓净尘习。寂寥于万化之域。动用于一虚之中。融身刹以相含。流声光而遐烛。我皇得之灵鉴虚极保合大和。圣文掩于百王。淳风扇于万国。敷玄化以觉梦。垂天真以性情。是知不有太虚。曷展无涯之照。不有真界。岂净等空之心。华严教者。即穷斯旨趣尽其源流。故恢廓宏远包纳冲邃。不可得而思议矣。指其源也。情尘有经智海无外。妄惑非取重玄不空。四句之火莫焚。万法之门皆入。冥二际于不一。动千变而非多。事理交涉而两忘。性相融通而无尽。若秦镜之互照。犹帝珠之相含。重重交光历历齐现。故得圆至功于顷刻。见佛境于尘毛。诸佛心内众生新新作佛。众生心中诸佛念念证真。一字法门。海墨书而不尽。一毫之善。空界尽而无穷。语其定也。冥一心于无心。即万动而常寂。海湛真智光含性空。星罗法身影落心水。圆音非叩而长演。果海离念而心传。万行忘照而齐修。渐顿无得而双入。虽四心广被八难顿超。而一极唱高二乘绝听。当其器也。百城询友一道栖神。明正为南方尽南矣。益我为友人皆友焉遇三毒而三德圆。入一尘而一心净。千化不变其虑。万境顺通于道。契文殊之妙智。宛是初心入普贤之玄门曾无别体。失其旨也。徒修因于旷劫。得其门也。等诸佛于一朝。谛观一尘法界在掌。理深智远识昧辞单。尘黩圣聪退座而已。帝时默湛海印朗然大觉。顾谓群臣曰。朕之师言雅而简。辞典而富。扇真风于第一义天。能以圣法清凉朕心。仍以清凉赐为国师之号。朕思从来。执身心我人及诸法定相斯为甚倒。群臣再拜稽首顶奉明命。由是中外台辅重臣。咸以八戒礼而师之。

  (二十九) 是岁庐山东林律大德熙怡卒。许尧佐制其碑曰。大师熙姓曹氏。桂阳人也。旧勋前烈垂休积庆。史氏详之矣。夫真如不远。其要在乎无垢。妙理不深。其要在乎见性。本于真实畅其虚无。俾聆芳咀润孜孜请益。则大师之教也。大师体识深静风度端敏。受具戒于南岳。修律仪于东林。常趺坐一室。而四方学者差肩继踵。发此柔软纳其归依。尧言玉振微文冰释。故崇德雅美临坛持法垂五十年。尝以至德初隶东林寺居耶舍塔院。数逾二纪而信心长者怀甘奉贽纷然并进。监厨守藏不遑祇受。既而悉归精舍颁于众僧。大师率同门人布衣粝食而已。故推己以见相。因相而归空。搜阅精微钻研旨要。尝苦背闷。而针石不能及也。故于中夜累叹。有神人抚背。殊形骇物。斯须乃去。自兹穷讨经论切磋心要。加以律仪。端静受持勤至。感通之应故难尽书。至于山鹿归仁林鸟效祉。大师之室不足骇也。大历五年跻五老峰望彭蠡临瀑布。乃创凌云精舍。为经行之地。旁引泉窦以涤尘迷。近蹑松壑以求清凉。丹崖云岫势若屏牖。然趋风望景攀危辇重。翼如而至者难以数记。积十余年乃至大林精庐。淬法刃然惠炬。俾夫恂恂围绕者割其缚导其迷洗然而自得。贞元中归东林戒坛院。以吾道已成吾教已行。十五年秋七月召门弟子曰。吾随化还。须臾寂灭。僧腊五十。报龄七十一。大师精贯六艺旁达百氏。尝与故太师鲁国公颜真卿。故丞相赵公憬。故御史大夫卢公群。今吏部侍郎杨公於陵。为参禅之侣。幽键洞发玄言两得。门人法粲等十余人传其教焉。高僧传志熙怡异迹尤多。而尧佐之文美雅。故录其文而不载其传。

  (三十 庚辰) 十六年逸士刘轲。游庐山之黄石岩。遇高僧异之。因为记曰。古老有言。太极之气积成山岳泄为川渎。然则匡阜之境。其大者乎。庚辰岁山客刘轲来拾怪异。自麓至顶却下半里余。次于黄石岩。岩中有栖禅子。不知其几腊。乃迹其轻重颇见其宅心之地。及问其住年。但以手指松桂曰。毫发我植今环人臂。乌飞兔走吾复何齿。矧卯戌之昏旦。霜炎之冻灰。生落之荣悴。去留之沿溯。虽云云自彼。而于我蔑如也。於戏句非岩房峭绝僧行孤峙。则人境两失其宜也。复何言哉。观夫云烟杂乎履舄。岚霭生于襟袖。群形浩扰并人眸子。每烟雨初霁山光澄练。泠泠仙语如在耳右。况又耸凌竞上冥冥。焉知不能与洪崖接袂浮丘连驾。盈缩造化吐纳颢气。绝惭颜于厚面。远喧卑于臊秽乎。不得而然者盖钩也饵也。名为利钩。利为名饵。吞钩食饵手足羁锁。彼焉得跳跃于此乎。夫禅子脱去桎梏四支宣展。动与云无心。静将石何机。物我一致端邪径塞。仆所谓非斯人不能住斯境也。禅师生宜春。姓黄氏名常进。以师久住。遂以其姓易其岩名焉。

  (三十一 辛巳) 南岳云峰律师法证示寂。师族郭氏。色厉而仁。行峻而周。道广而不尤。功高而不有。毅然居山之北峰。以为仪表。世之所谓贤人大臣者。至南方咸用严事。由其内者。闻大师之言律仪。莫不震动悼惧如听誓命。由其外者。闻大师之称道要。莫不凄欷忻踊如获肆宥。故时推人师则专其首。诏求教宗则冠其位。凡度学者五万人。寿七十有八。僧腊五十七。河东柳子厚铭其塔。复为之碑曰。乾元元年某月日。皇帝曰。予欲俾慈仁怡愈洽于生人。惟浮图道允迪。乃命五岳求厥元德以仪于下。惟兹岳上于尚书。其首曰。云峰大师法证。凡莅事五十年。贞元十七年乃没。其徒曰诠。曰远。曰振。曰巽。曰素。凡三千余人。其长老咸来言曰。吾师轨行峻特器宇弘大。有来受律者。吾师示以尊严整齐。明列义类。而人知其所不为。有来求道者。吾师示以高广通达一其空有。而人知其所必至。元臣硕老稽首受教。髫童毁齿踊跃执役。故从吾师之命而度者凡五万人。吾师冬不燠裘饥不丰食。每岁会其类读群经。俾圣言必出。有以见其大。又率其伍伐木辇土。作佛塔庙洎经典。俾像法益广。有以见其用。将没告门人曰。吾自始学至去世。未尝有作焉。然后知其动无不虚静无不为。生而知未始来。没而知未始往也。其道备矣。愿刻山石知教之所以大。其词曰。师之教尊严有耀。恭夫子之诏。维大中以告后学是效。师之德简峻渊默柔惠以直。涣焉而不积。同焉而皆得。兹道惟则。师之功勤劳以庸。维奥秘必通。以兴祠宫。遐迩攸从。师之族由号而郭。世德有奕。从佛于释。师之寿七十有八。惟终始罔阙。丕冒遗烈。厥徒蒸蒸。惟大教是膺。惟宪言是惩。博博恢弘。如川之增。如云之兴。如岳之不崩。终古其承之。

  (三十二 壬午) ○雪下一丈○丹霞出家。年六十四矣。

  (癸未) 隐士陆羽卒。羽字鸿渐。初为沙门得之水滨畜之。既长以易自筮得蹇之渐。曰鸿渐于陆。其羽可用以为仪。乃以陆为姓氏。名而字之。师教以旁行书。答曰。终鲜兄弟而绝后嗣。得为孝乎。逃去为优人。天宝中。太守李齐物异之授以书。貌侻陋口吃而辨。上元中隐苕溪。与沙门道标皎然善。自号桑苎翁。阖门著书。召拜太子文学。不就。嗜茶着茶经三卷。言茶之原之法之具尤备。天下益知饮茶矣。时鬻茶者至陶羽形置突间祀之为茶神。初开元中有逸人王休者。居太白山。每至冬取溪冰敲其精莹者煮。茗共客饮之。时觉林寺僧志崇取茶三等。以惊雷笑自奉。以萱草带供佛。以紫茸香待客。赴茶者至以油囊盛余滴以归。复有常伯熊者。因虑同茶诗。深信饮茶之益。乃取羽之论。复广着茶功。御史李季卿宣慰江南。知伯熊善煮茶召之。伯熊执器而前。季卿为再举杯。时又有举羽者召之。羽野服挈具而入。季卿不为礼。羽愧之更着毁茶论。其后尚茶成风。致回纥入朝驱马市茶焉。

  (三十三) 是岁东都圣善寺大师凝公卒。翰林白居易作八渐偈吊之。其序曰。居易尝求心要于师。师赐教焉。曰观。曰觉。曰定。曰慧。曰明。曰通。曰济。曰舍。由是入于耳贯于心。呜呼今师之报身则化。师之八言不化。至哉八言。实无生忍观之渐门也。故自观至舍次而赞之。广一言为一偈。谓之八渐偈。盖欲以发挥师之心教。且明居易不敢失坠也。既而升于堂礼于床。跪而唱泣而去。偈曰 观 以心中眼。观心外相。从何而有。从何而丧。观之又观。则辨真妄 觉 惟真常在。为妄所蒙。真妄苟辨。觉生其中。不离妄有。而得真空 定 真若不灭。妄即不起。六根之源。湛如止水。是为禅定。乃脱生死 慧 专之以定。定犹有系。济之以慧。慧则无滞。如珠在盘。盘走珠慧 明 定慧相合。合而后明。照彼万物。物无遗形。如大圆镜。有应无情 通 慧至乃明。明则不昧。明至乃通。通则无碍。无碍者何。变化自在 济 通力不常。应念而变。二相非有。随求而见。是大慈悲。以一济万 舍 众苦既济。大悲亦舍。苦既非真。悲亦是假。是故众生。实无度者。

  (三十四) 幽州盘山宝积禅师。僧问。如何是道。师曰出。僧曰。学人未领旨在。师曰去。师上堂示众曰。心若无事万象不生。意绝玄机纤尘何立。道本无体。因道而立名。道本无名。因名而得号。若言即心即佛。今时未入玄微。若言非心非佛。犹是指踪之极则向上一路千圣不传。学者劳形如猿捉影。夫大道无中复谁先后。长空绝际何用称量。空既如斯道复何说。夫心月孤圆光吞万象。光非照境境亦非存。光境俱亡复是何物。禅德譬如掷剑挥空。莫论及之不及。斯乃空轮无迹剑刃无亏。若能如是。心心无知。全心即佛。全佛即人。人佛无异。始为道矣。禅德。可中学道似地擎山不知山之孤峻。如石含玉不知玉之无瑕。若如此者。是名出家。故导师云。法本不相碍。三际亦复然。无为无事人。犹是金锁难。所以灵源独耀道绝无生。大智非明真空无迹。真如凡圣皆是梦言。佛及涅槃并为增语。禅德。且须自看无人替代。三界无法何处求心。四大本空佛依何住。璇机不动寂尔无言。觌面相呈更无余事。珍重。师将顺世。告众曰。有人貌得吾真否。众皆将写得真呈师。师皆打之。弟子普化出曰。某甲貌得。师曰。何不呈似老僧。普化乃打筋斗而出。师曰。这汉向后如风狂接人去在。师既奄化。敕谥凝寂大师真际之塔。

  (三十五) 是岁监察御史柳宗元送?上人归淮南。序曰。金仙氏之道盖本于孝敬。而后积以众德归于空无。其敷演教戒于中国者离为异门。曰禅。曰法。曰律。以诱掖迷浊。世用宗奉。其有修整观行尊严法容以仪范于后学者。以为持律之宗焉。上人穷讨秘义发明上乘。奉威仪三千。虽造次必备。尝以此道宣于江湖之人。江湖之人悦其风而受赐。攀慈航望彼岸者盖千百计。天子闻之。徴至阙下。御大明秘殿以问焉。道扬本教颇甚称旨。京师士众方且翘然。仰大云之泽以植德本。而上人不胜顾复之恩。退怀省侍之礼。恳迫上乞。遂无以夺。由是杖锡东顾振衣晨往。右司员外郎刘公。深明世典通达释教。与上人为方外游。始荣其至今惜其去。于是合郎署之友。诗以贶之。退使孺子执简而序之。因系其词曰。上人专于律行。恒久弥固。其仪形后学者欤。诲于生灵触类蒙福。其积众德者欤。觐于高堂视远如迩。其本孝敬者欤。若然者是将心归空无舍筏登地。固何从而识之乎。古之赠礼必以轻先重。故郑商之犒先乘韦。鲁侯之赠后吴鼎。今饯诗之重皆众吴鼎也。故乘韦之比得序而先之。且曰。由礼而不敢让焉。

  (三十六 甲申) 南岳般舟和上卒。柳子厚作第二碑。其词曰。佛法至于衡山。及津大师始修起律教。由其坛场而出者为得正法。其大弟子曰日悟和上。尽得师之道以补其处。为浮图者宗。世家于零陵。蒋姓也。和上心大而行密。体卑而道尊。以为由定发慧。必用毗尼为之室字。遂执业于东林恩大师。究观秘义。乃归传教。不睹文字。悬判深微登坛莅事度比丘众岁凡千人者。三十有七而道不慁。以为去凡即圣必以三昧为之轨道。遂服勤于紫霄远大师。修明要奥得以观佛。活入性海洞开真源。道场专精长跪右绕。不衡不倚凡七日者。百有二十而志不衰。初开元中诏定制度。师乃居本郡龙兴寺。肃宗制天下名山。置大德七人。兹岳尤重。推择居首。师乃即崇岭是作精室。辟林莽刳岩峦。殿舍宏大廊庑修直。不命而?力。不祈而荐货。凡南方人颛念佛三昧者。必由于是。命曰般舟台焉。和上生十三年而始出家。又九年而受具戒。又十年而处坛场。又三十七年而当贞元二十年正月二十七日化于兹室。呜呼无得而修。故念为实相。不取于法。故律为大乘。坏衣不饰。揣食不味。覆荐服役。凡出于生物者摈而勿用。不自知其慈。摄取调御。凡归于正真者动而成群。不自知其教。万行方厉一性恒如。寂用之涯不可得也。有弟子曰景秀。嗣居法会。欲广其师之德延于罔极。故申明陈辞俾刊之兹碑。铭曰。像教南被。及津而尊。威仪有严。载辟其门。吾师是嗣。增?道源。度众逾广。大明群昏。乃兴毗尼。微密是论。八万总结。彰于一言。声闻熙熙。遐迩来奔。如木既拔。有植其根。乃法般舟。奥妙斯存。百亿冥会。观于化元。同道祈祈。功庸以敦。如水期壅。流之无垠。帝求人师。登我先觉。赫矣明命。表兹灵岳。于彼南阜。斋宫爰作。负揭致货。时靡要约。袒奋程力。不呼而诺。是刈是凿。既涂既斫。层架孔硕。以延后学。出不牛马。服不絮帛。匪安其躬。亦菲其食。勤而不劳。在用恒寂。纵而不傲。在舍恒得。洪融混合。孰究其迹。懿兹遗光。式是嘉则。容貌往矣。轨仪无极。其徒追思。赓荐兹石。

  (三十七 己酉) 顺宗诵改永贞(德宗长子。好浮图教。礼清凉为国师。性宽仁爱。尤善文隶。寿四十六崩咸宁殿。葬礼陵。居摄一年)。

  (三十八) 是岁九月太尉中书令韦皋薨。皋初生。厥父饭僧祈福。忽有应真尊者至。斋毕乳媪抱儿求咒愿。尊者起谓众曰。此儿诸葛武侯也。他日有美政于蜀。宜以武字之。言讫恍然不见。其后皋游官出处节义功名。大概与武侯相类。治蜀二十有一年。封南康群王。有德在民。四川至今奉祀之。雅好释氏法。嘉州石像初成。皋为之记。略曰。头围千尺目广二丈。其余相好一一称是。世美其简而雅。又尝训鹦鹉念佛。鹦鹉毙以桑门故事阇维之。得舍利。皋为之记曰。元精以五气授万类。虽鳞介毛羽必有感清英纯粹者矣。或炳耀离火。或禀其苍精。皆应乎人文以奉若时政。则有革彼禽类习乎能言。了空相于不念。留真骨于已毙。殆非元圣示现感于人心。同夫异缘用一真化。前岁有献鹦鹉鸟者曰。此鸟声容可观。音中华夏。有河东裴氏者。志乐金仙之道。闻西方有珍禽。群嬉和鸣演畅法音。以此鸟名载梵经智殊常类。意佛身所化。常狎而敬之。始告以六斋之禁。比及辰后非时之食。终夕不视。固可以矫激流俗端严梵伦。或教持佛名号曰。当由有念以至无念。则仰首奋翅若承善听。其后或俾之念佛。则默然而不答。或谓之不念。即唱言阿弥陀。历试如一曾无爽异。余谓其以有念为缘生。无念为真际。缘生不答以为缘起也。真际虽言言本空也。每虚室戒曙发和雅音。穆如笙篁静鼓天风。下上其音念念相续。闻之者莫不洗然而嘉善矣。呜呼生有辰乎。缘其尽乎。以今年七月悴尔不怿。七日而甚。驯养者知将尽。乃鸣磬而告曰。将西归乎。为尔击磬。尔其存念。每一击磬一称弥陀佛。洎十击磬而十念成。敛翼委足不震不仆。掩然而绝。按释典。十念成往生西方。又云。得佛惠者殁有舍利。知其说者固不隔殊类哉。遂命以阇维之法焚之。余烬之末果有舍利十余粒。炯尔耀目莹然在掌。识者惊视闻者骇听。咸曰。苟可以诱迷利世。安往而非菩萨之化欤。时有高僧惠观。尝诣三学山巡礼圣迹。闻说此鸟涕泪悲泣。请以舍利于灵山用陶甓建塔旌异之。余谓此禽存而有道殁而有徴。古之所以通圣贤阶至化者。女娲蛇躯以嗣帝中。衍鸟身而建侯。纪乎册书。其谁曰语怪。而况此鸟有弘于道流圣证昭昭。胡可默已。是用不愧。直书于辞。是岁八月。顺宗逊于位。皇太子立。是为宪宗。初顺宗尝在东宫。问佛光如满禅师曰。佛从何方来。灭向何方去。既言常住世。今佛在何处。答曰。佛从无为来。灭向无为去。法身等虚空。常住无心处。有念归无念。有住归无住。来为众生来。去为众生去。清净真如海。湛然体常住。智者善思惟。更勿生疑虑。帝又问曰。佛向王宫生。灭向双林灭。住世四十九。又言无法说。山河及大海。天地及日月。时至皆归尽。谁言不生灭。疑情犹若斯。智者善分别。满复答曰。佛体本无为。迷情妄分别。法身等虚空。未曾有生灭。有缘佛出世。无缘佛入灭。处处化众生。犹如水中月。非常亦非断。非生亦非灭。生亦未曾生。灭亦未曾灭。了见无心处。自然无法说。帝闻大悦。又尝问心要于清凉国师。国师答之。其略曰。至道本乎其心。心法本乎无住。无住心体灵知不昧。性相寂然包含德用。该摄内外能深能广。非有非空。不生不灭。无终无始。求之而不得。弃之而不离。迷现量则惑苦纷然。悟真性则空明廓彻。虽即心即佛。唯证者方知。然有证有知。则慧日沉没于有地。若无照无悟。则昏云掩蔽于空门。若一念不生。则前后际断照体独立。物我皆如直造心源。无智无得。不取不舍。无对无修。然迷悟相依真妄相待。若求真去妄。如弃影劳形。若体妄即真。似处阴影灭。若无心妄照。则万虑都捐。若任运寂知。则众行爰启。放旷任其去住。静鉴觉其源流。语默不失玄微。动静未离法界。言止则双亡知寂。论观则双照寂知。语证则不可示人。说理则非证不了。是以悟寂无寂真知无知。以知寂不二之一心。契空有双亡之中道。

  佛祖历代通载卷第十四

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第十五

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  唐

  (一 丙戌) 宪宗纯改元和(顺宗长子。以北突厥承瓘为招讨使。白居易陈自中官为统帅者。天下安宁。咸谓中兴之主。北方天帝降梦。令兴佛法。帝不承命。爱服丹药。致性燥急。后为中官陈弘志弑之。寿四十三岁。葬于景陵时有名贤柳子厚韩退之元微之刘禹锡白居易等。在位十五年)。

  (二) 信州鹅湖大义禅师者。衢州须江人也。姓徐氏。李翱尝问师。大悲用千手眼作么。师云。今上用公作么。有一僧乞置塔。李尚书问云。教中不许将尸塔下过。又作么生。无对。僧却来问师。师云。他得大阐提。上诏入内。于麟德殿论议。有一法师。问。如何是四谛。师云。圣上一帝。三帝何在。又问。欲界无禅。禅居色界。此土凭何而立禅。师云。法师只知欲界无禅。不知禅界无欲。法师云。如何是禅。师以手点空。法师无对。帝云。法师讲无穷经论。只这一点尚不奈何。师却问诸硕德曰。行住坐卧毕竟以何为道。有对曰。知者是道。师曰。不可以知知。不可以识识。安得知者是道乎。有对。无分别是道。师曰。善能分别诸法相。于第一义而不动。安得无分别是道乎。有对。四禅八定是道。师曰。佛身无为不堕诸数。安在四禅八定是道邪。众皆杜口。师又举。顺帝问尸利禅师。大师众生如何见性成佛。尸利云。佛性犹如水中月。可见不可取。因谓帝曰。佛性非见必见。水中月如何攫取。帝乃问。何者是佛性。师对曰。不离陛下所问。帝默契真宗。

  (三) 益加钦重。师于元和十三年正月七日归寂。寿七十四。敕谥惠觉禅师见性之塔。

  时寒山子者。不知其氏族乡里。隐于台州唐兴县寒岩。故父老以寒山子称之。为人臞野。好冠桦皮冠着木屐。裘衲褴缕状若风狂。笑歌自若。其所居近天台国清寺。寺僧丰干者。亦非常人也。每自薪水力于杵臼。以给众用。与寒山子为方外友。先是丰干行赤城道中。闻儿啼草菜间。视之见孩童十余岁。问其出处初无言对。心异之。引归寺令扫除。以其得之于野。因名拾得。既长头陀苦行精敏绝伦。甚为丰干寒山所器。与之偕游。三人者相得欢甚。寺僧皆讶之。然中心疑而莫之省也。拾得日常涤器冀有残䐹。着以筒留饵寒山。二子皆能诗。或时戏村保。寓事感怀辄有诗以见意。或书石壁。或树叶间。或酒肆中。语皆超迈绝尘。虽古名流未能仿佛也。自述云元非隐逸士。自号山林人。在鲁蒙白帻。旦爱裹疏巾。道有巢许操。耻为尧舜臣。猕猴罩帽子。非学辟风尘。又曰。欲得安居处。寒山可长保。微风吹幽松。近听声愈好。下有斑白人。喃喃诵黄老。十年归不得。忘却来时道。又曰。有身与无身。是我复非我。如此审思量。迁延倚岩坐。足间青草生。顶上红尘堕。以见世间人。灵床施酒果。又曰。玉堂挂珠帘。中有婵娟子。颜貌胜神仙。容华若桃李。东家春雾合。西舍秋风起。更足三十年。还如甘蔗滓。其句语若此者甚伙。拾得尝掌供献。至食时对佛而食。又于憍陈如像前诃斥之曰。小根败种何为者耶。寺僧深怪之。不使直供。又伽蓝神粥饭多为乌鸢所残。拾得杖击神而嫚骂曰。汝食犹不能护。焉能护伽蓝乎。神遍梦寺僧曰。拾得鞭我。至旦互以语及。一一皆同。志是众骇之。丰干出云游。贞元末闾丘胤出守台州。欲之官我病头风。名医莫差。丰干偶至其家。自谓善疗此疾。闾丘闻而见之。干命水噀濡之。须臾所苦顿除。因是大喜甚加敬焉。问所从来。曰天台国清。曰彼有贤达者不。曰有之。然不可以世故求也。寒山拾得师利普贤示迹。二子混干国清。公若之官当就见。不宜后也。闾丘南来上事未久。入寺访丰干遗迹。但见茆宇萧条虎伏舍侧。复入寺谒二大士。寺僧引至后厨。闾丘拜谒二大士。起走曰。饶舌弥陀汝不识。礼我何为。遽返寒岩。次日闾丘令遗赠。寒山见使至骂曰。贼贼。遂隐入岩石。拾得亦潜去。后不知终。

  (四 子亥) 荆州城东天皇道悟禅师。协律郎符载撰碑。其略云。姓张氏。婺州东阳人。十四出家。依明州大德祝发。二十五受戒于杭州竹林寺。初参国一服勤五年。大历十一年隐于大梅山。建中初谒江西马祖。二年参石头。乃大悟。遂隐当阳紫陵山。后于荆南城东有天皇寺。顷因火废。僧灵鉴将谋修复。乃曰。苟得悟禅师为化主必能福我。时江陵尹右仆射裴公稽首问法。致礼迎至。师素不迎送。客无贵贱皆坐而揖之。裴愈加敬。石头之道贻盛于此。师患背痛。临终大众问疾。师蓦召典座近前。师曰。会么。对曰。不会。师拈枕子抛于地上。即便告寂。寿六十。坐三十五夏。法嗣三世。曰惠真。曰幽间。曰文贲。实元和二年四月十三日也。

  (五) 元和十三年四月十三日。天王道悟禅师入寂。唐正议大夫户部侍郎平章事荆南节度使丘玄素。撰碑云。道悟渚宫人。姓崔氏。子玉之后胤也。年十五依长沙寺昙翥律师出家。二十三诣嵩山受戒。三十三参石头。频沐指示曾未投机。次谒忠国师。三十四与国师侍者应真南还谒马祖。祖曰。识取自心本来是佛。不属渐次不假修持。体自如如万德圆满。师于言下大悟。祖嘱曰。汝若住持莫离旧处。师蒙旨已便反荆州。去郭不远结草为庐。后因节使顾问。左右申其端绪。节使亲临访道。见其路隘车马难通。极目荒榛曾未修削。睹兹发怒令人擒师抛于水中。旌旆才归乃见遍衙火发内外洪焰莫可近之。唯闻空中声曰。我是天王神。我是天王神。节使回心设拜。烟焰都息宛然如初。遂往江边见师在水都不湿衣。节使重申忏悔。迎请在衙供养。于府西造寺。额号天王。师常云快活快活。及临终时叫苦苦。又云。阎罗王来取我也。院主问曰。和尚当时被节度使抛向水中。神色不动。如今何得恁么地。师举枕子云。汝道当时是如今是。院主无对。便入灭。寿八十二。夏六十三。嗣法一人。曰崇信。即龙潭也○论曰。

  (寂音尊者曰。荆州天王寺道悟禅师。如传灯所载。则曰道悟得法于石头。所居寺曰天皇。婺州东阳人。姓张氏。年十四出家。依明州大德披剃。年二十五。杭州竹林寺受具。首谒经山国一禅师。服勤五年。大历中抵钟陵。谒马大师。经二夏。乃造石头。元和丁亥四月示寂。寿六十。腊三十五。及观达观颖禅师所集五家宗派。则曰道悟嗣马祖。引唐丘玄素所撰碑文几千言。其略曰。师号道悟。渚宫人。姓崔氏。即子玉后胤也。年十五于长沙寺礼昙翥律师出家。二十三诣嵩山律德得尸罗。谒石头扣寂。二年无所契悟。乃入长安亲忠国师。三十四与侍者应真南还谒马大师。大悟于言下。祝曰。他日莫离旧处。故复还渚宫。元和十三年戊戌。四月初示疾。十三日归寂。寿八十二。腊六十三。考其传。正如两人。然玄素所载曰。有传法一人崇信。住澧州龙潭。南岳让禅师碑。唐闻人归登撰。列法孙数人于后。有道悟名圭峰。答裴相国宗趣状。列马祖之嗣。六人。首曰江陵道悟。其下注曰。兼禀径山。今妄以云门临济二宗竞者。可发一笑。出林间录○觉梦堂重校五家宗派序云。景德间。吴僧道源集传灯录三十卷。自曹溪下列为两派一曰南岳让。让出马大师。一曰青原思。思出石头迁。自两派下又分五宗。马大师出八十四员善知识。内有百丈海。海出黄檗运大沩祐二人。运下出临济玄。故号临济宗。祐下出仰山寂。故号沩仰宗。八十四人内又有天王悟。悟得龙潭信。信得德山鉴。鉴得雪峰存。存下出云门偃。号云门宗。次玄沙备。备出地藏琛。琛出清凉。益号法眼宗。次石头迁出药山俨天皇悟二人。悟下得惠真。真得幽间。间得文贲三世便绝。唯药山得云岩晟。晟得洞山价。价得曹山章。是为曹洞宗。今传灯。却收云门法眼两宗。归石头下误矣。缘同时道悟有两人。一曰。江陵城西天王寺道悟者。渚宫人也。崔子玉之后。嗣马祖。元和十二年四月十三日化。正议大夫丘玄素撰塔铭。文几千言。其略云。马祖祝曰。他日莫离旧处。故复还渚宫。一曰。江陵城东天皇寺道悟者。婺州东阳人也。姓张氏。嗣石头。元和二年丁亥化。叶律郎符载撰塔铭。二碑所载。生缘出处甚详。但缘道原采集传灯之日非一一。亲往讨寻不过宛转。托人捃拾而得其差误可知也。自景德至今。天下四海以传灯为据。虽列刹据。位立宗者。不能略加究辨。惟丕相无尽居士张公及吕夏卿二君子。每会议宗门中事。尝曰。石头得药山。药山得曹洞。一宗教理行果言说宛转。且天皇道悟下出个周金刚。呵风骂雨。虽佛祖不敢婴其锋。恐自天皇处或有差误。寂音尊者亦尝疑之云道悟似有两人。无尽居士后于达观颖禅师处。得唐符载所撰天皇道悟塔记。又讨得丘玄素所作天王道悟塔记。赍以遍示诸方曰。吾尝疑德山洞山同出石头下。因甚垂示处作用杀活不同。今以丘符二记证之。朗然明白。方信吾择法验人不谬耳。寂音曰。圭峰答斐相国宗趣状。列马祖之嗣六人。首曰江陵道悟。其下注曰。兼禀径山今妄以云门临济二宗竞者。可发一笑。略书梗概以传明达者。庶知五家之正派如是而已)。

  (六) 江西北兰让禅师湖塘亮长老问。伏承师兄画得先师真。暂请瞻礼。师以两手拨胸开示之。亮便礼拜。师云。莫礼莫礼。亮云。师兄错也。某甲不礼师兄。师云。汝礼先师真。亮云。因什么教某甲莫礼。师云。何曾错。

  (七 己丑) 元和四年。上问侍臣。政之宽猛孰先。宰相权德舆。对曰。唐家承隋苛虐以仁厚为先。太宗皇帝见明堂图。即禁鞭背刑。列圣所循皆尚德教。故天宝大盗窃发俄而夷灭。盖本朝之化感人心之深。帝曰。诚如公言。德舆善辩论。开陈古今本末。以觉悟人主。为辅相宽和不为察察名。文章雅正赡缛。当时公卿侯王功德卓异者。皆所为铭纪。虽动止无外饰。其酝藉风流。自然可慕。贞元元和间为缙绅羽仪。

  (八) 德舆尝着草衣禅师宴坐记曰。信州南岳有清净宴坐之地。而禅师在焉。师所由来莫得而详。初州人析薪者遇之于野中。其形块然与草木俱。咨于州长。乃延就兹地。三十年矣。州人不知其所以然也。遂以草衣号焉。足不蹈地口不尝味。日无昼夜时无寒暑。寂默之境一绳床而已。万有嚣然此身不动。其内则以三世五蕴皆从妄作。然后以有法谛观十二缘。于正智中得真常真我。方寸之地湛然虚无。身及智慧二俱清净。微言软语有时而闻。涉其境之远近。随其根之上下。如雨润万物风行空中。履其门阈皆获趣入。若非斡玄机于无际穷实相之源底。则四时攻于外。百疾生于内矣。古所谓遗物离人而立于独者。禅师得之。呜呼世人感物以游心。心迁于物。则利害生焉。吉凶形焉。牵縻鞿琐荡而不复。至人则反静于动。复性于情。夭寿仁鄙之殊。由此作也。斯盖世谛之一说耳。于禅师之道。其犹稊稗耶。建中二年予吏役道于上饶。时左司郎崔公出为郡左。探禅师之味也。熟为予详言之。拂拭缨尘携手接足。洗我以善得于仪形。且以为楞严妙旨。毗耶之密用。皆在是矣。又焉知此地之宴坐。不为他方之说法乎。故粗书闻见以志于石。

  (九 庚寅) 帝问国师澄观曰。华严所诠何谓法界。奏曰。法界者一切众生之身心本体也。从本以来灵明廓彻广大虚寂。唯一真境而已。无有形貌而森罗大千。无有边际而含容万有。昭昭于心目之间。而相不可睹。晃晃于色尘之内。而理不可分。非彻法之慧目。离念之明智。不能见自心如此之灵通也。故世尊初成正觉。叹曰。奇哉我今普见一切众生。具有如来智慧德相。但以妄想执着而不能证得。于是称法界性说华严经。全以真空简情。事理融摄周遍凝寂。帝天纵圣明。一听玄谈廓然自得。于是敕有司备礼铸印。迁国师统冠天下缁徒。号僧统清凉国师。

  (十) 时禅者无著。入五台山求见文殊大士。至金刚窟前炷香作礼。暝坐少顷闻有叱牛者。着遽开眸。见山翁野貌瑰异牵牛临溪而饮。着起揖。山翁曰。尔来何为。曰愿见文殊大士。翁曰。大士未可见。汝饭未。着曰。未也。翁牵牛归。着蹑迹随之。俄入一寺。翁呼均提。有童子应声出迎。翁纵牛引着升堂。堂宇皆金璧所成。翁踞床指绣墩命着坐。童子俄进玻璃盏。贮物如酥酪。揖与对饮。着纳其味顿觉心神卓朗。翁曰。近自何来。着曰。南方。翁曰。南方佛法如何住持。着曰。末法比丘少奉戒律。翁曰。多少众。曰或三百或五百。着问。此间佛法如何住持。翁曰。龙蛇混杂凡圣同居。曰众几何。翁曰。前三三后三三。遂谈诸及莫。着欲留。翁不许。着恋恋不即去。翁投袂起。叱童子引着出之。着不得留。行未远问童子。适何寺。童子曰。般若寺也。着凄然悟彼翁者即文殊也。不可再见。即稽首童子足下。愿丐一言为别。童子隐身而歌曰。面上无嗔供养具。口里无嗔吐妙香。心内无嗔是珍宝。无垢无染即真常。着因驻锡五台。往往频与文殊会语云(师嘉禾语溪朱氏子七岁依本邑常乐寺今崇福寺)。

  (十一 辛卯) 有诏。移京兆章敬寺怀恽禅师。入居上寺。玄徒辐凑。恽示众曰。至理忘言。时人不悉强习它事以为功能。不知自性元非境所。是个微妙大解脱门。所有鉴觉不染不碍。如是光明未曾休废。曩劫至今固无变易。犹如日轮远近斯照。虽及众色不与一切和合。灵烛妙明非假锻炼。为不了故取于物象。但如捏怪妄起空华。徒自疲劳枉经劫数。若能返照无第二人。举措施为无亏实相(号柏岩姓谢晋乱誓服缁褐权德舆作记余如传灯录)。

  (十二) 居士庞蕴。字道玄。衡阳人。世业儒。贞元初谒石头和尚。玄言妙契。一日石头问。子自见吾以来。日用事作么生。对曰。若问日用事。即无开口处。乃呈一颂曰。日用事无别。唯吾自偶谐。头头非取舍。处处勿张乖。朱紫谁为号。丘山绝点埃。神通并妙用。运水及般柴。石头然之。后参马祖问。不与万法为侣者是什么人。祖曰。待汝一口吸尽西江水即向汝道。居士于言下大悟。自尔玄机妙句竦动诸方。与丹霞最友善。一日访百灵和尚。路次相遇灵问。昔日石头得意句。还曾举向人么。士云。曾举来。灵云。举向阿谁来。士以手自指云。庞公。灵云。直是妙德空生也。赞叹居士不及。士却问。师得力句是谁知。灵便戴笠子而去。士云。善为道路。灵一去更不回首。又访则川和尚。川云。还记得初见石头时道理否。士云。犹得阿师重举在。川云。情知久参事慢。士云。阿师老耄。不啻庞公。川云。二彼同时又争几许。士云。庞公鲜健差胜阿师。川云。不是胜我。只是反个幞头。士云。恰与师相似。川大笑而已。因摘茶次。士云。法界不容身。师还见我否。川云。不是老僧怕答公话。士云。有问有答。盖是寻常。用乃摘茶不听。士云。莫怪适来容易借问。川不顾。士云。这无礼仪汉。待一一举似明眼人在。川乃抛却茶篮便归方丈。又访松山和尚。吃茶次。士举起橐子云。人人尽有分。因什么道不得。山云。只为人人有分。所以道不得。士云。阿兄因什么却道得。山云。不可无言也。士云。灼然灼然。山便吃茶。士云。阿兄吃茶何不揖客。山云谁。士云。庞公。山云。何须更揖。后丹霞闻之乃云。若不是松山几被个老翁作乱一上。士闻之乃令传语丹霞云。何不会取举起橐子时。又访齐峰和尚。峰云。俗人频来僧舍讨什么。士回顾两边云。谁恁么道。谁恁么道。齐峰乃咄之。士云。却在这里。峰云。莫是当阳道底。士云。背后底聻。峰回首云。看看。士云。草贼大败。峰无语。又访石林和上。林竖拂子云。子落丹霞机。试道一句。士夺却拂子乃竖起拳。林云。正是丹霞机。士云。与我不落看。林云。丹霞患哑庞公患聋。士云。恰是。又一日林云。有个借问居士莫惜言句。士云。便请。林云。元来惜言句。士云。这个问讯不觉落他便宜。林乃掩耳。士云。作家作家。一日丹霞访居士。见女子灵照取菜次。霞问。居士在否。女子放下篮子敛手而立。又问。居士在否。女子便提篮子去。时居襄阳。灵照常随制竹漉篱售之以供朝夕。居士将终。命灵照视日。及中即报。灵照遽报曰。日中矣。而有蚀也。居士出观日次。灵照即登父座合掌端坐而逝。居士笑曰。我女锋揵矣。于是居士更延七日。襄州牧于公枉驾候问。居士谈笑良久。居士顾谓公曰。但愿空诸所有。慎勿实诸所无。好住世间犹如影响。言讫枕公膝而逝。

  (十三 壬辰) 永州司马柳宗元。制南岳弥陀和尚碑。其词曰。在代宗时。有僧法照为国师。乃言。其师南岳大长老有异德。天子南向而礼焉。度其道不可徴。乃名其居曰般舟道场。用尊其位。公始居山西南岩石之下。人遗之食则食。不遗则食土泥茹草木。其取衣类是。南极海裔此自幽都。来求厥道。或值之崖谷。羸形垢面躬负薪槱。以为仆役。而媟之乃公也。凡化人立中道而教之权。俾得以疾至。故示专念。书涂巷刻溪谷。丕勤诱掖以援于下。不求而道备。不言而物成。皆负布帛斩木石委之岩户。不拒不营祠宇既具。以洎于德宗申诏褒立。是为弥陀寺。施之余则施与饿疾者。不尸其功。公始学成都唐公。次资川诜公。诜公学于东山忍公。皆有道。至荆州进学玉泉真公。真公授公以衡山。俾为教魁。人从而化者以万计。初法照居庐山。由正定趣安乐国。见蒙恶衣侍佛者。佛告曰。此衡山承远也。出而求教肖焉。乃从而学。传之天下由公之训。公为僧凡五十六年。其寿九十一。贞元十八年七月十九日终于寺。葬于寺之南冈。刻石于寺大门之右。铭曰。一气回薄范无穷。其上无初下无终。离而为合蔽为通。始末或异今焉同。虚无混冥道乃融。圣人无迹示教功。公之率众峻以容。公之立诚放其中。服庇草木蔽穹窿。仰攀俯取食以充。形游无极交大雄。天子稽首师顺风。四方奔趋云之从。经始寻尺成灵宫。始自蜀道至临洪。咨谋往复穷真宗。弟子传教国师公。化流万亿代所崇。奉公寓形于南冈。幼曰弘愿惟孝恭。立之兹石书玄踪。

  (十四) 是岁永州修净土院成。司马柳宗元为之记曰。中州之西数万里有国。曰身毒。释迦牟尼如来示现之地。彼佛言。西方过十万亿国土有世界。曰极乐。佛号无量寿如来。其国无有三毒八难。众宝以为饰。其人无有十缠九恼。群圣以为友。有能诚心大愿归心是土者。苟念力具足则生彼国。然后出三界之外。其于佛道无退转者。其言无所欺也。晋时庐山远法师作念佛三昧咏。大劝于时。其后天台顗大师着释净土十疑论。宏宣其教。周密微妙迷者咸赖焉。盖其留异迹而去者甚众。永州龙兴寺前刺史李承晊及僧法林。置净土堂于寺之西偏。常奉斯事。逮今余二十年。廉隅毁顿图像崩坠。会巽上人居其宇下。始复理焉上人者修最上乘解第一义。无体空析色之迹而造乎真源。通假有借无之名而入于实相。境与智合事与理并。故虽往生之因。亦相用不舍。誓葺兹宇以开后学。有信士图为佛像。法相甚具焉。今刺史凭公作大门以表其位。余遂周延四阿环以廊庑。缋二大士之像。缯盖幢幡以成就之。呜呼有能求无生之生者。知舟筏之存乎。是遂以天台十疑论书于墙宇。使观者起信焉。

  (十五) 法师智?者。悟解绝伦多所撰著。然寡徒侣。因弃讲居衡岳寺。每览所撰必一唱三叹。以为吾达解如此。而不遇赏音。偶一日有耆宿至。借?著述而阅之。乃曰。汝识至高颇符佛意。今寡徒众盖阙人缘耳。佛犹不能度无缘。况初心者乎。可办食布施飞走。却后二十年当自有众。言讫恍然不见。?遂如其教。鬻衣单易米。炊之散郊外。感群鸟大集搏饭而去。?祝之曰。食吾饭者愿为法侣。后二十年?往邺城开讲。座下有众千余人。果皆少年比丘。

  (十六) 是岁道树禅师卒。师初参神秀禅师得旨。结茅于寿州三峰山。有野人服色素朴言谭诡异。或时化现佛菩萨声闻天仙等形。或放异光。或出声响。妖幻百端。师之徒众常为惊怖。皆莫能测。如此凡十年方灭迹不见。师告众曰。野人作无限伎俩。眩惑于人。只消老僧不见不闻。伊伎俩有穷。吾不见不闻无尽。繇是远近闻之靡不钦服。所谓见怪不怪其怪自败云。

  ○(吴元济反拒官军)。

  (十七) 是岁正月百丈怀海禅师示寂。春秋九十有五。师福州长乐人。丱岁离尘三学该炼。属马祖阐化江西。师倾心依附。与西堂智藏禅师同号入室。时马祖之门会学千百。二大士为角立焉。及祖迁化。师往新吴百丈山居。未期月而玄学之徒四方辐凑。师虽腊高凡作息必与众同均。尝谓一日不作则一日不食。僧问。如何是大乘顿悟法门。师曰。汝等先歇诸缘休息万事。善与不善世出世间。一切诸法。莫记忆莫缘念。放舍身心令其自在。心如木石无有辨别。心无所行心地若空。慧日自现如云开日出相似。名为解脱人。对一切境心无静乱。不摄不散一切声色无有滞碍。是非好丑是理非理。诸知见总尽不彼系缚。处心自在。名初发心菩萨。便登佛地。若垢净心尽。不住系缚本住解脱。无一切有为无为缚脱。平等心量。处于生死。其心自在。毕竟不与虚幻尘劳蕴界生死诸入和合。迥然无寄一切不拘去留无碍。往来生死如门开相似。若遇种种苦乐不称意事。心无退屈。不念名闻衣食。不贪功德利益。不为世法之所滞。心虽亲受苦乐不干于怀。粗食接命补破御寒。兀兀如愚。如聋相似。稍有亲分。于生死中广学知解。求福求智于理无益。即被解境风漂。却归生死海里。佛是无求人。求之即乖。理是无求理。求之即失。若取于无求。复同于有求。此法无实无虚。若能一生心如木石相似不为阴界五欲八风之所漂溺。即生死因断去住自由。僧问。如今受戒身心清净。已具诸善得解脱否。答曰。少分解脱。未得心解脱。问云何是心解脱。答曰。不求佛不求知解。垢净情尽。亦不守无求为是。不住尽处。亦不畏地狱苦。不爱天堂乐。一切法不拘。始名为解脱无碍。汝莫言有少分戒善。将为便了。有河沙无漏戒定慧门。都未涉一毫在。努力猛作。莫待耳聋眼暗头白面皱。老苦及身眼中流泪。心里慞惶未有去处。到恁么时。整理手脚不得也。纵有福智多闻。都用不着。为缘念诸境不知返照复不见佛道。一生所有恶业悉现于前。变为好境。随所见重处受生。都无自由分。龙畜良贱亦总未定。问如何得自由。答曰。如今对五欲八风情无取舍。垢净俱亡。如日月在空。不缘而照。亦如香象截流而过。更无疑滞。此人天堂地狱所不能摄也。凡读经看教。皆须宛转切就自己。但是一切言教只明如今觉性自己。俱不被一切有无诸法境转。是名导师。能照破一切有无境法。是名金刚。即有自由独立分。若不能恁么。纵令诵得十二韦陀经。只成增上慢。却是谤佛。不是修行。读经看教若准世间。是好善事。若向明眼人边数此。是壅塞人。十地之人脱不去。流入生死河。但不用求觅知解语言义句。离一切有无诸法。透过三句外。自然与佛无差。既自是佛。何患佛不解语。只恐不是佛。被一切有无诸法转。不得自由是以理未立。先有福智载去。知贱使贵。不如于理先立后有福智。临时作得主。握土为金。变海水为酥酪。破须弥山为微尘。于一义作无量义。于无量义作一义。师每说法竟大众下堂。乃召之。大众回首。师云。是什么。诸方目为百丈下堂句。

  师以禅宗肇自少室至曹溪以来多居律寺说法住持未有规度。乃创意别立禅居。凡具道眼有可尊之德者。号曰长老。既为化主即处于方丈。不立佛殿唯树法堂。表佛祖的传受当代为尊也。学众无多少无高下。并入僧堂依腊次安排。设长连床施椸架挂搭道具。卧必斜枕床唇。以其坐禅既久略偃息而已。除入室请益。任学者勤惰。或上或下不拘常准。其阖院大众朝参夕聚。长老上堂升座。主事徒众雁立侧聆。主宾问酬激扬宗要。斋粥二时随众均遍。行普请法上下均力也。置十务寮舍。每用主领一人营众事令各司其局。或有假号窃形混于清众并别置喧挠之事。即维那检举。抽下本位挂搭。摈令出院。或彼有所犯。即以拄杖杖之。集众烧衣钵道具。遣逐由偏门而出。以示耻辱焉。其大要如此。其后丛林日盛。当代宗师从而广之。今所谓禅苑清规者备矣。

  (十八) 是年河东柳子厚。制南岳大明律师碑。其词曰。儒以礼立仁义。无之则坏。佛以律持定慧。去之则丧是以离礼于仁义者。不可与言儒。异律于定慧者。不可与言佛。达是道者惟大明师。师姓欧阳氏。号曰惠开。唐开元二十一年始生。天宝十一载始为浮图。大历十一年始登坛为大律师。贞元十五年十一月十日卒。元和九年正月其弟子怀信道嵩尼无染等。命高道僧灵屿为行状。列其行事。愿刊之兹碑。宗元今掇其大者。言曰。师先因宦世家潭州。为大族勋烈爵位。今不言大浮图也。凡浮图之道衰。其徒必小律而去经。大明恐焉。于是从峻洎侃。以究戒律。而。大法以立。又从秀洎昱。以通经教。而奥义以修。由是二道出入隐显。后学以不惑。来求以有得。广德三年始立大明寺于衡山。诏选居寺僧二十一人。师为之首。乾元三年又命衡山立毗尼藏。诏讲律僧七人。师应其数。凡其衣服器用动有师法。言语行止皆为物轨。执巾匜奉杖屦为侍者数百。剪髦发被教戒为学者数万。得众若独居尊若卑。晦而光介而大。浩浩焉无以加也。其塔在祝融峰西趾下。碑在塔东。词曰。儒以礼行。觉以律兴。一归真源无大小乘。大明之律是定是慧。丕穷经教为法出世。化人无量垂裕无际。诏尊硕德威仪有继。道遍大洲徽音勿替。祝融西麓洞庭南裔。金石刻辞弥亿千岁。

  子厚复题其碑阴曰。凡葬大浮图无竁穴。其于用碑不宜。然昔之公室礼。得用碑以葬。其后子孙因宜不去。遂铭德行用图久于世。及秦刻山石。号其功德亦谓之碑。而其用遂行。然则虽浮图亦宜也。凡葬大浮图。其徒广则能为碑。晋宋尚法。故为碑者多法。梁尚禅。故碑多禅。法不周施禅不大行而律存焉。故近世碑多律。凡葬大浮图。未尝有比丘尼主碑事。今惟无染实来涕泪以求。其志益坚。又能言其师他德尤备。故书之碑阴。而师凡主戒事二十二年。宰相齐公映。李公泌赵公憬尚书曹王皋裴公胄侍郎令孤公峘或师或友。齐亲执经受大义为弟子。又言师始为童时。梦大人缟冠素舄来告曰。居南岳大吾道者必尔也。已而信然。将终夜有光明笙磬之声。众咸见闻。若是类甚众。以儒者所不道而无染。勤以为请。故末传焉。无染韦氏。女世显贵。今主衡山戒法。

  (十九) 南海经略马总。以曹溪六祖未有谥请于朝。天子赐谥曰大鉴。总乃命河东柳宗元撰赐谥碑。其词曰。扶风公廉问。岭南。三年以佛氏第六祖未有称号。疏闻于上。诏谥大鉴禅师。塔曰灵照之塔。元和十年十月十三日。下尚书祠部符到都府。公命部吏洎州司功掾告于其祠。幢盖钟鼓增山盈谷。万人咸会若闻鬼神。其时学者千有余人。莫不欣。踊奋励如师复生。则又感悼涕慕如师始亡。因言曰。自有生物则好斗夺相贼杀丧其本实。悖乖淫流莫克返于初。孔子无大位。没以余言持世。更杨墨黄老益杂其术分裂。而吾浮图说后出。推离还源合所谓生而静者。梁氏好作。有为。师达磨讥之空术益显。六传至大鉴。大鉴始以能劳苦服役。一听其言。言希以究。师用感动遂受信具。遁隐南海上。人无闻知。又十六年度其可行。乃居曹溪为人师。会学去来常数千人。其道以无为为有。以空洞为实。以广大不荡为归。其教人始以性善终以性善。不假耘锄本其静矣。中宗闻名使幸臣再徴。不能致。取其言以为心术。其说具在。今布天下。凡言禅皆本曹溪。大鉴去世百有六年。凡治广部而以名闻者以十数莫能揭其号。今乃始告天子得大谥。丰佐吾道。其可无辞。公始立朝以儒重。刺虔州都护安南。由海中大蛮夷。连身毒之西。浮舶听命咸被公德。受旗纛节钺来莅南海。属国如林。不杀不怒而人畏无噩。允克光于有仁昭列大鉴。莫如公宜。其徒之老乃易石于宇下。使来谒辞。其辞曰。达磨干干传佛语心。六承其授大鉴是临。劳勤专默终揖于深。抱其信器行海之阴。其道爰施在溪之曹。庬合猥附。不夷其高。传告咸陈唯道之褒。生而性善在物而具。荒流奔轶乃万其趣。匪思愈乱匪觉滋误。由师内鉴咸护于素。不植乎根不耘乎苗。中一外融有粹孔昭。在帝中宗聘言于朝。阴翊王度俾人逍遥越百有六祀号谥不纪。由扶风公告今天子。尚书既复大行乃诔。光于南土。其法再起。厥徒万亿同悼齐喜。惟师教所被。洎扶风公所履咸戴天子。天子休命嘉公德美。溢于海夷浮图是视。师以仁传公以仁理。谒辞图坚永胤不已。

  宋绍兴二年。东坡居士过曹溪。题曰。释迦以文教。其译于中国。必托于儒之能言者。然后传远。故大乘诸经至首楞严。则委曲精尽胜妙独出。以房融笔授故也。柳子厚南迁始究佛法。作曹溪南岳诸碑。妙绝古今。而南华今无石刻。长老重辨师。儒释兼通道学纯备。以谓自唐至今颂述祖师者多矣。未有通亮典则如子厚者。盖推本其言与孟轲氏合。其可不使学者日见而诵之。乃具石请予书其文。

  (二十 丙申) 台山隐峰禅师。自衡岳之五台。道由淮右属吴元济阻兵蔡州违拒王命。官军与贼交锋未决胜负。师曰。吾当少解其患。乃震锡空中飞身而过。两军将士仰观叹异斗心顿息。以是官军得成其功焉。师姓邓氏。幼若不慧。父母听其出家。既具戒参马祖。言下契旨。一日推车次。祖展脚在路上。师曰。请收足。祖曰。已展不收。师曰。已进不退。遂推车碾过。祖脚损。归法堂执斧子曰。适来碾损老僧脚底出来。师便出于祖前引颈就之。祖乃置斧。其后遍历诸方所至辄有奇诡久之。以神异颇显。恐成惑众。乃入台山金刚窟前将示寂。问于众曰。诸方迁化坐去卧去吾皆见之。还有立化者否。众曰。有之。师曰。还有倒化者否。众曰。未尝有也。师乃倒殖而化。亭亭然其衣亦皆顺体。众为舁尸荼毗。䇄然不动。远近瞻礼叹异。师有妹为尼。时亦在彼。乃附近而咄之曰。老兄平日恼乱诸方不循法律。死更荧惑于人。乃以手推之。偾然而踣。于是阇维收舍利塔于五台云。

  (二十一) 主归宗智常禅师。目有重瞳。遂用药手按摩。久而目眦俱赤。世号拭眼归宗。江州刺史李渤问曰。教中谓须弥纳芥子。渤则不疑。芥子纳须弥。莫是妄谈否。师云。人传史君读万卷书。是否。渤曰然。师曰。摩顶至踵如椰子大。万卷书向什么处着。渤俯首而已。又问。一大藏教明得什么边事。师举拳示之云。会么。渤云。不会。师云。这个措大拳头也不识。渤云。请师指示。师曰。会则途中受用。不会则世谛流布。师尝示众曰。从上古德不是无知解。他高尚之士不同常流。今时不能自成自立空度时光。诸子莫错用心。无人替汝。亦无汝用心处。莫就他觅。从前只是依他作解。发言皆滞。光不透脱。只为目前有物。僧问。如何是玄旨。师云。无人能解。僧云。向者如何。师云。有向即乖。僧云。岂无方便令学人得入。师云。观音妙智力能救世间苦。僧云。如何是观音妙智力。师敲顶盖三下云。还闻么。僧云闻。师云。我何不闻。僧无语。即以棒趁下。复一日上堂云。吾今欲说禅。诸子总近前。大众近前。师云。汝听观音行善应诸方所。僧云。如何是观音行。师乃弹指云。诸人还闻否。僧云闻。师云。一队汉向这里觅个什么。以棒趁下。大笑归方丈。师没。有贤者赞其像曰。知见一何高。拭眼避天位。回观洗耳人。千古未为愧。

  (廿二) 供奉吴元卿者。敏悟绝人。宪宗殊喜之。一日在昭阳宫。见群芳敷荣赏玩徘徊。倏闻空中有声曰。虚幻之相开谢不停。能坏善根仁者安可嗜之元卿猛省志脱尘俗。帝一日游宫。问曰。卿何不乐。对曰。臣幼不食荤。志愿从释。帝曰。朕视卿若昆弟。但富贵欲出人表者不违卿。惟出家不可。既浃旬而容貌瘦悴。帝悯而诏曰。如卿愿任选日远近奏来。元卿荷恩致谢。寻得乡报母患。乞归宁。帝厚赐津遣。元卿至家。会韬光法师勉之。谒鸟窠禅师。启曰。弟子七岁蔬食。十一受五戒。今年二十有二。为出家故休官。愿和尚授与僧相。鸟窠曰。今时为僧鲜有精苦者行多浮滥。元卿曰。本净非琢磨。元明不随照。曰汝若了净智妙圆体自空寂。即真出家何假外相。汝当为在家菩萨戒施俱修如孙许之流也。元卿曰。理虽如是。然非本志。倘蒙摄受则誓遵师教。如是三请皆不诺。韬光为劝请曰。宫使未尝娶。亦不畜侍女。禅师若不摄受。其谁能度之。鸟窠乃与披剃具戒。法号会通。昼夜精进诵大乘经习安般三昧。忽一日固辞游方。鸟窠曰。汝将何往。曰会通为法出家。以和尚不垂慈诲。今往诸方学佛法去。窠于身上拈起布毛吹之。通遂悟玄旨。时号布毛侍者云。◎

  (二十三) ◎重巽法师。自湘西赴其叔父中丞之请。柳子厚赠之以序曰。或问宗元曰。悉矣子之得于巽上人也。其道果何如哉。对曰。吾自幼学佛。求其道积三十年。世之言者罕能通其说。于零陵吾独有得焉。且佛之言。吾不可得而闻之矣。其存于世者。独遗其书。不于其书而求之。则无以得其言。言且不可得。况其意乎。今是上人。穷其书得其言谕其意。推而大之。逾万言而不烦。总而括之。立片词而不遗。与夫世之析章句徴文字。言至虚之极则荡而失守。辨群有之伙则泥而皆存者。其不以远乎。以吾所闻知。凡世之善言佛者。于吾则惠诚师。荆则海云师。楚之南则重巽师。师之言存。则佛之道不远矣。惠诚师已死。今之言佛者加少。其由儒而通者。郑中书洎孟常州。中书见上人执经而师受。且曰。于中道吾得以益达。常州之言曰。从佛法生得佛法分。皆以师友命之。今连帅中丞公具舟来迎。饰馆而俟。欲其道之行于远也。夫岂徒然哉。以中丞公之直清严重。中书之辩博。常州之敏达。且犹宗重其道。况若吾之昧昧者乎。夫众人之和由大人之唱。洞庭之南竟南海。其土汪汪也。求道之多半天下。一唱而大行于远者。是行有之。则和焉者将若居蛰之有雷不可止也。于是书以为巽上人赴中丞叔父召序。

  (二十四) 马郎妇不知出处。方唐隆盛佛教大行。而陕右俗习骑射。人性沉鸷乐于格斗。蔑闻三宝之名。不识为善仪则。妇怜其憨乃之其所。人见少妇单子风韵超然姿貌都雅幸其无侍卫无羁属。欲求为眷。曰我无父母又鲜兄弟。亦欲有归。然不好世财。但有聪明贤善男子。能诵得我所持经。则吾愿事之。男子众争求观之。妇授以普门品。曰能一夕通此则归之。至明发诵彻者二十余辈。妇曰。女子一身家世贞洁。岂以一人而配若等耶。可更别诵。因授以金刚般若所约如故。至旦通者犹十数。妇更授以法华经七轴。约三日。通彻此者定配之。至期独马氏子得通。妇曰。君既能过众人。可白汝父母具媒妁娉礼。然后可以姻。盖生人之大节。岂同猥巷不检者乎。马氏如约具礼迎之。方至而妇谓曰。适以应接体中不佳。且别室俟少安。与君相见未晚也。马氏子喜顿之他房。客未散而妇命终。已而坏烂。顾无如之何。遂卜地葬之。未数日有老僧。紫伽黎姿貌古野。仗锡来仪。自谓向女子之亲。诣马氏问其所由。马氏引至葬所。随观者甚众。僧以锡拨开见其尸已化。唯金锁子骨。僧就河浴之。挑于锡上谓众曰。此圣者悯汝等障重缠爱故垂方便化汝。宜思善因免堕苦海。忽然飞空而去。众见悲泣瞻拜。自是陕右奉佛者众。由妇之化也。

  (二十五) 是岁抚州景云寺律师上弘卒。江州司马白居易制碑曰。元和十一年春。庐山东林寺僧道深怀纵如建冲契等凡二十辈。与白黑众千余人俱。实持故景云大德弘公行状一通贽钱十万。来诣浔阳请司马白居易作先师碑。会有故不果。十二年夏作石坟成。复来请。会有病不果。十三年冬作石塔成。又来请。始从之。既而僧返山。众返聚落。钱返寺府。翌日而文成。明年而碑立。其词云。我闻乾竺古先生出世法。法要有三。曰戒定慧。戒生定。定生慧。慧生八万四千法门。是三者迭相为用。若次第言。则定为慧因。戒为定根。根植则苗茂。因树则果满。无因求满。犹梦果也。无根求茂。犹揠苗也。佛虽以一切种智摄三界必先用戒。菩萨以六波罗蜜化四生。不能舍律。律之用可思量不可思量。如来十弟子中。称优波离善持律。波离灭有南山大师得之。南山灭有景云大师得之。师讳上弘。生饶氏。曾祖君雅。祖公悦。父知恭。临川城南人。童而有知。故生十五岁发出家心。始从舅氏剃落。壮而有立。故二十五岁立菩提愿。从南岳大圆律师具戒。乐所由生。故大历中不去父母之邦。隶于本州景云寺修道德。应无所住。故贞元中离我我所。徙居洪州龙兴寺说法。亲近善知识。故与匡山法真。天台灵祐。荆门法裔。兴果神凑。建昌惠进等。五长老交游。佛法嘱王臣。故与姜相国公辅颜太师真卿洎本道廉访使杨君凭韦君丹四君子友善。提振禁戒。故讲四分律。而从善远罪者无其数。随顺化缘。故坐甘露戒坛。而担众生盟者二十年。荷担大事。故前后登方等。施尸罗者十有八会。救拔众生。故娑婆男女由我得度者万五千五百七十二人。示生无常。故元和十年十一日己亥迁化于东林精舍。示灭有所。故是月丙寅归全身于南岗石坟。住世七十七岁。安居六十五夏。自生至灭随迹示教。行止语默无非佛事。夫施于人也博。则反诸己也厚。故门人乡人报之如不及。繇是艺松成林琢石为塔。塔有碑。碑有铭。铭曰。佛灭度后。薝卜香襄。醍醐味漓。孰反是香。孰复是味。景云大师。景云之生。一匡苾刍。中兴毗尼。景云之灭。众将安仰。法将畴依。昔景云来。行道者随。入室者归。今景云去。升堂者思。入室者悲。庐峰之西。虎溪之南。石塔巍巍。有纪事者。以真实辞。书于塔碑。

  (二十六 戊戌) 元和十三年禅师元浩卒。浩弘台教。翰林梁肃尝请撰涅槃经疏。浩许之。是夕感异梦。喜以为瑞应。即下笔自述所证。其略曰。予闻先觉云。大宝流辉之不变曰常在。宥布和之盛典曰教。率土知化之归宗曰行。交感人心之至极曰证。然则以道行御其时。以法性合其运。当应物之际。与显晦同其光。恢扬至化自他昭著者。实播厥鸿名。钦恭文思协和至极。四德克彰者。实存乎妙体。格变群家历观诸行。至典克修庶绩有成者。实赖乎本宗。信以授人大。明宗极。厥旨厥几有补于将来者。实存乎妙用。综博群玄以立成训。风行十方率用归顺者。实存乎妙教矣。议者以浩疏比王辅嗣易。而与清凉华严疏抗衡焉。

  (二十七) 是年正月丁亥。诏迎凤翔法门寺佛骨入于京师。帝御安福门迎拜。留禁中供养三日。乃送诸寺。王公士庶奔走膜拜。具释部威仪及太常长安万年音乐。旌幢鼓吹腾沓系路。刑部侍郎韩愈上表曰。佛者夷狄之一法耳。自后汉时流入中国。上古未尝有也。昔黄帝在位百年。年百二十岁。少昊在位八十年。年一百岁。颛顼在位七十九年。年九十八岁。帝喾在位七十年。年一百五岁。帝尧在位九十八年。年一百一十八岁。帝舜及禹年皆百岁。此时天下太平百姓安乐寿考。然而中国未有佛也。其后汤亦百岁。汤孙太戊在位七十五年。武丁在位五十九年。书史不言其寿。推其年数。盖不减百岁。周文王年九十七岁。武王年九十三岁。穆王在位百年。此时佛法亦未至中国。非因事佛而致然也。汉明帝时始有佛法。明帝在位才十八年。其后乱亡相继运祚不长。宋齐梁陈元魏已下。事佛渐谨。年代尤促。惟梁武在位四十八年。前后三舍身事佛。宗庙之祭不用牲牢。尽日一食止于菜果。后为侯景所逼饿死台城。国亦寻灭。事佛求福反更得祸。由此观之。佛不足信亦可知矣。高祖始受隋禅则议除之。当时群臣识见不远。不能深知先王之道。古今之宜推阐圣明以救其弊。其事遂止。臣常恨焉。伏惟睿圣文武皇帝陛下神圣英武。数千百年已来。未有伦比。即位之初不许度人为僧尼。道士不许别立寺观。臣当时以为高祖之志必行于陛下。今纵未能即行。岂可纵之令盛也。今陛下令群僧迎佛骨于凤翔。御楼以观舁入大内。又令诸寺迭加供养。臣虽至愚。必知陛下不惑于佛作此崇奉而祈福祚也。直以丰年人乐。徇人心为京都士庶设诡异之观戏玩之具耳。安有圣明若此而肯信此等事哉。然百姓愚冥易惑难晓。苟见陛下如此。将谓真心信佛。皆云。天子大圣尚一心信向。百姓微贱于佛岂合更惜身命。以至灼顶燔指十百为群。解衣散钱自朝至莫。更相放效唯恐后时。老幼奔波弃其生业。若不即加禁遏。更历诸寺必有断臂脔身以为供养者。伤风败俗传笑四方。非细事也。佛本夷狄之人。与中国语言不通。衣服殊制。口不道先王之法言。身不服先王之法服。不知君臣之义。父子之情。假如其身尚在。奉其国命来朝京师。陛下容而接之。不过宣政一见礼宾一设赐衣一袭卫而出之于境不令惑于众也。况其身死已久。枯朽之骨。凶秽之余。岂宜以入宫禁。孔子曰。敬鬼神而远之。古之诸侯吊于其国。必令巫祝先以桃茢袚除不祥然后进吊。今无故取朽秽之物。亲临观之。巫祝不先桃茢不用。群臣不言其非。御史不举其失。臣实耻之。乞以此骨付之水火。永绝根本。断天下之疑。绝后代之惑。使天下之人知大圣之所作为出于寻常万万也。佛如有灵能作祸崇。凡有殃咎宜加臣身。上天鉴临臣不怨悔。表入。

  帝大怒。持以示宰相。将抵以死。裴度崔群曰。愈言讦啎。罪之诚宜。然非内怀至忠。安能及此。愿少宽假以来谏诤。帝曰。愈言我奉佛太过。犹可容。至谓东汉奉佛已后。天子咸夭促。言何乖剌耶。愈人臣。狂忘敢尔。于是戚里诸王旧臣。皆为愈哀请。遂贬潮州刺史。

  (二十八 己亥) 元和十四年。潮州刺史韩愈到郡之初。以表哀谢。劝帝东封太山。久而无报。因祀神海上。登灵山遇禅师大颠。而问愈曰。子之来官于南。闻以其言之直也。今子之貌郁然似有不怿何也。对曰。愈之用于朝而享禄厚矣。一旦以忠言不用。夺刑部侍郎窜逐八千里之海上。播越岭海丧吾女孥。及至潮阳飓风鳄鱼患祸不测。毒雾瘴氛日夕发作。愈少多病。发白齿豁。今复忧前黜于无人之地。其生讵可保乎。愈之来也。道出广陵庙而祷之。幸蒙其力而卒以无恙。以主上有中兴之功。已奏章道之。使定乐章告神明东巡太山奏功皇天。傥其有意于此。则庶几召愈述作功德歌诗。而荐之郊庙焉。愈早夜待之而未至。万万一于速归。愈安能有怿乎。大颠曰。子直言于朝也。忠于君而不顾其身耶。抑尚顾其身而强言之以徇名耶。忠于君而不顾其身。言用则为君之荣。言不用而已有放逐。是其职耳。何介介于胸中哉。若尚顾其身而强言也。则言用而获忠直之名。享报言之利。不用而逐。亦事之必至也。苟患乎逐。则盍勿言而已。且吾闻之。为人臣者不择地而安。不重势而行。今子遇逐而不怿。趋时而求徇。殆非人臣之善也。且子之死生祸福岂不悬诸天乎。子姑自内修而外任命可也。彼广陵其能福汝耶。主上今继天宝之后。奸臣负国而讨之不暇。粮馈云合杀人盈野仅能克乎而疮痍未瘳。方此之际。而子又欲封禅告功以骚动天下。而属意在乎己之欲归。子奚忍于是耶。且夫以穷自乱而祭其鬼。是不知命也。动天下而不顾以便已。是不知仁也。强言以干忠遇困而抑郁。是不知义也。以乱为治而告皇天。是不知礼也。而子何以为之。且子之遭黜也。其所言者何事乎。愈曰。主上迎佛骨于凤翔。而复舁入大内。愈以为佛者夷狄之一法耳。自后汉时流入中国。上古未尝有也。昔者黄帝尧舜禹汤文武之际。天下无佛。是以年祚永久。晋宋梁魏事佛弥谨。而世莫不夭且乱。愈恐主上之惑于此。是以不顾其身而斥之。大颠曰。若是则子之言谬矣。且佛也者覆天人之大器也。其道则妙万物而为言。其言则尽幽明性命之理。其教则舍恶而趍善。去伪而归真。其亲天下犹父之于子也。而子毁之。是犹子而刃父也。盖吾闻之。善观人者观其道之所存。而不较其所居之地。桀纣之君。跖跷之臣。皆中国人也。然不可法者。以其无道也。舜生于东夷。文王于西夷。由余生于戎。季札出于蛮。彼二圣二贤者。岂可谓之夷狄而不法乎。今子不观佛之道而徒以为夷狄。何言之陋也。子必以为上古未有佛而不法耶。则孔子孟轲生于衰周。而蚩尤瞽叟生于上古矣。岂可舍衰周之圣贤。而法上古之凶顽哉。子以五帝三王之代为未有佛而长寿也。则外丙二年。仲壬四年。何其夭耶。以汉陈之间而人主夭且乱也。则汉明为一代之英主。梁武寿至八十有六。岂必皆夭且乱耶。愈攘袂厉色而言曰。尔之所谓佛者。口不道先王之法言。而妄倡乎轮回生死之说。身不践仁义忠信之行。而诈造乎报应祸福之故。无君臣之义。无父子之亲。使其徒不耕而食。不蚕而衣。以残贼先王之道。愈安得默而不斥之乎。大颠曰。甚矣子之不达也。有人于此终日数十而不知二五。则人必以为狂矣。子之终日言仁义忠信。而不知佛之言常乐我净。诚无以异也。得非数十而不知二五乎。且子计尝诵佛书矣。其疑与先王异者。可道之乎。曰愈何暇读彼之书。大颠曰。子未尝读彼之书。则安知不谈先王之法言耶。且子无乃自以尝读孔子之书而遂疑彼之非乎。抑闻人以为非而遂非之乎。苟自以尝读孔子之书而遂疑彼之非。是舜犬也。闻人以为非而遂非之。是妾妇也。昔者舜馆畜犬焉。犬之旦莫所见者唯舜。一日尧过而吠之。非爱舜而恶尧也。以所常见者唯舜。而未尝见尧也。今子常以孔子为学。而未尝读佛之书。遂从而怪之。是舜犬之说也。吾闻之。女子嫁也。母送之曰。往之汝家必敬必戒。无违夫子。然则从人者妾妇之事。安可从人之非而不考其所以非之者乎。夫轮回生死非妄造也。此天地之至数。幽明之妙理也。以物理观之。则凡有形于天地之间者。未尝不往复生死相与循环也。草木之根荄著于地。因阳之煦而生。则为枝为叶为花为实。气之散则萎然而槁矣。及阳之复煦又生焉。性识根荄也。枝叶花实者人之体也。则其往复又何怪焉。孔子曰。原始要终。故知死生之说。夫终则复始天行也。况于人而不死而复生乎。庄周曰。万物出于机入于机。贾谊曰。化为异类兮。又何足患。此皆轮回之说。不俟于佛而明也。焉得谓之妄乎。且子以祸福报应。为佛之诈造。此尤足以见子之非也。夫积善积恶随作随应。其主张皆气焰熏蒸神理自然之应耳。易曰。积善之家必有余庆。积不善之家必有余殃。又曰。鬼神害盈而福谦。曾子曰。戒之戒之。出乎尔者反乎尔者也。此报应之说也。唯佛能隐恻乎天下之祸福。是以彰明较著。言其必至之理。使不自陷乎此耳。岂诈造哉。又言。佛无君臣之义。父子之亲。此固非子之所及也。事固有在方之内者。有在方之外者。方之内者众人所共守之。方之外者非天下之至神莫之能及也。故圣人之为言也。有与众人共守而言之者。有尽天下之至神而言之者。彼各有所当也。孔子之言道也。极之则无思无为。寂然不动感而遂通。此非众人所共守之言也。众人而不思不为。则天下之理几乎息矣。此不可不察也。佛之与人子言必依于孝。与人臣言必依于忠。此众人所共守之言也。及其言之至。则有至于无心。非唯无心也。则有至于无我。非唯无我也。则又至于无生。非生矣则阴阳之序不能乱。而天地之数不能役也。则其于君臣父子。固有在矣。此岂可为单见浅闻者道哉。子又疑佛之徒不耕不蚕而衣食。且儒者亦不耕不蚕何也。愈曰。儒者之道。其君用之则安富尊荣。其子弟从之则孝悌忠信。是以不耕不蚕而不为素餐也。大颠曰。然则佛之徒亦有所益于人故也。今子徒见末世未有如佛者蚕食于人。而独不思今之未能如孔孟者亦蚕食于人乎。今吾告汝以佛之理。盖无方者也。无体者也。妙之又妙者也。其比则天也。有人于此终日誉天而天不加荣。终日诟天而天不加损。然则誉之诟之者皆过也。夫自汉至于今。历年如此其久也。天下事物变革如此其多也。君臣士民如此其众也。天地神明如此其不可诬也。而佛之说乃行于中。无敢议而去之者。此必有以蔽天地而不耻。关百圣而不惭。妙理存乎其间。然后至此也。子盍深思之乎。愈曰。吾非訾佛以立异。盖吾所谓道者。博爱之谓仁。行而宜之之谓义。由是而之焉之谓道。足乎己无待于外之谓德。仁与义为定名。道与德为虚位。此孔子之道而皆不同也。大颠曰。子之不知佛者。为其不知孔子也。使子而知孔子。则佛之义亦明矣。子之所谓仁与义为定名。道与德为虚位者。皆孔子之所弃也。愈曰。何谓也。大颠曰。孔子不云。志于道据于德依于仁游于艺。盖道也者百行之首也。仁不足名之。周公之语六德。曰知仁信义中和。盖德也者仁义之原。而仁义也者德之一偏也。岂以道德而为虚位哉。子贡以博施济众为仁。孔子变色曰。何事于仁。必也圣乎。是仁不足以为圣也。乌知孔子之所谓哉。今吾教汝以学者。必先考乎道之远者焉。道之远则吾之志不能测者矣。则必亲夫人之贤于我者之所向而从之。彼之人贤于我者。以此为是矣。而我反见其非。则是我必有所未尽知者也。是故深思彼之所是而力求之。则庶几乎有所发也。今子自恃通四海异方之学而文章旁礴。孰如姚秦之罗什乎。子之知来藏往。孰如晋之佛图澄乎。子之尽万物不动其心。孰如梁之宝志乎。愈默然良久曰。不如也。大颠曰。子之才既不如彼矣。彼之所从事者。而子反以为非。然则岂有高才而不知子之所知者耶。今子屑屑于形器之内。奔走乎声色利欲之间。少不如志则愤郁悲躁。若将不容其生。何以异于蚊虻争秽壤于积藁之间哉。于是愈瞠目而不收。气丧而不扬。反求其所答。忙然有若自失。逡巡谓大颠曰。言尽于此乎。大颠曰。吾之所以告子者。盖就子之所能而为之言。非至乎至者也。曰愈也不肖。欲幸闻其至者可乎。大颠曰。去尔欲诚尔心宁尔神尽尔性。穷物之理极天之命。然后可闻也。尔去吾不复言矣。愈趋而出。秋八月己未。帝与宰臣语次。崔群以残暑尚烦。目同列将退。帝曰。数日一见卿等。时虽余热朕不为劳。久之因语及愈有可怜者。而皇甫镈素薄愈为人。即奏曰。愈终疏狂可且内移。帝纳之。遂授袁州刺史。复造大颠之庐施衣二袭而请别曰。愈也将去师矣。幸闻一言。卒以相愈。大颠曰。吾闻易信人者。必其守易改。易誉人者。必其谤易发。子闻吾言而易信之矣。庸知复闻异端不复以我为非哉。遂不告。愈知其不可闻乃去。至袁州尚书孟简知愈与大颠游。以书抵愈嘉其改迷信向。愈答书称。大颠颇聪明识道理实能外形骸以理自胜。不为事物浸乱。因与之往还也。近世黄山谷谓。愈见大颠之后。文章理胜而排佛之词亦少沮云。

  论曰。旧史称。退之性愎讦。当时达官皆薄其为人。及与李绅同列。绅耻居其下。数上疏讼其短。今新史则以退之排佛老之功比孟子。嘉祐中有西蜀龙先生者。忿其言太过。遂摘退之言行悖戾先儒者。条攻之。一曰。老氏不可毁。二曰。愈读墨子反孟玷孔。若此类二十篇行于世。及观外传见大颠之说。凡退之平生蹈伪于此疏脱尽矣。欧阳文忠公尝叹曰。虽退之复生不能自解免。得不谓天下至言哉。而荆国王文公亦曰。人有乐孟子拒杨墨也。而以排佛老为己功。呜呼庄子庄子所谓夏虫者。其斯人之谓乎。道岁也。圣人时也。执一时而疑岁者。终不闻道。夫春起于冬而以冬为终。终天下之道术者。其释氏乎。不至于是者。皆所谓夏虫也。文公盖宋朝巨儒。其论退之如此。则外传之说。可不信夫。

  (二十九) 大颠禅师者。潮阳人。参南岳石头和上。一日石头问。何者是禅。师云。扬眉动目。石头云。除却扬眉动目外。将汝本来面目呈看。师云。请和上除却扬眉动目外鉴某甲。石头云。我除竟。师云。将呈和上了也。石头云。汝既将呈我心如何。师云。不异和上。石头云。非关汝事。师云。本无物。石头云。汝亦无物。师云。无物即是真物。石头云。真物不可得。汝心现量如此。大须护持。师后归住潮阳灵山。尝示众曰。夫学道人须识自家本心。多见时辈只认扬眉动目一语一默蓦头印可以为心要。此实未了。吾今为汝分明说出。各须听取。但除一切妄运想念现量。即真汝心。此心与尘境及守静时。全无交涉。即心是佛。不待修治。何故应机随照泠泠自用。穷其用处了不可得。唤作妙用乃是本心。大须护持不可容易。侍郎韩愈尝问。如何是道。师良久。时三平为侍者。乃击禅床。师云。作什么。三平云。先以定动。后以智拔。退之喜曰。愈问道于师。却于侍者得个入处。遂辞而去。

  (三十) 是年十月五日。刺史柳宗元卒。宗元字子厚。河东人。少精敏无不通达。为文章卓伟精致。一时辈行推仰。第博学宏词。累监察御史里行。善王叔文。叔文得罪贬永州司马。既居间益自刻苦。务记览为词章。泛滥停蓄为深博无涯涘。而自肆于山水之间。凡十年。起为柳州刺史。友人刘禹锡者得播州。宋元曰。播非人所居。而禹锡亲在堂吾不忍其穷。即具表欲以柳州授禹锡而自往播。会大臣亦为禹锡请。因改连州。柳人以男女质钱。过时不赎则没为奴婢。宗元设方计悉赎归之。南方士人走数千里从宗元游。经指授者为文词皆有师法。世号柳柳州。卒年四十七。临终遍与友人书。托以后事。文集三十三卷。韩愈尝评曰。雄深雅健似司马子长。崔蔡不足多也。既没柳人怀之。其神降于州之后堂。因庙于罗池。血食至今存焉。

  (庚子) 正月帝服金丹燥闷。内竖畏诛而深宫秘邃。故有不测之祸。资治通鉴曰。宪宗聪明果决得于天性。选任忠良延纳善谋。师老财屈异论辐辏。而不为之疑。盗发都邑屠害元戎。而不为之惧。卒能取灵夏清剑南。诛浙西俘泽潞。平淮南复齐鲁。于是天下深根固蒂之盗。皆狼顾鼠拱。纳质效地稽颡入朝。百年之忧一旦廓然矣。然怠于防微。变生肘腋。悲夫。

  (三十一) 是年有沙门北山和尚。讳神清字灵叟。而于王朝高谈。著述法华玄笺十卷。释氏年志三十卷。律疏要诀并俱舍诀等共百余卷。语录十卷。内外该括可为世范。受业于绵州开元寺。终于梓州惠义寺。於戏。

  (三十二 辛丑) 穆宗恒(宪宗第三子。登祚仁贤寿三十岁。葬于光陵在正位四年)改长庆。

  (壬寅) 春时雪 太和公主 降金人 嫁回鹘。

  (三十三) 是年白居易。由中书舍人出为杭州刺史。闻鸟窠和尚道德。枉驾见之。时鸟窠因长松槃屈如盖。遂栖止其上。居易问曰。禅师住处甚危险。师曰。太守危险尤甚。曰弟子位镇江山。何险之有。师曰。薪火相交识浪不停。得非险乎。又问。如何是佛法大意。师曰。诸恶莫作众善奉行。居易曰。三岁孩儿也解恁么道。师曰。三岁孩儿虽说得。八十翁翁行不得。居易钦叹而去。自是数从之问道。

  (三十四) 是岁穆宗遣左街僧录灵阜。赍诏起汾阳无业禅师赴阙。阜至。宣诏毕稽首无业足下。白曰。主上此度恩旨不同。愿师起赴。无以他词固辟也。业笑曰。贫道何德累烦人主。汝可先行。吾即往矣。遂沐浴净发。至中夕告门人惠愔等曰。汝曹见闻觉知之性与太虚同寿。不生不灭一切境界。本自空寂无一法可得。迷者为不了故即被境惑。一为境惑流转不穷。汝等当知心性本自有之。非因造作。犹如金刚不可破坏。一切诸法如影如响。无有实者。故经云。唯有一事实。余二则非真。常了一切空。无一法当情。是诸佛用心处。汝等勤而行之。言讫端坐而逝。阜回奏其事。帝钦叹久之。尝有僧问。十二分教流于此土。得道果者非止一二。云何祖师西来别唱玄宗。直指人心见性成佛。只如上代高僧。并淹贯九流洞明三藏。如生肇融睿等。岂得不知佛法耶。师曰。诸佛不曾出世。亦无一法与人。但随病施方。遂有十二分教。如将蜜果换苦葫芦。淘汝诸人业根都无实事。神通变化及百千三昧门。化彼天魔外道。福智二严为破执有滞空之见。若不会道及祖师意论什么生肇融睿。如今天下解禅解道如河沙数。说佛说心有百千亿。纤尘不去未免轮回。思念不忘尽从沉坠。如斯之类尚不识业果。妄谓上流并他先德。但言触目无非佛事。举足皆是道场。原其所习。不如一个五戒十善凡夫。观其发言。嫌他二乘十地菩萨。且醍醐上味为世珍奇。遇斯等人翻成毒药。南山尚不许呼为大乘。学语之流争锋唇吻之间。鼓论不根之事。并他先德。诚实苦哉。只如野逸高人。犹解枕流漱石弃其荣禄。亦有安国理民之谋。徴而不起。况我禅宗途路且别。看他古德道人得意之后。茅茨石室向折脚铛子里煮饭吃过。三十二十年名利不干怀。财宝不系念。大忘人世隐迹岩丛。君王命而不来。诸侯请而不赴。岂同时辈贪名爱利汩没世途。如短贩人。有少希求而忘大果。十地诸圣玄通佛理。岂不如一个博地凡夫。实无此理。他说法如云如雨。犹被佛呵见性如隔罗縠。只为情存圣量见在因果。未能逾越圣情过诸影迹。先贤古德硕学高人。博达古今洞明教网。盖为识学诠文水乳难辨。不明自理念静求真。嗟乎得人身者如爪甲上土。失人身者如大地土。良可伤惜。设悟理之者有一知半解。不知是悟中之则入理之门。便谓永脱世累轻忽上流。致使心漏不尽理地不明。空到老死无成虚延岁月。且聪明不能敌生死。干惠未免轮回。共兄弟论实不论虚。只这口食身衣。尽是欺贤罔圣求得将来。他心惠眼。观之如饮脓血相似。总须偿他始得。阿那个是有道果自然感得他信施来。学般若菩萨不得自谩。如冰凌上行剑刃上走。临命终时。一毫凡圣情量不尽。纤尘思念不忘。随念受生。轻重五阴向驴胎马腹里托质。泥犁镬汤里煮炸一遍了。从前记持忆想见解智慧。都卢一时失却。依前再为蝼蚁。从头又作蚊虻。虽是善因而招恶果。且图个什么。兄弟只为贪欲成性。二十五有向脚跟下系着。无成辨之期。祖师观此土众生有大乘根性。惟传心印指示迷情。得之者即不拣凡之与圣愚之与知。且多虚不如少实。大丈夫儿如今直下休去歇去顿息万缘。越生死流迥出常格。灵光独照物累不拘。巍巍堂堂三界独步。何必身长丈六紫磨金辉项佩圆光广长舌相。以色见我是行邪道。设有眷属庄严不求自得。山河大地不碍眼光。得大总持一闻千悟。都不希求一餐之直。汝等诸人傥不如是。祖师来至此土非常。有损有益。有益者。千万人中捞漉一个半个堪为法器。有损者。如前已明。从他依三乘教法修行不妨。却得四果三贤进修之分。所以先德云。了即业障本来空。未了应须偿宿债。师宪宗穆宗两朝。凡三诏不赴。既没赐谥大达禅师。

  (三十五) 澧州龙潭崇信禅师。本渚宫卖饼家子也。史失其姓。少时英异。初悟禅师居天皇寺。人莫之测。师家于寺巷。日常以十饼馈之。悟受之。每食异常留一饼曰。吾惠汝以荫子孙。一日退而省其私曰。饼是我持去。何以反遗我邪。宁别有旨乎。遂告问焉。悟曰。是汝持来。复汝何咎。师闻颇晓玄旨。因祈出家。悟曰。汝昔崇福善。今信吾言。可名崇信。由是服勤左右。一日问曰某自到来不蒙指示心要。悟曰。自汝到来吾未尝不指汝心要。曰何处指示。悟曰。汝擎茶来吾为汝接。汝行食来吾为汝受。如和南时吾便低首。何处不指示心要。师低头良久。悟曰。见即直下便见。拟思即差。师当下开解。乃复问。如何保任。悟曰。任性逍遥随缘放旷。但尽凡心无别圣解。师后诣澧阳龙潭栖止。僧问髻中珠谁人得。师曰。不赏玩者。僧曰。安着何处。曰有处即道来。李翱问。如何是真如般若。曰我无真如般若。翱曰。幸遇和上。师曰。此犹是分外之言。德山问答具本传。

  (癸卯) 长庆三年○(六月新都观泥像生须板之复生)○(八月帝幸兴庆宫遇持钵僧施绢三百疋)。

  (甲辰) 四年正月帝崩。

  (三十六) 是年杭州永福寺。刊石壁法华经成。相国元祯为之记。其辞曰。按沙门释惠皎自状其事云。永福寺一名孤山寺。在杭州钱塘湖心孤山上。石壁法华经在寺之中。始以元和十二年。严休复为刺史时。惠皎萌厥心。卒以长庆四年白居易为刺史时。成厥事。上下其石六尺有五寸。长短其石五十七尺有六寸。座周于下。盖周于石。砌周于堂。凡买工凿经六万九千有一百五十钱。十经之数既毕。又立石为二碑。其一碑凡输钱于经者。由十而上皆得名于碑。其输钱之贵者有若杭州刺史严休复。中书舍人杭州刺史白居易。刑部侍郎湖州刺史崔玄亮。刑部郎中睦州刺史韦文悟。处州刺史韦行立。杭州刺史张聿。御史中丞苏州刺史李又。御史大夫越州刺史元祯。右司郎中处州刺史陈岵。九刺史之外。缙绅之由杭者。若宣慰使库部郎中知制浩贾餗。以降鲜不附于经石之列。必以输钱先后为次第。不以贵贱老幼多少为后先。其一碑僧之徒。思得声名人文其事以自广。予以长庆二年相先帝无状谴于同州。明年徙于会稽。路出于杭。杭民竞相观睹。白怪问之。皆云非观宰相。盖欲观曩所闻之元白耳。由是僧之徒误以予为名声人。相与日夜攻刺史白乞予文。予观僧之徒。所以经于石文于碑。盖欲为不朽且欲自大其本术。今夫碑既文经既石。而又九诸侯相率贡钱于所事。由近而言之。亦可谓来异宗而成不朽矣。由远而言。即不知几万岁而外。天与地相轧。阴与阳相荡。火与风相射。名与形相灭。则四海九州皆空中一微尘耳。又安知其朽不朽哉。然而羊叔子识枯树中旧环。张僧繇世为画师。历阳之气至今为城郭。狗一叱而异世。卒不可化。锻之予学数息则易成。此又性与物相游。而终不能两相忘矣。又安知夫六万九千之文刻石。永永因众姓合成。独不能为千万劫含藏之不朽耶。由是思之。则僧之徒得计矣。至于佛书之奥妙。僧当为余言。余不当为僧言。况斯文止纪于刻石。故不及讲贯其义云。中书令王智兴。请于四洲置僧尼方等戒坛于诞圣节度僧。制可。既而浙西观察使李德裕奏曰。智兴为戒坛泗州募愿度者。每名输钱二千。则不复勘诘。普皆剃落。自淮而右。户三男则一男剃发规免徭役。所度无算。臣阅渡江日数百人。苏常齐民十固八九。傥不禁遏。前至诞月江淮失丁男数十万。不为细事也。帝不纳。先是宪宗屡有敕。不许天下私度民为僧尼道士。至是智兴冒禁陈请。于是细民淆混奔趋剃落。智兴因致赀数十万缗。大为清论鄙之时福州古灵神赞禅师。初参百丈却回本寺。受业师尝在窗下看经。蜂子投窗求出。赞见之曰。世界如许广阔不肯出。钻他故纸驴年去。其师因置经问曰。汝行脚遇何人而发言如此。赞曰。昨蒙百丈和上指个歇处。其师于是集众请升堂说法。赞举百丈门风曰。灵光独耀迥脱根尘。体露真常不拘文字。心性无染本自圆成。但离妄缘即如如佛。其师于言下有省。

  佛祖历代通载卷第十五

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第十六

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  唐

  (一 乙巳) 敬宗湛(穆宗长子。母太后王氏。游戏无度狎匿群小。性复遍急。为克明弑之。年十八崩。葬庄陵。在位二年)改宝历。

  (二) 八月。遣中使诣天台采求灵药诏道士刘从政。入宫资质仙事。署光禄卿。别号升玄先生。

  (丙午) 三月。命道士孙准制长生药。署准为翰林待诏。

  四月帝畋猎夜归。与宦官酣饮击毬。俄烛灭遇弑。年十八。大臣裴度等迎皇太弟江王立之。是为文宗。

  五月下诏。革两朝淫侈不法之务。捕道士孙准等二十八人及佞憎惟真。民服流于岭表。

  (三 丁未) 文宗昂(穆宗次子。虚怀听纳而不能坚决。用李训郑注欲尽诛仕宦。仇士良等阴觉。纵兵杀宰相王渥等二十余人。帝三十二岁崩。在位十四年)改太和。

  (戊申) 十月江西观察使沈傅师奏。帝诞月请于洪州起方等戒坛度僧资福。制曰。不度僧尼累有敕命。傅师忝为方面违禁申请。宜罚俸料一月。

  (四) 澧州药山禅师惟俨卒。大儒唐伸为之碑曰。上嗣位明年。澧阳郡药山释氏大师。以十二月六日终于修心之所。后八年门人状先师之行。西来京师告于崇敬寺大德。求所以发挥先师之耿光垂于不朽。崇敬大德于余为从母兄也。尝参径山得其心要。自兴善宽敬示寂之后。四方从道之人质疑传妙。罔不诣崇敬者。尝谓伸曰。吾道之明于药山。犹尔教之闻于洙泗。智炬虽灭法雷犹响。岂可使明德不照至行堙没哉。惟大师生南康信丰。自为童时未尝处群儿戏弄中。往往独坐如念如思。年十七即南度大庾抵潮之西山得惠照禅师。乃落发服缁执礼以事。大历中受具于衡岳希琛律师。释礼矩仪动如夙习。一朝乃言曰。大丈夫当离法自静。焉能屑屑事细行于衣巾耶。是时南岳有迁。江西有寂。中岳有洪。皆悟心契。乃知大圭之质岂俟磨砻。照乘之珍难晦符彩。自是寂以大乘法闻四方。学徒至于指心传要。众所不能达者。师必默识悬解。不违如愚。居寂之室垂二十年。寂曰。汝之所得。可谓浃于心术布于四体。欲益而无所益。欲知而无所知。浑然天和合于本无。吾无有以教矣。佛以开示群盲为大功。度灭众恶为大德。尔当以功德普济群迷。宜作梯航无久滞此。由是陟罗浮涉清凉。历三峡游九江。贞元初因憩药山喟然叹曰。吾生寄世若萍蓬耳。又何效其飘转耶。既披蓁结庵才疪趺座。乡人知者因赍携饮食奔走而往。师曰。吾无德于人。何以劳人乎哉。并谢而不受。乡人跪曰。愿闻日费之具。曰米一升足矣。自是尝以山蔬数本佐食。一食讫就座转法华华严涅槃。昼夜若一。终始如是殆三十年矣。游方求益之徒。知教之在此。后数岁而僧徒葺居禅室梁栋鳞差。其众不可胜数。至于沃烦正覆道源成流。有以见寂公先知之明矣。忽一旦谓其徒曰。乘邮而行。及莫而息。未有久行而不息者。吾至所诣矣。吾将有息矣。灵源自清。混之者相。能灭诸相是无有色。穷本绝外汝其悉之。语毕隐几而化。春秋八十四。僧腊六十夏。入室弟子冲虚等迁座。建塔于禅居之东。遵本教也。始师尝以大綀布为衣。以竹器为跷。自剃其发自具其食。虽门人数百童侍甚广。未尝易其力。珍羞百品鲜果骈罗。未尝易其食。冬裘重燠夏服轻疏。未尝易其衣。华室靖深香榻严洁。未尝易其处。麋鹿环绕猛兽伏前。未尝易其观。贵贱迭来顶谒床下。未尝易其礼。非夫罄万有契真空离攀缘之病本性清净乎物表。焉能遗形骸忘嗜欲久而如一者耶。其他硕臣重官归依修礼于师之道。未有及其门阃者。故不列之于篇。铭曰。一物在中。触境而摇。我示其源。不境不跳。西方圣人。实言其要。其要既得。可言其妙。我源自济。我真自灵。大包万有。细出无形。曹溪所传。徒藏于密。身世俱空。曾何有物。自见曰明。是为至精。出没在我。谁曰死生。刻之琬琰。立之岩岫。作碑者伸。期于不朽。

  (五) 李翱作复性书。其一曰。人之所以为圣人者性也。人之所以惑其性者情也。喜怒哀惧爱恶欲七者情之所为也。情既昏性斯匿矣。非性之过也。七者。循环而交来。故性不能统也。水之浑也其流不清。火之烟也其光不明。非水火清明之过。沙不浑流斯清矣。烟不郁光斯明矣。情不作性斯统矣。性者天之命也。圣人得之不惑者也。圣人者岂无情耶。圣人者寂然不动。不往而到。不言而信。不耀而光。制作参乎天地。变化合于阴阳。虽有情也未尝有情也。然则百姓者岂其无性耶。百姓之性与圣人之性弗差也。虽然情之所昏交相攻。未始有穷。故虽终身而不自睹其性焉。火之潜于山石林木之中。非不火也。江河淮济之末流而泉于山。非不水也。石不敲木弗磨。则不能烧其山林而燥万物。泉之源弗疏。则弗能为江为河为淮为济。东汇大壑浩浩汤汤为弗测之深。情之动弗息。则弗能复其性而烛天地为不极之明。是故诚者圣人之性也。寂然不动广大清明。照乎天地。感而遂通天下之故。行止语默无不处极也。复其性者。贤人循之而不已者也。不已则能归其源矣。圣人知人之性皆可以循之其不息而至于圣也。故制礼以节之。作乐以和之。安于仁乐之本也。动而中礼之本也。故在车则闻和鸾之声。行步则闻佩玉之音。无故不废琴瑟。视言行循礼法而动。所以教人忘嗜欲而归性命之道也。道者至诚而不息也。至诚而不息则虚。虚而不息则明。明而不息则照天地而无遗。非他也。此尽性命之道也。哀哉。人人可以及于此。莫之止而不为也。不亦惑耶。昔者圣人以传于颜子。颜子得之拳拳不失。不远而复。其心三月不违仁。子曰。回也其庶乎屡空。其所以未到圣人者一息耳。非力不能也。短命而死故也。其余升堂者。盖皆传也。一气之所春。一雨之所膏。而得之者各有浅深。不必均也。曾子之死也。曰吾何求焉。吾得正而毙焉斯已矣。斯正性命之言也。子思仲尼之孙。得祖之道。述中庸四十九篇。以传于孟轲。孟轲曰。我四十不动心。轲之门人达者。公孙丑万章之徒。盖传之矣。遭秦焚书。中庸之弗焚者一篇有焉。于是此道废阙。其教授者唯节文章句。威仪击剑之术相师焉。性命之源则吾弗能传矣。道之极于剥也必复。吾自六岁读书。但为辞句之学。志于道者四年矣。与人言之。未尝有是我者也。南观涛江入于越。而吴兴陆参存焉。与之言。陆参曰。子之言尼父之心也。东方有圣人焉。不出乎此也。西方有圣人焉。亦不出乎此也。唯子行之不息而已矣。呜呼性命之书虽存。学者莫能明。是故皆入于庄列老释。不知者谓夫子之徒不足以穷性命之道。信之者皆是也。有问于我我以吾之所知传焉。遂书于书。以开诚明之源。而阙绝废弃不扬之道。几可以传。于是命曰复性书。以治乎心以传乎人。於戏夫子复生不废吾言矣。其二曰。或(问曰)人之昏也久矣。将复其性者必有渐也。敢问其方。曰弗虑弗思。情则不生。情既不生乃为正思。正思者无思无虑也。易曰。天下何思何虑。又曰。闲邪存其诚。诗曰。思无邪。曰已矣乎。曰未也。此斋戒其心者也。犹未离于静焉。有静必动。有动必静。动静不息。是乃情也。易曰。吉凶悔吝生乎动者也。焉能复其性耶。曰如之何。曰方静之时知心无思者。是斋戒也。知本无有思动静皆离寂然不动。是至诚也。中庸曰。诚则明矣。易曰。天下之动贞夫一者也。问曰。不虑不思之时。物格于外情应于内。如之何而可止也。以情止情其可乎。曰情者性之邪也。知其为邪本无其心寂然不已邪思自息。惟性明照。邪也何所生如以情止情。是乃大情也。情之相止。其有已乎。易曰。颜氏之子其殆庶几乎。其不善未尝不知。知之未尝复行也。易曰。不远复无祇悔元吉。问曰。本无有思动静皆离。然则静之来也其不闻乎。物之形也其不见乎曰不睹不闻。是非人也。视听昭昭而不起闻见者斯可矣。无不知也。无不为也。其心寂然光照天地。是诚之明也。大学曰。致知在格物。易曰。无思也无为。也。寂然不动。感而遂通天下之故。非天下之至神。其孰能与于此。曰敢问。致知在格物何谓也。曰物者万物也。格者来至也。物至之时其心昭昭然辨焉。而不著于物者。是致知也。是知之至也。知至故意诚。意诚故心正。心正故身修。身修故家齐。家齐而国理。国理而天下平。此所以能参天地者也。易曰。与天地相似。故不违。智周乎万物而道济天下。故不过。旁行而不流乐天之命。故不忧。安土敦乎仁。故能爱范围天地之化而不过。曲成万物而不遗。通乎昼夜之道而知。故神无方而易无体。一阴一阳之谓道。此之谓也。曰生为我说中庸。曰不出乎前矣。曰我未明也。敢问。何谓天命之谓性。曰人生而静天之性也。性者天之命也。率性之谓道。曰何谓也。曰率循也。循其源而反其性者道也。道也者至诚也。至诚天之道也。诚者定也不动也。修道之谓教。何谓也。曰教也者人之道也。择善而固执之者也。修是道而归其本者明也。教也者则可以教天下矣。颜子其人也。道也者不可须臾离也。可离非道也。说者曰。其心不可须臾动焉故也。动则远矣。非道矣。变化无方未始离于不动故也。是故君子戒谨乎其所不睹。恐惧乎其所不闻。莫见乎隐。莫显乎微。故君子谨其独也。说者曰。不睹之睹。见莫大焉。不闻之闻。闻莫甚焉。其心不动。是弗睹之睹。弗闻之闻也。其复之不远矣。故谨其独。谨其独者守其中也。问曰。昔之解中庸者。与生之言皆不同何也。曰彼以事解。我以心通者也。曰彼亦通于心乎。曰吾不知之。问人之性犹圣人之性。嗜欲爱恶之心何自而生耶。曰情者妄也邪也。曰邪与妄则无所因矣。妄情灭息本性清明周流六虚。所以谓之能复其性也。易曰。乾道变化各正性命。语曰。朝闻道夕死可也。能正性命故也。曰情之所昏性即灭矣。何以谓之。犹圣人之性也。曰水之清澈。其浑之者沙泥也。其浑也性情岂遂无有耶。久而不动沙泥自沈。清明之性鉴乎天地。非自外来也。故其浑也性本不失。及其复也性亦不生。人之性亦犹水也。问曰。人之性本皆善。而邪情昏曰。敢问圣人之性将复为嗜欲所浑乎。曰不复浑矣。情本邪也妄也。邪妄所翳性不能复。圣人既复其性矣。知情之所为邪。邪既为明所觉矣。则无邪。邪何由生乎。曰敢问死何所之耶。曰圣人之所不明书于策者也。易曰。原始要终。故知死生之说。精气为物游魂为变。是故知鬼神之情状。斯尽之矣。子曰。未知生焉知死。则原其始反其终。可以尽其生之道。生之道既尽。则死之说不学而通矣。此非所急也。子修之不息。其自知之。吾不可以章章然言非书矣。其三曰。昼而作夕而休者凡人也。作乎非作者与物皆作。休乎非休者与物皆休。吾则不类于凡人。昼无所作夕无所休。作非吾作也。作有物。休非吾休也。休有物。休耶作耶。二皆离而不存予之所存者。终不亡且离矣。人之不力于道者。昏不思也。天地之间万物生焉。人之与万物一也。其所以异于鸟兽虫鱼者。岂非道德之性全乎哉。受一气而成形。一为物而一为人。得之甚难也。生乎世又非深长之年也。以非深长之年。行甚难得之身。而不专专于大道。肆其心之所为。其所以异于鸟兽虫鱼者亡矣。昏而不思。其昏也终不明矣。吾之年三十有九矣。思十九年时如朝日也。思九年时亦如朝日也。人之受命。其长者不过七十八十年。九十百年者希矣。当百年之时而视乎九十时也。与吾此日之思于前也远近其能大相悬也。其又能远于朝日之时耶。然则人之生也。虽享百年若雷电之惊相激也。若风之飘而旋也可知矣。况百千人无一及百年之年哉。故吾之终日志于道。犹惧未及也。彼肆其心之所为者独何人耶。

  (己酉) ○(云代蔚三州山谷间石化为面民取食之)。

  (六) 苏州重玄寺。刊石壁经成。刺史白居易为之碑曰。碑在石壁东次。石壁在广德法华院西南隅。院在重玄寺西若干步。寺在苏州城北若干里。以华言唐文刻释氏经典。自经品众佛号以降字加金焉。夫开示悟入诸佛知见。以义度无边。以圆教垂无穷。莫尊于妙法莲华经。凡六万九千五百五言。证无生忍造不二门。住不可思解脱。莫极我维摩诘经。凡二万七千九十二言。摄四生九类入无余涅槃实无得度者。莫出于金刚般若波罗密经。凡五千二百八十七言。禳罪集福净一切恶道。莫急于佛顶尊胜陀罗尼经。凡三千一十言。应念顺愿愿生极乐土。莫急于阿弥陀经。凡一千八百言。用正见观真相。莫出于观普贤菩萨行法经。凡六千九百九十言。诠自性认本觉。莫过于实相法密经。凡三千二百五言。空法尘依佛智。莫过于般若波罗密多心经。凡二百五十八言。是八种经具十二部。合一十一万六千八百五十七言。三乘之要旨。万佛之秘藏尽矣。是石壁积四重高三寻长十有五丈厚尺有咫。有石莲敷覆其上下。有石神固护其前后。火水不能烧漂。风日不能摇消。所谓施无上法尽未来际者也。唐长庆二年冬作。太和三年春成。律德沙门清晃矢厥谋。清海继厥志。门弟子南容成之。道则终之。寺僧契元舍艺而书之。郡守居易施辞而赞之。赞曰。佛灭度后。世界空虚。惟是经典。与众生俱。设复有人。书贝叶上。藏檀龛中。非坚非久。如蜡印空。假使有人。刺血为墨。剥肤为纸。即人知灭。如笔画水。噫画水不若文石。印腊不若字金。其功不朽。其义甚深。故吾谓石经功德。契如来付嘱之心。

  (七) 是岁丹霞天然禅师将终。命左右具浴。浴毕乃顶笠策杖受履垂一足。未及地而化。春秋八十有六。师本儒生。行应举。偶一禅者。问仁今何往。曰选官去。禅者曰。选官何如选佛。曰选佛当何所诣。禅者曰。江西马祖出世。即选佛之场也。师遂见马祖。以手㧌幞头额。祖顾视良久曰。南岳石头是汝之师。师抵南岳。亦以前意投之。石头曰。着槽厂去。乃礼谢入行者堂执务。后因普请铲草次。师独沐头跪于石头之前。石头欣然与之落发。寻为说戒。即掩耳而去。便返江西再见马祖。未参礼便入僧堂。骑圣僧颈而坐。众惊异以白马祖。祖入堂见之曰。我子天然。师即下地礼拜曰。谢师赐与法名。久之遍历诸方。后于天津桥横卧。留守郑公出呵之不起。吏问故。曰无事僧。郑奇之。日给米面。洛下翕然敬向。居邓州丹霞。至数百众。尝示众曰。阿尔浑家切须保护一灵之物。此不是尔造作名邈得。更说什么荐不荐。吾往日见石头和上。亦只教保护此事。不是尔谭话得。阿尔浑家各有一坐具地。更疑什么禅。可是尔解得底物。岂有佛可成。佛之一字永不喜闻。阿尔自看。善巧方便慈悲喜舍。不从外得。不着方寸。善巧是文殊。方便是普贤。尔更拟趁逐什么物。不用经不落空去。今时学者纷纷扰扰。皆是参禅问道。吾此间无道可修。无法可证。一饮一啄各自有分。不用疑虑。在在处处有恁么底。若识得释迦即是凡夫。阿尔须自看取。一盲引众盲。相将入火坑。夜暗里双陆赛彩若为生。无事珍重。师尝着玩珠吟二篇。其一曰。识得衣中宝无明醉自醒。百骸俱溃散。一物镇长灵。智境浑非体。神珠不定形。悟则三身佛。迷疑万卷经。在心心可测。历耳耳难听。罔象先天地。玄泉出杳冥。本刚非锻炼。元净莫澄渟。槃礴轮朝日。玲珑映晓星。瑞光流不灭。真气触还生。鉴照崆峒寂。罗笼法界明。剉凡功不减。超圣果非盈。龙女心亲献。阇王口自呈。护鹅人却活。黄雀意犹轻。解语非关舌。能言不是声。绝边弥汗漫。无际等空平。演教非为说。闻名忽认名。两边俱莫立。中道不须行。见月休观指。还家罢问程。识心心即佛。何佛更堪成。

  (八) 时有凌行婆者。尝谒浮杯和上。与吃茶次。婆问。尽力道不得底句。还分付阿谁。曰浮杯无剩语。婆云。我不恁么道。曰尔作么生道。婆敛手哭曰。苍天中更冤苦。杯无语。婆云。语不知偏正为人即祸生。后有僧举似南泉。泉云。苦哉浮杯。却被老婆摧折。婆闻南泉语乃笑曰。王老师犹少机关在。有澄一禅者。见婆问。怎生是南泉犹少机关在。婆乃哭曰。可悲可痛。一罔措。婆云。会么。一合掌而立。婆云。伎死禅和如麻似粟。后澄一举似赵州。州云。我若见这臭老婆问教口哑在。一云。未审和上怎生问他。州以棒打云。似这伎死禅和。不打更待何时。连打数棒。婆闻赵州恁么道乃曰。赵州自合吃婆手里棒在。后有僧举似赵州。州哭云。可悲可痛。婆闻赵州此语乃合掌曰。赵州眼放光明照破四天下。后赵州令僧去问。怎生是赵州眼。婆乃竖起拳头。赵州闻之。乃以一偈寄云。当机直面提。直面当机疾。报尔凌行婆。哭声何得失。婆亦以一偈答曰。哭声师已晓。已晓复谁知。当时摩竭国。机丧目前机。

  (九 辛亥) 文宗喜食蛤蜊。一日御馔中有蛤蜊劈不张者。忽变菩萨像。帝惊异。有旨送兴善寺令众僧瞻礼。因问侍臣。此何祥也。或对。太一山有惟政禅师。深明佛法。诏问之。帝召政而问焉。对曰。物无虚应。此殆启陛下信心耳。经云。应以菩萨形得度者。即现菩萨形而为说法。帝曰。菩萨形今见矣。未闻其说法何也。对曰。陛下见此以为常耶。非常耶。信耶。弗信耶。帝曰。非常之瑞。朕焉不信。政曰。陛下闻其说法矣。何谓未闻。帝大悦。诏天下寺并立观音像奉祀焉。

  (癸丑) 十月帝诞节召法师知玄与道士于麟德殿论道。

  (十 乙卯) 四月丁巳。宰相李训上疏。请罢内道场沙汰僧尼滥伪者。制可。是日诏下。方毁大内灵像。俄暴风聿起。含元殿鸱吻俱落。发三金吾仗舍。内外城门楼观俱坏。光化门墙亦崩。士民震恐。帝以训所请忤天意。亟诏停前沙汰。诏复立大内圣像。风遂顿息。见旧史五行志。是岁冬十一月。宰相李训郑注谋诛宦官。不克事败。训注皆死之。

  (十一) 是岁南泉普愿禅师(郑州新郑人也姓王氏)将示寂。第一座问曰。和尚百年后。向什么处去。师云。山下作一头水牯牛去。座云某甲随和上去。还得不。师云。汝若随吾则须衔一茎草来。乃集门人告之曰。星翳灯幻其来久矣。勿谓吾有去来也。言讫而逝。师得法于马祖。后归池阳。自架禅室以居。凡三十年不下南泉。会宣城观察使陆公亘请下山伸弟子之礼。由是学徒云集。陆尝问。弟子从六合来。彼中还更有身否。泉云。分明记取举似作家。陆云。和上大不思议。到处世界现成。泉云。适来总是大夫分上事。陆他日又云。弟子薄会佛法。泉云。十二时中作么生。陆云。寸丝不挂。泉云。犹是阶下汉。泉又云。不见道。有道君王不纳有智之臣。一日见人双陆。大夫拈起骰子云。恁么不恁么。只恁么信彩去时如何。泉拈起骰子云。臭骨头十八。尝示众曰。道个如如早是变了也。今时师僧直须向异类中行。又曰。我于一切处而无所行。他拘我不得。唤作遍行三昧普现色身。又曰。如今不可不奉戒。我不是渠。渠不是我。作得伊如狸奴白牯行履却快活。尔若一念异即难为修行。才一念异便有胜劣二根。亦是情见。随他因果更有什么自由分。又曰。老僧十八上解作活计。有人解作活计者么出来。共尔商量。须是住山人始得。珍重无事各自修行。大众不去。师复云。如圣果也大可畏。没量大人尚不柰何。我且不是渠。渠且不是我。他经论家。说法身为极则。唤作理尽三昧。似老僧向前被人教返本还源去。几恁么会祸事。兄弟近日禅师太多。觅人痴钝人不可得。不道全无。于中还少。若有出来共尔商量。如空劫时还有修行人否。有无作么不道。阿尔寻常巧唇薄舌。及乎问着总皆不道。何不出来。莫论佛出世事。兄弟今时人担佛着肩头上行。闻老僧言心不是佛智不是道。便聚头拟推老僧。无尔推处。尔若束得虚空作棒。打得老僧着。一任汝推。师与赵州门风。天下惟仰以为绝唱。

  大和九年九月十一日。潭州道吾山圆智禅师告寂。豫章海昏人也。姓张氏。幼依槃和尚受教登戒。预药山法会密契心印。一日药山问。子去何处来。曰游山来。山曰。不离此室速道将来。曰山上鸟儿白似雪。涧底游鱼忙不彻。师与云岩侍立次。药山曰。智不到处切忌道着。道着即头角生。智头陀怎么生。师便出去。云岩问药山曰。智师兄为什么不祗对和上。山曰。我今日背痛。是他却会。汝去问取。云岩即来问师曰。师兄适来为什么不祗对和上。师曰。汝却去问取和上(僧问云居。切忌道者意怎么生。云居云。此语最毒。僧云。如何是最毒底语。云居云。一棒打杀龙蛇)云岩临迁化时。遣人送辞。书到。师展书览之曰。云岩不知有。悔当时不向伊道。然虽如是要且不违药山之子(玄觉云。古人恁么道还有也未。又云。云岩当时不会。且道什么处是伊不会处)。沩山问。师什么处去来。师曰。看病来。曰有几人病。师曰。有病底有不病底。曰不病底莫是智头陀否。师曰。病与不病总不干他事。急道急道。僧问。万里无云未是本来天。如何是本来天。师曰。今日好晒麦。问无神通菩萨为什么足迹难寻。师曰。同道方知。曰和上知否。师曰。不知。曰为什么不知。师曰。汝不识我语。石霜问师。百年后有人问极则事。作么生向他道。师唤沙弥。沙弥应诺。师曰。添却净瓶水着。师良久却问石霜。适来问什么。石霜再举。师便起去。石霜异日又问。和上一片骨。敲着似铜鸣。向什么处去也。师唤侍者。侍者应诺。师曰。驴年去。师云疾有苦。僧众慰问法候。师曰。有受非偿。子知之乎。众皆愀然。将行谓众曰。吾当西迈理无东移。言讫告寂。寿六十有七。阇维得灵骨数片。建塔于石霜山之阳。敕谥修一大师。塔曰实相。

  (十二 丙辰) 改开成○元年。左街僧录内供奉三教谈论引驾大德安国寺上座赐紫大达法师端甫卒。史馆修撰裴休制碑曰。玄秘塔者。大法师端甫灵骨之所归也。於戏为丈夫者。在家则张仁义礼乐。辅天子以扶世导俗。出家则运慈悲定慧。佐如来以阐教利生。舍此无以为丈夫也。背此无以为达道也。和上其出家之雄乎。天水赵氏世为秦人。初母张夫人梦梵僧谓曰。当生贵子。即出囊中舍利使吞之。及诞所梦僧白昼入其室。摩其顶曰。必当大弘教法。言讫而灭。既成人高颡广目大颐方口。长六尺五寸其音如钟。夫将欲荷如来之菩提。凿生灵之耳目。固必有殊相奇表与。殆十岁依崇福寺道悟禅师为沙弥。十七正度为比丘。隶安国寺。具威仪于西明照律师。禀持犯于崇福寺升律师。传涅槃唯识大义于安国寺素法师。复梦梵僧告曰。三藏大教尽贮汝腹矣。自是经律论无敌于天下。囊括川注逢原委会。滔滔然莫能知其畔岸矣。夫将欲伐株杌于情田。雨甘露于法种者。固必有勇智宏辨与。无何谒文殊于清凉。众圣皆现。演大经于太原。倾都毕会。德宗皇帝闻其名徴之。一见大悦。常出入禁中与儒道论议。赐紫方袍。岁时锡施异于他等。复诏侍皇太子于东朝。顺宗皇帝深仰其风。亲之若昆弟。相与卧起。恩礼特隆。宪宗皇帝数幸其寺。待之若宾友。常承顾问。注纳偏厚。而和上符彩超迈词理响捷。迎合上旨皆契真乘。虽造次应对。未尝不以阐扬为务。由是天子益知佛为大圣人。其教有大不可思议事。当是时朝廷方削平区夏。缚吴干蜀潴蔡荡郓。而天子端拱无事。诏和上率缁属迎真骨于灵山。开法场于秘殿。为人请福亲奉香火。既而刑不残兵不黩。赤子无愁声。江海无惊浪。盖参用真乘以毗大政之明效也。夫将欲显大不思议之道。辅大有为之君。固必有冥符玄契与掌内殿法仪。录左街僧事。以标表清众者十一年。讲涅槃唯议经论。位处当仁传授宗乘以开诱道俗。凡一百六十座。运三密于瑜伽。契无生于悉地。日持诸部十余万遍。指净土为息肩之地。严金经为报法之恩。前后供施数十百万悉以崇饰殿宇穷极雕绘。而方丈匡床静虑自得。贵臣盛族皆所依慕。豪侠工贾莫不瞻向。荐金玉以致诚。仰端严而礼足。日有千数。不可殚书。而和上即众生以观佛。离四相以修善。心下如地坦无丘陵。王公舆台皆以诚接。议者以谓成就常不轻行者。唯和上而已。夫将欲驾横海之大航拯群迷于彼岸者。固必有奇功妙道与。以开成元年六月一日。向西右胁而灭。当暑而尊容若生。竟夕而异香弥郁。其年七月六日迁于长乐之南原。遗命荼毗。得舍利三百余粒。方炽而神光月皎。既烬而灵骨珠圆。赐谥大达。塔曰玄秘。俗寿六十七。僧腊四十八。弟子比丘比丘尼约千余辈。或讲论玄言。或纪纲大寺。修禅秉律分作人师五十。其徒皆为达者。於戏和上果出家之雄乎。不然何至德殊祥如此其盛也。承袭弟子自约义正正言等。克荷先业虔守遗风。大惧徽猷有时堙没。而合门刘公法缘最深。道契弥固。亦以为请。愿播清尘。休尝游其藩备其事。随喜赞叹盖无愧辞。铭曰。贤劫千佛。第四能仁。哀我生灵。出经破尘。教网高张。孰分。有大法师。如从亲闻。经律论藏。戒定慧学。深浅同源。先后相觉。异宗偏义。孰正孰驳。有大法师。为作霜雹。趣真则滞。涉伪则流。象狂猿轻。钩槛莫收。柅制刀断。尚生疮疣。有大法师。绝念而游。巨唐启运。大雄垂教。千载冥符。三乘迭耀。宠重恩顾。显阐赞导。有大法师。逢时感召。空门正辟。法宇方开。峥嵘栋宇。一旦而摧。水月镜像。无心去来。徒令后学。瞻仰徘徊。

  (十三 丁巳) ○(慧星现长八丈)。

  (戊午) 开成三年三月六日。僧统清凉国师澄观将示寂。谓其徒海岸等曰。吾闻偶运无功先圣悼叹。复质无行古人耻之。无昭穆动静。无论绪往复。勿穿凿异端。勿顺非辨伪。勿迷陷邪心。勿固牢斗诤。大明不能破长夜之昏。慈母不能保身后之子。当取信于佛。无取信于人。真离玄微。非言说所显。要以深心体解朗然现前。对境无心逢缘不动。则不孤我矣。言讫而逝。师生历九朝为七帝门师。春秋一百有二。僧腊八十有三。身长九尺四寸。垂手过膝。目夜发光昼视不瞬。才供二笔声韵如钟。文宗以祖圣崇仰。特辍朝三日。重民缟素奉全身塔于终南山。未几有梵僧到阙。表称于葱岭见二使者凌空而过。以咒止而问之。答曰。此印度文殊堂神也。东取华严菩萨大牙归国供养。有旨启塔。果失一牙唯三十九存焉遂阇维。舍利光明莹润。舌如红莲色。赐谥仍号清凉国师妙觉之塔。相国裴休奉敕撰碑。其铭曰。宝月清凉。寂照法界。以沙门相。藏世间解。澄湛含虚。气清钟鼎。雪沃剡溪。霞横维岭。真室寥夐。灵岳崔嵬。虚融天地。峻拔风雷。离微休命。实际厖鸿。奉若时政。革彼幽蒙。炯乎禹质。元圣孕灵。德云冉冉。凝眸幻形。谷响入耳。性不可为。青莲出水。深不可窥。才受尸罗。奉持止作。原始要终。克谐适莫。凤藻瑰奇。遗演秘密。染翰风生。供盈二笔。欲造玄关。咽金一像。逮竟将流。龙飞迁飏。疏新五顶。光衔二京。跃出法界。功齐百城。万行分披。华开古锦。启迪群甿。与甘露饮。燮赞金偈。怀生保乂。圣主师资。聿兴遐裔。贝叶翻宣。译场独步。谭柄一挥。几回天顾。王庭阐法。倾河涌泉。属辞纵辨。玄玄玄玄。紫衲命衣。清凉国号。不有我师。孰知吾道。九州传命。然无尽灯。一人拜锡。统天下僧。帝网冲融。潜通万户。历天不周。同时显唔。卷舒自在。来往无踪。大士知见。允执厥中。西域供牙。梵伦遽至。奏启石验。嘉风益炽。敕俾图真。相即无相。海印大龙。蟠居方丈。哲人去矣。资何所参。即事之理。塔锁终南。

  敕写国师真。奉安大兴唐寺。文宗皇帝御制赞曰。朕观法界。旷阒无垠。应缘成事。允用虚根。清凉国师。体象启门。奄有法界。我祖聿尊。教融海岳。恩廓乾坤。首相二疏。拔擢幽昏。间气斯来。拱承佛日。四海光凝。九州庆溢。敞金仙门。夺古贤席。大手名曹。横经请益。仍师臣休。保余遐历。爰抒颛毫。式扬茂实。真空罔尽。机就而驾。白月虚秋。清风适夏。妙有不迁。缘息而化。邈尔禹仪。焕乎精舍。

  (十四 己未) 制象棋(昔神农以日月星辰为象。唐相国牛僧孺用车马将士卒加炮代之为机矣)。

  是年正月六日。圭峰宗密禅师示寂。相国裴休撰传法碑。师姓何氏。果州西兖人。释迦如来三十九代法孙也。释迦住世八十年。为无量天人声闻菩萨说种种法。最后以法眼付大迦叶。令祖祖相传别行于世。顾此法众生之本源。诸佛之所证。超一切理离一切相。不可以言语智识有无隐显推求而得。但心心相印。印印相契。使自证知光明受用而已。自迦叶至达磨。达磨东来至曹溪。凡三十三世。曹溪传荷泽。荷泽传磁州如。如传荆南张。张传遂州圆。圆传禅师。师于荷泽为五世。于迦叶为三十八世。其宗系如此。师豪家。少通儒学。一日偈遂州。未及与语。退游途中。见其俨然在定。忻跃慕之。遂剃染受道。尝赴斋次。受经得圆觉十二章。诵未终忽然大悟。归以告其师。师印可。乃谒东京照。照曰。菩萨人也。谁其识之。次谒清凉观。观曰。毗卢华藏。能从我游者其汝乎。及因汉上僧授华严新疏。遂讲华严。久之着圆觉华严涅槃金刚唯识起信法界观等经疏钞。及礼忏修证图传纂略文集诸宗禅语为禅藏。并书偈论议凡九十余卷。或以师不守禅行而广讲经论游名邑大都以兴建为务。乃为多闻之所役。岂声利之所未忘乎。曰嘻夫一心者万法之总也。分而为戒定慧。开而为六度。散而为万行。万行未尝非一心。一心未尝违万行。禅者六度之一耳。何能总诸法哉。且如来以法眼付迦叶。不以法行故自心而证者为法。随行而起者为役。得未必尝同也。然则一心者万法之所生而不属于万法。得之者则于法自在矣。见之者则于教无碍矣。本非法。不可以法说。本非教。不可以教传。岂可以轨迹而寻哉。自迦叶至富那夜奢。凡十祖皆罗汉。所度亦罗汉。至马鸣龙树提婆天亲。始开摩诃行著论释经。摧灭外道为菩萨唱首。而尊者阇夜独以戒力为威神。尊者摩罗独以苦行为道迹。其他诸祖或广行法教。或专心禅定。或蝉蜕而去。或化火而灭。或攀树以示终。或受害而偿债。是乃法必同而行不必同也。且循辙迹者非善行。守规墨者非善巧。不迅疾无以为大牛。不超过无以为大士。故禅师之为道也。以知见为妙门。以寂静为正味。慈忍为甲胄。慧断为剑矛。破内魔之高垒。陷外贼之坚阵。镇抚邪杂解释缧笼。遇穷子则叱而使归其家。见贫女则呵而使照其室。穷子不归。贫女不富。吾师耻之。三乘不兴。四分不振。吾师耻之。忠孝不并化。荷担不胜任。吾师耻之。故皇皇于济拔。汲汲于开诱。不以一行自高。不以一德自耸。人有归依者。不俟请而往也。有求益者。不俟愤则启矣。虽童幼不简于应接。虽傲很不怠于扣励。其以阐教度生。助国家之化也如此。故亲师之法者。贪则施暴则敛。刚则随戾则顺。昏则开惰则奋。自荣者谦自坚者化。循私者公溺情者义。故士俗有变活业绝血食。持或法而为近住者。有出而修政理以救疾苦为道者。有退而奉父母以丰供养为行者。其余憧憧而来。欣欣而去。扬袂而至。实腹而归。所在不可胜纪。真如来付嘱之菩萨。众生不请之良友。其四依之一乎。其十地之人乎。吾不识其境界庭宇之广狭。议者又焉知大道之所趣哉。阅世六十二。僧腊三十四。宣宗追谥定慧禅师。门弟子僧尼四众凡数千人。

  (十五 庚申) ○(正月上疾。命太子监国。上崩。仇士良立颖王为太弟即位。李德裕相)。◎

  ◎(辛酉) 武帝炎改会昌(穆宗第五子。母韦太后。仇士良临死谓同类曰。天子奢泆不道。勿令读书亲儒者。后服丹药。其性躁急喜怒不常。年三十四而崩。在位六年)帝自幼稚不喜释氏。是年正月即位。七月桂州马生三足驹。至秋九月召道士赵归真等八十一人入禁中。于三殿修金箓道场。冬十月帝幸三殿。升九仙玄坛亲受法箓。左拾遗王哲谏云。王业之初。不宜崇信太过。帝不纳。

  (十六) 是年十月潭州云岩晟禅师卒钟陵建昌人。姓王氏。少出家于石门。初参百丈未悟玄旨。侍左右二十年。丈化。乃谒药山。服勤已久。山问。师作什么。曰担屎。山曰那个[(口*斩)/耳]。曰在。山曰。汝来去为谁。曰替他东西。山曰。何不教并行。曰和上莫谤他。山曰。不合与么道。曰如何道。山曰。还曾担么。师于言下契会。一日药山问。闻汝解弄师子是否。曰是。山曰。弄得几出。曰弄得六出。山曰。我亦弄得。曰和上弄得几出。山曰。我弄得一出。师曰。一即六。六即一。后到沩山。沩问曰。承长老在药山弄师子是否。曰是。沩曰。长弄耶。还有置时。曰要弄即弄。要置即置。沩曰。置时师子在什么处。师曰。置也置也。道吾问。大悲千手眼如何。曰如无灯时把得枕子。怎么生道。吾曰。我会也我会也。师曰。怎么生会。吾曰。通身是手眼。洞山问。就师乞眼睛。师曰。汝底与阿谁去也。曰良价无师。曰有汝向什么处着。洞山无语。曰乞眼睛底是眼否。价曰。非眼。师咄之。师于是月二十六日沐身竟。唤主事僧令备斋。来日有上座发去。至二十七日。并无人去。及夜师归寂。寿六十。荼毗得舍利千余粒。塔曰净胜。敕谥无住大师夏六月。以衡山道士刘玄静为光禄大夫。充崇玄馆学士。令与赵归真居禁中修法箓。左辅阙刘玄谟上疏切谏。贬玄谟为河南户曹。

  (十七) 三年正月。制曰。斋月断屠出于释典。国家创业犹近梁隋。卿相大臣或缘兹弊。自今惟正月万物生植之初。宜断屠三日。列圣忌各断一日。余不须禁。三月以道士赵归真为左右街道门教授先生。时帝锐意求仙。师事归真。归真乘宠。每对必排毁释氏。非中国之教。蠹害生灵。宜尽除去。帝深然之。归真复请与释氏辨论。有旨追僧道于麟德殿谈论。法师知玄登论座。辨捷精壮。道流不能屈。玄因奏。王者本礼乐一宪度则天下治。吐纳服食盖山林匹夫独擅之事。愿陛下不足留神。帝色不平。侍臣讽玄赋诗以自释。玄立进五篇。有鹤背倾危龙背滑君王且住一千年之句。帝知其刺。特放还桑梓。

  论曰。昔周武废教。沙门犯颜抗争。殆数十人。虽不能格武之惑。然足见吾法中之有人也。及唐高祖议沙汰。而惠乘玄琬智实法林等皇皇论争。引义慷慨。亦不失法王真子之识。凡自大历而后。祖道既兴。吾门雄杰多趍禅林。至是武宗议废教。而主法者才知玄一人而已。虽武宗盛意不可解。佛运数否莫可逃。凡释子者处变故之际。无一辞可纪。佛法尊博如天。亦吾徒失学之罪也。

  (十八 甲子) 正月作望仙楼于禁中。时集道士于其上。咨质仙事。时赵归真特被殊宠。谏官数上疏论之。帝谓宰相曰。谏官论赵归真。此意要卿等知。朕宫中无事。屏去声色要此人道话耳。李德裕对曰。臣不敢言前代得失。第归真曾在敬宗朝出入掖庭。以此群情不愿陛下复亲近之。帝曰。朕于彼时已识此人。但不知其名。呼为赵练师。在敬宗时亦无甚恶。朕与之言涤烦耳。至于军国政事。唯与卿等论之。岂问道士。繇是宰相不复谏。而归真遂以涉物论。遂举罗浮山道士邓元超有长生术。帝遣中使迎之及。元超至与刘玄靖及归真等。胶固排毁释氏。于是拆寺之请行焉。

  四月敕祠部。检括天下僧尼寺。凡四万四千六百所。僧尼凡二十六万五千余人。

  (十九) 五月庚子。敕并省天下佛寺。中书门下关奏。据令式诸上州国忌官吏行香于寺。其上州各留一寺。凡有列圣尊容。并令移于寺内。其下州寺并废。两京左右街请留十寺。寺僧十人。敕曰。上州合留寺工作精巧者各一所。如破落悉宜除毁。其行香日。官吏宜赴道观。上都东都各留四寺。寺僧三十人。中书门下又奏曰。天下废寺钟磬铜像委盐铁使铸钱。其铁像委本州。铸为农具。金银鍮石等像销付度支。衣冠士庶之家所有金银等像。敕出后限一月纳官。

  八月制曰。朕闻三代以前未有言佛。汉魏之后像教寖兴。由是季时传此异俗。因缘染习蔓衍滋多。以至于蠹耗国家而渐不觉。以至于诱惑人情而众益迷。泊于九有山原两京城阙。僧徒日广佛寺日崇。劳人力于土木之功。夺人利于金宝之饰。移君亲于师资之际。违配偶于戒律之间。坏法害人无逾此道。且一夫不田有受其饥者。今天下僧尼不可胜数。皆待农而食待蚕而衣。寺宇招提莫知纪极。皆云架藻饰僭拟宫居。晋宋齐梁物力凋弊风俗浇诈。莫不由是而致也。况我高祖太宗以武定祸乱以文理天下。执此两端而以经邦。岂以西方区区之教与我抗衡哉。贞观开元亦尝厘革刬除未尽。流衍转滋。朕博览前言旁求心舆议。弊之可革断在不疑。而中外诚臣协予正意。条流至当宜在必行。惩千古之蠹源。成百王之典法。即人利众予何让焉。其天下所拆寺还俗僧尼收充税户。於戏前古未行似将有待。及今尽去岂谓无时。驱游惰不业之徒几五十万。废丹雘无用之室凡六万区。自此清净训人。慕无为之理。简易齐政。成一俗之功。将使六合黔黎同归皇化。尚以革弊之始日用不知。下制明廷宜体予意。

  (二十 乙丑) 三月帝不豫。自徴方士服金丹受法箓。至是发背躁闷失常。遂至大渐。旬日不能言而崩。年三十三。旧史赞曰。昭肃削浮图之法。惩游惰之民。志欲矫步丹梯求珠赤水。徒见萧衍姚兴之曲学。不悟始皇汉武之妄求。盖受惑左道之言。故偏斥异方之教。况身毒西来之法向欲千年。蚩蚩之民习以成俗。畏其教甚于国法。乐其徒不异登仙。如文身断发之乡。似吐火吞舟之戏。讵可正以咸韶而律以章甫。加以笮融何充之佞。代不乏人。虽荀卿孟子之贤。未容抗论。一朝堕残金像燔弃胡书。结怨于膜拜之流。犯怒于匹夫之口。哲王之举不骇物情。前代存而勿论。实为中道。欲革斯弊将俟河清。昭肃颇称明断。然听斯蔽矣(已上并见旧史)。

  论曰。旧史武宗纪。着除罢释氏始末甚详。当时黄冠乘宠倾害吾教。然亦大臣李德裕辅成其事也。新史曰。武宗毅然除去浮屠之法甚锐。而躬受道家法箓。服药以求长年。以此知其非明智之不惑者。特好恶不同耳。噫嘻。武宗非明智不惑。岂特于释老好恶不同哉。其偏信李德裕专权用事。朋党相倾。虽仅有伐叛之劳。未见成功而朝野积怨已甚。使更久权。则与李林甫又何异乎○(古曰。上流之罪天执其罚。下民之罪天似其罚。异矣哉。报应传曰。正月十五日有人夜行至穆宗陵下。忽闻人语。谓是盗焉。遂泊衰丛之内。俄而空有朱衣。执版宣曰。塳尉何在。有二吏出应曰。在矣。朱衣曰。录海西居使者至也未。吏曰。计程十八日方至。朱衣曰。何稽。吏曰。李炎坐毁圣教减算一纪。当与海西君同录其魂而至矣。时有贾客自东来。俱寻不见。是年武宗果卒。并录之)。

  (廿一 丙寅) ○(三月上崩。子幼。皇太叔即位。四月出李德裕荆南节度使)。

  (丁卯) 宣宗忱(宪宗第十三子。始封光王。让位与侄文宗武宗后武宗不道捶亡沈于宫厕。宦者仇公武潜收救之。俾髡发为僧。后复受江陵少尹。武宗疾大渐。立光王为皇太叔即位于柩前。帝以流落民间。备知稼穑勤于庶政。视前昏暴。广兴佛寺。后年五十崩咸宁殿。葬贞陵。在位十三年)改元大中。

  (廿二) 三月诏曰。会昌季年并省寺宇。虽云异方之教。有资为理之源。中国之人久行其道。厘革过当事体乖谬。其灵山圣境应会昌五年所废寺宇诸宿旧僧。可仍旧修葺住持。

  (廿三) 是年尚书白居易卒。年七十有五。赠尚书左仆射。上以诗吊之。居易被遇宪宗。时事无不言。湔剔抉摩多见听可。然为当路所忌。遂摈斥所蕴不得施。乃放意文酒。能顺适所遇。托释氏死生之说。若忘形骸者。后复进用。又皆幼君偃蹇益不合。居官辄病去。遂无立功名意。与弟行简及从祖弟敏中友爱。东都所居履道里疏沼种树架石楼。香山凿八节滩。号醉吟先生。自为之传。晚节好佛尤甚。至经月不食荤。称香山居士。与胡杲等九人宴集。皆高年不仕者。人慕之绘为九老图。居易于文章精切。然最工于诗。当时士人争传诵之。其始生方七月能展书。姆指之无两字虽式之百数不差。九岁谙识音律。其笃于才章盖天禀然。既卒以其所居第施为佛寺。宣宗思其贤不已。因擢其弟敏中为相。居易尝(足疾)。肖弥陀佛像而祷之。自为之记曰。我本师释迦如来说言。从是西方过十万亿佛土有世界号极乐。以无八苦四恶道故也。其国号净土。以无三毒五浊业故也。其佛号阿弥陀。以寿无量愿无量功德相好光明无量故也。谛观此娑婆世界众生。无贤愚无贵贱无幼艾。有起心归佛者。举手合掌必向西方。有怖厄苦恼。开口发声。必先念阿弥陀。又范金合土刻石绣纹。乃至印水聚沙童子戏者。莫不率以阿弥陀佛为上首。不知其然而然。由是而观。是彼如来有大誓愿于此众生。众生有大因缘于彼国土明矣。不然南北东西过去现在未来佛多矣。何独如是哉。何独如是哉。唐中大夫太子少傅白居易。当衰莫之岁。中风痹之疾。乃舍俸钱三十万。命工人杜敬宗按阿弥陀无量寿二经。画西方世界一部。高九尺广丈有三尺。阿弥陀尊佛坐中央。观音势至二大士侍左右。人天瞻仰眷属围绕。楼台伎乐水树花鸟。七宝严饰五彩张施。烂烂煌煌功德成就。弟子居易焚香稽首跪于佛前。起慈悲心发弘誓愿。愿此功德回施一切众生。一切众生。有如我老者。如我病者。愿离苦得乐断恶修善。不越南部便睹西方。白毫大光应念来感。青莲上品随愿往生。从现在身尽未来际。常得亲近而供养也。欲重宣此义。而说赞曰。极乐世界清净土。无诸恶道及众苦。愿如我身老病者。同生无量寿佛所。

  (廿四 戊辰) 九月诏曰。潮州司马李德?。早籍门第幼践清华。累居将相之荣。唯以奸倾为业。当会昌之际极公台之崇。骋谀佞以得君。遂恣横而持政。专权生事妒贤害忠。动多诡异之谋。潜怀僭越之志。秉直者必弃。向善者尽排。诬忠良造朋党之名。肆奸伪生加诸之衅。计有逾于指鹿。罪实见于欺天。属者方处钧衡曾无嫌避。委国史于爱婿之手。宠秘文于弱子之身。洎参信书亦见亲昵。恭推元和实录。乃不刊之书。擅敢改张罔有畏忌。夺他人之懿绩。为私门之令猷。附李荣之曲情。成吴缃之怨狱。擢尔之发数罪未穷。载窥罔上之由。益见无君之意。朕务全本体久为含容。虽黜降其官荣。尚盖藏其丑状。而睥睨未已。兢惕无闻。积恶既张公议难抑。可崖州司户。未几德裕惭忿而卒。乃见梦哀诉于宰相令狐绹。乞归葬其尸。识者谓之强魂虽死亦不哀云。

  论曰。唐李习之曰。史官纪事不得实。乃取行状谥牒。凡为状者。皆门生故吏。苟言虚美。尤不足信。予观李德?故吏郑亚所为会昌一品制集序。铺张德?勋业。与新史本传无异。而旧史武宗纪。则着德?之恶。与诏词皆合。然则新史取信故吏之说。宁不误后来者乎。

  (廿五) 湖南观察使裴休。躬谒华林善觉禅师。休问。师还有侍者否。觉云。有一两个。休云。在什么处。觉乃唤大空小空。时二虎自庵后而出。休睹之大惊。觉语虎曰。且去有客在。二虎哮吼而去。休问。师作何行业感得如斯。觉良久云。会么。休云。不会。觉云。山僧常念观音。休叹异而去。觉隐居常持锡夜出林麓间。七步一振锡一称观音名号。尝有僧来参。方展坐具。觉曰。且缓缓。僧曰。和尚见个什么。觉云。可惜许磕破钟楼。其僧有省。

  (己巳) ○(正月五色云中现佛真身○复河湟瓜沙伊肃等十一州之地于是开元基宇悉如故)。

  (廿六) 黄檗希运禅师示寂。师福唐人。姿貌丰硕。游方晚趍江西参马祖。值祖归寂。乃见百丈问马祖平日机缘。丈举再参马祖挂拂话。师于言下大。悟曰子他日嗣马祖去。师曰。不然今日因师举得见马祖大机之用。若嗣马祖丧我儿孙。丈曰。如是如是。见与师齐减师半德。见过于师乃堪传受。师自是混迹于众后于豫章遇观察使裴休。道缘契合遂出世说法。尝示众曰。汝等诸人欲何所求。遂以捧趁去。而众不散。因谓之曰。汝曹尽是噇酒糟汉。恁么行脚取笑于人。但见八百一千便去。不可只图热闹也。老汉行脚时。或遇草根下有一个汉。便从顶上一锥看他。若知痛痒。可以布袋盛米供养他。可中总似你如此容易。何处更有今日事。汝等既称行脚。亦须着些精神还知道大唐国里无禅师。时有僧出云。只如诸方尊宿聚徒阐化。又作么生。师曰。不道无禅。只是无师。岂不见马大师座下出八十四人坐大道场。得大师正眼者。止三两人而已。归宗和上是其一也。出家人须知有从上来事分。且如四祖下牛头融大师。横说竖说犹不知向上关捩子。有此限脑方辨得邪正宗党。且当人事宜不能体会得。但知学语言念向肚皮里安着。到处称我会禅。还替得汝生死么。轻忽老宿入地狱如箭。我才见入门来。便识得你了也。还知么急须努力莫容易事。持片衣口食空过一生。明眼人笑汝。久后总被俗人算将去在。宜自看远近。是阿谁分上事。若会即便会。不会即散去。大中三年终于黄檗敕谥断际禅师。塔曰广业。

  (廿七 庚午) 诏京兆荐福寺弘辨禅师入内。帝问曰。禅宗何有南北之名。对曰。禅门本无南北。昔如来以正法眼付大迦叶。展转相传至三十一世。此土弘忍大师有二弟子。一名惠能。受衣法居岭南。一名神秀。在北扬化。得法虽一时。开导发悟有顿渐之异。故曰南顿北渐。非禅宗本有南北之号也。帝曰。何名戒定慧。对曰。防非止恶名戒。六根涉境心不随缘名定。心境俱空照鉴无惑为慧。帝曰。何名方便。对曰。方便者隐实覆相权巧之门也。被接中下曲施诱迪。谓之方便。设为上根言舍方便但说无上道者。斯亦方便之谈。以至祖师玄言忘功绝谓。亦无出方便之迹。帝曰。何为佛心。对曰。佛者觉也。谓人有智慧觉照为佛心。心者佛之别名。则有百千异号。体唯其一。本无形状。非青黄赤白男女等相。在天非天。在人非人。而现天现人。能男能女。非始非终无生无灭。故号灵觉之性。如陛下日应万机。即是陛下佛心。假使千佛共传。应无别有所得也。帝曰。如今有人念佛如何。对曰。如来出世为天人师。随根器而说。为上根者。开最上乘顿悟至理。中下根者。未能顿晓。是以佛为韦提希开十六观门。令念佛生于极乐。故经云。是心是佛。是心作佛。心外无佛。佛外无心。帝曰。复有人持经持咒求佛如何。对曰。如来种种说法。皆为最上一乘。如百千众流莫不朝宗于海。如是差别诸缘皆归萨婆若海。帝曰。祖师既传心印。金刚经云。无所得法如何。对曰。佛之一化实无一法与人。但示众生各各自性同一法藏。当时然灯如来但印释迦本法。而无所得方契然灯本意。故经云。无我无人无众生无寿者。是法平等修一切善不著于相。帝曰。禅师既会祖意。还礼佛看经否。对曰沙门礼佛看经。盖是住持常法。有四报焉。依佛戒修身。参寻知识渐修梵行。履践如来所行之迹。帝曰。何为顿见。何为渐修。对曰。顿明自性与佛无二。然有无始染习。故假渐修对治令顺性起用。如人吃饭非一口便饱。是日辨对七刻方罢。帝悦赐号圆智禅师。

  (廿八 辛未) 江州刺史崔黯。复庐山东林寺。黯自为之碑。其略曰。佛之心以空化执智化也。以福利化欲仁化也。以缘业化妄术化也。以地狱化愚劫化也。故中下之人。闻其说利而畏之。所谓救溺以手救火以水。其于生人恩亦弘矣。然用其法不用其心。以至于甚则失其道蠹于物。失其道者迷其徒。蠹于物者覆其宗。皆非佛之以手以水之意也。为国家者。取其有益于人。去其蠹物之病则通矣。唐有天下一十四帝。视其甚理而汰之。而执事之人。不以归牛返本。以结人心。其道甚桀几为一致。今天子取其益生人稍复其教。通而流之以济中下。于是江州奉例诏。予时为刺史。前访兹地。松门千树岚光熏天。蜩嘒湍鸣松籁冷然可别爱而不剪。利以时往。至是即善而复之。又曰。尝观晋史。见远公之事。及得其书。其辨若注。其言若锋。足以见其当时取今之所谓远公者也。吾闻岭南之山峻而不山。岭北之山山而不秀。而庐山为山。山与秀两有之。五老窥湖悬泉坠天。粳香药灵鸟闲兽善。烟岚之中恍有绛节白鹤。使人观之而不能回眸也。且金陵六代。代促俗薄。臣以功危。主以疑惨。浔阳为四方之中。有江山之美。远公岂非得计于此而视于时风耶。然鸷者搏膻。袭者居素。前入不暇。自叹者多。则远师固为贤矣。是山也以远师更清。远师也以是山更名。畅佛之法如以曹溪以天台为号者。不可一二。故寺以山。山以远。三相挟而为天下具美矣。

  (廿九 癸酉) 沩山灵祐禅师示寂。师尝示众曰。夫道人之心。质直无伪。无背无面无诈妄心。行一切时视听寻常。更无委曲亦不闭眼塞耳。但不附物即得。从上诸圣只是说浊边过患。若无如许多恶觉情见想习之事。譬如秋水澄渟清净无为澹泞无碍。唤作道人。亦名无事人。时有僧问。顿悟之人还更有修不。师云。若真悟得本他自知时。修与不修是两头语。如今初心虽从缘得一念顿悟自理。犹有无始旷劫习气。未能顿净。须教渠净除现业流识。即是修也。不道别有法教渠修行趣向。从闻入理闻理深妙。心自圆明不居惑地。虽有百千妙义抑扬当时。此乃得坐披衣自解作活计。时相国郑愚为之碑曰。天下之言道术者多矣。各用所宗为是。而五常教化人事之外。于精神性命之际。史氏以为道家之言。故老严之类是也。其书具存。然至于荡情累外生死。出于有无之间。超然独得。言象不可以拟议。胜妙不可以意况。则浮屠氏之言禅者。庶几乎尽也。有口无所用其辨。巧历无所用其数。愈得者愈失。愈是者愈非。我则我矣。不知我者谁氏。知则知矣。不知知者何以。无其无不能尽。空其空不能了。是者无所不是。得者无所不得。山林不必寂。城郭不必諠。无春夏秋冬四时之行。无得失是非去来之迹。非尽无也。冥于顺也。遇所即而安。故不介于时。当其处无必。故不局于物。其大旨如此。其徒虽千百。得者无一二。近代言之者必有宗。宗必有师。师必有传。然非聪明瑰宏杰达之器。不能得其传。当其传是皆鸿庬伟绝之度也。今长沙郡西北有山。名大沩。蟠木穷谷不知其遍几千百里。为罴豹虎兕之宅。虽夷人射猎虞迹樵夫。不敢田从也。师始僧号灵祐。生福唐。笠首屩足背闽来游。庵于翳荟非食不出。栖栖风雨默坐而已。恬然昼夜物不能害。非夫外死生忘忧患冥顺大和者。熟能于是哉。昔孔门殆庶之士。以单瓢乐陋巷。夫子犹称咏之。以其有生之厚也。且生死于人得丧之大者也。既无得于生。必无得于死。既无得于得。必无得于失。故于其间得失是非所不容措。委化而已。其为道术。天下之能事毕矣。凡涉语是非之端。辨之益惑。无补于学者。今不论也。师既以兹为事。其徒稍稍从之。则与之结构庐室。与之伐去阴黑。以至于千有余人。自为饮食纪纲。而于师言无所是非。其有问者随语而答。不强所不能也。数十年言佛者。天下以为称首。武宗毁寺遂僧。逐空其所。师遽裹首为民。惟恐出蚩蚩之辈。有识者益贵重之。后湖南观察使裴公休。酷好佛事。值宣宗释武宗之禁。固请迎而出之。乘之以已舆。亲为其徒列。又议重削其须发师始不欲。戏其徒曰。尔以须发为佛耶。其徒愈强之。不得已笑而从之。复到其所居。为同庆寺而归。诸徒复来。其事如初。师皆幻视无所为意。忽一日笑报其徒示若有疾。以大中七年正月九日归寂。年八十三。即窆于大沩之南阜。后十有一年。其徒以师之道上闻。始加谥号及坟塔。以厚其终。噫人生万类之最灵者。而以精神为本。自童孺至老白首。始于饮食。渐于功名利养。是非嫉妒昼夜缠缚。又其念虑未尝时饷历息。煎熬形器起如冤仇。行坐则思想。偃卧则魂梦。以耽淫之利欲。役老朽之筋骸。餐饭既耗齿发已弊。犹拔白饵药以从其事。外以夸人内以欺己。曾不知息阴休影捐虑安神。求须臾之暇。以至溘焉而尽。亲友不翅如行路。利养悉委之他人。愧负积于神明。辱殆流于后嗣。淫渝汗漫不能自止。斯皆自心而发。不可不制以道术。道术之妙莫有及此。佛经之说益以神圣。然其归趣悉臻无有。僧事千百不可梗概。各言宗教自相矛盾。故褐衣圆顶未必皆是。若予者洗心于是逾三十载。适师之徒有审虔者。以师之图形。自大沩来。知予学佛求为赞说。观其图状。果前所谓鸿庬绝特之度者也。既与其赞。则又欲碑师之道于精庐之前。予笑而诺之。遂因其说以自警触。故其立言不专以褒大沩之事云。

  ○(诏修天下祖塔未经赐号谥者所在以闻太常考行颁赐)。

  (三十 乙亥) ○(敕法师辨章为三教首座)是年潭州道林沙门疏言。诣太原府访求藏经。高士李节饯以序曰。业儒之人喜排释氏。其论必曰。禹汤文武周公孔子之代。皆无有释。释氏之兴。襄乱之所奉也。宜一扫绝刬革之使不得滋。释氏源于汉。流于晋。弥漫于宋魏齐梁陈隋唐。孝和圣真之间。论者之言粗矣。抑能知其然。未知其所然也。吾请言之。昔有一夫。肤腯而色凝。气烈而神清。未尝谒医。未尝祷鬼。恬然保顺。罔有札瘥之患。固善也。即一夫不幸而有寒暑风湿之痾。背癃而足躄。耳瞆而目瞑。于是功熨之术用焉。禳禬之事纷焉。是二夫岂特相反耶。盖病与不病势异耳。嗟乎三代之前世康矣。三代之季世病矣。三代之前禹汤文武德义播之。周公孔子典教持之。道风虽衰渐渍犹存。诈不胜信恶知避善。于是有击壤之歌。由庚之诗人人而乐也。三代之季道风大衰。力诈以覆信。扇浇而散朴。善以柔退。恶以强用。废井田则豪窭相乘矣。贪封略则攻战亟用矣。务实帑则聚敛之臣升矣。务胜下则掊克之吏贵矣。上所以御其下者欺之。下所以奉其上者苟之。上下相仇激为怨俗。于是有汩罗之客。有负石之夫。人人愁怨也。夫释氏之教以清净恬虚为禅定。以柔谦退让为忍辱。故怨争可得而息也。以菲薄勤苦为修行。以穷达寿夭为因果。故陋贱可得而安也。故其喻云。必烦恼乃见佛性。则本衰代之风激之也。夫衰代之风举无可乐者也。不有释氏以救之。尚安所寄其心乎。论者不责衰代之俗。而尤释氏之兴。则是抱疾之夫。而责其医祷攻疗者也。徒知释因衰代之兴。不知衰代须释氏之救也。何以言之耶。夫俗既病矣。人既愁矣。不有释氏使安其分。勇者将奋而思斗。智者将静而思谋。则阡陌之人将纷纷而群起矣。今释氏一归之分而不责于人。故贤智俊朗之士皆息心焉。其不达此者愚人也。惟上所役焉。故罹衰乱之俗。可得而安赖此也。若之何而剪去之哉。论者不思释氏扶世助化之大益。而疾其雕锼彩绘之小费。吾故曰。能知其然。不知其所以然者也。会昌季年武宗大剪释氏巾其徒。且数万之民隶具其居。容貌于土木者沈诸水。言词于纸素者烈诸火。分命御史。乘驿走天下。察敢隐匿者罪之。由是天下名祠珍宇。毁撤如扫。天子建号之初。雪释氏之不可废也。诏徐复之。而自湖以南。远人畏法。不能酌朝廷之体。前时焚撤书像殆无遗者。故虽明命复许制立。莫能得其书。道林寺湖西之胜游也。有释疏言。警辨有谋。独曰。太原府国家旧都多释祠。我闻其帅司空范阳公天下仁人。我弟往来购释氏遗文。以惠湘川之人。宜其听我而助成之矣。即辞而北游。既上谒军门。范阳公果诺之。因四求散逸不成蕴秩者。至释祠不见毁而副剩者又命讲丐以补缮阙漏者月未几。凡得释经五千四十八卷。以大中十年秋八月。辇自河东而归于湘焉。嘻释氏之助世。既言之矣。向非我君洞鉴理源。其何能复立之耶。既立之。且亡其书。非有疏言远识而诚坚。孰克弘之耶。吾喜疏言奉君之令演释之宗。不惮寒暑之勤。德及远人。为叙其事且赠以诗。诗曰。湘水狺狺兮俗犷且很。利杀业偷兮吏莫之驯。繄释氏兮易暴使仁。释何在兮释在斯文。湘水滔滔兮四望何已。猿狖腾拏兮云树靡靡。月沈浦兮烟冥山。樯席卷兮橹床闲。偃仰兮啸咏。鼓长波兮何时还。湘川超忽兮落日晼晼。松覆秋庭兮兰被春畹。上人去兮几千里。何日同游兮湘川水。

  (卅一 戊寅) 诏罗浮轩辕先生。左拾遗王谱等上疏谏之。诏答曰。朕以躬亲庶务万机事繁。访闻罗浮处士轩辕集善能摄生年龄不老。乃遣使迎之。冀其有少保理也。朕每观前史。见秦皇汉武之事。常以之为戒。卿等职在谏司。阅示来章深纳诚意。复谓宰相曰。为吾谕于谏官。虽少翁栾大复生。亦不能相惑。第闻轩辕生高士。欲与一言耳。未几轩辕集至。帝问曰。先生遐寿而长年可致否。对曰。屏声色去滋味。一哀乐广惠泽。则与天地合体日月齐明。是为长年。不假外求也。帝敬重之。

  (己卯) ○(韦寅于洪州创观音寺。躬请仰山惠寂禅师开山住持。今为官讲)。

  八月帝崩。年五十矣。帝性明睿。用法无私。恭谨节俭惠爱民物。从谏如流。天下称为小太宗。每宰相奏事毕。忽恬然曰。可以间语。因问闾阎细事。或谭宫中游宴一刻许。复正容曰。卿等善为之。常恐卿辈负朕。后日难相见乃起入宫。令狐绹尝谓人曰。吾十年秉政最承恩遇。然每于延英奏事。未尝不汗沾衣也。

  旧唐史赞曰。臣闻黎老言大中故事。献文皇帝器识深远。久历艰难备知人间疾苦。自宝历已来。中人擅权事多假借。京师豪右大扰穷民。洎大中临御。一之日权豪敛迹。二之日奸臣畏法。三之日阍寺詟气。由是刑政不滥贤能效用。百揆四岳穆若清风。十余年间颁声载路。帝宫中衣浣濯之衣。常膳不过数器。非母后侑膳。辄不举乐。岁或小饥忧形于色。虽左右近习。未尝见怠堕之容。与群臣言。俨然煦接如对宾僚。或有所陈闻虚襟听纳。故事人主行幸。黄门先以龙脑郁金籍地。献文悉命去之。宫人有疾医视之。既瘳即抽金赐之。诫曰。勿令敕使知。谓朕私于侍者。其恭俭好善类如此。季年风毒。召罗浮山人轩辕集。访以治身之要。集亦有道之士也。未尝辄语诡异。帝益重之。及坚谓还山。帝曰。先生舍我亟去。国有灾者。朕有天下竟得几年。集索笔横书四十而去。乃十四年也。兴替宜运其若是与。而帝道皇猷始终无阙。虽汉之文景不足过也。惜乎简籍遗落。旧事十无三四。吮墨挥翰有所慊然。

  资治通鉴曰。宣宗少历艰难。长年践祚。人之情伪靡不周知。尽心民事精勤治道。赏简而当。罚严而必。故方内乐业。殊俗顺轨。求之汉世。其孝宣之流亚欤。

  论曰。唐新旧史唯宣宗朝事实相反特甚。唯旧史与资治通鉴皆合。新史贬之。谓宣宗以察为明。无复仁恩之意。呜呼斯言莫知何谓也。大凡人君宽厚长者。必责以优游无断。至于精勤治道。则谓以察为明。然则从而可乎。孟子曰。尽信书不如无书。盖诚然也。

  (卅二) 补怛洛伽山。观音示现之地。有唐大中间。天竺僧来。即洞中燔尽十指。亲睹妙相。与说妙法。授以七宝色石。灵迹始着。其后日本国僧惠锷。自五台得菩萨画像。欲还本国。舟至洞辄不往。乃以像舍于土人张氏之门。张氏屡睹神异经捐所居为观音院(昌国志云梁贞明二年始建寺)郡将闻之。遣慕宾迎其像。到城与民祈福。已而有僧名。即众求嘉木扃户刻之。弥月像成而僧不见。今之所设是也(史越王作重修寺记云)宋元丰三年。王舜封使三韩。至此黑风骤起巨龟负舟。向山祷告。大士现相舟稳。还朝以闻。朝廷颁金帛移寺建于梅岭山之阳。赐额宝陀。祈祷雨旸辄应。迨今元朝。降香赐田重新寺宇。以福邦家永延帝祚。

  佛祖历代通载卷第十六

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第十七

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  唐

  (一 庚辰) 懿宗漼(宣宗长子。好声乐游宴。委政群僚。复迎佛骨而曰。生见之死无恨。年三十六崩。葬简陵。在位十四年)改咸通。

  (二 壬午) 杭州大慈山寰中禅师。蒲坂人也。姓卢氏。顶骨圆耸其声如钟。出家于并州童子寺。受心印于百丈禅师。结茅于南岳。一日南泉至。问如何是庵中主。师云。苍天苍天。泉云。苍天且置。如何是庵中主。师云。会即便会。莫忉忉。泉拂袖而出。赵州问。般若以何为体。师云。般若以何为体。赵州大笑而出。师明日见赵州扫地问。般若以何为体。赵州置帚拊掌大笑。师便归方丈。师后住浙江大慈山。上堂示众云。山僧不解答话。只能识病。又云。说得一丈不如行取一尺。说得一尺不如行取一寸。问道者众。山素缺水。师拟飞锡。夜梦神人告之曰。勿他之。诘朝见二虎以爪跑地。泉自涌出。味甘如饴。有僧自岳至。乃曰。童子泉涸矣。移来在此。故东坡题诗云。亭亭石塔东冈上。此老初来百神仰。虎移泉眼趁行脚。龙作浪花供抚掌。至今游人灌濯罢。卧听空阶环玦响。故知此老如此泉。莫作人间去来想。咸通三年二月十五日不疾而逝。寿八十三。腊五十四。僖宗谥性空大师定慧之塔。

  (三 癸未) 制署法师知玄。为悟达国师。总教门事。

  (乙酉) 朗州德山宣鉴禅师。剑南人。姓周氏。博贯三藏。尝讲金刚经。时以周金刚名之。俄慨然曰。穷诸玄辩。若一毫置于太虚。竭世枢机。似一滴投于巨浸。学与无学吾知之矣。乃尽弃其习谒龙潭信禅师。问久向龙潭。及到来潭又不见龙亦不现。信曰。子亲到龙潭。是夕师立侍更深。信曰。何不下去。师曰。暗。信点纸烛与师。师接得信即吹灭。师豁然大悟曰。今后更不疑天下老和尚舌头也。即日便辞。信语其徒曰。可中有个汉。牙如剑树口似血盆。一棒打不回头。他时向孤峰上立吾道去在。师居澧阳。垂三十年。大中初武陵太守薛延望创德山精舍。延请居之。大阐宗风。上堂示众云。于已无事则勿妄求。妄求而得。亦非得也。汝但无心于事。无事于心。则虚而灵寂而妙。若毛端许言之本末者。皆为自欺。毫厘系念三涂业因。瞥尔情生万劫羁锁。圣名凡号尽是虚声。殊相劣形皆为幻色。汝欲求之得无累乎。及其厌之又成大患。终而无益。僧问。如何是菩提。师打云。出去。莫向这里屙。如何是佛。师云。佛是西天老比丘。雪峰问。从上宗乘以何法示人。师云。我宗无语句。亦无一法与人。至是将终。谓众曰。扪空追响劳汝心神。梦觉觉非竟有何事。言讫端坐而逝。阅世八十有六。腊六十有五。时咸通六年十二月三日也。敕谥见性大师(具传灯)。

  (四 丙戌) 镇州临济义玄禅师。曹州南华人。姓邢氏。参黄檗运禅师。问如何是佛法的的大意。声未绝运便打。如是三度致问三度被打。遂辞下山。运指往高安大愚处去。师至大愚。问黄檗近日有何言句。师曰。某甲三度问佛法的的大意三度被打。不知有过无过。愚云。黄檗恁么老婆心。更问有过无过。师于是大悟云。元来黄檗佛法无多子。愚搊住曰。尿床鬼子。适来问有过无过。而今却道黄檗佛法无多子。汝见个甚么。师于大愚肋下筑三拳。愚托开云。汝师黄檗非干我事。师由是再回黄檗师资契会。大机大用卓冠一时。后还乡徇赵人之请。住子城南临济禅苑。学徒奔凑。师示众曰。赤肉团上有一无位真人。常从女等诸人面门出入。未证据者看。时有僧。问如何是无位真人。师下禅床搊住云。道道。其僧拟议。师托开云。无位真人是什么干屎橛。师问乐普云。从上来一人行棒一人行喝。阿那个亲。对曰。总不亲。师曰。亲处作么生。普便喝师乃打。师问木口和上。如何是露地白牛。木口曰吽。师曰哑。木口曰。老兄作么生。师曰。遮畜生。大觉到参。师举拂子。大觉敷坐具。师掷下拂子。大觉收坐具入僧堂。众僧曰。遮莫是和上亲故。不礼拜又不吃棒。师闻令唤新到僧。大觉遂出。师曰。大众道汝未参长老。大觉云。不审。便自归众。麻谷到参敷坐具。问十二面观音阿那面正。师下绳床。一手收坐具一手搊麻谷云。十二面观音向什么处去也。麻谷转身拟坐绳床。师拈拄杖打。麻谷接却相捉入方丈。师上堂云。大众夫为法者不避丧身失命。我于黄檗和上处三度吃棒。如蒿枝拂相似。如今更思一顿吃。谁为我下得手。时有僧曰。某甲下得手。和上合吃多少。师与拄杖。其僧拟接。师便打。僧问。如何是第一句。师曰。三要印开朱点窄。未容拟议主宾分。曰如何是第二句。师曰。妙解岂容无著问。沤和争负截流机。曰如何是第三句。师曰。看取棚头弄傀儡。抽牵全藉裹头人。师又曰。夫一句语须具三玄门。一玄门须具三要。有权有用。汝等诸人作么生会。师唐咸通七年丙戌四月十日将示灭。乃说传法偈曰。沿流不止问如何。真照无边说似他。离相离名如不禀。吹毛用了急须磨。偈毕坐逝。敕谥慧照大师。塔曰澄灵(具如传灯)。

  (五 戊子) 湖南长沙景岑禅师。号招贤。初住鹿苑。其后居无定所。但徇缘接物。尝示众曰。我若一向举扬宗教。法堂里须草深一丈。我不得已向女诸人道。尽十方世界是沙门眼。尽十方世界是沙门全身。尽十方世界是自己光明。尽十方世界在自己光明里。尽十方世界无一人不是自己。我常向女道。三世诸佛共十方法界众生是摩诃般若光。光未发时。女诸人向什么处委。光未发时。尚无佛无众生消息。何处有山河国土来。时有僧问。如何是沙门眼。师云。长长出不得。又云。成佛成祖出不得。六道轮回出不得。僧云。未审出个什么不得。师云。昼见日夜见星僧云。学人不会。师乃云。妙高山色青又青。僧云。如何是佛。师云。众生色身是。僧云。河沙诸佛体皆同。如何有种种名字。师云。从眼根返源名为文殊。耳根返源名为观音。从心返源名为普贤。文殊是佛妙观察智。观音是佛无缘大悲。普贤是佛无为妙行。三圣是佛之妙用。佛是三圣之真体。用则有河沙假名。体则总名一薄伽梵。僧云。色即是空空即是色。此理如何。师偈云。碍处非墙壁。通处勿虚空。若人如是解。心色本来同。问如何是佛性。师偈云。佛性堂堂显现。住相有情难见。苦悟众生无我。我面何殊佛面。问如何是上上人行履处。师云。如死人眼。问上上人相见时如何。师云。如死人手。问善财无量劫来为什么游普贤身中世界不遍。师云。女从无量劫来还曾游得遍不。问如何是普贤身。师云。含元殿里更问长安。问亡僧向什么处去。师有偈云。不识金刚体。却唤作生缘。十方真寂灭。谁在复谁行。师因临济示众赤肉团上有一无位真人。乃有偈曰。万法一如不用拣。一如谁拣谁不拣。即今生死本菩提。三世如来同个眼。仰山问。人人尽有这个事。只是用不得。师云。恰是请女用。伸云。作么生用。师乃踏倒仰山。山曰。直下似个大虫。世因名岑大虫。

  (六 己丑) 洞山良价禅师示寂。师会稽人。姓俞氏。幼出家。年二十一往嵩岳受具。者谒南泉值马祖忌日设斋。泉问众曰。今日设斋。未审马祖还来否。众无对。师乃出对曰。待有伴即来。泉闻之赞曰。此子虽后生却堪雕琢。师曰。和上莫压良为贱。次谒沩山问曰。顷闻忠国师有无情说法。良价未究其微。沩曰。我这里亦有。只是难得其人。曰便请和上道。沩曰。父母所生口终不敢道。曰还有与和上同时慕道者不。沩曰。此去石室相连。有云岩道人。若能拨草瞻风。必为子之所重。师到云岩问。无情说法什么人得闻。岩曰。无情说法无情得闻。曰和上还闻不。岩曰。我若闻。女即不得闻吾说法也。曰若恁么。即良价不闻和上说法。岩曰。我说女尚不闻。何况无情说法耶。师乃述偈曰。也大奇也大奇。无情说法不思议。若将耳听终难会。眼处闻声方始知。遂辞。云岩问。什么处去。曰虽离和上未卜所止。岩曰。早晚却来。曰待和上有住处即来。岩曰。自此一去难得相见。师曰。难得不相见。又问岩曰。和上百年后。忽有人问还邈得师真如何抵对。岩曰。但向伊道。即这是。师良久。岩曰。承当这个事大须细审。师犹涉疑。后因过水睹影大悟前旨。因有偈曰。切忌从他觅。迢迢与我疏。我今独自往。处处得逢渠。渠今正是我。我今不是渠。应须恁么会。方得契如如。大中末于新丰山接诱学徒。其后盛化于高安之洞山。尝因云岩忌日修斋。僧问。和上见南泉发迹。为什么与云岩设斋。曰我不重先师道德。亦不为佛法。只重不为我说破。又僧问。和上还肯先师也无。曰半肯半不肯。曰为什么不全肯。曰若全肯即孤负先师也。师谓众曰。知有佛向上人方有语话分。时有僧问。如何是佛向上人。师曰。非常。师问僧。世间何物最苦。僧曰。地狱最苦。师曰。不然。在此衣线下不明大事最苦。师问僧。名什么。曰某甲。师曰。阿那个是女主人公。曰见只对次。师曰。苦哉苦哉。今时人例皆如此。只是认得驴前马后将为自己。佛法平沈此之是也。客中辩主尚未分明如何辩得主中主。僧云。如何是主中主。师云。阇黎自道取。曰某甲道得即是客中主。如何是主中主。师曰。恁么道即易。相续也大难。师将示寂。谓众曰。吾有闲名在。谁为吾除得。众皆无对。有沙弥曰。请和上法号。师曰。吾闲名已谢。问和上违和。还有不病者不。曰有。僧曰。不病者还看和上不。曰老僧看他有分。曰和上争得看他。师曰。老僧看他时不见有病。又曰。离此壳漏子向什么处与吾相见。众无对。遂剃发披衣令撞钟湛然而寂。时学徒千余人。号恸移时。师忽开眸曰。夫出家人心不附物是真修行。劳生息死于悲何有。乃召主事僧令辨愚痴斋一中。盖责其徒恋情也。至七日食具方备。师随众斋毕。复谓众曰。僧家无事。大率临行之际勿须諠动。明日浴罢端坐长往。寿六十三。腊四十二。谥悟本禅师。塔曰寂觉。

  (七) 是岁五月。帝幸安国寺。赐国师知玄宝座。高二丈。材用沉香涂髹。缕龙凤葩蔿金钿之。上施复座陈经几其前。四隅立瑞鸟神人。高数赤。磴道以升。前被绣囊锦襜。珍丽绝甚。时宫中日斋万僧。帝自为赞呗。宰相萧仿谏以为天竺法割爱取灭非帝王躬践。今笔梵言口梵音。不若徴谬赏滥罚振殃祈福。况佛者可以悟取。不可以相求。懿宗虽不纳然嘉美其言。玄姓陈氏。世号陈菩萨。三学洞贯名盖一时。异迹尤多。及僖宗避巢贼幸城都。遣御史郭遵赍玺书徴赴行在。帝素重其名。引对大悦。赐号悟达国师。留行宫久之。辞归九陇。忽定中见菩萨降其室。摩玄顶演深妙音而慰安之。言讫即隐。俄一珠入玄左股。隆起楚甚。上有晃错二字。玄知夙债也。即右胁安卧而逝。著述凡二十余万言。行于世。弟子僧彻。彻弟子觉晖。俱有重名。三世为僧统。或谓玄前身盖汉川三学山知铉法师。铉在世尝讲十地品。感地变金色。及终感病。与玄绝类。

  (八 庚寅) 咸通十一年相国裴休薨。休字公美。孟州人。儿时与兄弟偕隐。昼讲经夜著书。终年不出户。有馈鹿者。诸生荐之。休不食曰。蔬食犹不足。今一啖肉后何以继。擢进士第累更内任。尝出刺洪州。一日入龙兴寺观壁画。叹曰。容仪可观。高僧何在。时有数僧对不惬。休曰。此间莫有禅者么。僧云。近一僧至似禅者。休命召。乃黄檗运禅师。时未显名。休以前问扣之。运高声曰。裴休。休应诺。运曰。在什么处。休豁然从此契入。遂迎入府第旦夕问法。及移镇宛陵。亦命与俱。由是深彻法源。复与圭峰密禅师道缘尤密。大中时执政六年。次历诸镇节度。薨年七十有四。休能文章。书揩遒媚有体法。为人酝藉。操守严正进止雍闲。宣宗尝曰。休真儒者。居常不御酒肉。着释氏文数万言。其圭峰禅源诸诠序曰。禅师集禅源诸诠为禅藏而都序之。休曰。未尝有也。自如来现世随机立教。菩萨间生随病指药。故一代时教。开深浅之三门。一真如心。演性相之别法。马龙二士。皆弘调御之说。而空性异宗。能秀二师俱传达磨之心。而顿渐殊禀。天台专依三观。牛头无有一法。江西举体全真。荷泽直指知见。其他空有相破真妄相攻。反夺顺取密指显说。故西域中夏其宗实繁。良以病有千源药生多品。投机随器不得一同。虽俱为证悟之门。尽是正真之道。然诸宗门下通少局多。故数十年来师法益坏。以承禀为门户。各自开张。以经论为戈矛。互相攻击。情随函矢而迁变。法逐人我以高低。是非纷拏莫能辨析。则向者世尊菩萨诸方教宗。适足以起诤后人增烦恼病。何利益之有哉。圭峰禅师久而叹曰。予丁此时不可默矣。于是以如来三种教义。印禅宗三种法门。融瓶槃钗钏为一金。搅酥酪醍醐为一味。振纲领而举者皆顺。据会要而来者同趋。尚恐学者之难明也。又复直示宗源之本末。真妄之和合。空性之隐显。法义之差殊。顿渐之同异。遮表之回互。权实之浅深。通局之是非。莫不提耳而告之。指掌而示之。颦呻以吼之。柔和以诱之。乳而药之。恐性命之夭殇也。保而护之。念水火之漂焚也。挥而散之。悲斗诤之牢固也。大明不能破长夜之昏。慈父不能保身后之子。若吾师者。捧佛日而委曲回照。疑曀尽除。顺佛心而横亘大悲。穷劫蒙益。是则世尊为阐教之主。吾师为会教之人。本末相符远近相照。可谓毕一代时教之能事矣。或曰。自如来灭后。未尝大都而通之。今一旦违宗趣而不守。废关防而不据。无乃乖秘藏密契之道乎。答曰。佛于法华经涅槃会上。亦以融为一味。但昧者不觉。故涅槃经云。迦叶菩萨曰。诸佛有露语而无密藏。世尊赞叹曰。如来之言开发显露清净无翳。愚人不解谓之秘藏。智者了达则不名藏。此其证也。故王道兴则外户不闭而守在夷狄。佛道备则诸法总持而防在外魔。不当复执情攘臂于其间也。呜呼后学当取信于佛。无取信于人。当取证于本法。无取证于末习。能如是则可以报圭峰之劬劳德矣。

  (九 癸巳) 咸通十四年三月庚午。诏两街僧于凤翔法门寺迎佛骨。于是以金银为刹珠玉为帐。孔鹬周饰之。小者寻丈。高者倍之。刻檀为檐柱。陛墄涂黄金。每一刹数百人举之。香舆前后系道。缀玉琴瑟幡盖殊彩以为幢旌。费不赀。限以四月八日至京师。彩观夹道。天子御安福门楼迎拜。引入内道场。三日后出京城诸寺。诏赐两街僧金帛。京师耆老及见元和事者悉厚赐。所过乡聚皆裒土为刹。相望于途光景昼见。京城高赀相与集大衢。作僧台缦阙。注水银为池。金玉为树。集桑门罗像设。考鼓鸣螺继日夜。下诏曰。朕以寡德缵承洪业十有四年。顷值寇兴王师未息。朕忧勤在位爱育生灵。遂尊崇释教至重玄门。迎请真身为百姓祈福。今人陷之众隘塞路岐。载念狴牢寝兴在虑。嗟我黎人陷于刑辟。况渐当暑毒系于缧绁。京畿及天下诸州府见禁囚。递减死一等。明年四月诏送佛骨归于凤翔。都人耆耋辞饯皆鸣咽流涕。

  新史赞曰。人之惑怪神也甚哉。若佛者特西域一槁人耳。裸顶露足。以乞食自资。臞辱其身。屏营山樊。行一概之苦。本无求于人。徒属稍稍从之。然其言荒茫漫靡夷幻变现。善推不验无实之事。以鬼神死生贯为一条。据之不疑。掊嗜欲弃亲属。大抵与黄老相出入。至汉十四叶书入中国。迹夫生人之情。以耳目不际为奇。以不可知为神。以物理之外为畏。以变化无方为圣。以生而死。死而复生。回复偿报歆艳其间为或。然以贱近贵远为喜。鞮译差舛不可研诘。华人之谲诞者。又攘庄周列御寇之说佐其高。层累架腾直出其表。以无上不可加为胜。妄相夸协而唱其风。于是自天子逮庶人。皆震动而奉祀之。初宰相王缙以缘业事佐代宗。始作内道场。昼夜梵呗冀禳寇戎。大作盂兰肖祖宗像分供寺塔。为贱臣嘻笑。至宪宗遂迎佛骨于凤翔。内之宫中。韩愈指言其弊。帝怒窜愈。濒死。宪亦弗克天年幸福而祸。无乃左乎。懿宗不君精爽夺迷。复蹈前车而覆之。兴哀无知之场。丐庇百解之胾。以死自誓无有顾籍。流涕拜伏。虽事宗庙上帝无以进焉。屈万乘之贵。自等于古胡。数千载而远以身为殉。呜呼运痑祚殚。天告之矣。懿不三月而殂。唐德之不竞。厥有来哉。

  论曰。甚矣宋景文公诋毁吾先师之厚也。屡欲直其辞而为之解嘲。及得大颠对退之之论。李节赠疏言之叙。凡予所欲言者彼既言矣。故不别论。且宪懿二宗诚为崇奉太过。至于高祖沙汰三教。诏下而位移。武宗大灭释氏。未逾岁而被祸。此亦不得不惧也。虽然真佛也者圣凡之大本也。体与太虚等遍。用与众庶同功。无为而无所不为。无在而无所不在。然则心外见佛而过奉之者。非正见也。昧乎大本而故毁之者。即自毁也。景文斥其奉之之弊。而匿其毁之之失。岂良史之谓哉。

  (十 甲午) 僖宗俨。懿第五子。十一即位。年二十七崩。葬靖陵。改乾符○(是岁并州民生子二头四手○濮贼玉仙芝聚众于长垣)。

  (乙未) ○(高骈破南诏○玉仙芝作乱黄巢应之)。

  (己亥) 是岁十一月两日并出而斗。

  (庚子) 改广明○(田令孜奉天子西走○巢贼入长安国号大齐建元金统○李克用奔达旦)。

  (辛丑) 改中和(上自兴元入蜀)○拓拔思恭以兵赴难以之权夏绥。

  (西夏始此) 节度使。

  (十一) 澧州夹山善会禅师。广州岘亭人也。姓廖氏。九岁于潭州龙牙山出家。依年受戒。往江陵听习经论该练三学。遂参禅会励力参承。初住京口。一夕道吾策杖而至。遇师上堂。僧问。如何是法身。师曰。法身无相。曰如何是法眼。师曰。法眼无瑕。师又曰。目前无法。意在目前。不是目前法非耳目所到。道吾乃笑。师乃生疑问吾何笑。吾曰。和上一等出世未有师。可往浙中华亭县参船子和上去。师曰。访得获否道吾曰。彼师上无片瓦遮头。下无卓锥之地。师遂易服直诣华亭。会船子鼓桌而至。资师道契微眹不留(语见船子章)师比欲遁世忘机。寻以学者交凑。庐室星布晓夕参依。唐咸通十一年庚寅。海众卜于夹山遽成院宇。师上堂示众曰。夫有祖以来。时人错会相承至今。以佛祖句为人师范。如此却成狂人无智人去。他只指示汝无法本是道。道无一法无佛可成。无道可得无法可舍。故云。目前无法意在目前。他不是目前法。若向佛祖边学。此人未有眼目。皆属所依之法。不得自在。本只为生死茫茫识性无自由分。千里万里求善知识。须有正眼永脱虚谬之见定取目前生死。为复实有。为复实无。若有人定得许女出头。上根之人言下明道。中下根器波波浪走。何不向生死中定当取。何处更疑佛疑祖替汝生死。有智人笑女。偈曰。劳持生死法。唯向佛边求。目前迷正理。拨火觅浮沤。僧问。从上立祖意教意。和上此间为什么言无。师曰。三年不食饭。目前无饥人。曰既无饥人。某甲为什么不悟。师曰。只为悟迷却阇黎。师说颂曰明明无悟法。悟法却迷人。长舒两脚睡。无伪亦无真。僧问。如何是夹山境。师曰。猿抱子归青嶂里。鸟衘花落碧岩前。师再辟玄枢迨于一纪。唐中和元年辛丑十一月七日。召主事曰。吾与众僧话道累岁。佛法深旨各应自知。吾今幻质时尽即去。女等善保护如吾在日。勿得雷同世人辄生惆怅。言讫至于夜奄然而逝。其月二十九日塔于本山。寿七十七。腊五十七。敕谥传明大师。塔曰永济。

  (壬寅) ○(八月巢所署同州防御使朱温来降。赐名全忠)。

  (癸卯) (四月李克用等与巢战于渭桥。败之。复京都)。

  (甲辰) (七月李师悦追黄巢于狼虎谷。其甥林言斩巢首降)。

  (乙巳) 光启三月帝归于京师○(十二月中宦田令孜讨王重荣败绩帝奔于凤翔。沙陀之兵入于京师。剽掠焚荡。遂为兵墟焉。自是天下崩裂大乱)。

  (十二 丁未) 是岁岩头豁禅师示寂。师泉州人。姓柯氏。少落发。抵长安受具。游讲席习经律。次与雪峰钦山结伴优游禅苑。初造临济。值济迁化见仰山才入门提起坐具云。和上。仰山拟取拂子举之。师曰。不妨好手。次见德山执坐具上法堂瞻视。山曰。作什么。师咄之。山曰。老僧罪过在什么处。师曰。两重公案。便下参堂。山曰。这个阿师稍似个行脚人。至来日上问讯。山曰。阇黎什么处学得这个虚头来。师曰。全豁终不自谩。山曰。向后不得辜负老僧。雪峰在德山作饭头。一日饭迟。德山托钵至法堂上。峰晒饭巾次。见德山云。这老汉钟未鸣鼓未响托钵向什么处去。德山便归方丈。峰举似师。师云。大小德山不会末后句。山闻差侍者唤师至方丈。问汝不肯老僧那。师密启其意。德山至来日上堂。与寻常不同。师到僧堂前抚掌大笑云。且喜得老汉会末后句。他后天下人不柰何。虽然如此也只得三年。德山果三年后迁化。问古帆未挂时如何。答后园驴吃草。上堂谓众曰。吾尝究涅槃经见三段文。似衲僧说话。又曰。休休。有僧礼拜请益。师曰。经云。吾教意如伊字三点。第一向东方下一点。点开诸菩萨眼。第二向西方下一点。点诸菩萨命根。第三向上方下一点。点诸菩萨顶。此是第一段义。又曰。吾教意如摩醯首罗劈开面门竖亚一只眼。此是第二段义。又曰。吾教意犹涂毒鼓击一声。远近闻者皆丧。是第三段义。时小岩上座问。如何是涂毒鼓。师以两手按膝亚身曰。韩信临朝底。问浩浩尘中如何辩王。师曰。铜沙锣里满盛油。问如何是道。师曰。破草鞋抛向湖里着。或问佛问法问道问禅者。师皆作嘘声。尝谓众曰。老汉去时大吼一声了去。其后中原盗起。众皆辟地。师端居自如。一日贼大至。责以无供馈。遂剚刃焉。师神色不动。大叫一声而终。寿六十有一。后唐追谥清严大师。有嗣法罗山。能世其高风云。

  (十三 戊申) 改文德。三月帝崩。

  (己酉) 昭宗晔。懿第七子。为君俊颖有兴复志。而外患已成内无贤佐。虽有智勇而不能为。年三十八为朱全忠等弑于御幄。葬和陵。在位十六年。改龙纪。

  (庚戌) 改大顺○此下随所在十三处霸(附唐末并五代年纪)。

  雷氏曰。

  西秦茂贞 茂贞号秦凤翔三七

  吴行蜜 扬吴淮南四主四六

  吴越镠 钱杭吴越五主八四

  燕守光 守光僭燕一十九年

  楚殷 马楚湖南五主五七

  蜀建 王建前蜀二主三五

  荆季兴 季兴荆南五主五七

  闽审知 王闽福建五主五五

  南汉隐 南汉隐广五主六七

  蜀知祥 知祥后蜀二主四一

  南唐升 李唐江南三主三九

  殷延改 延改号殷建州三年

  东汉旻 东汉崇原四主二八

  西秦茂贞(字正臣。本姓宋。名文通。深州博野人。祖铎父端。皆隶博野军为小校。广明中破巢功大。僖幸兴元。赐姓李氏名茂贞。明年天子归宫。封凤翔节度。进封陇西郡王。自此蚕食河西有山南十四州地。据凤翔二十七年。同光二年卒矣)。

  (十四) 是年仰山惠寂禅师示寂。韶州怀化人也。姓叶氏。年十五欲出家。父母不许。后二载师断手二指。跪致父母前。誓求正法以答劬劳。遂依南华寺通禅师落发。未登具即游方。初谒耽源已悟玄旨。后参沩山遂升堂奥。祐问曰。女是有主沙弥无主沙弥。曰有主。曰在什么处。师从西过东立。沩知是异人。便垂开示。师问。如何是真佛住处。沩曰。以思无思之妙。返思灵焰之无穷。思尽还源性相常住。事理不二真佛如如。师于言下顿悟。自此执侍十有五载。凡有言句皆为后世宗范。一日师问沩山曰。和上浮沤识近来宁未。沩山云。我无来经五年也。仰曰。若恁么和上如今身前应普超三昧顶。沩山云。未在。仰曰。性地浮沤尚宁。然灯身前何故未。沩山云。理则如是。我未敢保任仰曰。如何是未敢保任处。沩山云。女莫口解脱。女岂不闻安秀二师被则天试。入水始知有长人。到这里铁佛也须汗出。寂子女大须修行。莫终日口密。及领众住王莽山。一日禅床陷入地中。地神告以此山不任和上居止东南有大仰山乃人间福地。遂迁止仰山。示众曰。女等诸人各自回光返照。莫记吾言。女无始劫来背明投暗。妄想根深卒难顿拔。所以假说方便夺女粗识。如将黄叶止啼。有什么是处。亦如人将百种货物与金宝作一铺货。卖柢拟轻重来机。所以道石头是真金铺。我这里是杂货铺。有人来觅鼠粪。我亦拈与他。来觅真金。我亦拈与他。时有僧问。鼠粪即不要。请和上真金。师云。啮镞拟开口。驴年亦未会。师云。索唤则有交易。不索唤则无。我若说禅宗。身边要一人相伴亦无。岂况五百七百众耶。我若东说西说。则争头向前采拾。如将空拳诳小儿。都无实处。我今分明向女说圣边事。且莫将心凑泊。但向己性海如实而修。不要三明六通。何以故。此是圣末边事。如今且要识心达本。但得其本不愁其末。他时后日自具去在。若未得本。纵饶将情学。他亦不得。岂不见沩山和上道。凡圣情尽体露真常。事理不二即如如佛。师因归沩山省觐。祐问。子既称善知识。争辨得诸方来者知有不知有有师承无师承是义学是玄学。子试说看。师曰。惠寂有验处。但见诸方僧来。便竖起拂子问伊。诸方还说这个不说。又曰。这个且置。诸方老宿意作么生。祐叹曰。此是从上宗门爪牙。祐问。大地众生业识茫茫。无本可据。子作么生知他有之与无。师曰。惠寂有验处。时有一僧从面前过。师召云。阇黎。僧回首。师曰。和上这个便是业识茫茫无本可据。祐曰。此是师子一滴乳。能散六斛驴乳。郑愚相公问。不断烦恼而入涅槃时如何。师竖起佛子。公云。入之一字不要亦得。师云。入之一字不为相公。师问双峰。师弟近日见处如何。对曰。据某甲见处。实无一法可当情。师曰。汝解犹在境双峰曰。某甲只如此。师兄如何。师曰。汝岂无能知无一法当情者。沩山闻云。寂子一句疑杀天下人。僧问。禅宗顿悟毕竟入门的意如何。师曰。此意极难。若是祖宗门下上根上智。一闻千悟得大总持此根人难得。其有根微智劣。所以古德道。若不安禅静虑到这里总须茫然。僧曰。除此格外。还别有方便令学人得入也无。师曰。别有别无令女心不安。汝是什么处人。曰幽州人。曰女还思彼处不。曰常思。师曰。彼处楼台林苑人马骈阗。女反思思底还有许多般也无。曰某甲到这里一切不见有。师曰。女解犹在境。信位即是。人位即未是。据女所解只得一玄。得坐披衣向后自看。沩山一日复问师曰。女向后记得人不。师曰。若记只记见解。沩曰。何以如此。师曰。西竺般若多罗谶二千年事。至时毫发不移。曹溪亦谶身后有难。及至亦无爽。今时还得不。沩曰。此是行通。我是自宗通。亦是学禅未问六通。师曰。某谓见解宗通语绝渗漏属语密。行解照用自辨清浊业属意密。某未齐曹溪与般若多罗。不敢辄记。沩山深然之。先是师预示偈曰。吾年七十七老去是今日。任性自浮沉。两手攀膝屈。至是两手抱膝而逝。师之异迹及垂谶记。具存本山实录。◎

  (壬子) ◎改景福。

  (甲寅) 改乾宁。

  (丁巳) ○吴行密(字化源。姓杨氏。庐州合肥人。家世微贱。有膂力能举千斤。日行三百里。为本州步健破巢功大。昭宗封淮南王。进封楚王。梁祖封吴王卒。是年始封。至梁祖二年。据庐州十二年。寿五十。四子渥据淮南)。

  (十五) 乾宁四年赵州从谂禅师示寂阅岁一百二十。师曹州人。姓郝氏。落发未具戒。便造南泉。泉一见深器之。一日问。如何是道。泉云。平常心是道。师曰。还可趣向不。曰拟向即乖。师曰。不拟如何知是道。泉云。道不属知不属不知。知是妄觉。不知是无记。若真达不疑之地。犹如太虚廓然虚豁。岂可强是非耶。师于言下大悟。自是周旋南泉之门。凡二十年。次遍历诸方。后归北地。众请住赵州观音古刹。示众曰。如明珠在掌。胡来胡现。汉来汉现。老僧有时将一枝草作丈六金身用。有时把丈六金身作一枝草用。佛是烦恼。烦恼是佛。问曰。未审佛是谁家烦恼。师曰。与一切人烦恼。僧云。如何免得。师云。用免作么。问师还入地狱不。答云。老僧末上入。僧云。大善知识为什么却入地狱。师云。若不入阿谁教化女。真定帅王公携诸子入院。师坐而问曰。大王会么。王云。不会。师云。自小持斋今已老。见人无力下禅床。王公加礼而去。一日示众曰。金佛不度炉。木佛不度火。泥佛不度水。真佛屋里坐。菩提涅槃真如佛性尽是贴体衣服。亦名烦恼。不问即无烦恼。且实际理地什么处着得。一心不生万法无咎。女但究理坐看三二十年。若不会道截取老僧头去。梦幻空花何劳把捉。心若无异万境一如。既不从外得。更拘执作什么。如羊相似。拾物安向口里。老僧见药山和上道。有人问着便交合取狗口。老僧亦交合却口。师之玄言天下推为宗门妙唱云。

  (戊午) 改光化○圣胄集成(华岳玄伟禅师。编次贞元已来宗师机缘。行于世)。

  (庚申) 上与崔胤谋诛宦官(刘季述等。以禁军劫天子。幽于少阳院。矫诏立太子即帝位)。

  (辛酉) 改天复○(韩全诲等。劫帝幸凤翔○是年进钱镠爵越王)。

  (十六) 云居道膺禅师示寂。师幽州玉田人。参洞山价公契悟宗旨。价深可之曰。此子已后千万人把不住。一日问曰。昔南泉问讲弥勒下生经僧云。弥勒什么时下。生僧曰。见在天宫。当来下生。南泉云。天上无弥勒。地下无弥勒。师问。只如天上无弥勒地下无弥勒。未审谁与安名。洞山直得禅床震动。乃曰。膺阇黎。及结庵于后洞。日感天厨奉供。洞山勉令随方接人。遂登云居。学徒奔凑。至一千五百众。尝示众曰。古人云。地狱未是苦。若向此衣单下不明大事。却是最苦。女等既在这个行流。十分去九不较多也。更着些子精彩。便是上座不屈平生行脚。不辜负丛林。古人道。欲得保任此事。须向高高峰顶立。深深海底行。方有些子气力。汝若大事未办。须履践玄途。又曰。汝等师僧家。发言吐气须有来由。凡问事须识好恶尊卑良贱。信口无益。傍家到处觅相似语言。所以寻常向兄弟道。莫怪不相似。恐同学太多去。第一莫将来。不相似。八十老人出场屋。不是小儿戏。一言参差千里万里难为收摄。直至敲骨打髓。须有来由。言语如钳夹钩锁相续不断。始得头头上具物物上新。可不是精得妙底事。道女知有的人终不取次。十度拟发言。九度却休去。为什么如此。恐怕无利益。体得的人心如腊月扇。口边直得醭出。不是汝强为。任运如此。欲得恁么事。须是恁么人。既是恁么人。何愁恁么事。学佛边事是错用心。假饶解得千经万论。讲得天华落石点头。亦不干自己事。况乎其余有何用处。若将有限心识。作无限中用。如将方木逗圆孔。多少差讹。设使攒花簇锦事事及得尽一切事。亦只唤作了事人无过人。终不唤作尊贵。将知尊贵边着得什么物。不见从门入者非宝。捧上不成龙知么。又曰。如好猎狗。只解寻有踪迹底。忽遇羚羊挂角。莫道迹气亦不识。僧问。羚羊挂角时如何。师曰。六六三十六。曰不会。师云。不见道无踪迹。一僧在房内看经。师隔窗问。阇黎念者是什么经。对曰。维摩经。曰不问维摩经。念者是什么经。其僧有省。师临终前期五日。为众开最后方便。序出世始末。众皆怆然。至时端坐而化。后唐谥曰弘觉禅师。

  (十六 甲子) 改天祐(正月朱全忠。奉天子迁洛阳。八月弑之。而立少子祝。年十二)。

  (乙丑) 哀帝祝天祐二年○(彗竟天○昭第九子。朱全忠弑昭立帝。时年十三。军国之政禀全忠。年十七岁。梁王使刘霸害焉。葬温陵。谥景宗。在位三年)。

  (丙寅) 濮王紃(昭之子。少帝遇鸩暴崩。梁王与百僚号恸。众议即位。如周公故事。天祐四年禅位于梁。遇鸩而卒)右唐十九帝(不与武后)凡二百九十年(而朱温篡之)。

  五代

  (十七) 叙曰。后梁朱氏篡唐。阅五朝八姓。十有三君。五十三载。欧阳文忠公泫春秋着为五代史。古所谓春秋作而乱臣贼子惧。然自秦汉而下。祸起萧墙变生肘腋。君臣父子之际。所不忍愿闻者。奚更不惧之多乎。予尝以唐新旧本纪参校。粗见文忠师仰春秋。略例纪事褒贬之妙。非他史所及。因采数十端着新唐史本纪。略例一篇。及得五代史。阅其自发述作之意。与予言亦颇合。然举春秋宗王之作裁正唐史可也。以之致虚名盛礼。而歆艳五代之君。不几于枉设乎。朱全忠弑昭宗灭唐祚。虽王莽刘曜之恶。不足以比之。及其有国。父父子子。更相屠僇。不殊犬豕之死。正吾教善恶因果之效也。文忠篾视而不取。特假春秋峨巍位号朝仪。以贲之。卒无一辞深诛痛责。使世忠良阅之。曷以泄胸中之不平乎。荆国王文公尝叹惜文公不修晋书而修五代史。予之言盖文公叹惜之意也。至于李克用石敬瑭刘知远。皆突厥沙陀夷狄之种。朱全忠郭威乃中国人。反不若三夷狄近人类也。郭威代汉及养子世宗。颇有声。然议者概见而未知详夫。

  (十八 丁卯) 梁太祖温。改开平○僖宗赐姓全忠。禅唐之后更名晃字匡圣。本宋州砀山午沟里人。父曰诚。以五经教之。果篡唐祚。年六十一。为子友圭弑矣。在位六年。都汴迁洛○雷氏曰(梁祖失温庶人。末帝三主十七)。

  ○吴越镠(字具美。姓钱氏。杭州临安人。少无赖闲散。僖宗时为董昌偏将。以弩射死黄巢先锋。斩首数百。巢不敢犯临安。昌以为都指挥。昌亦叛。镠以状闻昭宗。昭以镠为淅东招讨使。既下昌。进封天下兵马都元帅。至梁进封吴越王。后唐庄入洛。赐玉册金印。因称吴越王。寿八十一。立杭州。二十一年)○雷氏曰(钱杭吴越五主八四)。

  燕守光(姓刘氏。深州乐寿人。父仁恭事幽州李可有大勋烈光亦如之。八月自号大燕皇帝。改元应天。立幽州十九年)○雷氏曰(守元僭燕一十九年)。

  (十九 戊辰) 五月雪峰义存禅师示寂。师泉州人。姓曾氏。十七落发。往幽州受具。绵历禅会缘契德山。咸通中登象骨山。雪峰创院玄侣奔萃。懿宗赐号真觉大师。上堂僧问。拈[袖-由+追]竖拂不当宗乘。和尚如何指示。师竖起拂子。其僧抱头而出。师乃不顾。道怤问。只如古德岂不是以心传心。师曰。兼不立文字语句。怤曰。只如不立文字语句。师如何传。师良久。怤礼拜。师曰。更问我一转岂不好。怤曰。就和上请一转话头。师曰。只恁么唯别有商量。曰和上恁么即得。长庆问。从上诸圣传受一路。请师垂示。师默然。长庆礼拜而退。师莞尔而笑。师有时谓众曰。堂堂密密地道。怤出问曰。是什么堂堂密密。师起立曰。道什么。怤退步而立。师垂语曰。此事得恁么尊贵。得恁么绵密。怤对曰。某甲到来数年不问和上恁么示诲。师曰。我向前虽无如今已有。莫有妨么。曰不敢。如此和上不已而已。师曰。致使我如此。怤从此信入。因普请次。师举沩山见色便见心语问怤。还有过也无。怤曰。古人为什么事。师曰。虽然如此要共女商量。曰恁么即不如道。怤锄地去又尝普请次。师问皎然曰。古人道谁知席帽下元是昔愁人。古人意作么生。皎然侧戴笠子曰。这个是什么人语。又问曰。持经者能荷担如来。然乃捧师向禅床上着。一日绍卿随师经行次。见芋叶动。师指动叶示之。卿曰。某甲怕怖。师曰。是汝屋里底怕怖什么。绍卿从此开悟。安国弘瑫参师。师曰。甚处来。曰江西。师曰。什么处见达磨。曰分明向和上道。师曰。道什么。瑫曰。什么处去来。一日师见瑫忽搊住云。尽大地是解脱门。把手教伊入不肯入。曰和上怪弘瑫不得。师曰。虽然如此争柰背后许多师僧何。太原孚上座参师。礼拜讫立于座右。师才顾视。孚便下看主事。异日师见孚指日示之孚摇手而出。师曰。汝不肯我。孚曰。和上摇头某甲摆尾。什么处不肯和上。师曰。到处也须讳却。一日众僧晚参。师在中底卧。孚曰。五州管内只有这和上较些子。师便起去。师居闽川四十余年。法席之盛卓冠天下。常不下一千五百众。临终出游蓝田莫归浴毕中夜示寂。寿八十有七。

  (二十) 十一月玄沙师备禅师示寂。师少为渔家子。年甫三十。始出家具戒习头陀行与雪峰师资道契。雪峰每叹曰。备头陀再来人也。阅楞严经发明心地。由是应机敏捷。与修多罗冥契。诸方玄学者有所未决。必从之请益。师上堂时久。众谓不说法。一时各归。师乃呵之曰。看总是一样底。无一个有智慧但见我开两片皮。尽来簇着。觅言语意度。是我真实为他却总不知。看恁么大难大难。十方诸佛把女向顶上着。不敢错误着一分子。只道此事唯我能知。会么。如今相绍继尽道承释迦。我道释迦与我同参。汝道参阿谁。会么。汝今欲得出他五蕴身田主宰。但识取汝秘密金刚体。古人向汝道。圆成正遍周沙界。我今少分为汝智者。可以譬喻得解。汝见此阎浮提日么。世间人所作兴营养身活命种种作业。莫非承他日光成立。只如日体还有多般及心行么。还有不周遍处么。欲识此金刚体亦如是。只如今山河大地十方国土色空明暗及汝身心。莫非尽承汝圆成威光所现。直是天人群生类所作业次受生果报有性无情。莫非承女威光。乃至诸佛成道果接物利生。莫非尽承女威光。只如金刚体。还有凡夫诸佛么。有女心行么。不可道无便当去。女既有如是奇特。会么。努力珍重。师初住梅溪。后居玄沙。一时天下丛林海众。皆望风钦服。闽帅王公待以师礼。学徒垂千人。室户不闭。师应机接物垂二十年。所演法要有大录行于世。没年七十有五。闽帅赐号宗一禅师。

  ○楚殷(字霸图。姓马氏。许州鄢陵人。世为农家。事梁。征伐有功。封为楚王。至末帝贞明丙子。始建国立郡州。十四年。寿七十九)雷氏曰(马楚湖南五主五七)。

  蜀建(字光图。姓王氏。许州武阳人。佐唐有功。封西平王。进封蜀王。遂有鼎分之志。昭宗遇弑。少帝禅梁。举哭哀恸。文武劝进。遂立成都。号蜀。十二年卒。寿七十二。改武成)○雷氏曰(王建前蜀二主三五)。

  荆季兴(字贻孙。陕州硖石人。本名李昌。少为汴州李让家童。梁祖初镇宣武。让入赀养为子。易姓朱氏。兴因让故得见梁祖。祖见奇之。亦命为子。因姓朱氏。后拜宋州刺史。破青州徙颖阳防御。进封渤海王。复姓高氏。唐庄开蜀有功。封南平王。吴人册之。立荆南二十年。寿五十四)○雷氏曰(季兴荆南五主五七)。

  吴渥(字承天。蜜长子。蜜病出镇宣州。嗣立淮南一年。寿二十三。为温灏杀之○隆演。字鸿源。蜜次子。温灏杀渥。演遂即位。十二年改年武元。寿二十四卒。弟溥又立)。

  闽审知(字信通。姓王氏。光州固始人。兄朝唐封福州观察。既卒。知代征伐有功。昭宗进封琅玡王。至梁祖加拜为知书令。封闽王。遂立福建。十八年。寿六十四)雷氏曰(王闽福建五主五五)。

  (廿一 庚午) 南岳山惟劲头陀。集光化以来出世宗师机缘。为续宝林传。

  (辛未) 改乾化。

  南汉隐(姓刘氏。上蔡人也。其祖安仁。后徙闽中。商贾南海。因家焉。父谦为广州牙将。破巢为封州刺史。既卒。州人表隐代之事唐勋烈。昭宗封为南海王。天祐二年进封安南都护。三年封南平王。今梁又封南海王。后贞明三年卒。寿三十八)雷氏曰(南海隐广五主六七)。

  (壬申) 梁祖疾甚。郢王友圭。左迁菜州刺史。不行乃微行诣左龙虎统军韩勍。谋入伏禁中。友圭仆夫冯廷锷刺帝于寝殿。矫诏友圭权主军国之务。发丧即帝位。初梁祖温略地于宋亳间。偶与逆旅妇人野合而生。立未一年。友贞贬为庶人。改年元凤。

  (廿二 癸酉) 末帝友贞。一名瑱。温第三子。闻友圭乱起兵讨之。既杀友圭。命赵嵓传国宝。至汴迎王即位。更名锽。且都汴。盖祖地矣。唐使皇甫麟灭之。在位十年。复称乾化。

  (乙亥) 改贞明。

  (丙子) 晋兵七万来伐○辽主阿保机称帝。立国号大。契丹改元天赞。辽之始也(中国简册所不载。远夷草昧无可考。故其年代不可得而详也。其父斡里。为夷离中。犹中国刺史主。生而拓落。多智雄健。有胆略好骑射。铁厚一寸而洞之。夜寝则有光。左右莫不惊。诸部畏服之。有宋相安。至天祚为金灭之。治国十一年)。

  (廿三) 明州奉化县布袋和尚者。未详氏族。自称名契此。形裁腲脮蹙额皤腹。出语无定寝卧随处。常以杖荷一布囊。凡供身之具尽贮囊中。入?肆聚落。见物则乞。或醯醢鱼俎。才接入口。分少许投囊中。时号长汀子布袋师也。尝雪中卧。雪不沾身。人以此奇之。或就人乞。其货则售。示人吉凶必应期无忒。天将雨。即着湿草屦途中骤行。遇亢阳。即曳高齿木履。市桥上竖膝而眠。居民以此验知。有一僧在师前行。师乃拊僧背一下。僧回头。师曰。乞我一文钱。曰道得即与汝一文。师放下布袋叉手而立。白鹿和上问。如何是布袋。师便放下布袋。又问。如何是布袋下事。师负之而去。先保福和上问。如何是佛法大意。师放下布袋叉手。保福曰。为只如此。为更有向上事。师负之而去。师在街衢立。有僧问。和上在遮里作什么。师曰。等个人。曰来也来也(归宗柔和上别云归去来)师曰。女不是遮个人。曰如何是遮个人。师曰。乞我一文钱。师有歌曰。只个心心心是佛。十方世界最灵物。纵横妙用可怜生。一切不如心真实。腾腾自在无所为。闲闲究竟出家儿。若睹目前真大道。不见纤毫也大奇。万法何殊心何异。何劳更用寻经义。心王本自绝多知。智者只明无学地。非圣非凡复若乎。不疆分别圣情孤。无价心珠本圆净。凡是异相妄空呼。人能弘道道分明。无量清高称道情。携锡若登故国路。莫愁诸处不闻声。又有偈曰。一钵千家饭。孤身万里游。青目睹人少。问路白云头。梁贞明二年丙子三月师将示灭。于岳林寺东廊下端坐磐石而说偈曰。弥勒真弥勒。分身千百亿。时时示时人。时人自不识。偈毕安然而化。其后他州有人见师亦负布袋而行。于是四众竞图其像。今岳林寺大殿东堂全身见存。

  (丁丑) 汉龑(初名嵓隐之庶子。生于外舍。身长七尺。承父袭封南海王。是年建国。号越。二年更号汉。寿五十四卒。立三十一年。龑者盖采周易飞龙在天之义尔)。

  (戊寅) 蜀衍(字化源。建之第十一子。母曰徐贤妃。以宠得立为太子。建亡即位。荒淫自恣。委政宦者。改大光。立六年。唐郭崇韬伐之)。

  (庚辰) 吴溥(蜜第四子。立不改号。治十七年。寿二十八。南唐升灭之)。

  (辛巳) 改龙德。

  (癸未) 上闻李嗣源兵至。令皇甫麟杀己。嗣源兵入城国亡。

  右朱梁二主共一十七年(晋李存勖灭之)。

  (廿四) 后唐(姓李氏王土德。都汴洛起太原)雷氏曰(唐武克用庄明闵末四主十五)。

  武皇帝克用(世号朱耶。出于突厥后。自号沙陀。以朱耶为姓。烈考朱耶赤心。以徐州功大。懿宗赐姓李氏。俾定天下。庄宗即位。天祐五年薨。葬陵雁门界)。

  庄宗存勖(太祖嫡子。母曹后。帝英武善战。灭梁代之。自梁祖二年立。至同光三年。四十三岁崩。葬河南雍陵)改同光。

  (甲申) 朝廷封李茂贞为秦王○高季兴为南平王。

  (廿五) 魏府兴化存奖禅师。诏入内庭。帝问禅要。御赐马一疋。不惯坠马伤足。至次年示疾。帝一日谓师曰。朕收大梁得一颗无价明珠。未有人酬价。师曰。请陛下珠看。帝以手展开幞头脚。师曰。君王之宝谁敢酬价。师化后。敕谥广济大师。塔曰通济。师尝问僧。什么处来。曰崔禅处来。师曰。将得崔禅喝来否。曰不将得来。师曰。恁么即不从崔禅来。僧便喝。师遂打。师示众曰。我只闻长廊下也喝。后架里也喝。诸子汝莫盲喝乱喝。直饶喝得兴化向半天里。住却扑下来气欲绝。待兴化苏息起来。向汝道未在。何故。我未曾向紫罗帐里撒真珠与汝诸人。虚空里乱喝作什么。师勘克宾。语具传灯。

  (乙酉) 朝廷遣周德威执刘守光至雁门(令存霸刺心血祭祖已斩之于市)。

  吴溥(于石头城上。建清凉寺。请悟空住持)。

  前蜀(改咸康来降。敕孟知祥镇蜀。前蜀二主。共三十五年)。

  钱镠封吴越国王(仍请署群臣百官诏许之)。

  闽延翰(字子逸。审知长子。同光四年庄宗遇弑。建国称王。禀唐正朔。立一年)。

  (廿六 丙戌) 改天成。明宗嗣源立(世本夷狄无姓。父电为雁门步将生子邈佶烈。太祖克用养为子。姓李名嗣源。初帝至邺都。军俄大噪曰。请令公帝河北石敬瑭康义诚劝进嗣源。乃令安重诲移激会兵。军势大盛。嗣源据大梁。时从马直都指麾。使郭从谦。不知睦王存人已死。欲奉之作乱庄宗中流失殂于绛霄殿庑下。善友敛庑下乐器。覆庄尸焚之。及嗣源即位。拾庄宗骨。石殡之。时年已六十矣。每夕宫中焚香告天。愿早生圣人为生民主。在位八年。后为臣朱弘昭等杀之。葬徽陵)。

  闽鏻(先名延铃。审知次子。初延禀与鏻谋杀翰。禀推鏻立之。禀还建州。临决别云。善继先志。无烦老兄重来。至长兴二年。与鏻击不胜。为鏻杀之。鏻好事鬼神。道士刘守元以左道惑之。建宝皇后宫居焉。后帝为李仿杀之)改元天宝。

  (丁亥) 辽主德光名耀屈之(姓刘氏。阿保机第二子。诞于大部落东牙帐。未时黑云覆帐。火光照耀。有声如雷。及长雄杰有大志。精骑射平奚渤海二国。治廿一年。于所居大部落。建天雄寺。有契丹太祖像存焉。大赦。改元天显)。

  (己丑) 荆从诲(字遵圣。兴之长子。立二十一年。寿五十八)。

  (庚寅) 改长兴。秦王李茂贞入朝。去建国之制。

  楚希声(字若讷。殷次子。判内外诸军事。殷卒。立之三年)。

  (壬辰) 楚希范(字子矩。殷之第四子。兄弟十人。嫡子希振。最长仁贤其声范同母而生。声母袁氏。色美得宠而先立。振弃官为道士。声卒绝立。改年应顺。立十五年。寿四十九)。

  孟知祥(是年封为蜀王)○初令雕九经印板(冯道监造)。

  栴檀瑞像自下。二十一年复在江南。

  (廿七) 福州长庆惠棱禅师示寂。杭之盐官人。姓孙氏。幼岁禀性淳淡。年十三于苏州通玄寺出家登戒。历参禅肆。唐乾符五年入闽中。谒西院访灵云。尚有凝滞。乃之雪峰。因问。从上诸圣传受一路。请垂指示。峰默然。师设礼而退。峰莞尔而笑。异日雪峰谓师曰。我寻常向师僧道。南山有一条鳖鼻蛇。汝诸人好看取。对曰。今日大有人丧身失命。峰然之。师入方丈参。雪峰曰。是什么。师曰。今日天晴好普请。自此酬问未尝爽于玄旨。乃述颂曰。万象之中独露身。唯人自肯乃方亲。昔时谬向途中觅。今日看如火里冰。师来往雪峰二十九载。至天祐三年。受泉州刺史王延彬请。住招庆。后闽帅请居长乐府之西院。奏额曰长庆。号超觉大师。上堂良久谓众曰。还有人相悉么。若不相悉欺谩兄弟去。只今有什么事。莫要窒塞也无。复是谁家屋里事。不肯当荷更待何时。若是利根参学。不到这里来。会么。如今有一般行脚人。耳里总满也假饶收拾底还当诸人行脚事么。广说具如传灯录。师两处开法。徒众一千五百。化行闽越二十七载。后唐长兴三年壬辰五月十七日归寂。寿七十有九。腊六十。

  (癸巳) 吴越钱传[璀-山+六](字文宝。钱镠长子。从父征伐而有大功。为群臣请立九年)。

  闽改龙启。

  闵帝存厚(明帝第六子。帝疾笃。秦王从荣作乱。孟汉琼斩之。十一月诏徴宋王存厚。一名从厚。入权天雄军府事。帝殂。秘丧六日。群臣自邺迎之。即位于柩前。甲午改元应顺。帝从朱弘昭等言。徙潞王存珂镇河东王。不受命。命兵讨之。王整众而东。帝奔魏州至卫依刺史玉弘贽。潞王入谒。太后命王即位。废闵为鄂王。遣弘贽子殿直。亦往鸩帝。帝不饮。峦缢杀之。后追谥闵帝。在位五月)。

  (甲午) 四月改清泰。末帝存珂(明宗养子。本镇州平山人。姓王氏。家世微贱。母曰魏氏。明宗为骑将。过平山掠得有子阿三。已年十余岁。明养为己子。号存珂。长能骑射。封潞王。即位二年。为石敬瑭外结契丹主攻之。帝举室自焚。寿五十一。在位二年)。

  ○蜀孟知祥(字宝胤。姓孟氏。荆州龙冈人。祖察秉昭义节旄。父巘磁州刺史。其母王氏。梦日月生于太原。后事唐封为蜀王。明宗崩。祥乃立国号蜀。改年明德。立一年。六月有疾。遂付于昶监国)。

  (廿八) 是年二月功德司奏。每年帝诞节诸州府。奏荐僧尼欲立讲经科禅定科持念科文章议论科以试其能不。帝从奏(出系年录)。

  (乙未) 许王(明宗幼子。为契丹立之。不逾月王遇害)。

  蜀昶(知祥第三子。初名赞。祥卒昶立。不改号。治三十一年○雷氏曰知祥后蜀二主四一)。

  (廿九) 石晋(姓石氏王金德)雷氏曰(晋高敬瑭少帝丹主二姓三主一十一年)。

  (丙申) 改天福高祖敬瑭(晋阳人。父臬捩鸡。本出西夷。自朱耶归唐。从居山阴。后随克用征伐有功。官至洛州刺史。生帝。姓石。不知因。始明宗爱之。以女妻之。是为永宁公主。为太原节度。唐室既乱。末帝徙敬瑭镇天平不行。命兵讨之。石与桑维翰刘知远等。假兵契丹。光破唐兵。缘先父事光。因乃灭唐。筑檀柳林。即帝位。改长兴。七年为天福元年。十月兵至。帝自焚。十一月敬瑭入洛阳。立八年崩。寿五十一。葬新安陵)。

  闽昶(鏻之长子。名继鹏。既立奉道。乃杀李仿。改元通文。立四年。为延羲子杀之)。

  (丁酉) 晋岁用金帛三十万遗大辽。

  南唐升(字正伦。徐州人。世本微贱。父荣唐乱不知所终。有姊出家为尼。出入徐温宅。与温妻李氏同姓。升身长七尺。为人温。厚灭吴溥而立之。年改升元。寿五十六。据江南金陵)雷氏曰(李唐金陵三主三九)。

  (戊戌) 蜀(改年广政)○大辽(年改会同国号大辽)。

  (庚子) 闽延曦(审知少子。既立铸大钱。以一当十。因出醉还连重遇等使壮士马上杀之。立四年。改元永隆。汉度民万一千人为僧)。

  (辛丑) 吴越王佐(字右。立[璀-山+六]之子。立七年。寿二十)。

  (壬寅) 南汉玢(初名洪度。龚之子。耀枢龟图皆早死。玢立二年。改元光天。后为道庠陈思潮等杀之)。

  (癸卯) 南汉晟(初名洪熙。既杀玢自立。封思潮等为功臣。改元乾和。立二十年。酒太过卒。寿三十九)。

  (甲辰) 改开运。少帝重贵(高祖犹子。祖有六子。皆亡。帝父敬儒祖之兄也。早卒。高祖养帝为子。故得立位。后三年为契丹主耶休德光长驱过河入汴攻之。帝出降封。负义侯送至和龙府。不知何年卒。在位三年)。

  右晋二主凡十一年(而汉继之)。

  南唐璟(升长子。立二十四年。改元保大。寿六十四)。

  是年旧唐史成。刘喣撰。授司空平章事(并载佛祖异迹)。

  (三十) 江南上元县一民暴死。三日复苏。诣唐主具奏。入冥见先帝言。为宋齐丘所误杀。和州降卒千余人。冤诉仗汝。归语嗣君。凡寺观鸣钟可延久其声。吾受苦唯闻钟则暂休。或能为造一钟尤善。吾在位日尝以于阗国遗我玉天王像。藏于瓦棺寺佛左膝。人无知者。汝以此为验。唐主遂诣瓦棺寺。佛膝得天王像。感泣造一钟于清凉寺。镌其上曰。荐烈祖考高皇帝。脱幽出厄。以玉像建塔。葬蒋山(出法范)。

  殷延政(亦审知子。延曦湎淫虐政。数贻书谏之。曦怒遣杜建崇举兵攻政。为政败之。乃立建州。改国号殷。改年天德。止三年)雷氏曰(延政号殷建州三年)。

  (卅一 乙巳) 契丹(怒帝不上表称臣。乃大举兵入。少帝迎于澶州)。

  (丙午) 正月辽主德光入晋不一年(获民皆黥其面祖威李守真宋彦筠降于契丹。张彦泽斩关而入。帝惧迎拜于门。契丹不礼。命左右执之。彦泽传辽主书与太后慰抚之。降晋帝为负义侯安置黄龙府即慕容氏和龙城也。契丹御汴宫受朝贺。以国舅麻剌萧翰留守汴。以天时向暑发大梁。自白马渡河。尽驱百僚赴常山。至滦城得疾。至杀胡林卒。国人剖其腹实盐。数斗载之。北晋人谓之帝羓)。

  汉(姓刘氏王水德都汴)○雷氏曰(汉祖知远隐帝承祐二主四年)。

  (卅二 丁未) 高祖知远。后更名皓(其先沙沱部人。移居太原。帝生于晋阳。业农。威重。后与敬瑭同侍明宗为偏将。及立石晋于太原。以帝为侍卫亲军都虞侯。少帝进封太原王。契丹临京师。少帝被俘。乃图义举。二月即位于太原。自称汉王。拥兵入于汴。杀许王与太妃兼晋。二年春卒。在位一年)乃晋开运四年也。

  辽世宗立(讳阮番。名元欲。太祖孙。东丹王突欲之子。改元天禄。治五年)。

  楚希广(字德丕。范同母弟。既立。三年后为兄萼兵伐而缢)。

  (戊申) 改乾祐○吴越倧(瓘子佐弟。立一年。为胡进思疑之。废囚于义和院。迎俶立迁倧东府)。

  (己酉) 隐帝承佑(高祖二弟。曰崇。曰信。崇子曰赟。皆仕宦也。高祖三子曰承训。承佑。承勋。嫡子训亡。诸子尚幼。以佑绍立信任倡优疏远大臣。时年十八。时李业等状申于广政殿。因朝王章杨邠史弘肇。又使人杀郭威于邺。威乃举兵犯宫。帝出城南赵村。为伶人郭允明刺杀之。寿二十。就乾祐年号)。

  吴越王俶(佐之弟。字文德。胡进思立之。在位三十年)。

  荆保融(字德长。诲第三子。立十年。寿四十一岁)。

  楚希萼(广之兄。杀广而立。明年隐帝崩。京师大乱。萼遂臣于李璟降封楚王。以军政事任弟希崇。崇亦臣璟。璟使边镐入楚。迁马氏于金陵)。

  (卅三) 云门文偃禅师示寂。师姑苏嘉兴人。姓张氏。初参睦州踪禅师。州见来便闭却门。师三扣门。问谁。师云。某甲。州云。作什么。师云。己事未明。乞师指示。州才开门。师拶入。州擒住云。速道速道。师拟议。州托开云。秦时?轹钻。师从此悟入。州即指师见雪峰。师至雪峰庄。遇僧上山即教之云。汝到山头见和上。上堂众才集。便出握腕立地云。这老汉项上铁枷。何不脱却。其僧如教致问。峰下座搊住云。速道速道。僧无对。峰云。适来不是尔语。僧云。是某甲语。峰云。侍者将绳棒来。僧云。某在庄上。见一浙中上座。教来恁么问。峰云。大众去庄上。迎取五百人善知识来。师上山才见雪峰。便问。因什么得到与么地。师乃低头。从此契合。决择久之。遍访诸方。晚游广中。灵树知圣禅师久迟师来。比至亦率众门迎。命居第一座。树将终遗书嘱广主。请师继踵住持。师上堂。僧问。如何是一代时教。师云。对一说。问如何是法眼。师云普。问如何是诸佛出身处。师云。东山水上行。问乞师指个入路。师云。吃粥吃饭。问如何是透法身句。师云。北斗里藏身。问如何是不挂唇吻一句。师云。合取狗口。问如何转动即得不落阶级。曰南斗七北斗八。师乃云。眼睫横亘十方。眉毛上透乾坤。下透黄泉。须弥山塞却尔咽喉。还有会处么。若会得拽取占波国与新罗国斗额。又云。尽乾坤一时将来着女眼睫上。尔诸人闻恁么道。不敢望尔出来性懆把老僧打一掴。且缓缓子细看。是有是无。是个什么道理。直饶向这里明得。若遇衲僧门下。好槌脚折。汝若是个人闻说道什么处有老宿出世。便蓦面唾污我耳目。汝若不是个脚手。才闻人举便当荷得。早落第二机。又曰。直得触目无滞。达得名身句身一切法空山河大地是名名亦不可得。唤作三昧性海俱备。犹是无风匝匝之波。直得忘知与觉觉即佛性矣。唤作无事人。更须知有向上一窍在。又曰。弹指謦咳扬眉瞬目。拈槌竖拂或作圆相。尽是撩钩搭索。佛法二字未曾道着。道着即撒屎撒尿。又曰。光不透脱有两般病。一切处不明面前有物是一。又透得一切法空。隐隐似有个物相似。亦是光不透脱。又法身亦有两般病。得到法身。为法执不忘己见犹存。坐在法身边是一。直饶透得法身去。放过即不可。子细检点来有什么气息。亦是病。又曰。直得乾坤大地无纤毫过患。犹是转句。不见一色始是半提。直得如此。更须知有全提时节。师居灵树久之迁韶阳云门。广主屡请入内问法。待以师礼。往来学徒不下千人。临终以表辞广主。垂戒学徒端坐而逝。遗命塔全身于方丈。后一十七年。至宋乾德三年。雄武军节度推官院绍庄梦师。以拂子招之曰。为吾寄语秀华宫使特进李托。奏请开塔。吾久蔽塔中。宜令暂出。李得其语即以奏闻。寻有旨。令韶州刺史同诣云门开塔。果见师真容如生。髭发皆长。李复上其事。广主迎真身赴阙。留内庭供养。逾月送归封塔。谥大慈匡真宏明禅师。有法嗣澄远焉。

  (庚戌) 十一月(郭威兵至上为诸兵所杀)右汉二主四年(郭威篡之)。

  (卅四) 周(姓郭氏王水德三主都汴)雷氏曰(周祖郭威世宗恭帝三主九年)。

  (辛亥) 太祖威更名广(刑州唐山人。父简事晋。为顺州刺史。帝少孤贫。落魄无拘。年十八有权勇。尝杀人路徒因李继韬惜其勇而纵之。后汉祖命为枢密使。隐帝听李业赞。遣供奉孟业赍密诏杀帝。帝乃举兵。隐出宿七里寨众溃。隐回至玄化门。刘铢在门上。问隐。左右兵马何在。因射左右。隐回辔西北至赵村。为伶人郭允明刺杀之。帝迎刘旻子赟立之。未至兵士冯道等拥帝而立。太后废赟为湘阴公。以威监国受汉太后诰即位。出汉宫器碎于庭。诏曰。自今纷华之物毋得入宫帝尝屡戒晋王曰。我死当衣以纸衣。殓以瓦棺。至甲寅正月卒。在位三年)改元广顺○辽穆宗璟番名兀律(太宗长子。是年九月世宗兀欲为燕王述轨等弑于新州火神泛。遂即位。改元应历。至戊辰即宋太祖。开宝元年九月为庖人弑于黑山下。治十八年)。

  东汉旻(姓刘氏。汉祖母弟。初名崇为太原守。乾德四年。立三年)。

  世尊示灭一千九百年矣。

  (卅五 壬子) 汝州宝应南院颙禅师示寂。师系河北人嗣兴化奖禅师。上堂示众曰。赤肉团上壁立千仞。时有僧问。赤肉团上壁立千仞。岂不是和上语。师曰是。其僧乃掀倒禅床。南院曰。这瞎驴便棒。又云。诸方只具啐啄同时眼。不具啐啄同时用。有僧便问。如何是啐啄同时用。云作家不啐啄。同时失。僧云。此犹未是某甲问处。云汝问处作么生。僧云。失。师乃打。僧不肯后于云门会下闻二僧举前因缘。一僧云。当时南院。棒折那。僧闻此语忽然大悟。方见南院答话处。僧却回汝州省觐。值师迁化乃访风穴。穴认得便问。上座是当时问南院啐啄同时话底么。僧云是。穴云。会也未。僧云。会也。穴云。尔当时作么生会。僧云。某甲当时如灯影中行相似。穴云。女会也。

  (卅六 癸丑) 旃檀瑞像此下一百七十七年在汴京(九经印板方成印行之)。

  (甲寅) 世宗荣字茂先(太祖犹子。本姓柴氏。亦唐山人。太祖妻兄守礼之子。后从姑养太祖家。遂命为子。官至澶州节度使。祖崩秘丧迎帝立于柩前。威震夷夏。废诸寺宇。年三十而崩。葬庆陵。治六年)改显德○(赵匡胤为宿卫将)。

  东汉承钧(旻之次子。去年旻崩。遂立。拜五台山僧继颙为鸿胪卿。在位三年。不改号)。

  (卅七) 二月诏废天下无敕额寺院。凡三万三百三十六所。存者二千七百所。废铜像为钱。时镇州铜大悲像感应异常。州之士民愿以钱贷。制不许。及毁其背群力皆堕腕而死。遂停其半○制出家者必俟父母命。郡国岁造僧帐。凡死亡还俗者。以时关落之。僧帐自此始(通监)。

  (丙辰) 诏(筑大梁城行钦天历)○诏华山隐士陈抟入见。问以飞升黄白之术。抟答曰。天子富有四海。不应问遣还山。

  (丁巳) 东汉年改天会。

  (卅八 戊午) 显德五年七月十七。清凉文益禅师示疾。江南国主亲降候问。越旬有五日沐浴辞众。端坐而逝。停龛三七颜貌如生。公卿李建勋而下。素服奉全身建塔。谥曰大法眼禅师。余杭人。姓鲁氏。初究教乘傍探儒典。游方遇罗汉琛禅师顿明大事。久之卓庵而居。次历江外至临川。州牧请住崇寿。开堂示众曰。诸人既尽在这里。山僧不可无言与大众举一古人方便。珍重。便下座。时有僧出礼拜。师曰。好问着。僧拟伸问。师曰。长老未开堂不答话。有僧自长庆来。师举先长庆偈问曰。作么生是万象之中独露身。僧举一指。师曰。恁么会又争辩。曰如和尚尊意如何。师曰。唤什么作万象。曰古人不拨万象。师曰。万象之中独露身。说什么拨不拨。僧豁然大悟。述偈投诚。自是诸方会下有知解者龛然而至。始则行行如也。师微以激发。皆渐而服膺。海参之众常不下千计。上堂大众立久。师乃谓曰。只如便散去。还有佛法也无。试说看。若无又来这里作么。若有大市里人聚处亦有。何须到这里。诸人各曾看还源观百门义海华严论涅槃经诸多册子。阿那个教中有这个时节。若有试举看。莫是恁么经里有恁么语是此时节么。有甚交涉。所以微言滞于心首。皆为缘虑之场。实际居于目前。翻为名相之境。又作么生得翻去。若也翻去又作么生得正去还会么。莫只恁么念册子。有什么用处。未几道行闻于江表。金陵国主重师之道迎居报恩。号净惠禅师。次迁清凉朝夕开法。诸方丛林咸仰风化。致异域有慕其法者涉远而至。嗣子德韶国师。文遂江南国导师。惠炬高丽国师。传化焉。师调机顺物斥滞磨昏。凡举古德三昧。或呈解请益。皆应病与药。随根悟入者不可胜纪。寻以韶国师等化旺东南。遂创法眼宗旨。

  杭州永明寺道潜禅师。河中府人也。姓武氏。初谒临川净惠禅师。一见异之。便容入室一日净惠问。子于参请外明什么经。师曰。华严经。惠曰。总别同异成坏是何门摄属。师曰。文在十地品中。据理则世出世间一切法皆具六相。惠曰。空还具六相也无。师懵然无对。惠曰。子却问吾。师乃问。空还具六相也无。净惠曰。空。师于是开悟踊跃礼谢。曰子作么生会。师曰。空。净惠然之。异日因四众士女入院。净惠问师曰。律中道。隔壁闻钗钏声。即名破戒。见睹金银合杂朱紫骈阗。是破戒不是破戒。师曰。好个入路。惠曰。子向后有五百毳徒而为王侯所重在。师寻礼谢辞。驻锡于衢州古寺。阅大藏经而已。忠懿王命入府受菩萨戒。署慈化定惠禅师。建大伽蓝。号惠日永明。请居之。师曰。欲请塔下罗汉铜像过新寺供养。王曰。善。予昨梦十六尊者乞随师入寺。何昭应之若是。仍于师号加应真二字。师坐永明大道场。常五百众。师上堂曰。佛法显然。因什么却不会去。诸上座欲问佛法。但问取张三李四。欲会世法则参取古佛丛林。无事久立。僧问。至道无难借言显道。如何是显道之言。师曰。切忌拣择。问如何是惠日祥光。师曰。此去报慈不远。曰恁么则亲蒙照烛也。师曰。且喜没交涉。

  (戊午) 春帝欲济江南唐璟(大惧遣兵部陈觉非奉表割江北十四州地用周正翔而降)。

  荆保勖(字省躬诲之第十子。在位四年。寿五十九矣)。

  (己未) 赵太祖光胤(连年征讨有功。授归德节度使。殿前都点检)。

  六月世宗北伐。病背痈縻溃而崩于道。

  恭帝崇训。世宗第四子。七岁即位。命宋太祖赵光胤讨河东。军情忽变有飞语云。不如扶点检为天子。遂立宋祖。降封帝为郑王。立不一年。

  右周三主凡十一年。

  佛祖历代通载卷第十七

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第十八

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  宋 雷氏曰(宋朝祖宗真仁英神哲徽及少百六十六。靖康北迁)。

  (一 庚申) 太祖玄朗(姓赵。王火德。都于汴。初名光胤。宣祖次子。生于洛阳。雄武端[悫-一+土]识度豁如。周祖以为东西班首。世祖命掌亲军迁殿前都点检。恭帝命征河东。晚驻陈桥驿。军情忽变。众拥立之。正月四日受禅。丙子十月崩于万岁殿。葬永昌陵。寿五十)改建隆○辽应历十年。

  (二) 是年十二月。诏于杨州城下战地。造寺赐额建隆赐田四顷。命僧道晖主之。初周废佛寺三万三百所。毁镇州大悲像铸钱。世宗亲秉钺洞其膺。不四年疽溃于膺。帝偕太宗目击其事。因问神僧麻衣。天下何时定。麻曰。甲子方大定。仍对以三武废教之祸。帝深然之。及即位屡建佛寺。岁度八千僧(出欧阳外传疏)。

  (辛酉) 诏诞圣节。京师及天下命僧。升座祝寿为准。

  (壬戌) 诏每年试童行通莲经七轴者。给祠部牒披剃。

  荆高继冲(字成和融之子。立一年降宋)○南唐李煜立。

  (癸亥) 改乾德○慕容延钊伐荆降。封冲武宁军节度。

  (甲子 六一) 诏王全斌等伐蜀。乙丑降于宋。

  (丙寅) 东汉继恩(其父薛钊刘旻爱其贤。以女妻之。生恩。钊卒后。适何氏生元。何氏夫妇卒。承钧无子。旻以二子命钧养之。定王钧薨。恩绍位。九月为侯霸荣杀之)。

  继元(姓何氏。亦承钧养子。恩之同母弟。郭无为侯霸荣迎立之。改年广运。一十三年)。

  (丁卯) 三月五星聚奎○大教东被九百年矣。

  (戊辰) 改开宝○辽景宗讳明记立(更名贤。世宗子。自年保宁。治十五年)。

  (己巳) 二月十六长春节诏(四海僧上表入殿庭。试三学十余条。全通者赐紫衣。号曰手表僧。宰辅亲王监司刺史各荐所知。唯西街所荐。是日入内殿。门下牒谓之帘前师号。仍赐紫衣)。

  (辛未) 诏成都造金银字佛经各一藏(初戊辰九月廿七敕兵部侍郎刘熙古监造。是年六月十一日敕再造金字经一藏)。

  (壬申) 诏雕佛经一藏(计一十三万板○封南汉银恩赦侯○又遣陶谷下宋齐丘)。

  (三) 天台山德韶国师示寂。师处州龙泉陈氏。母夜梦白光触体。因而有娠。及诞尤多奇异。年十五有梵僧。勉令出家。十七依本州龙归寺落发。十八纳戒于信州开元。后梁开平中游方。诣投子山见大同禅师。发心之始也。次谒龙牙疏山。各有机缘。历五十四员知识皆不契。后之临川。谒净惠益公。一见深器之。师以遍参但随众而已。益上堂。僧问。如何是曹源一滴水。益云。是曹源一滴水。师于座侧豁然大悟。平生疑滞涣若冰释。遂以所悟闻于益。益曰。汝向后当为国王师。致祖道光大。吾不如也。自是诸方异唱古今玄键。与之决择不留微迹寻游天台。观智者顗禅师遗迹若旧。复与智者同姓。时谓后身焉。初止白沙。吴越忠懿王以国王子刺台州。向师之名。延请问道。师谓之曰。他日为霸主无忘佛恩。后汉乾祐元年王嗣位。遣使迎之。申弟子礼。有传天台教义寂者。屡恳于师曰。智者之教年祀浸远虑多散落。今新罗国其本甚备。自非和尚慈力。其孰能致之乎。师于是闻于忠懿王。王遣使及赍师书往彼缮写备足而回。迄今盛行于江南。师于般若开堂说法。十二会语具传灯。尝有偈示众曰。通玄峰顶不是人间。心外无法满目青山。开宝辛未华顶四峰忽摧声震若雷。师曰。吾非久矣。明年六月大星殒于峰顶。林木变白。师乃示寂于莲华峰。参问如常。二十八日集众言别。跏趺而逝。寿八十二。腊六十五。

  (癸酉) 后周恭帝崇训卒。

  (四) 汝州风穴禅师示寂。讳延沼。伪唐乾宁三年十二月。生于余杭刘氏。少魁垒有英气。于书无所不观。然无经世意。父兄强之仕。一至京师即东归。从开元寺智恭律师。剃发受具。游讲肆。玩法华玄义。修止观定慧。宿师争下之。弃去游名山。谒越州镜清怤禅师。机语不契。北游襄沔间寓止华严。时僧守廓者。自南院颙公所来。华严升座曰。若是临济德山高亭大愚鸟窠船子下儿孙。不用如何若何便请单刀直入。廓出众便喝。华严亦喝。廓又喝。华严亦喝。廓礼拜起。指以顾众曰。这老汉一场败缺。喝一喝归众。穴心奇之。因结为友。遂默悟三玄旨要。叹曰。临济用处如是耶。廓使更见南院。问曰。入门须辩主。端的请师分。南院左拊其膝。穴便喝。院右拊其膝。穴亦喝。院曰。左边一拍且止。右边一拍作么生。穴云。瞎。院反取主杖。穴笑云。有枷瞎棒。倒夺打和尚去。南院倚主杖曰。今日被黄面浙子钝置。穴云。大似持钵不得诈言不饥。院曰。子到此间乎。曰。是何言欤。院曰。好问汝。曰亦不可放过。便礼拜。南院喜赐之坐。问所与游者何人。对曰。襄州与廓侍者同夏。院曰。亲见作家。穴于是俯就弟子之列。从容承禀日闻智证。南院曰。汝乘愿力来荷大法。非偶然也。问曰。女闻临济将终时语不。曰闻。曰。临济云。谁知吾正法眼藏向这瞎驴边灭却。渠平生如师子。见即杀人。及其将死何故屈膝妥尾如此。对曰。密付将终全主即灭。又问。三圣如何亦无语乎。曰亲承入室之真子。不同门外之游人。院颔之。又问。四种料简语料简何法。对曰。凡语不滞凡情即堕圣解。学者大病。先圣哀之为施方便。如楔出楔。曰如何是夺人不夺境。曰新出红炉金禅子。簉破阇黎铁面门。又问。如何是夺境不夺人。曰刍草乍分头脑裂。乱云初绽影犹存。又问。如何是人境俱夺。曰蹑足进前须急急。促鞭当鞅莫迟迟。又问。如何是人境俱不夺。曰常忆江南三月里。鹧鸪啼处百花香。又问曰。临济有三句。当日有问。如何是第一句。济云。三要印开朱点窄。未容拟议主宾存。穴随声便喝。又曰。如何是第二句。济云。妙解岂容无著问。沤和争赴截流机。穴云。未问已前错。又问曰。如何是第三句。济曰。但看棚头弄傀儡。抽牵全藉里头人。穴云。明破即不堪。于是南院以为可以支临济。幸不孤负兴化先师所以付托之意。穴依止六年。乃辞去。后唐长兴二年至汝水。见草屋数椽依山如逃亡人家。问田父此何所。田父曰。古风穴寺世以律居。僧物故。又岁饥众弃之而去。余佛像鼓钟耳。穴云。我居之可乎。田父曰可。穴入留止。日乞村落。夜然松脂。单丁者七年。檀信为新之成丛林。伪晋天福二年。州牧闻其风尽礼致之。上元日开法嗣南院。伪汉乾祐二年。牧移宇郢州。穴又避寇往依之。牧馆于郡斋。寇平汝州有宋太师者。施第为宝坊。号新寺。迎穴居焉。法席冠天下。学者自远而至。升座曰。先师曰。欲得亲切莫将问来问会么。问在答处。答在问处。虽然如是。有时问不在答处答不在问处。女若拟议。老僧在女脚跟底。大凡参学眼目。直须临机大用现前。勿自拘于小节。设使言前荐得。犹为滞壳迷封。句下精通。未免触途狂见。应是向来依他作解。明昧两岐与女一切扫却。直教个个如师子儿吒呀地。对众证据。哮吼一声壁立千仞。谁敢正眼。觑觑着着即瞎却渠眼。又曰。若立一尘。家国兴盛。野老颦頞。不立一尘。家国丧亡。野老安贴。于此明得阇黎无分。全是老僧于此不明。老僧即是阇阇黎黎。与老僧无别。亦能悟却天下人。亦能瞎却天下人。欲识阇黎么。拊其左膝曰。这里是。欲识老僧么。拊其右膝曰。遮里是。于时莫有善其机者。伪周广顺元年。赐寺名广惠。二十有二年以宋开宝六年癸酉八月旦。登座说偈曰。道在乘时须济物。远方来慕自腾腾他年有叟情相似。日日香烟夜夜灯。至十五日跏趺而化。前一日手书别檀越。阅世七十有八。坐五十有九夏。有得法上首住汝州首山念禅师。

  (甲戌) 诏曹彬等征南唐○辽改乾亨。

  (乙亥) 曹彬擒南唐主李煜归。封违命侯。国除。

  (五) 杭州慧日永明智觉禅师示寂。讳延寿。余杭人。姓王氏。总角之岁归心佛乘。既冠不茹荤日唯一食。持法华。七行俱下。才六旬悉能诵之。感群羊跪听。年二十八为华亭镇将。属翠岩永明大师。迁止龙册寺大阐玄化。时吴越文穆王知师慕道。乃从其志放令出家。礼翠岩为师。执劳供众。都亡身宰。衣不缯缕。食无重味。野蔬衣檽以遣朝夕。寻往天台天柱峰。九旬习定。有鸟类尺[宴*鸟]。巢于衣褶中。既谒韶国师。一见深器之。密授玄旨。仍谓师曰。汝与元帅有缘。他日大兴佛寺。初住明州雪窦山。学侣臻凑。师上堂曰。雪窦这里。迅瀑千寻不停纤粟。奇岩万仞无立足处。汝等诸人向什么处进步。时有僧问。雪窦一径如何履践。师云。步步寒花结。言言彻底冰。建隆元年。忠懿王请住灵隐山新寺。为第一世。明年复请住永明大道场。为第二世。众盈二千。僧问。如何是永明旨。师曰。更添香着。曰谢。师指示曰。且喜没交涉。师有偈曰。欲识永明旨。门前一湖水。日照光明生。风来波浪起。居永明十五年。度弟子千七百人。开宝七年入天台山。度戒万余人。常与七众受菩萨戒。夜施鬼神食。朝放诸生类。六时散花行道余力念。法花经一万三千部。着宗镜录一百卷。诗偈赋咏凡千万言。高丽国王览师言教。遣使赍书叙弟子礼。奉金缕袈裟紫晶数珠金澡灌等。彼国僧三十六人。亲承印记归国。各化一方。开宝八年乙亥十二月二十六日辰时。焚香告众跏趺而逝。寿七十二。腊四十二。明年建塔于大慈山焉。宋太宗赐额。曰寿宁禅院云。

  (六) 天下大元帅吴越国王钱俶。制宗镜录序文曰。详夫域中之教三。正君臣。亲父子。厚人伦。儒吾之师也。寂兮寥兮。视听无得。自微妙升虚无。以止乎乘风驭景。君得之则善建不拔。人得之则延贶无穷。道儒之师也。四谛十二因缘。三明八解脱。时习不忘日修以得。一登果地。永达真常。释道之宗也。惟此三教并自心修。心镜录者。智觉禅师所撰也。总乎百卷。包尽微言。我佛金口所宣。盈乎海藏。盖亦提携后学。师之智慧辩才。演畅万法明了一心。禅际河游惠间云布。数而称大。莫能尽纪。聊为小序以颂宣行云尔。

  (七) 宋左朝请郎尚书礼部员外郎护军杨杰。撰宗镜录后序云。诸佛真语以心为宗。众生信道以宗为鉴。众生界即诸佛界。因迷而为众生。诸佛心是众生心。因悟而成诸佛。心如明鉴万像历然。佛与众生其犹影像。涅槃生死俱是强名。鉴体寂而常照。鉴光照而常寂。心佛众生三无差别。国初吴越永明智觉寿禅师。证最上乘。了第一义。洞究教典深达禅宗。禀奉律仪广行利益。因读楞伽经云。佛语心为宗。乃制斯录。于无疑中起疑。无问中设问。为不请友真大导师。掷龙宫之宝。均施群生。彻祖门之关。普容来者。举目而视。有欲皆充。信手而拈。有疾皆愈。荡涤邪见指归妙源。所谓举一心为宗。照万法为鉴矣。若人以佛为鉴。则知戒定慧为诸善之宗。人天声闻缘觉菩萨如来。由此而出。一切善类莫不信受。若以众生为鉴。则知贪嗔痴为诸恶之宗。修罗傍生地狱鬼趣。由此而出。一切恶类莫不畏惮。善恶虽异其宗则同。返鉴其心。则知灵明湛寂广大融通。无为无住无修无证。无尘可染。无垢可磨。为一切诸法之宗矣。初吴越忠懿王字之秘于教藏。至元丰中。皇弟魏端献王。镂板分施名蓝。四方学者罕遇其本。元祐六夏。游东都法云道场。始见钱唐新本。尤为精详。乃吴人徐思恭请法涌禅师。同永乐法真二三耆宿。遍取诸录。用三乘典籍贤圣教语。校读成就以广流布。其益甚博。法涌知予喜阅是录。因请为序。

  (八 丙子) 太宗炅(初名匡义。宣第三子。初太祖陈桥之变。谏兄令军不得剽虏。生灵获安。至道三年三月崩于万岁殿。葬永熙陵。寿五十九)改太平兴国○(诏僧尼复试经科)。

  ○吴越忠懿王钱俶以国宾宋○(是年十一月日有食之既)。

  (九 戊寅) 帝制新译三藏圣教序。赐天竺三藏法师天息灾文曰。大矣哉。我佛之教也。化道群迷阐扬宗性。广博宏辩。英彦莫能究其旨。精微妙说。庸愚岂可度其源。义理幽玄真空莫测。包括万象譬喻无垠。总法网之纪纲。演无际之正教。拔四生之苦海。译三藏之秘言。天地变化乎阴阳。日月盈亏乎寒暑。大则说诸善恶。细则比于河沙。含识万端弗可尽述。若窥像法如影随形。离六情以长存。历千劫而可久。须弥内藏于芥子。如来坦荡于无边。达磨西来传法东土。宣扬妙理顺从指归。彼岸菩提爱河生灭。用行于五浊恶趣。拯溺于三业途中。经垂世之无穷。道无私而永泰。雪山贝叶。若银台之耀目。岁月烟萝。起香界之自远。巍巍罕测杳杳难名。所以道资十圣德被三贤。至道启乎乾元。众妙生乎太易。综繁形类窍凿昏冥。绝彼是非开兹蒙昧。有西域法师天息灾等。常持四忍早悟三空。翻贝叶之真诠。续人天之圣教。芳猷重启偶运当时。润五声于文章。畅四始于风律。堂堂容止穆穆辉华。旷劫而昏垫重明。玄门昭显。轨范而宏光妙法。净界腾音。利益有情。俱登觉岸。无所障碍。救诸疲羸。冥昧慈悲。汗漫物表。柔愎贪很。启迪昏愚。演小乘则声闻合其仪。论大乘则正觉立其性。含灵悟而蒙福。藏教缺而重兴幻化迷途火宅深喻。虽设其教不知者多。善念生而福量潜臻。恶业兴而胜缘皆坠。调御四众积行十方。澍华雨于金轮。护洹河于玉阙。有顶之风不可坏。无际之水不能漂。澄寂湛然。圆明清洁之智慧。性空无染。实相解脱之因缘。可以离烦恼于心田。可以得清凉于宇宙。朕惭非博学释典微闲。岂堪叙文以示来者。如縻萤爝火不足比于皎日。将微蠡量海。岂能穷于深渊者哉。

  (己卯) 北汉降封彭城公○止僧科。

  (十) 沙门赞宁随钱王归明。姓高氏。其先渤海人。唐天祐中。生于吴兴之德清金鹅别墅。出家杭之祥符。习南山律著述毗尼。时人谓之律虎。文学日茂声望日隆。武肃诸王公族咸慕重之。署为两浙僧统。赐号明义宗文。兴国三年。太宗闻其名。召对滋福殿。延问弥日。改赐通惠。诏修大宋高僧传三十卷。及诏撰三教圣贤事迹一百卷。初补左街讲经首座。知西京教门事。咸平初加右街僧录。又着内典集一百五十卷。外学集四十九卷。内翰王禹称作文集序。极其赞美云。至道二年示寂。葬龙井坞焉。

  (十一 壬午) 舒州柯萼。遇异僧于万岁山。以杖指松根。使萼钁之。得瑞石篆文。谶圣朝国祚无疆。萼进石于京师。诏藏秘府○他日大士宝志降现禁中。帝亲闻绪言。致祭钟山。赐号道林真觉菩萨○是年诏立译经传法院于东京。如唐故事。宰辅为译经润文。设官分职西天中印土惹烂陀罗国密林寺天息灾与法天施护译经。帝制前序。诏普度天下童行为僧。不限有司常制。自即位至是。凡度一十七万余人。

  (十二) 是年五月窜秦王廷美。降涪陵县公。安置房州。上尝以传国意访之赵普。普曰。太祖已误。陛下岂容再误耶。廷美所以得罪。则普为之也。卢多逊在朝握权。常短赵普。普恶之。遂入觐观变。奏多逊谓陛下万年之后。当以天下与魏王。魏王当还秦王。陛下不当立太子。俱坐大逆。免死放归田里。咸以为冤。秦王即太祖少子德芳也。上遂南迁二王。寻杀之。忽一日赵普见空有火一团。一羔羊转运其上。拜曰。普之罪也。须臾光灭。遂得疾。命方士祷疾。见烟焰中有朱牌金字书云。魏王廷。美士谢曰。普言非其罪也。有答之曰。杜大后遗言。丞相写誓书。藏之金柜石室。而首发多逊之狱。致主上杀一弟一侄。安可谓之无罪。俄而普薨。

  (癸未) 辽圣宗名隆绪。即位改统和。

  (甲申) 改雍熙○敕修泗洲塔○(十月诏隐士陈抟赐希夷先生。寻请归华山)。

  (乙酉) 二月诏禁增置寺观。

  (十三 丁亥) 益州青城香林院澄远禅师示寂。师生西川汉州绵竹县上官氏。法嗣云门偃禅师。初住西川导江县迎祥寺天王院。时谓水精宫僧问。美味醍醐因甚变成毒药。曰导江纸。问见色便见心时如何。曰适来什么处去来。问心镜俱亡时如何。曰开眼坐睡。师复住香林。僧问。北斗里藏身意旨如何。曰月似弯弓少雨多风。问如何是室内一灯。曰三人证龟成鳖。问如何是衲衣下事。曰腊月火烧山。问大众云集请师施设。曰三不待两。问如何是学人时中事。曰恰恰如何是玄。曰今日来明日去。问如何是玄中玄。曰长连床上(余如传灯)。

  (戊子) 改端拱○(赐西夏李继俸姓名赵保忠银夏绥寮密五州使)。

  (庚寅) 改淳化(诏撰三教圣贤事迹。参政苏易简编次。赞宁僧统道士韩德纯预焉)。

  (十四 辛卯) 南安岩尊者示寂。师讳自严。生郑氏。泉州同安人也。年十一弃家。依建兴卧像寺僧契缘为童子。十七为大僧。游方至庐陵。谒西峰耆宿云豁。豁乃清凉智明禅师高弟云门嫡孙也。太宗尝诏至阙。馆于北御园舍中。习定久之。恳之还山。公依止五年。密契心法。辞去渡怀仁江。有蛟每为行人害。公为说偈诫之而蛟辄去。过黄杨峡。渴欲饮。会溪涸。公以杖擿之而水得。父老来聚观。合爪以为神。公遁去。武平黄石岩多蛇虎。公止住而蛇虎可使令。四远闻之大惊。争敬事之。民以雨旸男女祷者。随其欲应念而获。家画其像饮食必祭。邻寺僧死。公不知法当告官。便自焚之。吏追捕。坐庭中问状。不答索纸作偈曰。云外野僧死。云外野僧烧。二法无差互。菩提路不遥。而字画险劲如擘窠大篆。吏大怒。以为狂旦慢己。去僧伽黎曝日中。既得释因以布帽其首。而衣以白服。公根所说法听者疑信半。因不语者六年。岩寺当输布而民岁代输之。公不忍折简。置布吏中祈免。吏张晔欧阳程者。相顾怒甚。追至问状。不答。以为妖火所著帽明鲜。又索纸作偈曰。一切慈忍力。皆吾心所生。王官若拘束。佛法不流行。自是时亦语。去游南康槃古山。先是西竺波利尊者经始谶曰。却后当有白衣菩萨来兴此山。公住三年而成丛林。异迹甚着。如本传所属。状以闻。诏佳之。宰相王钦若大参赵安仁已下皆献诗。公未尝视。置承尘上而已。淳化辛卯正月初六日。集众曰。吾此日生。今正是时。遂右胁卧而化。阅世八十有二。坐六十有五夏。谥曰定光圆应禅师。

  (十五) 首山念禅师。莱州人。生狄氏。幼弃家得度于南禅寺。为人简重有精识。行头陀行日诵法华。丛林畏敬之。目以为念法华。至风穴随众作止。无所参扣。然终疑教外有别传之法不言也。风穴每念。大仰有谶。临济一宗至风而止。惧当之。熟视座下堪任法道。无如念者。一日升座曰。世尊以青莲目顾迦叶。正当是时。且道个什么。若言不说说。又成埋没先圣。语未卒念便下去。侍者进曰。念法华无所言而去何也。穴曰。渠会也。明日念与真上座俱诣方丈。穴问真曰。如何是世尊不说说。真曰。鹁鸠树上鸣。穴云。汝作许多痴福何用。乃顾念曰。如何。师曰。动容扬古路。不堕峭然机。穴谓真曰。何不看渠语。又一日升座顾视大众。念便下去。穴即归方丈。自是声名重诸方。首山在汝州城外荒远处。而念居之终身焉。登其门者皆丛林精练衲子。念必勘验之。留者才二十余辈。天下称法席之冠。必指首山。尝问僧。不从人荐得的事。试道看。僧便喝。曰好好相借问。恶发作么僧又喝念曰。今日。放过即不可。僧拟议。念喝之。尝谓众曰。佛法无多子。只是汝辈自信不及。若能自信。千圣出头来无柰汝何。何故为向汝面前无开口处。只为汝自信不及向外驰求。所以到这里。假如便是释迦佛。也与汝三十棒。然虽如是。初机后学。凭个什么道理。且问汝辈。还得与么也未。良久云。若得与么方名了事。尝作纲宗偈曰。咄哉拙郎君。巧妙无人识。打破凤林关。穿靴水上立。咄哉巧女儿。撺梭不解织。看他斗鸡人。水牛也不识。淳化三年十二月初四日。留僧过岁。作偈曰。吾今年迈六十七。老病相依且过日。今朝记取明年事。明年记着今年日。至次年十二月初四日。升座。辞众曰。诸子谩波波。过却几恒河。观音指弥勒。文殊不柰何。良久曰。白银世界金色身。情与无情共一真。明暗尽时都不照。日轮午后示全身。日午后泊然而化。塔于首山。嫡嗣汾阳。昭禅师(余如本传)。

  (十六 乙未) 改至道御制秘藏佺等○六月限僧尼额。

  (戊戌) 真宗恒(太宗第三子。初名德昌。又改元侃。以轩辕为圣祖。目曰昊天玉皇上帝。追封孔子曰至圣文宣王。寿五十五崩于延庆殿)改年咸平。

  (十七) 帝制继圣教序。赐天竺三藏朝散大夫试光禄卿明教大师法贤。其辞曰。高明肇分。三辰方乃序其始。厚载初定。万汇于以发乎端。清浊之体既彰。善恶之源是显。然后以文物立其教。以正典化其俗。利益之功同归于理。于是乎像法来于西国。真谛流于中夏。洞贯千古。真实之理无以穷。囊括九围。玄妙之门莫能究。言乎妄想则五蕴皆空。现乃真容则一毫圆满。广大之教岂能继述者哉。伏睹太宗皇帝法性周圆仁慈普布。化蛮貊则万邦辐凑。跻烝民于仁寿之乡。崇教法则四海云从。惠苍生于富庶之域。见尊经之浩汗。设方便以救沉沦。知法界之恢宏。行精进而摄懈怠。乃择其邃宇校彼真文。命天竺之高僧。译贝多之佛语。象管翻成于金字。珠编复置于琅?。龙宫之圣藻惟新。鹫岭之苾刍仰叹。繇是三乘共贯四谛同圆。尽苦空真正之言。显秘密研精之义。赞相相乎实相。论空空乎尽空。华严之理合轨辙。金仙之教同规矩。朕缵嗣丕构。恭临宝图。常翼翼以抚兆民。每兢兢而守先训。以至释典犹未精详源其幽深。曷能探测。有译经西域僧法贤。奏章恳切致意专勤。以先皇帝大阐真风高传佛日。兴前王之坠典。振觉路之颓纲。欲旌天造之功庸。用广圣文之述作。请予制序继圣教焉。自圣考上仙追号罔极。息政事之外。何暇经心。今已禫除。思臻微奥。虽幼承慈训。柰夙乏通才。焉穷乎法海之津涯。莫造乎空门之阃域。略敷大意以徇舆情。蹄涔不足拟浴日之波。尺棰岂能量昊天之影。聊述短序以纪圣功者焉。

  (十八 甲辰) 改景德○东吴僧道源。续开平以来宗师机缘。统集宝林圣胄等传。为传灯录三十卷。诣阙进呈。帝览之嘉赏。敕翰林杨亿等刊正。并撰序颁行天下。

  (戊申) 改大中祥符○(六月天书降太山○十月东封)。

  (十九 己酉) 诏诸路置天庆观○(先是。杨砺充襄王府记室舍。梦至一大殿上。真人服王者衣冠秉圭南向。前有案置籍录人姓名。砺见已名居上。因请示休咎。真人指一人曰。此来和天尊。异日为汝主也。砺问之。天尊笑曰此去四十年。汝功成。余名亦显。砺而志之。及充襄王府记室。参军追而语诸人曰。吾今见襄王仪貌。即来和天尊也。上即位。后多好神仙道家之术焉)。

  (癸丑) 辽改开泰。复号大契丹。

  (甲寅) 天竺三藏施法护(译佛吉祥等经二百余卷。参政赵安仁等润文)。

  (乙卯) 诏道释藏经互相毁者删去。枢密王钦若以化胡经乃古圣遗迹不可削○又诏王钦若。详定罗天醮仪一十卷。颁行。

  (丁巳) 改天禧○禁民弃父母而为僧道。

  (己未) 帝于九月大会道释(于大安殿。凡万三千余人。先是建斋醮。上亲临。赐以银药大钱)。

  (壬戌) 改乾兴。二月上崩○辽改年太平。

  (二十) 杭州孤山智圆法师卒字无外。自号中庸子。或称潜夫。生钱唐徐氏。父母令入空门。八岁受具。二十一闻奉先源清师传天台三观之旨。问辩凡二年而清殁。遂居西湖孤山学者归之如市。与处士林和靖为邻友。王钦若出抚钱唐。慈云遣使邀师同迓之。圆笑谓使者曰。钱唐境上且驻却一僧。圆早瘿瘵疾故又号病夫。讲道吟哦未尝倦。预戒门人曰。吾殁后。毋厚葬以罪我。母建塔以诬我。毋谒有位求铭以虚美我。宜以陶器二合而瘗之。立石志名字年月而已。及亡门人如所戒。斸所居岩以藏之。不屋而坛。时乾兴元年二月十七也。寿四十有七。后十五年积雨山颓。门人开视陶器。肉身不坏。爪发俱长。唇微开露齿若珂贝。乃更袭新衣屑众香散其上而重瘗之。崇宁三年赐谥法惠大师。其所撰述。般若经遗教经疏各二卷。瑞应经不思议法门经无量义经普贤行法经弥陀经等疏。及四十二章经注各一卷。首楞严经疏十卷。又撰阐义钞三卷(释请观音疏)。索隐记四卷(释光明句)。刊正记(释观经疏)。表微记一卷(释光明玄)。垂裕记十卷(释净名略疏)。发源机要记二卷(释涅槃玄)。百非钞一卷(释涅槃疏金刚身品百非之义)。三德指归二十卷(译涅槃疏)。显性录四卷(释金[铠-豆+十])。摭华钞二卷(释圭峰兰盆疏)。西资钞一卷(释自造弥陀疏)。诒谋钞一卷(释自造心经疏)。谷响钞五卷(释自造楞严疏)。折重钞一卷(释自造文殊般若疏大论有云折重令轻)。正义一卷(释十不二门)。闲居编五十一卷(杂着诗文)。皆假道适情为法行化之傍赞云。◎

  ◎(癸亥) 仁宗禛(真宗第六子。遗旨即位。上得皇子已晚。始生日夜啼不止。有道人能止啼。召入则曰。莫叫莫叫何似当初莫笑。啼即止。盖真宗尝龥上帝祈嗣问群仙。谁当往者。皆不答。独赤脚大仙一笑。遂降为嗣。在宫中好赤脚。其验也。十三即位刘太后垂帘同听政。大治四十二年。寿五十四。葬永昭陵)。

  改天圣元年○行崇天历。

  (二十一 甲子 八一) 是年汾阳善昭禅师示寂。生俞氏。太原人也。器识沉邃不缘饰。有大志。于一切文字。不由师训自然通晓。年十四父母俱丧。孤苦厌世相。剃发受具杖策游方。所至少留。不喜观览。或讥其不韵。昭叹曰。是何言之陋哉。从上先德行脚。正以圣心未通驰求决择尔。不缘山水也。师历诸方见老宿七十一人。皆妙得其家风。尤喜论曹洞。石门彻禅师者。盖其派之魁奇者。昭作五位偈示之曰。五位参寻切要知。纤毫才动即差违。金刚透匣谁能晓。唯有那吒第一机。举目便令三界静。振铃还使九天归。正中妙挟通回互。拟议锋铓失却威。彻拊掌称善。然终疑临济儿孙别有奇处。最后至首山。问百丈卷席意旨如何。曰龙袖拂开全体现。昭曰。师意如何。曰象王行处绝狐踪。于是大悟言下。拜起而曰。万古碧潭空界月。再三捞捷始应知。有问者曰。见何道理便尔自肯。曰正是我放身命处。服勤甚久。辞去游湘衡间。长沙太守张公茂宗。以四名刹请昭择之而居。昭笑一夕遁去。北抵襄沔寓止白马。太守刘公昌言闻之造谒。以见晚为叹。时洞山谷隐皆虚席。密议归昭。太守请择之。昭以手揶揄曰。我长行粥饭僧。传佛心宗非细职也。前后八请坚卧不起。淳化四年首山殁。西河道俗千余人协心削牍遣沙门契聪迎请。住持汾州太平寺太子院。昭闭关高枕。聪排闼而入让之曰。佛法大事。静退小节。风穴惧应谶。忧宗旨坠灭。幸而有先师。先师已弃世。汝有力荷担如来大法者。今何时而欲安眠哉昭矍起握聪手曰。非公不闻此语。趋办严吾行矣。既至宴坐一榻足不越阃者三十年。天下道俗慕仰不敢名。同曰汾州。并汾地苦寒。昭罢夜参。有梵僧振锡而至。谓昭曰。会中有大士六人。奈何不说法。言讫升空而去。昭密记以偈曰。胡僧金锡光。请法到汾阳。六人成大器。劝请为敷扬。时楚圆守芝号上首。丛林知名。龙德府尹。李侯与昭有旧。虚承天致之。使三反不赴。使者受罚。复至曰。必欲得师俱往。不然有死而已。昭笑曰。老病业已不出院。借往当先后之何必俱耶。使曰。师诺则先后唯所择。昭令馔设且俶装曰。吾先行矣。停箸而化。阅世七十有八。坐六十五夏。

  (二十二 丙寅) 天圣四年赐天台教部入藏。天竺寺思悟侍者。焚躯为报国恩。悟钱唐人。初慈云式公欲以智者教卷求入藏。文穆王公将闻之朝。悟曰。非常事也。小子将助之矣。乃绘大悲像咒以誓曰。事集焚躯报国。会公薨。悟诵咒益精。是年得旨克遂初志(式为赞刻石焉)。

  (二十三 丁卯) 大阳禅师。名警玄。祥符中。避国讳易称警延。江夏张氏子。其先盖金陵人。仲父为沙门。号智通。住持崇孝。延往依以为师。十九为大僧。听圆觉了义经。问讲者。何名圆觉。曰圆以圆融有漏为义。觉以觉尽无余为义也。延曰。空诸有无何名圆觉。讲者叹曰。是儿齿少而识卓如此。我所有何足以益之。政如以秽食置宝器。其可哉。通知之使令游方。初谒鼎州梁山观公。问如何是无相道场。观指壁间观音像曰。此是吴处士画。延拟进语。观急索曰。这个是有相。如何是无相底。于是悟旨于言下。拜起而侍。观曰。何不道取一句子延曰。道即不辞。恐上纸墨。观笑曰他日此语上碑去在。延献偈曰。我昔初机学道迷。万水千山觅见知。明今辩古终难会直说无心转更疑。蒙师指出秦时镜。照见父母未生时。如今觉了何所得。夜放乌鸡带雪飞。观称洞上之宗可倚矣。延亦自负。侪辈莫敢攀奉。一时声价籍甚。观殁。辞塔出山。至大阳谒坚禅师。坚欣然让法席使主之。延受之。咸平庚子岁也。示众曰。廓然去。肯重去。无所得心去。平常心去离彼我心去。然后方可。所以古德道。牵牛向溪东。放不免纳官家徭税。牵牛向溪西。放不免纳官家徭税。不如随分纳些些。渠总不妨。免致劳扰。作么生是随分纳些些底道理。但截断两头有无诸法。凡圣情尽体露真常。事理不二即如如佛。若能如此者。法法无依平等大道万有不系。随处转辘辘地更有何事。延神观奇伟有威重。日常一食。自以付受之重。足不越限。胁不至席。五十年。年八十。坐六十一夏。叹无可以继其法者。以洞上旨诀。寄叶县省公之子法远。使为求法器传续之。天圣五年七月十六日升座辞众又三日以偈寄侍郎王曙曰。吾年八十五。修因至于此。问我归何处。顶相终难睹。停笔而化。

  (二十四 戊辰) 四明延庆法智卒。后于元丰三年冬。其法孙继忠状其行。请文于宋清献公赵抃撰行业碑。其略曰。师名知礼。字约言。金姓。世为明州人。梵相奇伟性恬而器闳。初父母祷佛求息。梦神僧携一童遗曰。此佛子罗睺罗也。既生以名焉毁齿出家。十五落发受具。二十从本郡宝云通师。传天台教观。始三日。首座谓曰。法界次第若当奉持。礼曰。何谓法界。座曰。大总相法门圆融无碍者是也。曰既圆融无碍。何得有次第耶。座无语。几一月自讲心经。人皆属听而惊。谓教法之有赖矣。居三年代通讲。销义益阐所学。出住承天继迁延庆。道法大炽学徒如林。日本国师遗徒持二十问来询法要。礼答之咸臻其妙真宗久闻师名。遣中使至寺。命修忏法。厚有赐予。岁大旱。师焉遵式等修光明为祷。而雨大洽。所制指要妙宗二钞观音品别行金光明诸记大悲忏仪。行于世。翰林学士杨亿驸马李遵勖。荐以紫衣师号。后于岁旦结光明忏。七日为顺寂之期至五日趺坐而逝。实天圣六年正月五日也。享寿六十有九。僧夏五十有四(云云)。

  (二十五 庚午) 长水法师子璇。嘉禾人。初依洪敏师学楞严。至动静之相了然不生有省。闻琅瑘惠觉道重当世。趋至其门。值其上堂致问曰。清净本然云何忽生山河大地。觉亢声云。清净本然云何忽生山河大地。师豁然大悟。觉谓之曰。汝宗不振久矣。宜励志扶持以报佛恩。师如教。后住长水。众几一千。以贤首宗旨述楞严经疏十卷。行于世。

  (壬申) 改明道 ○辽宗真立。号兴宗改景福。

  (二十六) 天竺慈云法师遵式卒。字知白。叶氏。台州宁海人。母王氏梦咽明珠而生。稍长不乐随兄为贾。潜往东掖山出家。年二十往禅林受具。明年习律学于守初。式继入国清普贤像前。烬一指誓传天台之教。雍熙初来谒四明。北面受业。未几智解秀出。智者讳日。然顶终朝誓力。行四三昧。淳化初。众请居宝云。讲未尝歇。灵异之迹具于本传。明道元年十月十八日示疾。不用医药。唯说法勉徒十日令请弥陀像以证其终。至夜奄然坐逝。生寿六十九。夏五十。明年仲春四日。徒众奉遐榻葬于寺东月桂峰下。

  (癸酉) ○放度天下三帐僧尼○辽改重熙。

  (甲戌) 改景祐○六月诏毁无额寺院。

  (丙子) ○诏选五十人童子习梵学。

  (二十七) 帝制天圣广灯录序。赐护国将军节度使驸马都尉李遵勖。其辞曰。唯大雄之阐教也。以清净为宗。慈悲救世。解烦恼之苦缚。启方便之化门。安住雪山始阶于西域。飞行漠殿遂通于东旦。彼土得道何可胜言。此方承流于是乎在。虽阴魔有以侮伐或示神通。而帝释常加护持无亏实相。自法眼授记鞠多印心。佛衣不传。逮六祖而顿悟。牛头析派。续千灯而罔穷。繇斯慧炬益繁法云滋阴。旁行梵学转译华音。扣寂禅关指迷觉路。了达者至乎离念。超登者于以忘筌。为无所不通之明。处不可思议之首。历代圣帝明王。且有为之信向者矣。我太祖之乘箓也。王法延乎住世。我太宗之握纪也。妙供满于诸天。真宗皇帝。密契菩提之心。深研善逝之旨。能仁之化一雨普沾。外护之心二缨喜舍。朕嗣景祚子毓群黎。将以驱富寿之民。居常奉调御之本。丕冒基构。虽祇席于萝图。导引津粮。每钦惟于竺㲲。兹乃遵前王之道也。其可忽诸。天圣广灯录者。护国将军节度使驸马都尉李遵勖之所编次也。遵勖承荣外馆受律斋坛。靡恃贵而骄矜。颇澡心于夷旷。竭积顺之志素。趋求福之本因。洒六根之情尘。别三乘之归趣。迹其祖录广彼宗风。采开士之迅机。集丛林之雅对。粗裨于理咸属之篇。尝贡绀编来闻扆座。且有勤请求锡叙文。朕既嘉乃诚。重违其意。载念薄伽之旨。谅有庇于生灵。近戚之家。又不婴于我慢。良可嘉。尚因赐之。题岂徒然哉。亦王者溥济万物之源也。其录三十卷。

  (丁丑) 时景祐三年四月赐序。秋七月(有星数百西南流至壁东。其光烛地。黑气长丈余。出毕宿下○冬十二月京师定襄代并忻等州地震。代并坏民庐舍而忻尤甚。压死万九千余。人民皆露处。自此或地震裂泉涌火出如黑沙状连年不止宋史)。

  (戊寅) 改宝元○元昊是年十二月僭号大夏改年大庆。

  (己卯) 秋八月禁以金箔饰佛像。

  (庚辰) 康定○西夏入寇。

  (辛巳) 庆历○春二月京师雨药。

  (二十八) 春正月初五。慈明楚圆禅师示寂。出金州清湘李氏。少为书生。年二十二依城南湘山隐静寺得度。母有贤行。使之游方。公连眉秀目颀然丰硕。然忽绳墨。所至为老宿所呵。以为少丛林。公柴崖而笑曰。龙象蹴踏非驴所堪。尝橐骨董箱。以竹杖荷之。游襄沔间。与守芝谷泉俱结伴入洛中。闻汾阳道望为天下冠。决志亲依。时朝廷方问罪河东。潞泽皆屯重兵。多劝其无行。公不顾渡大河登太行。易服类厮养。窜名火队中。露眠草宿。至龙州。遂造汾阳。昭公壮之。经二年未许入室。公诣昭揣其志。必骂诟使令者或毁诋诸方。及有所训皆流俗鄙事。一夕诉曰。自至法席已再夏。不蒙指示。唯增世俗尘劳念。岁月飘忽己事不明。失出家之利。语未卒。昭公热视骂曰。是恶知识敢裨贩我。举杖逐之。拟伸救。昭公掩其口。公大悟曰。乃知临济道出常情。服役七年辞去。依唐明嵩公。及往见大年杨内翰。又见李都尉。问答具本传。后移住兴化。沐浴辞众跏趺而逝。阅世五十有四。坐夏三十有二。

  (癸未) 十一月五星出东方司天监言注中国大安(河北雨赤雪)。

  (二十九 甲申) ○元昊十二月诏册昊为夏国主。更名囊宵。

  (丙戌) 杨岐方会禅师顺寂。生冷氏。袁州宜春人也。少警敏滑稽谈剧有味。及冠不喜从事笔砚。窜名商税掌课最。坐不职当罚。宵遁去。游筠州九峰。恍然如昔经行处。眷不忍去。遂落发为大僧。阅经闻法。心融神会。能痛自折节依参老宿。慈明住南原。辅之安乐勤苦。及迁道吾石霜。会自请领监院事。非慈明之意。众论揵然称善。挟楮衾入典金谷。时时憃语摩怫慈明。诸方得以为当。慈明饭罢必山行。禅者问道多失所在。会阚其出未远。即挝鼓集众。明遽还数曰。少丛林莫而升座。何从得此规绳会徐对曰。汾阳晚参也。何为非规绳乎。慈明无如之何。今丛林三八念诵罢犹参者此其原也。辞之还九峰萍实道俗请住杨岐。时九峰长老勤公不知会。惊曰。会监寺亦能禅乎。会受帖。问答罢乃曰。更有问话者么。试出来相见。杨岐今日性命在汝诸人手里。一任横拖倒拽。为什么如此。大丈夫儿须是对众决择。莫背地里似水底按胡卢相似。当众勘验看。有么。若无杨岐失利。下座。勤把住曰。今日且得个同参。曰同参底事作么生。勤曰。杨岐牵犁九峰拽把。曰正当与么时。杨岐在前。九峰在前。勤无语托开曰。将谓同参。元来不是。自是名闻诸方。示众曰。不见一法是大过患。拈主丈云。穿过释迦老子鼻孔。作么生道得脱身一句向水不洗水处。道将一句来。良久曰。向道莫行山下路。果闻猿叫断肠声。庆历六年移住潭州云盖。以临济正脉付守端。

  (戊子) 文潞公破具州王郎。以不杀而增寿九十三位极人臣之上矣。

  (三十) 言法华者。莫知其所从来。初见之于景德寺七俱胝院。梵相奇古直视不瞬。口吻衮衮不可识。相传言诵法华经。故以为名。时独无从。多行市里。褰裳而趋。或举手书空伫立良久。从屠沽游。饮啖无所择。道俗咸目为狂僧。丞相吕许公问佛法大意。答曰。本来无一物。一味总成真。僧问。世有佛否。对曰。寺里文殊有。问师凡耶圣耶。举手曰。我不在此住。至和三年。仁宗始不豫。国嗣未立。天下寒心。谏官范镇首发大义。乞择宗室之贤者使摄储贰以待皇嗣之生。退居藩服。不然典宿卫尹京邑以系天下之望。并州通判司马光亦以为言。凡三上疏一留中。二行中书。上夜焚香默祷曰。翌日化成殿具斋虔请法华大士。俯临无却。清旦上道衣凝立以待。俄驰奏言。法华自右掖门径趋将至寝殿。侍卫呵止不可。上笑曰。朕请而来也。有顷至。辄升御榻跏趺而坐。受供讫将去。上曰。朕以储嗣未立。大臣咸以为言。侵寻晚莫嗣息有无。法华其一决之。师索笔引纸连书曰。十三十三。凡数十行。掷笔无他语。皆莫测其意。其后英宗登极。乃濮安懿王第十三子。方验前言也。嘉祐戊戌十一月二十三日。将化。谓人曰。我从无量劫来。成就逝多国土分身揭化今南归矣。语毕右胁而寂。

  (三十一 己丑) 皇祐○九月侬智高乱于广五年狄青平之○李觏。字泰伯。旴江人。时称大儒。尝着潜书力于排佛。明教嵩公。携所著辅教编谒之辩明。觏方留意读佛书。乃喟然曰。吾辈议论尚未及一卷般若心经。佛教岂易知耶。心经乃唐太宗诏三藏玄奘所译。才五十四句。二百六十七字耳。泰伯所言非其自肯。安能尔哉。苑文正公以表荐于帝。尝就门下除一官。复差充太学说书。未几是年卒。

  (三十二) 浮山法远禅师迁化。郑圃田人也。出于王氏。年十九游并州。见三交嵩公求出世法。嵩曰。汝当剃发堕三宝数。乃可授法。远曰。法有僧俗乎。嵩曰。与其为俗。曷若为僧。僧则能续佛寿命故也。于是断发受具。谒汾阳昭公。又谒汝海省公。皆受记莂。天禧中游襄汉隋郢。至大阳机语与明安延公相契。延叹曰。吾老矣。洞上一宗遂竟无人耶。以平生所著直裰皮履示之。远曰。当为持此衣履。求人付之如何。延许之曰。他日果得人出吾偈。为证偈曰。杨广山前草。凭君待价焞。异苗蕃茂处。深密固灵根。其尾云。得法者潜众十年。方可阐扬。远拜受辞去。依滁之琅瑘觉公。应舒之太平兴国寺请说法。为省公之嗣。次住姑胥天平。又住浮山。既老退休于会圣岩。远玉骨插额目光外射。状如王孙。凛然可畏。初欧阳文忠公。闻远奇逸造其室。未有以异之。与客棋。远坐其旁。欧收局。请远因棋说法。乃鸣鼓升座曰。若论此事如两家着棋相似。何谓也。敌手知音当机不让若是缀五饶三。又通一路。始得有一般底。只解闭门作活。不会夺角衡关。硬节与虎口齐彰。局破后徒劳逴斡。所以道。肥边易得瘦肚难求。思行则往往失粘。心粗而时时头撞。休夸国手谩说神仙。赢局输筹即不问。且道黑白未分时一着落在什么处。良久曰。从前十九路。迷悟几多人。文忠加叹久之。远偈语妙密。诸方服其工。作三交嵩公赞曰。黄金打作鍮石筋。白玉碾成象牙梳。千手大悲拈不动。无言童子暗嗟吁。又作明安玄公赞曰。黑狗烂银蹄。白象昆仑骑。于斯二无碍。木马火中嘶。殁时已七十余。雅自称柴石野人(余如本传)。

  (三十三 庚寅) 皇祐二年正月。诏大觉怀琏禅师住东都净因。本漳州陈氏子。嗣泐潭澄公。尝燕坐室中。见金蛇从地而出。须臾隐去。识者赞为吉徴。师尝于庐山圆通掌记室。初仁宗闻圆通讷公名。诏住净因。讷称目疾不能奉诏。有旨令举自代。遂举师。先是仁庙阅投子语。至僧问如何是露地白牛投子连叱。乃有省制释典颂十四章。其首篇曰。若问主人公。真寂合太空。三头并六臂。腊月正春风。寻以赐琏。琏和曰。若问主人公。澄澄类碧空。云雷时鼓动。天地尽和风。既进经乙夜之览。宣赐龙脑钵。琏谢恩罢捧钵曰。吾法以坏色。以瓦铁食。此钵非法。遂焚之。中使回奏。皇情大悦。久之奏颂乞归山曰。六载皇都唱道机。两曾金殿奉天威。青山隐去欣何得。满箧唯将御颂归。上和曰。佛祖明明了上机。上机全得始全威。青山般若如如体。御颂收将什处归。再进颂谢曰。中使宣传出禁闱。再令臣住此禅扉。青山未许藏千拙。白发将何补万机。霄露息辉方湛湛。林泉情味苦依依。尧仁况是如天阔。应任孤云自在飞。至治平中复上疏丐归山。献偈曰。千簇云山万壑流。归心终老此峰头。余生愿祝无疆寿。一炷清香满石楼。英庙付以劄子曰。大觉禅师怀琏受先帝圣眷累锡宸章。屡贡款诚乞归林下。今从所请。俾遂闲心凡。经过小可庵院随性住持。或十方禅林不得逼抑坚请琏。携之东归鲜。有知者苏翰林轼知杭州。以书问之曰。承要作宸奎阁碑。谨已撰成。衰朽废学不知堪上石不。见参寥说。禅师出京日。英庙赐手诏。其略云。任性住持。不知果有不切请录示全文。欲添入此一节。琏终藏不出。逮委顺后。获于箧笥。其不暴曜若此。

  (辛卯) 世尊示灭二千年矣。

  (三十四 壬辰) 雪窦显禅师。字隐之。太平兴国五年四月八日生于遂州李氏。幼精锐。读书知要。下笔敏速。然雅志丘壑。父母不能夺。依益州普安院仁铣为师落发受具。出蜀浮沉荆渚间。历年尝典宾大阳。与客论赵州宗旨。客曰。法眼禅师尝邂逅觉铁觜于金陵。觉赵州侍者也。号称明眼。问曰。赵州柏树子因缘记得不。觉曰。先师无此语。莫谤先师好。法眼曰。真狮子窟中来。觉公言无此语。而法眼肯之。其旨安在。显曰。宗门抑扬那有规辙乎。时有苦行名韩大伯者。貌寒㾛侍其旁辄匿笑去。客退显数之曰。我偶客语。尔乃敢。慢笑。笑何事。对曰。笑知客智眼未正择法不明。显曰。岂有说乎。对以偈曰。一兔横身当古道。苍鹰才见便生擒。后来猎犬无灵性。空向枯桩旧处寻。显阴异之。结以为友。北游至复州北塔。祚公香林之嫡嗣云门之孙也。祚远皆蜀人。知见高莫能觏其机。显俊迈。祚爱之。遂留五年。尽得其道。显与学士曾公会厚善。相值淮南。问显。何之。曰将造钱唐绝西兴登台雁。曾曰。灵隐天下胜处。珊禅师吾故人。以书荐显。显至灵隐。三年陆沈众中。俄曾公奉使浙西访显于灵隐。无识之者。堂僧千余人使吏检床历。物色求之。乃至。曾问向所附书。显袖纳之。曰公意勤。然行脚人非督邮也(一曰然行脚人于世无求敢希荐达)曾公大笑。珊公以是奇之。吴中翠峰虚席举。显出世开法日顾视大众曰。若论本分相见。不必高升此座。乃以手指曰。诸人随山僧手看无量佛土一时现前。各各子细观瞻。其或涯涘未分。不免拖泥带水。于是登座。又环顾大众曰。人天普集。合发明何事岂可互分宾主驰骋问答。便当宗乘去。广大门风威德自在。辉腾今古把定乾坤。千圣只言自知。五乘莫能建立。所以声前悟旨。犹迷顾鉴之端。言下知归。尚昧识情之表。诸人要识真实相为么。但得上无攀仰。下绝己躬。自然常光现前。个个壁立千仞。还辩明得也无。未辩辩取。未明明取。既辩明得。便能截生死流踞佛祖位。妙圆超悟正在此时。堪报不报之恩。以助无为之化。后迁明之雪窦。宗风大振。天下龙蟠凤逸。衲子争集。号云门中兴。尝经行植杖。众衲绕之忽问曰。有问云门。树凋叶落时如何。曰体露金风。云门答者僧耶。为解说耶。有宗上座曰。待老汉有悟处即说。显孰视惊曰。非韩大伯乎。曰老汉瞥地也。于是令挝鼓众集显曰。今日雪窦宗上座。乃是昔年大阳韩大伯具大知见。晦迹韬光。欲得发扬宗风。幸愿特升此座。宗遂升座。僧问。剑未出匣时如何。曰神光射斗牛。问出匣后如何。曰千兵易得一将难求。僧退。宗乃曰。宝剑未出匣。神光射斗牛。千兵虽易得。一将实难求。便下座。一众大惊。师敷扬宗旨。妙语遍丛林。皇祐四年六月十日沐浴罢。整衣侧卧而化。阅世七十二。坐五十夏。建塔山中。得法上首。天衣义怀禅师。

  (甲午) 改至和○封孔愿衍圣公。

  (三十五) 华严道隆禅师。不知何许人。至和初游京师客景德寺。日纵观都市。归尝二鼓。谨门者呵之不悛。一夕还不得入。卧于门之下。仁宗梦至景德寺门见龙蟠地。惊觉中夜遣中使往视之。乃一僧孰睡已再鼾。撼之惊矍。问名字归奏。上问。名道隆。乃喜曰。吉徴也。明日召至遍殿问宗旨。隆奏对详允。上大悦。有旨馆于大相国烧朱院。王公贵人争先愿见。隆未盥漱户外之屦满矣。上以偈句相酬唱络绎于道。或入对留宿禁中。礼遇特厚。赐号应制明悟禅师。隆少时事石门彻公。亲授洞山旨诀。后谒广慧琏公。慧方欲剃发。使隆将凳子来。广慧曰。道者我有凳子诗听取。诗曰。放下便平隐。后因叙陈在石门所悟公案。慧曰。石门所示如百味珍羞。只是饱人不得。后来有炷香。不欲两头三绪为伊烧却。故为琏之嗣。隆为人宽厚不矜伐。以真慈普敬行心。殁时年八十余。盛暑安坐。七日手足柔和。全身建塔于寺之东(广如本传)。

  (乙未) ○辽洪基道宗立。兴宗子也。改年清宁(治四十六年)。

  (丙申) 嘉祐元年。

  (三十六) 五年正月元日。达观昙颖禅师迁化。生钱唐丘氏。年十三依龙兴寺为大僧神情秀特。于书无所不观。为词章多出尘语。十八九游京师。时欧阳文忠公在场屋。颖识之游相乐也。初谒大阳明安禅师。问洞上特设偏正君臣。意明何事。安曰。父母未生时事。又问。如何体会。安曰。夜半正明天晓不露。颖罔然弃去。至石门谒聪禅师。理明安之语曰。师意如何。聪曰。大阳不道不是。但口门窄。满口说未尽。老僧则不与么。颖曰。如何是父母未生事。聪曰。粪墼子。又问。如何是夜半正明天晓不露。聪曰。牡丹丛下睡猫儿。颖愈疑骇日扣之。竟无得益。自奋曰。吾要以死究之。不解终不出山。聪一日见普请。问曰。今日运薪乎。颖曰。然运薪。聪曰云门尝问。人搬柴柴搬人。如何会。颖不能对。聪因植杖于座笑曰。此事如人学书。点画可效者工。不者拙。何故如此。未忘法耳。如有法执。故自为断续。当笔忘手手忘心乃可也。颖于是默契其旨。良久曰。如石头曰。执事元是迷契理亦非悟。既曰契理。何谓非悟。聪曰女以此句为药语为病语。颖曰。是药语。聪呵曰。女乃以病为药。又可哉。颖曰。事如函得盖理如箭直锋。妙宁有加者。而犹以为病。兹实未谕。聪曰。借其妙至走。亦止明事理而已。祖师意旨知识所不能到。矧事理乎。故世尊曰。理障碍正知见。事障能续生死。颖恍如梦觉曰。如何受用。聪曰。语不离窠臼。安能出盖缠。颖叹曰。才涉唇吻便落意思。皆是死门终非活路。辞去过京师。寓止驸马都尉李端愿之园。日夕问道。一时公卿多就见闻其议论。随机开悟李公问曰。地狱毕竟是有是无。答曰。诸佛向无中说有。眼见空花。太尉向有中觅无。手搘水月。堪笑眼前见牢狱不避。心外见天堂欲生。殊不知忻怖在心善恶成境太尉但了自心。自然无惑。曰心如何了。答曰。善恶都莫思量。又问。不思量后心归何所。颖曰。且请太尉归宅。颖东游初住舒州香炉峰。移住润州因圣太平之隐静明之雪窦。又迁金山龙游寺。嘉祐四年除夕。遣侍者持书别杨州刁景纯学士曰。明旦当行。不暇相见。厚自爱。景纯开书乃惊曰。当奈何。复书决别而已。中夜侯吏报。扬州驰书船将及岸。颖欣然遣挝鼓升座。叙出世本末谢裨赞丛林者。劝修勿怠。曰吾化当以贤监寺次补下座读景纯书毕。大众拥步上方文。颖跏趺挥令各远立。良久乃化。阅世七十有二。夏五十有三。

  (己亥) ○欧阳修宋祁。修唐书成○修又撰五代史七十四卷。将旧唐史所载释道之事。并皆删去。惜哉。

  (庚子) ○六月丞相曾公亮进新修唐书二百五十卷。

  (三十七) 天衣义怀禅师。生陈氏。温州乐清人。世以渔为业。母梦星陨于屋除而光照户。遂娠。及生尤多奇。儿稚坐父船尾。渔得鱼付怀。怀不忍串之。私投江中。父怒笞诟。甘甜之(不以介意。长游京师。依景德寺试经得度)时有言法华者。不测人也。行市中拊怀背曰临济德山去。初谒金銮善禅师不契。后谒叶县省公。又不契东游洞庭翠峰。怀当营炊自汲涧折檐悟旨。显公印可以为奇。辞去久无耗。有僧自淮上来曰。怀出世铁佛矣。显使诵提唱之语。譬如雁过长空影沈寒水。雁无遗踪之意水无留影之心。显激赏以为类己。先使慰抚之。乃敢通门人之礼。诸方服其精识。自铁佛至天衣。五迁法席。皆荒凉处。怀至必幻出楼观。晚以疾居池州杉山庵。弟子智才住杭之佛日。迎归家侍剂药。才如姑胥未还。怀促其归至门。而怀已别众。才问。卯塔已毕。如何是毕竟事怀坚拳示之。遂倒卧推枕而化。世寿七十二坐四十六夏。葬佛日山。崇宁中敕谥振宗大师。

  (三十八 癸辰) 三月廿八日帝崩○欧阳文忠公昔官洛中。一日游嵩山。却去仆吏放意而往。至一山寺。入门修竹满轩。公休于殿陛。旁有老僧。阅经自若。与语不甚愿答。公心异之。曰道人住山久如。曰甚久也。又问。诵何经。曰法华经。公曰。古之高僧临生死之际。类皆谈笑脱去。何道致之耶。对曰。定慧力耳。又问。今乃寂寥无有何哉。老僧笑曰。古之人念念在定慧。临终安得乱。今之人念念在散乱。临终安得定。文忠大惊。不自知膝之屈也。谢希深尝作文记其事。林间。

  (三十九) 比京天钵寺重元禅师。出青州千乘县孙氏。法嗣天衣。文潞公彦博出相镇魏府。请住本寺。是夏别公示寂。茶毗烟到成舍利。公执瓶祷之。烟入。舍利填瓶。公乃竭志内典焉。

  (四十 甲辰) 改治平。英宗署(太祖孙濮安懿王名让之子。初名宗实。仁宗无子。立为皇子。赐名曙。韩琦司马光定策立之。三十三岁即位。三十七岁崩在位四年)。

  (四十一) 云峰文悦禅师南昌人。生于徐氏。七岁剃发于龙兴寺。短小粹美。有精识。年十九策杖游江淮。至筠州大愚。见屋老僧残荒凉如传舍。芝自提笠。日走市井。暮归闭关。高枕悦无留意焉。欲装包发去。将行而雨雨止。芝升座。曰大家相聚吃茎齑。唤作一茎齑入地狱如箭射。下座。无他语。悦大骇。夜造丈室。芝曰。来何所求。曰求佛心法。芝曰。法轮不转食轮先转。后生趁有色力。何不为众乞食。我忍饥不暇。暇为女说法乎。悦不违。即请行。及还移住西山翠岩。悦又往依之。夜诣丈室。芝曰。又欲求佛心法乎。女不念乍住屋壁疏漏。又寒雪。我日夜望女来为众营炭。我忍寒不能。能为女说法乎。悦又不敢违。入城化炭还。时维那缺。悦夜造丈室。芝曰。佛法不怕烂却堂司一职今以烦女。悦不得语而出。明日鸣犍椎坚请。悦有难色。拜起欲弃去。业已勤劳久因中止。然恨芝不去心。地坐后架。架下东破桶。盆自架而堕。忽开悟。顿见芝从前用处。走搭伽梨上寝堂。芝迎笑曰。维那且喜大事了毕。悦再拜汗下。不及吐一词而去。服勤八年而芝殁。东游三吴。所至丛林改观。雪窦显禅师尤敬畏之。每集众茶横。设特榻示礼异之。南昌移文请住翠峰。又迁云峰嘉祐七年七月八日升座。辞众说偈曰。住世六十六年。为僧五十九夏。禅流若问旨归。鼻孔大头向下。遂泊然而化。阇维得五色舍利。塔于禹溪之北(余如传灯)。

  (丙午) (三月彗现西方。庚申晨见于室。本大如月。长七尺许。丁巳昏见于昴。如太白。长丈有五尺。壬午孛于毕。如月。至五日。没次年正月上崩于福宁殿矣)。

  (四十二 丁未) 诏民间私造寺院屋宇及三十间者。可赐额曰寿圣悉存之。

  大教东被一千年矣。

  佛祖历代通载卷第十八

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第十九

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  (一 戊申) 神宗顼(母曰宣仁圣烈皇后。高氏曹太后之甥也。幼与英宗同鞠后所。后为英宗配。生帝。自颖王为太子寻即位。三十八岁崩于福宁殿。葬永裕陵)改年熙宁(是年地动非常)辽国咸雍四年(是年金主阿骨打生)。

  知谏院钱公辅言。遇岁饥。河决粥祠部以济急。从之。

  (二 辛亥) 是年三月十六日。圆通居讷禅师卒。字中敏。出于蹇氏。梓州中江人。少而英特。诗书过目成诵。年十一依汉州什邡竹林寺元昉。十七试法华得度。受具于颖真律师。以讲学冠两川。耆年多下之。会有禅者自南方还。称祖道被天下。马大师什邡人。应般若多罗谶蜀之豪俊以经论闻者如亮公。而亮弃徒隐西山。如鉴公而鉴焚疏钞称滴水莫敌巨海。讷怃然良久曰。汝知之乎。曰我不能知。子欲知之。何惜一往。讷于是出蜀。后游庐山得法于荣禅师。南康守程师孟请住归宗。又迁圆通。仁宗皇帝闻其名。皇祐初。诏住京之净因。讷称目疾不能奉诏。有旨令举自代。遂举僧怀琏。禅学精深居某之右。于是琏应诏。引对问佛法大意。称旨。天下贤讷知人。既老休居于宝积岩。无疾而化。世寿六十有二。坐四十有五夏。

  (三 壬子) 明教契嵩禅师。字仲灵。藤州镡津李氏子也。七岁出家。既受具。尝戴观音像诵其名号。一日十万声。经传杂书靡不博究。得法洞山聪公。明道间从豫章西山欧阳氏昉借其家藏之书。读于奉圣院。遂以佛五戒十善通儒之五常。着为原教篇。是时欧阳文忠公慕韩昌黎排佛。旴江李泰伯亦其流。嵩乃携所业三谒泰伯。以儒释吻合。且杭其说。李爱其文之高理之胜。因致书誉嵩于欧阳。既而居杭之灵隐。撰正宗记定祖图。赍往京师。经开封府。投状府尹王公素仲仪。以劄子进之曰。臣今有杭州灵隐寺僧契嵩。经臣陈状称。禅门传法祖宗未甚分明。教门浅学各执传记。古今多有争竞。故讨论大藏备得禅门祖宗本末。因删繁撮要撰成传法正宗记一十二卷并画祖图一面。以正传记谬误。兼着辅教篇。印本一部三卷。上陛下书一封。并不干求恩泽。乞臣缴进。臣于释教粗曾留心。观其笔削注述。故非臆论。颇亦精致。陛下万机之暇。深得法乐。愿赐圣览。如有可采乞降中书看详。特与编入大藏目录。取进止。仁庙览其书可其奏。敕送中书。丞相韩魏公。参政欧阳文忠公。相与观叹。探经考证既无讹谬。于是朝廷旌以明教大师。赐书入藏。中书劄子有曰。权知开封府王索奏。杭州灵隐寺僧契嵩。撰成传法正宗记并辅教编三卷。宜令传法院于藏经收附。传法院准此。由是名振海内。已而东还。属蔡公襄为守延置佛日山。居数年退老于灵隐永安精舍熙宁五年示寂。阇维六根不坏者三。曰眼。曰舌。曰童真。与顶骨数珠为五。舍利红白晶洁状如大菽。葬于永安之左。

  (四) 白云守端禅师示寂。生衡之葛氏。幼工翰墨。不喜处俗。依茶陵郁山主剃发。年二十余参颙禅师。颙没杨岐会公嗣居焉。一见端奇之。每与语终夕。一日忽问上人受业师。端曰。茶陵郁和上。曰吾闻其过溪有省作偈甚奇。能记不。端即诵曰。我有明珠一颗。久被尘劳羁锁。今朝尘尽光生。照见山河万朵。会大笑起去。端愕视左右。通夕不寐。明日求入室咨谕其事。时方岁旦。会曰。汝见昨日昨夜狐者么。端曰见。会曰。汝一筹不及渠。端又大骇曰。何谓也。会曰。渠爱人笑。汝怕人笑。端于言下大悟。辞去游庐山。圆通讷公见之自以为不及。举住江州承天。又让席以居之。而自处东堂。端时年二十八。自以前辈让善丛林责己甚重。故敬严临众以公灭私。于是宗风大振。未几讷公厌闲寂郡守至。自陈客情。太守恻然目端端笑唯唯而已。明日升座。曰昔法眼有偈曰。难难难是遣情难。净尽圆明一颗寒。方便遣情犹不是。更除方便太无端。大众且道。情作么生遣。喝一喝下座负包去。一众大惊挽之。不可遂渡江。夏于五祖之间房。舒州小刹号法华。住持者如笼中鸟不忘飞去。舒守闻端高风。欲以观其人。移文请居之。端欣然杖策来。衲子至无所容。士大夫贤之。及迁白云。海会升座。颠视众曰。鼓声未击已前。山僧未登座之际。好个古佛样子。若人向此荐得。可谓古释迦不前。今弥勒不后。更听三寸舌头带出来虚。早已参差。须有辨参差眼方救得完全。乃曰。更与汝老婆。开口时。末上一句正道着。举步时。末上一步正踏着。为什么鼻孔不正。为寻常见鼻孔顽了。所以不肯放心。今日劝诸人发却去。良久曰。一便下座。其门风悄拔类此。

  (癸丑) 诏同天节日普度僧尼。

  (五) 法师惠辩。字讷翁。华亭傅氏。号海月。受业普照。初游学天竺明智一见奇之。即尽心学教观。智将老。命居第一座。以代讲。后八年明智。韶公俾继主席。翰林沈遘治杭任威。见者多惶惧失据。辩从容如平生。遘异之。任以都僧正。东坡时为通守。作序以赠之曰。钱唐佛僧之盛。盖甲天下。道德才智之士与妄庸巧伪之人。杂处其间。号为难齐。故僧正副之外。别补都僧正一员。簿书案牒奔走将迎之劳。专责副正以下。而都师总领要略。实以解行表众而已。师既莅职。凡管内寺院虚席者。即涓日会诸刹及座下英俊。开问义科场。设棘围糊名考校。十问五中者为中选。不及三者为降等。然后随院等差以次补名。由是诸山仰之。咸以为则。讲授二十五年。学者当及千人。晚年倦于勤。归隐草堂。熙宁六年七月十七日。旦起盥濯。告众就别。合掌跏趺而化。初辨遗言。须东坡至方阖龛。四日坡至。见跏趺如生。其顶尚温。坡尽敬而去。

  (丁巳) 荆国公王安石。奏施金陵旧第为寺。请真净克文住持。赐额曰保宁。

  (戊午) 改元丰。

  (庚申) 慈圣光献太后。是岁二月崩。会京城千座法师于庆寿殿斋。例赐椹服师名○制革相国寺六十四院。为二禅八律。诏宗本禅师住惠林。引对于延和殿问法。

  (六 辛酉) 吉州庆闲禅师示寂。出卓氏福州人也。法嗣南禅师。茶毗烟至舍利遍布四十余里。苏子由为铭。

  (癸亥) 京城创法云寺成。

  (七) 舒州投子。名义青。本青社人。李氏子也。七龄颖异。去妙相寺出家。十五试法华得度。为大僧。其师使习百法论。叹曰。三祇途远。自困何益哉。入洛中听华严五年。反观文字一切如肉受串。处处同其义味。尝讲至于法慧菩萨偈曰。即心自性。忽猛省曰。法离文字。宁可讲乎。即弃去游方至浮山。时圆鉴远公。退席居会圣岩。梦得俊鹰畜之。既觉而青适至。远以为吉徴。加意延礼之。留止三年。远问外道问佛。不问有言不问无言时如何。世尊默然。汝如何会。青拟进语。远蓦以手掩其口。于是青开悟拜记。远曰。汝妙悟玄微耶。对曰。设有妙悟也须吐却。时有资侍者在旁曰。青华严今日如病得汗。青回顾曰合取狗口。汝更忉忉我即便呕。服勤又三年。浮山以大阳皮履布裰付之曰。代吾续洞上之风。吾住世非久。善自护持。母留此间。青遂辞出山。阅大藏于庐山惠日寺。熙宁六年还龙舒。道俗请住白云山海会寺。计其得法之岁。至此适几十年。又八年移投子山。道望日远。禅者日增。异苗蕃茂果符前谶。青平生不畜长物。弊衲楮衾而已。初开山慈济有记曰。吾塔若红。是吾再来。邦人偶修饰其塔。作玛瑙色。未几而青领院事。山中素无水。众每以为病。忽有泉出山石间。甘凉清洁。郡守贺公名为再来泉。元丰六年四月末示微疾。以书辞郡官诸檀越。五月四日灌沐升座别众罢。写偈曰。两处住山。无可助道。珍重诸人。不须寻讨。遂泊然而化。阇维收灵骨舍利。塔于寺之西北三峰庵之后。阅世五十有二。坐夏三十有七。无为子杨杰为赞其像曰。一只履两牛皮。金鸟啼处木鸡飞。半夜卖油翁发笑。白头生得黑头儿。有得法上首一。名道楷禅师。

  (八 甲子) 司马光表进所编书。赐名资治通鉴。帝亲制序。授资政殿学士。尝作秀水真如华严法堂记曰。壬辰岁夏四月。僧清辨踵门来告曰。清辨秀州真如草堂僧也。真如故有讲堂。痹狭不足以庥学者。清辨与同术惠宗治而新之。今高显矣。愿得子之文。刻诸石以谂来者。光谢曰。光文不足以辱石刻。加平生不习佛书。不知所以云者。师其请诸他人。曰清辨所不敢请也。故维子之归。而子又何辞。光固辞不获。乃言曰。师之为是堂也。其志何如。曰清辨之为是堂也。属堂中之人而告之曰。二三子苟能究明吾佛之书。或不能则将取于四方之能者。皆伏谢不能。然后相率抵精严寺迎沙门道欢而师之。又属其徒而告之曰。凡我二三子。肇自今以及于后。相与协力同志。堂圮则扶之。师缺则补之以至于金石可弊山渊可平。而讲肄之声不可绝也。光曰。师之志则美矣。抑光虽不习佛书。亦尝剽闻佛之为人矣。夫佛盖西域之贤者。其为人也。清俭而寡欲。慈惠而爱物。故服弊补之衣。食蔬粝之食。岩居野处斥妻屏子。所以自奉甚约而惮于烦人也。虽草木虫鱼。不敢妄杀。盖欲与物并生而不相害也。凡此之道皆以涓洁其身。不为物累。盖中国於陵子仲焦先之徒近之矣。圣人之德周。贤者之德遍。周者无不覆。而末流之人犹未免弃本而背原。况其偏者乎。故后世之为佛书者。日远而日讹。莫不侈大其师之言而附益之。以淫怪诬罔之辞。以骇俗人而取世资厚。自丰殖不知厌极。故一衣之费或百金。不若绮纨之为愈也。一饭之直或万钱。不若脍炙之为省也。高堂钜室以自奉养。佛之志岂如是哉。天下事佛者莫不然。而吴人为甚。师之为是堂。将以明佛之道也。是必深思于本原而勿放荡于末流。则斯堂为益也。岂其细哉。

  (九) 金国李屏山曰。苏轼作司马光墓志云。公不喜佛曰。其精微大抵不出于吾书。其诞吾不信。嗟乎聪明之障人如此其甚耶。同则以为出于吾书。异则以为诞而不信。适足以自障其聪惠而已。圣人之道。其相通也。如有关龠。其相合也。如有符玺。相距数千里。如处一室。相继数万世。如在一席。故孔子曰。西方有圣人焉。庄子曰。万世之后一遇大圣而知其解者。是旦暮遇之也。其精微处安得不同。列子曰。古者神圣之人。先会鬼神魑魅。次达八方人民。末聚禽兽虫蛾。备知万物情态。悉解异类音声。其所教训无遗逸焉。何诞之有。孔子游方之内。故六合之外存而不论。邹衍列御寇庄周方外之士。已无所不谈矣。顾不如佛书之缕缕也。以非耳目所及。光不敢信。既非耳目所及。吾敢不信耶。郭璞日者也。十年于晋室。若合符券。疑吾佛不能记百万之多劫耶。左慈术士也。变形于魏都。皆同物色。疑吾佛不能示千百亿之化身耶。长房壶中之游。人信之矣。不信维摩丈室容三万座与纳须弥于芥子中之说乎。邯郸枕上之梦。人信之矣。不信多宝佛塔住五千劫耶。度僧祇如弹顷指之说乎。若俱不信。不知光亦尝有梦否。瞑于一床栩栩少时也。山川聚落森然可状。人物器皿何所不有。俯仰酬酢于其间。自成一世。此特凡夫第六分离识之所影现者耳。其力如是。况以如来大圆镜智菩萨之幻三昧乎。学者当自消息之。毋虚名所劫持也。

  (十 乙丑) 程颢明道先生门人谥也。神宗素闻其名数召见。一日因与安石论事不合。安石曰。公之学如上壁。言难行也。颢曰。参政之学如捉风。李定劾其新法之初首为异论。罢归故官。又坐狱逸囚。责监汝州。上即位召为宗正。未行而卒。颢与弟颐论学汝南周敦。遂厌科举之习。慨然有求道之志。谓孟轲没而圣学不传。以兴起斯文为己任。其言曰。道之不明。异端害之也。昔之害近而易知。今之害深而难辨。昔之惑人也。乘其迷暗。今之惑人也。因其高明。自谓穷神知化。而不足以开物成务。名为无不周遍。而其实则外于伦理。虽云穷深极微。而不可以入尧舜之道。天下之学者非浅陋固滞。则必入于此。自道之不明也。邪诞妖异之说竞起。涂生民之耳目。溺天下于污浊。高才明智胶于见闻。醉生梦死不自觉也。是皆正路之蓁芜。圣门之蔽塞。辟之可以入道。其教人自致知至于知止。诚意至于平天下。洒扫应对至于穷理尽性。循循有序。病世之学者舍近而趋远。处下而窥高。所以轻自大而卒无得也○金国李屏山居士辨曰。

  (十一) 程颢论学于周敦颐曰。道之不明。异端害人也。古之害近而易知。今之害深而难辨。昔之惑人也。乘其迷暗。令之惑人也。因其高明。自谓之穷神知化。而不足以开物成务。名为无不周遍。而其实乖于伦理。虽云穷深极微。而不可以入尧舜之道。天下之学者非浅陋固滞。则必入于此。悲夫。诸儒排佛老之言。无如此说之深且痛也。吾读周易知异端之不足怪。读庄子知异端之皆可喜。读维摩经知其非异端也。读华严经始知无异端也。周易曰。夫道并行而不相悖。或处或出或默或语。殊涂而同归。一致而百虑。虽有异端何足怪耶。庄子曰。不见天地之全。古之人大体道术。为天下裂。如耳目鼻口之不相通。楂梨橘柚之不同味。虽不足以用天下。可为天下用。恢诡谲怪道通为一。是异端皆可喜者。维摩经曰。诸邪见外道皆吾侍者。六地菩萨乃作魔。谤于佛毁于法。不入众数。随六师堕。乃可取食。然无异端也。华严经曰。入法界品。诸善知识。阿僧祇数皆于无量劫行菩萨道。国王长者居士僧尼妇人童女外道鬼神船师医卜与粥香者。无非法门。略见五十三种。无厌足王之残忍。婆须密女之淫荡。胜热仙人之刻苦。聚沙童子之嬉剧。大天之怪异。主夜之幽阴。皆有大解脱门。此法界中无复有异端事。道无古今。害岂有深浅哉。但恐迷暗者未必迷暗。高明者自谓高明耳。尝试论之。三圣人者同出于周。如日月星辰之合于扶桑之上。如江河淮汉之汇于尾闾之渊。非偶然也。其心则同。其迹则异。其道则一。其教则三。孔子游方之内。其防民也。深恐其眩于太高之说。则荡而无所归。故约之以名教。老子游方之外。其导世也。切恐其昧于至微之辞。则塞而无所入。故示之以真理。不无有少龃龉者。此其徒之所以支离而不合也。吾佛之书既东。则不如此。大包天地而有余。细入秋毫而无间。假诸梦语戏此幻人。五戒十善。开人天道于鹿苑之中。四禅八定。建声闻乘于鹫峰之下。六度万行。种菩萨之因。三身四智。结如来之果。登正觉于一刹那间。度有情于阿僧祇劫。竖穷三界横遍十方。转法轮于弹指顷。出经卷于微尘中。律仪细细八万四阡。妙觉重重单复十二。阴补礼经。素王之所未制。径开道学。玄圣之所难言。教之大行谁不受赐。如游鱼之于大海出没其中。如飞鸟之于太虚纵横皆是。薰习肌骨如檐卜香。灌注肝肠如甘露浆。翰墨文章。亦游戏三昧。道冠儒履。皆菩萨道场。诸君之聪慧辨才。亦必有所从来。特以他生之事而忘之耳。况程氏之学出于佛书。何用故谤伤哉。又字字以诚教人。而自出此语。将以欺人则愚。将以自欺则狂。惜哉。穷性理之说。既至于此而胸中犹有此物。真病至于膏肓者也。夫吁。

  (十二 丙寅) 哲宗煦(神宗第六子。初为延安郡王。神宗大渐。立为太子。尝羸疾。恶臣下仰视者。转杀之。非仁君也。十岁即位。太后高氏临朝。九年后归政。二十五岁崩。葬永泰陵。在位十五年)改年元祐。

  辽咸雍二十二年。

  (十三) 无尽张商英。以序送羽士蹇拱辰字翊之往参庐山照觉总禅师。其文曰。成都道士蹇翊之来言于予曰。吾乡羽衣之族。世相与为婚姻。娶妻生子与流俗无异。拱辰因观道藏神仙传记。翻然觉悟。当吾血气刚强视听聪明。喔咿哇鸣顺吾耳。青黄赤白炫吾目。甘脆膏腴爽吾口。馨香馥烈适吾鼻。滑泽纤柔佚吾体。欢忻动荡感吾意。此六寇者。乘吾瞀乱。昼夜与吾相亲。而未尝相释也。一旦吾之形耗而羸。气耗而衰。精耗而萎。神耗而疲。八风寒暑之所薄。百邪鬼祟之所欺。阴魄欲沈。阳魂欲飞。则六寇者曾莫吾代。而天下之至苦。吾独当之。房闼之恋莫如妇。血肉之恩莫如女。拱辰于是悉囊中之所有。与之而谢去。绐以他事。出游百里。遂泛涪江下濮水。历缙云出涂山。访岑公之洞府。瞻神女之祠观。而达于渚宫也。将泛九江入庐山。结茅于锦绣之谷。长啸于香炉之顶。抚陶石以遥想。揖远溪以濯足。盖吾之术。以性为基。以命为依。始乎有作终乎无为。窃闻先生究离微之旨。穷心迹之归。奏无弦之曲。驾铁牛之机。故不远而来见先生也。当试为余言之。余曰壮哉子之志乎。难行能行。难弃能弃。吾弗及子矣。余适有口疾。不能答子。吾有方外之侣曰常总。居于东林。必能决子之疑。请将吾之说而往问焉。

  (丁卯) 诏革大洪山灵峰寺为禅院。

  (十四) 僧统义天。王氏。高丽国文宗仁孝王第四子。辞荣出家。封祐世僧统。元祐初入中国问道。义天上表乞传贤首教。敕两街举可授法者。以东京觉严诚禅师对。诚举钱唐惠因净源以自代。乃敕主客杨杰。送至惠因受法。诸刹迎饯。如行人礼。初至京师。朝毕敕礼部苏轼馆伴。谒圆照本禅师。示以宗旨。至金山。佛印坐纳其礼。杨杰惊问。印曰。义天异域僧耳。若屈道徇俗诸方先失一只眼。何以示华夏师法乎。朝廷闻之以为知体。至惠因持华严疏钞咨决所疑。阅岁而毕。于是华严一宗文义逸而复传。及见天竺慈辨。请问天台教观之道。后游佛陇礼智者塔。誓曰。已传慈辨教观。归国敷扬。愿赐冥护。又见灵芝大智。为说戒法。请传所著文还国。及施金书华严三译于惠因(今俗称高丽寺)建阁藏之。

  (十五 戊辰) 杭州晋水法师净源。十一月示寂。晋江杨氏。受华严于五台承迁。迁尝注金师子章。学合论于横海明覃。南还听楞严圆觉起信于长水。四方宿学推为义龙。因省亲于泉。请主清凉。复游吴住报恩观音。杭守沈文通置贤首院于祥符。以延之。复主青镇密印宝阁华亭普照善住。高丽僧统义天。杭海问道。申弟子礼。初华严一宗疏钞久矣散坠。因义天持至咨决。逸而复得。左丞蒲宗孟抚杭。愍其苦志。奏以惠因易禅为教。命公主之。义天还国以金书华严三译本一百八十卷。以遗师。为主上祝寿(晋严观一法师同译六十卷唐实叉难陀译八十卷唐乌茶进本澄观法师译四十卷)师乃建大阁以奉安之。时称师为中兴教主。以此寺奉金书经故。俗称高丽寺。塔舍利于寺西北。寿七十八。先世泉之晋水人。故学者以晋水称之实元祐三年也。

  (十六) 蒋山赞元禅师。字万宗。婺州义乌人。双林傅大士远孙也。三岁出家。七岁为大僧性重迟闲靖寡言。视之如鄙朴人。然于传记无所不窥。吐为词语多绝尘之韵。特罕作耳。年十五游方。至石霜谒慈明昉舂破薪。泯泯混十年。明移南岳。又与俱。及没葬骨于石霜。植种八年乃去。兄事蒋山心公。心没以元继其席。舒王初丁太夫人忧。读经山中。与元游如昆仲问祖师意旨。元不答。王益扣之。元曰。公般若有障三有近道之质。一两生来恐纯熟。王曰。愿闻其说。元曰。受气刚大世缘深。以刚大气遭深世缘。必以身任天下之重。怀经济之志用舍不能必。则心未平。以未平之心持经世之志。何时能一念万年哉。又多怒而学问尚理。于道为所知愚。此其三也。特视名利如脱发。甘澹泊如头陀。此为近道。且当以教乘滋茂之可也。王再拜受教。自熙宁之初。王入对。遂大用至真拜贵震天下。无月无耗元未尝发视。客来无贵贱寒温外无别语。即敛目如入定。客即去。尝馔僧。俄报火厨库且以潮音堂。众吐饭苍黄蜂窘蚁闹。而元啜啖自若。高视屋梁食毕无所问。又尝出郭。有狂人入寺手刃一僧即自杀。尸相枕。左右走报交武于道。自白下门群从而归。元过尸处未尝视。登寝室危坐。听事者侧立。冀元有以处之。而敛目如平日。于是稍稍隐去。卒不问。元祐初曰吾欲还东吴。促办严。

  (十七 己巳) 俄化。王哭之恸塔于蒋山。苏老泉尝作彭州圆觉院记。其文曰。人之居乎此也。必有乐乎此也。居斯乐不乐不居也。居而不乐。不乐而不去。为自欺。且为欺天。盖君子耻食其食而无其功。耻服其服而不知其事。故居而不乐。吾有吐食脱服以逃天下之讥而已年。天之卑我以形。而使我以心驭也。今日欲适秦。明日欲适越。天下谁我御。故居而不乐。不乐而不去。是其心且不能驭其形。而况能以驭他人哉。自唐以来。天下士大夫。争以排释老为言。故其徒之欲求知于吾士大夫之间者。往往自叛其师以求容于吾。而吾士大夫。又喜其来而接之。礼灵彻文畅之徒。饮酒食肉以自绝于其教。呜呼归尔父母。复尔室家。而后吾许尔以叛尔师。父子之不归。室家之不复。而师之叛。是不可以一日立于天下。传曰。人臣无外交。故季布之忠于楚也。虽不如萧韩之先觉。而比丁公之贰则为愈。予在京师。彭州僧保聪来求识予甚勤。及至蜀闻其自京师归。布衣蔬食以为其徒先。凡若干年。而所居圆觉院大治。一日为予道其先师平润事与其院之所以得名者请予为记。予佳聪之不以叛其师悦予也。故为之记曰。彭州龙兴寺僧平润。讲圆觉经有奇。因以名院。院始弊不葺。润之来始得隙地。以作堂宇。凡更二僧而至于保聪。又合其邻之僧屋若干于其院。以成。是为记。

  (十八 庚午) 苏轼以龙图阁学士知杭州。奏浚西湖际山为岸。杭人呼曰苏公堤。绍圣四年。移谪儋州。至元符三年六月。归自海外居常州。轼谪黄州日。筑室东坡号居士。靖国元年辛巳七月廿八日卒。朝奉郎提举成都五局观。尝作佛印磨衲赞曰。长老佛印大师了元游京师。天子闻其名。以高丽所贡磨衲赐之。客有见而叹曰。呜呼善哉未尝有也。尝试与子摄其齐衽循其钩络举而振之。则东尽嵎夷。西及昧谷。南被交趾。北属幽都。纷在吾箴孔线蹊之中矣。佛印听然而笑曰。甚矣子言之陋也。吾以法眼视之。一一箴孔有无量世界。一一世界满中众生所有毛孔所衣之衣。箴孔线蹊悉为世界。如是展转经八十反。吾佛光明之所照。吾君圣德之所被。如以大海注一毛窍。如以大地塞一箴孔。曾何嵎夷昧谷交趾幽都之足云乎。当知此纳。非大非小。非短非长。非重非轻。非薄非厚。非色非空。一切世间折胶堕指。此衲不寒。烁石流金。此衲不热。五浊流浪劫火洞然。此纳不坏。云何以有思惟心生下劣想。于是蜀人苏轼闻而赞之曰。匣而藏之。见衲而不见师。衣而不匣。见师而不见衲。惟师与衲非一非两。眇而视之。虮虱龙象。

  (十九) 法云圆通法秀禅师。秦州陇城人也。生辛氏。母梦僧臞甚须发尽白托宿曰。我麦积山僧也。觉而娠。先是麦积山有僧。亡其名。日诵法华。与应干寺鲁和上善。尝欲从之游方。鲁老之既去。绪语曰。他日当寻我竹铺坡前铁疆岭下。俄有儿生其所。鲁闻之往观焉。儿为一笑。三岁愿随鲁归。遂冒鲁氏。十九通经为大僧。天骨峻拔。轩昂万僧中。凛如画。讲大经章分句析。机锋不可触。京洛著闻。倚圭峰钞以诠量众义。然恨圭峰学禅。唯敬北京元华严。然恨元非讲。曰教尽佛意。则如元公者。不应非教。禅非佛意。则如圭峰者。不应学禅。然吾不信世尊教外以法私大迦叶。乃罢讲南游。谓同学曰。吾将穷其窟穴。搂取其种类。抹杀之以报佛恩乃已耳。初至随州护国。读净果禅师碑曰。僧问报慈。如何是佛性。慈曰。谁无。又问净果。果曰。谁有。其僧因有悟。秀大笑曰。岂佛性敢有无之。矧又曰因以有悟哉。其气拂膺。去至无为铁佛。谒怀禅师。怀貌寒危坐涕垂沾裳。秀易之。怀收涕问。座主讲何经。秀曰。华严。又问。此经以何为宗。曰以心为宗。又问。心以何为宗。秀不能对。怀曰。毫厘有差天地悬隔。秀退自失。悚然乃敬服。愿留日夕受法。久之乃证。怀移池入吴。皆从之。初出世淮之四面。杖笠之外包具而已。以至栖贤蒋山长芦。众千人。有全椒长老。至登座。众目哂之。无出问者。于是秀出拜趋问。如何是法秀自己。全椒笑曰。秀铁面乃不识自己乎。秀曰。当局者迷。一众服其荷法心也。冀国大长公主。建法云寺成。有诏秀为开山第一祖。开堂日。神宗遣中使降香并磨衲。仍传圣语。表朕亲至之礼。皇弟荆王致敬座下。士大夫日夕问道。时司马光方登庸。以吾法太盛。方经营之。秀曰。相公聪明人类英杰。非因佛法不能尔。遽忘愿力乎。温公意少懈。元祐五年八月卧疾。诏医官视之医请候脉。秀仰视曰。汝何为者也。吾有疾当死耳。求治之。是以生为可恋也。平生生死梦三者无所拣择。挥去之。呼侍者更衣。安坐说偈而化。阅世六十四。坐夏四十五。

  (十二) 江州东林常总禅师。生剑州尤溪施氏。母梦男子颀然色如金握白芙蓉三柄以授之。但一柄得。余委地。觉而娠。后诞三子。伯仲皆不育。总其季也。年十一依宝云寺文兆法师出家。又八年落发。诣建州大中寺契恩律师受具。初至吉州禾山禅智材公。材有人望。延之不留。闻南禅师之道依归宗。久之无所得而去。归宗火。南迁石门南塔。又往从之。及南公自石门迁黄檗积翠以至黄龙。总皆在焉。二十年之间。凡七往返。南佳其勤劳称于众。总自负密记。决志大掖济北之宗。洪州太守荣公修撰请住泐潭。或谓马祖再来也。道俗争先愿见。元丰三年诏革江州东林律居为禅。观文殿学士王公韶出南昌。欲延宝觉心公。心举总自代。总知宵道去千余里。檄诸郡期必得之。得于新淦殊山穷谷中。遂应命。其徒相谓曰。远公尝有记曰。吾灭七百年后。有肉身大士。革吾道场。今符其语矣。总之名闻天子。有诏住相国智海禅院。总固称山野老病不能奉诏。然州郡敦遣急于星火。其徒又相语曰。聪明泉适自涸矣。凡两月而得旨。如所乞。就赐紫伽黎。号广惠。其徒又相语曰。聪明泉复涌沸矣。元祐三年徐国王奏。号照觉禅师。总于衲子有大缘。槌拂之下众盈七百。丛席之盛。近世所未有也。六年八月示疾。九月二十五日浴罢安坐而化。十月八日全身葬于雁门塔之东。世寿六十七。坐四十九夏。

  (二十一) 荆门玉泉皓长老塔铭。无尽居士撰。略云师姓王。眉州丹棱县坼头镇人。天圣元年。依大力院出家。法名承皓。明道二年普度为僧。景祐元年受戒。庆历二年游方。至复州见北塔思席禅师。发明心要。得游戏如风大自在三昧。制赤犊鼻。书历代祖师名而服之曰。惟有文殊普贤。犹较些子。且书于带上。自是诸方以皓布裈呼之惠南居黄龙。设三关语以接物。罕有契其机者。师教一僧往。南曰。我手何似佛手。答曰。不相似。南曰。我脚何似驴脚。答曰。不较多。南笑曰。此非汝语。谁教汝来。僧以实告。南曰。我从来疑这汉。熙宁间至襄阳为谷隐首座。有蜀僧依止师席。师怜其年少有志。稍诱掖之。僧亦效师。制犊鼻。浣而曝之。师见之曰。我裈何故在此。僧曰。某甲裈也。师曰。具何道理敢尔。僧礼拜曰。每蒙许与。切所欣慕。师曰。此岂戏论。与汝半年当吐血死。后半年其僧呕血死于鹿门山。闻者异之元丰二年四月。予奉使京西南路。闻师之名致而见之。问师法嗣何人。师曰。北塔。问北塔有何言句。师曰。为伊不肯与人说。遂请师住郢州大阳。谷隐大喜曰。我山中首座出世。盛集缁素请师升座。以为歆艳。师曰。承皓住谷隐十年。不曾饮谷隐一滴水嚼谷隐一粒米。汝若不会来大阳。与汝说。携拄杖下座。不顾而去。居数月。知荆南李公审言转运使孙公景修。同请住当阳玉泉景德禅院。师机锋孤峭。学者不能凑泊。人阙首座。维那曰。某人某人曾于某处立僧。为禅众所归。宜依诸方例请充。师叱曰。杜杜。又曰。孟八郎孟八郎。一日师从厨前过。见造晚面问曰。有客过耶。对曰。众僧造药石。师呼知事称之曰。吾昔参禅。为人汲水舂米。今见成米面蒸炊造作。与供诸佛菩萨罗汉无异饱吃了并不留心参学。百般想念五味馨香。假作驴肠膳生羊骨鳖臛。喂饲八万四千户虫。开眼随境摄。合眼随梦转。不知主禄判官掠剩大王。随从汝抄劄消凿禄料簿。教汝受苦有日在。于是徒众不堪寂寥。谮之于县令曰。长老不能安众。惟上来下去点捡寒碎。县令召师至县。责之曰。大善知识不在方丈内端坐。两廊下山门来去得许多。师曰。大通智胜佛。十劫坐道场。佛法不现前。不得成佛道。长官以坐是佛耶。坐杀佛去也。长官茫然益敬礼之。狗子在室中。僧入请益。师叱一声。狗出去。师云。狗子却会。汝却不会。玉泉冬市四远云集。师于廊下画一圆相。顾视大众曰。贱卖贱卖。良久画破曰。自家买自家买。冬至上堂曰。晷运推移布裈共赤。莫笑不洗。无来换替。正大观知荆南。问如何是佛。截断脚跟。又问。如何是佛。师曰。截断脚跟。又问。如何是法。师曰。掀了脑盖。师有顶相。自赞曰。粥稀后坐。床窄先卧。耳瞆。爱声高。眼昏宜字大。其应机答话。隐显不测。大致若此。玉泉寺宇广大弊漏。前后主者以营葺为艰。师曰。吾与山有缘。与僧无缘。修今世寺待后世僧耳。悉坏法堂方丈寝堂钟楼慈氏阁关庙。而鼎新之。皆求予记其本末。师住山无笔砚文字。箱箧无兼衣囊钱。元祐六年遣人至江西。口白曰。老病且死。得百丈肃为代可矣。余以喻肃。肃不顾往。十二月二十八日示寂。临行门人迫以作颂。师笑曰。吾年八十一。病死舁尸出。儿郎齐着力。一年三百六十日。师灭时地三震。会余移漕淮西。召还谏省谪官金陵。不复详师后事。今年十月被恩知洪州。途次太平。有德鸿者来谒。泣言。师之死。鸿适归闽中。自闽闻讣。奔诣玉泉。师已葬于斗山下。鸿营塔于始就绪。念先师神交道契。莫如公者。故间关数千里。诣公求文。铭师之塔。予哀鸿不忘其师。乃追掇绪余而铭之曰(文多不录)。

  (二十二) 法师元净。字无象。徐氏。杭州於潜人。客有过其舍者曰。嘉气上腾。当生奇男。既生左肩肉起如袈裟条。八十一日乃没伯祖异之曰。宿世沙门必使事佛。八十一者殆其算欤。及师之终。果符其数。十岁出家。每见讲座辄曰。愿登此说法度人。十二就学于慈云。不数年而齿高弟。后闻明智讲止观方便五缘曰。净名所谓一食施一切。供养诸佛及诸贤圣。然后可食。此一方便也。师悟曰。今乃知色香味触本具第一义谛。因泣下如雨。自是遇物无非法界。代讲十五年。杭守吕臻请住大悲阁。严设戒律。其徒畏爱。臻为请赐紫衣辨才之号。七年翰林沈遘抚杭(仁宗嘉祐)谓。上竺本观音道场。以音声为佛事者。非禅那居。乃请师居之(此年始革禅为教)凿山增室广聚学徒。教庠之盛。冠于二浙。神宗熙宁三年。杭守祖无择坐狱于槜李(携音醉地名今嘉兴)师以铸钟例被追辨。幸得释寓止真如兰若。拟金[鎞-囟+(奂-大)]设问答。述圆事理说发明祖意之妙。元丰元年有利山门施资之厚者。倚权以夺之。众亦随散。逾年其人以败闻。朝廷复卑师。众复集(青献赵公与师为世外友。为之赞曰。师去天竺。山空鬼哭。天竺师归。道场重辉。东坡寄诗曰。道人出山去。山色如死灰。白云不解笑。青松有余哀。忽闻道人归。鸟语山容开。云)三年复谢去。居南山之龙井。士庶争为筑室。遂成伽蓝。六年太守邓伯温请居南屏。明年复归龙井。时灵山虚席。师以慈云师祖道场。俯就众请。及月余定中见金甲神跪前曰。师于此无缘。不宜久住。既受冥告。遂还龙井。元祐四年苏轼治杭。问师曰。此山如师道行者几人。曰沙门多密行。非可尽识。将示寂。乃入方圆庵(秦观记米芾书)宴坐谢宾客。止言语饮食。招众寥告之曰(道替师也)吾净业将成。若七日无障。吾愿遂也。七日出偈告众。即右胁而化。当元祐六年九月晦日也。塔成。东坡命子由为之铭。

  (二十三 癸酉) 净因道臻禅师。字伯祥。福州古田戴氏子也。幼不茹荤。十四去上生院行头陀行。又六年为大僧。阅大小经论。置不读曰。此方便说耳。即持一钵走江淮。所参知识甚多。而得旨决于浮山远公。江州承天虚席。致臻非所欲。而游丹阳寓止因圣。一日行江上觅舟。默计曰。当随所往信吾缘也。问舟师曰。载我舡尾可乎。舟师笑曰。师欲何之。我入汴舡也。臻曰。吾行游京师。因载之而北。谒净因大觉琏公。琏公使首众僧于座下。及琏归吴。众请以臻嗣焉。开法之日。英宗遣中使降香赐紫方袍徽号。京师四方都会有万好恶。贵人达官日门填。臻一日之慈圣上仙。神宗召至庆寿宫赐对甚喜。设高广座恣人问答。左右上下咸叹希有。欢动宫殿。赐与甚厚。神宗悼佛法之微。悯名相之弊。始即相国为惠林智海二刹。其命立僧必自臻择之。宿老皆从风而靡。神宗上仙。被诏而福宁殿说法。诏道臻素有德行可赐号净照禅师。元祐八年八月十七日。前语门人净圆曰。吾更三日行矣。及期沐浴更衣。说偈已跏趺而寂。阅世八十。坐六十有一夏。臻性慈靖退似不能言者。居都城西隅。衲子四十余辈颓然不出户。三十年如一日。奉身甚约。一布裙二十年不易。用五幅絻掩胫。不多为丛褶曰。徒费耳。无所嗜好。乃能雪方丈之西壁。请文与可扫墨竹。谓人曰。吾使游人见之。心目清凉。此君盖替我说法也。尝于庆寿宫说法。僧问。慈圣仙游定归何所。臻曰。水流元在海。月落不离天。上悦以为能加敬焉(黄鲁直题其像曰。老虎无齿。卧龙不吟。千林月黑。六合云阴远。山作眉红杏腮。嫁与春风不用媒。老婆三五少年目也。解东涂西抹来)。◎

  ◎(甲戌) 改绍圣。

  (二十四 乙亥) 辽改寿昌(主洪基加号圣文神武全功大略聪仁孝惠天祐皇帝)。

  智海真如慕哲禅师。出于临川闻氏。闻族寒哲又幼孤。去依建昌永安圆觉律师为童子。试所习得度具戒。为人刚简有高识。以荷法为志。律身甚严。翠岩真禅师游方时。哲能识之。真好慕所长以盖人。号真点胸。所至犯众怒非笑之。哲与之周旋二十年。虽群居不敢失礼。真两住刹。哲阴相之。成法席。有来学者。且令见哲侍者。谓人曰。三十年后哲其大作佛事。真殁塔于西山。心丧三年乃去。依黄檗游湘中。一钵云行鸟飞。去留为丛林重轻。谢师直守潭州。闻其风而悦之。不可致。㞧岳麓席虚。尽礼迎以为出世。累月而后就俄迁大沩。众二千指。无所约束人人自律。唯粥罢受门弟子问道。谓之入室。斋罢必会大众茶。诸方才月一再。而哲讲之无虚日。放参罢哲自役作。使令者在侧如路人。晨香夕灯十有四年。夜礼拜持茅视殿庑灯火。倦则以帔蒙首假寐三圣堂。初犹浴。尽老不浴者十余年。绍圣元年有诏住大相国寺智海禅院。京师士大夫想见风裁。丛林以哲静退畏闹。不敢必其来。哲受诏欣然俱数衲子至。解包之日。倾都来观。至谓一佛出世。院窄而僧日增。无以容则相枕地卧。有请限之者。哲曰。僧佛祖所自出。厌僧厌佛祖也。安有名为传法而厌佛祖乎。安得不祥之语哉。凡验学者。举赵州洗钵话。上人如何会。僧拟对。哲以手托之曰。歇去。自始至终未尝换机。明年十月初八。无疾而化。

  (二十五) 是年云居元祐禅师卒。王氏。信之上饶人。年十三师事博山承天沙门齐晟。二十四得度具戒。时南禅师在黄檗。往依之。十余年智辨自将气出流辈。众以是悦之少。然祐不䘏也。南殁去游湘中。庐于衡岳马祖故基。衲子追随声重荆楚间。谢师直守潭州。欲禅道林之律居。尽礼致祐为第一世。祐欣然肯来。道林蜂房蚁穴。闻见层出。像设之多。冠于湘西。祐夷廓之。为虚堂为禅室。以会四海之学者。役夫不敢坏像设。祐自锄弃诸江曰。昔本不成。今安得坏。吾法尚无凡情。存圣解乎。六年而殿阁崇成。弃之去。游庐山。南康太守陆公。时请住玉涧寺。徐王闻其名。奏赐紫袍。祐作偈辞之曰。为僧六十鬓先华。无补空门号出家。愿乞封回礼部牒。兔辜卢老纳袈裟。人问其故。祐曰。人主之恩而王者之施。非敢辞。以近名也。但以法未等耳。王安上者舒王之弟。问法于祐。以云居延之。祐曰。为携此骨归葬峰顶耳。登舆而去。疾诸方死必塔者。祐曰。山川有限。僧死无穷。他日塔将无所容。于是于开山宏觉塔之东作卵塔曰。凡住持者非生身不坏火浴雨舍利者。皆以骨石填于此。其西又作卵塔曰。凡僧化皆以骨石填于此。谓之三塔。绍圣二年七月七日。夜集众说偈而化。世寿六十有六。坐四十有二夏。

  (二十六 戊寅) 改元符 西夏改永安。

  云居佛印了元禅师。字觉老。生饶州浮梁林氏。世业儒。父祖皆不仕。元生二岁。琅琅诵论语诸家诗。五岁诵三千首。既长从师授五经略通大义。因读首楞严经于竹林寺。爱之尽捐旧学。白父母求出家度生死。礼宝积寺沙门日用试法华受具。游庐山谒开先暹道者。暹自负其号海上横行。俯视后进。元与问答捷给。乃称赏。时年十九。又谒圆通讷公。讷曰。骨格已似雪窦。后来之俊也。时书记怀琏方应诏以元继其职。江州承天虚席。又以元当选。郡将而少之。讷曰。元齿少而德壮。虽万耆衲不可折也。于是为开先之嗣。时二十八矣。自承天迁淮之斗方。庐山之开先归宗。润之金山焦山。江西之大仰又住云居。凡四十年间。德化缁素。缙绅之贤者多与之游。东坡谪黄州。庐山对岸。元居归宗酬酢妙句。与烟云争丽及其在金山。东坡释还东吴。次丹阳以书抵元曰。不必出山。当学赵州上等接人。元得书径来。坡迎笑问之。元以偈答曰。赵州当日少谦光。不出山门见赵王。争似金山无量相。大千都是一禅床。坡抵掌称善。又尝谓众曰。昔云门说法如云雨。绝不喜人记录其语。见必骂逐曰。汝口不用。返记吾语异时裨贩我去。今室中对机录。皆香林明教以纸为衣。随所闻即书之。后世学者渔猎文字语言。正如吹网欲满。非愚即狂。时江浙丛林尚以文字为禅之谓请益。故元以是风之。高丽僧统义天航海至明州。传云。弃王位出家。上疏乞遍历丛林问法受道。有诏朝奉郎杨杰次公馆伴。所经吴中诸刹皆饯。如王臣礼。至金山。元床坐纳其大展。次公惊问故。元曰。义天亦异国僧耳。僧至丛林规绳如是。不可易也。众姓出家同名释子。自非买崔卢门阀相高。安问贵种。次公曰。卑之少徇时。宜求异诸方。亦岂觉老心哉。元曰。不然。屈道随俗。诸方先失一只眼。何以示华夏师法乎。朝廷闻之以元为知大体。李公伯时为元写照。元曰。必为我作笑状。自为赞曰。李公天上石麒麟。传得云居道者真。不为拈花明大事。等闲开口笑何人。泥牛谩向风前嗅。枯木无端雪里春。对现堂堂俱不识。太平时代自由身。元符元年正月初四日。听客语有会其心者。轩渠一笑而化。其令画笑状。非苟然也。世寿六十七。坐五十有二夏。

  (二十七) 圆照禅师。讳宗本。生于管氏。常州无锡人也。体貌丰硕言无枝叶。十九师事苏州承天永安道升禅师。升道价重丛林。归之者如云。本弊衣垢面。探井臼典炊爨。以供给之。夜则入室参。升曰。头陀荷众良苦。亦疲劳乎。对曰。若舍一法不名满足。菩萨实欲此生身证。其敢言劳。升阴奇之。又十年剃发受具。服勤三年乃辞。升游方遍参。至池阳景德谒义怀禅师。言下契悟。众未有知者。尝为侍者而喜寝。鼻息齁齁。闻者厌之言于怀。怀笑曰。此子吾家精进幢也。汝辈他日当依赖之。无多谈。众乃惊。怀退居吴江寿圣。部使者李公复圭过怀夜话曰。瑞光虚席。愿得有道衲子主之。怀指本曰。无逾此道人者耳。既至寺。集众击鼓。鼓辄堕。圆转震响。众惊却。有僧出呼曰。此和尚法雷振地之祥也。俄失僧所在。自是法席日盛。武林守陈公襄。以承天兴教二刹命师择居。苏人留之益甚。又以净慈坚请。移文喻道俗曰。借师三年。为此邦植福。不敢久古。本啧啧曰。谁不欲作福。众识其意。听赴之。元丰五年神宗皇帝辟相国寺六十四院为八。禅二律六。中贵梁从政董其事。驿召师主惠林。既至。上遣使问劳。三日传旨就寺之门为士民演法。翌日召对延和殿问道。赐坐。即盘足跏趺。赐茶至举盏长吸又荡撼之。上问。受业何寺。对曰。承天永安。上悦其真。喻以方兴禅宗宜善开导之旨。既退。上目送之。谓左右曰。真福惠僧也。后帝登遐。召入福宁殿说法。以师尝为先帝所礼。敬见之。不胜哀悼。以老乞归林下。敕任便云游。所至不得抑令住持。升座辞众曰。本是无家客。那堪任便游。顺风加橹棹。舡子下杨州。既出都城。王公贵人送者车骑相属。师临别诲之曰。岁月不可把玩。老病不与人期。唯勤修勿怠是真相为。闻者莫不感涕其真慈善导若此。高丽僧统义天。以王子奉国命使于我朝。闻师道誉。请以弟子礼见师。问其所得以华严经对。师曰。华严经三身佛。报身说耶。化身说耶。法身说耶。义天曰。法身说。本曰。法身遍周沙界。当时听众何处蹲立。义天茫然自失。钦服益加。法道至本大盛。老居灵岩闭门颓然。而四方从者相望于道不释也。元符二年十二月甲子。将入灭。沐浴而卧。门弟子环拥请曰。和尚道遍天下。今日不可无偈。幸强起安坐。本熟视曰。痴子我寻常尚懒作偈。今日特地图个甚么。寻常要卧便卧。不可今日特地坐也。索笔大书五字曰。后事付守荣。掷笔憨卧。若熟睡然。撼之已去矣。门人塔全身于山中。阅世八十。坐五十二夏。

  (二十八 庚辰) 黄龙宝觉禅师入寂。出于邬氏。讳祖心。南雄始兴人也。少为书生有声。年十九而目盲。父母信以出家辄复见物。乃往依龙山寺沙门惠全。明年试经业。而公独献诗得奏名。剃发继住受业院。不奉戒律且逢横逆。于是弃之入丛林。谒云峰悦公。留三年。难其孤硬。告悦将去。悦曰。必往依黄檗南公。公至黄檗。四年知有而机不发。又辞而上云峰。会悦谢世。因就止石霜。无所参决。试阅传灯。至僧问多福曰。如何是多福一丛竹。福曰。一茎两茎斜。三茎四茎曲。此时顿觉。亲见二师。径归黄檗方展坐具。南公曰。子入吾室矣。公亦踊跃自喜。即应曰。大事本来如是。和尚何用教人看语下语百计搜寻。南公曰。若不令汝如此究寻到无用心处自见自肯。吾即埋没汝也。公从容游泳陆沈众中。时时往决云门语句。南公曰。知是般事便休。汝用许多工夫作么。公曰。不然。但有纤疑在。不到无学。安能七纵八横天回地转哉。南公肯之。后使分座令接纳来学。南迁黄龙而化以公继其席。凡十有二年。然性真率不乐从事于务。五求辞去。乃得谢事间居。而学者益亲。谢景温师直守潭州。虚大沩以致公。三辞不往。又嘱江西转运判官彭汝砺器资。请所以不赴长沙之意。公曰愿见谢公。不愿领大沩也。马祖百丈以前无住持事。道人相寻于空闲寂寞之滨而已。其后虽有住持。王臣尊礼为天人师。今则不然。挂名官府。如有户籍之民。直遣伍伯追呼之耳。此岂可复为也。师直闻之。不敢以院事屈。愿一见之。公至长沙。师直愿受法训。公为举其纲。其言光显广大。如青天白日易识。其略曰。三乘十二分教。还同说食示人。食味既因他说。其食要在自己亲尝既自亲尝。便能了知其味是甘是辛是咸是淡。达磨西来直指人心见性成佛。亦复如是。真性既因文字而显。要在自己亲见。若能亲见。便能了知目前是真是妄是生是死。既能了知真妄生死。返观一切语言文字。皆是表显之说。都无实义。如今不了病在甚处。病在见闻觉知。为不如实知真际所诣。认此见闻觉知为自所见。殊不知此见闻觉知。皆因前尘而有分别。若无前尘境界。即此见闻觉知。还同龟毛兔角。并无所归。师直闻所未闻。公以生长极南少以宏法栖息山林。方太平时代欲观光京师以饯余年。乃至京师驸马都尉王诜晋卿尽礼迎之。庵于国门之外。久之南还再游庐山。尝有偈曰。不住唐朝寺。闲为宋地僧。生涯三事衲。故旧一枝藤。乞食随缘去。逢山任意登。相逢莫相笑。不是岭南能。可想公之标致也。腊既高益移庵深入栈绝学者。又二十余年。以元符三年十一月十六日中夜而殁。阅世七十有六。坐夏五十有五。

  (二十九 辛巳) 徽宗佶立(神宗第十三子。初封端王。太后向氏召宰执议立端王。丞相章惇曰。端王浪子耳。曾布长望见王在廉下叱曰。听太后处分。王出章惇惶恐失措。遂即位。荒淫奢佚蔑直尚浮。又宠道士林灵素失道北迁。降为天水郡王。寿五十五。在位二十五年。终于五国城)改建中靖国。

  辽天祚立讳延禧(道之孙。秦王元吉之子。淫纵失道。荒于畋猎。女真有禽曰海东青玉爪。善捕天鹅。一飞千里。岁命其国人穷取以献。人怨遂叛。政和中童贯与辽叛人马植谋约女真攻辽。天祚逃于夹山。舍之削封海滨王。送长白山东筑城居之。遂亡)。

  女真太祖阿骨打(后改名旻。杨割太师之长子。世为酋长。是年举兵立国)。

  (三十) 禅门续灯录成。乃东京法云佛国禅师惟白集。是年八月十五日上进。帝为制序。白靖江人。嗣圆通秀公。其文曰。昔释迦如来之出世也。受然灯之记。生净饭王家。分手指呼天地。而其机也已露。游门观于老死。而幻缘也顿寂。及乎唱道鸡园腾芳鹫岭。无边刹境。遂现于一毫之端。大千经卷。毕出于微尘之表。西被竺土东流震旦。编叶而书。则一时圣法虽传于庆喜。拈花而笑。则正法眼藏独付于饮光。自达磨西来。实为初祖。其传二三四七而至于曹溪。于是双林之道逾光。一滴之流寖广。自南岳青原而下。分为五宗。各擅门风应机酬对。虽建立不同。而会归则一。莫不箭锋相拄鞭影齐施。接物利生启悟多矣。源派广迤枝叶扶疏。而云门临济二宗遂独盛于天下。朕膺天宝命绍国大统。恭惟艺祖辟度门于绵寓。太宗阐秘义于敷天。章圣传灯于景德。永昭广灯于天圣。皆宏畅真风协助神化。以成无为之治者也。于皇神考尤向空宗。元丰三年诏于大相国寺创二禅。辟惠林于东序。建智海于西庑。壬戌之岁以越国大长公主及集庆军节度观察留后驸马都尉张敦礼之请。复建法云禅寺于国之南。于是祖席光辉丛林鼎盛。天下袭方袍。慕禅悦者云集于上都矣。今敦礼以其寺住持僧佛国禅师惟白。探最上乘。了第一义。屡入中禁三登高座。宣扬妙旨。良惬至怀。昔能仁说法华经。放眉间白毫相光。照东方万八千世界。而弥勒发问文殊决疑。以谓日月灯明佛。本光瑞如此。持是经者妙光法师。得其证者普明如来。今续知之名。盖灯灯相续。光光相入。义有在于是矣。意圆澄觉海。本含裹于十方。生灭空沤。遂沉沦于三有。因明立所由尘发知识妄相仍转入诸趣。良可悲也。若回光内照发真归元。则是录也。直指性宗单传心印。可得于眉睫。可荐于言前。举手而擎妙喜世界。弹指而现庄严楼阁。神通妙用真不可思议者也。嘉于有众缔此胜缘。俱离迷津偕之觉路。斯朕之志已。建中靖国元年八月十五日赐叙。

  (壬午) 改年崇宁(铸崇宁当三钱○诏天下军州创崇宁寺○又改天宁替先号)。

  (三十一 甲申) 是岁蕲州五祖山法演禅师示寂。锦州巴西邓氏。少落发受具。游成都讲席。习百法唯识窥其奥。置之曰。胶柱安能鼓瑟乎。即日游方。所至无足当其意者。抵浮山谒远录公。久之无所发明。远曰。吾老矣。白云端炉鞴不可失也。演唯诺。径造白云。端曰。川䖃苴汝来也。演拜而就列。一日举僧问南泉摩尼珠语。以问端。端叱之。演领悟。汗流被体。乃献投机颂云。山前一片闲田地。义手叮咛问祖翁。几度卖来还自买。为怜松竹引清风。端颔之曰。栗棘蓬禅属子矣。演尝掌磨。有僧视磨急转。指以问演。此神通耶。法尔耶。演褰衣旋磨一匝。师尝示众云。古人道如镜铸像。像成后镜在什么处。众下语不契。师作街坊。自外来。端举似演。演前问讯曰。也不争多。端笑曰。须是道者始得。初住四面还白云。上堂云。汝等诸人见老和上鼓动唇舌竖起拂子。便作胜解。及乎山禽聚集牛动尾巴。却将作等闲。殊不知檐声不断前旬雨。电影还连后夜雷。又云。悟了同未悟。归家寻旧路。一字是一字。一句是一句。自小不脱空。两岁学移步。湛水生莲华。一年生一度。又云。贱卖檐板汉。贴秤麻三斤。百千年滞货。何处着浑身。张丞相谓其应机接物孤峭径直。不犯刊削。其知言耶。应世四十余年。晚住太平移东山。崇宁三年六月二十五日。上堂辞众。时山门有土木之工。演躬自督役。诫曰。汝等好作息。吾不复来矣。归方丈净发澡浴。旦日吉祥而逝。

  (乙酉) 金国移瑞像佛牙入内殿供养。

  (丙戌) (金诏释氏。有渎神逾分者。除削之。是年正月彗出西方。其长亘天)。

  (丁亥) 大观○慈感寺(吴兴郡民邵宗益。剖蚌得罗汉像。归于本寺。后至建炎间。宪使杨应诚传玩跃入于溪。渔人再获建阁以藏之)。

  (三十二 己丑) 东都法云大通禅师善本示寂。生董氏。汉仲舒之后也。其先家太康仲舒村。太父琪父温皆官于颖。遂为颖人。初母无子。祷于佛前。誓曰。得子必以事佛。即蔬食乃娠。生而骨相秀异。方晬而孤。母育于叔祖玠之家。既长博学操履清修。母亡哀毁过礼。无仕官意辟谷学道隐于笔工。然气刚不屈沉默白眼公卿。嘉祐八年与弟善思俱至京。籍名显圣地藏院试所习为大僧。其师圆成律师惠楫者。谓人曰。本他日当有海内名。乃生我法中乎。使听习毗尼随喜杂华。夜梦见童子。如世所画善财。合掌导而南。既觉曰。诸佛菩萨加被我矣。其欲我南询诸友乎。时圆照道振吴中。本迳造姑胥谒瑞光圆照。坐定特顾之。本默契宗旨服勤五年。尽得其整顿提撕之纲研练差别之智。纵横舒卷度越前规。一时辈流无出其右。圆照倚之以大其家。以季父事圆通秀公。秀住庐山栖贤。出入卧内。如寂子之于东寺焉。出世婺之双林。迁杭之净慈。继圆照之后。食堂千余口。仰给于檀施供养。庄严之盛。游者疑在诸天。时号大小本也。哲宗闻其名。诏住上都法云。赐号大通。又继圆通之后。玉立孤峻俨临清众。如万山环天柱让其高寒。然精粗与众共。未尝以言徇物以色假人。王公贵人施日填门。住八年。请于朝愿归老于西湖之上。诏可。遂东还庵龙山。崇德杜门。却扫与世相忘又十年。天下愿见而不可得。临众三十年。未尝笑及闲居时抵掌笑。或问其故。曰不庄敬何以率众。吾昔为丛林故强行之。非性实然也。所至见画佛菩萨行立之像。不敢坐。伊蒲塞馔似鱼胾名者不食。其真诚敬事防心离过。类如此。大观三年十二月甲子。屈三指谓左右曰。止有三日而已。果没。有异禽翔鸣于庭而去。塔全身于上方。阅世七十有五。坐四十有五夏。

  (庚寅) (五月停给僧尼度牒三年○六月以张商英入相。时久旱。是夕大雨。上书商霖二大字以赐之)。

  (辛卯) 改政和(四月张商英罢相○诏毁京师浮祠)。

  辽改天庆。

  (三十三 壬辰) 是年蔡京进太师楚国公。京喜食鹑。预笼畜而烹之。尝梦鹑数千诉于前。其一致词曰。食君廪中粟。充君箸下肉。一羹数百命。生死犹转毂。看君寿千春。祸福相倚伏。京甚畏之(出鱼溪诗话)。

  (三十四 癸巳) 四月嘉州风折大树。有僧在定。有司闻于上。诏令送至京师。八月入内译经院。金总持三藏。鸣金磬出其定僧。曰我东林远法师之弟惠持也。西游峨眉因入定于此。三藏因徐启。今欲何归。曰陈留。即复入定。徽宗令绘像。颁行天下仍制赞。

  (三十五) 是年四月玉清昭阳宫成。奉安道像。上诣宫行礼。七年改玉清神霄宫。时道教之盛。自道士徐知常始。赐号冲虚先生。徐守信赐虚静先生。刘混康赐葆真观妙冲和先生。后并赠太中大夫○十一月癸未郊上搢大圭执元圭。以道士百人执仪卫前导。置道阶凡二十六等。先生处士八字六字四字二字。视中大夫。至将仕郎级。重和初别置道官。自太虚大夫。至金坛郎。凡十六等。同文臣。中大夫至迪功郎。道职自冲和殿侍宸。至凝神殿校经。凡十一等。侍宸同待制。捡籍同修撰。校经同直阁。皆给告身(出宋史)。

  (三十六 甲午) (诏佛果禅师克勤。住京师天宁○赐永道法师号宝觉。住左街香积院)。

  女真是年始叛陷辽宁江府(初辽主天祚。赏罚僭滥。色禽俱荒。女真东北与五国为邻。五国之东接大海出名鹰。自海东来者谓之海东青。辽人酷爱之。岁岁求之。女真至五国战斗而后得。不胜其扰。二年春天祚如混同江钓鱼。界外生女真酋长在千里外者。以故事皆不会。酒酣使诸酋歌舞为乐。阿骨打独不从。天祚谓枢密使萧奉先曰。阿骨打意气雄豪。当以事诛之。奉先曰。杀之伤向化之心。阿骨打知其意。即先举兵吞并邻近部族。秋集女真诸部甲马二千。犯混同江之宁江州。时天祚射鹿庆州秋山。遣渤海刺史高仙寿讨之。为女真所败。失宁江州。有黑气长数丈。出自齐宫。行一里许。贯于坛遗。出辽志)。

  (三十七 乙未) 辽天庆五年○金太祖(阿骨打正月一日即位)改年收国。

  政和五年。黄龙死心禅师卒。讳悟新。生王氏。韶州曲江人。魁岸黑面如梵僧状。依佛陀院落发。以气节盖众好面折人。初谒栖贤秀铁面。秀问。上座其处人。曰广南韶州。又问。曾到云门否。新曰。曾到。又问。曾到灵树否。曰曾到。秀曰。如何是灵树枝条。新曰。长底自长。短底自短。秀曰。广南蛮莫乱说。新曰。向北驴只恁么。拂袖而出。秀器之。而新无留意。乃之黄龙谒宝觉禅师。谈辨无所抵捂。觉曰。若之技止此耶。是固说食耳。渠能饱人耶。新窘无以进。从容白曰。悟新到此弓折箭尽。愿和上慈悲指个安乐处。宝觉曰。一尘飞而翳天。一芥堕而覆地。安乐处正忌上座许多骨董。直须死却无量劫来偷心乃可耳。新趋出。一日点坐下板。会知事捶行者。新闻杖声忽大悟。奋起忘纳其履趋方丈。见宝觉自誉曰。天下人总是学得底。某甲是悟得底。觉笑曰。选佛得甲科。何可当也。新自是号为死心叟。榜其居曰死心室。盖识悟也。久之去游湘西。是时哲禅师领岳麓。往造焉。哲问。是凡是圣。对曰。非凡非圣。哲曰。是什么。新曰。高着眼。哲曰。恁么则南山起云北山下雨。曰是凡是圣。哲曰。争奈头上漫漫脚下漫漫。新仰屋作嘘声。哲曰。气急杀人。曰恰是拂袖便出。新初住云岩。已而迁翠岩。翠岩旧有淫祠。乡人禳禬。酒胾汪秽无虚日。新诫知事毁之辞以不敢掇祸。新怒曰。使能作祸。吾自当之。乃躬自毁折。俄有巨蟒盘卧内。引首作吞噬之状。新叱之而遁。新安寝无他。未几再领云岩建经藏。太史黄庭坚为作记。有以其亲墓志镵于碑阴者。亲恚骂曰。陵侮不避祸。若是语未卒。电光翻屋雷击自户。入折其碑阴中分之。视之已成灰烬。而藏记安然无损。晚迁黄龙。学者云委。属疾退居晦堂。夜参坚起拂子云。看看拂子病死心病。拂子安死心安。拂子穿却死心。死心穿却拂子。正当恁么时。唤作拂子又是死心。唤作死心又是拂子。毕竟唤作什么。良久云。莫把是非来辨我。浮生穿凿不相干。有乞末后句者。新与偈曰。末后一句子。直须心路绝。六根门既空。万法无生灭。于此彻其源。不须求解脱。生平爱骂人。只为长快活。十二月十三日晚参说偈。十五日泊然坐逝。荼毗得舍利五色。阅世七十二。坐四十五夏。

  (三十八 丙申) 政和六年。钱塘灵芝寺律师。元照字湛然。余杭唐氏子。少依祥符东藏惠鉴师学毗尼。及见神悟谦公。讲天台教观。博究群宗以律为本。又从广慈授菩萨戒。戒光发现。顿渐律仪罔不兼备。南山一宗蔚然大振。常披布伽黎。杖锡持钵。乞食于市。杨无为赞之曰。持钵出持钵归。佛言长在四威仪。初入?时人不识。虚空当有鬼神知。四主郡席。晚居灵芝三十年。众常数百。尝言化当世莫若讲说。垂将来莫若著书。撰资持济缘行宗应法住法报恩诸记十六观小弥陀义疏。及删定律仪本芝园集若干卷。自号安忍子命讽普贤行愿品。趺坐而化。寿六十九。夏五十有一。

  (三十九) 道士林灵素者。温州人。善妖术。以雷公法尝往来不逞。于宿亳淮泗间。乞食诸寺。僧薄之。至楚州与惠世相驱击。讼于官府。倅石仲问焉。喜其辨捷轻。后脱之置馆中。问吐纳烧炼蜚神之术。七年正月仲携入京。因道士徐知常。谒宰相蔡京。京致见帝。灵素大言曰。天上有神霄玉清府长生帝君主之。其弟青华帝君皆玉帝子。次有左元仙伯并书罚仙吏褚惠等八百余官。谓帝即长生大帝君。蔡京为左元仙伯。已即褚惠。帝忻然信之。赐林金门羽客。建通真宫以处之。帝自号教主道君皇帝○二月诏。改天下大寺为神霄玉清万寿宫。院为观。设长生青华帝君像。置道学科。未几有期门之事矣○四月诏道箓院。略曰。朕乃上帝元子。为太霄帝君。悯中华被金狄之难教。遂恳上帝愿为人主。令天下归于正道。卿等可上表册。朕为教主道君皇帝。止用于教门上。以释教经六千卷内恶谈毁词诋谤道儒二教。命近臣于道箓院看详。取索焚弃之。

  (四十) 是年隆兴府黄龙山灵源禅师迁寂。名惟清。生南州武宁陈氏。方垂髫上学。日诵千言。吾伊上口。有异僧过书肆见之。引手熟视之。大惊曰。菰蒲中有此儿耶。告其父母听出家。从之。师事戒律。师年十七为大僧。闻延恩院耆宿法安见本色人。上谒愿留就学。安曰。汝苦海法船也。我寻常沟壑耳。岂能藏哉。黄龙心禅师是汝之师。亟行无后。时清至黄龙泯。泯与众作息。问答茫然。不知端倪。夜誓诸佛前曰。倘有省发。愿尽形寿以法为檀。世世力弘大法。初阅玄妙(当作沙)语。倦而倚壁。起经行步促遗履。俯就之乃大悟。以所悟告宝觉。觉曰。从缘入者永无退失。然新得法空者。多喜悦致散乱。令就侍者房熟寐。清丰神洞冰雪。而趣识卓绝流辈。龙图徐禧德占太史黄庭坚。皆师友之。其见宝觉得记别。乃安为之地矣。张丞相商英。初奉使江西。高其为人。厚礼致以居洪之观音。不赴。又十年淮南使者朱京世昌命住舒州太平。乃赴。衲子争趋之。尝与寂音论之曰。今之学者未脱生死。病在于何。偷心未死耳。然非其罪。为师者之罪也。如汉高帝绐韩信而杀之。信虽曰死。其心果死乎。古之学者。言在脱生死。效在什处。在偷心已死。然非学者自能尔。实为师者钳锤妙密也。如梁武帝御大殿见侯景不动声气。而景之心已枯竭无余矣。诸方所说非不美丽。要之如赵昌画花逼真。非真花也。其指法巧譬类此。政和七年九月十八日。食罢净发安坐而逝。

  (四十一) 十一月。汴京智海佛鉴禅师慧勤迁寂。生汪氏。舒州人。

  (戊戌) 改重和○金改天辅元年。

  (四十二) 十一月上御宝箓宫。度玉清神霄秘箓会八百人。凡天神降临事。盖发端于王老志。而极于林灵素。及为大会。林讲经据高座。上为设幄其侧。林所讲无殊绝者。杂以滑稽喋语。上下为大哄笑。莫有君臣之礼矣。时道士有俸。每一斋施动获数十万。每一宫观给田亦不下数千顷。皆外蓄妻子置姬媵。以胶青刷鬓。美衣玉食者。几二万人。一会殆费数万缗。贫下之人多买青衣幅巾以赴。日得一饫餐而衬施三百。谓之千道会(云云)○十一月(有星如目徐徐南行而落。光照人物与月无异。出宋史)。

  (四十三) 十二月女真阿骨打称帝国号大金(女真其初酋长。本新罗人。号完颜氏。完颜犹汉言王。女真妻之以女。生二子。其长即胡来也。自此传三人。至杨哥大师。以至阿骨打。身长八尺。貌雄伟沉毅。寡言笑顾视不常。而有大志。有杨朴者辽东人也。劝阿骨打称帝。以其国产金。故号大金。遣人请天祚求封册。天祚遣使备衮冕。册为东怀皇帝)。

  (四十四 己亥) 改宣和○西夏改元德○(左街香积院永道法师等。书谏流于岭表○睦贼方腊反僭改永乐庚子冬即灭)春正月诏改佛号大觉金仙(余为仙人大士。僧称德士。行称德童。而冠服之。但道冠有徽。德冠无徽。凡法事称故名者。加之中罪。群臣谏者。酷虐诛之。变风大扇矣。又以寺为宫院为观。寻改女冠为女道。尼为女德。仍禁铜铙塔像。下书便令天下德士逐出本寺。不令将带衣钵财物。而使道士安心住坐○夏五都城水高十余丈。水未作前雨数日如倾。及齐开封县前茶肆人晨起拭床榻睹若有大犬蹲其傍。质明视之龙也。其人惊呼而倒。遂为作坊兵众取而食之。都人绘之。若世所画龙。鳞苍黑色驴首。而两颊如鱼头。色正绿顶有角。座极长于其际。始分两岐。有声如牛。后十日水至。诏林灵素禳水。无验。泗洲僧伽降现。上命禳水。大士登城水势顿竭。遂赐号巨济大士。龙降后一夕五鼓。西北有赤气数十道。亘天犯紫宫北斗。仰观星皆若隔绛纱。方起时折裂有声。然后大发。后数夕又作声益大。格格且久。其发更猛。而赤气出西北数十百道。其中又间以白黑二气。然赤气为多。自西北俄入东北。又延及东南。其声亦不绝。迨晓方止○冬十一月放林灵素归温州死之。出宋史)。

  (庚子) 秋九月诏佛德士(复僧释氏旧名。输钱换牒。弛铜铙塔像禁。宝觉大师永道量移近郡)。

  (辛丑) 诏以(所赐神霄宫。并田产。尽还僧寺)○辽改保大元年○春正月日有眚(忽青黑色无光。其中汹汹而动若镮金。而涌沸状日傍有青黑。正如水波。周回旋转。将暮而捐止。时睦贼未平。人多忧之)三月二十五日诏(慈。受怀深禅师住相国惠林院。生寿春夏氐。嗣长芦信禅师)夏六月黑眚(出洛阳京畿。忽有物如人。或一犬。其色黑不能辨眉目。夜出掠小儿伤食之。如是三年乃息)。

  (壬寅) 辽延禧与女真大战(而败。上京东京陷。徙燕。女真又攻败之。延禧与二子奔于不毛之地。由洛阳入夹山。复立于燕。辽由是分矣。改元建福)。

  (四十五) 是年丞相张无尽薨。公讳商英。字天觉。年十九赴春闱。抵向氏家。向预梦神人报曰。明日接相公。凌晨公至。向异之。劳问勤腆。厚赆其行。后妻以女。公果登第。一日游僧舍。见拂拭藏经。梵夹肃妆。公怫然曰。吾孔圣之书不及胡人之教。夜坐书室吟哦至三鼓。向云。夜深何不睡去。公以前意对曰。正此着无佛论。向云。既无佛。何用论之。公疑其言乃已。后因访一同列见佛经。乃问。何。书。云维摩经。公信手探阅。至此病非地大亦不离地大处。叹曰不意殊方乃有此语。公尽借归读之不厌。向云。可熟读然后着无佛论。公遂留心禅宗。因提刑河东。至汾谒大达国师塔及梦国师从容接引。觉而阅其语。看至国师问马祖西来心印。祖曰。大德正闹在。且去。国师去。祖唤曰。大德。国师回首。祖曰。是什么。公乃有省。作偈曰。是什么法什么。罗睺殿前灯是火。不是阿祖唤回。洎被善才觑破。毗岚风急九天高。白鹭眼盲鱼走过。元祐六年奉使江左。游东林谒照觉总。议论久之。乃曰。南昌诸山谁可与语。觉曰。兜率悦玉溪喜。公下车。至八月按部过分宁。诸禅迓之。公请俱就云岩升堂。有偈曰。五老机缘共一方。神锋各向袖中藏。明朝老将登坛看。便请横戈战一场。悦最后登座贯穿前列。公大喜。遂入兜率抵拟瀑亭。公问。此是什么。悦曰。拟瀑亭。公云。捩转竹筒水归何处。曰目前荐取。公伫思。悦曰。佛法不是这个道理。及夜话次。公云。比看传灯一千七百尊宿机缘。唯疑德山托钵话。悦曰。若疑托钵话。其余即是心思意解。何曾至大安乐境界乎。公愤然就榻。至五鼓。忽垂脚踢翻溺器。乃省前话。即扣悦寝至谓悦曰。已捉得贼了也。悦曰。赃物在什么处。公扣门三下。悦曰。且寝去。来日相见。翌日公投颂云。鼓寂钟沈托钵回。岩头一拶语如雷。果然只得三年活。莫是遭他受记来。悦于是焚香付之偈曰。等闲行处。步步皆如。虽居声色。宁滞有无。一心靡异。万法非殊。休分体用。莫择精粗。临机不碍。应物无拘。是非情尽。凡圣皆除。谁得谁失。何亲何疏。拈头作尾。指实为虚。翻身魔界。转脚迷途。了无逆顺。不犯工夫。仍嘱曰。参禅为命根不断。依语生解。如是之法公已深悟。然至极微细之魔使人不觉不知堕在区宇。更宜着鞭。公感激。是岁十一月悦归寂。公别悦未几登右揆。是夕彗星灭。久旱而雨。唐子西作内前行。一时传诵。其诗曰。内前车马拨不开。文德殿下宣麻回。紫微侍郎拜右相。中使押赴文昌台。旄头昨夜光照牖。是夕锋铓如秃帚。明日化为甘雨来。宅家喜得调元手。周公礼乐未要作。致身姚宋亦不恶。我闻二公拜相年。民间斗米三四钱。明年当宣和辛丑二月。公奏谥号真寂。遣使持文祭其塔。其略曰。余顷岁奉使江西。按部西安。相识龙安山中。抵掌夜话。尽得末后大事正宗显决。方以见晚为叹。而师遽亦化去。惜其福不建惠缘不胜寿。喜其德不可掩。故终必有后思以发挥之。为持请于朝家恩追谥真寂禅师。於戏唯余与师神交道契。故不敢忘。其平日激励之志。虽死生契阔之异。而蒙天子之殊恩。则幸亦共之。仰惟觉灵祇此荣福。宣和四年十一月黎明口占遗表。命子弟书之。仍作偈曰。幻质朝章八十一。沤生沤灭无人识。撞破虚空归去来。铁牛入海无消息。言讫取枕掷门。声如雷震。视之已逝矣。

  (癸卯) 金改天会元年(太宗吴乞买立。乃太祖弟。拈罕斡离不等立之。灭辽遂有南并之志。升皇帝岩曰会宁府。为中京。帝于禁庭亲睹瑞光。光中现佛。即敕模像殿庭供养。帝亲扫洒。每食跪献。累年无怠。每岁设会。斋僧万余)。

  (甲辰) 是时两京河浙路京师。灾异叠见。都城有卖青果男子。孕而诞子。蓐母不能收。易七人始免而逃去。又有酒肆。号丰乐楼。酒保朱氏子。其妻年四十余。忽生髭髯。长仅六七寸。疏秀甚美。宛然一男子。诏度为女道士(出宋史)。

  (四十六) 禅林僧宝传成。沙门德洪撰。字觉范。初名惠洪。姓俞氏。高安人。少孤受学辨博。能缉文。性简亮。年十三出家依三峰禅师。十九试经东都落发受具。听宣秘律师讲华严经。一旦不乐。归事真净克文禅师。七年尽得其道。始自放于湖湘之间。荆州张丞相闻其名。请传法于峡州天宁寺。以二诗辞焉。已而杖策谒公。公见之喜曰。今世融肇也。给事中朱彦知抚州。以师住持北景德寺。久之谢去。住持江宁府清凉寺。坐为狂僧诬告抵罪。张丞相当国。复度为僧。易名德洪。数延入府中。与论佛法。有诏赐号宝觉圆明。一时机贵人。争致之门下。执弟子礼。且将住持黄龙山矣。会丞相去位。制狱穷治踪迹。尚书郎赵旸等皆坐贬官。师窜海南岛上。三年遇赦自便。名犹在刑部。虽毁形坏服。律身严甚。所至长老避席。莫敢亢礼。其同门友居谷山。及其嗣法在诸山者。皆迎师居丈室。学者归之。是时法禁与党人游。而师多所厚善诵习其文。重得罪不悔。惟张丞相及侍郎邹浩右师陈埙。尤尽其力。其在东都也。或讥道人当交通权贵耶。师笑谓人曰。是安知吾意。大臣廉知之故及于难。及靖康初大除党禁。谈者谓师前日违众趋义娄濒于死。既还僧籍。宜有以宠异之语闻执政。欲上其事。属多故不果。明年师没。志汔不伸。世以为恨。寿五十八。腊三十九。著论万言。皆有以辅教云。

  (乙巳) 金天会三年○辽保大五年(延禧奔夹山。大臣立其弟淳守燕京。寻死。又立其妻萧氏。改元德兴。延禧闻淳死。诏用其官爵。降萧氏为庶人。初奔夹山。至是越渔阳岭南走。金兵擒之。封为海滨王。逾年卒于长白山。金灭之国除。右辽自阿保机。以梁贞明二年丙子建元神册。延禧保大乙巳。共九主凡二百一十年)。

  (四十七) 诏法师永道。还京复僧形服。六月奉旨住持昭庆崇化禅寺。七月御批右街显圣寺释迦院。特赐宝觉大师充廨舍。仍行住持。师讳永道。东颖沈丘毛氏子。弱岁厌世相。往依承天寺南罗汉院真戒大师安恭。学出世法。既纳僧服趋京师业唯识百法通之。政和三年选补右街香积院住持。赐紫衣。五年赐宝觉大师。宣和元年改佛号。师与律师悟明华严师惠日。相向泣曰。佛法至此。幸生犹死也。亟诣政府陈状谓。自汉永平佛法入中国。唯元魏宇文周唐会昌。曾废佛。我国家法尧准舜。三武庸主安足为法哉。谓佛非中国之人。欲不存其法于中国。乞放归田里。复士农之业。德士之称。有死不敢奉诏。不纳。翌日遂伏宣德门奏疏曰。(臣)永道幸生神考潜封之地。遭际陛下御㝢之时。三教鼎兴万方无事。(臣)因弃士农之业。削发披缁讲授佛书。助扬圣时无为之化。窃为三教圣人。壹是教人以为善。但为其徒者妄相睚眦。致使时君惑焉。盖自三五以降。朴散淳漓。大道堙塞。周之柱下史乃著书五千言。发明道德。将使斯民守雌保弱。慈俭无为反刓于朴。属周道陵迟。俗益浮伪而民莫之从也。仲尼氏出益倡仁义之道。修诗书定礼乐。以救世弊。不幸而继之以战国。处士横议。以仁义为谬悠。其视道德何如也。汉兴犹杂霸道。孝文之贤。议礼乐则谦让未遑。孝武穷兵讟武。海内大困。于斯时也。非吾佛之教应冥数而来。则道德仁义几乎熄矣。原夫佛之书也。苞罗精捔无所不统。玄微深远难得而测。又明善恶报应通乎三世。身灭而神不灭。积善积恶各以其类报。不待爵赏而民自劝。不待刑威而民自化。其阴翊王度有功斯民。岂小补云乎哉。自汉以来。惟元魏宇文周唐会昌。尝下废佛之令。其余帝王罔不崇奉。若我艺祖皇帝。始受周禅首兴佛教。累遣僧徒往西域益求其法。太宗皇帝。建译场修坠典。制秘藏诠。述圣教序。真宗皇帝。制法音集崇释氏论。仁宗皇帝。躬览藏经撰写天竺字。日与大觉师怀琏赓歌质问心法。英祖神考继体守文。哲宗皇帝。在储宫日。神考不豫。时读佛经祈圣躬永命。使吾佛之道有一不出于正。则曷足以致历代帝王之崇奉哉。虽遭前代之三废。然皆不旋踵而复。其废教之人。率皆不旋踵而及于祸。谁为陛下谋乃赫然下废佛之令。(臣)甚为陛下危之。夫自汉以下历代帝王。固无足为陛下道者。然我本朝之列圣。岂皆不足为陛下法哉。陛下必欲道士之盛者。宜严敕郡县民之俊秀。悉与保奏披戴。不旬月之间道士自盛矣。陛下舍此而不为。乃迫胁佛者之徒。弃其所学而从之。传曰。以力服人者非心悦而诚服也。以非心悦诚服之僧。驱而内诸道士之中。(臣)愚以为道士之祸自此始矣。未睹其为盛也。(臣)滥学于佛。食宋之粟。不容默已。谏而获罪实甘心焉。书上。帝大怒。收付开封狱。当黥舂陵。监防卒谓。此去万里蛇雾毒人。道人蔬食且不过中食。甚非自全计。宜茹荤血。师冁然曰。死则死耳。佛禁不可犯也。舂陵守一夕梦黥佛械而立庭下。旦视事遍以告僚属。僚属具对同梦。顷之师至。而貌惟肖。一府大惊。议免师役。辞以大君有命。守益贤而免之。居亡几州人大疫。师为凿池咒水。饮者辄愈。寻许自便。建炎南渡廷臣。荐师林堪恢复。诏赴临安勉反初服。师力辞。帝知师不可夺。从容谓师。先帝惑于妖言。毁卿形服。朕欲为卿去其黥涅可乎。道对曰。先皇墨宝不忍毁。帝大笑。抚道背曰。卿到老倔强。遂赐名法道。谥号宝觉圆通法济大师。俾住大中祥符寺。国灾眚咸委师祈荣。应若影向。绍兴二年。诏住庐山之东林。从江州守臣请也。明年师因道士循习近例班居僧上。遂诣行在上疏曰。缘崇宁大观问。道士王资息林灵素等。明冒资品紊乱朝纲。由是道压僧班。切见靖康以来。道士官资已行追毁。乞依祖宗旧制。特赐改正。礼部议故事惟宣德门肆赦。道左余并僧左。奏着为令。先是靖康之乱。尝与律师悟明誓。造三千化佛。为国永命。其在祥符时。方议经构。而金人再陷临安。乘舆浮海。道亦扈从。至是乃移罢东林。劝施藏事。十七年七月二十一日。入寂于千佛阁新寺。是日讲筵。法师百余人。以自恣来谒。慰劳如平时。遽谓法门安危。繄公等是赖。吾其逝矣。索笔书偈。合掌而逝。阇维获舍利无数。弟子宝护建塔九里松之原。世寿六十二。僧腊四十四。魏国公张浚撰塔铭。

  净慈北涧居简禅师吊其塔。文曰。孟子称大丈夫者。富贵不能淫。贫贱不能移。威武不能屈。公寄命蝼蚁。试身雷霆。不奉明诏。以改德士。威武果能屈乎。黥而流之。为道州徒。九死之滨过午不食。咏歌至化若出金石。贫贱果能移乎。削名刑籍。复还旧物。赐官分禄简在帝心。曰往钦哉。去汝黥涅。公念先帝不敢毁除。帝曰。此翁至老倔强。富贵果能淫乎。方林灵素假道士服祸基播迁。易缁于黄。天下从之。不则窃负而逃。槁死林壑。公则效忠比干。尚冀其万分之一。如以抔土堤龙门之涛澜。圣恩宽洪不即诛戮。乡使群起而拒。吾知公独不拒也。非至仁其孰能与于此哉。蒙后公而生。观公所成就。奇伟峭绝。真大丈夫事。再拜右绕辞而吊之曰。黥可息乎。身据鼎耳兮。息之则殒。黥可去乎。恩如春风兮。去之不忍。一念之忍。迄于蒙尘。黍离阙庭。涂炭生灵。发天下僧。又安足云邈哉。道州只影问津一笑生还。天清地宁众蠖斯屈。老臂独信。隐若敌国。贤于长城。蠢尔灵素。不正典刑。虽百粉兮痛奚以平。九里清阴蜕骼是舍。草枯自春光奋不夜。后世何知。婆娑其下。其颡有泚兮。其容则赭。油然而兴起兮。如闻伯夷之风者。

  (丙午) 钦宗桓即位(正月斡离不犯京得金帛而退。十二月再围京城。闰月城陷。明年四月帝及上皇六宫皇族北迁)。

  改元靖康。

  夫自古世间之事无有大如生死者若欲免之在修乎六度万行于六度万行而能广之者惟佛与祖也佛祖之要先贤集以成书目之曰通载庶慕之者循而行之至乎死生之际得其自在矣可不信欤。

  圣朝镇朔将军总兵官荣禄大夫譂公月庭镇江舟徒人。

  于我佛祖之道深有所入信乎生死之不免故日给之余悉为善缘而已尝鼎建保定之永宁宣府之弥陀寺极尽轮奂之美兼以四事之需至乎像设庄严香花供具种种殊胜其工用之费不啻计。

  乎几千万缗又印大藏经十藏分送诸寺供养流通去眷遣僧聘余于吴兴辨山白莲隐居来至永宁之席会公于宣府乃言及。

  京都善信重刊通载板乏力未克就公即欣然施财完此卷至乎末卷余观公之见义勇为可谓不忘。

  佛之付嘱金汤吾教者也因笔其概为后之劝云。

  旹

  宣德五年岁在庚戌六月下浣永宁住山释大海书

  佛祖历代通载卷之十九

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第二十

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  南宋(姓赵氏都杭州)○不轻曰(南渡高孝光宁理度幼主。七宗百三十四)。

  (一 丁未) 高宗构(母韦妃。徽宗梦吴越武肃钱王入室。已而生帝。封康王。靖康初尝出使斡离不军。是冬斡离不再来。奉诏再使耿南仲偕行。至相州民遮道请无往。至磁州守臣宗泽。及磁人亦止之。相州守亦以蜡书言。金人方遣骑。物色康王所在。乃回相州。揭榜召兵勤王。有诏以康王为大元帅。江伯彦宗泽为副。速领兵入卫。王从伯彦议。出相州北门。渡河至大名。闻京城陷。请进兵向京城。伯彦不可。请王移兵东平措身安地。南仲亦以为然。遂东。河间守黄潜善亦领兵至。进屯济州。探报张邦昌为金所立。二帝北行。邦昌迎元祐孟后听政。文武官吏皆劝进邦昌。下手书以迎立康王。告中外有曰。汉家之厄十世。宜光武之中兴。献公之子九人。唯重耳之尚在。遣使奉表。及以孟后书来。邦昌继至伏地。恸哭请死。使人自河北窜来。进道君手礼曰。便可即真来救父母。王恸哭拜受。遂趋应天即位)。

  改建炎元年。

  金国天会五年。

  (庚戌) 上自正月至温之江心。改额曰龙翔。东轩曰浴日。宸翰辉映○革林灵素故居为资福教寺○秦桧归自金受挞辣意专主和议○十二月金人册刘豫为帝国号齐。年改阜昌。

  (辛亥) 绍兴元年○张浚妒能杀曲端尽失陕西地。

  金国迎请栴檀瑞像到燕京建水陆会七昼夜安奉于闵忠寺供养凡住十二年。

  (乙卯) 金熙宗立(名亶。元名曷刺。马太祖嫡孙。宗浚之子。治十四年。完颜亮弑之)。

  (二) 西夏大德元年。

  法师苏陀室利。西竺人也。特礼文殊于五台。善闲咒术能通利。神异颇多。帝弥加重。时羽士萧真人亦高士也。技术难问。皆为师伏。于是稽首后违世已。金国唐括相公赞其真曰。似似是是(或云奇哉师子)苏陀室利西竺来游一百八岁。雪色连腮碧光溢臂。内蕴真慈外现可畏。在闵宗朝连阴不霁。特诏登坛咒龙落地。赭色伽黎后妃亲制。施内藏财度僧起寺。人半信疑。佛陀波利借路重来五峰游礼。峨五佛冠。曼殊何异。圆满月面色非红粹。真人萧生遥瞻拜跪。

  (三) 绍兴五年八月五日。圆悟禅师示寂。讳克勤。字无著。彭州崇宁骆氏子。依妙寂院自省落发受具。游成都从圆明敏行大师学经论窥其奥。以为不足恃。谒昭觉胜公问心法。久之出关。见真如哲公。颇有省。时庆藏主众推饱参。尤善洞下宗旨。师从之尽其要。尝谒东林照觉。顷之谓庆曰。东林平实而已。往见太平演道者。师恃豪辨与之争锋。演曰。是可以敌生死乎。他日涅槃堂孤光独照时。自验看。以不合辞去。抵苏州定惠。疾病几死。因念畴昔所参俱无验。独老演不吾欺。会病间即日束包而返。演喜其再来。容为侍者。值漕使陈君入山问法。演诵小艳诗云。频呼小玉元无事。只要檀郎认得声。师侍侧忽大悟。即以告演。演诘之。师曰。今日真丧目前机也。演喜曰。吾宗有汝。自兹高枕矣。师因以是事语佛鉴勤。勤未之信。师曰。昔云。高丽打铁火星爆。吾指头初谓建立语。今乃果然。勤愕然无对。时佛眼禅师尚少。师每事必旁发之。二公后皆大彻。由是演门二勤一远。声价籍甚。丛林谓之三杰。演迁五祖师执寺务方建东厨当庭有嘉树。演曰。树子纵碍不可伐。师伐之。演震怒举杖逐师。师走辟。忽猛省曰。此临济用处耳。遂接其杖曰。老贼我识得你也。演大笑而去。自尔命分座说法。崇宁初以母老归蜀。出世昭觉。久之谢去。于荆州见丞相张无尽谈华严要妙。逞辞婉雅玄旨通贯。无尽不觉前席。师曰。此真境与宗门旨趣何如。无尽曰。当不别。师曰。有甚交涉。无尽意不平。师徐曰。古云。不见一色始是半提。更知有全提时节。若透彻方见德山临济用处。无尽翻然悟曰。固尝疑雪窦大冶精金之语。今方知渠无摸索处。师尝有颂云。顶门直下轰霹雳。针出膏肓必死疾。偶与丞相意会。无尽喜曰。每惧祖道寖微。今所谓见方袍管夷吾也。澧州刺史请住夹山。未几迁湘西道林初潭师周公因提举刘直孺愿见师至是皮相之不甚为礼。及见开堂提唱妙绝意表。始增敬焉。政和末有。

  旨移金陵蒋山。法道大振。僧问。如何是实际理地。曰何不向未问已前荐取。僧曰。未问已前如何荐。师曰。相随来也。进云。快便难逢。更借一问。曰。忘前失后。进云。若论此事如击石火。只如未相见时如何。师曰。三千里外亦逢渠。曰。恁么则声色外与师相见。答曰。穿却鼻孔。问。忠臣不畏死。故能立天下之大名。勇士不顾生。故能立天下之大事。未审衲僧家又作么生。师曰。威震寰区未为分外。曰。恁么则坐断十方壁立千仞。师曰。看箭。问。不落因果不昧因果。是同是别。师曰。两个金刚圈。曰。沩山撼门三下又作么生。师曰。不是同途者。知音不举来。尝示众云。恁么恁么双明。不恁么不恁么双暗。不恁么中却恁么。暗里隐明。恁么中却不恁么。明中隐暗。只如和座子掇却许多建立恁么犯手伤锋。且道唤作什么。到这里。高而无上。深而无底。旁尽虚空际。中极邻虚尘。净裸裸赤洒洒。是个无底钵盂无影杖子。熊耳山前少林峰下。老胡九年冷湫湫地守这闲家具。深雪之中直得情忘意遣理尽见除。方有一个承当。且道双明双暗双放双收。是建立是平常。总不与么也未。是极则处。且作么生是极则处。擘开华岳连天秀。放出黄河辊底流。宣和中诏住东都天宁 太上在康邸。屡请宣扬。有偈云。至简至易。至尊至贵。往来千圣顶?头。世出世间不思议。然是时钦宗在东宫。师对太上预有至尊之谶。建炎改元。宰相李伯纪表住金山驾幸维扬。有诏徴见顾问西竺道要。对曰。陛下以孝心理天下。西竺法以一心统万殊。真俗虽异一心初无间然。太上大悦。赐号圆悟禅师。乞云居山归老。朝廷厚赆其行。至云居之明年。复归于蜀。太师王伯绍迎居昭觉。绍兴五年八月五日示疾。将终。侍者持笔求颂。书曰。已彻无功。不必留颂。聊示应缘。珍重珍重。掷笔而化。春秋七十有三。坐五十五夏。谥真觉禅师。塔曰寂照。

  (丙辰) 五月收免丁钱○(徽宗凶闻至。以乙卯四月崩)。

  (四) 平江虎丘隆禅师入寂。讳绍隆。和州含山县人。生时歧嶷。九岁出家依县之佛惠院。又六岁削发受具。又五岁而束包曳杖。飘然有四方之志。首谒长芦净照禅师。参扣之间景响有得。因阅圆悟勤禅师语。抚卷叹曰。想酢生液。虽未能浇肠沃胃。要且使人庆快。第恨未亲聆謦欬尔。于是欲访之。至宝峰谒湛堂准禅师。准曰。如何是行脚事。师露胸示之曰。和上验看。准即打。师约住曰。且莫盲枷瞎棒。准大笑。因留年余。乃谒死心于黄龙。心问曰。是什么僧。师曰。行脚僧。心曰。是何村僧行甚驴脚马脚。师曰。广南蛮道什么何不高声道。心喜曰。却有衲僧气息。师乃喝。退而参堂度一夏。心甚器之。每叹曰。再来人也。死心机锋横出。诸方吞焰。非上上根莫能当。而于师重称赏。众皆侧目。已而趋夹山见圆悟道龙牙山遇泐潭干之法子蜜禅师。相与甚厚每研推古今。至投合处抚掌轩渠。或若佯狂。议者谓今之沩仰寒拾也。久之辞去。遂至夹山会圆悟移道林。师从焉。一日入室。圆悟引教云。见见之时见非是见。见犹离见见不能及。竖拳曰。还见么。师曰。见。悟曰。头上安头。师于此有省悟。复曰。见个什么。曰。竹密不妨流水过。悟肯之。自此与圆悟形景上下。又二十年。斧搜凿索尽得圆悟之秘。师以二亲垂白。归寓乡郡褒禅寺。盖修摩耶忉利故事也。继受请住城西之开圣寺。四众翕然归仰。建炎之乱盗起淮上。乃南渡。宣城士庶素钦师名为结庐铜峰下适彰教虚席。郡守李尚书光延师居之。道化益振四年而迁虎丘。时圆悟以时未平。泛峡归蜀。曩之同参辐辏川奔。一时后生望山而趋。师每登座。从容示露。一味平等。随根所应皆惬其欲。故圆悟之道复大播东南。诸方谓圆悟如在也。居三年。感微疾。白众曰。当以第一座宗达承院事。众请于郡从之事。既索笔大书伽陀曰。无法可说。是名说法。所以佛法。无有剩语。珍重。掷笔坐逝。实绍兴六年丙辰岁五月甲午八日乙亥也。建塔于山之阳。凡住世六十年。坐四十五夏。

  (丁巳) 金废刘豫齐灭。

  (戊午) (秦桧为右相。晏敦复退而有忧色。曰奸人相矣)○金天眷元年。

  (己未) 诏诸军州建报恩光孝奉徽宗香火。

  (庚申) 西夏(仁宗拓跋仁孝立干顺子。改年大庆)。

  (辛酉) 是年秦桧张浚谋杀岳飞岳云○(张九成登径山适大惠升座。有神臂弓之语。秦桧秉国。谓讥朝廷。窜师衡阳)○金改皇统。

  (壬戌) 行经界田粮○韦太后归自金○停给僧道度牒。

  金国。英悼太子生日诏海惠大师于上京宫侧创造大储庆寺普度僧尼百万大赦天下。

  (癸亥) 金诏海惠清慧二禅师住储庆寺迎瑞像于本寺积庆阁中供养。

  翻译名义平江景德法云编次荆溪周敦义作序。

  (甲子 六四) 西夏元庆元年。

  (乙丑) 金海慧迁化。帝偕后亲奉舍利。五处立塔。特谥佛觉佑国大禅师。

  (丙寅) 正月诏毁淫祠○秦桧经界两浙四川等处。

  金复赐清惠佛智护国大师号登国师座特赐金襕大衣及所用珍异其钦敬古所未有帝后亲奉接足礼授。

  (五 丁卯) 金国与蒙国议和○蒙国自称祖元皇帝。

  (戊辰) 佛智端裕禅师入寂。师吴越钱氏之裔。嗣圆悟。初住邓之丹霞。迁住虎丘。次径山。庵居于西华秀峰。敕住建康保宁。移万寿。又迁闽之延沙寿山西禅。被旨补灵隐。秋又赴明之育王。其法嗣净慈水庵一等。

  (己巳) 金国完颜亮立。太祖孙(初名孛烈。杀主自立。迁燕。后南征驻于汴至江上为诸酋弑于龟山寺)改年天德。

  ○西夏改天盛。

  (六) 绍兴十九年。牧庵忠禅师迁化。名法忠。姓姚。四明鄞县人。母梦异僧求寓止而娠。既诞紫带绕身。自幼性专静。告双亲出家。依郡中崇教院道英授经业。年十九试所业得度。即预讲肆。究天台教旨。于疏义入微亦颇自负。一日暴所习于禅者。为其折困。因有疑于于禅宗。趋天童交禅师以求决焉。及于交言下知有机不发交使其南询造闽之雪峰。与需禅师语。复不契。闻佛眼远禅寺居淮西龙门。于是出蜀兼程至彼。造次不忘提撕其未至处。适纵步水磨歘睹牌额。书法轮常转。师于是碍膺之疑泮然冰释。遂说偈曰。转大法轮。目前包裹。更问如何。水推石磨。而作圆相呈佛眼。眼曰。其中事作么生。师曰。涧下水长流。眼曰。必竟如何。师曰。水推石磨。眼曰。归堂歇去。切不得举着。后五日来。却向女道一句子。曰。这一句子也不消得。佛眼为之解颐。师遂作礼。寻辞佛眼。度九江登庐阜。露眠草宿蛇虎为邻。山舒水缓处。会意则居焉。偶晦昏道傍有枯木数围。经野烧之余尚存寻尺。内空且洁。师兀然其中逾旬浃。远迩传观者甚众。师不欲显异。留偈纪之曰。谁将三昧真空火。爇却一株烦恼薪。只有大根元不动。更无枝叶撼风尘。乃去谒湛堂准禅师于泐潭。酬酢敏捷。准大奇之。斯时黄龙法社鼎盛。预结夏制限其来者。然死心道貌德威。鲜敢樱其锋。尝持剑夜造室曰。闻老和上不惧生死是不。死心拟对。师以剑挥之。死心引颈。师掷剑于地作舞而退。至相西亲圆悟于道林。悟深器之。既而放浪衡岳。眷车辙灵岩之右。怪石有如卧牛。师结茅其傍。故榜牧庵。栖迟二十余年。外形骸而自适。或连宵而不寐。或累日而忘餐。发长不剪。衣弊不易。天下禅侣雅称为忠道者。四方衲子不以承颜为不足。一时士夫无不闻风而欣慕。枢密柳公仲古镇长沙。以法轮起师。从于众望。师掉头不顾。复以胜业虚席心欲迎致。檄诸禅劝请。师闻而宵遁。追踪至定明兰若。挝鼓于堂。致师于座。缁素罗拜逾时不已。师慨然说偈曰咄哉黄面老。将法付王臣。林下无心客。官差逼杀人。昔闻其言。今见其事。下座曳杖趋胜业领住持事。给事凭公济川撰开堂疏。有曰。佛眼磨头悟法轮之常转。死心室内持慧剑以相挥。时为师之实录。师既应世。以荷负宗教为己任亦不吝去留。故自胜业迁南木云盖公安大沩五刹。复赴豫章师李吉甫请。住黄龙。太尉邢公孝扬施金为造寿塔于寺东之芗源。才毕工而方丈后山白光上腾。群鹊飞鸣。师顾之笑曰。吾将行矣。索笔书偈曰。六十六年。游梦幻中。浩歌归去。撤手长空。书毕复谓众曰。后事可依灵源清禅师遗范。言讫瞑目而寂。

  (庚午) 金废度僧道。

  (辛未) 九月上谓大臣曰。缘不度僧常住多有绝产。令户部拨以瞻学(出宋史)○世尊示灭二千一百年矣。

  (七) 太皇后韦氏(高宋母也)建崇先显孝禅寺于杭之高亭山。诏真歇清了禅师。开山为第一代。未几示寂。塔于寺中。师左绵雍氏。嗣丹霞淳公。尝作无尽灯记曰。东平打破镜已三百余年。龙潭吹灭灯复四百余载。后代子孙迷于正眼。以谓镜破灯灭。而不知行住坐卧放大光明。灯未曾灭也。见闻觉知虚鉴万像。镜未曾破也。灯虽无景能照生死长夜。镜虽无台能辩生死魔惑。镜与灯光光常寂。明与鉴幻幻皆如。照之无穷。则曰无尽灯。鉴之无穷。则曰无尽镜。日用不昧。昭昭于心目之间。但众生迷而不知。故有修多罗教。开如幻方便。设如幻道场。度如幻众生作如幻佛事。譬如东南西北上下四维中点一灯外安十镜。以十镜喻十法界。一灯况一真心。一真心则理不可分。十法界则事有万状。然则理外无事。镜外无灯。虽镜镜中有无穷灯无穷灯唯一灯也。事事中有无尽理无尽理惟一理也。以一理能成差别事。故其事事无碍。由一灯全照差别镜。故则镜镜交参。一镜不动而能遍能容能摄能入。一事不坏而即彼即此即一即多。主伴融通重重无尽。悲夫众生居一切尘中。而不知尘尘皆毗卢遮那无尽刹海。普贤示一毛孔。而不知一一毛孔含众生三昧色身。然则一切众生日用在普贤毛孔中。毗卢光明内。慈氏楼阁中出没。文殊剑刃上往来。念念中与诸佛同出世。证菩提转法轮入灭度。如镜与镜。如灯与灯。一切一时普融无碍诚谓不可思议解脱法门。非大心众生。无以臻于此境。或问。即今日用见闻觉知。毕竟是灯耶。非灯耶。是镜耶。非镜耶。答曰。镜灯灯镜本无差。大地山河眼里花。黄叶飘飘满庭际。一声砧杵落谁家。

  是年改孤山寺为延祥四。圣观。迁圆法师塔。葬北山玛瑙坡○大惠移梅阳。

  (癸酉) 金改贞元正月张灯○(吏人王中孚倡全真教谈马丘刘和之今尚存)。

  (甲戌) 宋自秦桧专国。士大夫名望者。悉屏之远方。龌龊委靡不振之徒。一言契合即登政府。仍止除一厅。谓之伴拜。稍出一语。斥而去之。不异奴隶。皆褫其职名阁其恩数。犹庶官。

  (八 乙亥) 云卧纪谈。罗湖野录成。十月感山沙门晓莹撰。字仲温。法嗣大惠杲禅师。

  (丙子) 六月有星昼陨○金改正隆元年○(诏大惠复为僧住持阿育王山)。

  (丁丑) 八月诏收诸路给余僧牒。上曰。佛法朕亦未尝有意绝之。正恐僧徒多则不耕者众矣(宋史)。

  (九) 明州天童宏智禅师正觉。十月迁寂。姓李氏。母赵。隰州人。诞师之夕光出于屋。人皆异之。七岁诵书日数千言。通五经。父宗道令出家。得度于同郡净明寺本宗。受具于晋州慈云寺智琼。十八岁出游方。诀其祖曰。若不发明大事誓不归矣。至晋绛间或以无凭沮师。邑尹见师英俊。因以所执扇示之曰。为我下一转语。师即援笔书偈其上。尹大喜为请凭以行。渡河之洛。谒成枯木于汝州。时丹霞淳道价方盛。乃造焉。问如何是空劫已前自己。觉云。井底虾蟆吞却月。三更不借夜明帘。霞曰。未在更道。觉拟议。霞打一拂子云。又道不借。觉忽悟作礼。霞云。何不道取一句。觉曰。某甲今日失钱遭罪。霞曰。未暇打尔。且去。时年二十三矣。霞退居唐州大乘。亦从焉。宣和二年霞迁大洪。为掌记室三年。迁首座时金粟智雪豆宗保福悟凤山钊。皆参随之。复分座于圆通照阐提席下。真歇住长芦。招居板首。时众逾千七百。见其秉拂提唱。皆服之。出世泗洲普照。嗣法丹霞矣。比先分寺之半为神霄宫。而又两准荐饥。斋厨空乏。二时所须杂以菽麦。既至命纯以粳。库僧辞不给。已而檀施填委。徽宗南幸。觉领众起居。见寺僧千余填拥道左威仪整肃异之。有旨召公面受圣语。还其故寺之半。建炎初住舒之太平。又迁江之圆通能仁。谢事游云居谒圆悟。会长芦虚席。大众必欲得师。圆悟与安定郡王勉其行。入寺未几。时大寇李在抄掠境上。领众入寺。众惧解散。公安坐堂上。以善语化之。在等稽首敬服。麾退其兵。馈金瞻众。一方咸赖以安。建炎三年渡浙江至明州礼补陀。道由天童。适其阙主。众见师来。密白郡帅。始辞而后从。未几虏人犯境。僧徒迍散。公独迟其来虏至登岭以望。若有所见。遂敛兵而退。秋毫无犯。人叹以为神助焉。九月被旨住灵隐将行四众号慕百鸟哀鸣。十月有旨。再还天童。前后垂三十年。寺屋几千间。无不新者。绍兴二十七年秋九月。别郡帅诸檀。是月七日还山饭客如常。八日辰已索浴更衣端坐。索笔作大惠书。属以后事。又书偈曰。梦幻空花。六十七年。白鸟烟没。秋水天连。掷笔而逝。诏谥宏智禅师。塔曰妙光。

  (戊寅) 六月有星昼陨。八月地震○(诏育王大惠再住径山)。

  (己卯) 七月翰林李焘进皇朝百官表(宋史)。

  (庚辰) 初行会子○十二月钦宗崩于五国城。

  (辛巳) 诏复给僧牒市军储。

  金世宗立(名雍。初名褒。封楚王。太祖孙。海陵王亮既背盟南伐。以帝守京。因自立都燕。帝仁厚慈俭不嗜兵。国内安治。在位二十九年。人谓小尧舜)改年大定。

  (十) 大教东被一千一百年矣。

  (壬午) 孝宗睿即位。初名伯琮。太祖七世孙也。母张氏。生于秀州。有嘉禾之瑞。在位二十七年。寿六十八矣。

  金国移都燕京。敕建大庆寿寺成。诏请玄冥禅师顗公开山第一代敕皇子燕王降香赐钱二万沃田二十顷。

  (十一 癸未) 改隆兴元年。是年六月十三日。天童应庵禅师昙华迁寂。姓江氏。蕲之黄梅人。生而奇杰。骨目耸秀。童稚便厌世故。具决定志津济群品。年十七出家於邑之东禅。明年为大僧。又明年杖锡参方首谒随州水南遂和上。染指法味。乃上云居。圆悟禅师一见拊劳。痛与提策。以为法故服劳难事。趋走唯恐居后。会悟入蜀。指似往见彰教隆于宣。隆其子也。隆移虎丘。师实为先驰。未半载间通彻大法。顿明圆悟为人处。未几礼辞游诸方。初分座于处之连云。处守遂以妙严请师出世。继住衢之明果蕲之德章饶之报恩荐福婺之宝林报恩江之东林建康之蒋山平江之万寿。两住南康归宗。末乃住今天童。皆缁白钦慕同辞公举。处处开大施门垂手未悟。远近奔凑如水赴壑。师于普说小参问答勘辩之属。皆从容暇豫。曲尽善巧。而室中机辩操纵杀活。尤号明妙。师初有发明。即与此庵时号元布袋者同行。反覆博约日益深奥。及从此庵于护国。相得欢甚。此庵云亡。意于师不无所嘱。而开堂嗣法不忘虎丘。与近世眩于名闻牵于利养烧香不原所得者异矣。每于住持泛应虚受。虽料理建置小物细故。动为无穷计。未尝苟且。纤毫不可于意。即翩然竟去。莫能回夺。尝自言。衲僧家看草鞋住院。何至如蚖蛇恋窟。励勉徒众不许放逸。事事必身率之。其将示疾也。犹挂牌入室至夜分他日多类此。将终或以辞世偈为请。师曰。吾尝笑诸方所为而自为之耶。区处院事纤悉不遗。奄然趺坐而化。春秋六十一。夏腊四十三。

  (十二) 是年径山杲禅师入寂。讳宗杲。宣州宁国奚氏子。幼警敏有英气。年十三始入乡校。一日与同窗戏谑。以砚投之。误中先生帽。偿金而去。乃曰。读世书曷若究出世法乎。即诣东山惠云院出家。先是元丰戊午院塑释迦像。有异人丁生者。语寺僧曰。立像一纪当生一导师。大兴宗教。若像有难。是人方来。像毁则是人亦有难。崇宁甲申有盗穴像腹取其所藏。师以是岁适至。事惠齐为师。明年落发受具。繇是智辩自将凌跨流辈。阅古云门录。恍若旧习。闻老宿绍珵久依天衣怀公。亟往上谒与闻雪窦奥旨。趋宝峰湛堂准禅师。见师风神爽迈。特加器重。使之执侍。指以入道捷径。师横机无所让。准诃之曰。汝未曾悟。病在意识。领解则为所知障。时李彭商老参道于准。师适有语曰。道须神悟。妙在心空。体之不假于聪明。得之顿超于闻见。李叹赏曰。何必读四库书然后为学哉。因此为方外交。准将入灭。师问孰可依从。准以圆悟勤公语之。已而重趼荆渚。谒无尽居士张公请铭准塔。公道望倾天下。师登其门承颜接辞。绰有余裕。公称誉之。为名庵曰妙喜。字以昙晦。归宝峰讫其事。复见无尽从容问曰。居士谓我禅何如。公曰。子禅逸格矣。师曰。宗杲实未自肯在。公曰。行见川勤可也。于是佩服其言放浪襄汉。会大阳微禅师。密授曹洞宗旨。寻游东都。宣和六年圆悟禅师被旨都下天宁。师自庆曰。天赐我。得见此老。不孤湛堂张公指南之意。遂造天宁。及聆其升堂法要。迥异平日所闻。即倾心依附。阅四旬圆悟举。僧问云门。如何是诸佛出身处。门云。东山水上行。若有人问天宁只向。道薰风自南。来殿阁生微。凉师于言下豁然顿。悟圆悟大。喜迁师择木堂。以古今差别因缘密加妍练。一日圆悟饭超然居士赵公。师预坐。忽忘举箸。圆悟顾师而语超然曰。是子参得黄杨木禅也。师既为所激乘间扣曰。闻和上尝问五祖话不。知记其答否。圆悟曰。向问有句无句如藤倚树作么生。五祖云。描也描不成。画也画不就。又问树倒藤枯时如何。五祖云。相随来也。师廓然脱去。知见玄妙。圆悟深可之。使掌记室着临济正宗记卑焉。分座令接纳。繇是以竹篦应机施设电闪星飞。不容拟议丛林浩然归重。右丞吕公舜徒奏。锡佛日之号。虏人犯顺。欲名僧十数北去。师为所挟。会天竺密三藏。日与论义。密尤敬服。寻得自便趋吴门虎丘。闻圆悟迁云居。欲往省觐。道金陵。待制韩公子苍与语喜之。以书闻枢密徐公师川曰。顷见妙喜辩惠出流辈。又能道诸公之事业。衮衮不倦。实僧中祀梓也。抵云居为众第一座。讥诃佛祖辩搏无碍。圆悟亦让其雄。会世扰攘。入云居之西结庵于古云门寺基。因以为名。阅二十年辟地湖湘转仰山。邂逅竹庵圭禅师。相与还云门。着颂古百余篇。久之游七闽。居海上洋屿。师闵诸方学者困于默照。作辩邪正说以救其弊。泉南给事江公创庵小溪延请师居。缁素笃于道者毕集。未半年发明大事者数十人。鼎需思岳弥光道谦遵璞悟本等。皆在焉。一日参政李公汉老。闻举庭柏话有省。师可之及公疾革。作偈寄弥光。有深将法力荷云门之句。师平居绝无应世意。圆悟在蜀闻之。嘱丞相张公德远曰。杲首座不出。无可支临济法道者。公寻还朝。适径山虚席。必欲致师。师幡然起赴。开法于临安府治。唱圆悟之道。说法竟。侍郎冯公济川问曰。师尝言不作这虫豸。今日为什么败阙。师曰。尽大地是个杲上座尔作么生见。公无语。及居径山。四方佳衲子靡然坌集。至一千七百。师无他约束。容其自律发明已见率常有之。上堂问答(具在本录)时惠云院忘丁生之谶。毁释迦故像而新之。实绍兴辛酉。夏五月也。师于是月。坐与张厚善。着逢掖编置衡州廖通直李绎。为结茅圃中。师既拘文不与众俱。率令散处花药开福伊山。时容其受道。门庭益峻。乃褒先德机缘间与拈提。离为三帙。目曰正法眼藏。前参政李公大发。时居镡津。翰林汪公彦章税驾零陵。数通书问道。当轴者滋不悦。移师梅州。其地荒僻瘴疠。药物不具。学徒百余。羸粮从之。阅六稔毙者过半。师以道处之怡然。由是居民向化至绘师像。饮食必祀焉者有之。

  乙亥冬蒙恩北还。明年春复僧伽黎。寻领朝命住明州育王山。逾年有旨。改住径山。天下宿衲复集如初。时上潜藩。雅闻师名。遣内都监诣山问佛法大意。师升堂有偈云。豁开顶门眼。照彻大千界。既为法中王。于法得自在。仍作颂献曰。大根大器大力量。荷担大事不寻常。一毛头上通消息。遍界明明不覆藏。上嘉美久之。建邸立。复遣内知客入山供养五百应真。请师说法。亲书妙喜庵大字。并制赞宠寄曰。生灭不灭。常住不住。圆觉空明。随物现处。师升堂有偈曰。十方法界至人口。法界所有即其舌。只冯此口与舌头。祝吾君寿无间歇。亿万斯年注福源。如海滉漾永不竭。师子窟内产狻猊。鸑鷟定出丹山穴。为瑞为祥遍九垓。草木昆虫皆欢悦。稽首不可思议事。喻如众星拱明月。故今宣扬妙伽陀。第一义中真实说。师春秋高。求解寺任。辛巳春得旨退居院之明月堂。然宏法为人老而不倦。上即位特赐号大惠禅师。隆兴建元自恣前一夕。有星殒于院之西。流光赫然。有声如雷。师示微疾。八月九日学徒问候。师勉以宏道徐遣之曰。吾翌日始行。至五鼓亲书遗奏。侍僧固请留颂。为写四句掷笔就寝。湛然而逝寿七十有五。塔全身于堂之后。

  淳祐间晋陵尤煜号贰卿。尝题大惠语。大惠说法从横踔励。如孙吴之用兵。而广阔弘深不可涯涘。如大海水。鱼龙饮者莫不取足。今举平昔闻见二则朱文公少年不乐读时文。因听一尊宿说禅直指本心。遂悟昭昭灵灵一着。十八岁请举。时从刘屏山。屏山意其必留心举业。暨搜其箧。只大惠语录一帙尔。次年登科。故公平生深知禅学骨髓透脱关键。此上根利器。于此取足者也。煜早得于潘子善丈云尔。因取语录读之。至老不敢释手。往在舂陵。永嘉徐棘卿瑄。亦贬是邦。未几忽迁象台。忧愁涕泣。煜授以所携本。徐卿亟取读之。达旦不寐。次日欣悦忘忧。与昨日夐然二人也。遂携以去。手抄一本乃见还。后三年徐没于贬所。临终殆同游戏。不疾沐浴而逝。此书之灵验如此。盖煜之亲睹也(云云)。

  (十三) 诏蒋山大禅了明禅师。继席径山。师秀州陆氏。嗣大惠。化扬和王姑胥庄田供众。岁收二万斛。常住由是丰足。

  (十四 甲申) 沙门祖琇号石室撰隆兴佛运通论成行于世。

  (乙酉) 乾道元年。

  (丙戌) 诏灵隐道昌禅师住净慈。

  (戊子) 诏上竺若讷讲师。于四月八日。选五十僧入内观堂。行金光明三昧。祈福邦家。

  金国十月一日。诏顗禅师于东京创清安禅寺。度僧五百。作般瑟于吒会。

  (十五 己丑) 普庵禅师入寂。名印肃。袁州宜春余氏子。六岁梦一僧点其心曰。汝他日当自省。既觉以意白母。视之当心有一点红莹。大似世之樱珠。父母因此许从寿隆院贤公出家。年二十七落?。越明年受戒。师容貌魁奇智性巧慧。贤器之。勉读法华。师曰。尝闻诸佛元旨必贵了悟于心。数墨巡行无益于事。遂辞师游湖湘。谒大沩牧庵忠公。因问。万法归一。一归何处。忠公竖起拂子。师遂有省。后归受业院。绍兴癸酉间有邻寺慈化者。众请住持无常住。师布衾纸衣晨粥暮食禅定外。唯阅华严经论。一日大悟遍体汗流。喜曰。我今亲契华严境界。遂述颂曰。捏不成团拨不开。何须南岳又天台。六根门首无人用。惹得胡僧特地来。自后发为言句动悟幽显。有不期然而然者。一日忽有僧名道存。冒雪至。师目之喜曰。此乃吾不请之友矣。遂相与寂坐。交相问答。或笑或喝。僧曰。师再来人也。非久当大兴吾教。乃指雪书颂而行。至斯慕向者众。师乃随宜为说。或书偈与之。有病患者。折草为药与之即愈。或有疫毒人迹不相往来者。与之颂。咸得十全。至于祈禳雨旸伐怪木毁淫祠。灵应非一。由是鼎新梵宇或问。师修何行而得此。师当空画云。还会么。云不会。师云。上心不须说。其峻机多类此。忽一日索笔书颂于方丈西壁云。乍雨乍晴宝象明东西南北乱云深。失珠无限人遭劫。幻应权机为汝清○枯木救度复示众曰。诸佛不出世。亦无有涅槃。入吾室者必能元契矣。善自护持无令退失。索浴更衣跏趺而寂。时乾道五年七月二十一日也。世寿五十五。僧腊二十八。奉全身于塔焉。

  (十六) 是年金国庆寿亨禅师。塔于嵩山。其文略曰。讳教亨。号虚明。济州任城王氏子。先有汴京慈济寺僧福安。山居任城有年矣。斋于芒山村。倚树而化。见梦于女弟冯。自彭村浮图乘白马而下曰。我生于西陈村王光道家。冯语其母及其子其梦正同。诘旦至光道家。师母刘夜梦安公来求寄宿。是日师果生焉。拳右拇指似不能伸。瞬而未笑。同业福广福坚闻之来谒。径问。安兄无恙。师熟视良久伸指而笑。常独卧空室。其母闻人诵摩诃般若波罗蜜。惊顾襁褓。师犹嗫嚅。及晬试以经卷酒杯。遽拾经卷。少长不茹荤血。唯见僧行造门。辄喜从之。故一时皆呼以冯山主芒山。村碑之于石。七岁出家礼本州崇觉院圆公为师。十三受具足戒。遇苦瓜先生。相之曰。此儿必领僧万指。十五游方。闻郑州普照宝公法席之胜。自汴梁发足。是夜宝公梦。庆云如金芙蕖缤纷乱坠。以告人曰。吾十年无梦矣。此何祥也。翌日师来。宝公心独异之。师朝夕参扣。未有所入他日以事往睢阳宿赵渡。忽马上忆击板因缘有省。凝情不散将抵河津。同行德满惊曰。师兄此河津也。师下马悲喜交集。至于陨涕。归以语宝公。公曰。此僵卧人。似欲转动。犹未印可曰曾看日面佛公案否。师笑曰。儿时已念得。宝公笑曰。我只教人参诸方掉下底禅。但再参去。定有自得力处。一日师因云堂静坐。忽闻板声霍然亲证。呈颂曰。日面月面。星流电转。若更迟疑。面门着箭。咄。宝公遂记莂曰吾谩汝不得也。诸方知师得法。恳求出世。师亦知缘至。辄往应命。五坐道场。嵩山之戒坛。韶山之云门。郑州之普照。林溪之大觉。嵩山之法王。左丞相夹谷清臣。请师住中都潭柘。归隐缺门。复驻锡于济川之普照。方丈后丛树蓊郁中有一株。亭亭然高丈余。群鸦以次来巢。其上下十二级如浮图状。众贺曰。和上佛法将大振乎。不十数日奉章庙旨主庆寿寺。三年。退居缺门。知河南府国公石抹仲温。以少林虚席。请师继之。居无何师复引去。徜徉嵩少间者数年。忽觉四大弦缓。杜门坚坐谢绝宾客。其嗣香山江延师于西堂。慈云海复乞侍奉。至兴定己卯秋七月十日。谓众曰。汝辈各宜着力。索笔书颂。其末后句云。咦一二三四五六七坚坐不动而逝。享年七十。僧夏五十有八。阇维焰如莲花开合。牙齿目睛不灰。舍利无算。师自儿时额有圆珠。至是爆然飞去。收灵骨建塔焉。

  (庚寅) 金国世宗真仪皇后出家为尼建垂庆寺度尼百人赐田二百顷。

  ○西夏乾祐元年。

  (十七 辛卯) 乾道七年正月二十日。灵隐瞎堂惠远禅师奉诏见选德殿。师奏曰(臣)生西蜀眉山。游方逾四十年在山间。恭闻陛下即位以来。日应万机道冠千古。覆护教法契合龙天。是谓以佛心而治天下(臣)嗣法佛果圆悟禅师。上曰。圆悟是谁。奏曰(臣)之师名克勤。太上皇帝驻跸维杨时赐号也。上曰。恨昔不见。其杲老如何。奏曰。与(臣)同出圆悟之门。上赐坐。上问曰。如何免得生死。奏曰。不悟大乘道终不能免。上曰。如何得悟。曰本有之性。但以岁月磨之。无不悟者。上曰。悟后如何。曰悟了始知。陛下所问与(臣)所奏悉皆不是。上曰。一切处不是如何。奏曰。脱体现前。了无毫发可见之相。上大悦。师复奏曰。古德道无所是是菩提。上曰。即心即佛如何。曰目前无法。陛下唤什么作心。上曰。如何是心。师正身叉手而立曰。只者是。上笑。徐问德山临济机缘。师具奏之。复奏曰。悟后千句万句乃至一大藏教。只是一句。上曰。是那一句。奏曰。好语不出门。上曰。不与万法为侣可参乎。奏曰。老庞致此一问。惊天动地。驱山塞海。超古今脱是非。离言说绝依倚。如陛下至尊至贵。大道本然。上曰。得道者谁。奏曰。学道之人随其器量浅深。验在意表。得底人他亦自知时节。学佛者众机缘亦广。恐劳圣听。不敢具奏。遂谢恩下殿。上曰。后更要说话在。奏曰。谨领圣训(乙未正月初五入寂)帝制原道论。其文曰。朕观韩愈原道。因言佛老之相混三教之相绌。未有能辩之者。且文繁而理迂。揆圣人之用心则未昭然矣。何则释氏专穷性命弃外形骸不著名相。而于世事自不相关。又何与礼乐仁义。然尚立戒。曰不杀。不淫。不盗。不饮酒。不妄语。夫不杀仁也。不淫礼也。不盗义也。不饮酒智也。不妄语信也。如此于仲尼何远乎。夫子从容中道圣人也。所为孰非仁义。又乌得而名焉。譬如天地运行阴阳循环之无端。岂有意春夏秋冬之别哉。此圣人强名之耳。亦犹礼乐仁义之别。以设教治世不得不然也。因其强名揆而求之则道也。道也者仁义礼乐之宗也。仁义礼乐固道之用也。彼杨雄谓老氏槌仁义灭礼乐。今迹老子之书。其所宝者三。曰慈。曰俭。曰不敢为天下先。孔子曰。温良恭俭让。又唯仁为大。老子之所谓慈岂非仁之大者耶。曰不敢为天下先。岂非逊之大者耶。至其会道则互相遍举。所贵者清净宁一。而于孔圣果背驰乎。盖三教末流昧者执之自为异耳。夫佛老绝念无为。修心身而已矣。孔子教以治天下者。特所施不同耳。譬犹耒耜而织机杼而耕。后世徒纷纷而惑。固失其理。或曰当如之何去其惑哉。曰以佛修心。以老治身。以儒治世。斯可也。唯圣人为能同之。不可不论也。

  (十八) 帝尝于选德殿制观音赞。赐上竺刻于石。有词曰。猗欤大士。本自圆通。示有言说。为世之宗。明照无二。等观以慈。随感即应。妙不可思。

  (壬辰) 正月驾幸灵隐。八月七日诏灵隐径山天竺集内观堂斋。宣灵隐惠远。入东阁赐坐。咨论法要。十月三十特赐远号佛海禅师。

  (甲午) 诏赐内帑二万缗。付上竺建藏殿。赐经一藏。命皇太子书殿榜。曰法轮宝藏。

  (乙未) 淳熙○诏赐(上竺白云堂 印灵隐直指堂印)。

  (十九 丙申) 特旨福州东禅刊天台宗教部同大藏流通。

  (庚子) 金国大定二十年正月敕建仰山栖隐禅寺(今大都西山)命玄冥顗公开山赐田设会度僧万人。

  (二十 癸卯) 淳熙九年二月十九日。沙门可观卒。字宜翁。华亭戚氏。年十六具戒。依南屏精微师。闻车溪择卿声振江浙。负笈从之。一日闻举唱般若寂寥。忽有悟入。如服一杯降气汤。玉惠觉有横山命。师偕行读指要。至若不谓实铁床非苦变易非迁。叹曰。语言文字皆糠秕耳。建炎初主嘉禾寿圣。迁当湖德藏。居阅世堂为楞严补注。霅以祥符延。阅两载以疾反当湖南林。一室萧然人不堪之。则曰。松风山月此我无尽衣钵也。乾道七年。丞相魏杞出镇姑苏请主北禅。入门适当九日。指座云。胸中一寸灰已冷。头上千茎雪未消。老步只宜平地去。不知何事又登高。魏公击节不已。淳熙七年皇子魏王牧四明(讳恺谥惠宪王孝宗次子)用月堂遗书之荐。请主延庆。时已八十九岁。抵行在所而闻王薨。师在天竺受请曰。王旨如生。岂当有辞。遂行至南湖。众见行李寂寂。莫不叹服。不二载复归当湖竹庵。无疾而逝。寿九十一。大惠先没二十年矣。

  (二十一 癸卯) 帝注圆觉经。二月遣中使。赍赐径山住持宝印。刊行。

  (甲辰) 金大定二十四年二月。大长公主降钱三百万。建昊天寺。给田百顷。每岁度僧尼十八。

  (二十二 乙巳) 宋遣致仕黄门侍郎宇文虚中别号龙溪居士奉使。

  金国。诏请留仕翰林承旨。对越谈论。多引儒书证成释理。累赠金帛。受以给贫。囊无挑药。金朝仪礼皆公定制。寿一百八岁。无疾跏趺援笔朗吟而往。词曰。去国匇匇几度年。公私无事两忻然。当时议论何能固。今日机关别有缘。万事已从前世订。英名留付好人传。孤身不作往来计。须信胸中别有天。◎

  ◎(二十三 庚戌) 光宗惇(孝宗第五子。年四十四。自东宫受禅。尊孝宗为寿皇。在位五年)改年绍熙。

  金国章宗璟立(显宗允恭子允恭未立而卒。帝以皇太孙即位。荒于酒色。大金之业堕焉)改年明昌。

  (二十四 辛亥) 大朝太祖成吉思皇帝是年起兵。

  (癸丑) 是年十二月布衣王孝礼言。今年冬至日影表当在十九日壬午而会。元历乃在二十日癸未系差一日。乞将修内作所掌铜表圭。付太史局。则验从之。

  金国明昌四年。诏请万松长老于禁庭升座。帝亲迎礼。闻未闻法。开悟感慨亲奉锦绮。大僧祇支诣座授施。后妃。贵戚罗拜拱跪。各施珍爱以奉供养。建普度会施利异常。连日祥云连绵天际。从此年丰讴歌满路。每岁设斋常感祥瑞(万松洞下宗人)章宗驾游燕之仰山。御题有金色界中兜率境碧莲花里梵王宫之句(十月杀世宗第六子允蹈)。

  (甲寅) 宋光宗禅位于太子。是为宁宗。

  金允蹈子爱王大办。是年正月举五国城叛。求。

  大朝兵援。金兵屡败。金亡之始也。

  (二十五) 净慈肯堂彦充禅师(於潜盛氏子。法嗣东林卍庵颜公)。

  夔府卧龙破庵祖先禅师(广安王氏)。

  径山痴绝道冲禅师(武信长江荀氏)。

  (二十六 乙卯) 宋宁宗立。名扩(光长子。初封嘉王。孝宗崩。光疾甚。知枢密院事赵汝愚。密建翼戴之议。知宪圣太皇太后以宗社为忧。将白事而难其人。有知合门事韩侘胄者。琦之曾孙。而太皇女弟之子也。乃因以入白太皇垂帘引嘉王入即位)改年庆元(三月朔日有食之○自虹贯日○雨土)。

  (丙辰) 金国改年承安(十一月二十三日大赦。度僧千员)。

  (丁巳) 金境内大旱。山东盗起○特诏万松住仰山。升堂有偈曰。莲宫特作梵宫修。圣境还须圣驾游。雨过水澄禽泛子。霞明山静锦蒙头。成汤也展恢天网。吕望稀垂浸月钩。试问风光甚时节。黄金世界桂花秋。

  (庚申) 爱王合大兵陷金上都围和龙。

  (辛酉) 宋改嘉泰○(吴曦入蜀)○金改泰和○(耶律德寿叛击走之)。

  (二十七 壬戌) 灵隐松源禅师入寂。名崇岳。生于处州龙泉吴氏。自幼卓荦不凡。处群儿中未尝嬉宕。稍长闻出世法慕向之。年二十三弃家。衣扫塔服受五戒于大明寺。首造灵石妙公。继见大惠杲禅师于径山。久之大惠升堂。称蒋山应庵华公为人径捷。师闻之不待旦而行。既至入室未契。退愈自奋励。终夜自举狗子无佛性话。豁然有得。即以扣应庵。应庵举。世尊有密语。迦叶不覆藏。师云。钝置和尚。应庵厉声一喝。自是朝夕咨请。应庵大喜。以为法器。说偈劝使祝发栋梁吾道。隆兴二年。师始得度于临安西湖白莲精舍。自是遍历江浙诸大老之门。罕当其意。乃浮海入闽。见乾元木庵永公。一日辞木庵。木庵举。有句无句如藤倚树。师云。裂破。木庵云。琅玡道好一堆烂柴。聻。师云。矢上加尖。如是应酬数反。木庵云。吾兄下语老僧不能过。其如未在。他日拂柄在手。为人不得。验人不得。师云为人者。使博地凡夫一超入圣域。固难矣。验人者。打向面前过不待开口。已知渠骨髓。何难之有。木庵举手云。明明向汝道。开口不在舌头上。后当自知。逾年见密庵于衢州之西山。随问即答。密庵微笑曰。黄杨禅尔。师切于明道至忘寝食。密庵移蒋山。华藏径山皆从之。会密庵入室次。问傍僧。不是心。不是佛。不是物。师侍侧豁然大悟。乃曰。今日方会木庵道开口不在舌头上。自是机辨从横锋不可触。密庵又迁灵隐。遂命师为第一座。旋出世于平江澄照。为密庵嗣。徙江阴之光孝。无为之冶父。饶之荐福。明之香山。平江之虎丘。庆元三年。灵隐虚席。被旨补处。居六年法道盛行。得法者众。而师有栖遁之志。即上章乞罢住持事。上察其诚许之。退居东庵。俄属微疾。犹不少废倡道。忽亲作书别诸公卿。且垂二则语以验学者曰。有力量人因甚抬脚不起。开口不在舌头上。及贻书嗣法香山光睦云居善开。嘱以大法。因书偈曰。来无所来。去无所去。瞥转玄关。佛祖罔措。跏趺而寂。实嘉泰二年八月四日也。得年七十有一。坐夏四十。奉全身塔于北高峰之原。

  (二十八 癸亥) 嘉泰三年。金国于是始定。以土德王。承宋。盖不数辽人云。

  径山佛照德光禅师入寂。讳德光。姓彭氏。临江新喻人。父术母袁。梦异僧入室。惊寤有娠。既生。乃祖曰。吾家世积德。乃生此儿。必光吾门。因是命名。年九岁寇扰辟地于袁之木平寺。有妙应大师。伯华善相。曰是子伏犀贯顶。出家必作法门梁栋。时师年十岁。遽失怙恃。伯父循。伯母万。育而教之。年二十有一。闻人诵金刚经。忽然通解。归白母曰。适闻诵经。身心欢喜。世间万事真如梦幻。力恳出家。族不能夺。遂散家赀。第存度牒僧具。余悉以予其族。诣同邑光化禅院主僧足庵处剃发。遂携师入闽。足庵寓福之西禅。谓之曰。是行为子择所依。东禅月庵善果具衲僧眼。子依之。时复省吾足矣。一见月庵遽问。不落有无中。如何露消息。师云。不落有无中。分明露消息。月庵云。是什么消息。师便喝。庵云。未在更道。师云。我留口吃饭在。即令参堂。是时老宿多在闽中。如妙湛佛心圆觉。望重丛林。师悉参扣遍历五十余员善知识。末后见大惠于育王。举唤作竹篦则触。不唤作竹篦则背。不得向举处承当。不得向意根下卜度。速道速道。师云。杜撰长老如麻似粟。惠云你是第几个。师云。今日捉败者老贼。次年佛涅槃日。因顶谒次。自念佛常住法身何有生灭。头未至地忽然契悟。遽告大惠。惠云。你者回彻也。惠再主径山。拉以偕往阅夏。暂至蒋山省应庵。庵称赏不已。谓人曰。光兄顿出我一头地。乃移书与李侍郎浩曰。光兄一自径山老叔印可。如虎插翅。留月余而归。大惠说偈以顶相付师曰。有德必有光。其光无间隔。名实要相称。非青黄赤白。云二。乾道丁亥。李侍郎分符天台。与师论道相契。以鸿福延之及迁郡之天宁。衲子云集。淳熙三年。诏住灵隐寺。遣使降香开堂。恩宠优渥。是冬召对便殿问佛法大意。师敷奏直截帝大说。留禁中观堂五宿。两赐御颂。特赐佛照禅师之号。又承圣问。释迦入山修道六年而成。所成者何事。奏云。将谓陛下忘却。四年冬召问华严法界。师奏简切。上悦亲洒宸翰奖谕。因进宗门直指一篇。七年育王虚席。露章乞老。得请东归。又承圣问圆觉四病。冬召见便殿。绍熙改元。孝宗御重华宫召见。奏对逾时。四年被旨住径山。抗奏辞免。孝宗曰。欲速相见郡将。坚请不容辞。二月望宣见于重华。自后两赐圣问。应机而答。天颜皆悦。庆元元年春复请老祈恳再三。诏从之。师在观堂也。驾时时临幸。舆以小辇。侍卫二十余人。至则促席而坐。或起行并立。欢如平生。所赐御札刻之琬琰。奏对语录诏令刊行。每有召对。宣赐无时。中贵私自谓。金玉器用缯彩计缗三万之多。师叩头力辞不受。上益嘉之。暨归寺有所宣赐。不容辞。师亦不妄用。初思陵驻跸会稽。有旨许置产。师谓育王产薄不足赡众。遂以所赐及王臣长者所施之资置田。岁增谷五千。国史陆游为记其事。师创数椽以自处。号曰东庵。掩关自娱。接人不倦。时许衲子入室。嘉泰癸亥三月。告众曰。吾世缘将尽。至十日。询问左右曰。今日月半也。对曰然。又二日索纸作遗书。与平昔所厚者二十。早集众叙别。皆法门之旨要。无半语及他事。索浴更衣大书云。八十三年弥天罪过。末后殷勤尽情说破。趺坐而逝。弟子塔全身于庵后。僧腊六十请谥于朝。敕谥普惠宗觉大禅师。塔曰圆照。

  (二十九 甲子 六五) 嘉泰四年金国学士元遗山裕之撰紫微观记。文曰。东平左副元帅赵侯之太夫人既老矣。即弃家为全真师。师郓州人。普惠大师张志刚。居冠氏之洞清庵。庵之制初亦甚陋。乞名于丘尊师。改号紫微观。赵侯为之起殿阁立堂宇至于斋厨库厩。所以奉其亲于家者。无不备。岁癸巳九月落成。请予记其事。予为之说云。古之隐君子及学道之士。多居山林。木食涧饮槁项黄馘。自放于方之外。若涪翁河上丈人之流。后世或附之黄老家。数以为列仙。陶隐居寇谦之以来。此风故在也。杜光庭在蜀。以周灵王太子晋为王建鼻祖。乃踵开元故事。进崇玉宸君。以配混元上德之号。置阶品立范仪。号称神仙官府。虚荒诞幻莫可致诘。二三百年之间。至宣政之季。而其蔽极黄冠之流。官给命书。有散郎与大夫之目。循历资级无别省寺。凡冥报之所警。后福之所开。则视桑门所前有者。而例举之。始欲为高而终为高所庳。始欲为怪则终为怪所溺。其徒有高识远引者。亦厌而去之。故自放于方之外者。犹一二见焉。贞元正隆以来。又有全真家之教。咸阳人王中孚倡之。潭马丘刘诸人和之。本于渊静之说。而无黄冠禳禬之妄。参以禅定之说。而无头陀缚律之苦。耕田凿井从身以自养。推有余以及之人。视世间扰扰者。差若省便然。故堕窳之人。翕然从之。南际淮。北至朔漠。西向秦东向海。山林城市庐舍相望。什百为偶。甲乙授受。牢不可破。上之亦尝惧其有张角斗米之变。著令以止绝之。当时将相大臣有为主张者。故已绝而复存。稍微而更炽。五七十年以来。盖不可复动矣。贞祐丧乱之后。荡然无纪纲文章。蚩蚩之民靡所趣向。为之教者独是家而已。今河朔之人。什二为所陷没。无渊静之习。无禅定之业。所谓举桑门以自例者则兼有之。望宣政之季厌而去之之事且不可见。况附于黄老家数以为列仙者。其可得乎。呜呼先哲王之道。中邦之政扫地之日外矣。是家何为者。乃人敬而家事之。殆攻劫争夺之际。天以神道设教。以弭勇斗嗜杀者之心耶。抑三纲五常将遂堙没。颠倒错乱。人与物胥而为一也。不然则盛衰消长有数存焉于其间。亦难于为言也已。侯名天锡字受之。崇儒重道出于天性。虽在军旅。而文史未尝去手。尝与奉天杨焕然。读徂徕石君言鉴。至论释老家。慨然以为知言。决非漫为风俗所移者。是观之作特以养志云。

  (三十) 屏山李居士鸣道集说序。居士年二十有九。阅复性书。知李习之亦二十有九参药山而退著书。大发感叹日抵万松深攻亟击。退而著书。会三圣人理性蕴奥之妙要。终指归佛祖而已。江左道学。倡于伊川昆季。和之者十有余家。涉猎释老肤浅一二。着鸣道集。食我园椹不见好音。窃香掩鼻于圣言。助长揠苗于世典。饰游辞称语录。敩禅惠如敬诚。诬谤圣人聋瞽学者。噫凭虚气任私情。一赞一毁独去独取。其如天下后世何。屏山哀矜作鸣道集说。廓万世之见闻。正天下之性命。张无尽谓。大孔圣者莫如庄周。屏山扩充渺无涯涘。岂直不叛于名教。其发辉孔圣幽隐不扬之道。将攀附游龙骎骎乎吾佛所列五乘教中人天乘之俗谛疆隅矣。张无尽又谓。小孔圣者莫如孔安国。鸣道诸儒又自贬屈。附韩欧之隘党。其计孰愈乎尊孔圣与释老鼎峙也耶。诸方宗匠偕引屏山为入幕之宾。鸣道诸儒钻仰藩垣莫窥户牖。辄肆浮议不亦僭乎。余忝历宗门堂室之奥。恳为保证。固非师心昧诚之党。如谓不然。报惟向影耳。屏山临终。出此书付敬鼎臣曰。此吾末后把交之作也。子其秘之。当有赏音者。鼎臣闻余购屏山书甚切。不远三数百里。徒步之燕。献的藁于万松老师。转致于余。余览而感泣者累日。昔余尝见鸣道集。甚不平之。欲为书紏其芜谬而未暇。岂意屏山先我着鞭。遂为序引以针江左书生膏盲之病。为中原之士大夫有斯疾者。亦可发药矣。甲午冬十有五日。中书湛然居士移剌楚才晋卿序。

  迂叟曰。或问。释老有取乎。曰有。曰何取。曰释取其空。老取其无为自然。舍是无取也。空取其无利欲心。无为自然取其因任耳。

  屏山曰。释氏之所谓空不空也。老氏之所无为无不为也。其理自然无可取舍。故庄子曰。无益损乎其真。般若曰。不增不减。彼以爱恶之念。起是非之见。岂学释老者乎。取其无利欲心。即利欲心。取其因任。即是有为。非自然矣。

  横渠曰。浮图必谓死生转流。非得道不免。谓之悟道。自其说炽传中国。虽英才间气。生则溺耳目恬习之事。长则师世儒崇尚之言。遂冥然被驱。谓圣人可不修而至。大道可不学而知。故未识圣人心。已谓不必求其迹。未见君子志。已谓不必事其文。此人伦所以不察。庶物所以不明。治所以忽。德所以乱。异言满耳。上无礼以防其伪。下无学以稽其弊。诐淫邪遁之辞翕然并兴。一出于佛氏之门者。千五百年。自非独立不惧精一。自信有大过人之才。可以正立其间与之较是非计得失乎。

  屏山曰。自孔孟云亡。儒者不谈大道。一千五百年矣。岂浮图氏之罪耶。至于近代始以佛书训释老庄。浸及语孟诗书大易。岂非诸君子所悟之道亦从此入乎。张子幡然为反噬之说。其亦弗仁甚矣。谓圣人不修而至。大道不学而知。夫子自道也欤。诐淫邪遁之辞。亦将有所归矣。所谓有大过人之才者。王氏父子苏氏兄弟是也。负心如此。宁可计较是非于得失乎。政坐为死生心所流转耳。

  明道曰。佛学只是以生死恐动人。可怪一千年来无一人觉。此是被他恐动也。圣贤以生死为本分事。无可惧。故不论死生。佛为怕死生。故只管说不休。本是利心上得来。故学者亦以利心信之。庄生云。不怛化者意亦如此。杨墨今已无。道家之说其害终小。唯佛学人人谈之。弥漫滔天。其害无涯。传灯千七百人。敢道无一人达者。有一人得易篑之理。须寻一尺布帛裹头而死。必不肯胡服削发而终。

  屏山曰。圣人原始反终。知死生之说。岂不论生死乎。程子之不论生死。正如小儿夜间不敢说鬼。病人讳死其证难医者也。害人而利我者杨朱也。利人而害我者墨翟也。学道者既利于我。又利于人何害之有。至于圣人无一毫利心。岂无利物之心乎。故物亦利之此天理也。圣人之道或出或处或默或语。殊涂而同归。百虑而一致。故并行而不相悖。程子必欲八荒之外尽圆冠而方履乎。

  明道曰。佛学大概是绝伦类。世上不容有此理。又其言待要出世。出那里云。其迹须要出家。要脱世网。学之者不过似佛。佛一懒胡耳。他本是个枯槁山林自私而已。若只如此不过。世上少这一个人。却又要周遍。决无此理。彼言世网。只为些秉彝。又殄灭不得。当忠孝仁义之际。处于不得已。只和这些秉彝都消杀得尽。然后为道如人耳目口鼻。既有些气须有此识。声色饮食喜怒哀乐。性之自然。必尽绝为得天真。是丧天真也。又曰。若尽为佛。天下却都没个人去里。

  屏山曰。嗟乎程氏窃闻小乘教相语。不能尽信。略取其说而反攻之。乌知维摩华严之密旨误认阿罗汉为佛。而不知其然。遽加诟骂。是岂识文殊普贤之秘行哉。圆教大士知众生本空而度脱众生。知国土本净而庄严国土。不以世间法碍出世法。不以出世法坏世间法。以世间法即出世法。以出世法即世间法。八万四千尘劳烦恼。即八万四千清凉解脱。又岂止观音之三十二应。善财之五十三参耶。众生念念常有佛成正觉。仁者自生分别耳。但无我相人相众生相寿者相。何妨居士身长者身宰官身乎。吾闻谤佛毁法中。有冥权大悲阐提逆行魔说。程氏岂其人耶。不然则非利根众生为世智辩聪所障。具足无间业报哀哉弗可悔也。

  伊川曰。禅家之言性。犹太阳之下置器耳。其间方圆小大不同。特欲倾此于彼耳。然在太阳几时动。又其学者善遁。若人语以此理。必曰我无修无证。

  屏山曰。此语出于徐铉误读首楞严经。佛言。五阴之识如频伽瓶盛空以饷他方。空无出入。遂为禅学。岂知佛以此喻识情虚妄本无来去。其如来藏妙真如性正太阳元无动静。无修而修。无证而证。但尽识情。即如来藏妙真如性。非遁辞也。

  伊川曰。或谓佛之道是也。其迹非也。然吾攻其迹耳。其道吾不知也。使其不合于先王。顾不愿学也。如其合于先王。则求之六经足矣。奚必佛。

  屏山曰。伊川之意欲相忘于江湖耳。吾谓不若卷百川而汇于大壑则无涯涘也。欲攻其迹不过如韩子之说云。山谷道人既夺其说矣。语在南康军开先禅院记。

  伊川曰。看华严经。不如看一艮卦。

  屏山曰。程子以艮其所为止于其所当止。疑释氏止如死灰槁木而止耳。故经出鄙语。顾岂知华严圆教之旨。一法若有。毗卢堕于尘劳。万法若无。普贤失其境界。竖说之则五十七圣位于一弹指如海印顿现。横说之则五十三法门在一毛端如帝网相罗。德云曾过于别峰。普眼不知其正位。逝多园林迦叶不闻。弥勒楼阁善财能入。向非此书之至。学道者堕于无为之坑。谈玄者入于邪见之境。则老庄内圣外王之说。孔孟上达下学之意。皆扫地矣。

  伊川曰。至忙者无如禅客。行住坐卧无不在道。便是常忙。

  屏山曰。君子无终日之间违仁。亦忙乎哉。以敬字为主则忙矣。

  伊川曰。佛家印证甚好笑。岂有我晓得这个道理却信他人。

  屏山曰。自印证为得圣人之传。尤可笑。我虽自晓其如人不信耶。

  上蔡曰。学佛者欲免轮回。是利心私而已矣。此心有止而太虚无尽。必为轮回推之于始。何所付受其终何时间断。且天下人物各有数矣。

  屏山曰。佛说轮回爱为根本。有爱我者亦爱涅槃。不知爱者真生死故。何利心之有。彼圆觉性非作非止非任非灭。无始无终无能无所。岂有间断哉。故众生本来成佛。生死涅槃犹如昨梦。梦中人物岂有数乎。上蔡梦中之人犹作梦语。不识圆觉认为太虚悲夫。

  上蔡曰。人死时气尽也。予问明道。有鬼神否。明道曰。道无尔怎生信。道有尔但去寻讨看。横渠云。这个是天地间妙用。这里有妙理。于若有若无之间。须断直得去。不是鹘突。自家要有便有。要无便无始得。鬼神在虚空中辟塞满。触目皆是。为他是天地间妙用。祖考精神便是自家精神。

  屏山曰。明道之说。出于未能事人焉能事鬼。横渠之说。出于精气为物游魂为变。是故知鬼神之情状。上蔡之说。出于盛哉鬼神之德洋洋乎如在其上在其左右。三子各得圣人之一偏耳。竟堕于或有或无若有若无之间。不各鹘突。予观圣人之言。各有所主。大抵有生有死。或异或同。无生无死。非同非异。人即有形之鬼。鬼即无形之人。有心即有。无心即无耳。圣人复生不易吾言矣。

  元城曰。孔子佛之言。相为终始。孔子之言。毋意毋必。毋固毋我。佛之言曰。无我无人。无众生无寿者。其言次第。若出一人。但孔子以三纲五常为道。故色色空空之说微开其端。令人自得尔。孔子之心佛心也。假若天下无三纲五常。则祸乱又作。人无噍类矣。岂佛之心乎。故儒释道其心皆一。门庭施设不同耳。如州县官不事事。郡县大乱。礼佛诵经坐禅。以为学佛可乎。

  屏山曰。元城之论。固尽善矣。惜哉未尝见华严圆教之旨。佛先以五戒十善开人天乘。后以六度万行行菩萨道。三纲五常尽在其中矣。故善财五十三参。比丘无数人耳。观音三十二应。示现宰官居士长者等身。岂肯以出世法坏世间法哉。梁武帝造寺度僧持戒舍身。尝为达磨所笑。跋摩尊者谓宋文帝。王者学佛不同匹夫。省刑罚则民寿。薄赋敛则国富。其为斋戒不亦大乎。惜一禽之命。辍半日之餐。匹夫之斋戒尔。此儒者学佛不龟手之药也。

  元城曰。所谓禅一字。于六经中亦有此理。佛易其名。达磨西来此话大行佛法到今果弊矣。只认色相。若渠不来。佛法之灭久矣。又上根聪悟多喜其说。故其说流通。某之南迁。虽平日于吾儒及老先生得力。然亦不可谓于此事不得力。世间事有大于死生者乎。此事独一味理会生死有个见处。则于贵贱祸福轻矣。老先生极通晓。但不言耳盖此事极系利害。若常论则人以为平生只谈佛法。所谓五经者不能晓生死说矣。故为儒者不可谈。盖为孔子地也。又下根之人谓寂寞枯槁。乃是佛法至于三纲五常。不肯用意。又其下者泥于报应因果之说。不修人事政教错乱生灵涂炭。其祸盖不可胜言者。故某平生何曾言。亦本于老先生之戒也。

  屏山曰。元城之说。为佛者虑尽矣。为儒者虑似未尽也。佛书精微幽隐之妙。佛者未必尽知。皆儒者发之耳。今已章章然矣。或秘而不传其合于吾书者。人将谓五经之中初无此理。吾圣人真不知有此事。其利害亦非细也。吾欲尽发其秘。使天下后世共知六经之中有禅。吾圣人已为佛也。其为孔子地。不亦大乎。彼以寂寞枯槁为佛法。以报应因果废人事。或至乱天下者。正以儒者不读其书为所欺耳。今儒者尽发其秘。维摩败根之议。破落空之偏见。般若施身之戒。攻著相之愚。夫上无萧衍之祸。下无王缙之惑矣。虽极口而谈著书而辨。其亦可也。学者其熟思之。

  龟山曰。圣人以为寻常事者。庄周则夸言之。乃禅家呵佛骂祖之类。如逍遥游。乃子思之所谓无入而不自得。养生主。乃孟子所谓行其所无事而已。曲譬广喻。此张大其说耳。

  屏山曰。扬子见处甚高知禅者有力于佛。则知庄子有力于圣人矣。曲譬广喻张大儒者之说。儒者反疾之何也。

  龟山曰。儒佛深处所差抄忽耳。见儒者之道分明。则佛在其下矣。今之学者曰。儒者之道在其下。是不知吾道之大也。为佛者既不读儒书。儒者又自小。然则道何由明哉。

  屏山曰。儒佛之轩轾者。不唯佛者不读儒书之过。亦儒者不读佛书之病也。吾读首楞严经。知儒在佛之下。又诵阿含等经。知佛似在儒下。至读华严经。无佛无儒。无大无小。无高无下。能佛能儒。能大能小存泯自在矣。

  南轩曰。天命之全体流行无间。贯乎古今。通乎万物者。众人自昧之而是理也。何尝问断。而圣人尽之亦非有所增益也。若释氏之见。则以为万法皆吾心所起。是昧乎太极本然之全体。而反为自利自私。是亦人心而已。非识道心者也。

  屏山曰。张氏之所谓天命之全体。释氏之所谓心也。其言全出于佛老。无毫发异矣。虽然疑万法非心所为。而归之太极。是不知太极为何物。如父出而忘其家。见其子而不识与。刘仪同何异哉。盖以情识卜度。虽言道心而不知耳。反谓佛自私于人心惑矣。

  晦庵曰。性固不能不动。然无所不有。然不能不动。其无所不有者。曷尝有亏之哉。释氏之病错认精神魂魄为性。果能见性不可谓之妄见。既曰妄见。不可言性之本空。此等立语未莹。恐亦是见得未分明也。

  屏山曰。性无动静。亦无亏成。释氏有语。学道之人不识真。只为从来认识神。岂以精神魂魄为性哉。不见性空。谓之妄见见性空矣。岂妄见耶。见见之时见犹非见。岂不分明。恐未分明。朱子之语。盖未莹耳。

  晦庵曰。切病近世学者不知圣门实学之根本次第。而溺于佛老之说。妄意天地万物人伦日用之外。别有一物空虚之妙不可测度。其心悬悬然。徼幸一见此物以为极致。未尝不堕于此者。

  屏山曰。天地万物人伦日用。皆形而下者。形而上者。谁之言欤。朱子耄而荒矣。偶忘此言。以为佛老之说。吾恐夫子之道亦将扫地矣。虽然不可不辩。佛之所谓色即是空。老子之所谓同谓之玄者。岂别有一物乎。朱子划而为二。是堕于此而不自知耳。

  安正忘筌曰。得失之报。冥冥之中。固未必无司之者。圣人尤探其赜。乃略此而不论。唯圣人超形数而用形数。与造物者游。贤者皆未足以超出而免。此姑就所得之报耳。可以为大戒。又曰。儒释二家。归宿相似。设施相远。故功用全殊。此虽运动枢机裁成天地。终不骇异三灵被德。以彼所长施于中国。犹轩车适越冠冕之胡。决非所宜。儒者但当以皇极经世乃反一无迹而超数超形。何至甘为无用之学哉。

  屏山曰。论至于此。儒佛之说为一家。其功用之殊。但或出或处。或默或语。便生分别以为同异者何也。至如刘子翚之洞达。张九成之精深。吕伯恭之通融。张敬夫之醇正。朱元晦之峻洁。皆近代之伟人也。想见方寸之地既虚而明。四通六辟千变万化。其知见只以梦幻死生。操履只以尘垢富贵。皆学圣人而未至者。其论佛老也。实与而文不与。阳挤而阴助之。盖有微意存焉。唱千古之绝学。扫末流之尘迹。将行其说于世。政自不得不尔。如胡寅者。诟詈不已。嘻其甚矣。岂非翻着祖师衣倒用如来印者邪。语在驳崇正辨。吾恐白面书生辈。不知诸老先生之心。借以为口实。则三圣人之道。几何不化而为异端也。伊川之学。今自江东浸淫而北矣。搢绅之士负高明之资者。皆甘心焉。予亦出入于其中。几三十年。尝欲笺注其得失而未暇也。今以承乏于秋闱。考经学数十余日。乘闲漫笔于小藁。意者撒藩篱于大方之家。汇渊谷于圣学之海。藐诸子胸中之秘。发此书言外之机。道冠儒履。同入解脱法门。翰墨文章。皆是神通游戏。姑以自洗其心耳。或传于人。将有怫然而怒。惘然而疑。凝然而思。释然而悟。哑然而笑者。必曰此翁亦可怜矣。

  仆与诸君子生于异代。非元丰元祐之党。同为儒者。无黄冠缁衣之私。所以呕出肺肝。苦相订正。止以三圣人之教不绝如发。互相矛盾痛入心骨。欲以区区之力。尚鼎足而不至于颠仆耳。或又挟其众也。哗而攻仆则鼎覆矣。悲夫。虽然仆非好辨也。恐三圣人之道支离而不合。亦不得已耳。如肤有疮疣。膏而肉之。地有坑堑。实而土之。岂抉其肉而出其土哉。仆与诸君子不同者。尽在此编矣。此编之外。凡鸣道集所载及诸君子所著。大易书诗中庸大学春秋语孟孝经之说。洗人欲而白天理。刬伯业而扶王道。发心学于言语文字之外。索日用于应对洒扫之中。治性则以诚为地。修身则以敬为门。大道自善而求。圣人自学而至嗣千古之绝学。立一家之成说。宋之诸儒皆不及也。唐汉诸儒亦不及也。骎骎乎与孟轲氏并驾矣。其论议时有诡激盖冥机耳。皆荀卿子之徒欤。此其所以前儒唱之。后儒和之。跂而望之。踵而从之天下后世将尽归之。可谓豪杰之士乎。学者有志于道。先读诸君子之书。始知仆尝用力乎其中。如见仆之此编。又以借口病诸君子之书。是以瑕而舍玉。以噎而废食。不唯仆得罪于诸君子。亦非仆所望于学者。吁。

  诸儒鸣道集。二百一十七种之见解。是皆迷真失性。执相循名。起斗诤之端。结惑业之咎。盖不达以法性融通者也。屏山居士深明至理。悯其瞽智眼于昏衢。析而论之。以救末学之蔽。使摩诘枣柏再世。亦无以加矣。姑录一十九篇。附于通载之左。

  天竺三藏吽哈啰悉利幢记(尚书右丞右辖文献耶律履撰东丹王七世孙)。

  (三十一) 三藏沙门吽哈啰悉利。本北印度末光闼国人。住鸡足山。诵诸佛密语。有大神力。能祛疾病。伏猛呼召风雨。辄效皇统。与其从父弟三磨耶悉利等七人。来至境上。请游清凉山礼文殊。朝命纳之。既游清凉。又游灵岩。礼观音像。旋绕必千匝而后已。匝必作礼。礼必尽敬。无间日。日受稻饭一杯。座有宾客。分与必遍。自食其余。数粒必结斋。始至济南建文殊真容寺。留三磨耶主之。至棣又建三学寺。大定五年四月二十三日。示寂于三学。年六十三。僧夏则未闻也。

  (三十二) 佛光道悟禅师。俗姓冠氏。陕右兰州(金国)人。生而有齿。年十六自欲出家。父母不听。乃不食数日许之祝发。后二年自临洮归于弯子店宿。夜梦梵僧唤觉。适闻马嘶。豁然大悟。归家喜不自胜。吟唱云。见也罗。见也罗。遍虚空。只一个。告其母曰。我拾得一物。其母于囊橐中寻索不见。问是何物。师曰。我自无始以来不见了底物。其母不省。他日欲游诸方。乡人送者求颂。有水流须到海。鹤出白云头之句。至熊耳果遇白云禅师海公。先是人问海。何不择法嗣。海亦作颂。有芝兰秀发独出西秦之语。比师之至。夜闻空中人言。来日接郭相公。黎明海呼僧行。令持香花接我关西弟子。寺乃唐郭子仪建。今渠自来住持也。既至一言相契。径付衣盂。寺前尝有剽而杀人者。来告急。师呼众擒之曰。即汝是贼。寻得其巢穴。贼众请命。师与其要言而释之。路不拾遗者数十年。人以此益信师之前身汾阳王也。大定二十四年。白云既没。师开堂出世。拈香于郑州之普照。复驻锡于三乡竹阁庵。时著白衣跨牛横笛游于洛川。人莫之测。尝谓人曰。道我是凡。向圣位里去。道我是圣。向凡位里去。道我不是圣不是凡。才向毗卢顶上有些行履处。泰和五年结夏于临洮之大势寺。开圆觉经。升座偶曰。此席止讲得一半去在。至五月十二日晚参。翌日早盥嗽毕呼侍者。我病也。寻药去。侍者之未及门。师已卧逝。方丈上有五色云。如宝盖。中有红光如日者三。春秋五十有五。僧腊三十有九。

  (三十三) 资寿尼无著禅师入寂。师讳妙总。姓苏氏。父中大夫。象先南徐丞相实大父也。年甫十五。忽念曰。吾生身何来。死复何去。良久脱然有得。初不以为意。长适毗陵许氏。不胶世故志慕空宗。以禅寂为进修。时惠严圆公嗣圆照佚居普门。乃扣以出世间法。机感相契。次见关西智寂室光真歇了。问答如流。咸敬异之。偶夫寿源官嘉禾。大惠至郡。源具饭以迎。师出礼拜无一言。大惠退谓给事冯公济川曰。许司理阁中曾见神见鬼。但未遇本分钳锤。如万斛舟置之绝潢断港。莫能转动。冯曰。何言之易耶。惠曰。他若回头定须别也。次日道俗请惠说法。师与会。惠痛抵诸方异见邪解。听者骇顾。师独喜见眉睫间。既下座。师请道号。惠以无著号之。且示以偈。尽道山僧爱骂人。未曾骂着一个汉。只有无著骂不动。恰似秦时?轹钻。既骂不动。为什么似?轹钻。具眼者辨。越明年师登径山随众坐夏。济川亦在焉。惠上堂。举石头恁么不恁么总不得语。冯曰。厶会得也。惠徴之。冯着语曰。恁么也得。苏卢萨婆诃。不恁么也不得。悉哩萨婆诃。恁么不恁么总不得。苏卢悉哩萨婆诃。惠举冯语似师。师曰。人谓郭象注庄子。却是庄子注郭象。惠虽异其言但默而不顾。且欲激其遂到。忽一日正危坐间。豁然大悟洞见大惠委曲相为处。不觉抚掌厉声曰。这老贼老贼。遂呈颂云。蓦然筑着鼻头伎俩冰消瓦解。达磨何必西来。二祖枉施三拜。更问。如何若何。一队草贼大败。惠亦以偈印之。汝既悟活祖师意。一刀两段直下了。临机一一任天真。世出世间无剩少。我作此偈为证明。四圣六凡尽惊扰。碧眼胡僧犹未晓。时卍庵颜公首众。与一千七百衲子。咸以偈饯其归。且贺法门之得人也。冯公犹未之信。舟过无锡。问师。岩头为渡子时婆生七子话。径山称道人会得。作如何会。师云。已上所供并是诣实。仍以偈明之。有以礼部僧牒无著师号为施者。师说偈受之。祝发披缁克遂初志。绍兴壬午年也。时张公安国守吴门。资寿虚席。张尽礼迎请。乃开堂于万寿寺。拈香为大惠之嗣。提唱具于语录。乾道六年七月十四日。集众说偈毕撼之则已去矣。年七十六。全身葬于无锡军将山东。绍定庚寅闰二月末。迁葬于平江虎丘之东北。庵曰达本。奉塔藏之。

  (乙丑) 宋改开禧○金泰和五年。

  佛祖历代通载卷第二十

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第二十一

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  大元

  (一 乙丑) 太祖应天启运圣武皇帝。是年征西夏。明年大会于斡难河。建九游之白旗。共上尊号曰。

  成吉思皇帝。都和林 观夫

  圣人出世。威灵气焰。自天佑之。膺命立极。超今迈古。且以凤凰在壳。渥洼堕地。犹自绝类离伦。矧我

  太祖皇帝。处九五飞龙之位乎。故其丕祚鸿休。与天地相为终始也。

  (丙寅) 西夏拓跋失都儿忽干顺小子仁友之子乃仁宗侄也。是年五月立。在位六年。

  (丁卯) 宋吴曦僭位于蜀。凡三十八日而安丙诛之。

  (戊辰) 宋改嘉定○瑞像计二千二百年矣。

  (己巳) 金国东海侯立改年大安。名允济。世宗第七子。章宗无嗣。群臣奉遗诏立之。后为纥石烈执中所弑。在位四年。

  (庚午) 旃檀瑞像至金国。十二年十月。迎赴上京禁庭供养○罢试经科。

  (辛未) 大蒙古国号始建。

  西夏神宗拓跋须蕃邸立。改年光定。夏人因大兵以金人不救。恨之遂叛。

  (壬申) 金改重庆大兵至燕京。

  (癸酉) 安南主李龙翰卒。子昊旵立。其国后为江南陈日照所有。而传其子威晃。

  金国宣宗。名珣。章宗庶兄。执中弑东海王而迎立之。以东海至宁元年九月即位。改年贞祐。在位十二年○八月大兵攻燕京。

  (二) 嘉定六年十二月八日。天竺北峰讲师入寂。名宗印。字元实。生盐官陈氏。年十五具戒。谒竹庵观公明教观之旨。凡诸祖格言。必诵满千遍。资教空延居座首。尝着宗极论。事理各立一性之旨。印设九难。宗极为之义负通守苏玭观不二门。以文虽简而昧其说。印撮示机要。玭即领解。白帅座请居正觉。飓风飘荡。仅存藏殿。印守死不去。风为之止。未久玭亦召还。要印偕行曰。盍西还相与弘赞。居东二十七年。至是复反浙右。贰上竺讲止观。深砭学者支离名相之病。围座挟策。主者以得士为忌。玄隐雷峰毛氏庵。问道者沓至。杜氏建普光一区。具礼迎之。禅讲并行。法道益盛。适德藏来请印曰。肆业之地思报久矣。历迁超果圆通北禅。道德之誉既行。土木之绩亦就。海空英辞灵山。举以自代。诏可。学徒五百咸服其道。宿弊为之一革。宁宗闻名召对便殿。上说。锡号惠行法师。以营观室行化吴中。至松江谓其徒曰。吾化缘毕此。乃右胁而化。

  (甲戌) 金于四月迁汴。求与大国和亲○锦帅张智以郡降。寻叛。自号辽西王。改年大安。讨平之○克燕京。

  (乙亥) 世祖生于八月○大兵破潼关。

  (丙子) 二月日蚀○川东西地震○黍州山崩。

  (丁丑戊寅) 金改兴定。七月日食。金兵犯光州。李珏等御之。涟水弓手李全自北归。即李铁枪也。诏以为京东路总管。

  (庚辰) 禅宗联灯录成。

  (辛巳) 金国五月日食。

  (壬午) 大兵自回鹘征西夏。

  (癸未) 西夏拓跋德仁。是年九月立。改年乾定。

  金国改元光。九月日食○宋行经界田粮。

  (乙酉) 宋理宗盷立。改宝庆元年。初名与。莒荣王希瓐之子。太祖十世孙也。宁宗子多而不育。鞠宗室子询。立为太子。薨。初皇从弟沂靖惠王柄无子。尝以宗室子。赐名贵和。为之后。及失太子询。遂立贵和为皇子。赐名竑。封济国公竑惠而轻。尝疾史弥远专权。谓异日不可容。弥远闻而恶之。故阴为之计。与莒幼不好。弄群儿聚嬉辄独登高坐不动。长上指以语儿曰。汝曹不效此人。恰一大王相似。群儿每罗拜其下。遂有赵大王之号。弥远物色得之。尝取应得举矣。特旨补官。竑既为宁宗子。遂以与莒为沂王。后赐名贵诚。除邵州防御使。宁宗大渐。乃白中宫。以贵诚为皇子。改名盷宣遗诏即位。进竑为济阳郡王。出判宁国府。恭圣杨后听政。事定然后彻帘。寿六十一。

  金国改正大名守绪。宣宗第三子。性宽仁和。嗜书博学。是年立。至癸巳年归德府绝粮。六月奔蔡。八月南北兵夹攻。甲午正月禅位于后主麟。闭阁自经国亡。

  (丙戌) 西夏拓跋德仁七月卒。次清平郡王立。在位一年。

  (丁亥) 太祖以丙戌春至西夏。一岁尽克其城。是年十月廿七灭夏 上年六十矣。西夏凡一十二主。始继迁以太平兴国壬午起兵夏台。讫今宝庆丁亥国灭。共二百四十六年。元昊于景祐甲戌自创伪朔僭帝号者。一百九十四年。

  (戊子) 宋改绍定元年。

  (辛卯) 太宗皇帝即位。

  (壬辰) 太祖次四子统王师破汴。金主迁蔡。金臣崔立降。大朝遣使过宋。议夹攻金。

  (癸巳) 金改天兴。

  (甲午) 宋改端平元年○灭金。右金九主一百二十三年。

  (乙未) 抄数中原户计 ○宋天狗星坠淮安军金棠县。其声如雷。三州之人皆闻之。及观则为红色碎石。或以为兵戈之兆○诏集议出度牒。收四介会子。

  (丙申) 分封诸王。上亲总兵征回回国归附○宋失四川。

  (丁酉) 宋改嘉熙。

  (己亥) 诏谕高丽○宋十月虹见。

  (庚子) 宋京师地震。白气亘天。旱蝗。江浙福建旱都城大荒。饥者夺食于路。市中杀人以卖。日未晡路无行者。

  (辛丑) 二月三日大赦天下○宋改淳祐。

  (丙午) 定宗皇帝即位。

  (庚戌) 大朝灭辽东高丽。

  (三 辛亥) 宪宗皇帝即位。

  世尊示灭二千二百年矣。

  (癸丑) 宋改宝祐元年○大兵伐川蜀。

  (四 丙辰丁巳) 抄数辽东户计○宋拨官诰度牒。收换楮弊毁之。有元庆寿海云大士迁化。名印简。山西之岚谷宁远人。俗宋氏。微子之后。父慈善信服乡里。里人称为虚静先生。母金源王氏。祖世奉佛不仕。师生于金之泰和壬戌十二月望。人品恢伟童幼神悟。七岁亲授以孝经开宗明义章。乃曰。开者何宗。明者何义。亲惊异。知非尘劳中人。携见傅戒颜公。颜欲观其根气。授以草庵歌。至坏与不坏主元在。师问曰。主在何处。颜曰。何主也。师曰。离坏不坏者。曰此客也。师曰。主聻颜。吟吟而已。乃得礼中观沼公为师。八岁受三归五八十善戒法。师方十一蒙豫王恩赐纳具。有洪彦上座。问师曰。子今受大戒了。缘何作小僧。师曰。缘僧小故。戒说大也。试问上座戒老耶小耶。曰我身则老。语未终师大声曰。休生分别。一日上座教僧去师背上拍一下。待回首乃竖指示之。僧如教拍师背。师便竖一指。僧回举似上座。座奇之。师年十二。中观听师参问诲之曰。汝所欲者文字语言耳。向去皆止之。唯身心若枯木死灰。今时及尽。功用纯熟悟解真实。大死一场。休有余气。到那时节。瞥然自肯方与吾相见。师受教习定。一日扶中观行。观曰。法灯禅师道看他家事忙。且道承谁力。汝作么生会。师将中观手一掣。观曰。这野狐精。师曰。喏喏。观曰。戒须别参。师年十三。时成吉思皇帝征伐天下。师在宁远。于城陷之际。稠人中亲面圣颜。俾师敛髻。师告曰。若从国仪则失僧相也。蒙旨如故。自此僧有不同俗民之异也。师年十八。天兵再下。太师国王领兵取岚城。四众逃难解散。师侍中观如故。观曰。吾迫桑榆。女方富有春秋。今此玉石俱焚。子宜逃生去。师泣曰。因果无差。死生有命。安可离师而求脱免乎。纵或得脱。亦非仁子之心也。老人察师诚确。嘱师曰。子向去朔漠有大因缘。吾与子俱北渡矣。明日城降。有清乐元帅史公天泽义州元帅李公七哥者。见师气宇非常。问曰。尔是何人。师曰。我沙门也。史曰。食肉否。师曰。何肉。史曰。人肉师曰。人非兽也。虎豹尚不相食。况人乎。史曰。今日兵刃之下。尔亦能不伤乎师曰。必仗其外护者。公喜甚。李帅问曰。尔既为僧。禅耶教耶。师曰。禅教乃僧之羽翼也。如国之用人。必须文武兼济。李曰。然则必也从何而住。师曰。二俱不住。李曰。尔何人也。师曰。佛师。复曰。吾亲教中观。亦在于此。二公见师年幼无所畏惧应对不凡。即与住见中观。二公闻中观教诲谆谆。乃大喜曰。果然有是父有是子也。于是礼中观为师。与师结为金石友。国王将中观及师分拨直隶。成吉思皇帝载中观于黄犊轻车。师亲执御。日营采汲。经年至赤城。舍于郎中张公宅。使臣太速不花并麻赖。傅成吉思皇帝圣旨道与摩花理国王。尔使人来说底老长老小长老。实是告天的人。好与衣粮养活者教做头儿。多收拾那般人在意。告天不拣阿谁。休欺负交达里罕行者。是时国王奉诏大加恩赐。延居兴安香泉院。国王署中观慈云正觉大禅师。师寂照英悟大师。所需皆官给。小长老之名自此始。十九中观将示寂。有羽客杨至慎求颂。老人俾执笔代书。偈曰。七十三年如掣电。临行为君通一线。泥牛飞过海东来。天上人间寻不见。客曰。师几时行。老人曰。三日后。时五月廿七日也。至六月初一。果无疾而寂。师哀毁过礼。阇维收顶骨舍利供养。建塔于府之西北隅。师罄所有为设斋。唯乞食看塔。一夜闻空中有声召师名。师瞥然有省。乃迁入三峰道院。复闻人告曰。大事将成。行矣毋滞此。黎明策杖之燕。过松铺值雨。宿于岩下。因击火大悟。自扪面曰。今日始知眉横鼻直。信道天下老和上不寐语。明日至景州见本无玄和上。问从何所来。师曰。云收幽谷。曰何处去。师曰。月照长松。玄点首曰。孟八郎。便恁么去也。师诺诺趋出。过洵州遇宿儒张子真。问上人何不安住。师曰。河里无鱼市上取。先是中观临终时。师问。中观曰。某甲当依何人了此大事。观嘱曰。贺八十去。师既入燕。至大庆寿寺。乃省前谶。于是径谒中和老人璋公。中和先一夕。梦一异僧策杖径趋方丈踞师子座。既明谓知客曰。今日但有旦过。当令来见老僧。及晚师至引见。中和笑曰。此衲子乃夜来所梦者。师便问曰。某甲不来而来。作么生相见。寿曰。参须实参。悟须实悟。莫打野榸。师曰。某甲因击火迸散。乃知眉横鼻直。寿曰。吾此处别。师曰。如何表信。寿曰。牙是一口骨。耳是两边皮。师曰。将谓别有。寿曰。错。师喝曰。草贼大败。寿休去日寿举临济两堂首座齐下喝。僧问济。还有宾主也无。济曰。宾主历然汝作么生会。师曰。打破秦时镜。磨尖上古锥。龙飞霄汉外。何劳更下槌。寿曰。汝只得其机不得其用。师便掀禅床。寿曰。路途之乐。终未到家。师与一掌曰。精灵千载野狐魅。看破如今不直钱。寿打一拂子曰。汝只得其用不得其体。师进前曰。青山耸寒色。月照一溪云。寿曰。汝只得其体不得其智。师曰。流水自西东。落花无向背。寿曰。汝虽善语言三昧。要且没交涉。师竖起拳复拍一拍。当时丈室震动。寿曰。如是如是。师拂袖便出。明日命师掌书记。自此中和复以向上钳槌差别关楗种种辩验。师以无碍辩才应答皆契。其悟解精明度越前辈。寿一日谓师曰。汝今已到大安乐之地。宜善护持。吾有如来正法眼藏祖师涅槃妙心。密付于汝。母令湮没。师掩耳而出。即以衣颂授师。颂曰。天地同根无异殊。家山何处不逢渠。吾今付与空王印。万法光辉总一如。出世住兴州仁智。历迁洡阳之兴国兴安永庆以至大庆寿寺。皆太师国王及诸重臣之命。师于室中以四无依语勘学者。语具本传。辛卯十一月受合罕皇帝宣赐。师称心自在行。一日于廊下逢数僧。师问第一僧曰。那里去。僧云。赏花去。师便打。问第二僧。那里去。云礼佛去。师亦打。问第三僧。那里去。云那里去。师亦打。问第四僧。那里去。僧无语。师亦打。问第五僧。那里去。僧云。觅和上去。师云。觅他作么。僧云。待打与一顿。师云。将什么来打。僧云。不将棒来打。师连打四下云。这掠虚汉。众皆走。师召云。诸上座。众回首。师云。是什么。乙未朝廷差札忽笃侍读。选试经僧道。万松长老叹曰。自国朝革命之来。沙门久废讲席。看读殊少。乃同禅教诸老宿请师董其事。师从容对曰。诸师当以斯激厉众僧习应试经典。主上必有深意。我观今日沙门。少护戒律。学不尽礼。身远于道。故天龙亡卫而感朝廷励其考试也。三宝加被必不辜圣诏。遂与华使相见之后。其处置法度悉从师议。厦里丞相以忽都护大官人言。问师曰。今奉圣旨。差官试经。识字者可为僧。不识字者。悉令归俗。师曰。山僧不曾看经。一字不识。丞相曰。既不识字。如何做长老。师曰。方今大官人还识字也无。于时外镇诸侯皆在。闻师之言皆大惊异。丞相复曰。必竟如何。师曰。若人了知此事通明佛法。应知世法即是佛法。道情岂异人情。古之人亦有起于负贩者。立大功名于世载于史册。千载之下凛然生气。况今圣明天子在上。如日月之照临。考试僧道如经童之举。岂可以贤良方正同科国家。宜以兴修万善敬奉三宝。以奉上天永延国祚可也。我等沙门之用舍。何足道哉。丞相以是言告于大官人。乃从而奏闻。由是虽考试亦无退落者。蒙圣旨悉依太祖皇帝存济。听僧如故。丙申有司欲印识人臂。师力白于忽都护大官人曰。人非马也。既皆归服国朝。天下之大。四海之广。纵复逃散。亦何所归。岂可同畜兽而印识哉。由是印臂之法遂止。初孔圣之后。袭封衍圣公。元措者渡河。复曲阜庙林之祀。时公持东平严公书谒师。师以袭封事为言于大官人。师为其言曰。孔子善稽古典。以大中至正之道。三纲五常之礼性命祸福之原。君臣父子夫妇之道。治国齐家平天下。正心诚意之本。自孔子至此袭封衍圣公。凡五十一代。凡有国者使之袭承。祀事未尝有缺。大官闻是言。乃大敬信。于是从师所言。命复袭其爵以继其祀事。师复以颜孟相传孔子之道。令其子孙不绝。及习周孔儒业者为言。亦皆获免其差役之赋。使之服勤其教为国家之用。三十六丁酉正月。太祖皇帝二皇后。以光天镇国大士号奉师。己亥冬师再起。复主大庆寿寺。壬寅护必烈大王请师赴帐下。问佛法大意。师初示以人天因果之教。次以种种法要。开其心地。王生信心求授菩提心戒。时秉忠书记为侍。郎刘太保也。复问。佛法中有安天下之法否。师曰。包含法界子育四生。其事大备于佛法境中。此四大洲。如大地中一微尘许。况一四海乎。若论社稷安危。在生民之休戚。休戚安危皆在乎政。亦在乎天。在天在人。皆不离心。而人不知天之与人。是其问别。法于何行。故分其天也人也。我释迦氏之法。于庙堂之论。在王法正论品。理固昭然。非难非易。唯恐王不能尽行也。又宜求天下大贤硕儒。问以古今治乱兴亡之事。当有所闻也。王又问。三教何教为尊。何法最胜。何人为上。师曰。诸圣之中吾佛最胜。诸法之中佛法最真。居人之中唯僧无诈。故三教中佛教居其上。古来之式也。由是太后遵祖皇圣旨。僧居上首。仙人不得在僧之前。王以珠袄金锦无缝大衣。奉以师礼。王固留师。师固辞。将别。王问。佛法此去如何受持。师曰。信心难生。善心难发。今已发生。务要护持。专一不忘。元受菩提。心戒不见。三宝有过。恒念百姓。不安善抚。绥明赏罚。执政无私。任贤纳谏。一切时中。常行方便。皆佛法也。师既辞行。有一恶少年。肆言讪谤。以佛法不足信。王闻之。乃召其人。训以大人之言复以刑法罪之。专使白师。师回启曰。明镜当台妍丑自现。神锋在掌赏罚无私。若以正念现前。邪见外魔杀之可矣。然王者当以仁恕存心乃可。王益敬焉。甲辰护必烈大王。以珠笠奉师。乙巳奉六皇后旨。于五台为国祈福。丙午奉六皇后诏。师起至中途值风疾作。回奏。得旨还燕。丁未贵由皇帝即位。颁诏命师统僧。赐白金万两。师于昊天寺建大会为国祈福。太子合赖察请师入和林。延居太平与国禅寺。尊师之礼非常。辛亥蒙哥皇帝即位。颁降恩诏。顾遇优渥。命师复领天下僧事。蠲免差役。悉依旧制。丙辰正月奉圣旨。建会于昊天寺。初二日于会中忽患风恙。半身不举。至夏初稍愈。是月旭威烈大王。差蒙古万宣差。以金拄杖金缕袈裟段并令旨。奉师求法语。七月师会诸勤旧。抄所长物见数令主后事。丁巳夏说偈毕。师云。汝等少諠。吾欲偃息。侍僧急呼主事人至。师吉祥泊然而逝矣。即后四月初四日也。世寿五十有六。荼毗获舍利无算。钦承。

  护必烈大王令旨。建塔于大庆寿寺之侧。谥佛日圆明大师。望临济为十六世。

  (戊午) 诏释道辩析化胡经○上大驾南征。

  (己未) 九月大兵自浒黄州渡江征宋。岁贡而退(上崩于钓鱼山)。

  宋改开庆元年。

  (五 庚申) 大元世祖圣德神功文武皇帝即位。尊临宝扆统御寰区。四海混同万邦入贡。建立制度条理纪纲。为子孙万世成法。宽仁爱人深信因果。不言自信。不化自行。圣君之德。荡荡乎民无能名焉。

  宋改景定元年○大朝遣郝经通好○五月十九。

  建元中统二十七日大赦普度僧尼。

  (辛酉) 行中统钞法平章王以道奏。

  (癸亥) 制开平府号上都○宋买公田始自浙。

  (甲子 六六) 至元元年。城燕建都。八月十六改元。大赦天下。设会度僧诏请。

  国师扮弥达癹思八登座。授秘密戒○是年八月拜光禄大夫太保。参领中书省事制。

  (六) 长生天气力里皇帝圣旨。咨尔刘秉忠气刚以直。学富而文。虽晦迹于空门。每潜心于圣道。朕居藩邸卿实宾僚。侧闻高谊余二十年。出从遐方几数万里。迨予嗣服须汝计安。不先正名何以压众。宜崇师位兼总政机。可特授光禄大夫太保参领中书省事。卿其勉辅朕躬率先乃属。察朝夕之勤惰。审议论之是非。凡有施为并听裁决。伫看成绩别示宠章。准此。中统五年八月日。

  (乙丑) 宋改咸淳元年。度宗即位。初名孟?。福王与芮之子。理宗之犹子也。理宗子多而不育。鞠孟?于宫中。改名孜。又改名祺。立为皇子。封忠王。已而建储。改名璇。

  (丙寅) 大教东被已一千二百年矣。

  (戊辰) 大兵围襄阳。时吕文焕告急。宋遣高连范文虎赴援。大兵于要害处。连珠劄寨不得通○宋十月日食。

  (己巳) 帝师发思巴制蒙古字成。二月颁行天下。

  (庚午) (宋之常州鸡翼生距)立尚书六部○宋大旱○至元七年。诏请胆巴金刚上师。住持仁王寺。普度僧员。

  (七) 大元帝师苾刍癹思巴说根本有部出家授近圆羯磨仪轨。亲制序文曰。原夫赡部嘉运至四佛释迦文如来遗教利见也。大元御世第五主宪天述道仁文义武。太光孝皇帝登极也。天资福惠谛信内乘。普使万邦咸归一化。虽敷天垂拱而至治无垠。眷支那弘道。而在躬不息。欲以自佛相承师资继踵迄今不替。正戒仪轨为拳拳从善之行人俾一一恒持于净戒精练三业坚守四仪。此寔圣皇匡正佛法之睿旨也。昔因善逝与人天众普说声闻上教一切有部别解脱经。依此采拾未得令得。律仪方便羯磨仪轨此乃圣光德师之总集也。始从天竺。次届西番。爰有洞达五明法王大士萨思迦扮底达名称普闻上足苾刍癹思巴乃吾门法主。大元帝师。道德恢隆行位叵测。授兹仪轨衍布中原。令通解三藏比丘住思观演说正本。翻译人善三国声明辩才无碍。含伊毕国翰林丞旨弹压孙传。华文译主生缘北庭都护府解二种音。法辞通辩。诸路释门总统合台萨哩都通暨翰林学士安藏。总以诸国言诠。奉诏译成仪式。序本帝师亲制。绘为华迹以编陈。始末粗彰聊记岁月时庚午至元七年冬至后二日序。

  (辛未) 大元国号十一月始建○兴蒙古学校○宋大饥。

  (癸酉) 诏谕吕文焕○二月大兵破樊城吕文焕以襄阳降。

  (甲戌) 敕命伯颜丞相伐宋○三月宋主崩太子立四岁。

  (八) 是年八月。故光禄大夫太保赠太傅仪同三司文贞刘公薨翰林学士嘉议大夫知制诰兼修国史王磐。奉敕撰神道碑铭并序。其文曰耕莘非求进之地。而伊尹阿衡。钓渭非巧宦之途太公同载。汉张良志从赤松。而高祖得之以辅成帝业。唐李泌幼好仙术而肃宗用之以佐定中兴。盖天下之士。惟自重者。可与有为。而轻进者必非令器。是以古之明王。取士不以悦媚易亲者为可佳。而以闲远高洁难致者为可贵。圣天子之用太保刘公。其审是道欤。公以高洁之资。慕空寂之教。轻富贵如浮云等功名于梦幻。曷曾有一毫荣利之念动于心乎。圣天子邂逅一见。即挽而留之待以腹心。契如鱼水深谋密画虽耆宿贵近。不得预闻者。悉与公参决焉。此其精诚胥会。志意交孚。与夫渭滨之同载商巴之阿衡。盖异世而同符矣。公讳秉忠字仲晦。瑞州刘李村人。先世仕辽多显贵。金初曾大父尝任邢州节度副使。秩满身还乡里。留其家于邢。故自公大父以下。遂为邢人焉。大父讳泽。资性倜傥。为乡闬所重。父讳润。仕本朝历邢州录事钜鹿内丘两县提领。俱有惠爱。公风骨秀异志气英爽不羁。家贫。年十七为刑台节度使府令史。以养其亲。干敏精洁。诸老吏咸服其能。一日因按读事。有不惬意。投笔叹曰。吾家奕世衣冠。今吾乃汩没为刀笔吏乎。丈夫不得志于世间。当求出世间事耳。即弃去隐于武安山岩谷间。草衣木食以求其志。天宁寺虚照禅师闻之。遣其徒招致。与披剃为僧。仍以公知经书工翰墨。命掌书记。后游云中。住南堂寺值海云禅师。被召北觐。过云中闻公博学多艺能。求相见。既见约公俱行。公不可。海云固要之。不得已遂行。既至谒今上於潜邸。一见应对称旨。自是屡承顾问。及海云南还。公恳求奔丧。上赐黄金百两。仍遣使送至邢州。公持服营葬事。起坟于贾村。葬其祖父母父母。服阕被召复还和林。公献书陈时事所宜者数十条。凡万余言。率皆尊主庇民之事。上嘉纳之。甲寅岁从上征云南。己未岁从上伐宋扬?渡济江围鄂州。上神武英断。每临战阵前无坚敌。而中心仁爱。公尝赞之。以天地好生为德。佛氏以慈悲济物为心。方便救护。所全活者。不可胜计。庚申岁春上正位宸极创定朝仪。立官制改元建号。一切所当施设时物之宜。皆公所草定。中统五年秋八月。改至元元年。翰林学士承旨王鄂奏言。书记刘秉忠效忠藩邸积有岁年。参帷幄之密谋。定社稷之大计。忠勤劳绩。宜被褒荣。今圣明寓极万物维新。秉忠犹以野服散号萧条闲寂。守其初心深所未安。宜与正其衣冠崇以显秩实遂众望。上览奏。欣然嘉纳。即日命有司备礼册授公光禄大夫。位太保参领中书省事。选聘侍讲学士窦默次女为夫人赐第于奉先坊。给少府宫籍监。人户甚众。公斋居蔬食。终日澹然。与平昔略不少异。至元十一年。扈从至上都。居南屏山之精舍。秋八月壬戌之夜。俨然端坐无疾而薨。享年五十有九。讣闻。上嗟悼不已。语群臣曰。秉忠三十余年。小心慎密不避艰危。事有可否言无隐情。又其阴阳术数之精。占事知来若合符契。惟朕知之。他人莫得预闻也。遣礼部侍郎赵秉温护其丧还大都。以冬十月壬申葬敛营葬。一切所须皆出内帑。十二年春正月。诏赠太傅仪同三司下太常议。谥曰文贞。仍命翰林学士王磐撰碑文字。臣磐钦惟国家列圣相承。咸以武功戡定祸乱。龙韬豹略鹰扬虎视。丰功伟绩之臣。其当纪名汗简画像凌烟者。不为不多。若夫辅佐圣天子。开文明之治。立太平之基。光守成之业者。实惟太傅刘公为称首。圣天子方在潜邸。士之所以涉远道冒风霜而至者。往往有所陈诉祈请干慕进用。惟公独无所求。闲燕之际每承顾问。辄推荐南州人物可备器使者。宜见录用。由是弓旌之所招。蒲轮之所迓。耆儒硕德奇材异能之士。茅拔茹连致无虚月。逮今三十年间。扬历朝省颁布郡县。赞维新之化。成治安之功者。皆公平昔推荐之余也。其识度之宏远。推此一节而论。亦可见其仿佛矣。又自幼好学至老不衰。通晓音律。精算数善推步。仰观占候。六壬遁甲易经象数邵氏皇极之书。靡不周知。初丁太夫人忧。毁瘠骨立。衣一弊绵裘。三藏不易。及录事公卒。虽身从天竺之教。而服食贬损容貌哀戚。与循礼典而执通丧者盖无少异也。晚娶无子。以犹子兰璋为嗣。弟秉恕今为顺天路总管。臣磐谨按中书左丞张文谦所作行状。次第其行事之实。而系以铭辞。铭曰。大元五叶。圣运隆昌。爰有异人。出佐时康。不坐官府。不趋朝行。褐衣蔬食。禅寂倘佯。谋谟帏幄。罄竭忠良。指陈成败。开阖阴阳。渊虑婉画。鬼神莫量。扶日上天。照临万方。万方仰德。百灵效祥。庭陈玉帛。路走梯航。朝仪整肃。济济跄跄。群贤来集。庶政允臧。大纲一举。众目斯张。治定功成。圣眷弥彰。崇资峻秩师表侯王。肇造皇家。元勋是当。良平佐汉。房杜兴唐。公不自多。愈隆谦光。见善必举。有能必扬。陆行滞阻。与为桥梁。川泛艰厄。与为帆桨。寒而求衣。焕之裘裳。饥而求食。饫之腴肪。门庭桃李烂熳芬芳。人感公德。铭刻肝肠。公施于人。过即遗忘。公之仁贤。宜享遐年。胡为一朝。蝉蜕而仙。燕都南原。卢沟北?。佳城郁郁。有坟岿然。地固重泉。松柏参天石烂松枯。芳名永传。

  赠仪同三司太傅谥文贞。制。

  (九) 长生天气力里大福荫护助里皇帝圣旨。臣以忠孝而事上。贵输献纳之诚上以礼义而遇臣。思笃始终之爱。视死之日犹生之年。故光禄大夫太保刘秉忠。学窥天人识贯今古。邃冲而有守。安静而无华。昔侍潜藩稔闻高论。适当三接之际。恳上万言之书。盖将举天下而措诸安。以戒为人主者过于杀。朕嗣服而伊始。卿尽力以居多。盖得卿实契于朕心。而独朕悉知于卿意。事皆有验。人匪他求。周旋三十年。不避其难。剀切数百奏。各中其理。共成庶政。方图任于旧人。谁谓旻天不整遗于一老。兴言及此。何日忘之。载惟台辅之尊。厥有泉扃之贲。是用锡之纶命。峻一品之华阶。襚以衮衣。蹑三槐之正位。复加显号允答殊勋。惟尔英灵识予哀宠。可赠仪同三司太傅谥文贞。准此。至元十二年正月。

  (乙亥) 至元十二年诏谕两淮州县新附。

  宋改德祐。幼主湿立。度之子。母全后。谢太皇后临朝○六月朔宋日食之既。

  (丙子) 大元天兵临境举国归附(三月十八日幼主谢太皇后全后朝京封幼主瀛国公。全后为尼于正智寺。先是陈宜中张世杰。奉益王卫王如永嘉。与苏刘义遇。共图兴复。五月益王即位于福州。改景炎。十一月王世强引兵逼三山。宜中奉二王南行十二月至广州)○诏安归附军民○九月十一日大赦。

  右宋前后共十六主。凡三百十七年而亡。

  (丁丑) 十二月大兵逼广州宜中奉二王抵肇庆府。

  敕令瀛国公往脱思麻路习学梵书西番字经○建大圣万安寺。

  (戊寅) 十五年正月旦设会斋僧。大赦。玉泉等五老家蒙恩得度。三月(宜中奉益王。由海道复入广。四月望日崩。十七日卫王即位于?川。改祥兴。六月世系奉卫王至崖山○次年正月大兵攻崖山。八月宜中入占城至落鹤国)。

  (庚辰) 十七年二月宜中(奉卫王自落鹤经占城回。四月复入崖山。张世杰死未几。二广皆归一统。六月新历成。赐名授时。明年始颁行天下)。

  (十) 大元帝师癹思八是年示寂。翰林学士王磐等奉敕述行状曰。皇天之下一人之上开教宣文辅治大圣至德普觉真智佑国如意大宝法王西天佛子大元帝师班弥怛拔思癹帝师。乃土波国人也。生时诸种瑞应具详家谱。初土波有国师禅怛啰乞答。具大威神累叶相传。其国王世师尊之。凡十七代而至萨师加哇。即师之伯父也。乃礼伯父为师。秘密伽陀一二千言。过目成诵。七岁演法。辩博纵横。犹不自足。复遍咨名宿。句玄索隐。尽通三藏。癸丑师年十五。世祖皇帝龙德渊潜师知真命有归。驰驿径诣王府。世祖宫闱东宫皆秉受戒法特加尊礼。戊午师二十岁释道订正化胡经。宪宗皇帝诏师剖析是非。道不能答。自弃其学。上大悦。庚申师年二十二岁。世祖皇帝登极建元中统。尊为国师。授以玉印。任中原法主。统天下教门。辞帝西归。未期月召还。庚午师年三十一岁。时至元七年。诏制大元国字。师独运摹画作成。称旨即颁行。朝省郡县遵用。迄为一代典章。升号帝师大宝法王。更赐王印统领诸国释教。旋又西归。甲戌师年三十六岁。时至元十一年。皇上专使召之岁抄抵京。王公宰辅士庶离城一舍。结大香坛设大净供。香华幢盖大乐仙音。罗拜迎之。所经衢陌皆结五彩翼其两傍。万众瞻礼若一佛出世。时则天兵飞渡长江。竟成一统。虽主圣臣贤所致。亦师阴相之力也。为真金皇太子说器世界等彰所知论。寻又力辞西归。皇上坚留之不可。庚辰师年四十二岁。时至元十七年十一月二十二日示寂。上闻不胜震悼。追怀旧德。连建大宰堵波于京师。宝藏真身舍利轮奂金碧无俦。

  (十一 辛巳) 至元十八年十月二十日。僧道二家辩析。特奉。

  圣旨。长生天气力里大福荫护助里皇帝圣旨道与中书省枢密院御史台随路宣慰司按察司达鲁花赤管民官管军站人匠等官。并众先生每在前蒙哥皇帝圣旨里。戊午年和上先生每折证佛法。先生每输底上。头教十七个先生剃头做了和上。将先生每说谎做来的化胡等经并印板。教烧毁了者。随路观院里画着的石碑镌着底八十一化图。尽行烧毁了者。么道如今都功德使司奏。随路先生。每将合毁的经文印板至今藏着。却不曾毁了更保定真定太原平阳河中府三祖师庵头关西等处。有道藏经板。这般奏的上头教张平章张左丞焦尚书泉总统忽都于思翰林院众学士中书省客省使都鲁省宣使苫速丁渊僧录真藏僧判众讲主长老等张天师祈真人李真人杜真人众先生每一同于长春宫内。分拣去来。如今张平章等众人回奏。这先生家藏经。除道德经是老子真实经旨。其余皆后人造作演说。多有诋毁释教偷窃佛语。更有收入阴阳医药诸子等书。往往改易名号传注讹舛失其本真。伪造符咒妄言。佩之令人商贾倍利。夫妻和合有如鸳鸯。子嗣蕃息。男寿女贞。诳惑万民非止一端。意欲贪图财利诱说妻女。其有教人非望佩符在臂。男为君相。女为后妃。入水不溺。入火不焚。刀剑不能伤害等语。又令张天师祁真人李真人杜真人试之于火。皆求哀请命。自称伪妄不敢试验。今拟得除老子道德经外随路但有道仪说谎经文并印板。尽宜焚去。又据祈真人李真人杜真人等奏告。据道藏经内。除老子道德经外。但系后人捏合不实文字。情愿尽行烧毁了。俺也干净准奏。今后先生每依着老子道德经里行者。如有爱佛经的。做和上去者。若不愿为僧。娶妻为民者。除道德经外。说谎做来的道藏经文并印板。尽行烧毁了者。今差诸路释教泉总统中书省客省使都鲁前去。圣旨到日。不以是何官吏先生道姑秀才军民人匠鹰房打捕诸色人等。应有收藏道家一切经文本处。达鲁花赤管民官。添气力用心拘刷见数。分晓分付差去官眼同焚毁。更观院里画着的右镌着的八十一化图。尽行除毁了者。自宣谕已后。如有隐匿道家一切说谎捏合。毁谤释教偷窃佛语。窥图财利诱说妻女。此诳惑百姓符咒文字。及道○家大小经文。若所在官司不添气力拘刷。与隐藏之人一体要罪过者。外民间诸子医药等书。自有板本。不在禁限。准此。

  至元十八年十二月二十日。◎

  ◎(壬午) 十九年(八月赐文天祥死时年四十七岁矣)○甲申正月六日大赦。

  (乙酉) 二十二年(十二月安童丞相复职)。

  (十二) 圣旨焚毁诸潞伪道藏经之碑翰林院(臣)唐(方)杨(文郁)王(构)赵(与)李(谦)阎(复)李(铸)李(监)王(盘)奉敕撰。正奉大夫枢密副使(臣)商(挺)奉敕书。光禄大夫中书左丞相监修国史(臣)耶律(铸)奉敕篆额。

  至元二十一年三月初三日。诏遣资德大夫总制院使兼领功德使司事相哥谕翰林院。戊午僧道持论。及至元十八年十月二十日。焚毁道藏伪经始末。可书其事于石(臣监)等谨按释总统合台萨哩所录事迹。昔在宪宗皇帝朝。道家者流出一书。曰老君化胡成佛经。及八十一化图。镂板传布。其言鄙陋诞妄。意在轻篾释门而自重其教。罽宾大师兰麻总统少林长老福裕。以其事奏闻。时上居潜邸。宪宗有旨。令僧道二家同诣上所辩析。二家自约。道胜则僧冠首而为道。僧胜则道削发而为僧。僧问道曰。汝书为谕化胡成佛。且佛是何义。道对曰。佛者觉也。觉天觉地觉阴觉阳觉仁觉义之谓也。僧曰。是殆不然。所谓觉者。自觉觉他觉行圆满。三觉圆明。故号佛陀。岂特觉天地阴阳仁义而已耶。是时上特语近侍曰。吾亦先知仁义是孔子之语。谓佛为觉仁觉义其说非也。道士又持史记诸书以进。欲出多说侥幸取胜。帝师板的达癹合师八曰。此是何书。道曰。前代帝王之书。上曰。汝今持论教法。何用攀援前代帝王。帝师曰。我天竺亦有此书。汝闻之乎。对曰。未也。帝师曰。我为汝说天竺频婆罗王赞佛偈曰。天上天下无如佛。十方世界亦无比。世间所有我尽见。一切无有如佛者。当其说是语时。老子安在。道者不能对。帝师又问。汝史记有化胡之说否。曰无。又问。老子所传何经。曰道德经。曰此外更有何经。曰无。道德经中有化胡事否。曰无。帝师曰。史记中既无。道德经中又无。其为伪妄明矣。道者辞屈。尚书姚(枢)曰。道者负矣。上命如约行罚。遣近臣脱欢。将道者樊志应等十有七人。诣龙光寺削发为僧。焚伪经四十五部。天下佛寺为道流所据者。二百三十七区。至是悉命归之。道教提点甘志泉所据吉祥院其一也。据而弗归。至元十七年夏四月。僧人复为徴理。长春宫道流谋害僧录广渊。聚徒持挺欧击僧众。自焚廪舍。诬广渊遣僧人纵火。且声言焚米三千九百余石。他物称是。事达中书省。辩其诬。甘志泉王志真款伏。诏遣枢密副史孛罗及诸大臣覆按。无异词。志泉志真就诛。劓刵流窜凡十人。仍徴所声言米物。如其数归之僧众。有道家伪经尚存。为言者闻诸皇太子。十八年九月。都功德使司脱因小演赤奏言。往年所焚道家伪经板本化图。多隐匿未毁。其道藏诸书类。皆诋毁释教剽窃佛语。宜皆甄别。于是上命枢密副史与前中书左丞文谦秘书监友直释教总统。合台萨哩太常卿忽都于思中书省客省使都鲁在京僧录司教禅诸僧及臣等。诣长春宫无极殿。偕正一天师张宗演全真掌教祁志诚大道掌教李德和杜福春暨诸道流。考证真伪。翻阅兼旬。虽卷帙数千。究其本末。惟道德二篇为老子所著。余悉汉张道陵后魏寇谦之唐吴筠杜光庭宋王钦若辈。撰造演说。凿空架虚。罔有根据。诋毁释教。以妄自尊崇。复爱慕其言。而窃为己有。假阴阳术数。以示其奥。衰诸子医药。以夸其博。往往改易名号。传注讹舛。失其本真。文所载符咒。妄谓佩之令人商贾倍利。子嗣蕃息伉俪谐和如鸳鸯之有偶。将以媒淫乱而规财贿。至有教人非望佩符在臂。则男为君相。女为后妃。入水不溺。入火不焚。刀剑不能伤害之语。其伪妄驳杂如此。留之徒以诳惑愚俗。自道德经外。宜悉焚去。(臣)等同辞以闻。上曰。道家经文传讹踵谬非一日矣。若遽焚之其徒未必心服。彼言水火不能焚溺。可姑以是端试之。俟其不验。焚之未晚也。遂命枢密副使孛罗守司徒和礼霍孙等。谕张宗演祁志诚李德和杜福春等。俾各推择一人佩符入火自试其术。四人者奏言。此皆诞妄之说。(臣)等入火必为灰烬。实不敢试。但乞焚去道藏。庶几澡雪(臣)等。上可其奏。遂诏谕天下道家诸经可留道德二篇。其余文字及板本化图。一切焚毁。隐匿者罪之。民间刊布诸子医药等书。不在禁限。今后道家者流其一遵老子之法。如嗜佛者削发为僧。不愿为僧者。听其为民。乃以十月壬子集百官于悯忠寺。焚道藏伪经杂书。遣使诸路俾遵行之。(臣)盘等闻。老氏之为道也。以清净为宗。无为为本。谦冲以处己。损抑以下人。非有贪欲好胜之事。厥后枝分派列。徒属寖盛袭讹成伪夸诞百出。清净一变而为污秽。无为一变无所不为。如汉之文成五利。致身求仙。恍惚诞幻。帛书饭牛之诈。黄金可成之妄。一但败露。为武帝所诛。三张之徒以鬼道惑众。倡乱天下。为皇甫嵩曹魏所灭。宋王浮昔居上清宝箓宫。与女冠为奸。林灵素自称神霄紫府仙卿。禳大水不验。并为徽宗诛窜而死。迨金末年。复有麻被先生铁笠李二人。以奸谋秘计出入时贵之门。肆为淫污之行。咸受显戮。历代以来。若此之类。不可胜数。追惟祸乱之源奸宄之本。率皆假符箓以神其教。托伪经以警其俗。横肆巧诬倡为诡状。诋毁圣教寇攘内典。固已悖老氏不争不盗之禁矣。及陷刑辟皆是孽自内作。愎将谁咎哉。且夫释氏之教宏阔胜大非他教所拟伦。历百千世。圣帝明王莫不尊崇。东冒扶桑。西极昧谷。冰天桂海山河大地。昆虫草木胎卵湿化。有情无情百千万类。皆依佛荫生息动止于天地之间。故天上天下惟佛为尊。超出乎有生之表。归极乎无碍之真。智周三界神妙诸方。泽及大千功用不宰。其大有如此者。慈航所至无溺不援。法雨所沾有生皆润。悯世人之沉沦幻海颠覆迷津。展转多生流连累劫。将使之脱凡企圣蠲弊崇真。故神光破沉晦之门。大觉指无生之路。其仁有如此。何意狂谋辄形妒忌。虽积毁销骨众煦漂山。泫体圆成初无小玷。譬如盲人之毁日月。何伤日月之明。井蛙之小河海。奚损河海之大。多见其不知量也。钦惟圣天子。识超四谛道慕三乘。参无象之真空。传法王之心印。所以尊崇之礼。归向之诚。矫百伪以从真。黜群邪而归正。有不容不严者焉。况乎笔墨劝淫妖术误世。恣为欺诳鼓荡群愚。若不大为改革。则邪说肆行枉道惑众。其如天下后世何。况天下之理。有善有恶。有正有邪。有真有伪。常混然而同处。杂然而并行。自非禀上圣之资。诞生知之性。智出庶物明照群情。则红紫之乱朱。洼淫之变雅。是孰得而辩明之哉。由是言之。圣天子匡济真图翼扶大法之功至矣。概诸圣不可有加矣。于以凿含灵之耳目。开正途之荒秽。使般若之光永乎无际劫遍满恒河妙界。延洪圣寿于无疆。衍绵储君之福利。鼎祚于亿万年之久者。庸有既乎是可述也。(臣)磐等敬为之书。以贻后人。俾为老氏之学者有所警焉。

  大元至元辩伪录随函序。翰林直学士奉训大夫知制诰同修国史臣张伯淳撰。天无私覆。地无私载。日月无私照。辩伪录之所云良有以也。洪惟圣朝继天立极论道经邦以佛心子育万方。以正法泽被四海。至元辛卯之岁孟春。大云峰长老迈吉祥。钦奉。

  皇帝明命。撰述至元辩伪录。奏对天颜睿览颁行。入藏流通。原其所自。乙卯间道士丘处机李志常等毁西京天城夫子庙为文城观。毁灭释迦佛像白玉观音舍利宝塔。谋占梵刹四百八十二所。传袭王浮伪语老子八十一化图。惑乱臣佐。时少林裕长老率师德诣阙陈奏。先朝蒙哥皇帝玉音宣谕登殿辩对化胡真伪。圣躬临朝亲证。李志常等义堕辞屈。奉旨焚伪经。罢道为僧者十七人。还佛寺三十七所。党占余寺流弊益甚。丁巳秋少林复奏。续奉纶旨伪经再焚。僧复其业者二百三十七所。由乙卯而辛酉。凡九春而其徒窜匿未悛邪诸谄行。屏处犹妄。惊渎圣情由是至元十八年冬。钦奉玉音颁降天下。除道德经外。其余说谎经文尽行烧毁。道士爱佛经者为僧。不为僧者娶妻为民。当是时也。江南释教都总统永福杨大师琏真佳。大弘圣化。自至元二十二春。至二十四春。凡三载恢复佛寺三十余所。如四圣观者昔孤山寺也。道士胡提点等。舍邪归正罢道为僧者。爰啻七八百人。挂冠于上永福帝师殿之梁棋间。故典如南岳山之券。为事伪者戒。试尝考之。自大教西来。汉明帝迎摩腾竺法兰二师于洛阳。五岳道士褚善信等。上表讥毁佛法。当时筑坛。以佛道二经焚之。道经悉为灰烬。佛经放光无损。尊者踊身作十八变。有狐非狮子类。灯非日月明之至言。道士为僧者不可胜数。如寇谦之矫妄崔浩惑魏太武而崔浩卒以族诛。昙谟最之挫屈姜斌。斌流于马邑。齐昙显之愧陆修静。唐总章元年法明辨化胡之伪。敕搜聚天下化胡经。抑尝火其书矣。由古而今。历代帝王之制。斯可忽诸。盖世尊等视三界众生犹如一子。弃背大觉。是子背其父也。子背其父。是自昧其所天也。且师老子者。道德二篇。以清虚澹泊绝世弃圣立其宗。隐居以求其志。翛然无为尔。今盗名之徒。丛啸党援假立冠褐。峻侈宫观苟世利养。岂老氏之用心哉。况老氏谓大辨若讷。大巧若拙。辨者不善。善者不辩。勿矜勿伐。抱一为天下式。而占毁佛寺。窃经扇化胡之伪。是若拙若讷欤。是善者不辩欤。师老子而违其术。亦复违其自宗矣。若嫡师于老子者。则弗为也。过归末流尔。虽然麒麟之于走兽。凤凰之于飞鸟。兰蕙之于薰莸。旃檀之于秽壤。则世未有舍凤凰麒麟之瑞。兰蕙旃檀之馨。而惬走兽飞鸟之常。薰莸秽壤之垢者。人心天理爱恶之所同也。奈何菽麦未析而甘事于伪妄不实之教。复矜诞其浮辞。侮慢大觉讪毁至圣。而弗惮三途之沦溺乎。斯辩伪录之正名教。造理渊奥推难精明。凛乎抗凌云之劲操。坦然履王道之正涂。而堤备后世之溺于巨浸者。其为言也至矣。盖有伪则辩。无伪则无辩。岂好辩哉。弘四无碍之辩者。迈公之德欤。言之者无罪。闻之者足以戒。故我皇金言喻辞曰譬如五指皆从掌出。佛门如掌。余皆如指。信乎王言如丝。其出如纶。明逾日月。坚逾金石。为万世之龟鉴。则斯录岂小补哉。

  (十三) 辩伪录序。盖闻五运未形。元无人物之号。三才既立。乃叙尊卑之名。肇分六爻始画八卦。其有书契定乎训章。凤篆龟图金縢玉字。百家之异辙。万卷之分区。虽理究乎精微言殚乎物范。纪情括性。未出乎域中。原始要终。讵该于化内。况乎法身无相。高超于象帝之先。真谛绝称。迥出乎思议之表。英猷茂实代有人焉。如意者。俗姓乎延氏。太原人也。世传缨冕。累叶播迁代郡。因为家焉。九岁落绀。随师请业。玉离荆岫。价重之德弥彰。桂生幽岩。馨香之风远递。阿师内穷三藏之奥外核九流之源。名冠于中华。声闻于朝野。运谈天之口。施不世之才。郁郁间绮锦之文。雄雄耸凌云之气。班马之珠玉。未可同年。顾陆之文章。宁堪并驾。至若庄生墨生之学。黄老李老之书。三清谤道之文。十异九迷之录。混元隐月之秘。灵宝赤书之仪。焕若胸膺。明犹指掌。加以禅参于五派。傍阅于群书。既有雄才特专著述。运思之外汲引无穷。挫邪则有吼石之功。扶正则具鞭尸之德。固以才侔安远学迈生融。实觉海之龙鳞。乃佛门之柱碍。切见全真道士者。丘处机李志常史志经令狐璋等。学业庸浅识虑非长并为。鄙辞排毁正法。击兹布鼓窃比雷门。使中下之流咸生邪见。钦奉薜禅圣明皇帝发大悲心。愍其盲瞽恐堕泥犁。敕令制斯论耳。震荡法海摧彼词锋。碧鸡之锐竟驰。黄马之骏争骛。状鸿炉之焚纤翼。犹炎日之炼轻冰。负胜之俦于斯可见。暂归慈定已破魔军。至元十八年十月二十日。复钦奉先皇帝圣旨敕令天下伪经一时焚尽。由是佛日重晖于碧汉。法云广布于阎浮右如意所作文赋注解。四经序。韩文别传。性海赋等。在世已传。然兹论五卷二百余纸。穷释老之渊源。分邪正之优劣。盖唱弥高而和弥寡。深可愧焉。余文惭绮丽学匪通圆。睹斯论之嘉言。钦吾皇之鸿护。不胜手舞勉为斯引。辄以藤绠联彼圭璋。庶博雅君子详其致云尔。大云峰住持袭祖沙门雪溪野老贵吉祥。

  大都道者山云峰禅寺住持。如意祥迈长老。奉敕撰辩伪录五卷。其略云。妄立天尊伪(化云。道者万化之父母。自然之极尊于此幽玄微妙之中而生空洞。空洞者。真一也。真一之气化生之后历九十九万亿九十九万岁。乃化生上三气。三气相去九十九万亿九十九万岁。三合成德共生无上。乃虚皇天尊。又历如上岁数。乃生中三气。三合成德乃生玄老。即元始天尊也。又历如上岁数。乃生下三气。三合成德共生太上。即太上道君也。自后又一气复生三气。每气相去八十一万亿八十一万岁。三合成德共生李老君。虽四圣相次各不相因。谓之独化。老君生后乃生五运谓太易。太初。太始。太素。太极○老君混沌之祖。宗天地之父母。故能分布清浊开辟乾坤)。

  辩曰。盖闻龙图鸟篆之文。龟书科斗之典。玉版玉谍之记。金縢金匮之书。秦汉魏晋之章。宋齐梁陈之简。记事记史直笔直言。靡睹虚皇之名。不闻元始之号。安有手执玉圭。身挂黄褐。顶垂皓发。头戴金冠。别号天尊。高拱三清之上。独称教主。统御九华之宫。纵有天尊之名。并是偷窃佛语。古今称佛名为天尊。不关道君之事。窃他美称妄自尊严。取信通人。斯言谬矣。案列子及易钩命诀。皆云。天地未生之前。有太易。有太初。有太始。有太素。有太极。说者咸云。太易者。未见气也。太初者。气之始也。太始者。形之始也。太素者。质之始也。太极者。质形已具混沌未分也。太极之后乃生两仪。谓之天地。夫名从实生。实从名起。名实既着。其道乃行。太易之前。沓然空洞。溟溟漠漠。本绝音容。何得谩张九气妄生四人。虚上生虚。似敲空而求向。伪中起伪。如趁影之寻踪。岂不思。既立其名。须有其体。既立其体。须有氏族。且道虚皇元始谁人所生。氏族何起。居在何处。若有源系。出在何书。若无来由。即是虚设。又空洞之前。本无岁数。今标岁数愈见虚张。盖数目起于伏羲。甲子唱乎皇帝。将今记古。颠倒何多。且上之三尊。为有形耶。为无形耶。若是有形。不在太易之上。爰从父母而生。须有年代时处姓氏名字。前云三气共德而生。则是以气生气。与气不殊。何有形名。若是无形。本无名位。下第七化乃云。老君以上皇元年九月二日。出游西河。遇元始天尊。乘八景玉舆。驾九色玄龙。群仙导从。手把华幡。师子白鹤啸歌邕邕。同会西河之上。授老君洞玄玉符。此是谁耶。进退两求。并无准的。则知海枣虚谈有名无实。雕冰镂雪枉废词章。山海之所不收大荒之所不载。庸愚巧饰。何足信哉。老君衰周之柱史。诳云混沌之祖宗。避周乱而过函关。妄云天地之父母。既自语之相戾。何函矢之相攻。掩耳偷铃。欲隐弥露。道德章云。吾有三宝。宝而持之。一曰慈。二曰俭。三曰不敢为天下先。老君献胡王妻子。与胡兵格战。何有慈乎。乘玉衡之舆。坐金阙之内。披九色离罗之衣。荫九光偃鹤之盖。何有俭乎。生于无始起于无因。为万道之先。作元气之祖。观混沌之未判。视清浊之未分。为帝王之师。作天地之母。何有不敢为天下先乎。辽阳高宪。字仲常。游东京白鹤观。见三清像指其右曰。此何像也。观主对曰。老君像。曰何代人。曰周定王时。又指左曰。此何像也。主曰。道君像。曰此何代人。住仓惶未答。宪指中尊曰。且饶这元始天尊。闻者传以为笑。

  创立劫运年号伪(第三化云。始则太虚之气。其气相击往来乱射。经百亿万气之后。其气方慢。往来流行为自然之气。此偷佛书世界初成风轮下旋之事也。又号弥罗万梵之气。又经九万九千九百九十九亿。气之后。结吉祥之气成一圣人。自号元始天王。同时生五老五行之主。其劫号延康。年号龙汉。又经如上气数。乃生道君。时劫号赤明。年亦号赤明。同时生九老。分为九天。又经如上气数。方生老君。劫号清运。年号上皇。时生八公。又立五运太易太初等。老君乃以阴阳二气结。为混沌。而分布天地万物始备矣)辨曰。盖闻班固律历之志。史记天官之书。皇甫谧之帝年。陶隐居之帝纪。未闻五运之前先有年号。三气之内虚立劫名。既清浊之未形。只是洪蒙一气何有老君元始五老九天。虽窃佛主劫之名。而不晓成坏之数。梵云劫波。此云时分。时虽长短皆立劫名。错谬梵言迷惑体相。释教未来。此劫但有劫杀劫贼。故许慎说文云。以兵胁人曰劫。又鲁将曹沫。劫桓公于坛上。求所侵地。此则逼夺名劫。岂有劫运之言乎。今陈此言妄窃见矣。夫名位既有年号斯张。将以率领万方整齐四海混同九有同一车书。天子至尊得建年号无名位者不敢立焉。孔子虽然删书定礼分辨君臣。以无贵位止号素王。矧乎老聃周之柱史臣子之列。而草窃帝王。妄建年号哉。况轩皇之前本无甲子(黄帝臣大挠造甲子)汉武之代始建年号(武帝始立年号)将古标古亦何伪乎。或曰。老子生于天地之前。别立年号。有何乖违。答曰。既在天地之上。乃是太易之前。世界未形。君臣无迹。杳然空寂。唯一溟蒙。建立年号统领谁人乎。明知偷佛庄严贤劫星宿之意。而立此延康赤明青运之目。彼明三世。此约一时。正同山羌偷。王衣物。迷惑颠倒上下失次尔。下去老子生于天岗李谷字曰光明。则在三皇之后。何得老君以阴阳二气结为混沌而分布天地耶。首尾两端穿凿见矣。

  开分三界伪(第五化云。天地有形之大者。太上老君乃混沌之祖宗。天地之父母。故能分布清浊开辟天地。运玄元始三气而成天。上为三清三境。即始气为玉清境。元气为上清境。玄气为太清境。又以三清之气。各生三气。合成九气。而为九天。第一郁单天。第二上神寿无量寿天。第三梵蓝须延天。第四寂然兜术天。第五波罗尼蜜不桥乐天。第六洞玄化应声天。第七灵化梵辅天。第八高虚清明天。第九无想无爱天。此之九天各生三气。每气为一天。合二十七天通此九天为三十六天。则三界四民上极三清。是其数也。初下六天为欲界。一太黄天。二太明天。三清明天。四玄胎天。五玄明天。六七曜天。次一十八天为色界。一虚无天。二太极天。三赤明天。四荣华天。五曜朗天。六皇笳天。七灵明天。八端靖天。九光明天。十极瑶天。十一元载天。十二太安天。十三极风天。十四始皇天。十五太皇天。十六无思天。十七阮乐天。十八昙誓天。次四天为无色界。一霄庆天。二元同天。三妙成天。四禁上天。此二十八天。名为三界。此上又四天名为种人天。一常融天。二玉隆天。三梵度天。四贾奕天。此四天超出三界。又云。上三天为三清境。一曰太赤天。二曰虫余天。三曰清微天。最上曰大罗天。包罗诸天极高无上。玄都玉京镇于其上。三尊所处焉。又太霄隐书云。大道君治在五十五重无极大罗天中玉京之十。七宝玄台金林玉机金童玉女之所侍卫。住居在三十三天三界之外)。

  辩曰。详夫蛇躯(伏羲)牛首(炎帝)之书。龙师(太[糸*(且/八)])凤纪(少皞)之典。谈天(邹衍)论天(黄缭)之诰。括地(地志)舆地(地图)之图。甘氏星经张衡灵宪。不说三清之号。匪闻大罗之名。并是依傍佛经改头换尾。采他名相妆缀己书。且道教之宗源起黄帝。而老子涓子列子庄周鹖冠尹文。派为道教。诸子所谈并无说天之事。唯是张道陵所集灵宝经中。始说三十二天。效佛神咒而作蜜言。自后道书牙相鼓唱。空枝引蔓唯诳下俗。佛教未来。云何不说。释经广布始唱斯名。明名修静增加。三张妄阐。狗偷鼠盗何足贵乎。尔雅之立四号约于四时。太玄之说九天准于九有。不似道家虚加数目。天本定体何有少多。今各说不同。显知妄立。案佛经三界。三业所感。总二十八。欲界有六。色界十八。无色有四。具胜妙欲名为欲界。形色超绝名为色界。根识两忘名无色界。越此而去名出生死。舍分段之后身。绝形名而无寄。安有玄都之境。玉京之山。金童玉女交杂之事。琼舆碧帐之饰。妄窃不真。于斯见矣。试问道士三界从何而来。何功所感释名辨相全不能知。且道宗极致惟尽升天。灵宝幽微只贪羽化。难逃四相讵免五衰。泛业浪以漂沈。随生死而轮转。纵茫茫之业识。积浩浩之苦源。长往不归。良可叹息。郁头蓝弗是其验欤。

  随代为帝王师伪(第十一化云。老君在伏羲时。号郁花子。说元阳经。教伏羲。叙人伦画八卦。在祝融时。号广寿子。说按摩通精经。教以钻木出火。陶冶为器。在神农时。号大成子。说太乙玄精经。教以播种五縠。采和诸药。在神农时。号广成子。教以抱神守静之道。在少昊时。号随应子。说在敬经。教以鸟官为理。分布九鳸以统百司。在颛顼时。号赤精子。说微言。帝喾时。号录图子。说黄庭经。帝尧时。号务成子。说宣化经。帝舜时。号尹寿子。说通玄经七十卷。又说道。德经八千二百。卷夏禹。时号真行。子说元始经六十。卷殷汤。时号锡则。子说长生经二十。卷周文王。时号燮邑子。说赤精。经教以仁孝之。道乃至。云上古之君皆受教于老子。然后造作群物也)。

  辩曰。夫贤之与圣名位不同。古哲今人出处各异。庄周云。万世之后一遇大圣。犹旦暮遇之。此明圣人出世表瑞协祥。应千年之期。膺适时之运。孤标特秀迥出常流。故得帝王师之诸侯礼重。万载一遇尚为旦暮。岂有随代而出现乎。夫李耳者退静之士。史记称为隐君子也。避乱过关葬于槐里。潜身柱下。本是人臣。位不躐于上阶。名未厕于台辅。何乃擢君圣地为帝王师。譣诐不经骇人耳目。培塿要齐于嵩华。孰肯凭焉。潢洿拟广于沧溟。终难信矣。岂有开辟之后万亿余年中间别无一人拔萃唯有老子为帝王师乎。三坟五典八索九丘。孔子春秋丘明国语。百家异说九流杂谈。并无老子为师之语。唯是后代无知道士。妄撰斯言。欲使老子独高群圣。美则美矣。伪且伪焉。且伏羲神农皆有圣德。轩皇尧舜并号明君。或幼而能言。或生知妙道。讵假老子教之。然后造作群物乎。况书传所记。古史所明。燧人钻火伏羲画卦。炎帝播耨。女娲造篁。黄帝作宫室。轩冕乐有咸池。颛顼作六英。尧有大章。舜有大韶。及作围棋。禹有大夏。汤有大濩。文王有辟雍。武王有下武。鲧作城郭。蚩尤作兵器。岐伯造医。俞附脉经。伶伦制律。隶首作算。容成作历。大桡造甲子。奚仲作车。曹胡作衣。伯余作裳。于则作履。共鼓作舟楫。巨挥作弓。夷牟作矢。黄雍父作杵臼。孟庄子作锯。赵武灵王作靴。苏威公作篪。暴辛作埙。后稷之孙叔均作犁。蒙恬作笔。蔡伦作纸。夏昆吾氏作瓦。此皆各有其主。群书所明。何得自矜览为我造。又周易系辞孔子所述。列明古帝制造之事。如云包羲氏之王天下也。观象于天俯察于地。近取诸身。远取诸物。始画八卦。以通神明之德。以类万物之情。作结绳而为网罟。以畋以渔。盖取诸离。神农氏为耜为耒。以利天下。日中为市。交易有无。乃至黄帝尧舜。垂衣裳而天下治。盖取诸乾坤。如此历陈法易造物。不言老子所造也。窃功业标为己能。炫名自高。君子不忍。又云。老子在尧时为务成子者。案后汉应劭风俗通云。东方朔是太白星精。黄帝时为风后。尧时为务成子。周时为老聃。在越时为范蠡。在齐为鸱子。此则务成子乃东方朔。非干老子明矣。何得妄加钩引称老子为人师乎。案鲁哀公问于子夏曰。五帝三皇皆有师乎。子夏曰。有。臣闻皇帝学乎太真。颛顼学乎绿图。帝喾学乎赤松子。尧学乎尹寿。舜学乎务成跗。禹学乎西王国。汤学乎威子伯。文王学乎铰时子斯。武王学乎郭政。周公学乎太公吕望。上之所叙文极分明。而言老子随代为帝王师。何出言之狂悖哉。巧言如篁颜之厚矣。且老子衰周柱史史有明文。本是人臣。返为上古帝王之师。履冠戴屦何颠狂之甚乎。又上文云。上古之君皆受教于老子。则桀纣之不作。幽厉之无道。秦王之凶暴。王莽之纂逆。亦老子之所教也。既然如是。则老子为悖逆之魁首。巨猾之元匠。不忠不孝。老子之所生。不义不仁。老子之所主。为人师者。不亦惭乎。老君既说随代为师。而秦汉之下至于金朝。偏无一现乎。今既无矣古亦虚焉。且汉文恭俭孝武英明。孝明达礼乐之情。孝章优儒雅之道。魏文帝风流文藻。晋世祖明达宽仁。宋文帝致治升平。梁武帝文武兼备。隋高祖混同四海。唐太宗混一车书。此时不俟老子之化。而皆金声玉振。则知牵合巧会枉费词章。只可诳于闾阎。难可信于达士。嫫母加粉见者愈嗤。邻女效颦乡人不贵。

  老子出灵宝三洞伪(第九化云。太上老君以中皇元年三月一日。于玉清天金阙上宫。撰集灵篇以为宝经三百卷。符图七千章。玉诀九千篇。老君于上三皇时出为万天法师。又号玄中法师。当龙汉元有。授上三皇洞真经一十二部。以无极之道。下教人间其时人寿九万岁。于中三皇时。号有古先生。当赤明元年。授中三皇洞玄经一十二部。行无上正真之道。以化于人。其时人寿六万岁。于下三皇时。出为师号金阙帝君。当开皇元年。授下三皇洞神经一千二部。以太平之道化人。其时人寿一万八千岁。夫洞真洞玄洞神名一十二部。合为三十六部尊经也)。

  辩曰。夫仲尼入梦。十翼之道始宣。伯阳过关。二篇之教方阐。有名为万物之始。无名为天地之先。混徼妙而同玄。惊宠辱而一致。谷神不死久视长生。挫锐解纷谦卑自牧。此老氏之旨也。自余教典皆是伪书。制杂凡流唯尚夸竞。采傍佛语换体安名。拟三界而立三清。仿三大而立三洞。虚劳纸墨妄饰词章。何以知之。汉时张道陵造灵宝经。王褒造洞玄经。吴时葛孝先造上清经。晋时王浮造明威化胡经。鲍静造三皇经。后改为三清经。齐朝陈显明造六十四真步虚经。梁时陶弘景造太清经。隋末辅惠祥。改涅槃为长安经。后事发被诛。案甄鸾笑道论云。道家妄注诸子三百五十卷为道经。如此详之代代穿凿人人妄制。采他佛教标为道书或言仙洞飞来。或言老子再现。群贤不睹道士独传。欺誷时君不惧朝宪。故唐琳法师对太宗皇帝云。若据肃温众议道家。止有道德二篇。如依汉明校量。便应七百余卷。约葛洪神仙之说。仅有一千。准修静所上目中。过前九十。又检玄都目录。转复弥多。既其先后不同。显知后人妄制增加卷轴添足篇章。依傍佛经改头换尾。或道名山自出。时唱仙洞飞来。何乃黄领独知英贤罕睹。典籍不记书史无闻。试问当今道士推勘后出之经。为是老子别陈。为是天尊更说。若也更说。应有时方师资传授。为是何年何月何邦何代。若在天上而说。何人传来。若在西域而谈。何人译出。如其有据。容可流行。若也妄言。理须焚剪。又汉晋之代。僧号道士。寇谦得志僭冒其名。今称法师愈为矫节。法师之号源出佛经。万卷百家本无此语。且为法之师。名为法师。法即是师。名为法师。名义不知。妄安己号。按贤劫已来有三佛出。初佛出时人寿六万岁第二佛。出时人寿四万。第三佛出人寿二师。何乃改彼三皇妄合其数。又前说云。上三气中而有龙汉赤明之号。是时五运尚无但唯一气。何有三皇之君人寿之数乎。上古纵有五龙四姓九头十纪。亦无三皇建立年号。试问龙汉赤明上皇开皇。谁君之年乎。若言有说。史无明文。若言无凭。不可妄立。扣其两端竟无一是。又伏羲之前文字未有。何出三洞灵宝之篇乎。又十二部名源出佛经。一代时教类分十二。道家名义不知何以妄着己典。如琢美玉拟作甑窐。虽受劬劳智者见诮。

  游化九天伪(第二十六化云。是时老君于青羊大会引尹喜冉。冉升空。初至第一天。见波利天帝。乘九光元灵之舆。荫七元交晨之盖。建五色摄魔之节。金童玉女九万人。迎老君八大有宫。请问自然之道。如是摩夷天。楚宝天。化应天。不侨乐天。兜率天。烦延天。禅善天。郁单天。随处天。帝皆与金童玉女迎礼老君。请问法要。所到天宫皆设琼浆碧醴丹液流薰兰羞八彻灵芝珍果)。

  辩曰。昔我世尊初成正觉。不离道树而赴诸天。一身不分而遍一切。即多而一。即一而多。犹如素月流空影分众水。大块噫气万窍怒号。大小咸周远近无隔。无心顿应岂正九天伯阳周之枉史。尹喜函谷关吏。身居下位。难等圣踪。欲为己德。盖善窃者。鬼神不觉。既为人知。非是好手。离欲而获轻举。禅定而感神通。老子既无此功。何以升于天上。昔列子居郑。夫妻相忘。耳目不分。翛然绝寄。心凝形释。骨肉都融。然后身如槁叶随风。东西万里须臾过旬乃返。而庄周讥云。犹有所待。矧乎老耳。不绝妻子(老子之子名宗。宗之子名注。注之子名官。侍魏文侯)未逮形亡。过关乘薄軬之车。道经垂有身之患。讵可升天履雾驾鹤乘云。拟效牟尼衿为己胜。且布施而获大福。持戒而感生天。汝尚不达斯由。安能为天说法。欲界本六。妄云九天。初禅纯男。而云玉女。勾虚阐伪巧说多端。且初禅已上。禅悦为食。定生喜乐舍念清净何用琼浆碧醴兰羞八彻乎。将谓天上同于人间。羡酒肉之薰膻。争鱼臭之秽浊。喻乎鸱耽死鼠为便凤凰同。餐盗听不真。请杜臆说。穷乡多怪。曲学多辩。斯言信乎。

  偷佛经教伪(第三十化云。胡王见太上徒众甚多。疑是鬼魅。遂积薪焚之。火起冲天。老君放身光明。火中为王说金光明经。胡王益怒。纳之大镬煮之三日。老君镬汤之中。莲华涌出。坐莲花上。说涅槃经。又云。老君使尹喜为佛。与胡王为师忏悔三业六根五逆十恶。乃说五戒十善。并四十二章经)。

  辩曰。夫麒麟斗而日月亏。鲸鲵死而彗星现。铜山崩而洛钟应。葭灰缺而月晕残。盖感应之道交。故机教之相扣。人心渴仰法雨芳菲。沃彼情尘开他蒙昧。故孔子曰。不愤不启。不悱不发。此明待问而说也。况乎圣人设教权变多方。岂使他人起怒自授焚溺。全无㥏[怡-台+墨]。强与他言。岂知虚往实归之道哉剜刻字样巧合经名。既坐火焰上说金光明经。坐莲华上说莲花经。则道德二篇坐于道路而说。洞玄三部元在水洞而谈。此既不然。彼云何尔。且金光明性相通显。法华经破权归实。涅槃经明佛性真常。四十二章群经集出。不穷根蒂盗听妄谈。唯口起羞出何容易。难惑上智只诳下愚。又上经既是老子所陈。道士应宜依而学。佛何乃合气为道。专讽灵宝。试问三经文明何义。道藏既不收摄。道士又不通明。偷大圣之至诠。为老君之极唱。正符涅槃盗牛之喻。又同瞽者误入金穴。虽得其宝未知何用。又曰。忏悔三业至年月斋法。若如是者。道士应通。且问忏悔是何语言。今此忏悔。为事忏耶。为理忏耶。约功德门而灭罪邪。约逆生死心而灭罪耶能忏之心宜有几种。所忏之罪何处安排。忏悔二字由尚罕知。则三业六根五逆十恶。戒善之轨年月斋名。决不晓达。若是老子所说。道士应合备。知既然一字不通。显知偷佛妄说。此同窃贼人物被主认着。犹不招承。更生拒辩。焚经火板方乃惭惶。君子悔前不至如此。

  老君结气成字伪(第八化云。圣纪经云。太上老君。昔于龙汉之年。从元始天尊。于中央大福堂国。说灵宝十部妙经。出法度人。又于东极大浮?国。出法度人。以紫笔书于空青之林。又于南极禅离界。以火炼真文莹发字形。又于西极卫罗世界。北极郁单国。皆出法度人。老君以五方真气之精。结成宝字。大方一丈。八角垂芒。为云篆之形。飞鸟之状。以立文章。又云。坟典自我而出。经籍自我而生也)。

  辩曰。夫子字之聿兴爰从上古。伏羲氏之王天下也。始画八卦。造书契以代结绳之政。由是文藉生焉。故有青丘紫府三皇刻石之文。绿检黄绳六甲灵蜚之字。后有苍颉。因而增制。大篆起于史籀。小篆兴于李斯。飞白创于蔡邕。隶书变于程邈。秦书八体汉字六形。瘦金堆金。垂云垂露。蔡叶龙爪颜体坡书。皆循古以增成。近代而改制。岂假真气而结。何关老子传来。掩窃他能炫卖己德。放舒白眼不耻清流。上云。龙汉起于初气。何有老子而生。既言紫笔书林。乃在蒙恬之后。牵今引古。欺我贤人。孔安国云。伏羲神农黄帝之书。谓之三坟。言大道也。少昊颛顼高辛唐虞之书谓之五典。言常道也。易则三圣方定诗则群英之言。春秋孔子所修。礼则周公所定。尔雅周公所纂。国语丘明所述。刘熙释名。许慎说字。埤苍广雅。桂苑珠丛。顾野王之玉篇。陆法言之切韵。各有源系。非干老聃而言坟典自我而出经籍自我而主。荒唐谬谈侮弄明哲亦犹相如上林说。卢橘夏熟。杨雄甘泉赋。玉树冬菁。听其言则洋洋美耳。究其事则杳杳空传。矧乎国名虚设。妄采他书。大福堂。改大堂而取名。东浮黎。彷扶桑而立号。南禅黎。革重黎而标字。西卫罗。窃于迦维罗卫。北方全收郁单越名。十洲所不收。神异所不摄。地理无所纪。括地绝形名。空阐五车了无一实。偷铃掩耳斯之谓与。

  佛祖历代通载卷第二十一

大正藏第 49 册 No. 2036 佛祖历代通载

佛祖历代通载卷第二十二

  嘉兴路大中祥符禅寺住持华亭念常集

  周文王时为柱下史伪第九(第十九化云。周文王时老君为变邑子。时帝纣荒虐天下涂炭。乃乘飞飙之轮。风伯前驱。彭祖骖乘。降坡山之阳。西伯揖之拜为守藏吏。武王克商。迁为柱下史。作赤精经。教文王以仁义之道。作璇玑经。以授周公。成王康王之代。世为性下史。昭王时。有黑气之祥。老君以八天隐文授昭王王。不用后成胶舟之难)辨曰。盖闻九头五龙之纪。重瞳四乳之书。金秦火汉之文。黄魏白晋之典。不闻文王师于老子。璇玑训于周公。但云文王师于太公。武王师于姬旦。群书具载。先儒盛谈。何乃违戾百家别张毛目。蓬心瞽唱睐目生灵。夫欲圣人者。宜务其实。无稽之谈自招世诮。案史记别传。老子生于定王之世。与孔子相接。何乃妄为西伯之时乎。既是圣人。见纣荒淫宜尽力规谏匡其不逮。而乃高乘飞轮弃而远遁。为忠臣者。固若是乎。昔日过关。雇徐甲而为御乘薄軬之车今则乘飞飙轮。风伯前驱。彭祖骖乘。何自高之不经乎。况彭祖此时已殁。风伯不肯前驱。文王自公刘以来。世积仁孝。美化行乎江汉。仁慈及于行苇。何待赤精之教哉。周公制礼作乐。代临天下。设金縢而表誓。制周礼而流规。何用璇玑之教乎。昭王时号明君。史无黑气之变。妄改白虹之兆。而云黑气之言。授以隐文。又成孟浪之说。前云。老君为九天教主金阙帝君。建七曜之冠。披九色之帔。乘八景玉舆。驾五色神龙金阙之中坐玉帐之内仙童左奉玉女右陪。万圣拥随千灵翊从。老子既有如此高贵之位。而不肯居。返就守藏之职。屈身为臣。侍君之傍立柱之下。晨趋暮拜端笏搢绅。舍乔木之高迁。投幽谷之贱地。翻上倒下以何谬哉。燮邑之号。周书之所不载金阙帝君。爰从道士虚张。有名无实孰肯传信栽。风求影种电寻根。此之谓与。若以昭王不信故。感胶舡之难者。奏皇求仙亲临海上。凌波涉险冀遇神仙。虚想安期之名。不睹羡门之面。沙丘道死。鲍臭薰人。汉武好仙。身着羽人之衣。口饮天表之露。纵栾大之诡说。信少。君之诈术。而身入茂陵竟无一补。魏太武。任寇谦之说。建静轮天宫。费竭人劳终感疠疾。用武帝。口服丹药身服黄衣。热发晋阳失音而死。唐武宗。师赵归真饵金丹药。会昌不满早致崩亡。近宋上皇。信林灵素游月宫。诵太极之章佩驱邪之剑而亡国破家身死东韩。此之数君。皆倾诚一志望享千年。而遘患弥留竟无一验。讥以胶船之难。不亦妄求人过乎。幸人有灾。君子不为也。

  前后老君降生不同伪第十(第一化云。老子生在五运之前。第二化中。老子生在三气之中。第六化云。老君姓李。讳弘元曜灵。字光明。以上和七年岁在庚辰九月三日甲子卯。时始育于北玄玉国天冈灵镜山李谷之间。玄灵圣母既诞之夕。有三日出于东方。九龙吐水月妃散花。日童扬彩。年五岁体道凝真。二十而有金姿玉颜。弃家离亲超迎风尘。后感元始下教。授以郁仪太章太洞真经。紫微天帝玉清君。以琼舆下迎。赐丹玺符书。为上清金阙后圣帝君。掌握十天河海神仙。第十一化云。老君以清浊元年七月一日。托玄神玉精。降太元玉女。千三百年。号无上老子。一号大千法王。第十二化云。老君以清汉元年。寄九天飞玄玉女。八十一年。号高上老子。第十三化云。老君以清汉元年甲午九月九日。降元素玉女。七十三年。号九灵老子。第十化云。老子以殷十八王阳甲庚寅岁建午月。入于玄妙玉女口中。八十一年至武丁九年庚寅岁一月十五日。圣母剖左腋攀李树而生。生即行九步。步生莲花。九龙吐水。具七十二相八十一好。左手指天右手指地。曰天上天下唯道独尊。我当阐扬无上道法。普度一切。又云。李灵飞。得修生之道真。妻天水尹氏于濑乡昼寝见太上从天而下。化为玄铢。吞而有娠。八十一年生而皓首。曰老子。生李树下。苗李为姓)。

  辨曰。夫星流贯昴。实标文命之祥。电绕枢星。是显轩皇之庆。虹流华渚少昊于是膺期。星冠月轮。颛顼以之应瑞。赤龙䁆瞹言旌帝尧。云屯郁蒸实徴汉祖。此则圣人神异谱牒具详。未闻老子初生三日共出九步周行。月妃散花日童扬彩之事。且星陨如雨。日有蚀之。春秋书之。以为异事李耳若有徴瑞。孔子何以不记乎。且鲁阳挥戈而返日。淮南子有。景公善言。而退荧(刘向新文)贰师拔剑而泉流(前汉书中)耿恭拜井而水出(后汉书中)于有奇相书为美谈。老既无文。事必虚唱。倚他大圣取为神奇。夫圣人现相虽有多途。托化诞生事无两体。世尊百亿化身大千世界一时顿显。化缘事讫便入涅槃老子随代降生。以何大谬乎。本是李耳妄。改其讳李伯阳而云光明。隐其本名而加美号。史记真文一词不录。道书伪说百种妆填。前之两化。说在太易之前。后之十重。纪在伏羲之后。寻虚摭伪诳惑后人。前说五岁凝真二十入道。后则八十一岁生而皓首。自语矛循。何待他攻。亳州濑乡实而不认。北玄玉国虚而妄传。聃耳蓬头。谬说心十二相。野合怀胎。谄云周行九步。采他释瑞而为老奇。将此薰莸乱彼兰芷。北玄玉国。山海之所不纪。天冈李谷。池里之所匪详。王俭百家(太尉王俭有百家谱)弗闻玉女之名。何姓氏苑。罕说玄妙之族。案道士贾善翔高道传序云。伯阳起迹于姬周。既云起迹于姬周。则是老子不在商也。明知阳甲之时。本无李耳。衰周之际。始见老聃(胡曾云。七雄戈戟乱如麻。四海无人得坐家。老氏却思天竺住。便将徐甲过流沙。斯则周末时人明矣)避乱入秦。死葬槐里。秦佚吊之三号而出斯良证也。何更疑哉。史记本传。莫知所终。化胡浪语云。过流沙。将如来降诞之祯。合老子过关之气。汝虽巧会伪说孰凭。案炖煌实录云。周桓王二十九年。幸闲豫庭。与群臣对论古今。王曰。老聃父何如人也。天水太守索绥对曰。老聃父姓韩名虔字元卑。癃跛下贱胎则无耳。一目不明孤单乞贷。年六十二无妻。与邻人益寿氏宅上牧猪老婢子曰精敷。野合怀胎。八十一年而生。老子生时皓首。故曰老君。此本实迹蔽而不传。偷窃他能欲张老圣。家有弊帚享之千金。斯言信与。

  三番作佛伪第十一(第三十四化云。老君告胡王曰。使我弟子为佛。汝当师之。即使尹喜变身为佛。与胡人为师。令作桑门授以浮图之法。说四十二章经。又云。老君至舍卫国。自化作佛坐七宝座。身长百千万丈。遍满虚空。又云老君将欲再整释教。以周庄王九年。乃于梵天命烦陀王老君弟子。乘月精托阴天竺摩耶夫人胎。至十年四月八日右胁降生。后入雪山修行六年。道成类佛陀众。号末牟尼。至匡王四年解化。太上命升贾奕天。为善惠仙人)。

  辩曰。夫根深果茂。源远流长。虎啸风生。龙吟雾起。圣人利见皆有深源。昔植善因今感妙果。我佛世尊三无数劫积行累功。六度无舍而求菩提。弃身命如恒河沙。捐国城如微尘数。庄严世界诱掖群生。然后应然灯记。补迦叶位。下生中印托化王宫。七步周行指天地而犹贵。三十二相映日月而争辉。四王捧足出尘寰。六年行满而成道。现身百亿国土。说法四十九年。播声教于人天。摧外道于双树。化缘事毕却返无为。应物适时如是示现。何待老子始化尹喜变身。掩他神功矜为己胜。佛生周昭之代。老降定王之朝。世隔一十七帝。年经三百余祀。化已满于天下。教已满于龙宫。家仰仁慈之风。国遵释氏之范。岂假李耳重整烦陀再现。援前着后谄诳庸愚。昔日过关。雇徐甲而为从。奚有天人侍卫乎。乘鹿柴车。何有七宝之座乎。广颡聃耳。焉有万丈之身乎。狡佞不经欺贤誷圣。鲲化为鹏。盖缘自变。蛇蜕为雉。匪假他功。此皆物理自然。阴阳感召。待时而发。非他使然。老子自是凡人。身为臣子。何能别生神圣更使尹喜作佛。昧自心灵瞎他眼目。悖礼慢圣殃报拔舌。善惠仙人将登八地。遇然灯佛受无生记。此乃世尊往昔之号。既然成佛功成果满。化缘事毕入于涅槃。迁神常乐之乡。永入无为之境。岂可作佛事毕更作善惠仙人。将后着前一何错乱。妄窃不真坏人视听。夫上天虽乐终是轮回。不免三灾之殃。难逃五衰之苦。圣人超出生死苦乐两忘。高超三界之津独步六尘之表。何返归天上却入嚣尘。杂污我圣人。欺谩我大觉。此同弃天子之尊严。慕厮养之贱役。舍华堂之广厦。悦蔀屋之茅檐。汝欣贾奕之荣。我耻粪土之辱。隋大臣楚国公杨素行经楼观。见壁间画像问道士曰。此何图也。道士对曰。老子化胡成佛图。素曰。承闻老子化胡。胡人不受。老子变身作佛。胡人方受。是则佛能化胡。道不能化。何言老子化胡也。道士不能加答。善哉杨素之言。此通人之论云。若胡人不先知有佛。讵肯受佛之化乎。以此考之。则印土先有佛矣。而言尹喜作佛老子始变。何欺吾门之深。乎(楼观尹喜故宅在开之南。今道士居之仍在)。

  冒名僭圣伪十二(第四十八化云。商太宰问夫子曰。夫子圣人欤。孔子对曰。圣则丘何敢焉。然则丘博学多识者也。太宰曰。三王圣者欤。孔子曰三王善任智勇者。圣则丘不知。太宰曰。五帝圣者欤。孔子曰。五帝善任二义者。圣则丘弗知。太宰曰。三皇圣者欤。孔子曰。三皇善任因时者。圣则丘弗知。太宰大骇曰。然则孰者为圣。孔子动容有问。曰丘闻西方之人有圣者焉。不治而不乱。不言而自信。不化而自行。荡荡乎民无能名焉。丘疑其为圣人也。史志经云。孔子在鲁。老子在周。以鲁望周之洛阳。故在西方。盖指老子为西方圣人也。孔子问礼之时。先有犹龙之叹。故此指老子也)。

  辩曰。夫自炫自媒。妇女之丑行。不矜不伐。圣人之深能。是以舜美禹功。嘉有勋而弗竞。孔称孟反(孟之反)犹退厚而居薄。由是美誉播于千秋。谦放光辉于四海。上之所引。具见列子仲尼篇中。古今通论。以谓此夫子推佛为西方大圣人之语也(唐琳法师对太宗之表。张丞相作护法论。皆引此文佛西方圣人也)未闻老子在周孔子在鲁故指老子为西方圣人。窃名冒圣欺我何多。僭圣人者不仁。言乖理者非智。且道源之祖肇起黄帝。非干老子。老子师容成子演五千文纵然说圣不能赶于轩辕。既三皇五帝孔子不推为圣。返指老子而为圣人。不亦过乎。盖我世尊功圆万行果证十身。流光遍于刹尘。分身应于沙界。不可以人事测。不可以处所求。实三界之大师。是四生之慈父。寰中独步。为王中之法王。出世独尊。为圣中之大圣。故能高拱觉场威行万国。纵使周公之制礼作乐。孔子之述易删诗。卜偃之文章。端木之言语马迁之辩博。葛洪之该通。辅嗣之玄谈。左慈之神化。并驱驰于域内。言未涉于大方。可为善世之高流。难作出尘之圣者。案天竺圣方群贤所聚。过去诸佛共生于彼。范晔汉书云(后汉西域传史论文)其土则殷乎中土。玉烛和畅灵圣之所降集。贤懿之所挺生。故古昔贤能时有往者。老子西升经云。闻道竺干(今改为开道竺干)有古皇先生。善入无为。不始不终。永存绵绵。是以西行。又古本化胡经云。我生何以晚。泥洹一何早。不见释迦文。心中空懊恼。此则老子自指于佛。为西方圣人也。又黄帝梦游华胥之国。其国在弇州之西。王邵注云。此指西方天竺也。周穆王时。闻西方有大圣人出世。心甚惧之。乃使造父乘骅骝八骏。西上昆仑观日所没以厌其气又西极有化人来。能返天易地。圣力无方。千变万化。不可穷极。穆王敬之若神。筑中天台以居之。化人引穆王神游。斯须之间已如数载。又穆王五十二年如来示灭。西方有白虹十二道。南北通贯连夜不灭。王问太史扈多。是何祥也。扈多对曰西方有大圣人。衰相现尔穆王喜曰。朕常惧于彼。今无忧矣。此则竺干胜方圣人居彼。故得贤王西求化人东来也。又张骞奉使。西穷河源至于大夏。闻雪山南有身毒国。其人奉浮图。不杀罚。乘象而战。身毒即今印度也。此则仁慈之风详于汉史明也。上之所引。咸指印度以为西方。佛生于彼。故指佛为西方圣人。岂说洛阳以为西方老子为圣人也。又云。孔子先有犹龙之叹。故此圣德指老子者。意欲将孔子一期问礼之事。便为老子弟子。孔子曰。吾无常师。主善为师。三人行必有我师焉。故学琴于师襄。问乐于苌弘。问官于郯子。入太庙每事问。有问稼曰吾不如老农。有问圃曰吾不如老圃。此明孔子虚怀纳善汲汲于道尔。岂有一事便为师焉。盖当时老子。为守藏吏。掌周公之礼典。故孔子问之若以问礼便为孔子之师。则老农老圃亦孔子之师哉。必不然矣。沽名炫世求为人师。君子不为也。

  合气为道伪十三(第一十三化云老子以周昭王二十三年七月十二日。至函关。尹喜既见邀归本第。说道德经二篇五千余言。尹喜扣头曰。愿授其要。老君曰。善。乃为解道德之要曰。道者。谓泥桓。泥桓者。天德也。理在人头中。紫气下降下至丹田。名堵。谓脾也。脾者。中黄太一也。黄气徘恛理中宫。万物之母者。谓丹田也。丹田玄牝也。居下元中。一夜之时。一气下降周旋三宫。同出而异名。谓精也。一曰精。二曰汗。三曰血。四曰液。故曰异名。玄之又玄者。谓左右汗也。众妙之门道可道者。谓朝食美也。非常道者。谓暮为屎。此依张道陵解。道陵如此说也。有无相生。谓口与腹也。难易相成。谓精与气也。此老子授尹真节要也。又授尹喜神丹经金液经及八炼九还丹伏火之诀。其方云○金液还丹仙华流。高飞云翔登天丘。赤黄之气成须臾。当得雌雄分乱珠。可以腾变致行厨。灵童玉女我为夫。出入无间天同符。真精凝霜善沉浮。汝其珍敬必来游。又授九丹之名。及歌曰○圆三五寸一分。口四八两寸唇。长二尺厚薄均。腹三齐坐垂温。阴在上阳下奔。首尾武中间文。始七十终三旬。内二百善调匀。阴火白黄芽钦。两凑聚辅翼人。子处宫得安存。去来游不出门)。

  辨曰。夫道贵清净。德尚无为。恬憺内持谦卑自牧。不依此道别唱多端。唯以行气运功而为修养。失道德之淳粹。乖自然之妙门。虚设巧言妄加穿凿。保丹田为至道。守两肾为重玄。鄙秽粗浮诳諕闾里。王乔羡门之辈非好此方。白石赤松之流不依此道。丹经炼诀不见延年。服饵餐芝罕曾久视。周武服丹至日哑。唐武服丹而早亡。误他多少贤良。不守乐天之日。既道德真诀。理极于此则道藏余文不足贵也。今之道士更骋浅术。或有扶鸾而乱书。只贪夜饮。或有驱邪而断鬼。诳人除凶。或有拘环墙而内守。此谓坐驰。或有惜言语而不行。此谓痴默。或有熊经而鸟引拟彭祖而齐肩。或有饮气而息神效龟鹤而老寿。或有运精而上脑门挽河车。或固丹田而内封谓之保养或有合气而为道老子聚麀。或有夺精而采神男女混杂。扣齿谓之天鼓。咽津谓之醴泉。呼男根为金菜。只图强劲。呼女窍为玉户。潜隐丑名。呼童女为真人。呼交构为龙虎。婴儿姹女铅汞丹炉。故曰开命门抱真人。婴儿回龙虎戏。三五七九天罗地网。故张道陵黄书云。男女有和合之法。三五七九交接之道。其通真诀在于丹田。丹田者玉门也。唯以禁忌为急。不许泄于道路。道路者屎孔也。又道家内朝律云。礼法男女至朔望日。朝师入私房。诣师立功德。阴阳并进。日夜六时当立功德。不得失内侍之序。不得贪外道失中御之道。不得抄前排后失次第之序。亦不得嫌丑爱美。又云。朔望之际。侍师私房。情意相亲男女交接。使四目两鼻上下相当。两口两舌彼此相对。阴阳既接精气遂通。故老子云。我师教我金丹经。使我专心养玉茎。三五七九还阴精。呼吸玉池入玄冥。行道平等升太清。此等歌诀义皆如是。将斯㛱媟以为真修。不思归根复命之言。维行合气鄙薄之术。以此求道枉陷人伦。以此超升终身叵得。以斯灭罪罪不可亡。以斯消灾灾不可退。以斯求福福不可生。以斯出家家不可出。何异蒸砂作饭。虚受劬劳。镜里真寻。终无所获。呜呼弃骊珠而拾砾。斡忧鼎而羡糠。自误误他死沉苦海。哀哉哀哉。

  (二) 偷佛神化伪十四(第四十二化。老子入摩竭国。现希有相。以化其王。立浮图教。名清净佛。号末摩尼。至舍卫国。自化作神。从天而降。天人侍卫。现身长百千万丈。又至罽宾。降胡王及王子。火不能烧。镬不能煮。水不能溺。胡兵百万弓矢剑戟。一时摧落。飞电八冲。声如霹雳。人马惊仆。化郭先生空中头赞。又至条支国。手擎大山。至拘萨罗。降伏九十六种外道。至迦夷罗国。左手把日右手把月。藏于头中。天地冥暗。山飞石裂。海水逆流。山川空行。又至于阗。于南渠山示故胡王。令尹喜化作金人。身长丈六。项佩圆光。足踏莲华。从空而下。拜礼老君。谓胡王曰。此君弟子与汝为师。又留神钵令得法味。又于毗摩城地变金色。放九色神光遍照尘沙国。土即有赤灵真人中黄丈人太一真君九宫六丁八卦神君青龙白虎散花玉女。浮云而至。老君坐七宝座。烧百合香。奏钧天乐。又有八十余国诸王妃后。皆来听法。留尹喜作佛。及钵于毗摩城却升天去。老君又于葱岭降大毒龙。遍历五天。于耆阇山独木树下。化玉座与王说浮图。度桑门二千五百人。受以戒律。又六十六化云。于阗国毗摩城伽蓝。是老君化胡成佛之处。中有石幢刻记其事云。东方圣人号老君来化我国。下引入学上议证其事迹)。

  辨曰。案后汉西域传三国志魏隋书西域志(图六十卷。志四十卷。合一百卷成西域志)并纪西天五印。有佛圣迹。或幢或柱。咸勒其事。不说老君曾留名字。初张骞西来。始传浮图之号。至于今代。国使往还无虑百人。并不见老君西化之说古谷皇帝西征尽海所到之地。唯有佛僧。行近西北海。有一国土。城中佛塔森然若林。彼国君王唯是和上。又唐王玄策奉使西行。至摩竭陀国。于耆阇崛山及佛成道处。咸述碑铭。赞佛圣化。未闻说有老君之事(上之铭赞在王玄策传中)又湛然居士扈从太祖。西征于阗及可弗叉国。越天山过雪岭。风化具详。亦未知有老子之事。即今煦烈大王皇帝亲弟镇守西域。不寻思干西南雪山之西使命往还来往不绝。除亲咨询老化。并云无闻。则老子神异道书伪出。既非通论。何足信哉○钦奉。

  (三) 圣旨禁断道藏伪经下项(见者便宜收取)。

  化胡经(王浮撰) 犹龙传 圣纪经 西升经 出塞经 九天经 赤书经 上清经 南斗经 玉纬经 纪胜赋 辨仙论(梁?) 龁邪论 三破论(齐人张融假托他姓) 明真辩伪论(吴筠) 太上实录 十山论 青阳宫记 玄九内传 帝王师录 三天列记 十异九迷论(傅奕吕玄卿) 历代应现图 佛道先后论 钦道明证论(唐员半千) 辅正除邪论(吴筠) 辟邪归正论(杜光庭) 十二虚无经 藏天隐月经 赤画度命经 楼观先生内传 谤道释经(林灵素杜光庭撰造破大藏经) 三教根源图(金天长观李大方撰) 历代帝王崇道记 高上老子内传 灵宝二十四生经 混元生三清经 五公问虚无经 混元皇帝实录

  (四) 圣旨就大都大悯忠寺。焚烧道藏伪经。除道德经外。尽行烧毁。遂命大都报恩禅寺林泉伦长老下火。谢恩毕拈香云。佛心天子悯众生。恐堕三途邪见坑。个里了无偏党处。就中朱紫要分明。所以道圣鉴无私天机莫测。既来颂德。敢不酬恩。此香端为祝延。

  大元世主当今皇帝。圣躬万岁万岁万万岁。伏愿。金轮与法轮同转。福越三祇。舜日共佛日齐明。寿延亿劫。次举火云。忆昔当年明帝。时曾凭烈焰辨妍媸。大元天子续洪范。显正摧邪谁不知。嗟乎道教阴蠹佛书。自古至今造讹捏伪。盗窃释经言句。图谋贝叶题名。谤毁如来赃诬先圣。丑辞恶语何可言哉。无蒂狂谈实难遍举。始自张陵杜撰。不遵老氏玄言。谬作醮书兼集灵宝。诈道从空而得。妄言太上亲传。用三张鬼法。以诳惑愚夫。设五运神符。而魇奸匹妇。以此观之。葛孝先徒搜要妙。陶洪景谩述浮辞。杜光庭白拈巧偷。劫贼无异。陆修静外好里弱。说客何殊。若非吃苦不甘。争肯说长道短。鲍静被诛犹可。王浮招报非轻。傅奕姜斌不堪齿录。张生焦辈何足言论。寇谦之口舌澜翻。损他利己。林灵素机谋谄诈败。国亡家。毁人祖兮。定遭一时之辱。灭贤良兮必招三世之殃。因果无差报应有准。呜呼悲法琳不遇而遭贬。嗟道世虽再而难为。致令释子伤心。幸得皇天开眼。恭惟。我大元世主圣明皇帝陛下。辟邪归正。去伪存真。恐众生永堕迷津。令万姓咸登觉路。雪冤已竟。感谢皇恩。粉骨碎身莫能酬报。遂以火炬打一圆相云。诸仁者。只如三洞灵文。还能证此火光三昧也无。若也于斯会得。家有北斗经。枉教人口不安宁。其或未然。从此灰飞烟灭后。任伊到处觅天尊。急着眼看。至元十八年十月二十日。大都报恩禅寺林泉长老。从伦奉敕下火。

  (五) ○对道士持论师德一十七名。

  燕京

  圆福寺长老从超  奉福寺长老德亨

  药师院长老从伦  法宝寺长老圆胤

  资圣寺统摄至温  大名府长老明津

  蓟州

  甘泉山长老本琏  上方寺长老道云

  滦州 开觉寺长老祥迈

  北京 传教寺讲主了询

  大名府 法华寺讲主庆规

  龙门县 抗讲主行育

  大都 延寿寺主道寿 仰山寺律主相睿 资福寺讲主善朗

  绛州 唯识讲主祖圭 蜀川讲主元一(余如本论)

  (丁亥) 闰二月。诏行至元钞。以一准中统之五。

  (戊子) 正月二十一日大赦。

  (六) 至元二十五年正月十九日。江淮释教都总统杨辇真迦。集江南禅教朝觐登对宣上竺出班。圣旨问。讲何经。答云。法华经。次问。仙林讲何经。奏云。百法论。即就退位而立。引问径山云峰和上云。禅以何为宗。奏对云。禅也者净智妙圆体本空寂(泉总统译云再说)复奏云。非见闻觉知之所可知。非思量分别之所能解。又传圣旨令更说。复奏云。禅之为宗。西天四七唐土二三。自迦叶付之阿难。阿难传之商那和修。商那和修传之优波鞠多。由是展转而至二十八祖菩提达磨。菩提达磨即东土之初祖也。祖得法后大破六宗之邪。望东震旦国有大乘根气。航海而来。见梁皇一语不契。遂折芦渡江。至少林山中面壁九年。得二祖神光断臂立雪。祖问。当何所求。光云。我心未宁。乞师安心。祖云。将心来与汝安。光云。觅心了不可得。祖云。与汝安心竟。光得传心法。后传之三祖。三祖传之四祖。四祖传之五祖。五祖本一栽松道者。四祖云。汝已年老。可再来。吾当忍死以待。五祖遂至浊港江头。见一女问投宿。而受孕托生。谓之黄梅无姓儿。既而传法于五祖。黄梅法席七百高僧。独神秀上座为上首。祖以传衣法时至。令各述一偈。秀即书壁间云。身是菩提树。心如明镜台。时时常拂拭。莫待惹尘埃。五祖云。此偈亦未见性。盖其尚滞名相。未脱知解。正在学地。传圣旨云。再举一遍复举毕。又奏云。卢行者时在碓坊。为众负舂。五祖已知其素有悟门。卢行者本不识字。遂倩人书一偈于壁间秀师所书偈侧云。菩提本无树。明镜亦非台。本来无一物。何处惹尘埃。乃开析云。老卢此偈至本来无一物处。即是空诸所有彻法源底。五祖即于夜半密付其衣法。卢得衣钵宵遁。至大庾岭头。为明上座追及。卢即置衣钵于石上云。不可以力争。明乃尽其神力。钵不能举。明乃云。本为法来。非为衣也。祖云。不思善不思恶。正恁么时如何是明上座本来面目。当下大悟。秀归河北。自称六祖。然而知解未亡。犹滞名相。故流于相宗。是以教盛西北。能受正传于曹溪。是以禅盛东南。谓之南能北秀。此教禅所由分也。自是曹溪传之南岳怀让让本观音大士分身。让传之马祖。谓之马驹踏杀天下人。马祖传之百丈。于侍立举挂拂处。亲遭一喝。当下悟去。直得三日耳聋。百丈对黄檗。举此一喝。黄檗不觉吐舌。亦于言下洞明此喝之旨。后临济至于黄檗。三度问佛法大意。三遭六十痛棒。后于大愚席下举前话云。过在什么处。愚云。黄檗得与么老婆心切相为。更觅过在。济大悟。遂于大愚肋下筑三拳。愚云。汝师黄檗。非干我事。临济归黄檗。便与三掌。自是流通此喝。谓之临济入门便喝。此喝之所由生也。所谓德山棒者。即周金刚(泉总统又传又)圣旨云。如何是周金刚。奏云德山本姓周。为金刚经座主。满车载疏钞游南方。直欲搂破魔子窟宅。当恁么时。甚生气概。于途中遇卖油糍婆子。买油糍点心。婆云。汝是讲金刚经座主。经中有一段义。若答得白吃油糍不要钱遂问。过去心不可得。现在心不可得。未来心不可得。三心中点那个心。座主无对。古云。假饶讲得千经论。一句临机下口难。信知不能彻法源底。则满车之疏皆长语也。后见龙潭。于侍立次。遇夜深辞去。见外面黑。潭遂度纸烛与之。德山方接得。潭便吹灭。当下大悟。次日示众云。穷诸玄辩。若一毫置于太虚。竭世枢机。似一滴投于巨壑。自是据条白棒。佛来也打。祖来也打。此无他。恐后人滞于名相。凡有所问。至支离处便与一棒。此棒之所由生也。所谓德山入门便棒。临济入门便喝。夫棒喝者。岂徒施也哉。奏至此。遂奏云。臣僧不敢多谈。恐渎圣听。传圣旨。但说。不要怕又非奸偷屠贩之事。遂进奏云。释迦牟尼世尊初生下时。周行七步目顾四方。一手指天一手指地云。天上天下唯我独尊。所谓独尊者。非为金轮王位之尊。所可尊者。我也。道也。法也。心也(正欲启奏云门大师一棒公案以为佛祖雪屈时灵隐长老净伏牵衣云勿举此话遂转语云)。四十九年三百余会。所说之法。无非观根逗教。如一雨普沾。三草二木。各随其根器之大小。而为之发机。末后云。始从鹿野苑终至跋提河。于是二中间未尝谈一字。既是四十九年说法。因甚么不谈一字。正恐后人滞于名相不离知解。所谓不谈一字者。炽然常说。以无说之说。是名真说。又于灵山会上百万众前。拈起一枝花。普示大众。独有迦叶破颜微笑。世尊云。吾有正法眼藏涅槃妙心。分付摩诃大迦叶。谓之教外别传。传此心也。印此法也。达磨西来不立文字。直指人心见性成佛。传此心也。印此法也。奉圣训垂问曰。云那讲主看他长老所说教外别传底。是耶非耶。上竺出对云。是是。又仙林出云。南方众生多是说谎。所以达磨西来不立文字。正恐伶俐的。说谎贪着语言文字。故有直指之语。又奉圣旨宣进。榻前同仙林赐坐谢恩毕。就坐。传圣旨云。持论。仙林云。始从鹿野苑终至跋提河。于是二中间未尝谈一字。既是不谈一字。五千余卷自何而来。答云。一代时教如标月指。了知所标毕竟非月。林云。汝禅宗得法有多少人。答云。从上佛祖天下老和上。尽恒河沙莫穷其数。林云。即今是谁。答云。当面蹉过。林云。在什么处。答云。含元殿上更觅长安。林无语。又传圣旨。令泉总。统。问那讲主问底。是甚言语。林答。问他禅宗得道多少人。他云。恒河沙数。又传圣旨。汝讲主家。莫看面皮。何得向远远说来。林遂问。如何是禅。答以手打一圆相。林云。何得动手动脚。答云。只这一圈子便透不过。说甚千经万论。林无语。又奉圣旨云。俺也知尔是上乘法。但得法底人。入水不溺。入火不烧。于热油锅中教坐。汝还敢么。答云。不敢奉圣旨。为甚不敢。奏云。此是神通三昧。我此法中无如是事。又传圣旨。如何都无输赢。林云。道不敢。便是输。遂斥林云。不妨会得好。林无语。乃体圣意。奏云。夫禅之与教本一体也。禅乃佛之心。教乃佛之语。因佛语而见佛心。譬之百川异流同归于海。到海则无异味。又如我万万岁皇帝。坐镇山河天下一统。四夷百蛮随方而至。必从顺成门外而入。到得黄金殿上。亲睹黄金面皮。方谓到家。若是教家只依语言文字。未达玄旨。犹是顺成门外人。又如禅家未得彻证未得顿悟。亦在顺成门外。谓之到家亦未可也。皇情大悦。遂以龙袖西拂。即谢恩下殿。奉御领。归寝殿赐食。◎

  (己丑) ◎正月抄数户计○庚寅九月日大赦。

  (辛卯) 五月二十三日诏改按察司曰肃政廉访司。

  (癸巳) 十月二十二日大赦。

  (七) 至元三十年。杭州径山云峰和上示寂。师名妙高。句之长溪人。父讳鼒家。世业儒。母阮。梦池上婴儿合爪坐莲华心手捧得之。觉而生师。因名梦池。神采秀彻。嗜书力学。尤耽释典。固请学出世法。父母以梦故不定夺。俾从吴中云梦泽公受具戒。师锐意求道。首参痴绝冲。冲曰。此儿语纚纚有绪。吾宗瑚琏也。寻又见无准于径山。准尤器爱。拟以侍职处。师叹曰。怀安败名。吾不遍参诸方不止也。遂之育王见偃溪。即请入侍室。掌职藏钥。一日溪举。譬如牛过窗棂。头角四蹄俱过了。因甚尾巴过不得。师划然有省。答曰。鲸吞海水尽。露出珊瑚枝。偃溪可之。会师迁南屏。携师与俱。寻住南兴大芦。遂为嫡嗣。迁保安江阴教忠霅川何山。云衲四来。三堂皆溢。蒋山虚次直指佥议无以易师。朝旨从之。历十有三载。众逾五百。德祐乙亥年。被兵革。军士有迫师求金者。师曰。此但有寺有僧。无金与汝。俄以刃拟师。师延颈曰。欲杀即杀。吾头非汝砺刀石。辞气雍容了无怖畏。军士感动掷刃去。丞相伯颜公见师加敬。舍牛百斋粮五百。寺赖以济。颜公又戒诸将。此老非常人比。宜异目待之。以故寺得无恙。至元庚辰。双径延请。师恳辞再三。乃前寺罹回禄。草创才什一。师悉力兴建。且捐衣盂自为僧堂众寮。不十年悉复旧观。戊子春。魔事忽作教徒谮毁禅宗。师闻之叹曰。此宗门大事。吾当忍死以争之。遂拉一二同列趋京。有旨大集教禅廷辨。上问禅以何为宗。师奏。净智妙圆体本空寂。非见闻觉知思虑分别所能到。宣问再三。师历举西天四七东土二三。达磨诸祖南能北秀。德山临济棒喝因缘。大抵教是佛语。禅是佛心。正法眼藏涅槃妙心。趣最上乘。孰过于禅。词指明辩余二千言。又宣进榻前与仙林。诸教徒返复论难。林问。禅宗得法几人。师云。从上佛祖天下老和上。尽恒河沙莫穷其数。林云。只这是谁。师云。含元殿上更觅长安。又问。如何是禅。师打一圆相。林不省。师曰。只这一圈透不过。说甚千经万论。林辞屈。上大说。众喙乃熄。禅宗按堵如初。陛辞南归。示众云。我本深藏岩窦。隐遁过时。不谓日照天临。难逃至化。又云。衲帔蒙头万事休。此时山僧都不会。径山轮奂甫备。延燎复尽。师谓众曰。吾负此山债耳。遂竭力再建。汇殿坡为池。他屋皆易置佳处。五年而成。癸巳六月初。小参训饬学者。十七日书偈而逝。师生于嘉定己卯二月十七日。寿七十五。腊五十九。葬于寺西之居顶庵。

  (甲午) 至元三十一年 上崩。

  (八) 世祖皇帝潜龙时。出征西国。好生为任。迷径遇僧。开途受记。由是光宅天下统御万邦。大弘密乘尊隆三宝。

  帝潜龙时。命忠书记。叩六丁之灵。求治国之道。出征江南。书记奏云。飞龙之时已至。可速回辕。上然之犹是富有天下。

  帝问帝师云。施食至少。何能普济无量幽冥。帝师云。佛法真言力。犹如饮马珠。

  帝迎旃檀瑞像归内宫。安奉万岁山仁智殿。为见世之宝。

  帝尝问帝师云。修寺建塔有何功德。帝师云。福荫大千。由是建仁王护国寺。以镇国焉。

  帝命帝师。齐竟天雨金花。缤纷而下。帝云。何故有此祥瑞。帝师云。陛下心花内发。天雨金花赞叹。

  帝命伯颜丞相。攻取江南不克。遂问胆巴师父云。护神云何不出气力。奏云。人不使不去。佛不请不说。帝遂求请。不日而宋降。

  定光佛塔毫光发现。

  帝命开视内有舍利。光耀人目。由是重建宝塔。

  蜀僧元一游西天回朝。

  帝。帝问云。西天佛有么。元一奏云当今东土生民主。何异西天悉达多。

  元一以西天琢成玉石佛像献。

  帝。帝宝之于万山供养。

  元一以西天贝多叶经献。

  帝。帝贮以七宝函。严加信仰。

  忠书记僧中之杰。

  帝命以三奇之道为辅。出号施令。帝加信任。封为太保。

  元一自西天持佛如来铁钵献。

  帝。帝悦宝之。以镇库藏。

  帝与帝师坐次。一亢二僧侍侧。帝云。何不游戏三昧。亢以一年小云。从小至大为次。一遂云。海青身至小。天鹅身至大。海青彻天飞。天鹅生惧怕。亢云。猪㹠身至小。象王身至大。象见㹠来欺。掷向大千界。帝师云。我以大千界。化为一釜灶。煮尔四伴物。大小都容了。帝大悦。

  帝问元一云。孔老徒众何以至少。如来徒众何以至多。元一奏云。富嫌千口少。贫恨一身多。

  帝问拣坛主云。何处有佛。拣奏云。我皇即是佛。帝云。朕如何是佛。拣云。杀活在于手。乾坤掌上平。

  帝问弥陀和上云。和上住在何处。奏云。住在我王神州。帝云。恁么则时时见弥陀。

  帝问僧元一云。和上还涉世缘么。奏云。不知法故犯。知法了应无。

  帝问帝师云。僧中还有通古今事底么。时有因和上。奏云。法自汉明帝至以火辩真伪。帝云。古今事且置。今再以火辩真伪时如何。因奏曰。我皇有护法之心。此经争得焚烧。帝悦其言。

  帝诞生太子。诏海云国师。摩顶立名。奏云。世间最尊贵。无越于真金。

  帝命东宫围场斋。帝师作忏悔。帝师云。众生度脱尽。仁王悲愿深。

  帝设资戒大会。随处放光。帝问帝师云。光从何处来。帝师回奏云。感应道交佛光应现。

  帝命皇后娘娘。镇国寺行香。后问众僧云。诸处放光。此处何无。言讫定光塔上毫光烛天。终日不散。

  帝以众婇女围绕帝师。帝问云。还也动心么。帝师云。目前虽可看。争奈老僧何。帝大悦。

  帝问渊总统。还有眷属无。回奏云。终日不曾离。又问。还餐酒肉无。渊奏云。钵盂常染腥膻味。帝云。好老实人。

  新筑京城。监筑者谋毁海云国师塔。两雉相合。奏帝欲去其塔。帝云。海云高僧。筑城围之。贵僧之德千古不磨。

  帝一日曰。栴檀瑞像现世佛宝当建大刹安奉。庶一切人俱得瞻礼。乃建大圣寿万安寺。

  帝命写金字藏经。卷轴前图像未定。帝云。此经是释迦佛说。止画说主。庶看读者知有所自。

  帝诏遍天下。每一岁中行布施度僧读大藏经。随处放光现瑞。祯祥不一。

  帝诏讲华严大德。于京城大寺开演。彰显如来之富贵。

  帝设大会。七处放光。显示华严七处之玄旨。

  帝问众臣僚。每日还不放闲也无。众臣僚无对。帝乃袖中出数珠示之。内外百官皆归至善。

  释迦如来住世七十九年。

  帝至七十九岁。乃云。与佛同寿。不为夭矣。

  帝诏十高僧内殿供养。帝端居不动。诸大德亦复默然。帝乃云。此是真实功德。

  帝诏僧大内念经行香。侍臣奏云。僧多有不识字者。帝乃云。但教舒展拭去尘埃。亦有功德。

  糠禅背杖戒身见。

  帝。帝问曰。此杖何为。回奏云。身有过失。以杖责之帝曰。过失在心。鞭身何益。与其责身。莫若责心。

  帝见僧有过。不加王法。止令阅教忏悔。

  帝诏东昌大师演教。帝大悦。赐以宝玉拄杖。

  帝平宋已。彼境教不流通。天下拣选教僧三十员。往彼说法利生。由是直南教道大兴。

  帝建大圣寿万安寺。帝制四方。各射一箭以为界至。

  帝大内皆以真言梵字为严饰。表行住坐卧不离舍佛法也。

  帝赐讲人红僧衣。令说法人与佛齐等。

  蜀僧圆证见。

  帝。帝问。汝何所习。回奏云。幼明三奇。长习佛乘。上悦。赐以碧玉香鼎。命崇香火。

  帝万机之暇。自奉施食。持数珠而课诵。

  帝建大圣寿万安寺成。两廊拟塑佛像。监修官闻奏。帝云。不须塑泥佛。只教活佛住。

  帝御北征。护神现身阵前。怨敌自退广济大师。皇宫亲侍日久。礼诵不辍帝深赏赞。赐以放光佛像。命敬侍供养。

  帝问相士山水。士奏云。善恶由山水所主。帝问。太行山如何。相士奏云。出奸盗。帝云。何以夫子在彼生。帝召僧圆证问云。此人山水说得是么。证回奏云。善政治天下。天下人皆善。山水之说臣僧未晓。帝大悦。

  舍罗萨张大师志慕出家。

  帝从其请落发为僧。赐七宝数珠。命供日课。

  帝诏蜀僧圆证。明六神之术。上曰。髡发恐无灵验。回奏云。此六者。天地日月水火之神。菩提场中各说偈赞佛。得大解脱门。为华严之严卫。僧人昭事。神必钦依。髡发无伤。帝然之。

  帝诏元一与道士持论。元一攻其窃释孔之言。上悦。

  帝问僧佛牙真伪。僧无对。帝云。真伪自分明。诸人休错解。

  帝命僧念无量寿王陀罗尼经。能念者赐疋帛称赏。

  帝召东宫云。海云是汝师。居住金田宜加崇饰。由是鼎新庆寿大刹。

  帝出郊狩南花园云。此处宜建梵刹。段相依命修造。出狩回驾。寺已刹圆。

  帝显正摧邪。命除道德经外。余皆焚毁。以绝其妄。宰臣奏。分拣道藏。检出马湘诗云。树连沧海水连云。昔有殷周李老君。人说是非皆不定。五千言外更无文。符合上意。龙颜大悦。制焚之。

  帝颁行玉音。诏昊天讲主云。闻朕在世诫约学徒究明佛法。毋令减灭。

  峨嵋普贤道场。缺大藏经。

  命张大师。径从驿骑递相迎送。佛法流通福覃西蜀。上都道士等奏。与释教定邪正。

  帝云。胜负如何赏罚。道士云。义堕者斩首。帝曰。不然。义堕者削发为僧。

  宋主以王位来归。学佛修行。

  帝大悦。命削发为僧宝焉。

  圣安宝长老送瑞像至内。心不之悦。

  帝云。此是皇家佛。汝心何懊恼。帝回与三十二锭白金。以表三十二相也。

  宋太后削发为尼。诵经修道。

  帝深加敬仰。四事供养。

  帝宣宋室二宫人至。皆祝发为尼。帝云。三宝中人也。命归山学佛修行。供送衣粮。

  帝设无遮会。诏信讲主说总圣名目。帝云。既号无遮。云何有数。

  宋主毳衣圆顶。

  帝命往西土讨究大乘明即佛理。

  帝以金为泥。命僧儒缮写大藏经一藏。贮以七宝琅函。流传万世。

  帝设资戒大会。避使长为僧之人使见认得欲取。帝叱云已为佛弟子。谁复能为主天竺进钵。

  帝取食前珍味。碎置钵中。内外侍从数满千人。各赐一粒。普令得沾如来钵中之禅悦。

  帝至香山。山半有泉。问僧此泉足僧用否。僧回奏云。日供一千僧。流注尚无竭。赐白金一锭。命筑亭盖覆。贵其利济宋镇库栴檀方圆丈余。

  帝曰。镇库无益。刻为佛像利益人天。

  帝驾至香山栗园。其栗方熟。左右从驾万人余。帝诫谕云。此为三宝物。一个不容拈。

  僧众远迎。

  帝驾。帝曰。往日僧人三诏不起。今日僧人云以远迎。僧无对。

  帝设大会。阇黎佛声响亮。帝曰。如是佛音声。多少众生生善心。乃赐白金一锭。

  弘法寺藏经板历年久远。

  命诸山师德。校正讹谬鼎新严饰。补足以传无穷。

  帝一日云。三人护法。二已去了。惟朕一人。当今佛法愈隆愈盛。

  帝命逸林上师。译药师坛法仪轨。为天下消八苦之灾。增无量之寿。

  帝设十万僧会。命十师对御说法。赐白金十锭玉拄杖十条。

  外邦贡佛舍利。

  帝云。不独朕一人得福。乃于南城彰义门。高建门塔。普令往来皆得顶戴。

  帝命高僧。重整大藏分大小乘。再标芳号遍布天下。

  帝一统天下。外邦他国皆归至化。帝印大藏三十六藏。遣使分赐。皆令得瞻佛日。

  帝命帝师云。去佛遥远僧戒全亏。可选诸路高僧。赐红黄大衣。传授萨婆多部大戒。

  帝云。菩萨戒本但解法师语者皆得传受。乃印造一千部。流通散施。普令大地众生皆奉如来宝戒。

  帝问拣坛主云。何处为最上福田。回奏云。清凉。帝云真佛境界。乃建五大寺为世福田。

  帝于五台运工建寺。有涧无水。兴工之日。段张沿涧觅水。突然涌出。给济不乏。

  臣佐奏。以天下僧尼一例同民。

  帝问。民籍若干。府库若干。奏云。不知。上曰。辅相治道固宜用心。此乃不理。而急于餐菜馂饀之僧人。其事乃止。

  帝闻五教义。帝云。顿教即心是佛诸佛境界。凡夫不修如何得到。

  帝见西僧经教与汉僧经教。音韵不同。疑其有异。命两土名德对辩。一一无差。帝曰。积年疑滞今日决开(故有法宝勘同)。

  帝以佛教为心。厌化胡伪造。历代断除莫之遏绝。严行天下焚毁无遗。

  释迦如来真身舍利宝塔统御刹中计一十九所。各颁钱帛。广加严饰。大陈供养。

  帝尝召群臣云。朕以本觉无二真心。治天下国家。如观海东青取天鹅。心无二故。

  帝每斋日。以南天竺佛钵。置七宝珍羞。澄湛观心。广修供养。

  帝自有四海。天下寺院田产二税。尽行蠲免。普令缁侣安心办道。

  天下寺院山林树木。遍谕玉音。严加护持毋令斫伐。以严佛如来之境界。

  帝以俗制于僧失其崇敬。遍谕天下各主纲维主掌教门护持佛法。

  臣下闻奏。有俗僧人。宜令同民。帝令修补寺院以遮其过。

  帝主领天下颁降圣旨。谕一切僧人不拣甚么差发休当。遵依释迦牟尼佛道子行持。

  阿合麻丞相奏。天下僧尼颇多混滥。精通佛法可允为僧。无知无闻宜令例俗。胆巴师父奏云。多人祝寿好。多人生怒好。

  帝云。多人祝寿好。其事乃止。

  帝灵驾经宣德。现大圆光周遍天界。合境僧俗悉皆瞻礼。盖显古佛示现之作用耳(已上百段出弘教集)。

  念常赞曰。华严云。菩萨住初地作大功德。王以法化众生。慈心无损害。统领阎浮提。化行靡不及。皆令住大舍。成就佛智慧。若能广分别。亿劫不能尽。今观弘教集。载世祖皇帝实录百余篇。字字句句。以弘教为己任。如有云。朕以本觉无二真心。治天下国家。如观海东青取天鹅。心无二故。由此论之。万机之暇不离念佛念法念僧。苟非。

  大圣慈念群生特垂化迹。能如是邪。使唐虞再世。亦无以加矣。猗欤盛哉。敬录于前。以晓来学云。

  (九 乙未) 成宗完者笃钦明广孝皇帝即位(于甲午四月十四日十五日大赦。○改元贞元年)。

  (丁酉) (二月廿七日大赦改)大德。

  (己亥) 正月遣使问民疾苦。

  (壬寅) 三月三日大赦。

  (十) 大德六年九月一日。五台山大万圣祐国寺真觉国师殁。师讳文才。字仲华。杨氏。其先弘农人。高曾以来世官垄坻。父静义。金季为清水主簿。遂家焉。少孤事母孝。于书无所不读。性理之学尤其邃也。故约而为守。蔚而成文。辞气雅健如古作者。为人沉厚若素不读书者。至与士君子谈接其辞辩其事详其理尽。出入经史。滔滔然若河汉之决。莫窥其涘。其讲授经论。得旨言外。不屑屑于名数。尝曰。学贵宗通言欲会意。以意逆志为得之矣。语言文字糟粕之余也。岂有余味哉。彼狃于文字。味其糟粕。徒骋知见以记问自多。殊不知支离其知穿凿其见愈惑多岐不能冥昝于道。听其说适足以熟耳而已。岂能开人惠目乎。所著县谈详略五卷。肇论略疏三卷。惠灯集二卷。皆内据佛经外援儒老托譬取类。其辞质而不华。简而诣。取其达而已。隐居成纪。筑室树松。将以终老。然以行修乎迩德加乎远。虽自韬晦。其道愈彰。人尊其德不敢名。以松堂称之。佛教之兴始于洛阳白马寺。故称释源。其宗主殁。诏以师继之。世祖尝以五台绝境欲为佛寺。而未果也。成宗以继志之孝。作而成之。赐名大万圣佑国寺。以为名山大寺。非海内之望。不能尸之。诏求其人于帝师迦罗斯巴。会师自洛阳来见帝师。喜曰。佑国寺得其人矣。诏师以释源宗主兼居佑国。师见帝师以辞曰。某以何德猥蒙恩宠。其居白马已为过分。安能复居佑圣。愿选有德者为之。幸怜其诚以闻于上。帝师不可曰。此上命也。上于此事用心至焉。非女其谁与居。此吾教所系。女其勉之。居岁余。大德六年将如洛阳。道真定馆于某寺。疾作。九月一日殁。年六十有二。火后获舍利者数百粒。其徒归葬于五台东山之麓。

  (癸卯) (三月十六日诏定贼罪条例为十二章。及增给朝官月俸外任公田禄米等○八月六日太原平阳地震)。

  (十一) 大德七年。胆巴金刚上师殁。师名功嘉葛刺思。此云普喜名闻。又名胆巴。此云微妙。西番突甘斯旦麻人。幼孤依季父。闻经止啼。知其非凡。遣侍法王上师。试以梵咒。随诵如流。曰此子宿积聪惠异。日当与众生作大饶益。年十二训以前名。自是经科哭式坛法明方。靡不洞贯。年二十四讲演大喜乐本续等文。四众悦服。上师令巴至西天竺国参礼古达麻室利习梵典。尽得其传。初世祖居潜邸。闻西国有绰理哲瓦道德。愿见之。遂往西凉遣使请于廓丹大王。王谓使者曰。师已入灭。有侄癹思巴。此云圣寿。年方十六。深通佛法。请以应命。至都旬日即乞西还。上召问曰。师之佛法比叔如何。曰叔之佛法如大海水。吾所得者以指点水于舌而已。问答允称。上喜曰。师年虽少种性不凡。愿为朕留当求戒法。寻礼为师。巴入中国。诏居五台寿宁。壬申留京师王公咸禀妙戒。初天兵南下。襄城居民祷真武。降笔云。有大黑神。领兵西北方来。吾亦当避。于是列城望风款附。兵不血刃。至于破常州。多见黑神出入其家。民罔知故。实乃摩诃葛刺神也。此云大黑。盖师祖父七世事神甚谨。随祷而应。此助国之验也。乙亥师具以闻。有旨建神庙于涿之阳。结构横丽神像威严。凡水旱蝗疫。民祷响应。辛巳岁师得道藏化胡经并八十一化图。幻惑妄诞。师乃叹曰。以邪惑正如此者。遂奏闻。召教禅大德及翰林承制等。诣长春宫辩证(辨伪录明)诏下诸路除道德经外。其余伪文尽令焚毁。至壬午师力乞西归。上不能留。初相哥受师戒。继为帝师。门人屡有言其豪横自肆者。师责而不悛。由是御之。逮登相位。惧师谠直必言于上。乃先入巧言赞师。故有是请。首于云中。次至西夏。以及临洮。求法益众。未几权臣复谮。令归本国。师至故里阅六寒暑。己丑相哥遣使传召还都。于圣安寺安置。四月赴省听旨。令往潮州。师忻然引侍僧昔监藏。子身乘驿。即日南向。及出都门。雷雨冥晦。由汴涉江洎于闽广。所至州城俱沾戒法。八月抵潮阳。馆于开元寺。有枢使月的迷失。奉旨南行。初不知佛。其妻得奇疾。医祷无验。闻师之道礼请至再。师临其家尽取其巫觋绘像焚之。以所持数珠加患者身。惊泣乃苏。且曰。梦中见一黑恶形人。释我而去。使军中得报喜甚。遂能胜敌。由是倾心佛化。师谓门人曰。潮乃大颠韩子论道之处。宜建刹利生。因得城南净乐寺故基。将求材。未知其计。寺先有河。断流既久。庚寅五月大雨倾注河流暴溢。适有良材泛集充斥。见者惊诧咸谓鬼输神运焉。枢使董工兴创。殿宇既完。师手塑梵像。斋万僧以庆赞之。尝谓昔监藏曰。吾不久有他往。宜速成此寺。后师还都。奏田二十顷。赐额宝积焉。未几召还。相哥已伏诛矣。癸巳夏五上患股。召师于内殿建观音狮子吼道场。七日而愈。施白金五十锭。叙及相哥谮师之语。师以宿业为对。宰臣莫不骇服。上谓师曰。师昔劝朕五台建寺。令遣侍臣伯颜司天监苏和卿等相视山形。以图呈师。师曰。此非小缘。陛下发心寺即成就。未几上宴驾。甲午四月成宗皇帝践祚。遣使召师。师至庆贺毕。奏曰。昔成吉思皇帝有国之日。疆土未广。尚不徴僧道税粮。今日四海混同万邦入贡。岂因微利而弃成规。倘蠲其赋则身安志专。庶可勤修报国。上曰。师与丞相完泽商议。奏曰。此谋出于中书省官。自非圣裁他议何益。上良久曰。明日月旦就大安阁释迦舍利像前修设好事。师宜早至。翌日师登内阁。次帝师坐。令必阇赤朗宣敕旨。顾问师曰。今已免和上税粮。心欢喜否。师起谢曰。天下僧人咸沾圣泽。元贞乙未四月奉诏住大护国仁王寺。敕太府具驾前仪仗。百官护送。寺乃昭睿顺圣皇后所建。其严好若天宫内苑移下人间。是年遣使诏师问曰。海都军马犯西番界。师于佛事中能退降否。奏曰。但祷摩诃葛刺。自然有验。复问曰。于何处建坛。对曰。高梁河西北瓮山有寺。僻静可习禅觏。敕省府供给严护。令丞相答失蛮上亲染宸翰云。这句当怎生用心。师理会者师的句当。朕理会得也。于是建曼拏罗依法作观。未几捷报至。上大悦。壬寅春二月帝幸柳林遘疾。遣使召云。师如想朕。愿师一来。师至幸所就行殿修观法七昼夜。圣体乃瘳。敕天下僧寺普阅藏经。仍降香币等施。即大赦天下。上曰。赖师摄护朕体已安。即解颈七宝牌为施。皇后亦解宝珠璎珞施之。并施尚乘车辇骡马白玉鞍辔金曼答喇黄白金各一锭官币十八匹。御前校尉丁人为师前导。三月二十四日。大驾北巡。命师象舆行驾前。道过云州龙门。师谓徒众曰。此地龙物所都。或兴风雨恐檠乘舆。汝等密持神咒以待之。至暮雷电果作四野震怖。独行殿一境无虞。至上都。近臣咸谢曰。龙门之恐赖师以安。癸卯夏师示疾。上遣御医候视。师笑曰。色身有限。药岂能留。五月十八日。师问左右。今正何时。对曰。日当午矣。师即敛容端坐面西而逝。上闻悲悼不胜。赐沉檀众香就上都庆安寺结塔茶毗。王及四众莫不哀恻。是月二十九日。敕丞相答失蛮。开视焚塔。见师顶骨不坏。舍利不计其数。轮殊坐毡如故。回奏。加叹敕大都留守。率承应伎乐迎舍利归葬仁王寺之庆安塔焉。世寿七十有四。僧腊六十二。秘密之教彼土以大持金刚为始祖。累传至师益显。

  (十二 戊申) 故有金刚上师之号焉。

  武宗曲律仁惠宣孝皇帝即位。改至大(十一月廿五日大赦)。

  瑞像计二千三百年矣。

  (己酉) 造至大银钞(十月诏铸大元通宝钱及至大通宝小钱。十月十七日大赦)。

  (十三) 至大二年内翰赵孟頫奉敕撰临济正宗之碑。

  佛法大智慧破一切有。以大圆觉摄一切空。以大慈悲度一切众。始于不言而至于无所不言。无所不言而至于无言。夫道非言不传。传而不以言。则道在言语之外矣。是为佛法最上上乘。如以薪传火薪尽而火不穷也。故世尊拈花迦叶微笑。一笑之顷超然独得。尚何可以言语求哉。自摩诃迦叶。二十八传而为菩提达磨。始入中国。居嵩山少林寺面壁坐者九年。达磨六传而为能。能十传为临济。临济生于曹州。游学江右。事黄檗问佛法的的大意。檗便打。如是三问三度被打。辞往大愚。理前话云。不知过在甚么处。愚曰。黄檗恁么老婆为汝得彻困。犹觅过在。师言下大悟归镇州筑室滹沱河之上。今临济院是也。因号临济大师。师之于道。得大究竟。繇临济而上。至于诸佛。诸佛之下。至于临济。前圣后圣无间然矣。直指示人机若发矢。学者闻之耳目尽丧。表里无据。自能后禅分为五。唯师所传号为正宗。一传为兴化奖。再传为南院颙。三传为风穴沼。四传为首山念。又五传为五祖演。演传天目齐。齐传懒牛和。和传竹林宝。宝传竹林安。安传海西堂容庵。容庵传中和璋。璋传海云大宗师蕳公。海云性与道合。心与法冥。细无不入。大无不包。师住临济院。能系祖传以正道统。佛法盖至此而中兴焉。当。

  世祖圣德神功文武皇帝在潜邸。[娄*姿]屈至尊请问道要。虽其言往复紬绎。而独以慈爱不杀为本。师之大弟子二人。曰可庵朗。赜庵儇。朗公度荜庵满及太傅刘文贞。儇公度西云大宗师安公。师以文贞公机智弘建。使事○世祖皇帝。当是时君臣相得策定天下。深功厚德祖于元元。卒为佐命之臣。皆自此贤之也 元贞元年○成宗有诏。迎西云住天都大庆寿寺。进承清问。经历三朝发撝玄言。得诸佛智。悬判三乘如一二数。由是临济之道愈扩而大○今皇帝钦承○祖武。独明妙心。刻玉为印。以赐西云。其文曰。临济正宗之印。独加师荣禄大夫大司空。领临济一宗事。仍诏立碑临济院。且命臣孟頫为文。称扬佛祖之道。以示不朽。臣孟頫既叙其所传授。又系之铭。铭曰。佛有正法。觉明妙心。二十八传。至于少林。赫赫少林。师我震旦。使为佛种。不锲而断。传十世后。而得临济。为道坦然。如指而示。又十六世。是为海云。坐祖道场。能绍厥闻。维我○世祖。诞膺天命。威震九有。维佛是敬。闻师之名。若古贤圣。尝进一言。深入圣听。不杀之仁。其利甚弘。俾大弟子。为帝股肱。至西云公。能嗣其业。据狮子座。为众演说。闻者赞叹。信者乡风。得者如宝。悟者如空○今皇帝圣。深契道要。曰临济宗。繄尔能绍。即心即佛。时乃世守。传不以言。而以心受。皇帝万年。正法永传。尚迪后人。勿昧其原。

  敕赐乞台萨里神道碑。赵子昂为文。其略曰。

  太祖皇帝。既受天命略定西北诸国。回鹘最强最先附。遂诏其主亦都护第五子。与诸皇子约为兄弟。宠异冠诸国。自是有一才一艺者。毕效于朝。至元大德间。在位之臣非有攻城战野之功。斩将搴旗之勇。而道包儒释学际天人。寄天子之腹心。繄生民之休戚者。惟赵国文定公而已。今上皇帝临御之七年始。行褒䘏之典。于是赠公祖父官爵勋封。越明年复赐碑墓道。命臣孟頫为之文。当世祖时。公为平章政事。臣为兵部郎中。趋走省闼识公为旧。承言论政知公为详。敢不祇奉。

  (十四) 明诏。公讳乞台萨里。早受浮图法于智全末利可吾坡地沙。圆通辨悟。当时咸推让之。累赠纯诚守正功臣太保仪同三司上柱国追封赵国公。谥通敏。又从国师八思马学密乘。不数月尽通其书。旁达诸国及汉语。世祖知其材俾习汉文书。领之遂通诸经史百家。若阴阳历数图纬方技之说。靡不精诣。会国师西还。携与俱。岁余乞归省。师送之曰。以汝之学非为我佛弟子者。我敢受女拜耶。勉事圣君。相泣而别。比至门。师已上书荐之○裕宗。得召入宿卫。日以笔札侍左右。至元二十年冬有二僧西来见。自言知天象。上召通象胥者。数辈与语。莫能解。有脱烈者言。公可。使立召与语。僧乃屈谢不如。上大悦。明年夏擢朝列大夫左侍仪奉御秋置集贤馆。命公领集贤。公请以司徒撒里蛮领之。乃以公为中顺大夫集贤馆学士。兼太史院事。明年夏迁嘉议大夫。明年春升集贤大学士。中奉大夫。明年春进资德大夫尚书右丞。并兼太史院事。冬拜荣禄大夫平章政事兼集贤大学士太史院使。廿八年乞解机务。以为集贤大学士。三十年加领太史院事。自初授官。至是凡八迁并兼左侍仪奉御。明年○世祖登遐○裕圣皇后命公。帅翰林集贤太常礼官。备礼册立○成宗即皇帝位。明年春以翌戴功加守司徒。大德三年复拜平章政事。十一年春○成宗宴驾。哀恸成疾。秋八月十有七日。薨于大都发祥里第。年六十三。以是月日葬城西南冈子原。

  (十五) 敕赐佛国普安温禅师塔铭。侍书奎章阁虞集撰。其略曰。师讳至温。字其玉。一号全一。邢州郝氏子也。幼聪敏异常。儿年六岁。其母携之至庞马村。见寂照和尚于净土院。寂照曰。汝其为释氏乎。师心许之。会寂照避乱去隐辽西。乃礼寂照弟子辨庵讷而祝发焉。无还富公主净土。莅众甚严。师不以为忤。庚寅之岁无还开法万寿。师与十僧同往佐之。万松某公以青州辨公宗旨开示法要。门庭高广。四方尊之。师见万松始以才气过人。稍不容于众。然而博记多闻论辨无碍。百家诸子之言。多所涉猎又善草书。有颠素之遗法。年才十有五。为万松侍者。凡万松偈颂法语。一闻辄了之。遂得法焉。常以侍者代应对。谈锋之利不可犯。时人已深期之。故太保刘文贞公。长师一岁。少时相好也。刘公厌世。故思学道。师劝之为僧。同参西京宝胜明公。既而为○世祖知。遇侍帏幄。为谋臣。荐师可大用。得召见。与语大悦。将授以官。弗受曰。天下佛法流通。臣僧之愿。富贵非所望也。留王庭多有赞益。居三岁遣还。出赐金资。日用不计其费。时○宪宗命海云主释教○诏天下作资戎会。师持○旨宣布中外。而辅成之○世祖征云南还。刘公请承制。锡师号曰佛国普安大禅师。总摄关西五路河南南京等路太原府路邢洛磁怀孟等州僧尼之事。刻印以赐师。锐意卫教。凡僧之田庐见侵于豪富及他教者。皆力归之。驰驲四出周于所履。必获其志乃已。自其门人或劝之少憩弗懈也○宪宗末年。僧道士有诤。各为违言以相危○上命聚讼于和林剖决真伪。师从少林诸师辨之。道士义堕剃须发者十七人。道宫之复为者以千百计。中统建元释教大盛。僧众赖之甚思师之功焉。而师遂纳印辞职。每岁官赐金修寺之外。世味泊如也。至元丁卯五月二十二日。以疾终于桓州之天宫寺西向右胁而化。当暑仪形如生。更有异香三日。火浴之心舌牙不坏。众庶掊其地深数尺。犹得舍利云。世寿五十一。僧腊四十。臣闻 世祖皇帝圣度如天。善驭豪杰自在 潜邸。至于混一海内。天下之人材大小毕至。以足其任使。故其功业之盛。巍巍然赫赫然。三代而下帝王未有或之及也。浮图氏以寂灭为宗。而材器文辨如温公。亦岂常人之流哉。敢叙而表之。以见夫兴王之运其人如此。铭曰。维昔世皇。始理开平。作其潜藩。有宫有城顾瞻东隅。泉甘土厚。蜿蜒来止。属垣负阜。命建仁祠。龙光是名。权舆来尸。僧有豪英。气如虹霓。辨若风雨。纵横凌厉。莫敢余侮 世皇有为。群策是稽。名见从容。出其端倪。善则利器。俾反初服。报德不回。屹若孤鹄。林林释徒。禀教以居。孰为纷更。入主出孥。天子有命。存完去驳。我驰我驱。立折其角。燕赵之间。至于陕关。我田我庐匪归匪艰。

  世皇御一。民用宁一。而释之门。既振既息。时龙光师。燕居弗驰。散其绪余。为书为诗。诗扬宗风。书纵逸趣。沛将有述。弃而遽去。维时名僧。至于公卿。有诔有辞。失之若惊。垂八十年。英标如在。谁知表之。嗣者七代。义举有闻。天子喜之。史臣属辞。以系遐思。

  (庚戌) 正月行使历代旧钱○十月十八日大赦。

  大师鲁国忠武王木华黎。身长七尺。虎首虬须黑面多谋略。雄勇冠一时。与博尔术博尔忽赤老温。俱以忠勇佐 太祖。时号掇里班曲律。犹汉言四杰也 太祖行次东印度 铁门关侍卫者。见一兽鹿形马尾绿色而独角。能为人言。曰汝军宜早回 上怪问耶律晋卿楚才。奏曰。此兽名角?日行一万八千里。解四夷语。是恶杀之象。盖上天遣之。以告陛下。愿承天心宥此数国人命。寔陛下无疆之福。即日下诏班师(右出本朝功臣事略)。◎

  ◎(辛亥) 正月五日。以上年十一月廿三日。郊祀大赦。

  三月十八日。登极大赦。赐高年帛○四月禁使新旧铜钱及至大银钞。

  (十六) 革罢僧道衙门。

  论曰。望五位以升阶。转二依而就果者。上乘菩萨也。以四向一坐而证成三生百劫而彰号者。缘觉声闻也。圣贤品级教有明文。唯妙悟自心入佛知见者。千圣尚不为。何阶级之有。大教东被三百五十余年。后魏以赵郡沙门法果。为沙门统。供施之不足。又官品之。遂授辅国宜城子忠信侯。寻进公爵曰安城。封官自果始也。梁以惠超为寿光殿学士。后周选僧道中学问优赡者。充通道观学士。仍改服色。随以彦琮为翻经馆学士。唐中宗神龙二年。造圣善寺成。惠范惠珍法藏大行会寂元壁仁方崇先进国。九人加五品并朝散大夫。盖以营像修造之功也。寻加惠范正议大夫上庸郡公。寺主至银青光禄大夫。俸料房阁已上同职官给。玄宗卜平内难。僧清润封官三品。医宁王疾愈。僧赐绯袍。代宗加不空三藏。至开府仪同三司肃国公食邑三千户。辞让数四不允。空曰。吾以法济世。不意垂死滥污封爵故秩。唯空为极矣。宋金两朝南北殊风而封释官秩颇存典故。然犹遵律印信未闻。迨我皇元世祖皇帝混一海宇。条纲制度一出睿思。谓以俗制于僧殊失崇敬。谕天下设立宣政院僧录僧正都纲司。锡以印信。行移各路。主掌教门护持教法。赖圣天子不负佛嘱也。然而稗贩之流。好爵縻贤恃其所贵而贵之。奔走伺候处污不羞。以敲朴喧嚣牒诉倥[偬-囱+(句-口+夕)]为得志。不夺不厌。致有囊加巴僧录往取栲栳山僧钱罔咈律行。可谓师子身虫也。仁宗皇帝居储宫日。目击其弊。降旨。除宣政院外。一例革之。是亦不负灵山付嘱也。於戏朝廷尚行于爵秩。释子乃竞于官阶。官阶无尽期。贪爱无满分。胡不养其妻子跪拜君亲。何异织女七襄牵牛负轭者耶。识达于此无取焉。盛矣乎不空。粉泽。

  (十七) 大教有功。犹愧滥污。今何人而欲假名器哉。

  (壬子) 仁宗文英武章皇帝○十月廿九日。以诸王入觐大赦。改皇庆。

  (癸丑) 十月十八日。诏科场。以经义取士。

  (十八 甲寅) 正月廿二日。改延祐。大赦○(十一月遣使经理江西江浙湖广田粮)弘教佛智三藏法师入寂。公积宁氏。讳沙啰巴观照。事上师着栗赤学佛氏法。善吐番文字。颇得秘密之要。世祖皇帝尝受教于帝师发思巴。诏师译语。辞致明辨允惬圣衷。诏赐大辩广智法师。河西之人。尊其道而不敢名。止称其氏。至呼其子弟皆曰此积宁法师家。其为见重如此。公昆弟四人。公其季也。总丱之岁。依帝师发思巴剃染为僧。学诸部灌顶之法。时有上士名刺温卜。以焰曼德迦密乘之要。见称于世。帝师命公往学此法。温卜以公器伟识高非流辈比。悉以秘要授之。于是王公大人凡有志兹道者皆于公师而受焉。帝师迦啰思巴干即哩。以公之能荐之世祖。诏译诸秘要。俾传于世。时僧司虽盛风纪寖蔽。所在官吏既不能干城遗法抗御外侮。返为诸僧之害。桂蠹乘痈虽欲去之。莫能尽也。颓波所激江南尤甚朝廷久选能者欲使正之。以白帝师。佥谓诸色之人岂无能者。必以为识时务孰与公贤。以诏授江浙等处释教总统。既至削去烦苛务从宽大。其人安之。既而改授福建等处释教总统。以其气之正。数与同列乖迕而不合。公谓天下何事。况教门乎。盖吾人之庸自扰之耳。夫设官愈多则事愈烦。今诸僧之苦。盖事烦而官多也。十羊九牧。其为苛扰可胜言哉。建言罢之。以闻。诏罢诸路总所。议者称其高。公既得请乃遁迹垄坻。筑室种树盖将终焉。至大中以皇太子令召至京师。诏授光禄大夫司徒。仁宗皇帝龙德渊潜之日。尝问法于公。知公之贤。既践天位眷遇益隆诏给廪既馆于庆寿寺。诏公所译皆板行之。公幼而颖悟。诸国语言皆不学而能。自为儿人皆以为必成大器。既长果能树立。致位三公。虽以德艺。抑亦遭遇于时也。其始为佛诵其言观其义。既涉其涯遂厉于深。为人好贤爱能。尤能取诸人。以为善。谈论之际发其端已。得过半之思。故其所有皆以好问而致。是以名胜之流皆从之。游以师友相处。延祐元年十月五日殁。年五十有六。其始疾也。诏赐中统钞万缗俾求医药。太尉沈王往视疾焉。既殁。又赐币万缗以给葬事。遣使驿送其丧归葬故里。门弟子相与建塔以表其藏。寿安山云麓洪公。作铭有谓。佛法之传必资翻译。故译梵为华。或敌对名物。或唯以义。必博通经论。善两方之言。始能为之。是以道安尝谓。翻译微言有五失本三不易。故非能者不足以有为也。所以传列十科。翻译居首者。岂非以其为之难功之大乎。予尝以诏与京邑诸公校雠藏典。历观自古翻译之家。以义译经如秦之罗什。译论唐之奘公。十数人之作。所谓禹吾无间然矣。其余或指义暧昧。或文辞疏拙。夫义之暧昧。盖译者之未尽文。或疏拙润色之失也。因思安公之言。以谓以弥天之高。尚称不易。今之译者何其易哉。自季叶以来。译场久废。能者盖寡。岂意人物凋残之际乃见公乎。观其所译可谓能者哉。

  (十九) 秦州普觉法师卒。教自隋唐之后。传者各宗其说。遂派而为三。由止观之门。观假而悟空。观空而趣中。以入于实相者。为天台宗。会缘入实。即俗而明真者。为贤首宗。穷万有之数。昭一性之玄。有空殊致而同归乎中道者。为慈恩宗。师为慈恩宗者也。姓赵氏。讳英辩。垂髫为驱乌。甫弱冠资二百五十戒。二十有五得传于柏林潭公为座主。凡为僧六十有一年。年六十有八。延祐元年六月庚戌终于景福寺。焕异景于易箦之夕。标奇迹于火葬之余。以其年月日塔于普觉寺之后。师为性真纯。如美玉含璞。虽不加雕绘。而人自爱重之。至于悍卒武夫。亦能敬其人。谓无佛之世足为佛也。每得钱蔽悉以创佛祠。食守道之侣。故君子高其风。

  (乙卯) 三月遣使宣抚问民疾苦○(平宁都寇○十一月廿七日以星芒大赦天下)。

  (丙辰) 礼公哥罗古罗思监藏班藏卜。为帝师。

  (二十) 敕建旃檀瑞像殿记。翰林承旨程钜夫撰。文曰。盖闻道非有象。作易者必拟诸形容。法本皆空。度世者暂资于色相。谓如指空为镜。不若以镜而喻空。即树占风。将使识风而忘树。是以双林付嘱舍利。以凡圣而偏分。千辐经行足迹。亘古今而常在。非炫神通于幻境。实开方便于迷津。所谓由自以会心。即心而即佛者也。旃檀瑞像者佛之真像也。其犹万影沉江如如不异。孤光透隙一一皆圆。夫岂择地而容。盖以随缘而应。望梅林而止渴。靡不同沾。泛竹叶以言归。谁堪共载。惟我圣天子道跻先圣慈等觉皇。祝长乐之春秋。恒依佛地。企如来之岁月。坐阅人天。爰命集贤犬学士李术及教禅耆德。叙具本末。乃云释迦如来净饭王太子。生于甲寅四月八日。是为成周昭王二十四年。既生七日。佛母摩耶夫人往生忉利。至四十二年。太子弃位出家修道。穆王三年癸未道成。八年辛卯思报母恩遂升忉利天为母说法。优阗王自以久失瞻仰欲见无从。乃刻旃檀为像。目犍连虑有缺陋谬。躬以神力摄三十二匠升忉利天。谛观相好三返。乃得其真。既成。国王臣民奉之犹真佛焉。及佛自忉利天复至人间。王率臣庶同往迎佛。此像腾步空中向佛稽首。佛为摩顶授记曰。我灭度千年之后。汝从震旦广利人天。由是西土一千二百八十五年。龟兹六十八年。凉州十四年。长安一十七年。江南一百七十三年。淮南三百六十七年。复至江南。二十一年。汴梁一百七十七年。北至燕京。居今圣安寺十二年。北至上京大储庆寺二十年。南还燕宫内殿居五十四年。大元丁丑岁三月。燕宫火。尚书石抹公迎还圣安寺居。今五十九年而当世祖皇帝至元十二年乙亥。遣大臣孛罗等。四众备法驾仗卫音伎奉迎万寿山仁智殿。丁丑建大圣万安寺二十六年己丑。自仁智殿奉迎于寺之后殿。世祖躬临大作佛事。计自优阗王造像之岁至今诏述延祐三年丙辰。凡二千三百有七年。噫四大海中。顿觉业风之息。一弹指顷。不知贤劫之过。嘉与含灵从兹安隐。于是集贤大学士。臣颢以所述上闻。有旨授臣钜天为之记。夫谨奉诏言曰。古之圣人教民报本。追远之道。而于祭祀之礼。庙则木为之主。祭则孙为之尸。后也乃有像设焉。而不知其所由始。由斯观之。其原于西域之俗也。与夫佛为世出世间之尊。又何俟于赞述。然欲知佛之为佛。固不在于色相。而况于其似色相者乎。然苟不自其似而求之。又将无所措其归向之心。是故法身无相。必假相以表真。至道绝言。亦因言阶妙。若于粗者犹拳拳而怠焉。则其进也殆庶几乎。陛下考百王之度。酌群言之蕴。上以惇孝。下以施仁。蕲于厚天下者。无所不用其极。至于轨仁于善以辅政教之所不逮。亦因天下之心而为之。而非若彼内祠秘祝者之为也。夫以金石之杆坚。犹未能必可久。今以一木之为而绵历若此。然而佛之自卫固甚周。而人之保之也。抑岂一手足之功哉。嗟夫溯延二千有奇至于陛下。然后发德音经纪鸿烈非缓也。熙明之治至是而始隆。虽典祀之外。犹必以斯文文之也。

  (二十一) 然则化之渐被者广矣。不其盛与。记洛阳之伽蓝。笔多惭于董史。颂西方之无量寿。共祝于尧年。莫测真如徒欣圣际。谨记。是年封普庵禅师加号。其诏曰。上天眷命皇帝圣旨。朕闻。佛氏以空寂为宗。则凡学所遵者。宁欲建名号殊称谓以示天下后世哉。而国家非此无以昭尊德乐道之意也。朕自即位以来。闻袁州路南泉山慈化禅寺普庵寂感妙济真觉昭贶大德惠庆禅师。绍临济之绪。超华严之境。德映当代泽被方来。其道甚尊。显心切慕之。既累锡大谥。唯塔号未称。可加定光之塔。曰定光灵瑞之塔者。主者施行。

  (丁巳) 正月十日大赦○(敕加东林远法师号妙觉寂光宏辨大师都省咨文)。

  (二十二) 京都崇恩福元谦讲主卒。公讳德谦。姓杨氏。宁州定平人。幼为勤策。从僧读佛氏书。长时周游秦洛汴汝。咨访先德。学苾刍之道。又逾河而北。观风齐魏燕赵之郊。初受般若于邠州宁公。瑞应于原州忠公。又受幽赞于好畤仙公。圆觉于乾陵一公。后受唯识俱舍等论于陕州頙。首楞严四分律疏于阳夏闻公。凡六经四论一律。皆辞宏旨奥。穷三藏之蕴。而数公并以识法解义。驰声四远。公皆亲熏而炙之。跻其堂而噬其胾。故年未逾立。已有盛名于时。后至京师。受华严圆顿之宗于故大司徒万安坛主拣公之门。拣以公博学多能。甚器重之。初以诏居万宁寺后。又以诏居崇恩寺。万宁成宗所创。崇恩武宗所创也。两居大寺前后一纪。道德简于宸衷。流声洋于海隅。本尝以宠遇显荣为之志而改其素。尝语人曰。畦衣之士抗尘世表。苟不愧于朝闻夕死可矣。尚何慕于外哉。自以重居官寺久佩恩荣。而浮图之道。恬退为高。乃以让其弟子。退居幽僻谢绝人事。括囊一室以乐其道。延祐四年。正月廿八日终于隐所。世寿五十有一。为僧四十三夏。宰臣以闻。皇太后锡镪五千缗赙葬。敕有司备仪卫。集京畿诸寺幡盖鼓乐以送之。火后获舍利数十颗。其徒建塔于南城之南。

  京城大普庆寺实相圆明光教律师入寂。师讳法闻。严氏。陕西人。按姓氏略。严与庄皆羊姓。楚庄王之裔。以谥为氏。避汉明讳改氏为严。公年七岁从禅德辉公学。十有五剃染为僧。年二十受具戒。于是游汴汝河洛。历诸讲肆研究教乘。从大德温公学法华般若唯识因明及四分律。温以公任重道远克振吾宗。托以弘传之寄。尝对佛像灼肌然指。庸表克诚。刺血书经。以彰重法。遂隐于台山不逾阃者六载。读藏教五千卷者三番。是以业进行修。身藏名著。帝师亦怜。命公讲说般若。指授因明之要。因顾谓其徒曰。孰谓汉地乃有此僧耶。三辅之人劝辉致书。勖以兼善毋忘乡梓。请归长安。公以弟子于师义犹君父。父师之命敢不敬承。况父母之邦。乡里之义。可遂忘乎。乃抗策而西。既至耆老皆欢呼而言曰。吾乡之人。得所师而承教矣。寻以安西王命。居城南之义善寺。唐初神僧杜顺示迹之地也。邠岐泾渭四序讲筵不绝。从而学者盖千数焉。天子闻之。徴至阙庭。诏居大原教寺。授荣禄大夫大司徒。未几诏居大普庆寺。加开府仪同三司大司徒银章一品。赐辽世金书戒本。求戒者皆从公而师受焉。王公大臣皆仰止高风。犹景星凤凰之瑞于明时也。延祐四年三月廿四日跏趺而逝。以闻。上恻然久之。赐币数万缗以葬。诏大臣护丧有司备仪卫旌盖送之。世寿五十八。戒腊四十三。弟子奉遗骨舍利建塔焉。

  (二十四 戊午) 特赐三藏佑圣国师达益巴入寂。佛法流于中国久矣。三乘之教风靡九州。其道至焉。唐宋间始闻有秘密之法。典籍虽存犹未显行于世。国初其道始盛西鄙。统元中天子以大萨思迦法师有圣人之道。尊为帝师。于是秘密之法日丽乎中天。波渐于四海。精其法者皆致重于天朝。敬慕于殊俗。故佛氏之旧一变于齐鲁。国师名达益巴。少为苾刍。凡事帝师十有三年。出而从入而侍。听言论于左右。观道德于前后。陶熏滋久郁成美器。凡大小乘律论及秘密经籍。部以十数。皆耳于口授。目于手示。得乎理之所归行之所趣。帝师西还。送至临洮。以久劳侍从弗堪跋涉之勤。见留于洮。师留是十有九年。依大士绰思吉玩卜。覆所既闻。受所未传。切磋琢磨。于是义逾精道益明矣。是以誉延两京道重三朝。事二圣於潜。竭勤逾纪。从属车往返二都。虽雨夕风朝。恒在宫壶。逮武宗践祚。上处春闱。眷藩邸之旧。锡赉以千万计。初师在临洮。秦人请居古佛寺。至是乞归以所赐大厥宇。谋老汐上。未几以太后诏徴还两宫之赐。视前有加。锡金印驼纽。封号弘法普济三藏大师。延祐五年八月十六日。化于京师。年七十有三。以闻。上恻焉兴叹久之。两宫赐币以葬。皇太子遣使至奠。敕有司备仪卫送之都门之外。谥佑圣国师。给乘骑归葬成纪焉。

  是年六月再立行宣政院。参用常选职官。

  (己未) 敕建大永福寺(即青塔寺)○一月朔日食。

  (二十五) 京师大宝集寺妙文讲主卒。姓孙氏。蔚州人。妙文讳也。九岁为浮图。年十有八畦服游学。跋涉云朔之墟。观风燕赵之邦。二十一预苾刍戒。抵京师依大德明公。学圆顿之道。陆沉于众者积年。三十有二以众劝请之殷。乃始赤服升猊。就传明之列。其涵养冲挹无欲速成名。不躁进求达类如此。四十有八居蓟之云泉。勤节俭用。老者怀其德。少者严其教。故众睦而寺治。比再稔廪有余粟。岁荒以赈饥民。蓟人称焉。世祖闻其道。召见之。顾谓侍臣曰。福德僧也。诏居宝集。时禅学浸微。教乘益盛。性相二宗。皆以大乘并驱海内。相学之流囿于名数滞于殊途。蔽情执之见。惑圆顿之旨。师独大弘方等。振以圆宗。使守株于文字者。有以荡涤情尘融通寂照。是以龙象蹴踏。竞附一乘之驾焉。年逾八十。益倦于勤。以寺任诸弟子。退居逸老专念佛三昧。延祐六年 月 日卒。年八十有三。告终之日。诫弟子高声唱佛名。遽起跏趺结三昧印。泊然长逝。塔于平则门外。

  (庚申) 正月朔。日有食之。

  (二十六) 三月十一日。登极大赦。

  (辛酉) 英宗格坚皇帝 改年至治。

  诏各路立帝师殿。追谥曰。

  皇天之下一人之上开教宣文辅治大圣至德普觉真智祐国如意大宝法王西天佛子大元帝师班弥怛拔思发。是年。

  (二十七) 敕建帝师殿碑 光禄大夫大司徒大永福寺住持释源宗主(法洪)奉 敕。撰翰林学士赵孟頫书。参议中书省事(臣)元明善篆额。

  古之君天下者皆有师。惟其道之所存。不以类也。故赵以图澄为师。秦以罗什为师。夫二君之师其人也。以其知足以图国。言足以兴邦。德足以范世。道足以参天地赞化育。故尊而事之。非以方伎而然也。皇元启运北天奄荒区夏。世祖皇帝。旧神武之威。致混一之绩。思所以去杀胜残跻生民于仁寿者。莫大释氏。故崇其教以敦其化本。以帝师拔思发有圣人之道。屈万乘之尊。尽师敬之节。咨诹至道之要。以施于仁政。是以德加于四海。泽洽于无外。穷岛绝屿之国。卉服魋结之氓。莫不草靡于化风。骏奔而效命。白雉来远夷之贡。火浣献殊域之琛。岂若前代直羁縻之而已焉。其政治之隆而仁覆之远。固元首之明股肱之良。有以致之。然而启沃天衷克弘王度。寔赖帝师之助焉。皇上重离继明应干承统。以为法位久旷道统将微。以师犹子之子公哥禄鲁斯监赞。嗣帝师位俾修其法。敛时五福祐我家邦。有河西僧高沙刺巴。建言于朝。以为孔子以修述文教之功。世享庙祀。而光帝师德俟将圣师表一人。制字书以资文治之用。迪圣虑以致于变之化。其功大且远矣。而封号未追庙享不及。岂国家崇德报功之道哉。大臣以闻。诏郡国建祠宇。岁时致享。师萨思迦人。族款氏。祖朵栗赤。当吐蕃之盛。相其君伯西海。后十余世。皆以学德为国宗范。师生八岁。诵经数十万言。又能约通大义。国人以为圣。故称拔思癹。长而学富五明。故又称班弥怛。其所师而学焉。友而问焉者。数十人。皆有盛名于时。故其所有汪不可涯矣。其所撰述皆辞严义伟制如佛经。国人家传口诵。宝而畜之。夫敏者怠于博学。贵者耻于下问。才高而位重。则矜己而骄物。此人之恒也。师以生知之明。为天子师。可谓敏且贵矣。而乃博学无厌下询遗老。人有一法不远千里而求之。虽硁硁之谅。佼佼之庸。苟有可取无遗焉。负绝世之材。材莫大焉。处帝师之位。位莫重焉。而乃孜孜于道。循循诱物。惟恐德之不修。道之不弘。未尝以多能自圣而有满盈之色。旷若空谷静若深渊。远若云霞。重若丘山。岂非至德。其孰能与于此哉。其道之所被。德之所及。犹杲日丽乎天。明无不照。阳和煦于物。气无不浃。其高如天。不可阶而升也。其大如海。不可航而涉也。以不言而民信。不劝而物从。所过者化。所存者神。匪天纵之将圣。孰能与于此哉。故天子法天地尚德右功之道。着皇王之盛典。崇庙享之报宜乎。龟趺螭首刻颂遗烈昭示无极(洪)以狂斐猥承明诏。序而铭之。其铭曰。佛道弘大。洋海无际。滔天沃日。并育万类。于彼将圣。象罔得一。推厥绪余。以匡王国。烈烈皇祖。草昧天造。奠是南纪。功格苍昊。天锡睿哲。俾翊我后。敦彼薄俗。化于仁厚。汪濊漏泉。波及无外。航浚梯阻。万邦咸会。郡邪鸱扬。维鸠之竞。式遏诡类。率俾吾正。赳赳武夫。蚩蚩嚚鄙。德训所及。风振草靡。惟月之恒。惟日之升。惟师之道。罔或不承。栾栾清廉。惟时享之。有伟其貌。惟时仰之。莫高匪山。莫深匪渊。刻铭颂烈。永世无迁。

  (廿八) 五台山大普宁寺弘教大师性讲主卒。公讳了性。号大林。武氏。惟古因生赐姓。胙土命氏。公之先莫详世系。然考之命氏之原。武子姓。其后邑于宋。宋武公之后。以谥为氏。公少好学。聪睿之性。殆天启之。依耆德安公为浮图。既登具。历诸讲庠。探颐经论研精秘奥。始遇真觉国师。启悟初心。既而周游关陕河洛。历汴汝唐邓。放予襄汉。寻幽览胜以博其趣。所至必访其人。询至道之要。其所师而学者。如柏林潭公。关辅怀公。南阳兹公。皆以义学著称。及归复见真觉于垄坻。逾见墙仞之高。堂室之奥。乃曰。佛法司南其在兹乎。后从真觉至台山。真觉殁北游燕蓟。晦迹魏阙之下。悠悠如处江海之上。与世若相忘焉。然以怀壁之美被褐而莫掩。名既喧于众口。声遂闻于九重。会万宁既建。诏公居之。至大中太后创寺台山。寺曰普宁。以兹擅天下之胜。住持之寄。非海内之望。莫能胜之。故以命公。公居此山十有余年而殁。公为人刚毅。颇负气节。不能俯仰随世嫔悦于人。虽居官寺。未尝至城府造权贵之门。或谓公少和气。公曰。予以一芥苾刍。天子不以人之微处之大寺。惟竭诚夙来匪懈。图以报国而已。夫何求哉。必有臧仓毁鬲之言。盖亦营营青蝇止于棘樊耳。顾予命之不遭。道之不行。纳履而去之。何往而不得于道乎。时国家尊宠西僧其徒甚盛。出入骑从拟迹王公。其人赤毳峨冠岸然自居。诸名德辈莫不为之致礼。或磬折而前。抠衣接足丐其按顶。谓之摄受。公独长揖而已。或谓公傲。公曰。吾敢慢于人耶。吾闻君子爱人以礼。何可苟屈其节而巽于床自取卑辱乎。且吾于道。于彼何求哉。彼以其势自大而倨。吾苟为之屈焉。非谄则佞也。焉有君子而为佞谄之行哉。识者壮其气。以谓如佛印元公之遇高丽王子。可谓识大体而得乎礼矣。至治元年九月三日。殁于普宁寺。既火化以舍利。塔于竹林之墟。

  (廿九 壬戌) 故荣禄大夫司徒大玉山普安寺住持。幻堂严讲主卒。公康氏成纪人。讳宝严。字士威。号幻堂。父某以罹丧乱弃俗为僧。昆弟六人。公其季也。少以迈往之气不乐处俗。与其弟金剃染。从佛求出世之道。每逢名德启讲。必往听而问焉。尝谓学而不思。思面不学。君子所忧。虽通其说而不通其宗是学而不思也。岂称达者哉。况文字之学。守株象迹惑于多岐。焉能涉同归之海。造圆顿之奥乎。听其说固辩矣。观其所得则未也。于是既问而学之。以博其趣而益致其思焉。是其所以造诣。盖得之系表。故其讲说深有宗通理味。后嗣真觉国师。传贤首宗教。以师承既高见解益明。其方寸之地。湛如止水。莹若明镜。物我相形。辄影见于中。虽以天资之高而德器之美。抑亦师友玉琢兰薰而致及真觉以诏居大白马寺。公与金从至洛汭。及居大万圣佑国寺。又从至台山。真觉殁。诏以公继其位。后公以太后诏居大普安寺。诏以金继公居佑国寺。公于至治二年七月某日殁。年五十有一。诏复以金居普安寺。金以公之丧葬东封谷之口。建塔以修祀事焉。

  (三十 癸亥) 至治三年八月十四日。天目山中峰卒。敕谥普应国师法云之塔。奎章学士虞集奉敕撰铭。其略云。天目之山有师子岩。高峰妙禅师居之。设死关以辨决。参学之士望崖而退者众矣。得一人曰本公是为中峰和上。师生有异徴。为童儿嬉戏必为佛事。稍长阅经教然指臂。求佛甚切。昼夜弥励。困则首触柱以自儆。期必得乃已。及入死关密叩心要。诵金刚经。至荷担如来阿耨多罗三藐三菩提处。恍然开悟。自谓所证未极。励精勤苦咨诀无怠。及观流泉乃大发明。师亦閟而不闻。自是说法无碍。高峰将戢化权。遂书真赞属诸师云我相不思议。佛祖莫能视。独许不肖儿。见得半边鼻。其授受不虚若此。著书若干卷。行于世。仁宗皇帝闻而聘之。不至。制金纹伽黎衣赐之。号之佛慈圆照广惠禅师。赐师子院。名曰正宗禅寺云云。师讳明本。宋景定癸亥岁生钱塘孙氏。年六十一。僧腊三十五。化于其山之东冈。

  是年四月赐瀛国公合尊死于河西○诏僧儒金书藏经○八月四日上崩。

  (甲子) 改泰定。

  (丁卯) 帝师公哥罗于十月某日涅槃。

  (戊辰) 九月十四日即位。年改致和为天历元年○(礼公哥罗亦中纳思监臧班臧卜文国公为师。是年革行宣政院设立十六处广教总管府以摄僧)。

  (己巳) 敕建崇禧万寿寺于蒋山。

  (庚午) 改至顺元年○诏改建康为集庆路○敕建大龙翔集庆寺。

  (壬申) 亦辇真班皇帝九月即位。

  (三十一) 大都妙善寺比丘尼舍蓝蓝八哈石卒。师讳舍蓝蓝。高昌人。其地隶北庭。其地好佛。故为苾刍者多。太祖皇帝龙飞漠北。其王率所部以从。帝嘉其义。处之诸国君长之上。待以子婿之礼。海都之叛国人南徙。师始八岁。从其亲至京师。入侍中宫真懿顺圣皇后。爱其明敏恩顾尤厚。成宗之世。事皇太后于西宫。以侍从既久勤劳之多。诏礼帝师迦罗斯巴斡即儿为师。剃染为尼。服用之物皆取给于官。又胝宫官例继以既廪。武宗继统。仁宗以太弟监国。师朝夕于太后之侧入而侍出而从。所言必听。所谏必从。眷宠之隆。犹子侄焉。内而妃主外而王公。皆敬以师礼。称曰八哈石。北人之称八哈石。犹汉人之称师也。仁宗之世。师以桑榆晚景。自谓出入宫掖数十余年。凡历四朝事三后。宠荣兼至。志愿足矣。数请静退居于宫外。求至道以酬罔极。太后弗听。力辞弗已。诏居。妙善寺。以时入见。赐予之物不可胜纪。师以其物。创寺于京师。曰妙善。又建寺于台山。曰普明。各置佛经一藏。恒业有差。又以黄金缮写番字藏经般若八千颂五护陀罗尼十余部及汉字华严楞严畏元字法华金光明等经二部。又于西山重修龙泉寺。建层阁于莲池。于吐蕃五大寺高昌国旃檀佛寺京师万安等。皆贮钞币。以给然灯续明之费。又制僧伽黎文数百。施番汉诸国之僧。其书写佛经。凡用金数万两。创寺施舍所用币数以万计。其积而能散。施予不吝。期积福于来生。必至于佛地者。皆人所不能也。英宗之明。以其有静退之高眷遇尤至。每称之贤以为知几。文宗即位今皇太后居中宫以皇妣鲁国太长公主。爱重于师有兄弟之。义尤加敬焉。至顺三年二月廿一日殁。年六十四。葬南城之阳。赐号真净妙惠大师。

  (三十二) 临坛大德律师汶公卒。姓张氏。讳惠汶。归德之偃武人也。驱乌之岁。依耆宿釭公为浮图。二十而进具。从大德温公受菩萨戒。嗣法坛主恩公。既而行业日隆道益着。从学者益众。佛制凡为苾刍。虽大节不亏而细行必谨。非法不服非时不食。居处动作皆有轨则。所以戒昏堕而防逸德也。公斋戒既严。护衣惟谨。鸡鸣而兴坐以待旦。干干终日惟佛是念。虽道行旅宿三衣一钵必与身俱。制行虽高而无矫饰之节。操存虽固而无诡徼之迹。是以言而人莫不信。动而人莫不敬。两河之间三监旧邑从化者。盖以万数。缁素相率而求戒法者。幢幢接迹于途。承一训言莫不欢心。感戴说法数十余年。升坛授戒四十余会。大臣接以师敬之礼。至顺三年十一月廿二日殁。年七十有三。

  (癸酉) 今上皇帝万万岁 六月初八日登宝位。改元统元年。礼请公哥儿监臧班臧卜。为帝师。

  旃檀瑞像自周穆王庚寅○───┐        ┌─○二千三百二十四年

  世尊示灭自周穆王壬申○─○─┤止元统元年计○─┼─○二千二百八十二年

  大教东被自东汉明帝戊辰○──┘        └─○一千二百六十六年

  佛祖历代通载卷第二十二