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横浜はなぜ横浜というのか?【連載:アキラの着目】

これまでのニッポンニュースで取り上げてきた地名の由来は、江戸・東京の町ばかりだったが、今回は横浜を取り上げてみる。

横浜は、言わずと知れた東京に次ぐ第2の都市であり、戦前までは「横濱」と表記していた。

現在では、横浜というと、横浜駅を中心とした狭いエリアを称す横浜と、横浜市一帯を称す横浜の2種に分かれる。

当然ながら、昔からの”浜っ子”からすれば、後者の横浜は横浜とは言えず、前者の横浜が正真正銘の横浜なんだ、と断言する。

さて本題に入るが、なぜこの地を「横浜」というようになったのかというと、その名の通り「横の浜」があったからだ。

1600年代初頭の横濱村一帯の古地図
1600年代初頭の横濱村一帯の古地図

古地図の赤で囲った地域が、入海に蓋をするように「横」に突き出した「浜」があるのが見てとれよう。

この「横」に突き出した「浜」は「宗閑嶋(しゅうかんじま。洲干嶋とも表記)」とも言われた砂州で、現在の地名で言うと山下町にあたり、1800年代までは横浜と言ったら、このエリアだけをさしていた。

その当時は、漁師の家80数戸しかない寒村だったのだ。

横濱周辺ではナマコがよく獲れたようで、横濱村民は獲ったナマコを煮て、乾燥させ、干しナマコとして江戸に送った。

その横濱産ナマコは、江戸商人によって長崎にまで運ばれ、長崎から中国すなわち当時の清帝国に渡ったとのことだ。

入海のある横濱は、いつ現在のような埋め立てられた横濱になったのかというと、明暦2年(1667年)だ。

現在の地図に照合した1600年代初頭の横濱
現在の地図に照合した1600年代初頭の横濱
本来の北向き地図に照合した1600年代初頭の横濱
本来の北向き地図に照合した1600年代初頭の横濱
吉田勘兵衛という人が、約10年の歳月を費やして、横濱の入海を埋め立てたのだ。

埋め立てられた後の横濱は、半漁半農の長閑な村として続いた。

そんな長閑な、前述した通り80数戸しかない横濱村が一躍歴史の表舞台に立つことになったのは、アメリカの影響だ。

安政5年(1858年)に締結された日米修好通商条約により、当初は東海道の宿場町として賑わっていた神奈川の開港が定められた。

しかし、外国奉行・岩瀬忠震、松代藩士・佐久間象山らの進言により、東海道に直結した神奈川宿・神奈川湊を避けて、神奈川湊の対岸に位置する横濱村を開港場として新設することを徳川幕府が決定したことで、それ以降横濱は発展の一途をたどることになったのだ。

80数戸しかない寒村が、日本第2位の都市にまで発展するのだから、歴史はわからないものだ。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099