考古学者は全面保存を主張、JR東日本は一部保存を主張、高輪築堤【連載:アキラの着目】

4月10日、JR東日本によって一般向けの「高輪築堤」4街区現地見学会が開催された。

1月に第1回目の「高輪築堤」現地見学会が開催されたのに続き、今回は2回目。

JR東日本が現在高輪ゲートウェイ駅周辺の再開発事業を手掛けている中の「4街区」と呼ばれる計画エリアが見学対象となり、9:00~16:00までの間を30分毎の見学時間に分け、各回20組(2人1組)を上限とした。

1872年10月に日本初の鉄道(新橋[現・汐留]~横浜[現・桜木町])が開業したが、「高輪築堤」は本芝~品川までの海上に構築された堤。

2019年4月の品川駅改良工事において「高輪築堤」の石積みの一部を発見、同年11月の品川駅付近山手線・京浜東北線線路切換工事後に行なわれたレール撤去の際に「高輪築堤」の一部と見られる構造物も発見された。

明治時代の高輪築堤 日本国有鉄道「日本国有鉄道百年 写真史」から引用
明治時代の高輪築堤 日本国有鉄道「日本国有鉄道百年 写真史」から引用

高縄鉄道之図(歌川芳年-1871年)で描かれた高輪築堤

そもそもなぜ本芝~品川間にだけ海上に堤を築き、線路を敷設したのか。

それは、本芝~品川間の海岸線が当時の日本にとって国防上重要であり、兵部省が本芝~品川間における陸地の使用を許可せず、やむなく海を埋め立てて堤を築き、線路を敷設せざるを得なかったからだ。

ひっきりなしに打ち寄せてくる波で築堤が浸食されないよう海側築堤の石垣はなだらかな傾斜を付けて組まれた。

しかし、それでも波で石垣が崩れるかもしれないから、石垣の手前に石垣のストッパーとして木の杭を無数に地中へ打ち込んだ。

「高輪築堤」の石垣、信号機跡と思われる張り出した石垣、木の杭

全長南北2.7kmにも渡る「高輪築堤」の土はどこから運んできたのかというと、品川・八ツ山からといわれている。

品川・八ツ山を切り崩した土を荷車や牛車で運び、地道に埋め立てたのだ。

「高輪築堤」に組まれた石垣の石は、伊豆半島から調達したとのことで、江戸城の石垣と同じ調達先だ。

江戸城の石垣の場合は、石垣よりも上に建造物が積載され、かなりの負荷が加わるため、また将軍の威光を反映させるために石垣の1つ1つが大きく切り出されているが、「高輪築堤」の石垣は本芝から品川にかけての区間が緩やかに湾曲していることから、カーブを付けやすいよう、石垣の1つ1つがコンパクトに切り出されているようだ。

この明治時代に構築された「高輪築堤」は、明治の鉄道遺構として考古学者らは全面保存の必要性を主張、一方のJR東日本は全面保存ではなく一部保存を主張し、議論は平行線のままだ。

筆者の考えは、「高輪築堤」全面保存をすることで、これを上手な集客ツールとして利用できないかと。

城好きの筆者が観ても、「高輪築堤」の堤や石垣は、”そそる”ものなのだ。

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