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ここは一体東京のどこ?【連載:アキラの着目】

世界でも有数の都市に数えられる東京。

しかし、東京といえども、一朝一夕でここまでの大都市になったわけではなかった。

江戸時代には100万人超の人口を抱えていた大都市ではあったが、現在の視点で捉えると、経済成長期前までは、まだまだローカル色の強そうな街だったのだ。

そこで今回は、まだまだローカル都市っぽかった頃の東京の街の写真3枚をピック・アップし、どこの街かあててみてみよう、というクイズにしてみた。

では早速問題へ。

Q1.ここは東京のどこの街なのか?

Q2.ここは東京のどこの街なのか?

Q3.ここは東京のどこの街なのか?

3枚の写真全てがわかった人はかなりの東京通(とうきょうつう)だ。

では順番に正解を発表しよう。

A1.渋谷道玄坂

渋谷道玄坂

ちょうどこの分岐点で左に上る坂が道玄坂だ。

いまでこそ若い女の子の圧倒的支持を受けた「渋谷109」が高く聳え立ち、ランドマークとして渋谷を象徴しているが、明治時代の道玄坂はなんとも長閑で、どこの田舎の宿場町なのかと思えるくらいだ。

ここまで変わることができるのか、という街の変遷サンプルに最もふさわしいスポットかもしれない。

A2.西新宿

西新宿

貯水池のようなエリアがヒントとなり、これから西新宿と判別できる。

この貯水池のようなエリアは、明治31年(1898年)に通水し、昭和40年(1965年)に廃止となった淀橋浄水場だ。

この広大な淀橋浄水場の跡地に高層ビルが次々に建てられ、平成2年(1990年)12月には東京都庁舎が建てられた。

現在の写真を見れば、もう一目瞭然で西新宿と判別できるだろう。

因みに昔の地図では西新宿という地名は存在せず、この淀橋浄水場一帯を「角筈(つのはず)」、また熊野神社よりも西側一帯を「十二社(じゅうにそう)」と呼んでいた。

A3.丸の内(東京駅前)

丸の内(東京駅前・三菱ヶ原)

クイズに適した明治期の写真が見つからなかったので、明治23年頃に描かれたといわれている作者不明の「三菱ヶ原」という絵画を設問の素材に使用したのだが、この丸の内も昔と現在がかけ離れすぎて、驚いたかと。

元々この丸の内の場所は、明治政府からの払い下げで財閥の三菱が購入したエリアで、そのため三菱が購入した原っぱなので、当時は「三菱ヶ原」と呼ばれていた。

東京駅が完成してからも丸の内は相変わらず原っぱのままで、近所の子供たちがバッタを追いかけて、捕獲して遊んでいたのだとか。

現在、オフィス街である丸の内からはとても当時バッタが飛び交っていた原っぱだったとは想像できない。

最後にあらためて渋谷道玄坂、西新宿、丸の内の今昔写真を並列して締めくくることにする。

渋谷道玄坂の今昔

渋谷道玄坂の今昔

西新宿の今昔

西新宿の今昔

丸の内(東京駅前)の今昔

丸の内の今昔

今後もクイズに適した写真が見つかれば、第2弾、第3弾と「東京のどこの街なのか?」をやってゆきたい。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

地下鉄の乗り換えは必ずしも便利ではない!? ~東京地下鉄事情~【連載:アキラの着目】

地上を走るJR線、私鉄各線、都バス以外にも、東京メトロ、東京都営地下鉄といった地下を縦横無尽に走る地下鉄もある大都市・東京。

東京都内 地下鉄路線図

SUICAやPASMOを持っていると、なおさらこれら交通機関相互の乗り換えがスムーズになり、東京の街と街の行き来が大変楽になる。

しかし、この便利さは場合によっては不便な場合もあるのだ。

結構乗り換えに詳しい人ほど、これから書くことが盲点だったりするので、実際の地図や距離を念頭に置きながら、東京の街や駅の移動をすると良いかと。

【交通機関による乗り換え移動よりも徒歩移動が便利なケース】

1.東京駅-日本橋駅

日本人でも東京以外の地方から来た人が知らないがゆえに嵌ってしまうのが東京駅-日本橋駅の往来だ。

東京駅と日本橋駅は距離的にはせいぜい500mくらいなので、歩いても10分もかからない。

東京駅と日本橋駅 周辺地図

しかし、東京駅と日本橋駅が距離的にそんなに近いことを知らなかったり、逆に乗り換えに詳しいばかりに、東京駅から東京メトロ丸ノ内線に乗り、大手町駅で東京メトロ東西線に乗り換え、日本橋駅で降りてしまう人も実際にいたりするのだ。

大手町駅の乗り換えは、かなりの時間をロスするし、地下鉄の待ち時間も考慮すると、どう考えても電車賃をかけてまで地下鉄で日本橋駅まで行く必要はない。

徒歩移動の方がはるかに早いし、乗り換えの煩わしさからも開放され、ストレスなく移動できることだろう。

2.有楽町駅-東銀座駅

歌舞伎座の最寄り駅が東銀座駅で、歌舞伎座のほぼ真下にあることから、つい地下鉄で行こうとする人がいるのだが、有楽町駅からまず日比谷駅まで乗り換えのために徒歩で移動し、それから日比谷線で東銀座駅に降りるのは、むしろ面倒くさい。

有楽町駅から日比谷駅まで歩くのがそもそも方向的に歌舞伎座とは反対の西方向なので、どうせなら有楽町駅から東方向に歩き、そのまま歌舞伎座を目指す方が煩わしくないし、時間的にも大して差がないのだ。

有楽町・日比谷・銀座・東銀座 周辺地図

3.恵比寿駅-代官山駅

これまた徒歩の方がメリットがある区間だ。

近年、東京の中ではかなりおしゃれなエリアの恵比寿・代官山は、風景を見ながら移動すべきだ。

街を知ることができるし、隠れ家的な店を発見できるかもしれないし、男性ならば何よりも美女を多く目にすることができるのが、この恵比寿駅-代官山駅の徒歩移動なのだ。

これまた地図を見ていないと、恵比寿と代官山が隣り合わせというのがわからないから、恵比寿で降りないで、そのまま渋谷駅に行き、東急東横線に乗り換え、1駅だけの乗車で代官山駅に降りるという、これまた煩わしく面倒な移動をしてしまう人が多いのだ。

恵比寿・代官山 周辺地図

時間的にはこの区間も1.、2.と同様に渋谷駅乗り換えによる移動も、恵比寿駅からの徒歩移動も大して差がない。

こんな具合に、結構東京では街と街、あるいは駅と駅、さらには街と駅は近かったりするので、地図をしっかり見て、電車・地下鉄等を乗り換えてまで移動するに値する区間かを検討した方がよいだろう。

実際に歩いてみると、様々な発見があったり、新たに知ることができたり、見ることができたり、街を感じることができて、なかなか良いものだ。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

FJ時事新聞おすすめスマホアプリ・『東京古い地図』【連載:アキラの着目】

新年早々、FJ時事新聞がおすすめするスマホアプリは『東京古い地図』だ。

このスマホアプリ『東京古い地図』は、明治時代の東京の街が、どのような町割りや区画だったのか、またそこは住宅地だったのか、畑だったのか、何だったのかがわかるのだ。

『東京古い地図』をインストールして起動すると、まずは東京駅周辺の古い地図(明治時代)が表示される。

『東京古い地図』を起動したら表示される東京駅周辺図

このスマホアプリでは「東京5000」という名称の地図なのだが、もっと後の時代の地図を見たい場合は、右上の「迅速測図」あるいは「地図」をクリックする。

「迅速測図」をクリックすると、戦前の軍による測量により作成されたと思われる地図が表示され、旧陸軍駐屯地なども載っている。

アプリ『東京古い地図』の「迅速測図」で表示された渋谷・恵比寿周辺

「地図」をクリックすると、現在の地図が表示される。

アプリ『東京古い地図』の「地図」で表示された渋谷・恵比寿周辺

「東京5000」、「迅速測図」、「地図」を見比べると、かなり異なる用途の土地に変わっていたりで、かなり楽しめる。

東京の街の歴史について知りたい時や、散策をして、昔を偲びたい時には、かなり重宝するスマホアプリだ。

ちなみにスクリーンショットしたこれら3枚の画像のうちの2枚目と3枚目は渋谷・恵比寿周辺を表示しており、今でこそ日本一の乗降客を誇る渋谷も「迅速測図」を見ると、長閑な田園風景が広がる村であったことがわかる。

今いる、今歩いている東京の街が昔はどうなっていたかを、この『東京古い地図』で確認しながら散策するのも楽しいかと思われる。

ぜひ『東京古い地図』をインストールして、使ってみよう!

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

もうゲットした? コカ・コーラ上野限定ボトル【連載:アキラの着目】

上野のパンダ・シャンシャン誕生記念で発売されたコカ・コーラ上野限定ボトル。

細身の赤いボトルには、竹を齧っているパンダと、上野不忍池辯天堂と蓮の花と葉が描かれている。

シャンシャン・不忍池が描かれたコカ・コーラ上野限定ボトル

「上野」の文字も、細身のボトルにはみ出さないようメリハリを効かせた明朝体を使用しており、タイポグラフィを実践したクールなデザインだ。

ちなみにコカ・コーラ地域限定スリムボトルは、6月から発売されており、北海道限定(北海道ボトル)、東京を中心とした地域(東京ボトル)、関西(京都ボトル)、中国・四国(瀬戸内ボトル)、九州(熊本ボトル)、そして11月からは上野ボトル、埼玉ボトル、名古屋ボトルも発売済みだ。

まだ飲んでいない人は、今すぐコカ・コーラ限定ボトルをゲットだ!

シャンシャン・不忍池が描かれたコカ・コーラ上野限定ボトル
シャンシャン・不忍池が描かれたコカ・コーラ上野限定ボトル
コカ・コーラ プレスセンターより引用

■国内5地域限定!「コカ・コーラ」スリムボトル 地域デザイン
https://www.cocacola.co.jp/press-center/news-20170613

■「コカ・コーラ」スリムボトル 上野・埼玉・名古屋限定ボトル
https://www.cocacola.co.jp/press-center/news-20171109-11

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

麻布十番にある古刹・善福寺(東京都港区)【連載:アキラの着目】

BUKKYO時事新聞から自転車で12、3分で行けた観光スポットを今回はご紹介しよう。

それは麻布十番にある麻布山善福寺だ。

善福寺は、平安時代の天長元年(824年)に空海(弘法大師)によって、真言宗を関東一円に広めるために高野山に模して開山された。

都内では金竜山浅草寺、深大寺に次ぐ古い寺院と善福寺はいわれている。

鎌倉時代には、親鸞聖人が善福寺を訪れ、迎えた了海上人は、親鸞聖人の高徳に傾倒し、一山をあげて真言宗から浄土真宗に改宗した。

二度の蒙古襲来に際し、善福寺は文永3年(1266年)に亀山天皇から勅願寺とされ、また、大坂石山本願寺に籠城する僧に援軍を送った石山合戦(安土桃山時代にあった石山本願寺&浄土真宗本願寺勢力と織田信長の戦い)以降、豊臣秀吉から天正18年(1590年)寺領を保護され、手厚い待遇を受けた。

善福寺が一躍歴史の舞台に登場したのは、もちろん親鸞聖人によるものも大きいが、それ以外では幕末に初代アメリカ合衆国公使館となったことも影響が大きいだろう。

安政6年(1859年)5月27日、タウンゼント・ハリスがアメリカ駐日公使に昇任したことで、善福寺は初代アメリカ合衆国公使館としてハリスと館員たちを迎え入れ、明治8年(1875年)12月8日までアメリカ合衆国公使館として使用された。

説明が長くなったが、参道入口からご案内しよう。

麻布山善福寺参道入口
麻布山善福寺参道入口
柳の井戸
柳の井戸

柳の井戸は、空海(弘法大師)が柳の木の下で錫杖を立てたところ、湧き出してきたとの言い伝えがある井戸で、善福寺の参道の右脇にある。

関東大震災や東京大空襲の際は、多くの人々が飲料水として利用し、現在でも少量ながら水が湧き出ている。

勅使門
勅使門

勅使門から本堂を望む

昭和20年5月15日の空襲で古くからあった勅使門は焼失し、現在の勅使門は昭和55年11月5日に再建された。

麻布山善福寺本堂
麻布山善福寺本堂

慶長12年(1607年)、徳川家康が東本願寺八尾別院本堂として建立し、京都天明の大火の後10年間、御影堂の役を勤めた建物を、昭和36年(1961年)に移築、再建した由緒ある建物で、平成21年(2009年)には港区の有形文化財に指定された。

アメリカ駐日公使タウンゼント・ハリスの記念碑

アメリカ駐日公使タウンゼント・ハリスの記念碑
アメリカ駐日公使タウンゼント・ハリスの記念碑

タウンゼント・ハリスアメリカ駐日公使が、安政6年(1859年)から明治8年(1875年)まで、初代アメリカ合衆国公使館として善福寺を使用したことを記念する碑。

逆さ銀杏
逆さ銀杏

樹齢750年余、都内最古の古木として国指定の天然記念物になっている逆さ銀杏は、貞永元年(1232年)、善福寺を訪れた親鸞聖人が立ち寄った際に持っていた杖を地面に刺したところ、銀杏の枝葉が繁茂したとの言い伝えがある。

鐘楼

鐘楼
鐘楼

親鸞聖人の銅像
親鸞聖人の銅像

善福寺が一山をあげて真言宗から浄土真宗に改宗したきっかけとなった親鸞聖人。

元麻布ヒルズ(高所得者向けマンション)と善福寺の墓地
元麻布ヒルズ(高所得者向けマンション)と善福寺の墓地

善福寺裏手にあるこの元麻布ヒルズは、元々善福寺の所有地であった敷地を森ビルが譲り受け、そこに1983年に建設されたマンションだ。

善福寺裏手に回るための階段があり、高低差のある地形だ。

福澤諭吉と妻・阿錦の墓
福澤諭吉と妻・阿錦の墓

近代日本の礎を創った、慶應義塾大学創立者・福澤諭吉とその妻・錦(きん)の墓が境内にある。

越路吹雪の歌碑

越路吹雪の歌碑
越路吹雪の歌碑

ご年配の方にかなり知られたシャンソン歌手・舞台女優の越路吹雪さんの歌碑。

麻布十番商店街からは少しだけしか離れていないにもかかわらず、境内は静かで、また「高低差マニア」も気に入る(?)地形でもある。

麻布十番に行った際は、立ち寄ってみてはいかがだろうか。

■麻布山 善福寺
http://www.azabu-san.or.jp/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

おすすめ東京観光スポット! ~NHK放送センター(東京都渋谷区)~【連載:アキラの着目】

地方出身者や外国人旅行者の人たちは、東京観光というと大抵は浅草だったり、原宿、渋谷、等々に行くのではないかと。

確かにそれらの街に繰り出して、ブラブラ歩くのも悪くはないが、夏場なら外歩きは汗だくになるし、今みたいな冬だと寒かったりするので、ここはオールシーズンで楽しめる東京観光スポットをご紹介する。

その東京観光スポットとは渋谷区神南にあるNHK放送センターだ。

そう、あの国営TV放送局のNHKだ。

このNHKの中に見学できるエリアがあるのだ。

JR原宿駅からでも、JR渋谷駅からでも行くことができ、↓の建物がそうだ。

NHK放送センター

エントランス横の受付で入場料(一般200円、団体20名以上150円、こども・高校生以下・18歳未満・65歳以上無料)を払い、中に入ると、過去に放送したドラマのセットを見ることができる。

筆者が行った時は、昨年の大河ドラマ『真田丸』の写真やセット、また朝の連続ドラマの写真などが並べられていた。

大河ドラマ『真田丸』の真田幸村
大河ドラマ『真田丸』のセット

修学旅行で東京に来ていた女子高生も朝ドラのセットを見学
修学旅行で東京に来ていた女子高生も朝ドラのセットを見学

また、プロの放送機材を操作して、簡単な番組作り体験もできるコーナーもあり、子供からお年寄りまで楽しめるようになっている。

簡単な番組作り体験もできるコーナー
簡単な番組作り体験もできるコーナー

一筆書きのような見学コースなので、最後はお土産コーナーに到着するのだが、必ずしもお土産を買う必要はないので、用がなければそのまま通り過ぎて構わない。

小一時間くらいならば、時間を潰せることができるので、もう観光する場所がないという時は、このNHK放送センターに行ってみるといいかも。

■NHK放送センター
http://www.nhk.or.jp/kengaku/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

昔の東京を見たいのなら、昔のドラマを観るべし!【連載:アキラの着目】

2020年の東京オリンピックを控え、渋谷の再開発や大規模道路沿いのビル再建工事など、目まぐるしく変化してゆく大都市・東京。

「あれ、ここは昔どうなっていたかな?」、「ありゃ、ここにあった木造の店がなくなっちゃって、ビルになっちゃったのか!」ということは東京においては日常茶飯事。

変わってしまった街は、もう取り戻せないし、観ることができない。

そうなると、昔の映像で観るしかないのだ。

幸い東京の場合は、昔から日本の中心地であり、ロケ地でもあるので、昔の東京の映像には事欠かない。

しかし、記録映像だとどうしても大衆が集う銀座や新宿、といった商業地が多く、駅から離れたエリアを撮影しているのが少なかったりするのだ。

でも、心配ご無用!

昔のドラマを観れば、昔の様々な東京の街が現れる。

例えば、石原裕次郎や渡哲也が出演していた『大都会』シリーズ。

このドラマだけ観ていても、かなり昔の様々な東京の街を観ることができるのだ。

実際に観てみよう。

ドラマ『大都会』シリーズで頻繁に犯人が立て籠もる料亭があるのだが、その場所は新宿区十二社(じゅうにそう)にある。

ドラマ『大都会』新宿十二社

なぜ十二社にあると断定できたのかというと、写真右奥に見える熊野神社があるからだ。

現在の新宿十二社

この約40年の間に熊野神社も建て替えたようで、社殿の向きが変わってしまったものの、料亭前の坂は変わらぬままで、これらを手がかりに十二社と判明した。

この十二社は、西新宿よりさらに西のエリアで、幕末-明治期には十二社池という北から南にかけて胡瓜形をした池があり、多くの料亭がひしめく景勝地としてかなり賑わっていた。

かの勝海舟も、この十二社池・熊野神社そばに別荘を構えていたそうだ。

新宿十二社(1896年~1909年)
新宿十二社(1896年~1909年)

しかし、現在ではその十二社池もすっかり埋め立てられ、池のほとんどはマンション等に変わってしまった。

因みに明治期の地図右側にある「淀橋浄水場」は現在、東京都庁をはじめとする高層ビル群に生まれ変わっている。

新宿区十二社(現在)
新宿区十二社(現在)
歌川広重 角筈熊野十二社
歌川広重 角筈熊野十二社

次に挙げるのが六本木・テレビ朝日周辺だ。

現在テレビ朝日がある場所は、かつてしばらくの間、ニッカウヰスキー東京工場があった。

ドラマ『大都会PartⅡ』では、当時の地図とロケ地に「ニッカウヰスキー」の文字が現れ、時代を感じさせる。

ドラマ『大都会PartⅡ』での六本木周辺 左端に「ニッカウイスキー」の文字
ドラマ『大都会PartⅡ』での六本木周辺
左端に「ニッカウイスキー」の文字

ドラマ『大都会PartⅡ』での六本木周辺 後ろに「ニッカウヰスキー」の文字
ドラマ『大都会PartⅡ』での六本木周辺
後ろに「ニッカウヰスキー」の文字

上と同じ場所(現在のテレビ朝日前)
上と同じ場所(現在のテレビ朝日前)

その後、ニッカウヰスキー東京工場は閉鎖し、空き地となり、再開発を経て、テレビ朝日となった。

テレビ朝日前を走る都道319号線は、現在でこそ六本木ヒルズの前にあるトンネルを潜り、六本木通りに抜けているが、かなりの長期間、トンネル前が封鎖されていた。

したがって、自動車や人の往来はなく、撮影に適したロケーションだったのだ。

ドラマ『大都会PartⅡ』六本木の都道319号線(現在のテレビ朝日前)
ドラマ『大都会PartⅡ』六本木の都道319号線(現在のテレビ朝日前)

上と同じ場所(現在テレビ朝日前)
上と同じ場所(現在テレビ朝日前)

ドラマ『大都会PartⅡ』六本木の都道319号線(現在のテレビ朝日前)
ドラマ『大都会PartⅡ』六本木の都道319号線(現在のテレビ朝日前)

上と同じ場所(現在テレビ朝日前)
上と同じ場所(現在テレビ朝日前)

都道319号線の六本木ヒルズ前にあるトンネル
都道319号線の六本木ヒルズ前にあるトンネル

上と同じ場所(六本木ヒルズ前にあるトンネル)
上と同じ場所(六本木ヒルズ前にあるトンネル)

このように、昔のドラマを観れば、嫌でも昔の東京の街や風景を観ることができるので、現在の東京を思い浮かべながら、ドラマ中の東京を観れば、比較でき、ちょっとしたタイムスリップ的な楽しみができるかと思う。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

FJ時事新聞おすすめの”生アイス”~Shiroichi(東京都渋谷区)~【連載:アキラの着目】

FJ時事新聞がおすすめする”生アイス”がある。

アイスクリームに見えるが、アイスクリームに非ず、これは”生アイス”なのだ。

渋谷・Shiroichiの生アイス

この”生アイス”を製造・販売しているのが、東京・渋谷にある「Shiroichi」だ。

なぜアイスクリームではなく、”生アイス”なのか?

それは、食べ頃が極めて短く、「鮮度が命」だからだ。

店員さんから手渡しでもらってから、早速一舐めすると、食感がいい意味で裏切られる。

通常のアイスクリームを思い描いて舐めると、脳が一瞬イレギュラーを起こすのだ。

視覚情報を元に脳は粘りっ気があるアイスクリームだと勝手に情報処理をするが、実際は粘りっ気など一切なく、特選生乳で作られた氷の結晶が、舌や口内に対し、その存在を主張し始めるのだ。

筆者の脳では、ちょうどいい比喩が見つからず、新雪を頬張った際の食感に近いといえばよいのだろうか。

ミクロで繊細な氷の結晶によって構成されている”生アイス”であるがゆえに、「Shiroichi」のホームページでは、食べ頃を「巻き上がり10秒後」と謳っている。

店内には、レモン水を無料で飲むこともでき、単なるアイスクリーム屋さんというよりは、おしゃれなカフェテリアのようなコンフォタブル・スペースとなっている。

渋谷・Shiroichiの無料レモン水

渋谷の109やセンター街ももちろん良いが、この「Shiroichi」で”生アイス”を食べるのもおすすめだ!

■Shiroichi
http://www.shiroichi.com/

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

江戸っ子と名乗れるのは?【連載:アキラの着目】

「てやんでぇ、こんちくしょう!」
「べらんめぇ、馬鹿言ってんじゃねぇよ!」
「すっとこ、どっこい!」

威勢のいい、独特の言い回しをする江戸っ子。

江戸っ子

だが、一口に江戸っ子といっても、実はもっと細分化されるのだ。

それもそのはず、「大江戸八百八町」とも称される大都市・江戸なのだから、町ごとに特色があり、それぞれの町に住む人種や職業も異なったりするので、気質も同じではないし、全ての江戸の人たちを江戸っ子とはいわないのだ。

神田生まれだと「神田っ子」、芝の生まれだと「芝っ子」、同様に「下谷っ子」、「本所っ子」、「深川っ子」と呼び分けているのだ。

では、江戸っ子という人たちはいないのかというと、ちゃんといるわけで、それは日本橋生まれの人たちが江戸っ子と名乗れる。

前述の「神田っ子」、「芝っ子」などの人たちは、日本橋に対し敬意を払っているので、自分たちは江戸っ子と名乗らずに、江戸っ子と名乗るのは日本橋生まれの人たちに譲ってあげよう、ということで「江戸っ子=日本橋生まれ」となっている。

また、最低でも3代続いて江戸に住み着いていないと、江戸っ子と名乗ってはいけない、という暗黙のルールもあったりする。

他所もんが江戸に住み着いても、安易に江戸っ子と名乗らせないためなのか、そこのところはよくわかっていないのだが。

そんなわけで、江戸っ子と名乗れるのは「日本橋生まれで、最低でも3代続いて江戸に住み着いていること」に当てはまる人ということになる。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099

東京の様々な地名の由来 ~お台場(東京都港区)後編~【連載:アキラの着目】

前回は、お台場の地名の由来となった、品川台場(品川砲台)の成り立ちについて説明した。

今回は、実際に品川台場(品川砲台)の中で現存している第三台場のレポートをお伝えする。

第三台場へのアクセスは、ゆりかもめが便利で、「お台場海浜公園」駅で下車する。

ゆりかもめ路線図

新橋からゆりかもめに乗り、「芝浦ふ頭」駅を過ぎて、お決まりのループも過ぎると、右手に第三台場を眺望することができる。

品川第三台場

あらためて東京湾の中に築造された人工島なんだと認識できる。

「お台場海浜公園」駅で下車し、西側の海方面へ歩くと、台場公園やデックスお台場が網羅された案内図が現れる。

お台場海浜公園周辺案内図

これを見て、まずは第三台場が方形であることを頭に入れておこう。

余談だが、なぜ第三台場は方形なのかというと、十字砲火を可能にするためなのだ。

話を元に戻そう。

案内図の裏手に回ると、大砲の弾に見立てた、丸い球状のオブジェなのか腰掛けなのか不明なものが現れる。

お台場海浜公園

この球に座ってしばしお台場の浜辺を眺めるのもいいだろう。

お台場の浜辺
お台場の浜辺

西に向かって歩みを進めると、第三台場へ向かう”土橋”に着くので、そこをさらに歩いて行く。

品川第三台場への”土橋”
品川第三台場への”土橋”

2分も歩けば、第三台場が視界に入ってくる。

私が行った時は、欧米人女性2人が佇んでいた。

品川第三台場

打込み接ぎ(うちこみはぎ)という石の積み方があるのだが、それに似た石垣を観ることができる。

品川第三台場品川第三台場
品川第三台場

木造の階段を上がっていくと、ちょっとした土塁に刻まれた道2本が現れるので、どちらかを通っていくと、

品川第三台場

台場公園案内に出くわすので、しっかり品川第三台場のあらましについて読んでおこう。

台場公園案内板
台場公園案内板

台場公園案内を見たら、品川第三台場の内側に目を向けてみる。

広大な窪地が視界に飛び込んでくるので、現在自分のいる場所がいかに高く、高低差があるか、一目瞭然だ。

品川第三台場
品川第三台場

品川第三台場の南側角にまで行くと、某お台場テレビ局と品川第三台場の松とのコラボを観ることができる。

品川第三台場

同じ場所から90度西方向に顔を向けると、今度は緑の生い茂った防波堤(左)と、品川第六台場(中央から右)が見える。

品川第三台場

そのまま西方面に進むと、今度は大砲の台座が現れる。

古めかしい大砲の台座だが、幕末期のものではなくレプリカなので、感極まらないように(微笑)。

品川第三台場 大砲の台座
品川第三台場 大砲の台座

品川第三台場の西側角まで行くと、品川第六台場とレインボーブリッジの異色の組み合わせを観ることができる。

品川第三台場とレインボーブリッジ

次は、広大な窪地に下りてみよう。

点々と連なった置石は、陣屋跡だ。

これまた当時のものではなくレプリカなので、誤って感激して、頬ずりしないように(微笑)。

品川第三台場 陣屋跡

窪地の南にあるかまど跡にも踏み込んでみよう。

城郭の虎口(出入口)のように石垣で固められた所を入り込むと、かまど(右)が見えた。

品川第三台場 かまど跡
品川第三台場 かまど跡

かまどをよく見ると、複数の鍋を火にかけられるような造りになっている。

品川第三台場 かまど

因みにこのかまども当時のものではなくレプリカなので、感激して号泣しないように(微笑)。

品川第三台場の東側に行くと、今度は弾薬庫を観ることができる。

品川第三台場 弾薬庫

この弾薬庫は当時のままなので、感激して号泣しても構わない(微笑)。

以上、品川第三台場はじっくり観ても良し、気軽に散歩するのも良し。

人工島の割には草木が密集し、自然豊かで、野生の鳥も飛来してくるので、観光穴場スポットとしてもおすすめだ。

これでお台場は、品川台場から由来した地名ということがしっかりわかって頂けたかと思う。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099