海水浴場に潮干狩り、温泉、競馬場も!?一大行楽地だった羽田(東京都大田区)【連載:アキラの着目】

年々、訪日外国人観光客が増加の一途をたどっており、東京の”空の玄関”である羽田国際空港(東京国際空港)は、1年間で約653万人(2016年)もの訪日外国人が出入国している。

元々、これだけの出入国者を受け入れるほどのキャパシティを持ち合わせていなかった羽田国際空港だが、時代とともに拡張し、発展してきた。

その発展の影には、多くの犠牲が伴った羽田の歴史が存在する。

今回は、羽田国際空港および羽田の歴史についてスポットをあてる。

戦前の羽田は花街で一大行楽地

羽田国際空港の地は、元々遠浅の「江戸前」漁場で、海苔もよく採れる鄙びた漁村だった。

明治中期に入って穴守稲荷神社が建立される。

江戸時代中期に埋め立てられた羽田は、長年塩害や水害に悩まされ、“堤防に空く穴がもたらす害から土地を守る”(=穴守)ために伊勢神宮から外宮(げくう)の神様・豊受姫命(とようけびめのみこと)を勧請したのが穴守稲荷神社の始まりとされる。

その穴守稲荷神社の参拝客を相手にした芸者や賭け事の遊興施設も穴守稲荷神社参道両脇にでき始め、花街となった。

戦前の穴守稲荷神社 穴守稲荷神社 HP(http://anamori.jp/)から引用
戦前の穴守稲荷神社 穴守稲荷神社 HP(http://anamori.jp/)から引用

1886-1909年の羽田
1886-1909年の羽田
1927-1939年の羽田
1927-1939年の羽田
現在の羽田
現在の羽田

その後、羽田は、温泉が湧いたことから温泉地としても名が知られるようになり、初夏は潮干狩り、夏は海水浴も楽しめ、競馬場もできるなど、穴守稲荷神社の門前町から一大行楽地へと栄えるに至った。

戦前の羽田は、今でいうところのレジャーランドだったのだ。

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による強制撤収で行楽地・羽田が消滅

日本が第2次世界大戦に敗北したことで、日本全土がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により占領されることに。

それに伴い、羽田の地はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による強制撤収が行われることになった。

当時の羽田の行楽地北側には、東京国際飛行場があったが、GHQはこの東京国際飛行場を拡張させるために、羽田の住民約3,000名に対し、48時間以内に退去せよとの命令を突然下したのだ。

GHQに強制撤収される前の羽田
GHQに強制撤収される前の羽田

当初は12時間以内に退去せよとの命令だったが、羽田の住民代表が決死の覚悟でGHQと交渉し、なんとか48時間にしてもらったとのことだ。

このGHQの強制撤収により、参拝客で賑わっていた穴守稲荷神社、小学校、京浜電鉄穴守線(海老取川より東の路線)等、穴守稲荷神社の大鳥居を除いて全てが撤去となった。

GHQが穴守稲荷神社の大鳥居を撤去しなかった理由についてはいくつかあるが、「GHQが穴守稲荷神社の祟りを怖れ、鳥居を撤去できなかった」という説がまことしやかに流れている。

穴守稲荷神社の大鳥居は、その後移転を繰り返し、現在の弁天橋付近に落ち着くことになった。

羽田という普段そんなに気にも留めなかった地には、実は様々な歴史があったのがおわかり頂けたかと。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099