東京の様々な地名の由来 ~半蔵門(東京都千代田区)~【連載:アキラの着目】

2017年10月24日

今回取り上げる「東京の様々な地名の由来」は、半蔵門だ。

半蔵門は江戸城の城門の1つで、服部正成(通称・服部半蔵)がこの周辺の警護を任されていたことから、半蔵門の名が付いたといわれている。

服部正成(通称・服部半蔵)
服部正成(通称・服部半蔵)

現在では、江戸城門の半蔵門及び東京メトロ半蔵門線「半蔵門駅」周辺のエリアを半蔵門と総称するが、正式な番地としての地名では半蔵門は使われていない。

城門としての半蔵門は、皇居への出入口として機能し、江戸時代では徳川将軍の住まいであった江戸城の搦手門(からめてもん)として機能していた。

余談だが、搦手門についてよくわからない人のために簡単に説明すると、搦手門とは、早い話が出口、退却口として機能する門のことをいう。

城郭には必ず入口としての大手門、それに対して出口としての搦手門、というようになっているのだ。

万が一、攻められやすい低地側、つまり大手門や桜田門辺りから徳川将軍のいる江戸城が敵に攻撃され、防戦一方になった場合は、この搦手門である半蔵門から脱出するわけだ。

なので現在、半蔵門から西に真っ直ぐに延びている新宿通り、すなわち甲州街道は元々非常時の脱出路として整備されたのだ。

非常時の将軍の脱出路・甲州街道

甲州(現在の山梨県甲府市)には、幕府の天領(=直轄地)があることから、非常時に甲州を目指すというのはそういうことなのだ。

そして半蔵門から四谷までの甲州街道沿いには、前述した元・伊賀忍者の服部半蔵及びその部下たちが常駐しており、非常時は「捨て奸(すてがまり)」で敵を退けることになっていた。

元・伊賀忍者の服部半蔵及びその部下たちが常駐していた組屋敷

因みに「捨て奸」とは、関ヶ原合戦の退却の際に敵中突破の手段として、薩摩の島津義弘が用いた戦法だ。

それは具体的にいうと、隊の最も後ろの兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする戦法だ。

捨て奸(すてがまり)
捨て奸(すてがまり)

その小部隊が全滅すると、また新しい足止め隊を退路に残して留まらせ、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせるのだ。

話が横道にそれてしまったが、以上をまとめると、万が一の非常時に、徳川将軍を江戸城から脱出させるための城門や街道があり、脱出をサポートするための元・伊賀忍者である服部半蔵とその部下がこの地に常駐していたから、その城門をいつしか半蔵門と呼ぶようになったということ、そして現代では、その江戸城の城門である半蔵門の周辺エリアをひっくるめて半蔵門と呼んでいることだ。

FJ時事新聞
責任編集:拡輪 明-HS099